丹後の地名

行永(ゆきなが)
舞鶴市行永


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京都府舞鶴市行永

京都府加佐郡倉梯村行永

行永の地誌




《行永の概要》

行永は舞鶴市南東部。東舞鶴市街地南部の与保呂川流域の平坦地で急速に人口がふえたところになる。
行永・行永東町・七条中町・倉梯町・倉梯中町・金屋町・北浜町・南浜町・八反田北町・八反田南町などになる。

《人口》14852《世帯数》6180(これは森と合わせた数字)


《主な社寺など》
浄土真宗本願寺派向金山西法寺
念法真教舞鶴念法寺
臨済宗東福寺派降竜山大雲寺
『舞I市民新聞』(96.11.1〜)

 〈 *松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈473〉*村の中の寺*「大雲寺」その1*
*天文6年(一五三七)に和田垣に建てられた古寺*怡雲庵(いうんあん)を読みかえ現在の寺号に*
 舞確市のなかにあるすべての寺を、宗教法人の一覧表でみると、百十四の寺・堂を数えることができます。
 これらのなかで、指定文化財の保有寺は限られ、また、地誌などに名があげられる寺も一部にすぎません。
 それは、舞鶴が海軍によって一世紀前にひらかれた港であり、この新興地の寺として開かれたり、転入した寺も多いからです。
 しかし、その中には、地域の寺として、江戸時代以前の古い伝承をもちながら、紹介されることのなかった寺でらもあります。
 そのような寺を、地域の歴史を掘り起こす視点から見直そうという気運が、最近盛りあがってきています。
 このシリーズでも”村の中の寺”として特集してみたいと思います。
 南舞鶴の倉梯小学校東隣に位置する「大雲寺」は、旧行永村と森村にひろく檀家をもつ「村の中の寺」として、数百年を生きつづけてきた寺です。
 「降竜山」の山号をもつ禅宗臨済東福寺派の寺ですが、その由緒について語る文献はのこされていません。
 言い伝えでは、かつて、森の愛宕山付近にあった古寺で、今でも壇家のあいだでは「ゆうなんさん」と親しまれています。
 この「ゆうなん」は、古寺名「恰雲庵(いうんあん)」がなまったものとみられます。
 大正時代に書かれた『加佐郡誌』には「降龍山怡雲庵臨済宗文化十二年現堂宇建立 倉椅村」と記されていますが、その後、京都の東福寺から刊行された『東福寺誌』に、この恰雲庵の名があることがわかりました。
 「弘治三年七月桂林丹後怡雲庵を創む」の東福寺誌の文は、さらに『棘林志』には「七月 梅古桂林丹後国加佐郡に恰雲庵を創む」とあり、京都東福寺の一坊で「白雲慧暁」の開いた「栗棘庵」の記録に書かれていることで、恰雲庵の関山が、歴史的事実であることがあきらかになりました。
 この「いうんあん」が、その漢字の読みから「たいうん」と読みかえられ、現在の寺号「大雲寺」が生まれたものとみられます。
 寺過去帳には、寺伝としてその発祥について「関山桂林大和尚弘治三年七月二日円ス」、また「怡雲庵和田垣に建つ 天文六年丁酉」と記しています。
 和田垣の地名は、森の集落の上(かみ)が行永地域と混住する場所で、西にいくつかの円墳をもつ愛宕山、南には、すでに発掘されて六世紀末の横穴式古墳が知られる妙見山にかこまれた地で、現在の倉椅第二小学校の所在知と重なります。
 恰雲庵の旧地は、この倉梯第二小学校の南に接するあたりであったといい、現在もこの妙見山から移された墓地や、愛宕山南面の墓地は、大雲寺構えとなっています。
 江戸時代の行永村の寺といえば「龍勝寺」で、森村の寺といえば「長雲寺」となっています。
 この大雲寺の位置づけは、これらの寺とは別に江戸時代の寺以前にさかのぼる恰雲庵時代にあるとみられます。
 怡雲庵の建てられた天文六年(一五三七)は、室町幕府の力が衰え、諸国の荘園を拠点とした勢力が台頭して、実力で土地争いをはじめた群雄割拠の時代に入っていました。
 この地方では、若狭武田氏、丹後一色氏を中心として、朝倉氏や周辺の勢力に影響をうけた諸将たちが組み合わせを変えながら、競りあいをくり返していた時代です。
 その頃舞鶴の山やま峰みねには、百六十七もの城や砦が築かれていたことがわかっていますが、その中でも、この南舞鶴をめぐる山やまに多かったといわれます。
 倉梯山の戦いで二千もの死者がでて弔われたことは、東寺過去帳によって知られていますが、そののちにくる時代に、禅宗臨済東福寺の禅庵がつくられたことは、池の辺に根拠地があったとされる武将「池辺重房」などの動きとかかわるものかもしれません。
 怡雲庵の旧地が、森とも行永ともいえる南郊に位置することや、その付近が「丸山」の地名をのこす古くからの古墳地帯の一角であること、また、宮津にあった国分寺の『建武再興記』にその寺名がのこる「池のべの寺」の旧地に近いことも注目されます。
 日本の仏教が、禅宗の導入によって大きく変化した時代の先端にあったのが京都の東福寺であり、その塔頭(たっちゅう)であった「栗棘庵」から送り出された僧侶たちが、この地方に臨済宗を根づかせました。
 十四世紀の栗棘庵主谷翁道空のひらいた大波青蓮寺、その弟子の曇翁源仙の田井海臨寺などがそれで、その後、東市域を中心に二十二力寺を数える東福寺派の寺でらがひらかれていくこととなりました。
 その中で、戦国動乱期の数少ない開基の寺がこの「大雲寺」です。  〉 



