丹後の地名

竹屋(たけや)
舞鶴市竹屋


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京都府舞鶴市竹屋

京都府加佐郡舞鶴町竹屋



竹屋町の地誌



《竹屋町の概要》竹屋町(舞鶴市)(右2軒目の建物は「渡辺家住宅」で明治三年頃の回船問屋という。国登録文化財」)

西舞鶴市街地中央部の商店街。西を高野川が北流し、国道175郷が新橋を通って東西に走る。北は高野川尻の住吉入江。南端は大橋を隔てて本に接する。国道175号線の新橋を渡る手前の細い道の両側町である(左岸の河口にもあるが)
高野川下流の自然堤防の微高地に立地し、田辺城が築かれるとともに、湊町として城下町の交易・商業の中心となって栄えた所であった。各地から運ばれて来た産物を保管する納屋が軒を連ね、所々に舶荷の積卸場が点在する港町特有の景観を呈していた。高野川に面して廻船問屋の大壁造りの土蔵群が今も残るが、護岸の築堤や商店改造などでかなり様変わりしている。高野川尻住吉入江口に、舞鶴汽船の発着場がある。

細川時代から地子銭免除の町屋であったという。蝋絞職3軒・桐実油絞職5軒、そのほか楮・雁皮・竹皮・桐実・藍玉・櫨実などの原材料を売る店があり(天保5年の「商売書上帳」竹屋町区有文書)、領内の薩摩櫨はこの町の蝋絞職によって生蝋に製造されたのち、「丹後蝋」の名で北国廻船で羽越地方に出されていた(加藤長助家文書)という。また田辺城下の周辺地城との関係が密で、「在通ひ」「小船小商」「宮津商」「丹波通ひ」「丹波若州産物売買」などの商売にたずさわる者多く、城下からは衣類・小間物・陶器・金物などの日用雑貨や塩・魚・干物などの食料品を、領内在方からは竹・竹皮・楮・雁皮・藍・桐実・櫨実・生糸・苧・綿などの手工業原料や懸木を運んでいた。在方とのつながりは、同帳に記す戸数139軒中29軒が在方の屋号を名乗っていたことからも推察できる。職業構成では商業を行う者が圧倒的に多く、そのほか手工業・金融業・運送業にも従事し、またこれらを兼ねる者も多く、139軒に対し商売数延424種で1軒当り平均3つの商売を営んでいたことになる。という。
当時の面影を残すか(高野河口)
竹屋町は江戸期〜明治22年の町名。田辺城下の1町。高野川沿いに位置する町屋で、物資集散の中心地。川尻右岸に島崎口留番所が置かれていた。享保12年の丹後国田辺之図による町屋は、南北160間・幅3間(上ノ町2間)・家数123軒、寛保3年には竹屋町133軒・竹屋町吉原分31軒、延享3年には166軒吉原ともとあって(竹屋町文書)、町尻の吉原(のちの西吉原)にも当町年寄支配の町屋があった。当町が有する船は、延享2年には100石船1・上船3・中船2・小船28の計34艘(竹屋町史)、天明2年には200石以下の帆船49艘、寛政5年には大小70艘とあり(竹屋町文書)、文化6年の高野川河口略図(西図書館蔵)によれば、蔵52・舟小屋26・舟細工場5・米揚場2・魚揚1があった。文政2年から田辺町の惣年寄・月行事を当町より出していた(竹屋町文書)。
明治2年舞鶴町に所属。同22年舞鶴町の大字となる。昭和13年からは舞鶴市の大字。昭和20年の舞鶴市第2次建物強制疎開により、上横町通〜新大橋間の西側および高野川沿いの建物が撤去されている。

新橋(明治末期)
新橋(舞鶴市・明治末期) 高野川に架かる明治の頃の新橋。(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも)


大正初期の竹屋町 竹屋町は、江戸時代から藩内外の物資の集散地として発達。多くの倉が高野川沿いに立ち並んでいた。明治時代以降も西地区の商業の中心として栄えたが、第二次世界大戦後は、真名井通りと平野屋通りに移っていった。(『ふるさと今昔写真集』より。キャプションも)


