丹後の地名

津母(つも)
京都府与謝郡伊根町津母


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京都府与謝郡伊根町津母

京都府与謝郡朝妻村津母


津母の概要




《津母の概要》

津母(伊根町)

 町の東部で泊の北、東は若狭湾に面する。村は漁業をもっぱらとしたという地曳網のようである。若狭系の製塩があった。新井崎から経ヶ崎に至る伊根町の海岸線は丹後天橋立大江山国定公園に属し、安山岩系の海岸の風景に特徴があるといわれる。
津母村は、江戸期〜明治22年の村名。慶長6年から宮津藩領、のち寛文6〜9年・延宝8年〜天和元年と享保2年以降は幕府領。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年朝妻村の大字となる。
津母は、明治22年〜現在の大字名。はじめ朝妻村、昭和29年からは伊根町の大字。

《津母の人口・世帯数》 62・28

《主な社寺など》

八坂神社が鎮座。
八坂神社(津母)

八坂神社
 朝妻村字津母小字小川、村社、祭神須佐之男命.維新前牛頭天王を祭りしも大原の八坂神社と同様の径路を辿りて今村社、氏子二十八戸、例祭同日、外に秋葉社あり。
(『与謝郡誌』)

八坂神社 津母小字小川(旧村社)
祭神 建速須佐之男命(元牛頭天王と八王子を祭る)
例祭 四月十五日
沿革 社は元「ヨシガク」といわれる現在の町道より上の山側に建立されていたが、その後籠堂が建てられていた「宮の森」に移され、更に人家の火災と共に炎上し、現在地に再建されたと伝えられる。「宮の森」には現在も境内社と石灯龍や石の階段が残っている。創立は貞応元年(一二二二)四月二十六日とされているが、現存する記録としては、天文二十四年(一五五五)十月二十二日明記の「津母御宮造立」の棟札がある。棟札には領主が二階堂氏で、その代官として三富修理亮、国代官が太田新左衛門尉時直とあり、「地頭」「領家」「公文」等がそれぞれ神社の建立を祝って銭一貫文ずつ寄進し、その他泊村・長延村・新井村・峠村・伊振村(井室村)からも銭五百文宛寄進した記録が残されている。また土御門家より祝文があり、餅をつき「小餅数百」を供えて、盛大な落成を見ている。当時在地の有力者として「祢宜権守紀為久」「刀祢権守高橋治兵衛」等の名が見える。その後の棟札等による記録としては、
元禄九年(一六九六)二月再建。「本願高橋祢宜長石衛門」他三十一人の名が連ねられている。
寛政十一年(一七九九)秋再建立。施主として海見寺住僧龍山並に氏子中より建立したことを、振宗寺住職二十二世鏡山慧戒が誌している。
文化三年(一八○六)火災により焼失。同年七月五日再建。この時は庄屋忠左衛門、年寄治左衛門、惣代助九良が村役の時で、振宗寺の住職慧戒は海見寺に隠居し、庄屋と同額の銀十五匁を寄進し、村内の有志の他本庄浜村・宮津その他「作州の住人」等多くの篤志家の名が記されている。
天保三年(一八三二)屋根の修理葺替。大工棟梁として宮津波路町善治良他四名の職人の名が記されている。
天保九年(一八三八)ふたたび焼失。
天保十四年(一八四三)八月四日再建。「奉納祇園牛頭天王之宮」とあり、鍵取として高橋與左衛門を始め、庄屋・組頭・百姓代の「村方三役」の村役人の他、大原村・六万部村・井室村の有力者の名と共に「心中所願」する者の名も記され、棟梁大工六万部村上山氏儀兵衛、棟梁木挽井室村枠田氏新吉の手により再建されている。
明治六年(一八七三)村社となる。
祭礼 宵宮には夕方祢宜の家に若連中が集まり、各戸の家主と共に高張提灯と手丸提灯をつけて、伊勢音頭で神社へ参り、神前に参拝後太刀振りを奉納する。十五日の本祭には神官の礼拝儀式の後太刀振りと花踊りを奉納する。…
(『伊根町誌』)


潮見山海見寺
海見寺

潮音山海見寺
 同村字律母、本尊華厳釈迦、永正十三年丙子振宗寺二世竹香春可和尚開基草立、宝暦三年癸酉五月再建。
(『与謝郡誌』)

