丹後の地名

和江(わえ)
舞鶴市和江


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京都府舞鶴市和江

京都府加佐郡加佐町和江



和江の地誌

《和江の概要》


和江は舞鶴市の北西部。由良川下流左岸に位置する。由良川が北流しその西岸を並行して国道178号線が走り、北は宮津市に接する。和江谷川が南東流し由良川に合流する、その付近に集落が立地する。
丹後富士とも称される由良ケ獄の南東麓に位置し、宮津への重要な往還筋にあたった。対岸の中山との間には渡しがあった。地名は渡船場としての安全な「などし江」「なごえ」に由来するともいう。地内には、山淑太夫のもとから逃亡した厨子王がかくまわれたという国分寺の廃寺跡がある伝説の地でもある。
 和江村は、すでに室町期には見える村名で、「丹後国田数帳」に□□郷49町9反292歩のうち20余町の知行者として「和江村 岸九良左衛門」と見える。近世の和江村は、江戸期〜明治22年の村名。田辺藩領。慶長3年細川幽斎が二位座(にいざ)に櫨実の模範畑を造り、また翌4年由良川への突出部を切断して流勢をやわらげようとし、この部分が瀬戸島として残った。寛永2年開削工事により洪水となり、田畑が流失した。という。
和江は、明治22年〜現在の大字名。はじめ丸八江村、昭和3年八雲村、同30年加佐町、同32年からは舞鶴市の大字。
大正2年府の工事で瀬戸島が取り除かれて高田耕地が造成された。昭和18年渡船場廃止。同41年瀬戸島水際部分の掘削と西島取除きの廃土により、和江の谷・西島新田の埋立てが完了した。

瀬戸島の跡(大正初期)
大正初期の由良川瀬戸島跡(京都府誌から) 由良川下流の和江付近には、瀬戸島があり、度重なる水害の原因と考えられた。このため、細川忠興が島の西部を切り開いたと伝えられている。その後、大正元年度から同6年度まで行われた由良川治水工事の初年度から2か年で、瀬戸島は取り除かれた。また、この残土によって和江の入江を埋め立て、約1.6ヘクタール余りの新田が開発された。(『ふるさと今昔写真集』より。キャプションも)

《人口》169《世帯数》52

《主な社寺など》

曹洞宗神護山仏心寺(旧号国分寺)
昭和44年遷座の和江神社(元八王子大明神)
例祭に笹囃し・太刀振りが奉納される
古墳や遺跡が多い。国道沿いの宮津市境の丘陵端に城ケ腰1〜3号墳
ニイザの丘陵端に和江1〜3号墳(和江古墳)
和江1号墳からは勾玉・管玉・切子玉・棗玉・臼玉・小玉・土製丸玉類・金環・刀身・刀子・鉄鏃・須恵器が出土、2号墳(荒神様と通称される)から金環・玻璃玉・須恵器片が出土している。(東京国立博物館所蔵)
大足谷(おおあしだに)1〜2号墳(直刀・金環・須恵器・土師器)
和江谷1〜2号墳
小字堂の奥には国分寺跡と伝える所もあり、隣接して小字国分寺(こくぶんじ)の地名も残る。寺院は天暦10年火災で焼失したと伝える。国分寺跡には5.5メートル四方に礎石があり、平安時代のものと考えられる布目瓦が出土
西島(にしじま)南側の川底から、縄文式土器・弥生式土器・土師器・須恵器・太形蛤刃石斧・磨製鉄剣形石剣(3)・人骨・獣骨が出土した、和江遺跡とよばれる。



《交通》

《産業》


和江村の主な歴史記録


《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》
一 □□郷 四十八町九段二百九十二歩内
  □□□四十五歩  和江村 岸九良左衛門
  廿五町三段百廿一歩     建福寺
  十八町八段八段五十九歩   本光院
   二町七段六十七歩     不足可有紀明之

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
和江村
仏国山国分寺の跡あり(国分寺が存在したかどうか規模が小さいので史蹟上において疑問がある)今の菩提寺仏国山仏心寺は桂林寺末寺禅宗なり、八王子大明神社あり。

