丹後の地名

由良
(ゆら)
宮津市

由良は由良川河口の左岸に位置する。(空撮は坂根正喜氏)

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京都府宮津市由良

京都府加佐郡由良村



由良の概要


《由良の概要》


由良川河口の西側、宮津市の東南部。若狭湾に面した海岸平地の集落。西部海岸沿いを国道178号とKTR宮津線がほぼ並行して走る。丹後由良駅がある。前に白砂の海岸をひかえる景勝の地で夏季は海水浴場として知られる。旅館・民宿を経営するものも多く、駅の西方山麓に国民宿舎もある。南の山は由良ヶ嶽(583mいろいろデーターがあってどれが本当かわからないが、たぶんこれくらいか)栗田と由良の間の海岸を奈具海岸と称し風光明媚な海岸。
由良駅前の桜並木
↑由良駅前の桜並木。背景の山は由良が嶽

近世の由良村は、江戸期〜明治22年の村で、加佐郡のうち。田辺藩領。慶長検地郷村帳に高656.96石「由良村」とみえる。また「由良村之内石浦村」とあり南隣の石浦村をも含んでいたが、元和10年分離したといわれる。
塩浜や廻船などに従事する者が多かった。製塩は河口を離れた西部で揚浜製塩が行われたが、質の良好を誇って明治まで続いたという。由良の湊千軒長者の言葉もあり廻船業が盛んで、当村の船主ばかりでなく宮津港や岩滝港の船主の船頭・水主もいた。由良川河口付近は船溜りに用いられたが、あまり好適地ではなかったという。
近代の由良村は、明治22年〜昭和31年の加佐郡の自治体名。由良村・石浦村が合併して成立。旧村名を継承した2大字を編成。31年宮津市の一部となり、村名解消。村制時の2大字は宮津市の大字に継承。
由良は、明治22年〜現在の大字名。はじめ由良村で昭和31年からは宮津市の大字。
安寿と厨子王の像(由良)
由良といえば説経節「山椒太夫」の舞台として全国的に知らぬ人はない。由良・石浦近辺は伝承に因む地が多く残る。石浦南部に山椒太夫屋敷跡、由良には安寿汐汲み浜、下東(舞鶴市)には安寿のなきがらを埋めたという安寿姫塚、和江に国分寺跡などある。熊野三所権現(現由良神社)の別当寺であった如意寺地蔵堂には、身代り地蔵が安置される。
大正7年の舞鶴市の米騒動はこの村まで及んだという。



《由良の人口・世帯数》1272・582(石浦を含む)

《主な社寺など》
鎮守は由良神社・奈具神社(式内社)。
真言宗鹿原山金剛院末真言宗東寺派由良山如意寺は由良神社の隣、南方正面に由良ケ岳を望む。
由良ケ岳は丹後富士とも称し、頂上に虚空蔵菩薩を祀る。
曹洞宗舞鶴桂林寺末松原寺護国山松原寺
『丹後国加佐郡旧語集』
 〈 松原寺、護国山、桂林寺末。由良・石浦ノ寺。和尚寺四ケ寺ノ内也。元来平僧ナリ。伝精代弟子伝妙和尚ヲ取立本寺ヘ願金五拾両差出和尚ニ成。  〉 

『加佐郡誌』
 〈 曹洞宗永平寺派に属する桂林寺の末寺であって、該末寺三十六寺中四門首の四で貮等法地の寺格を持って居る境域貮千坪棟数十四棟四百余の檀徒を持っている。本尊に釈迦如来、脇立に文珠普賢の両菩薩を安置し、鎮守として秋葉権現青面金剛西宮明神が祀ってある。初代開山は華梁霊寿和尚と言って桂林寺の十七世であるが現在に至って十四世を閲している。三世中興の和尚は木村の中西伊右衛門の出身であって芸山伝苗和尚と言ふのであるが、当時年中村内に妖怪が現はれて産夜には産婦子供に障害を蒙って仕方がなかったので産夜には親戚や縁者や隣佑のものが多く集って徹夜して保護するのを例として居ったけれど猶色々な妖怪の奇相を現して産の邪魔をなした為め、安産をするものが少なかったのである。其頃之を俗に産夜探しの婆々と云ふて恐れていた。(其の墳墓の松の古木があって其の形が丁度人を倒に埋めた様であったが明治三十年頃足の様な両枝を切り放つたので胴復の部の様な朽腐した株が残って居る。或は二代松とも言っている。)そこで村民が之を心配して各宗派の名僧を請じ加持祈祷を行ふたが、一向其の験はなかったので、衆民其の徳を慕して斎しく妖怪調伏の法を請ふたのに和尚は直に快諾をして懺摩の法を修められたのである。すると不思議にも妖怪は忽地に消失してしまって其後安産する事が出来る様になったのとの事である。茲に於て余村が競ふて松原寺の檀徒となり遂に元文二十巳年三月二十四日に本堂を改築して一村一ケ寺としたのである。其の妖怪化度の供養塔は今寺内に在るが惜しい事に碑の右例にある記事が霜雲に晒されてはっきり分からない。  〉 