 〈 *松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈474〉*村の中の寺*「大雲寺」その2*江戸時代過去帳*
*市内では数少ない江戸時代全期の過去帳*はやり病で幼児8人が死亡した事態も伝える*
 舞鶴に多い東福寺派の寺のなかで、戦国動乱期にかかわりをもつとみられる寺は、行永の大雲寺のほかに常の福寿寺、京田の善福寺などがあります。
 南禅寺派や妙心寺派など、寺派の異なる禅宗臨済寺院で近世初頭にひらかれたり寺名ふ変えたものに泉源寺の竜興院などがあり、禅宗曹洞宗寺院では吉田の瑠璃寺、今田の常徳寺などがありますが、これらも戦国動乱とそのあとの時代にかかわる寺だと思われます。
 福寿寺は、中世動乱最大の戦いとして記憶される十五世紀の倉梯山城をめぐる若狭・丹後勢の攻防にかかわった真言宗の古寺が、のちに禅宗寺院となったらしい寺伝をのこしています。
 善福寺は、古い時代の薬師信仰の聖跡が、近世初頭に東福寺派の伝播とともに寺院化したものとみられ、現在もこの善福寺の青木住職が京都本山東福寺の宗務総長を兼務しておられます。
 竜興院は、泉源寺を中心にくりひろげられた天文二十三年(一五五四)の戦いにかかわったか、京極氏のキリシタン政策によって生まれた寺ともみられます。
 妙心寺派の東山寺、大泉寺は、細川氏と京極氏の治政にかかわってひらかれた寺で、瑠璃寺も細川幽斎と、流されて当地にきた公卿中院連勝とのかかわりなしには考えられない寺で、常徳寺は、丹波を追われてこの地に入った波多野氏とかかわるものとみられます。
 細川幽斎の寺社政策のなかに「真言倒し」があったとされますが、その時期に、天台宗や真言宗の古い寺基をもつ寺でらが、禅宗寺瞳化していったのも事実のようです。
 このような動乱期、あるいは動乱後にひらかれた寺院は、当時活躍した国人や土豪とよばれる武装勢力のなかにあった人びとの名を、開創者や外護者としてのこすことになります。
 浜の禅院得月寺の西石見守、常徳寺の波多野氏の例を大雲寺にあてると、誰になるのか興味のもたれるところですが、これらの寺でらが、幕藩態勢のなかで整えられていった「寺檀制度」によって、村の中の寺として、村の組織づくりに重要な役割を果たしたのも事実のようです。
 そのようなようすを読みとることができるのは、寺にのこる文献のほかに、境内や墓地にのこされる石造物です。

