丹後の地名

山中(やまなか)
宮津市山中


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京都府宮津市山中

京都府与謝郡宮津町山中

京都府与謝郡城東村山中



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山中の概要




《山中の概要》
市の東南部。神子川の中流域に位置する主要地方道舞鶴宮津線に沿う山村である。
主要地方道と言うが、ほとんど誰も通りそうにもない狭い道で、今も車二台がすれ違うのが苦しく、車を駐めておく場所もない。おまけに道路工事中でご親切に道を塞いでいた重機を止め移動させて「行け行け」と旗を振ってくれるので、のんびりと見物などはできそうもない、どんどんと行かないと仕方ないようなことで、村は小さいのですぐに通り過ぎてしまう。古くからの宮津と舞鶴を結ぶ間道で、宮津を発して皆原村から登り、山中村・栗田新宮村を通って板戸峠を越え、加佐郡岡田に通じる道を山中越という。和泉式部の時代とあまり変わらないかも知れないような小径のその谷底に山中という村がある。地名通りの村である。
↓村の中程あたりにこんな案内板がある。とてもビジョだったんだ。目がかすんでいるのかカボチャにも見えるような…
案内板
↓これがお墓だそう。江戸期の文献にも紹介されている。この手前側に彼女の庵の跡があったという。
和泉式部の墓

山中村は、江戸期〜明治22年の村名。慶長検地郷村帳に「下宮津之内」として「山中村」とみえる、その後個別に高付され延宝3年郷村帳に「下宮津山中村」96石余と記される。
はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降は宮津藩領。明治22年城東村の大字となる。
山中は、明治22年〜現在の大字名。はじめ城東村、大正13年宮津町、昭和29年からは宮津市の大字。

墓から見る山中の集落
↑お墓から村を見る。

《山中の人口・世帯数》 55・16

《主な社寺など》
日吉神社
薬師堂
中央部に和泉式部の墓と伝え、また庵の跡と称する伝説が残る。下の引用文献参照。

《交通》
この道、山中越え、しかありません。


《産業》


山中の主な歴史記録

《丹哥府志》
◎山中村(皆原村の次是より新宮村へ出て加佐郡漆原へ出る)
【山王社】
【薬師堂】
【和泉式部の庵跡】和泉式部は越前守大江雅致の女なり、和泉守道貞の妻となる、よって和泉式部といふ。和歌を善くす。女子一人あり小式部といふ。道貞の没後上東門院に仕ふ(歌遷伝)、既にして亦藤原の保昌の妻となる(袋双紙)。先是性空上人といふもの播州の書写山に居る世を挙て之を崇信す。式部歌を作て之に贈る、其歌に曰「くらきよりくらき道にそいりぬへきはるかにしらせ川の端の月」、世の人情妙とす。(新古今和歌集)詞葉和歌集に云ふ。後保昌忘られて侍る頃兼房卿訪ひければよめる
人しれず物思ふことは習ふにも  花に別りぬ春しなけれは
又云ふ。前保昌に具して丹後に居りけるに忍びて物いひ来せる男の許えいひ遣しける
我のみや思ひこせんあしきなく  人は行衛もしらぬ物故
丹後旧記云。藤原の保昌丹後の守となる頃和泉式部保昌に随ひ丹後に来る。保昌既に任国終て再び都に帰る其後和泉式部は与謝郡山中村といふ處に庵を結び、之に居て老を慰めける。保昌の次に兼房卿丹後守となる、折々和泉式部の草庵を訪ひ和歌の物語などありしとぞ。今其庵の跡に浅黄桜あり、俗に式部桜といふ。
和泉式部の墓
【和泉式部の墓】(庵跡の東出図)和泉式部の墓といふもの處々に建ちたれども多くは是式部の和歌塚なり。吾丹後に於ても又三ケ處に在り一は鶏塚なり、一は桜山なり、蓋其風操の名高きを以て好事のもの之を為せり。其終焉の地はいずれの處や詳ならず、今居住の地を以て考る時は京師と丹後の両所に定る。又細に其両處を考るに和泉式部の卒せしは正暦三年なり、保昌と倶に丹後に来るは是より前僅に四、五年保昌四年の任国終て後式部は丹後に留る、之を以て観る時は式部終焉の地丹後と為して可なり。
【辻の谷】(惣村の南宮村の枝郷)
【虚空蔵】(祭六月十二日)

