丹後の地名

吉原(よしわら)
舞鶴市東吉原・西吉原


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京都府舞鶴市東吉原・西吉原

京都府加佐郡舞鶴町東吉原・西吉原

吉原の地誌




《吉原の概要》

舞鶴市の中央部。西舞鶴市街地の北、伊佐津川河口の北岸、漁港海岸に位置する漁業・水産加工の町である。たぶん京都府では最大の漁村である。京都府漁連が伊佐津川河口の対岸にあり、丹後の魚は多くがここに水揚げされる。
吉原:左手の山裾
 吉原はヨシハラとルビがふってある書もあるが、普通はヨシワラと呼んでいるようである。中には略して単にワラなどとふざけて呼ぶ人もあるくらいだからヨシワラが大勢と思われる。
京漁連の埠頭
 もともとから現在の地にあったのでなく、城下町田辺町北端の海辺、北浜に位置した漁師町で、古くは高野川尻、伊佐津川尻にあったという。町名はヨシ(葦)の生い茂る湿地帯であったことによるともいわれるが、京極氏時代の城下絵図では、魚屋・丹波・平野屋・竹屋の各町尻海辺に漁師町が書かれており、享保12年の丹後国田辺之図には「東吉原町五十四間家数不知、西吉原町東西六十八間幅浜まで八間家数不知、新裏町とも云」とあるそうである。海軍艦艇も貫禄負けしそうな最近の漁船
新裏→吉原。シウラに接頭語のヨが着いてヨシワラとなったのではなかろうか。峰山町も吉原と呼ばれていたところであるが、峰山町の吉原は峠の上にあって、葦が生い茂るような場所ではない。
当町漁民は慶長5年の田辺籠城戦の際に、水軍として功をたて、細川氏より「領土波打際三間漁猟勝手次第」の特権を与えられたと伝える。「滝洞歴世誌」には、延宝5年(1677)に田辺吉原町で火災が起こり、家数130軒余が焼失したとあり、また享保12年(1727)の火災により、城下が大部分焼失した際、藩の命令により下安久村の地であった現在地に移住させられ、吉原町がつくられたという。土目録の下安久村の項に「九石四升六合七勺 此畝九反拾四歩 享保十三戊甲年より吉原町ニ成」とある。この移転の際に、もと東吉原とは魚屋・丹波両町の町尻(高野川尻)を指したと考えられるが、下安久村に移転後は、実際の地理とは東西が逆に並び、西側に旧東組が、東側に旧西組が位置することになったようである。

江戸期〜明治2年の町名。田辺城下の1町。明治2年舞鶴町東吉原町・西吉原町となる。

《人口》994《世帯数》413

《主な社寺など》
享保年間から始まったという万燈籠(まんどろ)が毎年8月16日、伊佐津川河口で行われる。
江戸期から続く氏神朝代神社の例祭日は田辺籠城で功のあった吉原漁民だけに許された武道の型という吉原太刀振(市無形文化財)が神輿巡行の先頭に立つ。神輿巡行の2番目に当地の船屋台が供奉した。
江戸末期から城下町で流行したヨイコラセ(吉原音頭)という盆踊りが伝わる。
氏神は水無月神社。
この北方海中に網干場があったが、これは野田笛浦によって舞鶴湾内九景ケ浦の一に選ばれ、「吉原の曝網」として知られた。
天竜稲荷神社。
吉原小学校。

《交通》
水無月橋より
海や川のほか、
府道余部下舞鶴港線



《私の地名考》
(よし)が生えていたから吉原なのではなかろうと考える。吉原は、別に吉原だけではなが、地名はずいぶんと古いものが残されていることがあり、もっともっと考え、大切にしなければならない文化財と思われる。吉原も西舞鶴という地の成り立ちを記録した貴重な地名と考える。
新裏町とも呼ばれたと記録に残る。西に吉田、東に上安の吉井。これらのシであり、四所(ししょ)浦のシである。南へ行けば真倉(まぐら)のこれもシンクラと思われるし、七日市は古名は吉田と言われる。伊佐津に笠水神社に九重明神、これらに残るサやシであろう。だからかなり広く古くは全体的にサとかシとか呼ばれた地だったと思われる。何の意味かといえばクシフルのシ、金沢庄三郎の言う「新羅の民族名ソ」、ソフルのソと思われるのである。

