丹後の地名

田原(たわら)
宮津市田原


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京都府宮津市田原

京都府与謝郡養老村田原



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田原の概要




《田原の概要》

市の最北部。田原川の源流部。小盆地状の農山村地で、東および西は峠を越えて与謝郡伊根町に接する。中央を府道久僧伊根線が東西に走る。

田原(宮津市)
田原村は、戦国期に見る村名。明応2年「雑事要録」16に「渡領支配裏」として「(阿野)実治朝臣〔丹〕田原村半分」とあり、別に「公領」として「田原村半分」が見える(陽明文庫蔵近衛家文書)。当地のことか。
田原村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年幕府領、宝暦8年以降宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年養老村の大字となる。
田原は、明治22年〜現在の大字名。はじめ養老村、昭和29年からは宮津市の大字。

《田原の人口・世帯数》78・28

《主な社寺など》

岩尾神社は田原権現と称した古社。
岩尾神社(宮津市田原)
田原の産土で、明治になるまで若王子三社大権現と称していた。
(『宮津市史』)

岩尾神社
 養老村字田原小字岩尾。村社、祭神田許理姫命、多伎津姫命、狭依姫命、往昔田原権現と称し、明治六年二月村社に列せらる。氏子四十七戸、例祭七月十六日。
(『与謝郡誌』)


曹洞宗前田山竜灯寺、薬師如来は平安後期の傑作といわれる。
龍燈寺(宮津市田原)
前田山籠燈寺
 養老村字田原、本尊観世音菩薩、天正十年創立檀徒四十七戸。
(『与謝郡誌』)

龍燈寺 曹洞宗   字田原七八七
構造形式 本堂 入母屋造トタン葺下屋付
 井室(伊根町)振宗寺の末で、天正十年(一五八二)同寺六世文玉和尚によって開創された。振宗寺は末寺一三を数える中本山であった。客仏の薬師如来坐像は市の指定文化財である。
本堂 本堂と庫裏を一つの大きな入母屋造の屋根で覆っている。古写真によると、屋根はもと茅葺で下屋(庇)は桟瓦であった。本堂部分は六間取りで、前面に一間の畳縁をもつ。天井は本堂部分は竿縁天井であるが、庫裏の部分は、民家の多くの部屋がそうであるように、天井を張らないで大引が現れている。仏間と室中との境は無目で区切り、虹梁を架け渡す。虹梁の上は彫刻欄間で飾られている。彫刻は雲間に身をくねらせる竜と鳳風。
 文化八年(一八一一)、二十三世寿山和尚のときに再建された。大工は柴氏幸七であった。与謝地域には柴山、柴田姓の大工が知られるが、いずれかであろう。
(『宮津市史』)


現地の案内板龍燈寺案内板(宮津市田原)
龍燈寺
宮津市字田原
 前田山龍燈寺は曹洞宗、振宗寺(伊根町字井室)末。本尊観世音菩薩。寺はもと奥田原の地にあって、今も龍燈か成とよぶ地がある。天正十年(一五八二)田原城主小出左京進が、父母供養の爲、居城に近いこの地に移したと伝える。おそらくは田原のむらか現在地に移ったのも同じ時代であろう。奥田原時代の墓塔(一石五輪・板碑)で堂山付近にあったのを、いま寺の裏中山墓地のふもとに移しているが、中世田原の貴重な遺物てある。
 奥田原に小名「天王」がある。天王は牛頭天王又祇園天王であって、薬師如来の垂迹神と信じられた。奥田原にはかつて、牛頭天王(祇園社)と薬師堂と寺がひとつの地域に存在して信仰圏をつくっていたと考えられる。そういう例は宮津市字宮村にもある。龍燈寺薬師如来坐像が客仏として祀られているのは、奥田原において寺とは別に祀られていた故かもしれない。像高八八センチ、一木割矧造(一本の木を割って彫刻してのちあわせる)右手をあげ、左手
を膝上におく普通の姿。各部に後補が多いが、平安時代末〜鎌倉時代初めにかけてつくられた当地方の古仏。宮津市指定文化財。境内の石造十三仏塔姿は総高六六センチ、戦国期のものであろうか、当然奥田原にこあったものであろう。
宮津市教育委員会
宮津市文化財保護委員会


《交通》

《産業》

田原の主な歴史記録


『丹哥府志』
◎田原村(伊根浦の庄小坪村より入る)
【田原権現】(祭七月十六日)
【田口山龍燈寺】(曹洞宗)
【在原棟梁】
丹後旧記曰。陽成天皇の御宇に在原棟梁丹後の国司となりしばらく与謝の田原に居らるるといふ、古今和歌集に出る春立の歌は其頃の歌なりと伝ふ。
春まてと花も匂はぬ山里は  物うかる音に鴬そ鳴く
宮津府志云。在原棟梁丹後に来るは国司にあらず左遷せられて与謝に来るといふ、されども棟梁の左遷せられし事はいまだ正史に見当らずいかがの謂にや。

『宮津府志』
在原棟梁旧地
 與謝郡田原村に在原棟梁の歌とて里民家につたふ
    はるくれど花も匂はぬ山里は
      物憂かる音にうくひすそなく
 棟梁は左中将の子なりとぞ、飛鳥井栄雅の抄に云棟梁丹後国田原に勅勘にて龍り居し時よめる歌なりとあり。

『丹後路の史跡めぐり』
在原の里(ありわらのさと)
 伊根から丹後半島へ出るには、田原峠から筒川を経て本庄へ出る道と、朝妻を経て才ノ木峠を越して本庄へ出る道と二つある。田原峠を登りきると田原という小部落につくが、ここは平安時代在原の棟梁業平(なりひら)が隠棲した所だといい、在原の里、棟梁の里などという。業平は小野小町の愛人であるが、この二人の伝説が伊根と五十河にあることはおもしろい。藤の森はその館の跡だと伝えている。
  春待てど花も匂わぬ山里は
    物憂かる音にうぐいすぞ鳴く     在原業平


在原棟梁は有原業平の長子、実際に丹後国司だったようである。
在原と田原は一見関係なさそうに見えるが、実は同じ意味だったと思われる。arは前後に子音がついたtarkというと類語といわれる。日本語化するとタカタキタケタクタコとなるが、単にタだけともなることがこれでわかる。田原とも在原とも呼ばれた地ではなかろうか、南の畑に有坂峠があるが、このあたりは古くは広くアリアラの渡来人の拓いた地だったと思われる。隣が火ヶ谷だし、薬師や牛頭天王なら金属の地ではなかろうか。




田原の小地名


田原
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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