《人口》233《世帯数》99

《主な社寺など》

《交通》竹屋町通り


竹屋町の主な歴史記録

《舞鶴市史》

細川時代の舟門町・サントモ町が竹屋町に名称変更

竹屋町は全国の商品流通圏の中の一市場として藩内外の物資を集散し港町として栄え、大商人も多く居住し城下町の中心地であった。同町の商業形態については(「新編物語藩史」第七巻田辺藩)に詳しいので、同書によって記述する。同町の特徴は町人の中に商業と手工業とを兼業するものが随所にみられることや同一の店で異種類の商品を販売したり、同一職場で関連のない製造業を営むなど専門店・専門職への分化の遅れているものがかなりあること等である。これらの例を天保五年(一八三四)「商売書上帳」から抜書きすると次のようである。…
竹屋町絵図
田辺城下の竹屋町は、城下町の西側を流れる高野川河口に位置し、当藩内の港町として領内諸村のみならず他国の各地とも交易し、藩内の商品流通を全国市場に結びつける重要な接点であった。このような町には当然回船業者が誕生することになるが、天明二年(一七八二)正月改めの竹屋町「船持覚」(「竹屋区有文書」)は、宮津屋一族三人がべざい型船二○○石・一七○石二三○石積み各一艘、木屋が同一七○石積み一艘をはじめ、ほかに三九人が一○○俵積みとろ舟二艘、八○俵積みはがせ舟一艘、三○俵積以下のてんと二艘・艫ふと二一艘・てんま一九艘を所持すると記している。
 また、文化六年(一八○九)の「竹屋町 寺内町裏川筋絵図面」(「竹屋区有文書」)によると、竹屋町とその対岸寺内町では、高野川岸に沿って船蔵が並び建ち、その間の所々に船荷の積み下ろし場(サシオロシ.揚げ場)、舟細工所が点在、舟小屋は川尻に位置して、港町の景観をよく現わしている。なお、これらのうちの倉庫群の一部は現存し、昔日をほうふつとさせてくれる。


島崎稲荷 (竹 屋)
 島崎にある竹蔵の北に領主の船小屋があった。この辺りに久しく住んでいる年老いた狐がいた。この船小屋をねぐらにしていたが、小屋がたまたま他所へ移転することになったので、この狐はいるところがなくなり、昨日は東、今日は西と転々としていた。
 ある日、竹屋町に住む猟師の甚兵衛の息子、彦右衛門と彦兵街が猟に出て、明け方この島崎に船をつけ、煙草を吸い二人共しばらくの間眠った。目を覚ますと二人共風邪気味だったので、急いで家へ帰って床に入った。かれこれ十日ほど病床にあった後、兄の彦右衛門は全快したが、弟の彦兵衛は重体となり難儀していた。
 心配した付き添いの人達がよりより相談し、祈梼などしてもらったところ、病人は苦しみながらもしゃべり出し「自分は島崎に住む太郎三郎という老狐である。住む場所がなくなったので、止むを得ず風邪と共にこの男に乗り移って、この家に来た。自分を除こうと思えば新田崎に柴の庵を建て隠居所にして欲しい。そうしたら早速ここを出て、病人も全快するよう堅く約束する」という。
 このことをすぐさまお役所に届け出て、柴の庵を建てたところ、彦兵衛の病気はたちまち快方に向かった。その後、宝暦三年本山へ御位を願い出たところ、正一位稲荷大明神の神号を贈られ、公儀からは敷地などを下されて、以後毎年六月六日の夜祭りは大いににぎわっている。

《まいづる田辺 道しるべ》
・竹屋町
 田辺城籠城図によると、川下の方は舟門町、川上の方はサントモの町名が見える。
 竹屋町は本町よりやや遅れて成立せし町という。同町は高野川河口に位置し湊町の機能を果たしていた。町内には「在通」「小船小商」「宮津商」「丹波通」「丹波若州産物売買」などにたずさわる者が多く、商家一三九軒に対し商売数延四二四種もあり、一軒当たり平均三ツの商売を営んでいたことになる。
 家数 一二三軒(享保十二年)
 町長 南北一六○間(二九○メートル)
 道巾 三間(享保十二年)(五・四五メートル)
 この外の町内で、田辺籠城図によると、城の大草櫓の前辺りに紺屋町の町名が見える。
 この紺屋町がいつ頃西の山裾へ移住されたかは不明なるも、同町に伝わる古文書によると、紺屋町歴代年寄の最初の方は、天和歳中(一六八一〜一六八三)太郎兵衛とあり、文政九年当時紺屋町の家数は六十一軒、町長一○五間(百九十メートル)とある。(佐藤正夫氏の紺屋町絵図物語より)
 紺屋町と呼ばれる町名は城下町ではよく見受けられるもので、染め物を業とする職人の住む町屋のことで、同町には桔梗屋の屋号をもつ染物屋があったことが記されている。
 橋東町内の内、平野屋町、丹波町、魚屋町のそれぞれに付随していた吉原は、享保十二年(一七二五)の城下町大火災後下安久の現吉原へ移転し、東西吉原町が形成されている。




竹屋町の小字


関連項目







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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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