丹後の地名

田中(たなか)
舞鶴市田中


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京都府舞鶴市田中

京都府加佐郡志楽村田中

田中の地誌




《田中の概要》

田中は舞鶴市の東部。志楽谷のなかほど。志楽川の北側でおおむね田園地のずいぶん東西に広い地である。加佐郡誌は地名の由来を「当地の田の始めの意」 とする。


《人口》954《世帯数》662(田中西・中・東の合計)


《主な社寺など》
氏神は阿良須神社。
鈴鹿神社
臨済宗東福寺派筑波山金竜寺
『加佐郡誌』
 〈 築葉山金龍寺、臨済宗、至徳三年創立、志楽村  〉 

『丹哥府志』
 〈 【筑波山金龍寺】  〉 


威光(いこう)山城址(田中城・田中高屋城)
『京都府の地名』は、「威光山南西に大嶋但馬守居城の田中高屋(たかや)城跡、同南東に粟屋丹後守居城の田中城跡がある。中世後期、若狭高浜(現福井県大飯郡高浜町)城主逸見駿河守が泉源寺村を攻略したが、その後大嶋但馬守と粟屋丹後守の反撃を受け吉坂峠で攻防戦が行われたと伝える。なお連歌師紹巴の「天橋立紀行」永禄一二年(一五六九)六月二三日条に「大志万但馬守父道育舟どもあつめて、千とせの浦にて朝の烟をたてける」とあり、道育については近世の旧語集に「山上ニ吉城、大嶋志摩守道育居城、長浜弁財天嶋ノ城モ持之、久美ノ伊賀旗下ニテ南都門主伊賀ニ預ケラル、春部郷ノ代官ト云」と記す。天正九年(一五八一)頃の田中城主山本操頭は細川藤孝・忠興父子に攻め滅ばされたという。」

《交通》

国道27号線(若狭街道)

《産業》


田中の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》


《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免七ツ
田中村 高三百六拾石三斗四升
    内袷石九斗三升九台壱勺 万定引

    七拾石御用捨高
 金竜寺 筑波山 海臨寺末
 鈴鹿権現 田中村之内下村氏神
 山本明神
 古城 山本掃部 其末流 彦左衛門 五郎左衛門ト云
 本書之文
  志楽大明神
  箭取権現
 登尾村安岡村之間ニ昔池有大蛇住泉源寺之御霊之宮是ヲ射給ふ 其矢ヲ直ニ大蛇ノ頭ヲ踏ヘテ抜給フト也 白屋村ニ有六地蔵ハ御霊之社ノ倍臣ニテ大蛇射ラレテ逃ヲ追掛毒気ヲ吹掛ラレ死セル由其者ノ印ニ六地蔵ヲ建タリ 右ノ池今ハ田卜成登尾安岡之間ニアリ
 山上ニ古城 大嶋志摩守道育居城 長浜弁財天嶋ノ城モ持之 久美ノ伊賀旗下ニテ南都門主伊賀ニ頂ケラル 春部郷ノ代官ト云  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎田中村(泉源寺村の次)
【鈴鹿権現】
【筑波山金龍寺】
【大島但馬守城墟】
 【付録】(山本大明神、吉東大明神、箭所大明神)  〉 

《加佐郡誌》
 〈 田中は当地の田の始めの意である。城址がある。それは栗屋氏の滅亡後、大島但馬(肥前守にも作る。)といって大和西大寺の(春日大社)納米取立方を勤めていた一色氏の臣下の居城であったが、後山本掃頭といふものが依っていたとの事。此れは五郎右衛門今は(支族彦左衛門)筋の先祖であるといはれている。  〉 




田中の小字


田中 大向 御坐 花ノ木 西角 雨タレ 前田 宮ノ西 城ノ奥 奥ノ谷 宮ノ上 広岡 安井 大川 西ノ下 中田 桧縄手 野田 土中 池尻 成末 柳ケ原 民シゲ 鈴畑 奥ノ山 安井ノ奥 成末ノ奥 小向 矢谷 下ノ宮

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