丹後の地名

天橋義塾
(てんきょうぎじゅく)
宮津市外側


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京都府宮津市外側

京都府与謝郡宮津町外側




 

天橋義塾の概要




 丹後は古代史上ばかりでなく、近代史上でも時たま強烈に輝く時がある。宵の闇に燃え上がりひときわ光ってはすぐに消えていく。天橋義塾もそんな感動の光を放った流れ星の一つであろうか。丹後近代の夜明けを全国に告げるものとなった。

「天橋義塾の跡」の碑(背後の建物は宮津小学校)
中橋東詰は、元々は宮津藩藩校礼譲館(文武館)のあった場所で、廃滅後ここに天橋義塾が開かれ、それも廃滅して宮津小学校になった。
「天橋義塾の跡」の碑(宮津小)
その案内板には次のように書かれている。
天橋義塾跡
 今から百年あまり前、明治八年七月、天橋義塾の開業式がこの場所で行われた。当時、宮津には二つの小学校が開かれていたが、その上級の学校はなかった。そこで有志の人々が相談して開いたのが天橋義塾であった。それはあくまでも有志の人による私学枚であった。開校に尽した人には、粟飯原曦光・小室信介(初めの名は小笠原長道)・沢辺正修そのほかすぐれた人材がおおぜいいた。校舎は最初はもとの宮津藩校礼譲館(当時文武館)の跡を使い、ついで中橋を渡ったところにある小笠原の家を使い、最後はいまの宮津小学校運動場北がわに新築した。
 天橋義塾の設立には、明治の世をむかえて新しい勉強をしたいという青少年の願いと、封建政治を倒して新しい政治を求める人々の願いにこたえるという二つの意味があった。当時その新しい政治の運動を由由民権運動といった。天橋義塾はその中心であった。明治の政府はこのような政治運動を押えようとした。そのため集会条例を制定したり、教育制度を改めたりしてきびしくとりしまった。それでもここに集まった教師と生徒は容易にひるまなかった。全国の由由民権運動がうちのめされるころになって天橋義塾もついに閉鎖においこまれた。明治十七年のことである。
 この宮津の土地に、役所からは一円の金も貰わず、自ら金を募り、自ら学んで新しい学問と政治を開こうとした天橋義塾があったことは誇りといってよい。
宮津市教育委員会
宮津市文化財保護審議会

現在の中橋と宮津校
↑↓小室信介や沢辺正修も通った中橋。今は付け替えられて少し下流側に移動してピカピカ、その上を後輩たちが下校していく。背後が宮津小学校。
新しい中橋を渡り下校してくる

太鼓門?
↑宮津城の太鼓門。この場所へ移動させたのだろうか。学校とは関係がない。




《天橋義塾の概要》

↓天橋義塾(宮津市・明治17年) 小室信介・沢辺正修ら指導者のもと明治8年(1875)に開設された。同17年まで存続し、丹後における自由民権運動の一拠点となった。(『目で見る舞鶴・宮津・丹後の100年』より。キャプションも)
天橋義塾

 宮津藩は7万石、舞鶴や福知山はその半分の3万幾ら石だったから、ここが「北都の雄」だった。
「北都の雄」は中味がそうでなければ石高や人ばかりが多くても何の意味もない。人間がしっかりしているかどうかがポイントであろう。カラッポばかりがいて「北都の雄」と自称してみても笑われるだけであろう。

宮津藩には文化15年創立の藩校・礼譲館(のちに文武館と改称)があった、今の宮津小学校の位置であった。8才(満年齢)から入館でき、15才で入寮した、見込みある者は藩費で他国へ遊学させたという。今でいえば小学校から大学以上までの教育コースが一応は整っていたことになる。これは藩士の教育機関である。庶民は寺子屋や私熟などがあった。
明治4年の廃藩のため藩校は潰れ、私熟なども動揺した。学制発布は明治6年だが、これは今の小学4年生までであった。その先がなかった。小学4年で卒業しても、京都まで行けば何かあろうが、地元には学ぶ所が何もない。将来ある若者たちはただただ遊んで暮らすのみではないか、それでいいのか。
天橋義塾はわずかに10年の歴史しかもたないが、地元住民のそれも旧藩士の熱意に燃えた自主的学習士族地方結社として出発した。

