丹後の地名

田辺・田造郷
(たなべ・たくり)
舞鶴市北田辺・南田辺・東田辺


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京都府舞鶴市北田辺・南田辺・東田辺



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田辺・田造郷の地誌

《田辺・田造郷の概要》


田辺・田造郷は現在の西舞鶴地区の西半分に占める古代の『和名抄』の時代の地名である。東半分は大内郷で、その境目は「赤前山」とされる。これはたぶん十倉の山崎山であろう。
京街道の秋葉橋(写真の位置が赤崎山の麓で、右手の橋の左側が田辺郷、右側が大内郷だったと思われる)
 田辺は舞鶴の江戸期までの呼称であった。舞鶴は明治になってからできた新地名であり、江戸以前の舞鶴人には、舞鶴などといっても何のことだかわからない。丹後田辺と言わなければわからない。舞鶴人にとってはそうした大事な地名であるが、その田辺とは何のことなのか究明はできてはいない。田んぼの辺のことだろうと漢字からは読み取れるが、はたしてそうした意味なのか、そうした所なら日本国中田辺だらけ、ここらでよく考えてみようではないか。考えもしないでは町の未来はない。深い考えも調査研究もなしでは「舞鶴の発展」などはあるはずもない寝言である。ゼーキンのアホ使いだけになろう。もうそんな甘い時代では決してない。
 しかしこれは丹後風土記残欠ですらできていないのであった。風土記は舞鶴人以外が書いたあまり舞鶴の古代には詳しくない者なのではなかろうか。
幸か不幸か解いた人はいまだに誰もない。私はすでにこのHPでもふれているが、もう少し書き足しておこうかと思う。これは舞鶴人の歴史的挑戦となる。

《田辺なのか田造なのか》
それすらも確かなことがわからない。どう読むのかも訓がなくわからない。
 すでに『和名抄』自体が「高山寺本」は田辺、「刊本」は田造である。残欠は田造。勘注系図も田造である。後世の資料になればすべて田辺である。
そんなことからか普通一般には田造は間違いで田辺だろうとされる。しかしそんなアホなことがあるだろうか。古文献はそろって間違いをしたのであろうか。現代人はこれくらいに思い上がった傲慢な愚かな人種である。何を根拠に古文献を間違いというのであろうか。過去に書かれた古文献は間違いで、過去を知らない自分は正しいなどとどうして言えるのか。間違いはたぶんおマエさんの方であろう。どこかで根本的に間違えているのがわが国の歴史家のようである。

《田造と田辺の関係》
これは決して間違いではない。二つあったのである。私見によれば、田造が古く、それはのちに田辺に変化したのである。両方が並んで使われた時代もあったと思われる。
「おかしいな」という所に実は全体を解く大事な秘密が隠されているものである。そこがよく考えるか否かの違いになるので、こうした所にこそこだわり抜かねばならないものである。
 しかし舞鶴だけを見ていても舞鶴もわからない。関係のない所の事例からヒントが得られるし、それが地名を解く一番の科学的方法になる。
田辺は舞鶴だけでなく、全国にたくさんある地名である。山城の田辺がもっともよい参考になる。昔の綴喜郡田辺町、現在の京田辺市である。木津川沿いに田辺の地名があり、式内社:棚倉孫(たなくらひこ)神社が鎮座する。
 さてその棚倉孫神社は、祭神が天香古山命。高倉下命・手栗彦命ともいい、手栗彦(たなくりひこ)が棚倉孫に転じたといわれ、これがまた田辺に転じたとも考えられているという。
山城田辺の事例からは、タナクリあるいはタクリ→タナベの転訛とも考えられる。
だから田造をタクリと読むならば、田造(たくり)田辺(たなべ)であったかも知れないことになる。

《天香語山命=手栗彦命》
 天香語山(あまのかごやま)命は丹後海部氏の祖でもある、勘注系図には、始祖:彦火明の児で、天香語山命。亦名手栗彦命、亦名高志神彦火明命、於天上生神也、…と書かれている。
丹後でも同じく天香語山命は手栗彦命とも呼ばれていた。天香山(あまのかぐやま)は現在の西舞鶴市街地の西にある、西山・舞鶴山とも呼ばれた愛宕山である。古代にはそう呼ばれたし、現在も時にはそう呼ばれる。(下写真。裏山が天香山=愛宕山)
天香山の幟(天香山桂林寺)

 大昔からここが天香山であったかどうかは私は怪しいと実は密かに睨んでいるのだが、とりあえずはここに古名を残している。
 この山を神格化したのが天香語山命=手栗彦命であり、だから天香山は別に手栗山とも呼ばれたかも知れない。その麓が手栗(たくり)であり、これが田造(たくり)と書かれたとも考えられる。

《タクリは十倉》
田辺はどこだろうか。現在の田辺の地名は西舞鶴市街地に北田辺・南田辺などの町内名がある。しかしこれらの地は古代は海だった所で、何もふるいものではなく参考にはならない。
どこかにタナベとかタクリの地名は残っていないだろうか。
一つ残されている、十倉(とくら)である。タクリは容易にトクラに転訛しうる。
十倉は西舞鶴の平野部の一番の南部になり、何とここには田辺一宮と伝える山崎神社=砧倉(とくら)神社が鎮座する。
なぜここが田辺一宮と伝わるのかは誰もわからなかった。現在は何の変哲もない小さな神社であり、何もそうした伝承は残されてはいない。おかしいなこんな神社が何故に田辺一宮なのだろうかと首を傾げたがわからなかったのである。愚かにも「これは間違い」としなかっただけまだしもまともであった。