吉原の主な歴史記録

《舞鶴市史》
 〈 吉原は伊佐津川尻右岸に立地し、先に述べたように専業漁民集落として数々の実績を上げて来ている。しかし、ここに至るまでには決して平坦な道のりではなかった。明治四十二年には民家一○一戸、附属建物、船小屋など合わせて二○○余棟を焼失する大火にあい、また舞鶴湾内漁場も軍港設置で厳しい制約を受け、同湾外でも他の漁村との関係もあって、一時は同地区の漁業は極端に疲弊した。このため延縄漁法や、イワシ巾着網を改良して沖合への進出に活路を見出した。大正期には丹後海域に進出した機船底曳網漁法に刺激され、同八年に二○トン、二五馬力の漁船を建造して同漁法を採用し、これで吉原の漁業は蘇生した。同十年には四二隻の底曳漁船を利用するようになったが、これは当時府下の半数以上に当たり、府下最大の水揚げ漁港となった。
 同十四年の吉原漁業組合の組合員は二四○人、多種類の漁業を経営していたが、このころは、機船底曳網に代わって二艘手繰網、?漬(しいらづけ)、延縄が主体で、ほかに一本釣り、磯刺網、地曳網などで一○万円を越す漁獲を揚げている。?漬漁法の免許は大正七年に京都府から得ている。
   京都府指令七勧第六九五一号
    京都府加佐郡舞鶴町字東吉原六百三十五番地
            代表者 吉原漁業組合

大正七年十月一日付特別漁業第八種漁業しいら漬ヲ免許シ特京第四七六号ヲ以テ本日免許漁業原簿ニ登録ス 但シ左記条
件ヲ遵守スヘシ
   大正七年十二月四日
          京都府知事 馬淵鋭太郎
  条件
一、漬ニハ長二尺幅二尺五寸ノ白布又ハ樹枝ヲ樹テ標識ト為スヘシ
ニ、漬二付スル碇綱ノ上部ニ於テ碇綱ノ代りニ節ヲ穿チ水ノ通スル装置ヲ為シタル長弐拾尺以上ノ竹ヲ用フヘシ
三、潰ハ正北ノ方向ニ於ケル直線上ニ漬ケ各漬ノ間隔ヲ弐海里トナスヘシ
四、七月ヨリ十月ニ至ル期間漁場附近二ニテ艦砲射撃施行ノ際ハ危険ナルヲ以テ休業スヘシ
五、艦砲射撃ノ砲弾及艦船ノ行動ノ為漬ヲ破損スルコトアルモ賠償ヲ請求スヘカラス
               (京都府漁業の歴史)
 昭和期に入っては、機船底曳網に代わってサバ巾着網とイワシ巾着網が栄え、同地区の代表的な漁業となった。漁港域の整備は舞鶴港の改修と共に続けられ、特に昭和十二年から十五年にかけて船溜設備、燃油槽、共同曳船、水産倉庫等が建造され、京都府下最大の漁港となった。また魚類の販売昭和九年までは吉原水産株式会社と丹後水産株式会社が取り扱った。この外に地区の婦人による汽車行商が盛んに行われ、現在も魚類に代わり水産加工物が手広く続けられている。  〉 

《市史編纂だより》(48.5)
 〈 〔資料紹介〕

《老人、子供は山へ避難
     吉原の大火略記》
明治42年5月31日白昼、吉原地区て大火事があり、101軒が全焼したことは、記録にも残こり、いまなお同地区の人々の間に語り継がれているが、このほど当時の模様をくわしく書き記したものが発見された。市内東吉原の字有文書として保存されている「永代記録帳」に掲載されているもので、当時の悲惨な状況が詳細にしたためてある。以下はその全文である.(原文のまま)