一時は高知の立志社(1874年創設、自由民権運動の震源地。板垣退助・片岡健吉・植木枝盛ら)と慶応義塾とこの天橋義塾が日本3義塾と呼ばれたという。
多くの百年以上の歴史をもつ諸学校以上に興味深いものが多い。




天橋義塾の創立期


 中等教育機関がない、そんなこといいわけがない。明治8年(1875)に天橋義塾が開校した。教師は藩校時代の者がいた、校舎も元の藩校を使う。管轄庁豊岡県の許可も出た。カネは学生の月謝と資本講という頼母子講をつくりその資金運営益で運営した。
主として「人材培養」「小学教員の保護」などを目的とした教育機関、もっと複合的な目的を持つがこれが草創期になる。
市史は詳しい、引いてみると、
創立期の天橋義塾
 明治八年六月、天橋義塾は 創立委員鳥居誨ら三五人、生徒は木村栄吉ら二一人の体勢を整備し、七月一日、「小学予科の名をもって」宮津学校内の西南隅一舎(旧藩校文武館訓導室)に、粟飯原曦光を教師として開業した。開業式に会した者五四人、生徒をあわせて九○余人が参加した。粟飯原曦光が義塾開業の趣旨を演説し、社員一同、その目的を永く貫徹することを誓って役員を選出した。
 八月一日、天橋義塾は小室信介を迎え、信介が塾則を編成するが、その総則大綱の一節には、「それ該塾は、一人一己の単力に依りて結社せるものに非ず。衆人愛国義務心の小分子、集合凝結してもってこれを組成す。ゆえに将来これを維持するも、また集合力に依らざるを得ず。よって毎月一日をもって社員会合の日と定め、集会決議の上事務を改良進歩せしむ」として、集団討議をうたっている。
 社員らは「天橋義塾開業願添口上書」を豊岡県に提出したが、豊岡県参事田中光儀(みつよし)は、「書式布達は触るゝあるをもって許さ」なかった。そこで再提出すると、今度は権参事大野右仲(うちゅう)が信介を呼びだして尋問したが、信介はこれに答えて、「その許可の速かならん事を請」い、大野は信介の回答に満足し、「再び書を作り上願」するよう指示したので、八月二十七日に提出した。
 その後、九月には天橋義塾幹事の神谷広生、河南雪三が辞職し、社長に鳥居誨、副社長に岩城親雄、幹事には小笠原長孝、横川規、粟飯原鼎らが公選された。すでに会計掛には、辞職した鈴木直徳の代わりに高橋亀八が選出されていた。
 十月二十四日、義塾は支舎を小笠原長孝邸に置き、四○余名の寄宿生が、自炊生活を送っていた。そして同年十月二十九日、豊岡県は天橋義塾の開塾を認めた。翌九年七月から天橋義塾は、宮津学校内の建物を返上して、社主の小笠原長孝邸に移り、九月からは、中ノ町に土地を求めて塾舎を新築するための建築講を起こした。この講は、当時、この地方で広くおこなわれていた頼母子講の一種で、一本を四円として五八本を募った。
 そして翌明治十年十一月には塾舎を竣工した。塾舎は、三一○坪(一○二三平方メートル)の敷地に、二階建ての家屋(五九坪)で、一階が教室として使われた。二階は総畳敷で、平日は生徒の学習室として開放されていたが、時にはさまざまな会合に使われていた。
 天橋義塾の運営は、社員の醵出金(月収の一○○分の三、収入のない者は月一○銭)と月謝によってまかなっていたが、相当の財政難であった。小室信介は、旧藩主の本荘宗武に寄付を要請しているが、宗武はこたえなかったようである。そこで天橋義塾は、明治九年五月、千人講と称して、一本五円、総籤数千本として、丹後の農民や商人に加入を呼びかけた(四−一八三)。翌十年十二月に開かれた最初の資本講には、三○○余人の人が集まった(四−一八四)。ただ、同年の加悦町の資本講関係の史料を見ると、さらに一本を細分化して総勢二一人が出資している(加悦区有文書)。
 その後、明治十五年には別の資本維持講(一本一二円、五〇〇本)が創設され、同年七月九日付の加入者名簿では、三六八人が加入している(六一○本)。十七年度の天橋義塾の年間経費は収入八八五円三六銭余、支出八四六円五八銭余で、収入のうち四八六円四○銭は維持講金(五五パーセント弱)であった。この株主が社員となり、社員として年二回の大会に出席し、株主として年一回の資本講会に出席した(原田久美子「自由民権政社の展開過程」『資料館紀要』一号)。