《与謝郡誌》
日吉神社
城東村字山中小字小島、村社、祭神大山咋命、配祀火結命、往昔山王権現と称し近州坂本より勧請せりといふも年暦を知らす、弘化四年八月社殿再興明治六年二月村祭に列せらる、氏子二十一戸當村小字森垣に森垣神社あり火結命を祀りし所大正五年三月一日本社に合併す、祭典四月十五日。

《丹後宮津志》
邨岡良弼の日本地理志料理に宮津郷の区域を次の如く云へり。…宮津志云与佐宮阯在文珠村、郷名取此、…丹後旧事記如願寺在宮津市場一条帝時剏之本洲七大寺之一也、…今宮津町領二三十四坊一亘宮村、惣村、文珠、皆原、山中、脇村、中村、小寺、上司、波路、獅子崎、中津、矢原、田井、今福、小田村富久地、旧阯在普甲山云、久理陀ノ神社在上司、多由ノ神社在田井村ノ田井谷、杉末ノ神社在宮津杉末町、伊侶波字類抄、普甲寺延喜中建、在丹後ノ普甲山、普甲山一名与謝ノ大山又呼千丈ケ嶽以界二丹一。

普甲嶺栗田嶺の中間に山中に入り栗田の狩場より漆に出でヽ田辺に通ずる間道これを山中超えといふ、丹後宮津記に曰
 和泉式部屋敷跡 城下より廿町餘北東の方山中村にあり此所右え式部屋敷跡と云へり山際に小社あり其側に石塔五輪もあり浅黄櫻楓の大木枝ふりて深くたる所なり。
 山中に寝られざるもの夜もすがら
  ふく風にこそ驚かされて   藤原方則
是より直ちに山路を行けば栗田上郷ほ経て田辺へ近道なり柴道を行けば田辺へ五里也是より左へ取って下れげ栗田の脇村と云所う出也。

和泉式部庵跡
 下宮津城東村字山中に和泉式部の庵跡と傳ふる處あり、近傍に浅黄桜と楓樹あり宝篋印塔もあって式部の墓地なりと傳ふるも定かならず。
丹後細見録 曰
 式部桜、今の宮津の巽の方二十余町山中村といふ所にあり、爰の山端の畑中に和泉式部の宅地の跡とてあり、其岸に添て半枯の櫻一本あり民俗浅黄櫻なりと称す、此一本は和泉式部手づから植えられしと傳ふ、保昌任国終て再び都に登りこされける頃式部は當国に居残り海山の眺望を生涯の思ひ出に任せて、此国の大和哥を残されよとあるを式部心憂く思ひて
 いかにせんいかにすべきか世の中を
  そむけば悲し住めば恨めし(金葉集)
斯く詠じつゝ板列の館を出で吉原の里山祇の神に参詣し思ふ事神に告て七日が程祈念ありけるとて仕への女に語らせける。
 悪しかれと思はぬ山の峰にだに
  たふなる物を人の願は
此願ひ終て後は仕への女が故郷なるまゝ吉原の里に隠れて有りけるとかや、其後兼房卿次の国司に下向ありて此由を聞て吉原の里へ尋ね入り和泉式部爰に住給ふよし伝聞て国づかさの者尋ね参らすとありけれげ式部は夢の心地せられて都人とやなしかつと柴の納戸を開き見るに思ひ懸ぬ兼房卿なるまゝ伴ひ入て物語ありける内保昌に忘れられて侍る頃兼房問ひ給ひければ詠る。
 人知れす物思ふころは習ひにき
  花に別れね春しなければ(詞花集)
兼房は式部の物語ふ世に痛ましく思ひて板列の館へ任国のうち和歌の閑談ありとかや、山中村の閑居も兼房の建立也式部の老を慰められしとかや。
 夕くれは物思ふことの増日かと
  我ならさらん人に問はゝや
 春や来る花や咲くとも知らさりき
  谷の底なる埋れ木の身は
是等の類ひは皆老の末此山中村閑居の述懐なり云々。
城東村=惣・皆原・波路・山中・滝馬・宮村・獅子崎・鍛冶町・猟師町。世帯数284、人口1020