山崎神社(舞鶴市十倉)『丹後国加佐郡寺社町在旧起』に、

 〈 一宮九社明神十倉真倉の氏神なり。  〉 
残欠の砧倉社、「室尾山観音寺神名帳」の正三位砧倉明神と思われる。
古くは一宮と呼ばれていた。現在も通称、一宮様と呼ばれる。
山崎神社というのは明治あたりからの呼び名であるという。
ご祭神は、天照皇太神荒御魂ということになっているが、本当は天香語山命=手栗彦命であろう。この地名の発祥の神様である。
砧倉(とくら)神社とは実は田造(たくり)神社であり、祭神は天香語山命亦名を田造彦(たくりひこ)命。田造郷の一宮様で、銅山の神様と考えるとよいと思う。
 本来の田辺・田造は真倉や十倉のあたりであり、それが時代が下るほどに海辺へと出てきたのである。そしていつの間にかそうした歴史もきれいさっぱりと忘れてしまったのであるが、一宮様だけはそう呼び続けられ現在に到ったのである。
本来の天香山もこちらになければならないことになる山崎神社というのはその天香山の(さき)にある神社という意味になる。
真倉川の川上、あるいは弥仙山にもなるかも知れないが、そこが天香山と思われる。

《十倉とは…》
先人たちは誰も気が付かなかったようであるが、どうやら田辺と十倉は関係があるのではないのかという見当がついてきた。
古くは同じ一村ではなかったかとも考えられている上流の真倉(まぐら)はシンクラとも読めて、武蔵国新座郡と同じで新羅のことかも知れないとあるいは気付かれている方もあるかも知れないが、十倉も神社名としては、同じ加佐郡の有路(大江町)にたくさんある。式内社・阿良須神社の系統の神社群である。『福知山市史』のいうAR系の渡来系神社になる。阿良須神社は舞鶴の志楽(=新羅)にもある。さらに南山城の棚倉孫神社では、「一説には南山城に渡来人が多く、養蚕が盛んで、棚倉とは蚕棚の小屋の意であり、養蚕に関係のある神ともいう」(『京都府の地名』)。としていて、ずいぶんと田辺は渡来系の感じが強い。
天香語山命は、カゴが朝鮮語の銅を意味する言葉であるから、この神も本来は渡来系の金属神。
どうやら西舞鶴もまた深く渡来人の活躍のあった地と考えざるをえなくなるのである。
田辺史という渡来系氏族もある。


田辺・田造郷の主な歴史記録

《丹後風土記残欠》
 〈 田造郷 今依前用

伽佐郡。伽佐郡は旧笠郡の字を用いる。訓で宇気乃己保利と曰う。其宇気と称する所以は、往昔、豊宇気大神が田造郷の笶原゙山に留り坐して、人民等が其恩頼を受けた、故に宇気と曰う也。笠は一に伽佐と訓む。よって今、世に謬って伽佐乃己保利と曰う也。

田造郷。田造と号くる所以は、往昔、天孫の降臨の時に、豊宇気大神の教えに依って、天香語山命と天村雲命が伊去奈子嶽に天降った。天村雲命と天道姫命は共に豊宇気大神を祭り、新嘗しようとしたが、水がたちまち変わり神饌を炊ぐことができなかった。それで泥の真名井と云う。ここで天道姫命が葦を抜いて豊宇気大神の心を占ったので葦占山と云う。ここに於て天道姫命は天香語山命に弓矢を授けて、その矢を三たび発つべし、矢の留る処は必ず清き地である、と述べた。天香語山命が矢を発つと、矢原山に到り、根が生え枝葉青々となった。それで其地を矢原(矢原訓屋布)と云う。それで其地に神籬を建てて豊宇気大神を遷し、始めて墾田を定めた。巽の方向三里ばかりに霊泉が湧出ている、天香語山命がその泉を潅ぎ〔虫食で読めないところ意味不明のところを飛ばす〕その井を真名井と云う。亦その傍らに天吉葛が生え、その匏に真名井の水を盛り、神饌を調し、長く豊宇気大神を奉った。それで真名井原匏宮と称する。ここに於て、春秋、田を耕し、稲種を施し、四方に遍び、人々は豊になった。それで其地を田造と名づけた。(以下四行虫食)  〉 


《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》
 〈 一 田辺郷 百九十九町五段二歩  細川讃州  〉 