天橋義塾の人びと


かつての藩士の町(宮津市柳縄手)
↑柳縄手通り。宮津市役所の裏で藩政期の武家屋敷跡の静かな通り。この長屋門は当時の大村邸だそうである。次の説明がある。
大村邸跡  宮津市字柳縄手
 ここから南へ六〇〇メートル余の通りを柳縄手という。藩政時代の武家屋敷である。慶長七年(一六〇二)の検地帳には柳町と記され、その後柳繩手というよび名が漸次定着した。本庄(松平)藩時代江戸末期には、この場所の北に郡会所、その向い側に米会所があり、柳蝿手全体に三十五軒の武家屋敷と六ヵ所の武家長屋があった。さして大身の居住地ではなかったが、明治になって宮津天橋義塾を中心とする民権運動の高揚期には、この通りからその指導者・後援者が多く排出した。沢辺正修・小室信介もここの出身である。
 大村邸はもと藩医小谷仙庵の住んだところである。仙庵の次男謙次郎は明治十三年ころ帰郷開業、「立憲政党」に加盟した。明治二十年ころ峰山へ移り、そのあとへ、旧藩士大村政智が入居した。政智は維新後東京へ行って法学を学び、判検事弁護士の資格をとり、明治十三年帰郷した。天橋義塾維持講五本の株主となり、「立憲政党」にも加盟し、民権の伸張に寄せる志も一方ならぬものがあった。小谷謙次郎旧宅を求めて入居以来百年間、大村家の手によって維持されてきた邸宅であったが、惜しくも昭和六十一年二月、事故のため焼失した。僅かに長屋門一棟が災を免かれて残った。大村家の好意を得て、今、市有地となって憩いの広場として開放されている。一つの土地と家の変遷の中にも、宮津人の進歩によせるいぶきがうかがえる場所である。
 宮津市教育委員会
 宮津市文化財保護審議会

南向き一方通行の車のすれ違えない狭い短い通りだがここから明治初期のリーダーたちが多く生まれている。
大村邸長屋門

 校長先生−粟飯原曦光(あわいはらぎこう)
市史に詳しいのでそのままを、
教師には粟飯原儀光(四十一歳)があたったが、儀光は、宮津藩士尾兄亀之助に経学と漢学を二○年間学び、同梶川作左衛門(景典)、小浜藩士人沢雅汀郎、綾部藩士近藤東作に経学や漢学を学んで、維新後に京都の中沼了三と出雲路定信に短期間であるが遊学している。儀光の師尾見亀之助は、藩命で江戸に遊学し、梅田雲浜の師でもあった小浜藩の儒者山口菅山の門人となり、川崎闇斎学に傾斜した。藩校礼譲館は、尾見が塾頭になってからは、崎門学(闇斎学派・浅見絅斎派)に転じたが、儀光は尾見の高弟であった。
 京都府の監察掛高木文平は、儀光が「生得左足不具、歩行不自由にして干尤(武器)を探るの器にあらず。よって若年より学に志し」と悪意のある書き方をしているが、「当国において漢学の名誉あり」とその学識は認めている(「探索書」京都府庁文書)。儀光は、創立期から九年間、教育者としての円熟期の四十年代を天橋義塾の教育に専念した。後年は、京都府高等女学校教諭に「十五年余、満七十二歳まで元気に奉職され」、その間に京都第三高等学校などの倫理科講師を務め、明治四十四年十月三日、行年七十七歳で逝去した(『資料 天橋義塾』)