潮音山海見寺(曹洞宗) 津母 廃寺時檀家三四戸 津母一四戸 野室一○戸 峠 一○戸
本尊 木造釈迦三尊像
開山 竹香舜可
由緒 永正十三年(一五一六)振宗寺二世竹香舜可により創立された。
宝暦三年(一七五三)五月再建。境内坪数一四二坪。昭和三十六年(一九六一)閉山し振宗寺に合寺となり建物は現在公民館となっている。
 本尊釈迦如来及び両脇侍像三躯は室町時代の元亀二年(一五七一)の作である。
 潜り堂 津母
本尊 延命地蔵菩薩
由緒 元津母地区の入り口に建立されてあり、集落に出入りする時は必ずこの堂を潜らなければならなかった。この堂内には延命地蔵菩薩がまつられていたが、道路の拡幅整備により取り払はれ、現在仏像は津母区公民館に安置されている。
(『伊根町誌』)


津母製塩遺跡
平安期の津母製塩遺跡がある。
津母の製塩遺跡−−伊根町字津母小字下地−−
 塩は古来からわれわれの生活にとって欠くことのできない貴重なものである。奈良、平安時代には海に面した国々から朝廷に納める貢物の一つとして重要な品種であり、一般に物々交換の場合には米の二倍以上の価値をもつものとして貴重であった。古代の製塩遺跡として若狭湾岸にあって、これまでに舞鶴市内の三浜と瀬崎 (いずれも西大浦)に発見されている。
 津母の製塩遺跡は、昭和四十八年(一九七三)に津母の海岸に最も近い浜野茂家の自宅を改造中に、宅地内の地表下一・五メートルの黒色土中から多数の製塩用の土器が出土した。遺跡は海から約一○メートルの距離にあり、海面から約五メートルの高い位置にあたり、すぐ北側には畑地があり、若干の土器細片も見られ、遺跡の範囲は約二○メートルに五○メートルの規模である。
出土品
 須恵器−坏身一点、片口鉢一点
 土帥器−椀一点、皿一点、甕二点
 黒色土器−椀 二点
 土製支脚 七点 砥石一点、獣骨(いのしし)二点
 これらの出土品のうち特に土器製塩を示すものとして、土器を支える土製支脚が出土したことは重要な意義をもっている。土製支脚は塩水の入っている土器を支えて、周囲から高温の炎であおられるため、外面は赤褐色に焼けているが、質は堅くそれだけにもろくなっている。津母の土製支脚は直径二〜三センチ、長さ約一○センチの棒状品で、上に土器をのせて火をたいたことが分かる。発見時には多数の礫が出土し、この支脚を立てるための炉石としていた。この遺跡に見られる製塩法は、平安時代の若狭系の製塩法で、海水を土器に入れ煮つめ濃縮してつくる土器製塩である。
(『伊根町誌』)


《交通》

《産業》




津母の主な歴史記録

『丹哥府志』
◎津母村
泊村より西十八町、其間に中山嶺あり。
【午頭天王】(祭七月廿四日)
【潮音山海見寺】(曹洞宗)
【黒島】(島の上に金毘羅の社を安置す)
【鍾乳石】(出図)
津母村より海浜にそふて舟行七、八町斗行く處に岩穴あり、口の広サ二間余の深サ十二、三間穴の高サ一丈余、穴の上より石液濁り氷柱の如し、所謂鍾乳石なり。


津母の小地名


津母
上地 川ノ上 ジユシキ ムカイ 寺ノ上 寺ノ下 小川 中田 中手 アンジヤ ツチンド シヨウブ田 ヨシカク 中田 カツラ谷 平三郎 崩 ドウシキ 大谷 三ツ町 寺道 山ノ谷 アカハゲ 脇株 出合 ソン谷 大谷口 カシケ谷 ヲヤスバ カツラ谷 船坂 コマリ山 シユド クロ山 イリコ谷 谷畑ケ 大ハゲ スケ田 池田 テバシ スケ口 ヲチ町 池ノ奥 池 此上 家ノ上 ハザコ ノボリ立 ハカノサガ 茶ノ木 三治畑ケ サカイキ ヤワタ ヨコシナ 大成ル フタコタ 立畑ケ 石原 モリヤク ヨコ畑ケ 糀畑ケ 蜂ケフロ ヨウラ 田原 桑ガヱ 中ヨウラ 大坂 ダケガ下 ホド原 大クゴ 大久保 カサハヤ 茗ケ谷 ムサシ 大山オリ口 大山 大山登り 大山上田 大山下 大山ノムカヘ 大山明ブ谷 ゴキサラ オテ谷 クゝリカ成ル 高シ 水谷 クラ畑ケ ザトウ ニイ田 大畑ケ オリウネ原 高平 イナキバ 家ノ上 四方 稲木場後 ヒチリ川 ツチンド 上松原 柿ノ木原 桂谷 イノキ ヲチ町 大林 ナカイマ シヤト原 大谷原 小谷 大谷 一本松 出合 サクラ ヨコ道 大クゴ ドワン原 ヨコ道 松尾 大平 スケ田 風ルヤ クコウ 高山


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『伊根町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん



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