《丹後国加佐郡旧語集》
定免七ツ六分
和江村 高弐百弐拾石八斗六升
    内六石七斗三合六勺 万定引
    弐拾石御用捨高
八王寺明神 未社祇園 稲荷 氏神
仏心寺 神護山 桂林寺末
山枡太夫屋敷跡
 山際也 又和江村ノ前ニ小嶋川中ニ有昔ハ橋ヲ掛太夫カ園ナリト云 摺糠ヲ捨シスクモ塚有 山枡太夫竹鋸ニテ挽シトテ谷間ニ塚有リ
国分寺 仏国山
 今ハ寺ナシ 和江村ヨリ戌亥ノ方谷二寺跡礎有昆沙門堂有津塩丸隠セシ寺也
寺嶋 古城
 細川家有吉四郎左衛門在城之跡也 和江村ノ前川中ニ有リ渡揚ノ下北ノ方也 先御代堀崩サレシニ岩山ニテ難堀小笹生タリ下ノ方平地ニテ小竹薮幅二十間半長四五十間モ有へシ水東西ニ流満水ノ時此鴫ニ水滞引事遅シ  先御代嶋ノ中通ヲ幅五六尺堀抜被仰付洪水ノ度々ニ土カケ流レ不残トシテ川幅広クナリ満水二水引ヤスクタゝへ少シ雉子力床卜云 山枡太夫矢場トモ云以前雉子多ク居タリシ故キゝスカ床卜云ト