《丹哥府志》
 〈 ◎田辺(古名八田、宮津へ六里、峯山へ十一里、久美へ十五里、若狭小浜へ十二里、丹波山家へ三里、京都へ廿一里、大阪へ卅二里、江戸へ百四十五里)
天正五年の冬十一月細川藤孝将軍信長の命をうけて丹波へ入る、一色義道と戦ふ、翌年の春正月廿日義道の居城建部山(田辺の西にあり)落城す、同月廿四日一色義道同郡中山城(一色の臣沼田幸兵衛の居城)に於て自殺す、義道の子義俊遁れて与謝郡弓木の城に據る、細川藤孝数々これを攻れ共克たず遂に和を求めて其女を一色義俊に妻す、義俊は未だ藤孝に属せずといへども丹後兵の藤孝に従ふ者半に過ぐ、於是八田村の地を開きて初て城郭を築き地を田辺と名く。天正十三年春二月一色義俊田辺城内に於て賊の為に殺さる(事は弓木条下に出す)、於是義俊の伯父吉原越前守義清名を一色五郎義清と称し、吉原より弓木の城に移り細川藤孝と戦ふ、同年五月廿八日弓木城落城同日五郎義清宮津に於て自殺す、爰に至りて初て丹後一国を平らぐ。慶長五年の秋細川藤孝の子細川越中守忠興田辺より豊前の小倉へ移る、同六年京極丹後守高知信州高遠より丹後に来る、翌年丹後一国を検地し高十二万三千百七十五石と定む、元和八年高知嫡子高広に高七万八千百七十余石を頒ち宮津に城を築く、又高一万三千石余猶子主膳正高道に与へ峯山に館を造る、次子修理太夫高三田辺に在りて三万五千石を領す。寛文八戌申年五月廿八日高三の孫高盛但馬豊岡へ移る、同年六月牧野佐渡守親成総州関宿より田辺に来り以後これを領す、其系譜天保武鑑に略これを載す。
(校者曰)丹後十二万三千百七十五石中京極高道が分封を受けしは一万石にて三千石は別に江州、常陸、上総、下総に於て幕府より賜はり都合一万三千石となる。
【市街】
【細川兵部少輔藤孝】(本姓長岡)…略…
以下略  〉 

《田辺府志・田辺旧記》
 〈 吾朝田辺といへるは紀伊国周防国にあるよし彼人是等の国より来り各氏とせられしやおぼつかなし  〉 


《地名辞書》
 〈 田辺郷。和名抄、加佐郡田辺郷。○今舞鶴町并に中筋村四所村等なるべし、東鑑に「建久五年、故鎌田兵衛尉正清息女、以尾張国志濃幾、丹波国田名部、両庄地頭職、今恩補給訖」とあるも此地か。  〉 


《加佐郡誌》
 〈 伊佐津川の瀬替。池内川、真倉川、高野川は其の川尻現今の如きものでなくて、池内川は七日市公文名の東を流れて、淡島神社と笠水神社との中間を少しく西に偏り、真倉川は十倉と京田と七日市との間を北に流れ、笠水神社の少しく南手で女布と高野由里との中間を東流して来た高野川に合して一面の沼となり、緩かに笠水神社の西を洗うて、北流池内川と合し、更に広い沼地を作った上今の円隆寺裏の東方を浸して、舞鶴湾に注いだのであったが、京極高知がそれを大略現今の如くに改修したのである。是まで田辺城には総堀がなかったものである。それは全く必要がなかったからであった。細川幽斎といふ書に掲げた田辺城篭城古地図の川筋は幾分危まれるのである。円満寺は今の舞鶴町の高野川以東殆んど全部を占めていたのであったが、細川氏の大内及円満寺に亙る築城の為に狭められたものである。旧此辺には朝廷の御所有地があり、田辺と言ふ一種の御用農夫が雇はれて居て此の地に住んでいたから田辺の名が起ったものでないのかと思はれる。(此項本居宣長著古事記伝を見よ)細川氏の築城早々平野屋町角に山本又左衛門といふ者町家立初めた。後に丹波屋嘉兵衛と成った由。(此項増補旧語集を見よ)併し古く開けた舞鶴町の部分が笶原山の東麓即ち今の紺屋町などであったといふ事いふまでもない。高知の池内真倉両川尻改修の際境谷村を貫流せしめられたから、河の左岸部には新たに伊佐津の名を命じたのである。

細川氏の頃田辺の名に改めたことに付いては三説がある。其一は昔此地に地頭として治績の見るべきものがあった田辺小太夫といふ人を記念するためにつけた名であるといふ説がある。之は丹後田辺府志第一巻第四章に出ている。其二は郷名田造は元来田辺なるを和名類聚抄の刊本に於て誤植せられたことからおこったので田辺は此地古来の総名であるといはれている。之は吉田東伍大日本地名辞書に見えている。其三は後に記することとする。  〉 


