丹後の地名

丹波(たんば)
舞鶴市丹波


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京都府舞鶴市丹波

京都府加佐郡舞鶴町丹波



 

丹波町の地誌



《丹波町の概要》
恵比須神社(丹波町)
西舞鶴市街地中央部。東北は魚屋、南は本、西は平野屋に隣接する。国道175号が北部を東西に貫通し、中央を南北に丹波通りが走り、北から下横町通・上横町通が交差している。丹波通りを中にした両側町である。

丹波町といえばエビスさんであるが、毎年11月の勤労感謝の日あたりは西舞鶴商店街は「えびす市」でにぎわい、通りは歩けないほどの人出でごった返し、商店主は「あのころは儲かったで」というが、その恵比須神社があり、ここでは植木市などが開かれる。今も変わらず続いているが、「朝4時から並んで売り出しを待ちよりましたんや」という、その昔の勢いはもうない。植木市も売れないのかずいぶんと少なくなってしまった。買っていくのはおジイちゃんおバアちゃんばかり。なかなかに明るい未来は見えてこないのである。
商売繁盛を神様にお願い

福娘は福を授けるためにて町を歩いていく

地名の由来は、田辺から丹波方面へ向かう街道口にあったことによるとも伝えるが方向が無理なような…。細川時代から地子銭免除の町屋であった、何屋があったかは不明だが大工さんがいたことは確かな様子。植木市が開かれるのも何か関係があるのかも−。
植木市(丹波町)
丹波町は、江戸期〜明治22年の町名。田辺城下の1町。魚屋町の西側に位置する町屋で、享保12年の丹後国田辺之図による町屋は、南北160間・幅3間。家数138軒。寛保3年には丹波町121軒・丹波町吉原60軒とあって(竹屋町文書)、町尻の吉原にも当町支配の町屋があった、という。
真名井通り(えびす市のにぎわい)
明治2年舞鶴町に所属。同22年舞鶴町の大字となる。昭和13年からは舞鶴市の大字。
昭和20年舞鶴市第2次建物強制疎開により、上横町通に面する三ノ丸〜竹屋町間の南側24戸が撤去されている。
今は普通は「丹波(たんばまち)」と呼んでいるが、正式というか行政地名は単に「丹波」である。
丹波町通りに掲げられたノレン丹波通りは、江戸期の豪商たちの屋敷も残り、街全体としても古いたたずまいを残す場所もある。それが歴史的景観資源と呼べるほどのものかはわからないが、そうしたものを生かそうという動きも一部見られる。この暖簾などもそうでポレテクカレッジの協力を得て今回26世帯、34枚が製作されたという。ピタっと調和する玄関もあれば、やめた方がいいのではと思える新しい玄関口も見られる。建物がそれぞれに異なるのに一律に同じ物をというのは無茶な話であるがまあまあ結構な話かも知れないと思おう。
祭には写真にも見られる提燈も掲げられているが、本当は大きな提燈もあるんですが、大きなもので人手が足りなくて立てられんのです、という。そういえば私もその大きな提燈を見た覚えがあるが、そうした事に対しては何も手当がないのである。思いつき行政らしい、気が利いていそうで間の抜けたことである。死んだ街はわかるのかも知れないが、現に生きた街がわかっていないように思える。本当に街作りを任せられるのかとだいぶに不安になる。


《人口》116《世帯数》48

《主な社寺など》
恵比須神社

《交通》


丹波町の主な歴史記録

《まいづる田辺 道しるべ》
・丹波町
 丹波町は、田辺より丹波へ行く街道口にあったとか、或いは丹波より移住して来た人が住みついた町ともいわれている。
 家数 一三八軒(享保十二年)
    丹波町吉原六十軒(寛保三年)
 町長 南北一六○間(二九○メートル)
 道巾 三間(享保十二年)(五・四五メートル)

《舞鶴ふるさとのやしろ》
恵比須神社を歓請したのは一般商店の人達でなく、魚商の人達であった。「恵比須神社の歴史」という議員岩崎恵次の小冊子(昭和59)によると、明治18年、魚商有志が京都市の建仁寺内の恵比須神社の分霊を受け、魚屋の北浜に祀ったのが起り。
 恵比須は大国と並ぶ福の神だが「戎」「夷」と書けば、いずれも渡来神の意味。また「蛭子」とも書くが、これはイザナギ・イザナミ両神が最初に生んだが、芦舟にのせて流した神ーいうなれば流産した子の霊に当る。大国が大国主命に比定されるので、恵比須はその子の事代主命とされ、左脇に大鯛を抱え、右肩に釣竿をかついで微笑するエビス顔の神像が、漁業や魚商繁盛の神として信仰されたからであろう。
 魚商有志の組織は明治24年には「舞鶴海産合資会社」、さらに同30年には「丹後水産株式会社」となり、役員には舞鶴町の有力者も名を連ねるようになり、恵比須神社も魚商の神様から、一般商店も含む商売繁盛の神様と性格が変り、神社の場所も魚屋北浜から、明治32年、現在の丹波32番地に移った。社務所ができ、南隣には稲荷神社がまつられ、同35年からは朝代神社の御旅所となった。昭和27年には社殿を修理・社務所を改築した。神社の管理も、中心となっていた魚商組合かの人々の手から、漸次丹波町内会の人々の手に移って行った。
 恵比須神社の祭礼は、十月二十日に秋祭をするのが全国的な慣習で、同社でも明治中期には十月二十日だったが、明治後期からは一か月後の十二月二十日を祭礼二十日を祭礼の日とし、18、19、20日の三日間を「えびす市」とすることに変った。
 ちょうど周辺農村部では秋の収穫を終え、米代金が入る頃で、冬支度のため買物が必要な時期である。神社前の丹波町通から下横丁を西へ竹屋町通までにかけて、植木市・露天が並び、呉服店の大売出しなど大変な賑わい。この三日間の売上が、残りの一年分と匹敵するほどだったという。

現地の案内板
丹波町恵比須神社
明治十八年、魚商有志が京都市の建仁寺内の恵比須神社の分霊を受け、北浜に祀ったのが起りとされています。その後魚商の神様から、一般商店も含む商売繁盛の神様へと信仰が広がり、神社の場所も明治三十二年、魚屋北浜から、この丹波町に移りました。そして同三十五年からは朝代神社の境外地となっていました。神社の維持管理も、魚商組合から次第に丹波町内会の人々の手に移って行きました。
 恵比須神社の祭礼は、明治後期からは、現在の十一月二十日に行われ、「えびす市」もこの時期に行われています。明治四十五年、坂本帆声作の「舞鶴唱歌」の一節には、「恵比須神社は字丹波、催す秋の市三日人出ぞ織るが如くなる 其の店々の賑わしさ」とあり、西地区商店街の年一度の大売り出しと、神社の秋祭りが結びついた「えびす市」が当時すでに定着していたことを物語っています。
 一月十日は初夷(十日夷)で大阪の今宮戎の賑わいが知られていますが、舞鶴ではこの日、神事だけのお祭りが営まれています。 設置 城下町倶楽部)




丹波町の小字


関連項目







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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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