隣接する石浦とともに山椒太夫の伝説が多い。如意寺地蔵堂には金焼地蔵(身替り地蔵)を祀り、西北部海岸は安寿姫汐汲みの浜と称し、碑がたっている。また七曲り八峠には山椒太夫首挽きの地と伝える地などがある。
金刀比羅神社
稲荷神社
水無月神社
市杵嶋神社
北野神社
広峰神社
古跡に由良ノ戸碑
名勝に由良ケ岳

昭和50年調査によれば、由良地区には氏子を異にする由良の由良・奈具神社、石浦の住吉・中路(日吉)の4社がある。由良神社は浜野路・港・宮本の氏神で10月10日の祭礼には神楽踊が奉納される。神楽踊はこの地に伝えられた15曲に及ぶ風流小歌踊の一つで本来は「笹ばやし」といった。いつ頃から始められたかはわからないが、歌本に「寛政年中五ケ村立開ノ中本之写」とあり、同本の「大川村」の項によると、大川神社(現舞鶴市)に「祭礼」を入れてきたことが知られ、古い来歴をもつと考えられている。
 奈具神社は脇の氏神で10月10日の祭礼には脇の人々によって太鼓踊が行われていた。この踊は当地で祀られる水無月さんの旧6月30日の夜祭にも行われた。水無月さんは旧語集にもみえ、夜祭には由良の全地区がいっしょに太鼓踊を奉納した。

《交通》
国道178号線

《産業》

由良の主な歴史記録

《丹後風土記残欠》
 〈 川守郷。川守ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王土蜘陸耳匹女等ヲ遂ヒ、蟻道郷ノ血原ニ到ル。先ニ土蜘匹女ヲ殺ス也。故其地ヲ血原ト云フ。トキニ陸耳降出セント欲シ時、日本得玉命亦下流ヨリ之ヲ遂ヒ迫ラントス、陸耳急チ川ヲ越テ遁ル。即チ官軍楯ヲ列ネ川ヲ守リ、矢ヲ発ツコト蝗ノ飛ブガ如シ。陸耳党矢ニ中リ、死スルモノ多ク流テ去キ。故其地ヲ川守ト云フ也。亦官軍ノ頓所ノ地ヲ名ツケテ、今川守楯原ト云フ也。其時、舟一艘忽ニ(十三字虫食)其川ヲ降ル。以テ土蜘ヲ駆逐シ、遂ニ由良港ニ到リ、即チ土蜘ノ往ク所ヲ知ズ、是ニ於テ日子坐王陸地ニ立チ礫ヲ拾ヒ之ヲ占フ。以テ与佐大山ニ陸耳ノ登リタルヲ知覚シキ。因テ其地ヲ石占ト云フ。亦其舟ヲ祀リ楯原ニ名ツケテ舟戸神ト称ス。(以下三行虫食)  〉 
陸耳御笠が逃れた地こそが、後の山椒太夫の屋敷地である。両伝説はぴったりと重なる。