天橋義塾といえば次の二人になってくる。当地の一私立学校が自由民権運動の全国的拠点となり力を発揮しえたは、この二人なくしてはありえない。

 小室信介(こむろしんすけ)

学校とすれば教師の一人であり、民権運動の政治結社としての性格ももつ天橋義塾のリーダー、ジャーナリスト、作家などいろいろと活躍の人。この人だけでも大変な説明になるので簡単にのみ記しますと、

小室信介の生家跡(宮津市柳縄手)
↑旧藩士屋敷跡である柳縄手通りの中程から大手川へ入った袋小路。昔はここに中橋が架かっていたので、昔なら中橋を柳縄手通りへ渡ったすぐの右手になる。ここが小室信介の生家であった。案内板があって次のように書かれている。

小室信介旧称小室信介の案内板
 小室信介は丹後宮津柳縄手のこの場所で嘉永五年(一八五二)七月二十一日に生まれた。宮津藩砲術家小笠原長縄の次男で長道と称した。明治八年十一月岩滝村出身小室信夫の長女幸子と結婚して小室信介と改めた。信介は藩枚礼譲館に学んでのち数え十六歳のとき礼譲館助教となり、その後京都に遊学した。
 明治五年(二十一歳)山城綴喜郡井手校教師となった。同八年帰郷、その年彼を結社人として天橋義塾が設立された。養父小室信夫は岩滝の豪商山家屋一族に属し、文久三年の足利尊氏木像梟首事件や、明治七年の「民撰議院設立建白書」に名を連ねている人である。信介は天橋義塾の経営に深く関与して結社人にもなったがいっぽう、明治十二年以降は大阪日報・朝日新聞等に入社し、民権伸張の論陣を張った。同十四年以降は立憲政党創立に参加し、大阪日報を買って日本立憲政党新聞と改題した。その間各地に遊説を試みた。著書に「東洋民権育家伝」がある。
 明治十八年六月病にたおれた。享年三十四歳。
宮津市文化財保護委員会)

小室信介
 宮津藩士砲術家小笠原忠四郎の次男長通と號し岩瀧小室忍の女婿となり信分と改名し先帝の持講中沼了三の塾に入り漢書を修め初めて天橋義塾の創設に尽す所大なり常に國事に奔走し明治七八年頃土佐の片岡健吉西山志澄中島信行河野廣中等と共に国会開設民権主張の爲め大に運動せり、明治十一年京都日々新聞を興し時局を論じ井上馨朝鮮に弁理公使として派遣せられし際随行の一員にして中途病気の為め帰朝明治十七年歿せり。
(『与謝郡誌』は、)

『郷土と美術』が詳しいが、そちらを読んでもらうとして、小室信夫については『与謝郡誌』に、
小室信夫
 小室信夫は岩瀧村の人なり性質温良にして忍耐力強く好んで人の難儀を助く、家代々豪農にして縮緬生糸問屋を兼ぬ尊王愛国の心深く明治維新の際京都に在りて多くの志士と交る、明治五年蜂須賀侯に従ひて欧米諸国を巡遊し帰朝後同志を募りて民選議院設立の事を建議す後実業界のために力を致し会社銀行等を設立せり明治廿四年勅選せられて貴族院議員となりしが同三十一年六月年六十を以て病歿す碑を大内嶺に立つ。…




 沢辺正修(さわべせいしゅう)

