京都府与謝郡与謝野町弓木
京都府与謝郡岩滝町弓木
京都府与謝郡岩滝村弓木
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弓木の概要
《弓木の概要》
大内峠から西側である。野田川の河口部の北側に位置する。「いみのき」「ゆみのき」「いみき」ともいい、忌木(慶長郷村帳)・斎木(京都府町村沿革取調書)とも書いている。地名の由来を、『岩滝町誌』は、
東の方、岩滝区に近い方の山上に一色五郎義清の城跡がある。「けだし弓木の字名は一色の元の姓、忌寸から出たのではにかろうか」という説もある。また一説には、弓木は、忌除から転化したもので、即ち男山八幡神社の信徒一族に死人等があった場合に其の汚穢不浄を神に対して忌み憚り忌中の間一時此の地に転居したので此の字名がついたのであるともいわれている。 |
としているが、忌の木・斎の木は今で言えば神社祭礼の際に立てられる幟のようなものである。これで神域が占められ指定されるわけで、幟が立てられた範囲中は一切の穢がゆるされない、モノイミの範囲になり、たとえば下肥を持つなどは厳禁だったし、畑仕事をしてもならいほどであった。そうした厳しい何日かの精進潔斎をして神の来臨を迎えたのであった。今はそんなことなどヘーキで郷土の歴史を伝える者もないし教えもしないが、ちょっと古い人に聞かれれば、昔はそうやったで、ノボリが立つとアカンかったといわれるだろう。古くは忌みの木(榊か)が立てられるそうした祭りがあった神社かあるいは磐座か、あるいは日ノ内古墳かそうしたところで忌み祭があったのではなかろうか。
ド素人が言うのでは頼りないと思われる向きに、柳田国男に聞いておこう、
「日本の祭り」に、
…私は寧ろ反対に、六年一度の大きな祭をする爲に、必ずこの高い樹を立てることになったものと考へて居る。即ち是も亦祭の揚處を指定して、是から中は清浄の土地、榊さまの御降りなさるゝ庭といふことを標示すること、他の大小色々の木も同じであったらうと思って居る。
境に木を立てし外部の穢れを遮断するといふことは、よほど大きな祭でないと出来ぬことだが、外にもこの様な儀式を中心とし又は特色とした祭が幾つかある。たとへぱ紀州岩出村の岩出大宮、古くは総社権現と称して、根来寺の地主神であった御社も、俗にヨミザシ祭、字に書いて斎刺神事といふものが是である。是は毎年八月朔日の夜の真暗闇に、榊の木を舁いて村の東西の両端にもって行って立てる。道中は鉄棒を引いて警固し、行列の前後左右に水を振りそしぐ。この榊の葉には有難い力があると信ぜられ、附いてあるいて一枚でも取らうとする者が多いと、那賀郡誌には見えて居る。斎刺といふのは忌の木を境の地に刺すことで、之を刺し立てると其木から中が、祭を営むにふさはしい浄い處になるといふ意味であらう。村全体を斯うして囲ふことは実は広きに過ぎ、従って却って穢れを大目に見なければならぬ様な結果にもなるわけだが、祭に幟を立てる村でも、それを御宮の入口や頭屋の前で無く、村の往還の両端に立てる例が折々ある。昔は村中が一心になって、物忌を守ることが出来たものと思はれる。信州の穂高神社に於て境立てといふもの、是も四方各十町ほどの境の端に、榊の木を立てる儀式で、南安曇郡誌には詳しい記録が載せられて居るが、現在は杜殿造営の年だけに限るといふことである。十町四方もの広い区域を斎場に指定して、榊を立てゝから後はもう一切の穢れを入れないとなると、今の社会ではとても毎年は行ひ難いだらうが、以前は或はそれでも行はれたか、或はもう少し狭い医域を限って居たものか。土地へ行って調べて見たらまだ判るだらう。 |
「こども風土記」に、