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 由良村は
往昔より塩焼経営塩浜の体東西二十町に及びて衣替着半により菊月に至った朝に露を払い夕べに星を戴き潮汐を汲み所作を励む塩屋塩窯その数を知らず。
 北は蒼海漫々たり、越前崎加賀御崎一目見へたり、西は由良ケ嶽と云う高山あり、上に虚空蔵鎮座あり相続いて長尾峠山椒太夫首曳松、不動松座頭倒し鋳物戻しと云う大石あり七曲八峠ありと云い伝へり。
 清鏡山松原寺本寺田辺桂林寺曹洞の禅宗本尊文珠菩薩釈迦地蔵大元祖師、達摩の木像あり鐘楼堂これあり、晨鐘日没これを撞、二時の勧行懈怠なし民家に響き殊勝なりき、大乗妙典墳墓石の六地蔵あり、鎮守船亡鬼の神門外に勧請す。
 由良山長福寺今は如意寺宝珠院と号し、鹿原山金剛院末寺真言宗なり、古は山寺なりと雖も盗賊来る悩む事数ケ度なる故とて今は松下の在え引たり。熊野三所権現社あり石の花表(石の鳥居)達つ、三宝荒神は脇村にあり同所観音堂あり出現の砌は方便奇特にして隣国近辺の参詣絶間なし近年葉流たまはず問人なくて御堂大破に及べり。東は大河にして水潮の戦う難所の湊なり。水無月大明神の社あり。南に田畑を抱え耕作す。
 勿論売船その数百三拾艘に及べり、湊に船繋ときは舳ヘサキを揃へ纜トモヅナを取り楫を揚る碇を入れ帆柱を直し筥覆ハコオオイ木綿帆、藺筵の帆、艫舵、指竿巻轆轤その外船具品々これあり、船印の幟を立て伊勢丸、住吉丸、日吉丸、極一丸その外色々銘を顕わし家々の紋を染め入れて風に任せて翻、出船の刻は米、大豆、小豆、胡麻、辛子、菜種、繰綿、炭薪、串柿、竹木、時分相応の荷物十分仕込み、舸子楫取り打乗川嵐しに帆を挙げ先づ沖の嶋を目当に駈出す。
 大海の最中に出れば磁石をもって方格を見合せ、越前、越中、加賀、能登、出羽の庄内秋田、坂田、佐渡ケ嶋、西は因幡、伯耆、出雲、石見、長門、上関、下関、津々浦々え入船して思々に商売す。
漸く秋もすぎ神無月ころより、浪風荒くして西海、北海売船趣くべき様これなく、然れば田辺役所の為由良の蔵に年貢収納せしめ、若州小浜え運送す、廻米蔵より出る時は秤を以て貫目を極め之を渡し掛け、四斗表百俵の賃米七斗二舛に極めおかれるなり、他国は知らず丹の後 シュウに於ては、由良を斯き繁昌の湊また有るべからず云々
 古へ駒沢主水と云う者居住し城跡これあり、又北向き御前と云う小宮湊村にあり宮居北を向いてあり安寿姫の宮なりと云伝るなり。  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免八ツ五分
由良村 高六百三拾弐石六斗三升五合
    内三拾八石三斗八升二合七勺 万定引
    拾五石御用捨高
  古城 駒沢主水
 由良ノ荘千軒ト云大村也 (分テ云ハ村数五ヶ村の名有)此所ニ御年貢所御蔵建御番所右御蔵秋年貢ノ節ハ御代官手代迄参ル 其節ハ米トテ給人一人参米掛ヲ致吟味駕篭ニテ供廻リ本供当御代元禄十丁丑年川筋田辺迄運送往還御厭且若州廻船田辺滞留旁々以勝手宜様ニ被仰付中嶋次太夫奉行 汐浜大川東ニ有テ如此川有テ水流ル先ヲ渡卜云
  松原寺 護国山 桂林寺未 由良石浦ノ寺
 和尚寺四ヶ寺ノ内也 元来平僧ナリ 伝精代弟子

伝妙和尚ヲ取立本寺へ願金五拾両差出和尚ニ成
  如意寺 由良山 鹿原山 金剛院末
   享保五庚子年迄長福寺卜云  長福様 公方家重公
   御名ヲ奉憚四月廿三日如意寺卜改ム
  熊野三所権現 氏神
  三宝荒神   氏神
  水無月大明神 六月晦日祭 角力有 宮守 如意寺
  観音堂 堂守 忠兵衛
  稲荷
  当所権現
  薬師堂
  阿弥陀堂
  虚空蔵
  不動明王
  稲荷
  由良獄
 高山也宮山也木種無シ草山也 山上ニ虚空蔵有因茲虚空蔵ケ獄トモ云 上山ヨリ四方能見ユル宮津ハ山ヲ半下リ栗田上ニ差出タル所ヨリ見レハ宮津町ノ末ヨリ文珠切戸成相ノ景眼下ニ見甚好景也
  長尾峠
 山庄太夫首挽松トテ大松四五本有 此峠難所ニテ座頭転ハシ鋳物師戻シトテ細キ山際小石常ニ転リテ甚危キ道也 安寿姫芝勧進所抔云所ヲ過峠半分過ニ田辺卜宮津ノ境有リ 爰ヨリ宮津城下迄一里三十丁程 長尾峠ノ下ニ如茂季鷹ノ碑有リ
  古へハ梶ヲタヘタル由良ノ戸モ
    今ハヤスラニ渡ル舟人  〉 