『京都府の地名』
 〈 田辺郷
 「和名抄」高山寺本は「田辺」(訓を欠く)、刊本は「田造」とするが、ほかに所見する例からみて、「田造」は誤りであろう。
 田辺郷は、寿永三年(一一八四)四月一六日付平辰清所領寄進状案(東寺百合文書)に、大内郷の四至として「西限田辺郷堺子牛仟佰并赤前山」とあり、大内郷に東接していた。
 当郷については、元暦二年(一一八五)五月日付丹後国司庁宣(島田文書)に、
  下 丹後国田辺郷
   可早充行給田弐町事
    雑色千与久
 右件給田、以五斗代内、停止万雑事、可充行之状、
 所仰如件、以下、
     元暦二年五月日
 大介藤原朝臣(花押)
とあり、同日付丹後国司庁宣案(古文書集一)には「可早充行雑色給田事」として、次のようにある。
 行沢参町   守久参町
 宗有参町   重有弐町
 月方弐町   千与久弐町
 月光二丁
 なお、「吾妻鏡」建久五年(一一九四)一〇月二五日条によれば、この日鎌田兵衛尉正清の女に、「丹波国田名部庄」の地頭職が与えられているが、この「田名部」は田辺ではないかと考えられる。また、貞和元年(一三四五)島津忠氏が田辺庄の地頭職に補任され(島津国史)、観応二年(一三五一)一一月には、勲功によって島津上総三郎師久に「島津忠氏跡」が宛行われているが、そこにも「除丹後国田辺荘定」と田辺庄の名がみえる(島津文書)。
 田辺郷は中世末まで郷として存続し、丹後国田数帳に、
  田辺郷 百九十九町五段二歩     細川讃州
とある。細川讃州は阿波国守護細川成之か。また、現綾部市に残される志賀家文書に、
 就科所丹後国田辺御代官職之儀、志賀次良左衛門尉
 申付、子細在之上者、任披申旨致其働者可為神妙候
 也、謹言
    九月二日           高国(花押)
      志賀一族中
とみえ、吾雀(あすすき)庄(現綾部市)にいた豪族志賀氏の一族が、田辺郷の代官職に任じられている。右の文書では年次は不詳だが、志賀家系図によれば右にみえる次良左衛門尉は大永二年(一五二二)丹波国守護(室町幕府管領)細川高国に仕え、田辺郷の代官職に仕じられたのは享禄二年(一五二九)のこととする。
 なお中世の田辺郷には八幡宮が祀られており、康永四年(一三四五)三月四日付ほかの田地寄進状(桂林寺文書)が残る。同文書に「田辺郷八田村内八幡宮」とあるので、近世初期、田辺城下が経営される八田(ルビ・はった)村の地が、田辺郷域に含まれていたことがわかる。ちなみに、右にみえる「八幡宮」は現舞鶴市の紺屋にある桂林寺に鎮守として祀られる八幡宮と考えられている。
 郷域は大内郷に東接していたこと、近世の田辺城下の地を含んでいたこと以外判然しないが、加佐郡の他郷の比定から推測すれば、およそ現舞鶴市の伊佐津皮中・下流左岸から由良川右岸にかけての地、すなわち高野川・福井川の流域を含み、あるいは北方舞鶴湾西岸の地にも及んでいたかもしれない。当地城の山々は、現舞鶴市南部および東部の山よりもU低く、集落は、海岸低地・山麓・谷地につくられているが、現在伊佐津川に池内川が合流する地点から北部は割合に広い平地である。
 「日本地理志科」は「由良・石浦・和江・丸田・漆原・長谷」の現舞鶴市内の由良川左岸に比定するが、これは首肯しがたい。「大日本地名辞書」は「舞鶴町・中筋村・四所村」にあてる。  〉 