《郷土と美術2》(昭14)
丹後の伝説
  与謝郡山中村
   沢村秀夫
傳説は芸術の一種類である。文字なき時代に、又文字あるもそれを解せね民衆や子供に、語り継がれた文字無き文芸である。それは時代と共に、語り手と共に変化し流動し、それ故に常に生きてゐる。傳説は口で語り耳で聞くべきで、これを録し目で読むことは傳説への冒涜であらう。丹後は傳説の資庫であるが、これは丹後が上古歴史的事件に富むことゝ雪国である関係上冬の炉辺の物語が楽しまれた爲かと思はれる。文字の民衆化と共に文芸が盛んとなり傳説は今や失はれつ入ある。惜しいことだ。冒涜ではあるが丹後の傳説を本誌に蒐録しようと思ふ。山中村舊記は宮津の東、山中村の傳説を録したもので、松下満寿子氏の写本により、猶現在同所区長松下久蔵氏宅に保管されてある原写本(原本は以前某氏に貸した侭行方知れずと)に照合し此處に掲記した、記事中のからびん山、彌左衛門屋敷跡、浅黄桜は同村に在る。

○人皇三十一代用明天皇御子聖徳太子より五人目、麻呂子皇子丹後国之鬼退治ありしより四百八拾年を経て人皇六拾六代一條院の御宇に当て大江山に酒天童子住居しけり、又有田村に於て金引山命安寺と云ふ寺あり。其頃山中村にかろびんといふもの羽を休め居る處に、酉気仙人通を失ひともに遊び居てつひに夫婦ことしければ其後仙人終に死にたり。然處からびんは此地に居れば自然と羽に腐り入て天へ帰る事不能とて永々月日を送りけり、露を食物として居る也、爰に曾志比丘といふ人あり之を頼んでじやうに入りたり、今にからびん山中村にある古き人に語られしとなり。そのからびんと云もの顔は人間に似て体は鳥なり。