《丹哥府志》
 〈 由良村(川向)
【熊野三社権現】
【三宝荒神】
荒神の社由良の湊といふ處にあり、昔安寿姫着船せし處なりといふ。毎年正月十四日社の前に於て火を焼是其祭の式なり、蓋安寿姫の凍冷したるを暖むる例なりとぞ、正月十四日は則ち其来る日なりといふ。
【護国山松原寺】(曹洞宗)
【由良山如意寺】(真言宗、宝珠院と號す、熊野権現の別当なり)
【由良の湊】
院本に由良の湊千家長者といふ是なり。
【由良の戸】
由良の戸を渡る舟人楫をたへ  行衛もしらぬ恋の道かな  (曽根好忠)
【塩浜】
凡神崎、由良の二村塩を焼て業とする者多し、浜の長サ一里余。
【由良ケ嶽】
俗に丹後富士といふ、頂に虚空蔵の廟あり。
【生駒主水城墟】
【七曲八嶺】
由良村より与謝郡栗田村に越る嶺なり、道路難所を(丹後に下り上東門院の命じさせらる事保昌に告ぐ数多の石を拾ひ朝に帰りけるを和泉式部別を惜しみ七曲といふ嶺まで送り来れば
新古今  なけきたる身は山なから過せかし浮世の中に何帰るらん  赤染右衛門)象りて名付るなり、其間に盲者倒(断崖千尺の處に向ひて道の折たる千丈あり、誤つて直に行時は其断崖の下に落つ、此處を盲者倒といふ)、女郎の浜(狐狸の類女郎に姿を化して或は三丈の髪を梳り或はふるわたを松に懸け、深更に及びて通行する者間々之を見る)、柴勧進(対志王、安寿の二子三庄太夫に使はれて日々薪をとる、二子はかん艱苦にたへず、村人之をみて二子の為に其柴を与ふ、其處ょ柴勧進ていふ)などの名ある處なり。
【首挽松】(嶺の下、出図)
首挽松は昔三庄太夫の刑せらるる處なり、三庄太夫の積悪天の憎みに迫り、遂に縛せられて竹の鋸を以て往来の人々一挽づつ之を切ると、今慥に丹後の口碑に伝ふ。
【まはな】
【桃島】(出図)
 【付録】(観音堂、水無月大明神、愛宕、弁財天、地蔵堂、荒神二社、稲荷、阿弥陀堂、薬師堂、北御前社)  〉 

《地名辞書》
 〈 今由良村と云ふ、由良河口の左岸とす、右岸は神崎村と云ふ、延喜式奈具神社在り、奈具神の事中郡の条に参考すべし。水路志云、由良川一名大雲川、其口幅一鏈に満たずと雖、之を過ぐれば其幅二鏈余の処あり、水深亦二三尋ありて、丹波福知山迄舟楫を通ず、然れども口外に閂洲ありて、水深一二呎に過ぎず。益軒西北紀行云、由良の港に、俗に唱ふる山椒太夫が子三郎の墓あり、由良は民家三百、其石浦と云所に山椒太夫の屋敷の跡とて石の水船あり。○古事記伝云、仁徳帝のよみたまへる由良之門は紀伊淡路の瀬戸なれど、丹後掾曽根好忠のよめるは丹後なり。由良の門をわたる舟人梶をたえ行へも知らぬ恋のみちかな、〔曾丹集〕……補〔由良〕加佐郡○西北紀行〔重出〕…中山に大河有、舟にてわたる、此前に丹後の国分寺の跡有、云々、中山の町を過て田辺に至る。  〉 