 大雲寺は、のこされる文献がほとんどないなかで、江戸時代全期にわたる『季分過去帳』が伝えられていることが注目されます。
 寺が檀家の名をもつ一般庶民によって支えられることとなり、また、庶民は寺に属することによって身分が保障されるという「寺檀家制度」が『現在帳(檀家名簿)』や『過去帳(死亡者名簿)』を生み出したとされます。
 このなかで、法要行事をするために過去帳は、永年保存の帳簿として伝えられることになりましたが、この過去帳の記載が、ときに先祖の栄光を伝える半面、今日にあっては、人権上由々しき問題をはらんだり、寺への寄進の必要な時期に内容を変更することもあったりして、江戸時代の過去帳が今日まで伝えられる例は数少ないものです。
 現在、私の知る範囲では、江戸時代全期の過去帳が現存する寺は、この大雲寺のほかには鹿原の徳蔵院、泉源寺の竜興院、紺屋町の桂林寺など数ヵ寺にすぎません。
 今、この過去帳が研究の対象として重視されるのは、庶民の生活に大きな影響を与えた飢踵や、はやり病などのほかに、天変地異や事件の実情を、庶民側からあぶり出す重要な意味をもつ資料であるからです。
 大雲寺適去帳は、明和三年(一七六六)に異常事態があったことを伝えています。  〉 

 〈  この年の死者は十二人で、そのうち童子、童女の死者が八人を占めています。さらにそのうちで、五月、六月の死者は四人と半数を占め、十一月まで死者が続きます。
 大雲寺の江戸時代の檀家数は、森・行永両村にかけて五十戸前後であったとされ、そのなかで八回もの子どもの葬儀が行われたことは、その死因に、赤痢、疫痢など子どものかかわ易い流行病(はやりやまい)があったことを意味します。
 特に旧の五月、六月は現在の六月末から七月にかけての梅雨の季節で、細菌(バクテリア)の繁殖しやすい時期であることも、伝染病に打つ手がなかった当時の実状を示しています。
 この過去帳の他の年代をみれば、享保十八年の田辺藩内百姓惣一揆にまで発展した享保十七年(一七三二)の「西国蝗害大飢踵」には、死者三人にすぎず、徳蔵院過去帳に母親の死を意味する「信女」の名が多いことと比べると、森、行永地域には、飢饉に強い何かがあったことを想像させます。
 大雲寺の過去帳は、先人達ののこしたうめき声とも読みとることができます。  〉 



臨済宗東福寺派瑞雲山龍勝寺。龍勝寺には鎌倉期の阿弥陀如来坐像および両脇侍立像(市文化財)がある。
『加佐郡誌』
 〈 臨済派の禅刹で天平二年に建立せられたものである。其の当時は真言宗に属していたものを慶安三年に至って住職方鏡大和尚が禅宗に改めたのである。故に普通に同師を開山と称している。其の後三世の間稍々衰頽の兆したのを寛正年中に領主の一色左京大輔詮範が住職膺選大和尚(本山東福寺の前住職)の大徳に帰依して寺禄百五十石に境外山林を付し諸堂宇再建の資を寄進したので再び寺運隆盛に趣く事となった。(当時境内には養供庵、大興庵、報恩庵の三つがあって、共に元和元年に罹災焼失した、それで後永正元年に一色詮範が卒去した時は竜勝寺院天宕衍公大居士と法号した。それから子孫が相続いて当山の檀越となったので真像霊牌が安置してある。乃ち七月九日は衍公大居士の祭日として例年祭典の式を行ふているのである。末寺に長雲寺怡雲庵福聚院がある。本尊 阿弥陀如来 恵心僧都作。脇立 観世音菩薩 同。同 勢至菩薩 同。地蔵菩薩 小野篁作。これは霊仏の名が近郷に高い。  〉 

『倉梯村史』
 〈 龍勝寺       臨済宗   中本山
 天平二年…一二〇五年前…建立、応安二年…五六五年前…方鏡大和尚改宗、其後三世頗る衰頽せしが領主一色詮範東福寺の前住たりし膺選大和尚の徳に帰依して寺録百五十石を寄進してより法燈複輝き寺運再興せりと。當時塔中に、義光院大興院報恩院の三庵ありしが、元和元年…三一九年前…災上して廃寺となる。今に詮範の霊牌を安置せり。明治初年の偉僧由利滴水は當寺にて得度せるなり。末寺三ヶ寺・恵心僧都の阿弥陀如来、小野篁…凡一一四○年前の人…作の地蔵菩薩、狩野永徳筆観音画像、行信筆の塞山拾得等を寺寳とせり。  〉 