《丹哥府志》
◎和江村(石浦村の次)
【八王子大明神】
【護国山国分寺】
三才図会云。国分寺の本尊薬師如来は行基菩薩の作なりとぞ、今廃寺となる。丹後旧記云。三才図会に国分寺は由良にありといふは誤りなり、護国山国分寺は与謝郡国分村にあり、則ち聖武帝の御宇に建立する處なり、今由良の南和江村に国分寺の寺跡あり仏国山と號す、一国一寺の国分寺に非ず、和銅六年丹波五郡を割て丹後の国を置く、是時宮を造りて元明帝を祭り郡立大明神と称す、又供養の為に一ケ寺を建立す蓋仏国山国分寺は其寺なりといふ。
【三荘太夫屋敷跡】(和江村の北、石浦村の南)
田辺府志云。三庄太夫は元丹波氷上郡の人なり、丹後加佐郡由良の郷に来り三庄(由良の庄、神崎の庄、大川の庄)を押領して自ら三庄太夫と称す。永保元年(一本天暦又正暦に作る)奥州岩城判官正氏(三才図会に南部勝の子孫)幽せられて筑紫に謫せらる、其子二人あり、姉を安寿姫といふ年十六歳、弟を津志王丸といふ年十三歳、一日母に謂て曰く、人皆父あるに我獨り父なきは何ぞやと問ふ、母之に告るに実を以てす.於是其二子母と同じく父を慕ふて筑紫に至らんと越後直江浦に至る、爰に山岡太夫といふもの毎に人を拐かして携へ帰り売るを以て業とす、所謂人買なるものなり。不幸にして之に逢岐橋に邂逅す、遂に之が為に子母共に買はれける、母と婢女は佐渡に渡り二子は丹後に来る、於是三庄太夫共二子を買ふて奴婢となす。抑三庄太夫の人となり刻薄にして恩少し、所謂忍人(国語の註に不仁に安ずるは忍といふ)なり、其二子を使ふ土芥の如くにす、固より負載芻牧其任に堪へず、よつて弟津志王丸をして遁れしむ。先是二子の走らんことを恐れて鉄を灼き額に印す、是時地蔵菩薩出現して其身に代る、是を身代の地蔵と称す、今鹿原山金剛院に在り。
津志王丸既に遁れて国分寺に匿る、国分寺の住僧津志王丸を古き紙籠の内に入れ梁の上に掛く、果して三庄太夫之を逐ひ来りて寺内を探し求て遂に紙籠に及ぶ、是時梯折れて腰を折る、よつて果さず遂に家に帰りて安寿姫を責め殺す。於是永保二年正月十六日国分寺の住僧津志王丸を携へ都に上る、朱雀の権現堂に至りて津志王丸と別る、津志王丸是より又大阪の天王寺に往く、天王寺の阿闍梨其人となりを憐みて善く之を侍す、是時に當りて洛西梅津の人清水観昔に祈りて嗣子を求む、一夜観音の夢想あり依て阿闍梨の下に来り津志王丸を請ふて養子とす、於是其系譜及父正氏の讒に逢ふて筑紫に謫せられし次第又細に子女の状を語る、是事自然官に聞ゆ依て正氏赦されて本領に帰る事を得たり、又津志主丸に丹後、越後・佐渡三国の地に於て若干の地を賜ふ、於是津志王丸は丹後に来り国分寺を旅館となし懇に徳を謝し、遂に三庄太夫を誅戮し、又越後に至りて山岡太夫を刑に行ふ、既にして佐渡に渡り盲母(涕泣して明を失ふといふ)に尋ね逢ふて後に姉安寿の霊を奥州岩城の山に祀る。三才図会云。岩城山権現は津軽弘前の南にあり、社領四百石、山の麓に沢寺といふ真言宗の寺あり其別当なり、寺の傍より山に登る凡三里、一歳の内八朔より重陽に至る僅に卅九日登ることを許す、其人必七日の潔斎を行ふ、固より女人結界の處なり、俗に津志王丸・姉安寿姫を祀るといふ、於今丹後の人登山することを許さずといふ。東遊記云。奥州津軽の外ケ浜にありし頃、所の役人より丹後の人は居らずやと頻りに吟味せしことあり、如何なる故ぞと尋ねるに、津軽の岩城山の神甚だ丹後の人を忌み嫌ふなり、若し丹後の人忍びて此地に入る時は、天気俄に損じて風雨打続き船の出入なく津軽領の難儀となりぬ、依て役人より巌敷吟味して若し入込居たる時は急に送り出すことなり、丹後の人津軽領の界を出れば天気忽ち晴て風静かになりぬ、元より土俗の言ひならはして忌嫌ふのみならず役人よりも毎度改むることなり、青森、三馬屋ヨリ外ケ浜通の湊に最甚敷丹後の人を忌み嫌ふなり、餘りあやしき事なれば、如何なる訳のありて斯く岩城の神丹後の人を忌嫌ふやと委敷辱ね問ふに、岩城権現は安寿姫を祭るなり、安寿姫は当国岩城判官の女なり、夙に丹後にさまよひて三庄太夫といふ者に手込めらる、依て今に至り其国の者といへば岩城の神荒れ給ふて風雨を起すとなり、外ケ浜通り九十里餘、皆多くは漁猟又は舟の通行を以て世渡る處なれば常に順風を希ふ、然るに天気に障りあれば一国挙て丹後の人を嫌ふことに至る、此説隣境にも及びて松前南部などにても湊々は皆丹後の人を送り出しぬ、かくばかり人の恨みは深きものにや云々。
 愚按ずるに、三庄太夫の事古書に見へずされども丹後又奥州の口碑に慥に傳はる、如何なる訳にや。今茲辛丑の夏余浅茂川に宿す、是夜物語の序に三庄太夫の事に及ぶ、其村の人但馬の産と称して大阪の舟にのり岩城に至る、是時風雨打続き卅日餘も其處に泊す、始め丹後駆とて丹後の人の吟味なれども敢て実を以てせず、矢張但馬の人と称す、其滞留の間外に用事もなければ度々遊里に通ひて大に金を遣ひ果し終には仕方のなきに至る、将に出奔せんと覚悟を極むれども路費の手当もなし実に窮る、於是初て丹後の人と称して丁寧に罪を謝しければ、是時の泊舟凡四、五十艘各金子を出し其路費を拵へて岩城の領を送り出す、前夜進退の窮るに比すれば有難き事にて実に安寿姫の加護なりとぞ思ふ、されども三庄太夫の子孫今通行するとて道々見物の夥敷には恐れたりと語る、一座是が為に胡蘆大笑す。
【別の清水】
津志王丸別に臨みて安寿姫に水杯をなせし處といひて今に清水あり、又此處に別の辻といふ處あり。
【雉子島】(大雲川)
 【付録】(毘沙門、秋葉、稲荷)

《加佐郡誌》
丸八江村。凡海郷由良庄に属していたもので此の村名は丸田、八田、和江の三ケ字の文字を抽取って作ったものである。今は八戸地を加へて四ケ字から成っている。),160(本村には麿田、四囲が鼻、門戸、祭田、斎宮、二位座、御座脇、朝宮といふやうな由緒のあると思はれる大小字名を有し丸田、門戸、和江には数多の古墳があって上代の土器が発掘せられる。今後の研究によって仝村の歴史上に於ける地位が明らかになるであらう。


