丹後の地名

八雲村(やぐもむら)
(旧村)
舞鶴市水間・中山・下東・上東・三日市・和江・丸田・八田・八戸地


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京都府舞鶴市水間・中山・下東・上東・三日市・和江・丸田・八田・八戸地

京都府加佐郡加佐町水間・中山・下東・上東・三日市・和江・丸田・八田・八戸地




旧・八雲村の地誌

《旧・八雲村の概要》


八雲村は舞鶴市の北西部。由良川下流域に位置する。昭和3〜30年の加佐郡の自治体名で、左岸の丸八江(まるやえ)村と右岸の東雲(しののめ)村が合併して成立した。大字は合併各村の9大字を継承した(水間・中山・下東・上東・三日市・和江・丸田・八田・八戸地)。合併時の戸数458・人口2、438。
八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を、何か出雲に関係がありそうな地名だが、ここのは関係はない。村名の由来は、「新しい村名は丸八江村の「八」と東雲村の「雲」を取って八雲村と名づけられた」(『舞鶴市史』)。という。
現在は八雲小学校(現・由良川小)や八雲保育園、八雲病院、八雲大橋にその遺称を残している。
役場は下東に設置。昭和18年当村ほか5か村の組合青年学校が開校したが、同23年廃校となった。
昭和30年加佐町の一部となる。村制時の9大字は加佐町の大字に継承された。

《人口》《世帯数》

《主な社寺など》



《交通》
国道178号線
府道西神崎上東線
八雲橋



八雲橋は昭和31年架橋で、歩道もなく、確か10トン以上の車は通行制限されている。どうしても渡るという場合は空荷の状態にしているようである。
現在の橋は戦後のものだが、低国の時代はこうした由良川に架かる橋も軍施設の一面があった。洪水の度に流されてしまう板橋頼りの戦艦大和じゃ零戦じゃと誇る低国の大海軍であった。

《産業》


旧・八雲村の主な歴史記録

《舞鶴市史》
 〈 八雲村の誕生

 岡田下村の事情によって三村合併構想が崩れた丸八江村と東雲村は、続いて二村だけの合併問題と取り組んだ。
 両村は由良川を隔てて東西に相対する小村であるが、川の上流域は藤津橋(鎮守府西街道)、下流域は中山の渡しなどの渡船によって互いに連絡し、人びとの日常生活はきわめて密接で、ことに小学校は、明治六年、最寄りの村々(現大字)の組合立で発足したが、同二十二年、両村の成立に当たり、通学の便宜上からその通学区域を両村入りくませて、川上では八田(丸八江村)に、川下では中山(東雲村)にそれぞれ両村組合立校を経営したので、あたかも一村の感がもたれていた。このため、大正十四年には、校舎の老朽化と増改築の必要から起こった学校統合問題と関連して、両村合併が論議されるようになった。
 さらに、同十五年、両村では年々の公共施設の経費増による村財政の膨脹と村民負担の加重から合村の必要性が痛感されて、両村区長・議員の合同協議会をもって合併および小学校統合問題の研究を進めた結果、両村合併の意見が有力となり、同年九月一日、両村会は次の決議を行い、この具体的協議に入った(京都府市町村合併史)。…  〉 

八雲橋

『舞鶴市史』
 〈 加佐郡内の渡津場では藤津と地頭が栄えた。藤津と対岸を結んだ大川橋の出来たのは明治三十四年四月で、最初は舟を浮べ、その上に板を敷いた舟橋であった。橋がかかったのは、大正四年の「京都府誌」によれば、 「大川橋、板橋土造、一○二間、巾一九尺六、明治四十二年六月架設、大正三年五月、長二十間、継足右東雲村、左丸八江村、鎮守府酉街道」と記されているように当時は板橋になっている。現在のような長さ一八○メートルの鋼材橋が完成したのは昭和二十八年五月である。ここを通じる明石〜舞鶴間の国道一七五号線は、旧名を鎮守府西街道と呼ばれ、明治二十二年開通以来、阪鶴鉄道ができるまで表日本と裏日本を結ぶ動脈であった。またわが国最初の永久吊橋といわれる八雲橋(長さ一七二メートル、幅五メートル、高さ八メートル)は昭和三十一年四月に完成した。  〉 

『八雲のれきし』
 〈 八雲橋
昭和三年十月一日丸八江、東雲両村が合併した時、学校の統合と橋梁の架設を第一の条件として発足
した。
(略)

前述の経過によって最初の八雲橋は昭和九年七月十四日盛大な落成渡橋式が挙行された。以来、年々来襲する由良川洪水によって、一部流失と復旧架設を繰返した。その度に施行主体者の交替、工法や形式の変貌と歴史に富んだ橋である。
 昭和十九年十月八日由良川洪水最高水位七メートルに及び、岡田下橋の流失に伴い八雲橋も遂に流失してしまった。この時海軍当局においては、舞鶴海軍航空隊(栗田)との通路として大川橋だけでは不安であるとして、軍民兼ねた橋梁を緊急架設することを定め、八雲地区より優良材を伐出し、水間奈良ケ崎より和江谷川尻に至る新橋を海軍工作隊により緊急架設された。時に昭和二十年十月始めであった(戦後処理のため旧海軍は存続していた)。
 竣工式には旧海軍鎮守府 高塚参謀長を迎えて盛大に行われた。しかし、同月九日又も大洪水来襲、上流の木橋すべて流失し、これが次々下流の橋脚にかかったため遂に支え切れず流れてしまった。貴重な資材と工作隊の苦労が一瞬にして消え失せてしまった。十日間もない短命の橋であった。
 橋がなくては一日も過ごされない八雲地域としては、応急策として、昭和二十一年十一月九日丸田小字岩鼻より中山集落下に至る、川幅の一番広い緩流の地を選び通称「流れ橋」またの名を潜没橋が架設された。長さ一九二メートル、幅三メートル、これは万一橋が流れた場合、上部が二分されてワイヤーで繋ぎ止めてあるので、材料の流失を防ぎ復旧が簡単に行える構造となっている。
 昭和二十八年九月二十五日台風一三号の未曽有の大洪水の来襲によって、消防団員必死の流失防止活動も及ばず遂にその形跡もなく失われてしまった。
 地域としては、今後の方針として水害に絶対安全性の高い永久橋以外にないという結論に達し、根強い運動の結果、ようやく地元の悲願が達せられ、昭和三十一年三月、最初架設された位置である中山八幡神社の下に、京都府の手によって架設されたのが現在の橋である。今から四十年も前の話である。当時我が国では類例をみない最新の大アーチ型の永久橋として貫賛されていた(長さ一七二メートル、幅五メートル、工費四七五万円)。
 その雄姿は、八雲のシンボルであり、地元民の希望のかけ橋であった。以来、舞鶴、宮津間の交通、文化、経済流通をつなぐ重要な使命を果して現在に至っている。  〉 




関連項目






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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