『角川日本地名大辞典』
 〈 舞鶴湾(西港)の南岸に位置する。
〔古代〕田辺郷。平安期に見える郷名。「和名抄」丹後国加佐郡十郷の1つ。刊本は田造郷とする。比定地については「地名辞書」に「今舞鶴町并中筋村・四所村等なるべし」とある。郷名は中世にも継承された。寿永3年4月16日、平辰清が八条院女房弁殿御局に大内郷を寄進しているが、その寄進状に大内郷の四至として、「西限田辺郷境子午仟佰并赤前山」と見え(東寺百合文書ホ。平遺4154)、また元暦2年5月日、当郷宛てに丹後国司庁宣が出され、行沢・守久・宗清・重有・月方・千与久・月光の雑色給田が宛行われている(島田文書・古文書集1。平遺4255・4256)。
〔中世〕田辺郷。鎌倉期〜戦国期に見える郷名。加佐郡のうち。「吾妻鏡」建久5年10月21日条には鎌田兵衛尉正清の息女が「尾張国志濃幾・丹波国田名部両庄地頭職」に恩補されたことが見え、弘安元年12月8日付の六波羅下知状によれば、「尾張国篋生御厨、丹後国波見・同田辺両郷関東御事書、寛喜以後請所者、不可有相違之由、被載之由、所承及也」とある(内閣文庫所蔵美濃国茜部荘文書。鎌遺13316)。丹波国田名部荘とは当郷のことであろう。いずれにせよ、当郷は早くから地頭請所となっていた。その後、南北朝期には島津氏が地頭職を帯しており、観応2年11月2日、足利尊氏は島津上総三郎師久に「島津下野守忠氏跡(除丹後国田辺庄定)」を勲功賞として与えている(薩藩旧記。大日料6-15)。また、延文2年7月26日付の片山虎松丸代岡久綱軍忠状によれば、同年5月「田辺竹辺城」で合戦のあったことが知られる(片山文書)。以後、当郷については史料は少なく未詳。ただ郷内へは南北朝期以来「八田村」が見え、八田村内八幡宮への田地寄進状が若干「桂林寺文書」中に残されている。「丹後国田数帳」には「一 田辺郷 百九十九町五段二歩 細川讃州」とあり、享禄2年9月20日には細川高国の被官志賀次郎左衛門尉が田辺郷代官職に補せられている(綾部市志賀覚郎家文書)。一方、当地は中世末期には海上交通の要地となっていたと思われる。天正4年12月吉日付の出雲日御碕社への政久寄進状によれば、同年丹後・但馬の牢人衆が尼子勝久に党し、出雲に乱入して日御碕社を破壊、その神罰で「丹後国田辺津病難火難悉無残断絶」したとあり(日御碕社文書。大日料10-4)、玄旨法師の「九州道の記」には、天正15年「四月十九日に舟をば熊野郡まで廻して、廿一日田辺を出て、其日は宮津にとどまり」と見える(群書18)。郷域は未詳だが、江戸期の田辺城下を含む、より広い指したものと推定される。天正8年細川氏入国前後には矢野一郎が田辺城主であったというが未詳。天正10年本能寺の変後は、細川藤孝が田辺城を隠居城としたが、その城は江戸期の田辺城の地とされている。なお、延文2年の片山虎松丸代岡久綱軍忠状に見える「田辺竹部城」とは建部山城のこと。同城跡は舞鶴市上福井・喜多・下東に囲まれた標高320Mの地点にある。郭部分は明治30年代に舞鶴軍港の側面防御の砲台築造工事で削られほとんど痕跡を残さないが、東北部は一段落ちて二の段様の平地をなしており、あるいは郭の遺構かと思われる。
〔近世〕田辺町。江戸期の城下町名。加佐郡のうち。田辺藩の城下町。天正年間の丹後攻略の際に、細川幽斎は八田村を築城の地に定め、同村の農民を移転させてここに城郭を建設、田辺城と命名した。慶長5年頃の田辺御城図によれば、「天正十一年細川越中守御縄張、同十三年酉年普請大略出来之由申伝」という。城名の由来は、往古当地方の地頭として活躍した田辺小太夫にちなむとも、当地方を往古田辺郷と総称したことによるともいい(加佐郡誌)。また城郭の形により別名舞鶴城とも称した。慶長5年細川氏が豊前小倉へ移封になると、翌年京極高知が入封し、宮津藩12万7、000石を領知した。元和6年高知が死去すると、その遺言によって次男高三に3万5、000石が分与され田辺藩が成立。寛文8年京極氏が但馬豊岡に移封ののちは、牧野氏が代って藩主となり幕末に至った。田辺城は、南東は深い沼で伊佐津川をはじめ数条の川が流れ、西北は舞鶴湾に臨む難攻不落の城で、「丹後旧語集」によると京極氏になってこの立地条件を利用し、沼に注いでいた丹波川・池内川・伊佐津川の付替工事を行って1流とし、沼への流れを堰き止めて惣濠としたという。城内の規模は東西230間・南北420間。慶長5年頃の田辺御城図によれば、城の南側に大手門、西側に搦手があってそれぞれ京口・宮津口に通じ、南東には若狭口があり、北側には船付御門が設けられていた。本丸西北隅には天守台があるが、天守閣は築かれていない。こののち牧野氏入封の際に再にこののち牧野氏入封に際に、再普請が行われ、享保7年の田辺御城図によると、旧搦手の有った位置に大手門、旧大手門の位置に南門が置かれ、若狭口に通じる方角には新しく大内門が設けられている。また城内には藩の学問所明倫館が置かれていた。一方城郭の建設とともにその西側には町割が行われ、近隣諸国から商人・職人を招いて城下町が形成された。本町付近が最初に形成され、町屋としては同町の山本又左衛門(のち丹波屋嘉右衛門)家が最も古いという(丹後旧語集)。城下町造りのため地子銭を免除されたのは職人・本・魚屋・平野屋・竹屋・寺内・新・紺屋の9か町。寛文年間以前の絵図によれば、城下町は武士と町人の混在型であった。こののち「田辺旧記」には西・堀上・引土新・朝代・引土・大内・吉原の7か町が新しく見え、計16か町を数える。このうち城の西方の町家14・家数1、067、東方の町数1・家数66とあり、また「古帳十七町島崎町今手代町也」と記されている。享保16年の「加佐郡寺社町在旧記」(布川家文書)には「田辺城下町屋の体軒端継建続き本町、職人町、魚屋町、猟師町、丹波町、平野屋町、竹屋町大橋限り東の町是也、大内町は城の東に之有り、橋西に至って寺内町、堀上町、新町、西町、紺屋町、引土新町、朝代町、引土町、諸商人諸職人家業断絶無く候」と記載され、高野川に架かる大橋を境として城下町が東西に大別されており、現在も両地域を橋東・橋西と通称している。寛保3年の城下町の戸数1、281(竹屋町文書)。天保9年の巡見使に対する「庄屋心覚」(上羽家文書)の戸数1、593・人口6、510。安政6年には戸数1、725・人口7、075で、ほかに武士ならびにその家族・従者2、455人(舞鶴市西図書館蔵、原正景百ケ条)。のちに明治初年の段階では、田辺城下のうち吉原町が東西に分割されているほか、城跡や藩士屋敷地などに字二ノ丸・南表町・南裏町・大内口・新道・表町・北裏町・三ノ丸・新立・鳩部屋・築地・七軒・元職人町・手代町・島崎・松陰土手・京口・宮津口の字名が見える。なお、「旧高旧領」に田辺郷新田分147石余・田辺郷新田大野辺分50石余と分かれて見える。また「田辺藩土目録」にも「町分」「大野辺分」についての記事が見え、町分は村高67石余、このうち所々屋敷方をはじめとする定引が38石余あり、年貢率は10割、大野辺分は村高50石余、このうち桂林寺領などの定引が41石余、高・反別は田7石余・5石余、畑42石余・8町余、年貢率は10割とある。寺社は城内にウノモリ大明神、城下に一向宗源演山源蔵寺・不動如山瑞光寺、浄土宗随心山浄土寺・竜詣山見海寺・滝谷山松林寺・海岸山見樹寺、曹洞宗天香山桂林寺、経宗長久山妙法寺・妙光山本行寺、真言宗慈恵山円隆寺、朝代大明神がある。また城内には慶長5年の田辺篭城の際玄旨法印がその下で古今証明の状を認めたという古今伝授の松がある(丹哥府志)。明治2年藩籍奉還の際、紀伊国の田辺藩と区別するため、城名をとって舞鶴藩とし、以後町名も舞鶴町に改めた。  〉 