和江はもと何れの字に属していたか明かでない。或は八田から分離したものであると云ふ。和江の名は後光明天皇慶安年間(将軍徳川家光)からあらはれている。茲に国分寺の址と称へる所があるが廃頽して当時の状を僅に想ふばかりで、村上天皇天暦十年九月祝融の災に罹って、鳥有に帰したのであると伝へられている。三庄太夫の伝説中に白河天皇永保の頃津塩丸が避難所であると見えたのは此処である。けれども之き火災後百二十年余りを経過している。故に当時はなほ幾分昔日の面影があったものと見なければならないか。抑も国分寺は聖武天皇の勅願であって、諸国  た寺院である。記録によると天平十三年から八ケ年の年月を閲して造立を畢ったもので全数六十六箇ある。六部又は六十六部と称へる修業者は是等の国分寺を巡拝して各一部の法華経を納めた  云ふ。旧記に丹後の国分寺は(金経明寺)与謝郡府中村字国分に建築せられたものであるのに見れば和江の所謂国分寺は国分尼寺(法華寺)であらうか。或は往時焼失等の場合には他の定額寺等を以て国分寺代とせられた実例もある事だからそれ等の後身でもあらふか、今俄かに之を断ずる資料はない。

『和江の歴史』(昭47)
丹後の国府は、現在の宮津市府中におかれ、国分に国分寺が置かれた。
 和江に国分寺が置かれていたと古くから云伝えられている。国分寺跡と称する所に毘沙門堂が現存し、小字地名に、本堂、老僧谷、仏谷又国分谿等があり、国分尼寺があったのであろうか。村上天皇、天暦十年九月(西暦九五六年)祝融の災に烏有に帰したと伝えられる。然し乍らその礎石が発見されないので考古学的に存在の有無が立証されをいのは残念である。小字本堂付近から、古代の布目瓦、屋敷礫石及土器等が発見されるので、相当の寺院かあったものと思考され、今後の考古学者の立証を俟つ。

三由良の庄と三荘大夫の伝説
…伝説が江戸初期に物語としてつくられ、大正初期、森鴎外の小説「山椒大夫」で全国に知られている。この物語が由良の荘の中心に描かれ、特にこゝに和江に関係する部分を記す。

三荘大夫(山椒大夫)の伝説

 村上天皇天暦年間(西暦九五○年頃)無実の罪で筑紫に流された奥州の役人、岩城判官将氏を尋ねる途中の安寿姫と津志王丸は、由良の庄、岡田の庄、河守の庄の代官、三荘大夫に売られ、毎日安寿姫は由良の浜へ汐汲に、津志王丸は由良ヶ岳に薪刈の酷使と虐待に堪えかねて、或日姉弟はひそかに、石浦の三荘大夫の屋敷を逃れ、和江のかくれ谷に身をひそめた。姉弟は身のふり方を相談し、悪虐非道を三荘大夫のこととて逃げおゝせるともわからず、かくれ谷のギボシの葉で水盃を交したと伝えられ、今も盃ぎぽしと名付けられている。夜となり、闇にまみれて和江の国分寺に逃れた。安寿姫は和尚にむかって「私は女の身、弟は大切な望ある身ゆえ、何卒弟津志王丸を今暫くかくまって下さいと。」くれぐれも頼み和尚は津志王の身を守ることを請合った。一方三荘大夫家来の探索きびしく、津志王丸の身の保全に和尚はじめ村人人は苦心をした。国分寺諸堂の調べには、多くの家来が諸処くまをく探し、天井その他の目の届かぬ所は、槍をもって突き調べたが津志王丸の姿はなく止むなく引き揚げた。津志王丸は和尚の命により、経櫃の中にひそみ、和尚はその上を大般若経を散乱、覆うて危機を脱したとか、やがて津志王丸は和尚の小僧に身を変じ、村人佐藤八右ヱ門を従者として、京にのぼり、関白師実の子とをり、父の無実の罪をはらし、その孝心を賞でられて旧領と併せ丹後の国の国司に任ぜられ善政をしいた。 とくに人身売買をきつく禁じたと。
 姉安寿姫は寿志王丸と別れたのち、対岸に逃れたが、中山から下東に越す峠に至り、寒さと飢のため悲運の最後を閉じたと云う。下東の人、安寿姫の遺骸を下東佐織谷にねんごろに葬ったと、今もその峠をかつえ坂と呼び又安寿塚が供養されている。
 尚、津志王丸出世の後、津志王丸にいろいろとつくしたゝ佐藤八右ヱ門他六人の村人に御恩賞御墨付を下されたろは六軒と、佐藤氏、石間氏、山上氏、甲盛氏、加藤氏 大嶋氏なり、又その他三荘大夫にまつわる云い伝えあるも確たる証拠かあるべきもなく省略する。尚、又和江の国分寺が天暦年間に焼絶したと云い伝えられるも奇しきかな。