明治四拾弐年五月参拾壱日午後参時弐拾分ノ頃字東吉原湯屋業高田弥太郎湯屋使用ノ煙突ヨリ火ノ粉噴出デ 稲荷山山本六左衛門居宅の屋根へ落チント見へ(当時草葺)煙ノ出ズルヲ見テ?火事ヨト呼ワル者有之 早速居合セシ人々気付消防ニ尽力セリ 其時ハ風モナク消止メル?ヒシ処 折悪シク北風烈敷吹出タシ 夫卜同憐ナル山本岩吉及ビ藤田善四郎弐戸の草葺類見ル見ル内火ノ手ヲ揚ゲ 最早容易ニ消?ム込無之直グ表側下組表組ハ壱戸モ残ラズ中通?田志もノ家ヲ半焼シ 上ミヘ中組全部 只残?ハ山側ノミ上組トノ小路ニテ消留タリ 夫レ時二川原船小屋へ飛火シ 上組ヨリ下組ノ持?ヘ壱戸モ残ラバ焼失セリ 川原上ヨリ上組浜手ノ船屋へ飛ビ 佐藤太郎吉 千歳松之助ヲ全焼 夫ヨリ下へ鳥井市右術門迄半焼シ 戸数百○遥戸ヲ附属建物船小屋ヲ合シ弐百余戸類失スルニ至り 午後五時頃鎮火セリ
 此火事ハ当舞鶴ニテモ往古未曾有于ノ大火ニテ昼トハ云へ北風ノ烈敷シキ為 老人及び小供ハ山へ駈登リ 家財器其ハ他人ノ尽力ニテ親類及ビ道路へ特出シ 裏側ハ多ク船ニ積込ム 然リ共道路モ狭夕 水戸モ川原ノ船屋ノ焼ケルト同時二二持出セシ家財モ大半焼失スルニ至り其惨状ハ実二筆紙二書尽シ難ク 消防ニハ警察ヲ始メ重砲兵大隊 各村落ヨリハ 筒(ポンプ)ヲ運ビ充分ノ尽力セリ 一方町役場ヨリハ吉原学校ヲ出張所トシ焚出シ其他二尽力シ  親戚知人ヨリハ夫々寄贈品ヲ受ケ 罹災者ハ一時親類へ 同居スルモノモアリ 大部分ハ川原ノ畑地ヲ借受ケ小屋四棟ヲ建築セラレ(但シ間口四間奥行拾間)夫々壱人二薄縁級壱枚ノ割合ヲ以テ雨露をシノギン次第ナリ
 時ノ総代渡辺嘉吉氏 副総代鍵本仁三吉氏ナリ 其時五ケ年ノ節約フ決議シ追旧五月二至リ役員改撰ノ結果 総代山田仙太郎氏 副総代中川権蔵氏トナリ 続イテ道路ノ改築アリ 町長ノ意見トシテ表側道路最モ広キ所壱間八分アリ是レを平均壱間八分卜両側ニ弐歩ノ溝ヲ新設シ溝ニハ五七ノ長石ヲ用ヒ 溝底ハ コンクリニ上セメンモルターヲ塗リ 溝蓋ハ厚サ壱一寸ノ板ヲ張り 尚焼跡新築スルニ付テハ一定ノ地盤ヲ定メ 溝縁石ヨリ弐尺フ除キ土台フ据ル。事又裏側ニテモ道路幅ハ壱間他ハ表二同ジ 尚上組及ビ下組ノ小路狭キヲ感ジ取広ゲシ事ヲ役員デ協議シ 同意ヲ得テ町長二願ヒ 時ノ町長木戸貞一氏ナリ 許可ヲ得テ種々尽力下サレシ上 町費五百五拾円ヲ町会ニテ支出スル事ヲ決議セラレ 字ヨリモ弐百五拾円ノ寄附フ以テ中組地内ノ林?吉 桝田源次郎 角田文吉 船本与吉所有地 鳥井三蔵の船曳場等フ川原地弐百坪ヲ町長ノ尽力ニテ壱坪二付 弐円参拾八銭五厘ノ割合ニテ賃入シ 夫へ交換又ハ下組丹生幸吉ノ地所ハ字へ買入レ夫へ交換サセ 従来三四尺位ノ小路ヲ弐間壱歩或ハ壱間六歩五厘二改築シ 大溝モ全部石垣二変更シ 工事成工拾弐月 実二其中ノ役員ノ苦心及ヒ町長 係員岸田益藏氏ニモ非常ノ尽力ヲセラレタリ 尚其当時寄贈品ノ分配詳細ハ別紙ト此帳簿二附着シアレバ御覧アリタシ  (以下当時の役員名が列記してあるが略す。)  〉 