ゆの木の祝言…ユといふのは「ゆゝしい」などのユで、元は斎の木又は祝ひの木のことであらうから、或は最初門松などの下に立たせて、子供にめでたいことを唱へさせる習ひがあったのかも知れぬ。信州の松本などには、盆の七日にも柱を立てゝ、その柱の根もとに一人の児を坐らせて、祭をしたといふことが、たしか天野氏の塩尻に見えてゐる。神の依りたまふ木から我々の中へ尊い言葉を伝へるのが子供の役であり、それが又正月の御祝いひ棒に言葉を鮮聖にする力が籠るとした古代人の理由かと思ふ。 |
あるいはこうしたことかもわからない。
北部が旧弓木村の集落で、岩滝の立町に接続する商店街となっている。南部は旧弓木村石田の集落。ともに丹後ちりめんが中心、昭和54年の織機台数約1、100台だそう、いまもパタパタの機織の音が聞こえる。野田川の南部に大江山ニッケル橋立工場がある。
中世のいみの木。「丹後御檀家帳」に「いみの木 此里地下は表へ入こみ也」「いみの木の地下にて」とあり、稲富氏には「大なる城主也」との注が付されている。「丹州三家物語」「一色軍記」には丹後守護一色氏の弓木城が見える。紹巴の「天橋立紀行」に「忌木と云浦まで舟にてあがる」とみえる。
弓木村は、江戸期〜明治22年の村名。枝郷に石田があるが、分離の時期は不詳。宮津藩領。ただし寛文6〜9年と延宝8年〜天和元年は幕府領。明治4年宮津県、豊岡県を経て同9年京都府に所属。同22年岩滝村の大字となる。また岩滝村とともに明治10年代の丹後における自由民権運動の一拠点ともなった。
弓木は、明治22年〜現在の大字名。はじめ岩滝村、大正10年からは岩滝町の大字、平成18年3月からは与謝野町の大字。
《弓木の人口・世帯数》 1850・629
《主な社寺など》
5月1日の還幸祭の様子。(14:00くらいから)
御輿還幸↑(前日が巡幸祭で、御輿は御旅所におられたのだが、この日に還幸される。)
神楽↓
太刀振り↑(神楽と太刀振りは時間的には同時に並行して奉納される、上の段では神楽、下の段では太刀振りが行われる。一人ですべてをカバーすることはできない。)
笹ばやし↓
与謝郡には木積神社があちこちにある。どの社もワレこそがそうだと名乗っていて、いずれの社が本当の式内社なのかは不明である、当社も式内社としている。式内社木積社とも阿知江社ともいわれる、阿知江社は謁叡郷だろうから、こことは違うのではとは思うのだがともかく、三輪神社が合祀されている。
木積神社
○越前国己乃須美神社
【覈】皇住村【明細】弓木村祭日八月朔日【道】岩ケ鼻村 ○石田村山王社ト云ハ誤リナルベシ【式考】丹後旧事記ニ木積山丹波郡主基村云々トアリ又同書ニ皇住村トアリ皇住村ノ西ニ当リ木積峠ト云アレド古説モ旧記モナク拠ナシ且ツ竹野郡界ニテ取カタシ岩ケ鼻村山王社ハ江州日枝ヨリ遷スト云ヘバ木積神社ニアラズ石田村ハ貞享五年辰三月譲渡証文ニ木すみ山の東云々トアリ是一ノ證ナリ【豊】弓木村学宮ヶ谷五十猛神例祭九月十一日)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)
(「丹後国式内神社取調書」に、) |
木積神社
岩滝町字弓木小字石田宮ケ谷鎮座、指定村社、祭紳五十猛命、大物主命、由緒不詳、丹哥府志には延喜式内阿知江神社を当社に比定し式内木積神社を中郡五十河村字久住に掲ぐ。蓋し当社もと山王権現と云ひ大和国三輪より勧請し三輪神社ともいふ。宮津藩寺社名前御取調帳に弓木村美和社島谷佐渡の條見ゆ式内木積紳祉を久住に比定するは丹後旧事記、丹後一覧集、丹後細見録皆然り、此のほか丹後國式内證實考には「明石村、岩ヶ鼻村中郡久住村同郡主基村ナトノ説区々ナレ共何レノ村モ何ノ由證モ見当ラス云々」とあり是非未だ漸すべからす。社殿、拝殿、舞殿、神輿蔵、社務所等備はり、境内末杜稲荷、狭田彦、速玉諸社あり氏千二百三十戸明治六年二月村社に列せられ大正九年二月三日神饌幣帛料供進指定、祭典五月一日。
小字宮ケ谷愛宕護神社、弓木小字野田に水無月神社、同城山に稻荷神社あり無格社なり。
(『与謝郡誌』) |
