丹後の地名

天台(てんだい)
舞鶴市天台


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京都府舞鶴市天台

京都府加佐郡余内村天台




天台の地誌

《天台の概要》


天台は舞鶴市の中央部。東西舞鶴接点の白鳥峠のトンネル(府道小倉西舞鶴線と鉄道)の西側の南にある集落。天台の立体交差の踏切から南側へ降りる、これも鉄道と立体交差の橋が架けられているが、これを「五十里(いかり)谷橋」という。その南奥・山裾の集落である。五十里谷橋
 天清川上流・天台川の上流域に位置し、もとは五十里(いかり)村と称した。明暦2年京極高直が当地に天台寺を建立したのち、あるいは再建したのち改称したといい、天台寺村とも称した。
 イカリの地名の由来は、古代この谷まで海が入り込み船が碇を下ろしたのでこの名があると普通はいわれている(舞鶴の地名学ではの話)。が、イカリはそうしたことではなく、水銀産地を示した地名である。天台寺との関連でも考えてみるべき大変な謎を秘めた古代の地と思われる。ここでは簡単にしかふれようもないが、経塚も発掘されていて、古くからの信仰の聖地でもあったと思われる。
天台村は、江戸期〜明治22年の村名。同22年余内村の大字となる。昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字。昭和台や天台団地、天台新町など最近は新興住宅もふえている。

《人口》470《世帯数》176

《主な社寺など》
天台古墳
天台宗園城寺末青葉山天台寺(現・天台系単立寺院)は、旧語集によれば慶安元年(1648)京極高直による再興。中興開基は三井寺(大津市)満徳院実範で、満徳院兼帯寺であった。また古くは山伏寺四八坊があり、後世三坊となり、現在二坊があると記す。
「丹哥府志」は、天台寺の桜をみた細川忠興の歌として「色も香もあさきのかつら来る人をまつ斗りなる山桜哉」を載せ、以後この桜を人待桜といったとしている。
『舞鶴』
 〈 青葉山天台寺
 舞鶴の東餘内村にある天台宗の寺院で正観三昧の舊躅として伝へられて居る、一書には第一祖が入唐旧朝後開山したものと記されてあるが惜い哉記録の徴すべきものがないので年代を詳にすることが出来ぬ。  〉 

『舞鶴史話』
 〈 青葉山天台寺(舞鶴市字天台)
 第一祖入唐帰朝後創建せられた寺といい伝えていますが、記録がなくなってしまって惜しいことに何もわからなくなっています。  〉 

『宮津市史・通史編』
 〈 天台宗寺院
 現在の丹後地域には密教系寺院のうち真言宗は数多くあるが、天台宗の寺院は舞鶴市にある寺門派の天台寺一か寺だけである。しかし古代・中世の丹後国には大谷寺・普甲寺・智恩寺・如願寺などいくつかの天台宗寺院が存在していた。  〉 

『舞I市民新聞』(95.12)
 〈 *松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈439〉*天台・上安の文化財*「天台寺」縁起と歴史その1*
*中世末に中興された平安仏教を代表する寺院*堂前の桜の巨木が近世初頭の記録に残る*  〉 