『舞鶴の民話5』
 〈 吉原のがしん(吉原)
 加津良を通り和田にいく。海が荒れている。大波がうちよせる。自転車をかけて和田に。海風が吹き汗かいた顔面にさわやかにあたる。
 もうすぐ吉原だ。西湾が招く。峠をこえればすぐ吉原だ。古老が待っているだろうな。
 城下町田辺の漁民は細川幽斉が田辺城を築城して以来、竹屋町、魚屋町の川尻に漁業をしていたが、藤孝の田辺籠城の時、武士軍に劣らぬ働きをしたので、その功によって、波打際三間は漁が自由に認められる権利を受けた。
 江戸時代には、田辺藩の海子としての扱いを受け、田辺藩領だけでなく、与謝、竹野両郡の沿岸まで出漁していた。亨保十二年の火災により、城下が大部分焼失した。このとき、田辺藩の命令により、下安久の村の地であった現地に移住させられ、吉原町がつくられた。
 天保七年は全国的に天候悪く、米野菜はもちろん魚もとれず、飢饉であった。そのため食べるものがなく、死んでいく人が多かった。田辺もそれにもれなかった。十一月十七日にかんの入り、漁師たちは今までの不漁をとりかえさんといさんだ。施がゆばかりの毎日では力がでない。しかし、漁はせねばならぬ。おかしなことに、今日の海の色はいつもとちがう。沖の方から青色、みどり色の波が打ちよせてくる。時は十一月十七日である。一そうの船が沖へとこぎだす。波がつよくてなかなか進まぬ。海をみると、ぴかぴかと銀色に光る。よくみると大きないわしだ。銀色の波がつづく。いわしの大群だ。あみを海にいれ、あげると、いわしだ、いわしだ。大きなあみをあげる。一杯のいわしだ。船上にあげる。元気ないわしがあばれる。とる人、いれる人、船はまたたくあいだに、いわしで一杯だ。まだいるが、船にのらぬ。
 港にかえると、仲間が待っている。すぐに陸おろしをする。妻たち、こどもたちもやってきて、陸おろしに手助けする。再び一そう、二そう、三そうと次々に沖にでていく。あみをいれれば、いわし、いわしだ。ある船は、いわしを積んで東の湾の方にいく。いわしの大群はつづく。なんだか夢のようだ。ねだな(月が浦)につく。泉源寺の人たちが海水をくみにきている。「おーい、おーい」と叫ぶと、月が浦にいる人たちは手をふる。船をこぎ海辺にいく。「おーい、泉源寺の人よ。いわしだ、いわしだ」というと、海水をいれる器をもってかけてくる。次から次に、その器にいわしをいれる。「ありがとうございます」口々にうれしそうにいう。泉源寺の人たちも、飢饉に打ちしずんでいたのだ。神のよこしたいわし、いわし。笑顔の人たち。笑顔の人たち。吉原のがしんは、いわしのおかげでのりこえることができたという。 (参考 がしんとは飢饉のことである)  〉 




吉原の小字



関連項目




【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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