○丹波国丹後と別れしより寛政八年辰迄既に壹千壹年となる。源頼光公天延四年大江山酒呑童子打退治より八百廿壹年に至る。然る處天延七年之頃頼光一ノ郎等に臼井保正と云ふ人丹後住乃江浦嶋に三年ぜ計り御出罷成、然れども強気にして獣多く狩殺し給ひれ。天乃橋立遊興之節誤て金の樽を興謝の入江に沈めける、猟舟に網を引せけれども樽は懸らずして鰯多懸りける、之を号けて金樽鰯と云。其後保正都へ帰りけり。其頃文殊堂は二間四方の本光院と申寺也、山伏の持分にて其人の名は三学坊と云。其頃阿波国鳴渡殊之外鳴り渡り種糞評議しける、爰に丹後国久世戸文殊に三学坊とて名高き山伏あり、これを頼み祈祷すべきとて飛脚彼の所へ来り暫くあつて三学坊京都へ参られげる。偖京都に滞留し清水辺へ参りしが保正の后和泉式部に出合ひ歌の文句を聞なんとしてありけるに、式部もふされけるは貫芳は何方へ御出罷成候と間はれければ、拙者義は阿波の国鳴戸の祈祷に参り候と云ければ何を以て祈祷罷成候哉、いやとよおのこ艸なりともふしけり、其場を別れ直に阿波の国へゆき歌に曰く「おのこぐさ種は蒔ぬに生へれども阿波のなるとは誰か云ふらん」と詠じけり、早速鳴戸はやみにけり、今に至て和泉式部の歌にて止みたりと云傳ふなり。三学坊へは早速返事ありしとなり。其後式部夫に離れしより此丹後の国へ執行に来り先つ住の江の浦嶋へ着罷成、御経六万部集め来りて供養ありし所を六万部村と名付けり。偖て帰り懸け本光院に止り終に餘目になりね。然れども都へ帰り度恩召されて此子は道中にて産捨にすべしと云ふて帰るさに文殊赤岩にて安産いたされ、其子は服紗に包み錦の守り袋を添へおき其侭都へ帰りける。然る處山中村に時野彌左衛門と申て宜敷百姓これあり、此人文殊参詣之戻りがけ此子を拾ひ我家に帰り乳母を取て太切に育て八才になりける。然る度へ和泉式部彼の彌左衛門へ来りて宿をかりけれは彌左衛門心易く留めければ帰るさに歌を読みけり、其歌に曰く、「おぼつかなねられるやらぬ山中の松吹く風におとわかされて」と読みければ、此八才になる女子申には伯母さまは変りたる歌を読み給ひしものかな寝れたればこそ御泊りも成たり夫では歌にあらず、読み直しみ見せむと云ふより早く「おぼつかな寝られもざらんと思ひしに松ふく風におとわかされず」と読みければ式部大いに仰天し偖て彌左衛門に向ひ其元は如何なる御人にて候哉、彌左衛門の云、私共は昔しより此村の百姓にて候、左様なれば此娘子はおまへの御子にて候哉と問ひければ、いやとよ此子は八年以前文殊赤岩にて拾ひ帰りし子也、錦の帛に守袋御座候、御目に懸んと見せければ、式部もふされけれは此子は正しく文殊本光院三学坊の子也、則私が産る子なり、何卒私にたび給へと細々語られたり、彌正衛門云く我れとても我子にあらざれば、早速に返事も申難くと云けるを、色々無理に泪を流して貰わんと云ければ然は進上申と彼娘を返されけり。式部殊の外悦て此子は出世いたす者也とて桜の枝を指木に致し、もし此子出世いたすならば此樹に枝たれ葉茂りて花咲べし、もし出世せざれば此通りとなるべしともふしてこの子は連れ帰りけり。偖四五年の内に其樹に枝たれ葉茂り浅ぎ桜の花咲ければ、彌左衛門こらへかねて都に登り様子尋て彼の娘に逢たり。彼娘は十二ひとへの緋の袴にて小式部の内侍とて尊き姿なり、小式部申されけるは偖々昔の父が懐かしや何おか恩しやう送らむとて箱壹ツ持出し給ひ、これは日本に只貳つの宝なり金の鶏にて候何卒人に知れざるやう御持帰り罷成必ず人に見せ給ふ事なかれ若し知れ候得ば我とても悪しかりなんと念頃に渡しける、彌左衛門はおし戴き持帰り大切なるもの故にほつほつ思案して、これは我が家に置ては恐ろ敷思ひ、其節有田村に金引山命安寺と云寺あり、成る上人とて名僧おはしける、これ馴みの上人なり、これ屈強のことゆへ此箱を預けけり。此上人も災難出来致し其頃十四歳になりける児に子を孕みて彼の娘有田村の内児が淵と云ふ所へ身を沈めけり。彼上人も不便に思ひしや障子に書置して曰く「朝日耀く夜月照らす白椿の本に金の鶏を埋みてあり」と書置して同じく児が淵に身を沈めけり。有田村の内深き谷底に不動が滝とて名瀧あり、其下に児が淵とてすぎましき沢あり古き跡の處也。
     参学坊の哥に
 保正や金樽海と名づけられ
   末の世までも残る言の葉
寛政八年丙辰迄命安寺より八百年程に成る。有田村は古き村なりといふ。
  維時明治廿八年乙未夏日
           七十七翁
            牡丹園瓢々斎聴濤
               応 需 写 之
 聞て見よ古き噺しは山中の
    深き谷間に響く瀧津瀬
(沢村追記) この原本は寛政八年(今より百四十三年前)筆録したものと認められる。写本の筆者は同所の中北藤次郎氏だったといふことである。金引山命安寺のことは最近金引瀧の上方より石佛の出土したことゝ関係あるやうに思はれる。