『中筋のむかしと今』
 〈 真倉の氏神が十倉に建っている訳(真倉)
 なぜ、真倉の氏神一の宮が地理的に離れた十倉に建っているのか。その疑問に答えてくれる、言い伝えを二つ紹介しよう。
 「流れ着き説」と「山崎は元は真倉・十倉の境説」である。
 一の宮(現・山崎神社)は、もとは真倉の小字サミ田の伊佐津川沿いにあって、ある時大水で、お宮が山崎まで流され、そこに再建されたという。流れ着いてから再建までのいきさつには次の二説があるようだ。
 流れ着いたお宮さんを伊佐津川の鱒が背負って上がったのが今の場所。この説には氏子は鱒を食べてはいけないとの言い伝えとしても残っていたという、鱒説。
 もう一説は、十倉の庄屋さんに〃山崎に流れ着いた〃と夢の中でお告げがあって、それが正夢だった。そこで庄屋さんは真倉へ「十倉には氏神がないので、十倉の氏神としてここに祀らせてほしい」と申し入れ、二村の氏神として祀られるようになった、という正夢説。
 七月の夏祭りの護摩焚きは、流れ着いたお宮さんが寒かろうと火を焚いたことに始まる、といわれている。
 もう一つは、「昔、真倉から山崎までの土地は真倉領分であった。真倉の渡り瀬から山崎までの堤防の完成で出来た東側の土地は、もと川であり、耕地にするのは到底無理と岩淵以南を京田に譲った」といい、一の宮は昔の真倉分と十倉の境に建っているというのである。
 この説は、真倉が元十倉村の枝村であり、一村をなしていたので考えられることである。また、山崎神社境内に「真倉村十倉村」と刻まれた小さな石柱が立っているが、これは村境を意味するのであろうか。    「わが郷土まぐら」  〉 



『舞鶴の民話3』
 〈 一宮のこま犬(十倉)
 真倉の氏神さんが地理的に離れた十倉に祀られているのだろうか。古老の話によると、一の宮はもとは真倉小字サミ田の伊佐津川ぞいにあって、ある時、大水によりお宮が山崎まで流され、そこに再建された。再建までに二つの話がある。
 十倉の庄屋さんに「山崎へ流れついた」と夢の中でおつげがあった。それが本当で庄屋さんは真倉へ「十倉には氏神さんがないので、十倉の氏神さんとしてここに祀らせてほしいと申し入れ、それが実って二村の氏神として祀られるようになった。」という話と、「流れついたお宮さんを伊佐津川のマスが現在地へ背負ってあがった。」という話である。一の宮にお参りする時、また常にもマスを食べてはいけないと言い伝えている。夏祭りのゴマ焚きは、流れついたお宮が寒かろうと火をたいたことに由来する。七月の夏祭りは火祭であるが、昭和三十八年からゴマ焚きは中止されている。
 境内の楠の根本に石を積みあげた「そげぬきさん」があった。ソゲがささったらここにお酒を供えて真倉の方向を向き、ソゲが抜けるようお願いすると、うまくぬけ、きずも不思議に早くなおるという。
 あるとき、十倉の庄屋さんが、夢の中で、一の宮のこま犬が「あつい、あつい」といっているのをみた。あくる日の朝に村人がいそがしくやってきていうに、一の宮の神殿内で、どこからきたかお乞食さんが、寒さのため焚き火した火が大きくもえあがり、こま犬の前足にもえ移っていた。幸い社は大事にならなかった。これはきっとこま犬の足が火を防いだのだ。その前足が作りかえられ、今はかわいいぞうりをはいておられる。
 狛犬は神社にあって、親しみのある、表情のある、造形品だ。  〉 