『京都新聞』(98.4.23)
 〈 *まちの文化財〈51〉*阿弥陀如来・両脇侍立像(舞鶴市行永・龍勝寺)*穏やかな顔つきに幼さ*
 緑の木々に囲まれた阿弥陀堂。外の熱気とは裏腹にひんやりした中に入ると、両脇(わき)に観音、勢至菩薩を従えた阿弥陀如来が鎮座していた。ふっくらしたほおの穏やかな顔つきで、どことなく幼さを感じさせる。寺伝によると、鎌倉時代に恵心僧都源信の手により造られたという。元は、寺の南東五`ほどの舞鶴市・与保呂山中にある「胡麻峠」の堂に安置されていたが、江戸時代の元禄期に龍勝寺に遷座した。
 「この峠は、丹波と丹後地方の境にある交通の要衝だった。旅人たちが阿弥陀さんに手を合わせ、身の安全を祈ったのでしょう」。中村義定老僧(八四)は推測する。理由は定かでないが、当時、領主の一色氏から寺禄(ろく)の寄進を受け、財力のあった同寺が引き取り、安置するようになった。像内には、法華経や過去帳包のほか、修理再興札も残っていた。それによると、一六九〇(元禄三)年二月、山城の仏師・渡部玄蕃の手により修理されたことが記されている。
 中村老僧の長男・龍詮住職(五二)は三年前の冬、阿弥陀像があった胡麻峠に出向いた。「本尊ではないが、今日まで守り伝えられてきた大切な像のルーツを知りたくて」 (龍詮住職)。道なき道を二時間かけて歩き、礎石のみ残っている堂で読経をあげた時は、感慨深いものがこみ上げてきたという。
〈メモ〉1965年5月、舞鶴市指定文化財。寄せ木造りで、阿弥陀如来の像高は約1b。豊満な体を持ち、衣の彫りがやや浅い。江戸時代に補修を受けているものの、造像時の古様を残している。  〉 

『舞鶴の民話2』
 〈 ごまやき(倉梯)
 倉梯の龍勝寺の寺内に小さいほこらがある。そこにはゴマをたく処がある。ゴマをたくと水害を防ぐという、寺の近所のおばあさんが私に語ってくれた。
 むかし、与保呂川は小さい川だがよくはんらんしたという。与保呂川は昔は大きな川で、海より船で物を運んできたし、村からは野菜や米、豆類を送ったという、あたりは田畑で家はあまりなかった。六月から九月にかけて暴風雨がやってくると、水かさが増していぼうを越えた水は田畑一面に水にひたってしまった。そんな年はせっかくの稲もだいなしになった。与保呂ではその爲桑畑が多く、養蚕がさかんであった。倉梯村は稲作や畑の作物を多く作っていたので、堤防を補強したが、水の流れがきつく防ぐことができなかった。これは神様のたたりである、このたたりを静めるにはどうすればいいか困っていた。或る時、この村に富山から薬屋がやってきた時この話をすると、薬屋は全国を歩いていて、いろんな話を聞いているので、その神様のいかりを静めるには、ほこらを作り供物をするとか、ゴマをたくとかするとよかったと話した。
 そこで村人は半信半疑で供物をしたがだめだった。そこでほこらの前でゴマをたいた。すると暴風雨のとき、川水が増水したが、海の方に強く流れて、田畑へはあまり流れこまなかった。
 これより村人は、毎年みんなで、ほこらにまいり、ゴマをたいて水害がないようにお願いした。そのせいか水害はなくなったという。その後川の改修でほこらの移転を考えねばならることになり、現在の龍勝寺の寺内にまつったという。  〉 


龍勝寺裏の八幡山に八幡神社があり、天正年間一色氏の臣上羽丹波守が拠ったと伝える亀岩城址。
才之道神社
崇道天皇を祀る藤森神社
池ノ辺は永延年間花山院西国巡幸の経路で、地内より与保呂へ出て、堂奥から小倉へ向かう西国巡拝の順路であったという。
愛宕山に円墳三基、妙見山に円墳五基。
国立舞鶴病院(舞鶴医療センター)
青葉中学校・倉梯小学校・倉梯第二小学校