沢辺正修旧跡(宮津市柳縄手)
小室信介の案内板を突き当たり、右へ行って30メートルばかりの場所であるが、その案内板には、
沢辺正修旧跡沢辺正修の案内板(宮津市柳縄手)
 沢迎正修は丹後宮津柳縄手のこの場所で安政三(一八五六)年一月十日に生まれた。彼の三代前の淡右衛門(号北溟)は藩儒としてひろく名を知られ、藩校礼譲館の興隆に尽した。正修は礼譲館を卒業して数え十三歳のとき、同館の句読師補に進んだ。
 明治三年(一八七〇)京都遊学、同五年(十七歳)山城綴喜郡田辺校校長となった。同九年宮津に一時帰省したとき、小室信介と民撰議院設立に努めることを誓ったという。この年田辺校を辞し、以来十か年、官憲の圧迫に屈せず闘い続けた。この地の天橋義塾は自由民権運動の拠点であったが、彼は社長に推された。同志とともに各地をめぐって懇親会を開き、国憲制定・国会開設の請願運動を行い、国会期成同盟や立憲政党の活動に席の暖まることがなかった。明治十七年ころから肺結核に侵され、明治十九年(一八八六)六月十九日最後の療養地熱海で若い生涯を終った。享年三十l歳。私擬憲法「大日本国憲法」は彼が中心となって作成したものと考えられている。
宮津市文化財保護委員会

沢辺正修
 宮津藩沢辺北溟の玄孫に當り小室信介等と共に国事に奔走し殊に自由党の板垣退助に従ひ國曾開設の爲に大に運動し民論を喚起したり又宮津天橋義塾の開設に努力し其功あり明治十九年六月熱海に於て客死す、行年三十二。
(『与謝郡誌』)

柳縄手通り(宮津市)
150年後の後輩たちが下校してくる柳縄手通り。奥の白壁が沢辺正修の家だった。小室信介は30メートルばかり行って左側になる。
宮津カトリック教会の裏側の通りでもある。
柳縄手通り(宮津市)


小室信介の4つ下。近所の秀才同士だから、互いによく知った仲。








天橋義塾の発展期

(以降は書きかけ)