『わが郷土まぐら』(嵯峨根一正・平成元年)
 〈 祭神・天照皇太神荒御魂神。例祭日・七月十七日、および十月十七日。山崎神社は通称「一の宮」で通る。『丹後国加佐郡旧語集』(享保二十(一七三五)年)に「一ノ宮真倉村・十倉村の氏神 九社之内」と記されている。天照皇太神荒御魂を祀る真倉・十倉の氏神である。ここにいう「九社」とは、西(舞鶴)地域には、九社明神といわれる神社があった。九社明神とは、九ツの神社の神々を指す言葉で、このことに触れている文献はいまのところ享保十六(一七三一)年の@『丹後国加佐郡寺社町在旧記』が古く、次いで、享保二十年のA『丹後国加佐郡旧語集』があり、それには、「郷中古来より九社明神と云有」として神社、または神名および所在地を列挙している。しかし、数ある神社の中から九社だけをいかなる理由で選び、いかなる待遇を与え何を行ったか、また、この意味するものは何か、などいずれも究明されていない。「一、郷中古来より九社明神と云有。多力雄明神(京田村)笠水明神(公文名村)宮崎明神(喜多村)九社明神(吉田村)一ノ宮(真倉村)日原明神(女布村)胆吹明神(青井村)八幡宮(引土村)下森神社(女布村)。」
現在の山崎神社の名称は@では、十倉村 一宮九社明神、Aでは、真倉村一ノ宮、また、九重神社略記(七日市)には、天照皇太神荒御魂と祭神名を記している。
この祭神について『古事記』より紹介すると、「須佐之男尊は、父親・伊邪那岐尊から根の国に追放されようとしたとき、暇乞いに姉の天照太神に会おうとして高天原に上るが、山・川・国土が震動する。皇太神は非常に驚き国を奪いに来たのかと疑い男装し武器を持って詰問する。そこで須佐之男は暇乞いに来たので他意の無い事を弁明する。この一幕は、崇高温和な女帝のイメージを一掃し不正邪意に対しては、一歩もひかぬ神格が現れているので、これをいつき祀った神社ということである。神社の規模は、『丹後田辺領寺社間数帳』(「牛田文書」)十倉村の項に、「十倉真倉村氏神 一之宮明神社 四尺四方板葺 鳥居通り間八尺上家弐間四方茅葺」とある。お気付きの通り、神社の建物は外と内の二重建築となっている。外観の建物を上家(屋)、内の建物を神社の建物(神殿)と称するようである。また、府地誌の十倉村の項に「山崎神社村社々地東西二十三間半南北四十五間 面積百六坪 村ノ西ニアリ天照皇太荒御魂神ヲ祭ル。祭日七月十七日、十月十七日、境内末社二座アリ。」とある。次に山崎神社の氏子に交付された「氏子札」と神社内に保管された棟札を紹介する。
〈氏子札〉明治四(一八七一)年、宗門改・寺請制にかわる制度(神道国教化政策)の一環として氏子調べが行われた。氏子札は神社が各人に氏子である証明として与えた札で、真倉に残っている氏子札は、同五年、壬申戸籍と時を同じく交付されたものである。木札で表に「十倉村山崎社氏子」とし、名前・出生地・親の名・性別・生年月日が書かれ、裏に明治五年壬申二月一日、神主玖津見弘人と書かれている。
〈棟札〉現在、神殿内に保存されている棟札は九枚である。その内、建物(上屋)の再建に関する三枚を紹介する。「…一宮九社大明神…」表裏。表の寛延四辛未は宝暦元辛未(1751)の誤り。この年に社殿を再建立した棟札と思われる。裏の記述は、古い棟札に書かれていた内容を再建棟上げの際、新しい棟札の裏に書き写したものであろう。慶長四年治部将云々は、石田治部少輔三成が慶長五年(1600年、四年は五年の間違い)七月二十日より九月十二日の間、三成が田辺城を攻めた時の事を指しているようで、その時、三成の軍勢が社殿を乱(リ)ニ打(チ)ヤブリ破壊されたので、村人達に勧めて寄付をなさしめ、先ずは仮りに社殿ょ建立したものと考えられる。次の棟札は、文化十四年(1817)年、上屋再建のものである。「…一宮九社大明神上屋再建立畢…」この棟札とは別に、文化十四年二月十三日奉外遷宮一ノ宮九社大明神同三月八日奉上遷宮一ノ宮九社大明神の二札があるので、この間に建て替えが行われたものであろう。この頃には庄屋に苗字がついている。次の棟札は、明治二十九年の大水害により全滅した上屋を翌三十年に再建したときのものである。「…奉斎 山崎神社御上屋再建…」以上述べたことで、昔は「一ノ宮」神社であったことが分かる。それでは、いつ頃から『山崎』と呼ばれるようになったのであろうか。
前述の氏子札および棟札記載の年代から名称の変わった時期を考察すると、棟札では文化十四年までが「一ノ宮」で、その後は「山崎」の明治三十年までとんでいる。してし、氏子札(明治五年)には「十倉村 山崎社氏子」となっているので、文化十四年から明治五年の間の五十五年間に改称されたようである。さて、それでは山崎神社には「一ノ宮」より古い歴史・記録は無いのであろうか。この件について郷土史研究家・岡野允氏(字上安)は、次の二文献に出てくる『砧倉トウクラ』神社が現山崎神社であると比定されている。
一、丹後風土記残欠(「丹後史料叢書第一輯」所収)
   京洛神祇伯吉田家伝襲本を長享二(1488)年、与謝郡篭神社阿闍梨智海僧都筆写のもの「抄」