《宮津市史》
加陵頻伽の塚 字山中・古塚
宮津より東半里斗皆原村山中に有り。俚民加陵頻伽の塚と云。むかしは音楽の音此塚より聞へしといふ。何事を誤り伝へしにやいぶかし。塚の上松一本生ひたり。今に至て此塚に近よれば祟りありとて土民おそれあひて、塚の辺にては僅の木草にても苅とらざるなり。
                 (宮津府志拾遺)

《丹後路の史跡めぐり》
山中の里
 溌雲洞のちょうど裏道、由良の七曲八峠から宮津へ通じる途中に山中がある。
 情熱の平安歌人和泉式部は夫保昌を由良湊へ見送ったあと、京への帰国を断念してここに庵を結んで生涯を終えたという。
 一説に峰山の和泉谷からここへ移り住んだともいう。

  山中にいねられさするや夜もすが ら
      松吹く風におどろかされて

 その館には式部桜という大きな桜の木が植えてあったというが、いまは楓の木が植えてあり、その下に式部の墓という宝篋印塔や五輪がたくさん並んでいる。式部が文珠街道の一杯水で出産の女を助けたところから、この塔を安産の神として祀っている。
 長元二年(一○二九)保昌の次の国司として着任した藤原兼房は度々山中の里の式部の館を訪ねて歌物語りなどし
たと伝えるが、やはり保昌を失った淋しさはかくし切れなかったらしく暗い歌を残している。
  春来るや花や咲くとも知らざりき
      谷の底なる埋れ木の身は




山中の小字


山中
狭戸 家ノ下 家ノ上 家ノ裏 家ノ前 峠 為次郎屋敷 五平治ノ上 久左エ門下タ 長造下毛 道ノ淵 森垣崎 藤次郎屋敷 久左エ門屋敷 小島 三軒家 尼ケ谷 小大土 中ノヲサ ヒヤケ田下 ヒヤケ田 峠谷 柳谷 助蔵下タ 川原壱町 川原壱町ノ上 道ノ下タ 峠尻 空高 九左エ門谷 空高奥 壱丁田 滝ケ鼻 家ノ下タ 薬師河原 大浅町 薬師川原 大町下タ 宮ノ下 宮ノ上 家ノ奥 子キ田 森垣 ヘゴ谷 中村垣 西谷 西谷奥 千代 チブ田 ズベケ谷 柳ノ壷 細田 松ケ下 平蔵田 杉ノ木 堀越道 堀越道裏 馬場 原田 細首 細谷 馬場 中島 九日田 棒木場 芋谷 高岸クゴ カクレ谷 志士原 アケ谷 木ノ軒谷 カヤノ ヒロイゲ谷 サソウ 出口 喜十郎屋敷 家ノ廻リ 弥左エ門屋敷 道ノ下 家ノ上土 五平治下 家ノ上ミ 家ノ下モ 新宮峠下タ 儀平住 薬師ノ上 堀田上 丸山 油センチ 虚空蔵尾 辻ノ上 北谷 狭戸奥 西ノ奥 梅ノ木谷 喜十郎ウラ 五平冶上 薬師ウラ 千文田 佐エ門裏 大政宮 深田上 市場ケ谷 カコチ マケ谷 ヲヤシラズ ヒロク谷 金石 ユリケ谷 小田ケ尾 地蔵ノ尾 椿谷 柏野 小島

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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