市史は、
自由民権運動への途
 士族子弟の学習結社であった天橋義塾が、民権結社に変貌していったのは、明治八年(一八七五)の暮れから翌年の初頭頃であった。その契機のひとつは、明治八年末ごろから阿波(徳島県)の自助社の分社である淡路洲本の自助社々員白川敏儒が書簡を寄せてきたことである。天橋義塾は自助社に塾則・教科書を送り、自助社は天橋義塾に社則・教科書を郵送してきた。
 また、先述したように明治八年木ごろ与謝郡弓木村の機業家木崎清二が、若井茂吉を通して「千人溝」を義塾の幹部に提案し、粟飯原鼎や横川規らはこれに賛成している。この「千人溝」の周旋人集会の時に配られる予定であった、天橋義塾の扇子が残っている。表には、橋立の絵と漢詩二篇が書かれ、裏には趣意書に相当する文章が、扇面一面に書かれている。その末尾には、「紀元二千五百三十六年五月 豊岡県丹後国宮津天橋義塾 小笠原長道」という信介の署名がある。その内容は、「天ツ下に一といふ名をも得ばや」との心意気で、天橋義塾を創設したこと、「民権といふ、おおやけにたいらなる理を知らしめん」として、同社の兄弟たちが奮闘していることを強調し、「共にそこはくの力をそえたまいなば、いかばかりか皇国の幸ならん」と述べている(四−一八○)。「勤王=民権」論という当時の信介の思想がよくわかる。
 そして、第二節で述べたように、丹後における地租改正は、一度決定した地租を引き直すばかりか、第十三大区々長の鳥居誨を免職した。また第七小区戸長兼地券総代人の石川三郎肋を捕縛し、入獄させるという強権的なものであった。この地租改正での強権が、士族インテリや農民たちに、大きな影響を与えている。
 明治九年正月、沢辺正修が宮津に一時帰省し、信介と語って、「自由主義を執り、民撰議員の設立」を誓い、山城綴喜郡に帰ってからも、大いに「民権自由の説」を広めたという。これにたいする懐柔策として豊岡県は、四月、社長鳥居誨を区長に任じて但馬出石郡に行かせ、その後も幹事粟飯原鼎を学区取締人に任じて熊野郡へ、副社長の岩城親雄を副区長に任じて加佐郡に行かせた。
 信介は東京遊学中のため、義塾は幹事小笠原長孝、事務掛高橋亀八、教師粟飯原儀光を残すのみとなった。「天橋義塾略史」の著者は、鳥居らの「栄転」を、「県令義塾の盛隆を喜ばず、ためにその錚々なる者を除いて、その勢を殺ぐ者なり」との陰謀を推測しており、ここで「義塾略史の第一期」は終わっている。
 そこに西南戦争の時の弾圧であったが、この危機のなかで、天橋義塾は一連の改革を実施する。明治十年の暮れから翌年の夏にかけて、天橋義塾では会議法・委員章程・資本講規則・社則の制定、教則・醵出法などの改正をおこなった。とくに注目すべきは、地域ごとに組をもうけ(七組のち十九粗)、各組に委員を置き、全員参加の大会議で運動方針、規約・規則などの改正、決算・予算の審議、役員の選出などをおこなった。
 この改革を指導したのが、二十二歳の青年沢辺正修である。沢辺は、宮津藩の儒者の家に生まれ、明治四年の春、藩費生として京都に遊学して、信介と同じ山口正養に師事した。ほどなく廃藩になるが自費で修学し、明治六年からは綴喜郡田辺校の小学教員に赴任し、約三年の間、子供たちの教育に従事した。西南戦争の「国事犯」として拘留されたときも、獄中でモンテスキューの『万法精理』(「法の精神」)を読んでいたという逸話がある。明治十年十二月の天僑義塾の資本講規則に、沢辺ははじめて幹事として署名し、翌明治十一年には社長に選出されている(原田久美子「沢辺正修評伝」『資料館紀要』三号)。沢辺の社長就任は、天橋義塾の世代交代でもあった。



天橋義塾の終焉







天橋義塾の主な歴史記録


『丹後宮津志』(大正15)
天橋義熟
 宮津に於ける中等教育は旧禮譲館なる宮津藩学文武館が、明治四年廃藩によりて廃滅に帰せるを慨嘆するもの数師出身者ともに多く、就中粟飯原曦光、小室信介、沢辺正修等主として学館創設に努力し、明治八年時の管轄庁豊岡県の認可を得て宮津校西南隅旧文武館訓導室の一棟を校舎に充て粟飯原曦光を教頭として開校し命じて天橋義塾といふ、之れが経費は一口五圓一千口の資本講と生徒の月謝とによりて維持する事とし、学科は漢学を中心として授業せしも明治十一年九月英学科を設け、爾来漢学の外刑法治罪法等を講義して法律に関する知識の養成に力め当初塾生五十四名のもの漸次増加して百名以上に達し狭隘の爲のに一時小笠原長孝邸内に支塾を設け生徒の自炊入塾を許し後校舎を新築して之れに移る、然るに明治十八年京都府立中学校を宮津に置かるゝに及び義塾を解散し校舎器具機械を挙げて府に引継ぎ此に終焉せり。
郷土誌 曰
旧宮津藩校禮譲館廃止せられて以来明治八年有志者小室信介沢辺正修氏等の主唱により地方人士の醵金を以て天橋義塾を創設し高等普通学科を教授し来りしが明治十七年に至り府下郡部に三中学新設の議ありて一は南部山城に一は丹波亀岡に一は宮津中学校と称し當地に設立明治十八年より授業を開始せられ天橋義塾の校舎敷地は挙げて此中学校に寄附せられたり云々。