  「加佐郡神社卅五座」の中に、『砧倉社』
二、室尾谷観音寺神名帳(「丹後国加佐郡旧語集」下巻・舞鶴市史(史)所収)
   元亀年間(1570〜73)作成といわれる文書。
  「加佐郡七十七社」中に、『正三位 砧倉明神』とある。この比定の説明のため、丹後風土記所載の三十五社を分布図で示し、砧倉神社周辺の神社名等を図表で示す(岡野允氏の資料より)…
大正十五年三月上旬、山崎神社境内の地上げが行われた。青年団報「マグラ」に次のように書いている。「中筋村の事業として行われた、十倉川河身変更及堤防築造工事によって参詣道がかわるためと、先年の洪水によって境内に土砂が埋積し、それの整地の為に境内の地上げとこもり堂の移転(社の前、右側南向)が三月に行われた。毎日、真倉と十倉から二十人余りの人がでて上げていった。堂も鳥居も石どうろうも移転した。七月十日には社前に於て祝賀会が催された。」
現在、神社前を通っている国道は昭和十一年、府道新設で出来た道路で、それ以前は現在のうら道となっている市道が唯一の幹線道路(府道)であり、神殿はこの道に正面を向いていたが、新府道建設に伴い神殿の向きを新道向きとした。この時、境内の石の大鳥居が立てられた。区文書にこの神殿移転を次のように記している。「府道綾部舞鶴線ノ道路新設ニヨリ山崎神社境内ヲ貫通シタルニ因リ、神殿ノ移転ノ余儀ナキニ立チ至リ、元中筋村有地(京田十倉両字出費埋立地)ヲ無償譲渡ヲ受ケ、同地所ト元境内地全部埋設シ神殿及舞堂ヲ移転ス。昭和拾壱年拾月拾七日、真倉十倉両字氏子同神社ニ集合ナシ竣工祝賀会ヲ盛大ニ行フ、余興トシテ大神楽ノ演舞アリ。」この工事は、総工費千百余りで真倉十倉の負担は七・三であった。真倉負担分は氏子八十二戸で均等負担した。(『山崎神社関係覚書』昭十二)
本殿は草葺で三回に分けて葺替えられた。材料は葬谷の横津や寺ケ谷のカヤで字人足で刈り、山崎神社の他、善通寺・上檀神社にも使用した。葺替えは神迎えの前の十一月下旬の好天候の日に行われ、当日、真倉からカヤを運搬、十倉からは村中人足が出て葺替えた。昭和四十年頃、本殿屋根は草葺の上にトタンをかぶせた。現在、境内を店舗に貸しているのは「交通センター及附帯事業」という名目を付けて、昭和三十八年十月一日、二十五年の契約で貸しているものである。
 さて、なぜ、真倉の氏神が地理的に離れた十倉に祀られているのであろうか。この疑問に答えてくれる二ツの話を紹介しよう。
〈その一〉一の宮は、もと真倉小字サミ田の伊佐津川ぞいにあって、ある時、大水によりお宮が山崎まで流され、そこに再建されたという。流れついてから再建までに次の二説がある。「十倉の庄屋さんに山崎へ流れついたと、夢の中でお告げがあってそれが本当であったのである。そこで、庄屋さんは真倉へ「十倉には氏神さんがいないので十倉の氏神として、ここに祀らせてほしい。」と申し入れをし、それが実って現在地に二村の氏神として祀られるようになった。」という正夢説。もう一ツは、「流れついたお宮さんを伊佐津川の鱒マスが現在地へ背負ってあがった。」という鱒説。この説には、一の宮へお参りする時、また、常にも鱒を食べてはいけない。との言い伝えが残っている。この「流れつき説」、今も信じる人が少なくない。元屋敷の場所も示される程である。なを、夏祭りの護摩焚きは流れついたお宮が寒かろうと火をたいた事に由来するのである。
〈その二〉「昔、山崎までの土地はすべて真倉領分であった。真倉の渡り瀬から山崎までの堤防の完成によりできた東側の土地は、沼や川原など荒地で、すべてを耕地化するのは到底無理と岩淵以北を京田に譲った。」という言い伝えがあり、一の宮は真倉・十倉の旧境界に建っているというのである。この二ツの話には、いずれも文献が残っていないので立証できない。
 七月の夏祭りは火祭りであるが、昭和三十八年、境内を店舗に貸してから護摩焚きは巾止されている。秋祭りは、朝代神社から神官を迎えて行われるが、昭和五十七年より真倉の祭り太鼓が参加し祭りを盛りあげている。
 寄講の掛軸に「一宮大明神」と「天照皇大神宮」がある。次に、そげぬきさんとこま犬の足の話を紹介する。
〈そげぬきさん〉境内の大きな楠の根元に石を積みあげたそげぬきさんがあった。ここにお酒を供えて真倉の方向を向き、ソゲが抜けるようにお願いすると不思議に治ったという。
〈こま犬の足〉ある時、十倉の庄屋さんが、一の宮のこま犬が「あつい、あつい」といっている夢を見たのが正夢で、神殿内でお乞食さんがたき火をした火が、こま犬の前足に燃え移っていた。幸い大事にはならなかったので、早速その前足が作り替えられ、今は、かわいい草履をはいておられる。(向って右側のこま犬)  〉 




関連項目

「山崎神社(砧倉神社)」




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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