渡船の廃止
 和江渡船は宮津街道の重要路線として古くから営まれていたか、その頃から常勤の人かこれに当っていた。而し他産業の発達でこの種労多く、収入少ない仕事は敬遠され、大正十三年頃中止してから、和江としては旧中山校への通学路でもあり、又東雲駅への要路でもあり、中止の儘では不便なので、八雲村営の形で和江の特定の人に常駐でお世話になっていたが、これまた中止となり、最後の手段として村中一日輪番交替制となった。戦争中は長谷の地蔵尊への願参りの客で割合収入もあったか、その後、八雲橋の架設もあり、昭和十八年頃から遂に廃止となって渡船は昔物語となった。


瀬戸島開鑿記念碑(国道ぶちに建てられている。この先に瀬戸島があった)
(意訳)
瀬戸島開金+産紀功碑

由良川は山陰の巨川、五郡の流れが合し、山は峻にして谷狭く、氾濫して患をなす。
平野吉左衛門氏(北有路の人)かねてより之を憂い開修を唱えて尽力す 大正元年大森知事審案(よく考え調べ)計画し工事を起す。而して瀬戸島の開金+産(取除いて平にする)は実に大工事である 川の中央に島が有り屹然とそびえ立ち、これが支柱となり流勢を塞ぎ、一処に充あふれ被害少なからず 若しこの島を除かざれば工事に成らず。島の長さ五十余間 高さ十余間岩石を以って成る。
工事既に起り、官民協力し 匠工よく励み 大正二年一月に工事を始め十月二十五日に竣工す。取除いた石は八、二七八坪、工夫二四、四九八人 経費二一、二○○円。巨巌既に取除き、水路か開通し永く氾溢から免れるや こゝにおいて加佐郡沿川十二町村の有志者碑を立てその功を紀さんと予に文を請う 此の島天険 細川幽斉領主となり、島の西部を穿ち水勢を殺す。而して今一挙に全島を取除き以って平流となす。これ実に輝く御代の賜である。当然のことゝして 沿川の住民はこの功を後世に伝えんとす。和江の水位計
予乏しきを承知で郡長として此の挙に大いに賛成して概らましを記す云

ここが和江で海岸まで5キロばかりである。国道178号線に水位計がある。一番上が台風13号(昭28.8.28)で5.9mとある。下は伊勢湾台風(昭34.9.27)で4.8mとある。先の23号台風では、下の国道の路面を少し超えたくらいだったという。

《舞鶴の民話1》
まほうの水   (和江)
 中山から八雲橋をわたる。昨日の雨で由良川の流れもゆうゆうとしている。魚たちも群をなして泳いでいるのがみえる。
 私はただ一人橋にたたずみ両方の山々が紅葉しているのを眺め、一句でもできそうだがとひねってみるが、伝説あつめのことが頭にきて、ごろがあわぬ。橋を渡って川添いに北に歩を進める。しばらく行き、左に道がある和江である。道の横の川にそって上る。
 目の前には紅葉した山、木々が私を迎えてくれる。中秋の美しい景色だ。むかし源平のころ、皇室のご休所として紅葉御殿(今の仏心寺屋敷あと)がある、由緒のある土地柄である。このあたりには、古墳が数ケ所あり、掘り出された品は、京都の国立博物館に保存されている。
 仏教では、冥土には地獄、極楽があるそうだ。そのわかれめのところには、えん魔大王がいらっしゃる。机の上には部厚い大福帳があるそうで、現世の善悪がすべて記帳されているそうだ。
 和江の古老の話によると、大雲に「まほうの水」という湧き水があるそうだ。冥土にいき真正面にえん魔大王かいる。礼をして名前をいうと、「和江から来たか、大和から来たか。」と聞かれる。
「和江からまいりました」というと、「大雲の水を飲んできたか、いなか。」
「のんできませんでした。」というと、大王の顔はくもり、ふきげんになり、「そっちへいけ」と鉄の門を開く。血だらけの人が一杯いる。地獄の一丁目だ。
「飲んできました。」と答えると、満面えみをうかべて、「こっちへこい。」と門のない方へ案内される。何ともいえぬいい香、蓮の白い花咲く池がある。温和な顔の人達がいる。
  水を飲んでいないのに、「のんだ」とウソをつくと、大王は大きな虫メガネでじっとみている。顔が突然くもって、巨大なくぎ抜きを机の下から出して直ちに舌をぬきとるのだって。
 極楽では、この大雲の水があがってきて、極楽での病や、のどのかわきをいやすのに使用されているということです。
 現在和江のお宮さんの手洗いの所の水は、この大雲のまほうの水を引き入れているので、この水を飲めば病がなおり、この世、あの世で幸せがくると伝えられています。
 又、この和江の紅葉の美しさをほめたたえた歌が残っています。これは紅葉殿がなくなったあとの歌だそう。
   「わいら行こかよお寺のせどへ 紅いもみじの枝おりに」).( 国分寺跡(和江)
 大川神社から由良川を下ると八雲に出る。
由良川を右に見ながら更に下ると和江という村落がある。和江谷川に沿ってその村落に入ると、村はずれに昆沙堂があり、その前に樹木が生い茂った広大な土地がある。ここが、厨子王が三荘太夫から身をかくした国分寺跡だと村人はいう。
 厨子王は姉・安寿の助けをかりて三荘太夫の館から逃れ、かねて安寿に教えられていた仏国山・安国寺の曇猛律師によってかくまわれた。三荘太夫によって付けられた焼きごての傷も持念仏によっていえ、やがて律師に連れられて京の都へのぼり、清水寺で関白師実に見出される。
 不思議なえにしで、厨子王が持っていた小さな黄金の仏像から、府中へ移されるまでの国分寺はこの地にあったことが判明。この国分寺は奈良時代、勅使の宿となっていた。
 ここから更に由良川を下り、河口に近い上石浦の左手の小高い丘一帯が三荘太夫の館跡だといわれている。三荘太夫は大川、神崎、由良の三荘を領していたことから、三荘太夫と称した。