木積神社
鎮座地 京都府与謝郡岩滝町字弓木小字石田宮ケ谷
祭神 五十猛神(配祠)大物主神
祭日 春祭「春分の日」
例祭「五月一日」
秋祭「十一月二十三日」
社殿 本殿 千鳥唐破風造 一、八−一、八間
上屋 切妻造 三、二−三、五間
幣殿 切妻造 三.二−二、五間
拝殿 入母家造 四、〇−三、〇間
庫 切妻造 二、五−三、○間
手洗舎 切妻造 一、五−一、〇間
境内地 八一五、二四坪(二、六九七平方メートル)
境内神社 速玉神社(流造) 一、五−一、○間
氏子数 四五八戸(畑和四十三年現在)
本社は延喜式内社で古くから木積山王社と称し天照大神の弟、素戔嗚尊の子、五十猛神(大屋昆古神或は伊太氏神)を奉斎し、併せて、三輪の神と祢える大物王神(大国王神の和魂)を配祠し共に木材家屋の祖神、国土経営、医薬治療の祖神として世人に崇敬せられている。
当社の創立は延喜二年(九○二)といわれているが、その後罹災して建築物は悉く烏有に帰し、社記、古文書等皆焼失し、沿革等を知ることができなくなったが「山王宮社再建奇進帳」によると、天明六年丙午八月(一七八六)に再建されている。
その後、昭和二年三月(一九二七)丹後震災に遭い本殿、拝殿等、倒壊はまぬがれたが、輿倉、大鳥居、石燈籠等はほとんど倒壊した。
輿倉はすぐに再建されたけれども、社殿その他は応急補修のみで年次老朽の度を深めるに至り昭和十二年二月社殿の充実完備をもって神威の昂揚をはからんと、社殿の改築を発起し同十五年完成するに至った。
一、社格
明治六年二月十日村社に列格
大正九年二月三日指定村社に列格
昭和二十一年六月二十日宗教法人令の神社となり、従前の社格が廃止となる。
昭和二十七年七月九日宗教法人法による神社となり、神社本庁に属した。
一、例祭
往古の祭礼のようすは知ることができないが、明治の中期までは旧八月一日(八朔祭)に執行されていたが、岩滝村と合併後は五月一日となり祭典の様式も一部改変され、四月三十日と五月一日の二日間となった。
すなわち、四月三十日は公式祭を施行し、以後私祭に移るのである。
公式祭には岩滝町長幣帛供進使となり参向し、町からの幣帛料を供進し、祭儀を終り、引き続き私祭に至るのである。
先づ神索祭を行い神霊代(みたましろ)を神殿に奉遷し、次いで神楽を舞い太刀振の神事を行い、弓木区の氏子、神職、神輿に供奉して弓水公会堂前の御旅所に安置し、翌五月一日午後還幸祭を行う。この時石田区の御輿を供奉し、本社へ向う。
石田公会堂から神楽を先頭に太刀振り、道中振りをしながら神輿を進め夕刻神殿に到着、御霊代を還座し、次いで神楽を奏し、太刀を振り「ささばやし」の神事を行い祭典を終了する。
参考文献
一、「丹後国式神証実考」(大原美能理)
木積神社
当社ハ丹後旧事ニ木積山丹波郡主基村云々トアル、同書ニ皇住村ト云フアリ、皇住村ノ西ニ当リ木積峠ト云フアレド古説モ旧記モ根拠ナク、且ツ竹野郡界ニテ取リガタシ。
岩ケ鼻王社ト云フ説アレド、同社ハ江州日枝ヨリ遷スト云へバ木積神社ニアラズ。明石村ノ山王トモ云フ説モアレド之モ同様ナリ。
石田分ニハ貞享五辰(一六八八、元録九年)三月譲渡証文ニ「木すみの山東云々」トアリ是一ノ証ナリ。
社伝記ニ少シ根拠アルヲ以テ豊岡県ニテ当村ニ決シタル也。
二、「丹後国式内社取調書」(京都府)
木積神社
(頭註)(覈)皇住村(明細)弓木村祭日八月朔日(道)岩ケ鼻村)。石田村山王社卜云フハ誤リナルベシ
(式考)丹後旧事記ニ木積山丹波郡主基村云々トアリ、又同書ニ皇住村卜云フアリ、皇住村ノ西ニ当り木積ト云フアレド古説モ川記モナク拠ナシ、 且ツ竹野郡界ニテ取リガタシ、岩ケ鼻村山王社ハ江州日枝ヨリ移スト云へバ木積神社ニアラズ。石田村ハ貞享五年辰三月譲渡証文ニ木すみ山ノ東云々トアリ是一ノ証ナリ。(豊)弓木村字宮ケ谷五十猛例祭九月十一日。
三、「特選神名牒」(教部省)