 〈 
 天台寺の歴史にふれた縁起書などの伝世記録は何ひとつ残っていませんが、古代史の中での天台地域の位置づけや周辺遺跡からみても、平安仏教を代表する天台宗の寺があったとみられます。
 中世末に藤原姓安久氏によって中興され、細川幽斎・忠興父子の援助をうけながら年を経、つぎの京極治世になってからのことが、ようやく史実として『田辺府誌』に記載されることとなります。
 「加佐郡天台寺は往古より仏地といへども修験者の佳境にて聖道の僧伽あへて住せしにもあらず」
 田辺府志が書かれたのは江戸時代中期十八世紀のころとみられ、桂林寺の僧、華梁霊重の知識の中にあった天台寺を伝えたものと思われます。
 「往古より仏地」のことばに、古くから天台の地が仏教者の知るところであったことがわかり、江戸時代の中期には、修験僧の拠る寺院として知られていたとみらます。
 「中古此国戦闘の頃軍士の屯営となりて荒廃せり」とつづき、応仁の乱にはじまり、一色、武田の対立につづく若狭・丹後の国人たちの入り乱れての戦乱、さらに織田勢の丹波、丹後攻め、そしてその結果、細川藤孝の支配確立によってやっと戦国時代は幕を閉じます。
 「本行寺縁起」に記録される淡路島から来た藤原一族の別姓河辺氏、のちの安久城主安久時親の子時繁と天台寺の関係は、このころに生まれたものとみられます。
 若狭との闘いの中で、天台寺は安久城の支城としての役割を果たしていたともみられ、天台寺と上安・安久との関係は、その中で成立をしていったものと考えられます。
 藤原一長さんの調査によると(天台史誌)、天台の家で過去帳にみられる最も古い記載は、寛政九年(一七九七)の「安久」姓にはじまります。
 ついで沢田、藤原がありますが、藤原は古くは安久と同祖とみられ、五老岳と城取峠(白鳥峠をめぐって行われた戦乱ののこす姓とみることができ、天台寺の中興は、安久城と深くかかわっていたとみるのが自然のようです。
 舞鶴市史に紹介されている天台寺にふれる古記録としては、『丹後之国変化物語』があります。
 この記録が書かれた時代については、いくつかの見方があるようですが、市史では近世初頭の状況を記したものとしています。
 安久城落城は十六世紀までとみられ、細川藤孝の国守としての丹後入国は天正八年(一五八〇)であり、それにつづく時代の天台寺描写とみることができます。
 物語の筆者は文化財めぐりよろしく、西地域東部の山麓をめぐり天台寺に至ったようで、伊佐津川や「御厨子の観音(水清観音)」につづいて
 「−それよれ東へ山つづきに寺々などもおほく侍りぬ その末には天台院と申て当山の山伏住けり いにしへは坊数なとおほかりける たひたひの乱世にやけうせて今は幽なるていなれとも大日を安置して堂の庭前に大木の桜あり 枝大にはひこるとて東西へ十三間余り南北へ十四間余りの木也−」
 この記載の「当山の山伏」は、南北朝の戦いの中で北朝側についた醍醐寺三宝院大僧正賢俊によって組織され、従来の「本山派山伏」に対抗して独立した「当山派山伏」をさすものとみられます。
 室町時代には、この当山派山伏の修験道場として「坊数など多かりける」となり、「青葉山天台寺」の松尾寺との山号の共通性は、このとき生まれたのかもしれません。
 当山派山伏は醍醐寺に拠り、この地方での拠点となったのが松尾寺で、松尾寺をふくむ志楽荘は、醍醐寺とその僧正賢俊の私領であったことが知られています。
 ついで物語は「天台院の桜」について、その大きさと美しさにふれています。
 三十bちかい枝張りをもった大木であったらしく、「花の名もいとめつらしきぬれさきといふよし申也 花のさかりにハ雪なと降積たるやうに見えて心も言葉もおよはさる見物なり − 」
 この桜の名が「ぬれさき」とよばれていた意味はよくわかりませんが、江戸時代初期の用法としては、みずみずしく魅力ある意につかわれたものが多く、「ぬれ」が「ぬれ衆」や「ぬれ里」など、巷の女にかかわる用法になったのは江戸時代中期以降といわれています。
 天台寺の桜が巨木でありながら馥郁(ふくいく)とした美しさで知られていたらしく、「されは花の頃は貴賤をつらね花見とて見物の人はささめきけり
 細川玄旨(幽斎)花見に侍りて読る
 色もかもまさきのかつらくる人を まつはかりなる山さくらかな」と記しています。
   −  ◇   −
 ☆今回の史料は、舞鶴市史編さん委員の井上金次郎先生のご教示によっています。  〉 


 〈 *松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈441〉*天台・上安の文化財*「天台寺」縁起と歴史その2*
*樹齢五百年を超え、伝承の残らない「天台寺の桜」*江戸時代の儒学者、野田笛浦も詩文に表す*  〉 