《舞鶴の民話4》
桐実の栽培 (和江)
 由良川の左岸、八田村の下流に丸田村がある。集落は谷間にある丸田西と由良川の自然堤防上にあった丸田東とわかれる。丸田東は昔からの度重なる洪水をさけて大正の初めごろ近くの山脚部に移転した。丸田村の北方由良川左岸に位置しているのが和江村で、由良川と和江谷川との合流する扇状地に集落がある。古来宮津街道の渡船場で、対岸中山村との間は船で結ばれていた。地名は船渡りの安全な「なごえ」の意味からきているといわれている。
 地名のみえる早い例は丹後国田数帳で
  四十九町九段二百九十二歩内とある。
 建福寺は紅葉御殿と称され由良川河畔の寺島にあったと言われています。
 慶長検地郷村帳は高二一四・五八石「和江村」とみえ、江戸後期の土目録では二二○石余、延享三年(一七四六年)郡中高究付覚によると農家の戸数は五十二戸ある。
 江戸時代、村では櫨、楮皮、桐実を多く産した。櫨は慶長年間、細川忠興が山村振興の生業として栽培を奨励し、和江村ニイサに模範畑を設けたに始まるという。その後、京極、牧野二領主も、良種を他国から取りよせ、領民に下付した為各地に広まったという。
 桐実の栽培について忘れてならないのは、この村の森仁左衛門が、あちこちに修業にあるき、その結果を桐実の栽培を始めたといわれ、和江村の産物として村民の生計をうるおした。
 又和江村の旧西島南側の川底から縄文式土器、弥生式土器、土師器、須恵器、人骨、獣骨が出土し、和江遺跡とよばれる。そのほか城々腰古墳、和江古墳、小字大足谷にも古墳二基あり、古くからこの地あたりは開けていたことが知られ、また小字堂の奥には国分寺跡と伝えるところあり、寺院は天暦十年火災で焼出した。山淑太夫の物語にかかわる伝承があり屋敷跡もあったという。




和江の小字

《舞鶴市史》より
和江 荒神田 柳ノ下 ニイダ(二位座) コタバキ 宮ノ谷 家ノ下 下地 ノンザコ クドノ谷 堀ノ内 奥村 堂ノ奥 的場 平田 和田 高田 イクシ 和江ノ谷 竹ノ下 和江野 フケ 束廻 シタンダ 中土井 城ケ腰 塩入 芦原 西島 東島 横山 タキノソラ 西谷 平山 宮ガハナ 熊谷 スヘケ谷 城ケ谷 甚谷 前ケ嶽 後山 細迫 古棒 国分寺 向山 山吹 小足谷 大足谷 宮ノ下


関連項目






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50音順

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京都府船井郡京丹波町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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