『丹後の宮津』(橋立観光協会・昭33)
天橋義塾の跡
 宮本町のカトリック教会から上へあがって、柳縄手の中橋へでると、その正面が宮津小学校である。ここは旧藩時代は藩校「礼譲館」のあったところで、一時は「文武館」や「文学所」などと改称していたのを、明治五年学制が発布されたのにもとづき、翌明治六年三月から「宮津校」とした。ところで、ここにいう「天橋義塾」は、その宮津校に関係なく、旧士族の子弟を中心に、明治革命後の自由民権思想がたかまって、小室信介・沢辺正修・粟飯原義光らの青年がたちあがり、自由民権の基本的な教育をさづける道場として、明治八年この宮津小学校々庭の北寄りに、「天橋義塾」を建てて、ひろく地方の向学の青年をあつめ、右にいった教育をさづける道場としたのであった。その後、この「天橋義塾」は発展して多くの青年に、新時代の息吹きをあたえ、大いにその名をうたわれた。ことに小室信介・沢辺正修たちは、板垣退助らの天下の志士とともに東奔西走、明治政府はためにその弾圧を考えるにいたった。
 おりから、小室・沢辺の二人は無理がたたって、病気におかされ、明治十七八年にあいついでたおれた。しかも一方明治政府は、「京都府立宮津中学校」建設を理由に、この「天橋義熟」を解散させるにいたったので、過去十ヶ年間の名誉ある自由民権の道場は閉じられたのである。今日、日本における明治前期の自由民権史をかたる場合、わが「天橋義塾」はかならず注目される存在であるが、このことはいかにその十ヶ年の意義が大きかったかを十分に示している。
 現在、宮津小学校の正門をはいって自彊館(じきようかん)へ向う右手に、「自由民権之道場・天橋義塾の跡」という立札をたて、このことを説明している。

『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)
天橋義塾のあと
 宮津がまだ豊岡県に属していた明治八年七月一日、小室信介、沢辺正修、小笠原長孝(信介の兄)は山崎義文、粟飯原蔵人(あいはら)らといまの宮津小学校の位置に自由民権を叫び天橋義塾を開設した。塾は粟飯原儀光を教師として旧藩士の子弟五四名をもって発足したが追々盛んとなり、後には百名を越すようになった。ところがこれは民衆の力の結集を恐れた官憲の弾圧するところとなり、やむなく閉鎖されて明治十八年宮津中学校の設立となった。
 しかし明治維新直後、親藩であった本庄氏の城下にあって早くも自由民権を唱え、官憲の度重なる圧迫にも屈せず学問の道を開いたという事は実は特筆すべきことといってよいであろう。