《交通》
白鳥街道

《産業》


行永の主な歴史記録


《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 竜勝寺本寺京東福寺怡雲庵末寺なり。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 行永村 高千六拾七石五斗四升九合
    内三十九石一斗六升七合三勺 万定引
    百万十石御用捨高
    同村之内
      二石一斗八升三合 万定引
  古城 黒川丹波 一説ニ一色太郎トモ云
          京大和大路
  竜勝寺 瑞雲山 東福寺末
   寺領三石八斗四升境内共 境内 千五百坪
   開山 方鏡和尚 中興開山 古月和尚

   後柏原院御宇 永正二乙丑年也
 当寺ハ尊氏公御代嵯峨天竜寺建之節之事ニ而此国
主御茶屋ヲ後ニ寺トナス由 天竜寺本願ハ足利尊氏
公後醍醐帝為追福御建立有シ也 開基夢窓也観応二
(年・脱力)九月三十日寂ス此所山上ニ古城跡有 細川家上羽丹
波居于今子孫アリ
   本尊 阿弥陀 勢至 各恵心作
   仏殿 三間四方 今禅室ト唱本尊三尊弥陀
   方丈 七間ニ五間
   庫裏 六間半ニ四間半
   鐘楼 九間四方
   門  二間ニ一間半 門ヨリ堂迄道五十間
   地蔵堂 二間四方 小野篁作
   怡雲庵 当村竜勝寺末
   養浩庵 大興庵 報恩院
    右三ヶ寺塔頭ノ旧跡有リ  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎行永村(森村の東南)
【牛頭天王】
【瑞雲山竜勝寺】(臨済宗)
竜勝寺の境内に護摩堂といふ千年の堂あり、堂の内に天平前後の仏像あり、図を左に出す、又一色氏の位牌あり。
【地蔵堂】(小野篁の作)
【降龍山怡雲庵】
【黒川丹波城墟】  〉 

《倉梯村史》
 〈 倉梯郷森は字船越を発祥地とす、元戸数も僅少なりしが元亀天正…凡三六○年前…の頃より漸次現在の森地域を開きて移動したるが如し。鎌倉時代…凡六五○年前…の當地方交通系統を考證するに西池内谷より池の部を越え與保呂川の上流に逆り青路を堂奥に越え小倉に出づるを西国街道順禮路となしたりしを見れば蓋当平坦部一帯は千古の森林にして交通は海路の外になかりしは寺院の移動灌漑用水池の開鑿等によりても略推知するを得べし舊石高七百五十石。
行永は一時幸野村と称し現時の池の部及椿谷に聚落せしが大永年間…凡四百五十年前…古名行永に改め=地名行永は道主命の御母息永水依姫の御名息永より出づとの説あり=この頃より漸次移動を始め、荊棘を開き砂礫を除きて現時の安住地を創めしが如く今池の部に元屋敷と称する處を存じ小字名となれり。舊石高千百四十七石八斗餘 一説に曰く行永部落の池の部より移動したるにあらずして土豪池部重房=此の池部氏は後池田氏と改称せしが如し−一族を率ひて移住したるなりと、併し農耕を主として自給自足の生活を敢てせし往時の往民は交通の便よりも生活の資料を得んが爲めに重に山麓の水利を求めて住居せし傾向に徴しても余は前説を認めんとす。殊に前述の西国順禮道又は與保呂川氾濫のため行永平野は一般に荒蕪地なりきとの説と合せ考へて地名の打木、井関、橋垣、竹道等は往時の住民が或は開墾し或は水を防ぎし名残なりと思ふ時一層前説を首肯せしむるものあり。  〉 




行永の小字


行永 宮尻 晩ノ田 下明 中仁田 竹道 才ノ堂 打木 八反田 和田垣 池ケ上 下峠 赤迫 奈良 青山 椿 弥加宜 見月 見月口 元屋敷 池ノ辺 鎌周 見谷 地僧庵 亀岩 芥子谷 田中 井関 橋垣 荒神 金谷 大道 石橋 桜ケ坪 井尻 中ケ坪 祭掛 大迫 寺ケ後 永田寺 野瀬 向金谷 宮ケ谷 管谷 菅谷 行永 塚田 仁田

関連項目

「鉄の弥加宜神社1」





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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