 〈 
 天台寺の歴史は、縁起書がないだけに研究者の間で、いろいろと取り沙汰されてきました。
 そのなかで中心となる話題は「天台寺の桜」です。
 天台寺の桜は『田辺府志』にも書かれますが、この桜を愛でた文人墨客のたぐいは多かったようで、江戸時代後期の儒学者として著名な「野田笛浦」なども、詩文に表現したといわれ、六曲屏風などに表具されているいくつかの漢詩の中にも、「千歳の桃」などとともに「天台寺の桜」を詠んだものがあるとききます。
 最近になって、この桜が研究者の間で話題となりはじめたのは、桜の生存年代の長さとかかわって、天台寺の歴史がよみ直されようとしているからです。
 応安四年(一三七一)に、余部の雲門寺をひらいた春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、のちの普明国師が、天台寺の桜にふれて詩文をのこしたという説があります。
 この説は、さまざまな謎をふくみ、興味がもたれています。
 妙葩の生きた十四世紀から笛浦の十九世紀まで、天台の桜が生きつづけたとすれば、その樹齢はゆうに五百年をこすことになります。
 また、この桜が、いつ枯れて姿を消したかについては確かな伝承がのこらず、謎をいっそう深くさせています。
 しかし、書かれたものがある以上は、存在を不定することはできず、天台地区の地元でもなんどかその場所についての検討がなされたようで、現在では山門の外、そう遠くないところと推定きれています。
 普明国師と天台の桜のかかわりは、さきにふれた『雲門一曲』の中の「過天台院感興詩並序」と堰する一文にあります。
 「天台院を過(おとずれ)る感興の詩に並(そえ)る序(じょ)」とよめる漢文の作者は、文末の一文「青龍在癸丑十月五日四明山樵朱本謹序」から、当時、明国からわが国に派遺された大使でもあった明僧(みんそう)「末本」であることがわかります。
 「癸丑」の年号から妙葩が舞鶴に入って三年目の応安六年(一三七三)に、四明山の別名をもつ比叡山にいた朱本が、妙葩の要請によって誌したものとわかります。
 主な文意は「昔からすぐれた人は外交にかかわって力を発揮することが多い、春屋大和尚もそのような人である。私は遠い国からこの国に来てその人に会うことを最大のよろこびとしてきた。春屋和尚の使いとして梅岩上人が詩を届けてくれた。それは師が天台山に遊んだときにつくったものであった。意味するところが大変深く気品にみち、文学性の高いすばらしいものであった。
 いったい彼が隠棲しているという雲門の地はどんなところだろう、まるでかの有名な詩人杜甫(とほ)を生み出した浣花村のようなところにちがいない。
 私はそれにくらべ力足らずだが要請を拒むわけにはいかないのでこの一文を書いた」というものです。
 朱本自身がこの地に来たかどうかについてははっきりしませんが、九年間舞鶴の地にあった普明国師が、室町幕府の外交に重要な役割を果たしていたことと、朱本がこの舞鶴の地に詩境を夢みていたことなどから、いちどは訪れたことがあると考えるのが自然のようです。
 この漢文の題に書かれる「天台院」ということばと、文中の「不下於浣花村之境界矣」の文字から、朱本が練りあげてつくった文であったということもあって、情景と比喩をかねた表現は、「天台院の桜」なくしては書けない文であるとみることができます。
 技を張る桜の花びらのふりそそぐような美しさは、舞鶴市指定文化財である吉田の「しだれ桜」を思い起こさせます。
 『丹後国変化物語』に書かれる天台寺の桜は、しだれ桜とはみえないようですが、その枝張りが二十数b四方もあったことから、相当な巨木とみられます。吉田の桜が樹齢三百年であることからも、その倍以上もあった天台の桜が、物語の書かれた時代から、さらにさかのばって数百年とすれば、普明国師の生きた十四世紀には、すでに大樹の桜として生きていたとみることは可能です。
 そのころ、天台寺が、平安密教の寺院として天台宗の中にあったから、天台宗の聖地である比叡山に寄居していた朱本のもとへ、妙葩は、天台院の情景をよみこんだ詩をとどけ、その序を請うこととなったとも思われます。
 朱本は、漢詩の国・中国の盛唐時代を代表する詩人杜甫(子美とも号した)に妙葩をなぞらえました。そして、この大詩人を生みだした土地として、杜甫の故郷「浣花村(浣花渓とも」に、天台寺付近の風光の美しさをなぞらえたとすれば、妙葩の「過天台院感興詩」の情景から、桜は欠くことのできないものであったと考えることができます。  〉 

三大王子
武庭権現(竹波神社)
金比羅大権現
山王大権現
加利帝母


《交通》
府道小倉西舞鶴線(白鳥街道。若狭街道)

《産業》

天台の主な歴史記録

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 青葉(セイヨウ)山天台寺本寺三井寺、御位牌殿寛文十庚戌年御建立、開基退転の寺故時代知らず本堂五間四方、慶安元戊子年京極飛騨守再興、本尊釈迦如来、境内三千六百九拾坪、外ホカ山林あり、塔頭 修殿山伏、正学坊、教学坊。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免九ツ三分
天台寺村 高百六石五斗八升
   古五十里村ト云
      内六石三斗六升 万定引
      九石郷用捨高
   三大王子 氏神
   武庭権現 祭九月六日
   山上ニ祭
   金毘羅大権現 祭三月十日 十月十日
   山王大権現
   加利帝母
 右三座一社ニ祭山王権現ノ宮地也 金毘羅権現加
利帝母ヲ後ニ合祭故山王権現ヲ真中トス 金昆羅ハ
新ニ讃州ヲ遷ス 加利帝母ハ鬼子母神也
 右之説ハ卸当代寛政十一年己未年御参詣之節承之