『郷土と美術』(1984.9)
天橋義塾と小室父子    中嶋利雄
 天橋義塾は丹後地方に開かれた私塾であるが、それを生み出し支えた人々に三つの階層を考えることができる。一は旧宮津藩士族、二に岩滝・宮津に根をはる商業資本、三が在郷地主・富農層である。ここでいう小室父子は父信夫とそのむすめ、さきのむこ信介であるが、父はその二を代表し子はその一を代表するものといえよう。
 そもそも天橋義塾は明治八年七月一日開業式を行ってより、同十七年九月閉鎖にいたるまでおよそ十か年、その輝かしい足跡を丹後に残したのであるが知る人はまことにすぐない。発足当時は旧宮津藩文武館訓導室(現宮津小学校敷地内)の一棟を借りて校舎にあてたが、まもなく小室信介の生家、実兄小笠原長孝邸(現宮津小学校前中橋を西へ渡った北のかかり)に支舎を設け、更にその長屋を寄宿舎にあてた。翌年七月には借り塾舎を引きあげて小笠原邸に移転したが明治十年十一月には中ノ丁(現宮津小学校校庭北辺)に新塾舎を完成し翌十一年一月移転式を行った。生徒数は当初五、六十人であったが数年ののちには百人程になり、丹後を中心に各地から遊学した。学習は漢字・歴史・作文・算術・法律・博物等多岐にわたった。教師は明治十六、七年ころの決算表をみても月に教師給三十六円とあるところからみると三、四人がせいぜいというところらしい。それで昼夜二部制をこなしていったのである。
 義塾開業の精神は明治八年十月天橋義塾塾則(結社人小笠原長道=小室信介)に「人材培養ハ論ナシ小学教育ヲ保護シ民権ヲ暢達スルガ為ニ創立スルモノナリ」とうたっていることに尽きているといえる。明治五年八月三日「学制」がしかれて小学校の普及に伴い、教員の需要は急速に大きくなり、豊岡県(当時宮津は豊岡県に属していた)にも教員伝習所がつくられたが小笠原長道は官制伝習所は「生徒ヲ教授スルノ方法ヲ教フルモノニシテ自己ノ才学ヲ達スルモノニアラズ」と考えた。民権伸長の場においてこそよき教師が養われるというのが根底の思想であった。一般人材の養成もまた然りとした。豊岡県ではいったん開塾の許可を出したものの、翌九年八月この地方が京都府に編入されたころにはこの義塾の存在は官側にとっては、好ましいものではなくなっていた。陰に陽に官憲の圧迫が加わった。このような状況下でとにかく日本の民権運動の衰退期をむかえるまでこの塾が生きつづけたということはある意味では驚異といってよい。十年の歳月は決して短命といい切れぬものをもっている。それでは、かようにこの義塾の生命を強固にしたものはいったい何であったであろうか。第一に両丹・但馬にわたって民権伸長をめざして展開された広汎で組織的な政治活動に支えられていたことである。しかもその政治活動は常に全国的な民権運動と深く結びついていた。以上の意味では学塾天橋義塾は政社天橋義塾というもうひとつの顔を見落してはならない。第二に、資本講(千人講)維持講等財政組織の下からの結成に成功し、それがそのまま義塾を支持する連帯感を強固にするのに役立ったということであろうと恩う。
 小笠原長道は明治五年府下綴喜郡井手村(現井手町)小学校の教師であった。同八年同校を辞し義塾の創設に尽した。義塾の指導陣には彼のほかに沢辺正修・粟飯原曦光ら多くの人材があった。概念的にすぎるかもしれないが学塾天橋義塾の顔を粟飯原とするならば小笠原・沢辺は政社天橋義塾の顔といってよいだろう。その両面の運用よろしきを得て組織力を発揮したのが小笠原(小室信介)であったともいえよう。しかし彼の活動は変化に富み必ずしも丹後に腰をおろして義塾の経営に専念するというわけにはいかなかった。先ず当時もっともすぐれた民権政治家小室信夫との出合いは彼の生涯に最も大きな影響を与えた。小室信夫は与謝郡岩滝村の最大の糸商・廻船業の山家屋一統で信夫自身も京都に支店を構え活躍していた。維新ののち徳島県大参事等歴任して明治五年にはヨーロッパ視察に赴きロンドンに滞在した。翌年帰国してより民権運動家と交わり明治七年一月「民撰議院設立建白書」の署名人の一人でもある。愛国社の結成にも参加した。
 小笠原長道は小室信夫に見込まれて小室家に入った。その後の彼の生涯は多彩であった。西南の役当時は拘留されたこともあった。明治十二年〜十四年ころは大阪日報・朝日新聞等にも関係をもって民権の主張を鼓吹した。その後も大阪日報の後身日本立憲政党新聞に関係をもちながら山陰各地の遊説に奔走した。明治十五年九月立憲政党員登録当時の住所は大阪であった。翌十六年三月立憲政党は解党を決議した。彼は東京に赴く旅の途中であった。翌年九月天橋義塾も解散を決めた。当時信介は清国に出張していた。彼が大阪以来書きかけていた『東洋民権百家伝』の刊行を終ったのはその年の六月であった。その書物は十二月、義塾創設以来の功労者に慰労として贈呈された。             丹後地方史研究友の会々長






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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