《加佐郡誌》
 〈 由良村。由良の名は凡海郷由良庄といふことから出たものであって、由良、石浦の二ケ字から成っている。参考。石浦の名の伝説は丹後風土記川守郷の項に載っている。蓼原から土蜘を逐ふて由良の港に着いたが其後何処へいったかわからない。そこで日子坐王陸地に上り石を拾ひ之を占って其行方を知ることができたので此処を石占と名づけともいひ又一説には石浦は石の後即ち由良ケ岳北麓の花崗岩産地と背あはせの地の意味であるともいひ伝へられている。附説。小沢打魚氏の説と称する古代由良に関する史実を一二挙げて見る。一、皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、武甕槌の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである。二、…  〉 


《舞鶴の民話4》(イラストも)
 〈 由良の浜姫 (まいづる)由良の浜姫挿図

 むかし市場村には千石船がありました。北前船といいました。又千石船より少し小さい貨物船もあった。小橋の港にも立ち寄りました。千石船の水夫たちが、何日も何日も海の面ばかりみて暮らしたあとに見るみどり輝く野山はほんとうに美しかった。特に港で働く女の姿はなつかしく、やわらかい体つき胸のふくらんだ姿は待ちわびていたものだ。
 越前の方へ向かおうとした千石船が、由良の沖を通りかかりますと、白砂のつづく浜は美しく、そう用事もなかったが浜の方へ船を向けました。ただ一人女人が立っています。だんだん近づくと、びっくりする程の美人が立っています。未だ見たこともない、殿上人か、天女のようであります。水夫たちはへさきに集まり、だれよりも早くその女に話しかけふれたいと思いました。その様子をみていた船頭は、静かに止めた。
 「みなさんよ、まちなはれ、この船には一日ものばすことのできない荷をつんでおる、船の上から、姿を見ただけにしておこうよ」
 しぶしぶ水夫たちは、口々に船頭にくってかかり、あるものは浜の女人にむかって大きな声で、美女だね、私の顔をおぼえておいてと、未練がましいことばを並べていました。すると女人はふところより、紙と筆をだし、さらさらと、何やらしたため、おいでおいでをする、水夫は小さい小舟をだして、一度浜の女人の方へいった。女人は鈴のような声で、
 「おいでなされ、みなさんに頼みたいことがあります。私の姉が敦賀にいます。この手紙をその姉に渡してほしいのです。姉は私のたよりを待っています。私は前から千石船がくるのを待っていたのです。時間がないのなら、この手紙もっていって下さい。姉もさだめし喜ぶでしょう。しかし、この手紙の封をわたすまで開いてはいけません。きっとこの約束は守って下さい」
 「ふしぎなことをいう美女だなあ、さだめし姉さんというのは美女だろう」水夫の一人が受け取り、船頭に渡した。船は静かに由良の港をはなれた。
 沖へ出てから、船頭は水夫たちにいった。
 「浜姫の手紙はとどけねばなるまい浜姫にちがいない、手紙のなかにかいてあることはあやしい、開いて読んでみようか」
 水夫たちは口々に「開くことはならぬ、私たちは浜姫と約束しました」と言う。しかし船頭はがんとして読まねばならぬと封をきった。
 「一筆まいらせ候、この船の者ども、体よくうまそうなれど、私と遊ばず逃げ候、口おしいことこの上なし、そちらに到着のおりは一人残らず召し上がり下さるようおねがい申し上げます 浜姫より」

 船頭は声高らかに読みあげました。水夫たちはおそるしげに身をふるわせ、「よかったね、よかったね、美女には注意せねばならぬわい」と口々に申し、船頭さんの年きのはいった処置に感謝しましたとさ。  〉 
さすがに湊だと思う。湊まちはこうでなくては何も面白くない。この伝説は丹後の由良ではなくて、隠岐の島だったか、あそこの由良比女神社の話でなかったかと記憶するのであるが確かな記憶ではない。大丹生からは隠岐の島の黒曜石が出るくらいだから古くより繋がりはあろう。ローレライとはどう繋がるのかな。




由良の小字


由良(ゆら) 三庄大夫 関 川尻 川端 上良 浜頭 内垣 女ケ谷 宮ノ本 池端 矢留 浜 前田 岩穴 堂ノ上 河原 岩出 礒山 宮ノ山 花出 深田 平田 野出奥 岩神 休場 森ケ鼻 尻谷 熊野山 黒見谷 畑神石 上ノ山 宮ノ上 別所 奈具平 馬場 地子路 付場 地小路 上ノ宮 平野 大和山 岩出 大松山 里見 孤ケ谷 由良ケ獄 浜田

関連項目






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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