故記シ置
         江州
  天台寺 青葉山 三井満徳院兼帯寺
   松尾寺ト山号同シ但松尾ハ青葉ヲセイヨウト唱フ
   開基ハ退転之寺故時代難知
   中興開基 大僧都実範
   本堂 慶安元戊子年京極飛騨守高直侯再興有
      所寛文年中焼失ス 仍御家ニテ唯今之
      通御建立也
   本尊 釈迦
   脇立 聖観音 不動明王
   客殿 八間ニ六間 今四間ニ六間
   本尊 阿弥陀如来
   毘沙門
   元三大師
   三宝荒神
   庫裏 八間ニ三間 今三間ニ四間
   門  二間ニ一間半 今一間半ニ一間
   塔中 正覚院
      郷学院
   古来山伏四拾八坊後世三ヶ所 今二ヶ所
   境内三千六百九十坪其外山林寺領境内四石八斗
   蔵米拾三石七斗
   拾八石五斗之内 一石堂料
           二石五斗山伏分
    判物
一 寺領分之事
一 同屋敷分之事
一 山林竹木之事
 右如先規令寄附事不可有相違若也仍如件
              (京極高知カ)
   慶長七年   (花押) 細川幽斎卿
       十二月三日    御筆ト云伝
   天台院
 右同断
   寛永三年   (花押) 京極飛騨守
    二月十五日      (高三)
               高治侯
   天台院
 京極飛騨守高直侯御代明暦二丙申年七月御霊屋一宇建立三井寺江住職被請依之満徳院実範来往ニ而三井寺両寺兼代在天台院モ満徳院ト改天台ハ寺号ニ成寺領御仏供料共ニ三十三俵寄附二代目モ満徳院ヨリ入院三代目摂州地福院弟子隆範今回ヨリ来往四代目当住吉野山之寺僧持福院ヨリ来住御霊屋前代護摩堂之東ノ方ニ在 寛文年中出火類焼御当代今之所 本堂脇立観音ノ由来ハ古来京都町人何某之妾尼ト成 常ニ観音ノ像信心スル事年久シ 卒後娘松卜云年若ニ而信心モ無ク併老母日頃信心セシ仏故不汰沙ニモ難成或時ニ出入ノ木綿商人ニ語テ此仏像可然所江遺度由ヲ云 木綿屋幸ニ三寺日光院僧正江立入ニ付彼仏ヲ持行テ日光院江納ル 于時元禄二己巳年三月天台寺本尊開帳ニ付日光院ヲ詔請読経アリ 釈迦ノ開帳ハ不珍トテ日光院彼ノ観音ヲ持参本尊ノ脇立トシ観音開帳有シ也 此時肩替ニ而願ヲ立テ京都ヨリ歌舞伎来ル  〉 


《丹哥府志》
 〈 ◎天台村
【三大王子】
【青葉山天台寺】(天台宗、寺領十八石、塔頭二院正覚坊、飛学坊)
青葉山天台寺は飛観三昧の興蹤なり。中古干戈の為に廃院となり、寛文年中牧野侯再び伽藍を造り其傍に台廟を安置す、智証大師の彫刻する正観音の仏像あり。
【鎮守山王権現】(境内)
【人待桜】(境内)
天台寺の花見にまゐりて
色も香もあさきのかつら来る人を  まつ斗りなる山桜哉 (越中守忠興)
斯く忠興の詠じたるより此桜を人待桜といふ。半陶藁が文明二年三月七日洛の周興、文成の二僧と爰に来りて七律一首を題す、其詩に云
放担暫寓小林隈。聞有名藍得々来。山勢挙頭真経塢。池辺歩移是天台。雲籠松木湿旅袖。風落桜花點酒
杯。浦江行舟在明旦。両牧僧逐暮鐘回。(天台宗開山入記して経塢に至るといふ。)  〉 

《加佐郡誌》
 〈 天台は旧名五十里(いかり)村、後西院天皇の明暦二年(将軍徳川家綱)に京極氏が当字に青葉山天台寺を建立せられたことから今の名に改められたのである。  〉 