木積神社、 祭神 五十猛命
祭日 九月十一日 社格 村社
所在 今按豊岡県取調記に弓木村とし、神社譲録府中男山村と見え道志流に岩ヶ鼻村とし、石田村山王社と云うは誤りなるべしと云ひて流説一定せず。
四、「大日本神祇史」(徳川侯爵家)
木積神社
今在二弓木材宮谷一 伝言記ニ五十猛神一 配二大物主神一(土人説)
五、日本地理資料」(邨岡良弼編)
木積神社 在二弓木材宮谷一祀二五十猛神一
六、「与謝郡誌」(大正十二年与謝郡役所刊)
木積神社
岩滝町字弓木小字石聞宮ケ谷鎮座、指定村社、祭神五十猛命、大物主命、由緒不詳、丹歌府志には延喜式内阿知神社を当社と比定し式内木積神社を中郡五十河村久住に掲ぐ、蓋し当社もと山王権現と云い、大和国三輪より勧諮し、三輪神社とも云う。
宮津藩寺社名前御取調帳に弓木三輪社島谷佐渡の条兄ゆ。式内木積神社を久住に比定さるは丹後旧事記、丹後一覧集、丹後細見録皆然り、この外丹後国式社証実考には「明石村、岩ケ鼻村、中那丹住村同郡主基村ナドノ説区々ナレドモ何レノ村モ何ノ由緒モ見当ラズ云々」とあり、是非未だ断ずべからす、社殿、舞殿、神輿蔵、社務所等備はり、境内末社稲荷、猿田彦、速玉緒社あり、氏子二百三十戸。明治六年二月村社に列せられ、大正九年二月三日神撰幣帛料供進指定。祭神五月一日。
七、「京都府神社略記」(昭和八年京都府神職会)
村社 木積神社 岩滝町字弓木
祭神 五十猛神、大物主神
例祭 四月三十日
以上が参考文献の主なるもので、この外延喜式所載の木横神社を他郡付(中郡久住村)に比定した文献に田中棋柏の「丹後旧事記」、山根道択の「丹後一覧集」、編者不詳の「丹後細見録」、佐治正道の「丹後国式内五社垂迹本源考」などが維新前にあり、維新直後、いわゆる、式社詮索時代に、今城道択の「丹後式内神名改」、鈴鹿連胤の「神社覈録」、荒川政鳳の「丹後国式内神社考案記」、明治晩年に下って吉川東伍の「大日本地名辞書」もそれであり、はっきりと所在を書かないものに出口延経の「神名帳考証」、栗田寛の「神社志料」、近藤瓶城の「丹後国官社誌」などがあるけれどもこゝではそれ等の凡てを省略するが、明治維新後、与謝郡が京都府の管轄になる前に豊岡県で既に石田と決定したのだから今は論議の外にしておく。
イ、木積神社職正 人名簿
…
(『岩滝町誌』) |
現地の案内板
延喜式内社 木積神社(旧郷社)
(鎮座地) 与謝郡岩滝町字弓木小字石田宮ヶ谷
(祭 神) 五十猛神(天照大神の弟、素盞嗚尊の子
大物主神「素盞嗚命尊の子、大国主神の別名)
(由緒、沿革)
当神社は「木積山王宮」とも云われる。創立は平安時代醍醐天皇の御代、延喜二年(九〇二年)の勅により全国各地における崇敬篤き神社を選び「延書式内杜神名帳」が作られ当神社はその中で官幣小社として載せられており、よってその創立はそれ以前と考えられる。しかしその後の罹災等により建築物社記、古文書等を消失したため、その沿革等を詳しく知ることはできないが、現存する古文書「丹後国式内杜取調書」「山王宮社再建寄進帳」によると、天明六年丙午八月(一七八六年)に再建され、その後昭和一五年社殿改築がなされ現在の神域となっている。
また「三輪神社・祭神大物主神」については、創立年代は不詳なれど、慶応四年四月の記録に「山王大神・祭神大物主神」とあり、明治二年六月一七日「三輪神社・祭神大物主神」と改号され「木積神社」に配祀されている。
「木積神社」「三輪神社」共に、樹木、木材家屋・医薬治療、延命息災、国土経営、家運隆昌の祖神として、古くから氏子はもとより、歴代藩主を始め広く世人に崇敬されている。
(社 宝)
中務卿有栖川宮殿下御筆「木積山王大神」神号
狛犬(石造) 二体
石灯籠 二基
宝篋印塔 二基
(例 祭)
四月三〇日 神幸祭
五月一日 還幸祭
神事として「神楽」「太刀振り」「ささばやし」を奉納する。