《まいづる田辺 道しるべ》
 〈 天台
 旧名五十里(いかり)村と称し、古代この谷まで海が入り込んでいて、舟の碇を下ろした所からこの地名が付いたと伝承あり。
 明暦二年(一六五六)京極高直により天台寺が中興された後、天台寺村と改称された。天台院であった時代より歴代の藩主細川侯、京極侯、牧野侯の帰依厚く、度々参詣された。境内の人待桜は有名で、細川忠興侯の一首がある。
 色も香もあさきのかつら 来る人を
  まつ斗りなる 山桜哉
 田辺城からこの桜が見えたというが、天台の金毘羅さんの山で見えなかったはずである。
 天台踏切より天台道を約五十メートル入った辺りに「茶屋ノ裏」という地名がある。ここで天台寺へお詣りされる人々が休んだ茶屋があったのであろう。
 更に、天台寺山門より四、五十メートル手前に「くら掛」と称する地名があり、ここに桜の木と石があったという。ここで天台寺へお詣りされるいかなる高位の人でも、下馬され馬の鞍を掛けられた所からこの地名が付いたとか。
 当時、殿様が天台寺へお詣りされるため、大内門より天台寺までの街道を別名「御成街道」とも呼ばれていた。この若狭街道を通る馬上の人は清道と天台道の岐路に来ると下馬をして天台寺を遥拝され、一般の往来者は白鳥口辺りより遥拝して通って行ったといわれている。
 又、この街道で福来の古老より興味ある話を聞いたので記す。
 「殿様が馬で福来の辻橋を渡られた所まで来ると馬が急に暴れだし、殿様は馬から下りられ、オカチ屋敷に向かってお辞儀をされると、不思議に馬はおとなしくなったという」
 このオカチ屋敷とはいかなる屋敷か判らない。
 天台道を家路の方に入って行くと谷道となる。これより山道を更に奥山の船越山の鞍部を越え、行永の池部、与保呂を経て多門院から鹿原へ抜ける古代の道があったといわれる。
 又、船越より池内谷の上根へ通じる道もあり、上根道は戦前まで通っていたとか。白鳥峠の道ができる迄は古代の人々はこの船越の道を利用していたのであろうか。  〉 

《松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈436〉*天台・上安の文化財*「天台・上安について」その1》(『舞鶴市民新聞』)
 〈 …舞鶴市の西市街地の東北に位置し、中舞鶴、東舞鶴に接するこの地域は、舞鶴市の歴史のなかで華やかな話題の舞台として登場することは少なくみられがちですが、最近の研究のなかで未調査ながら、中世、古代に重要な動きがあった地域ではないかと見直されはじめています。…
…また、天台の集落北側の山の尾根を西へさがった丘陵端にある「天台古墳」は、高迫古墳などよりもやや古いものかも知れないとみられています。
 この天台古墳と天台寺の間に、集落がのびている谷が「五十里谷」です。
 この「いかり」という地名が古代地名であることは、全国の例をみてもうかがえるもので丹後半島の「碇(いかれ)高原」、大宮町の「五十河(いかが)川」などとともに聖徳太子の出生地である「斑鳩里(いかるがのさと)」や、綾部市の旧郡名「何鹿(いかるが)郡」などにみられる「いかる」と同様のものと思われます。「いかる」「いかり」は、定着の根拠地といった意味をもつ古代語らしく、これが後世には船をつなぎとめる碇・錨としてのこったものといわれはじめています。
 また、上安や安田古墳の「やす」も古代史によく登場することばであり、「いかりの里」や「やすの里」など、古代のある時期にこの地を拓いた人びとがあって、その人びとは、「いかる」や「やす」にかかわる他の地域の人びとと同じ頃に、同じような文化をこの地に植えつけたものとみることができます。
 天台の集落のしも手一帯「五十里谷」の入り口付近には、東西五十村e南北五十bにわたって、奈良時代の須恵器や土師器の土器片が散布していて、舞鶴市の遺跡地図には「天台遺跡」と登録されています。
 天台寺は山号を「青葉山」としますが、これは、天台の東の山嶺を古くから「あおば」とよんでいたもので、東地域の森地区、西地域の池内地区とこの地の間の山やまが、古くは、聖霊の宿る場を意味する古代語である「あおば」と考えられていたとみることができます。
 この山をめぐる古語らしい「あお」は、森地区の南の山稜の「青(あお)城」や、池内の佐武ケ嶽南東の谷「青谷」などにものこっています。
 上安から天台にかけての、西地区東北からかこむようにめぐる山やまは、古代から中世にかけての秘史を奥ふかく包みこんでいるということができます。…  〉 




天台の小字


天台 永ノ元 中田 久合 穂ノ迫 堂ヶ鼻 中稲 小畑 山王 見名 辻 南谷 五十里谷 下山 杉谷 足谷 内ヶ段 日南 奥袋

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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