平成十三年四月吉日 弓 木 区
石 田 区 |
木積は穂積ではなかろうか。HとKはよく入れ替わり、げんに穂積氏は木積氏とも呼ばれるところもある。
今は東大阪市東石切町になるが、河内国河内郡の式内社「石切劔箭命神社」、その神職は、代々物部氏の支族・穂積氏の後裔である木積氏が務めてきたといい、またこの社は木積宮、または穂積堂とも呼ぶそうである。木積とは穂積だと誠によくわかる神社である。
穂積氏は物部氏の一族で、本貫地は大和国山辺郡穂積郷(天理市前栽一帯)と言われるが、摂津国島下郡穂積郷に含まれるのではないかと想像する東奈良遺跡(茨木市東奈良一−三丁目・奈良町・沢良宜西一−三丁目ほか)からは、銅鐸・銅戈・ガラス勾玉の鋳型が出土している。銅鐸鋳型は凝灰質砂岩製で、外縁付紐式と扁平紐式の二型式八個体以上、銅戈の鋳型は粘土製で、大阪湾型のもの三片一個体以上、また勾玉の鋳型は粘土製で二個体がみとめられるそうで、銅繹鋳型のうち一個は、豊中市桜塚出土鐸および香川県善通寺市我拝師山出土鐸の、また別の一個は兵庫県豊岡市気比遺跡出土気比三号鐸の鋳型であることが判明している。ここの沢良宜はサワラギと呼んでいるが、サラキすなわちサナキ、すなわち鐸を意味した弥生地名ではなかろうか。淀川を東に越えた対岸が枚方市伊加賀である。
弓木や与謝郡のほかの木積神社もずいぶんと鉄だろうと、ワタシが想像する地に鎮座し、何の神社なのか誰にもシカとはわからなくなっていて指摘する者もないが、木積神社はあるいは銅鐸や金属精錬と関係する穂積氏が祀ったものかも知れない。ホソミさんが宮津に何軒かあるが、穂積の転訛とも言われる。穂積氏は伊香色雄命之後也とされるが、その五十河もこの近くにあり、あるいは五十河は丹後穂積氏の本貫地で、今はその隣になる久住の木積神社が式内社かも…。
『地名・苗字の起源99の謎』(鈴木武樹)に、
穂積は物部と同族で、カムニギハヤヒに発するといわれるが、この「ホツミ」はおそらく「火祇(ホツミ)」で、火を司る部族であった。本貫の地は、大和・山辺郡の穂積邑だが、同じく大和・十市郡の保津邑も古くは穂積と呼ばれたので、その地が本拠だとする説もある。
さて、この穂積という地名は、西は摂津・島下ノ郡の穂積ノ郷(のち春日村のうち)、播磨・賀茂ノ郡の穂積ノ郷、東は、伊勢・朝明郡の穂積神社(川島明神。『延喜式』〈神名帳〉記載)、美濃・本巣ノ郡の穂積ノ郷、尾張・丹羽ノ郡の穂積ノ郷から、上野・佐波郡剛志村保泉の積穂明神にまで至る範囲に小規模に分布している。
それらの穂積とは違って地名こそあとに残してはいないが、紀伊の穂積氏は、穂積一族のなかではもっとも勢力を得た氏族のひとつである。この穂積氏は、宇井・榎本・鈴木といういわゆる《熊野三党》(熊野神社のいわば氏子総代)のひとつである鈴木氏を分岐させたほか、鵜殿・熊野などの諸氏をも派生させたといわれるのである。
「鈴木」は、一説によれば、「高倉下ノ命の後裔の羽鷲という者がはじめて鈴木の姓を称した」というが、『鈴木氏系譜』によれば、カムニギハヤヒの後裔である紀伊の穂積氏から出ている。紀伊方言では「稲の穂を積んだもの」(穂積)を「スズキ」というので、〈火祇→穂積→穂積→鈴木〉というように変化して、穂積姓から鈴木姓が派生したものと思われる。 |
火祇の火は金属を溶解する火であろうが、そうすれば、三輪神社もそうでないのかと思えてくる。元々は大物主神を祭神とする山王大神があったのを、このように改号したものだそうだが、崇神紀などによれば大物主神(大和大国魂)は物部氏というよりもむしろ穂積氏が祀った祭神であったように思われる。
「残欠」には、石崎坐三輪社が見えて、『元初…』によれば、博奕岬にあったこの社は与謝郡へ遷座したそうで、ここの神社になったのではなかろうか。
弓木の南には式内社物部神社があり、物部郷があった。その同族の穂積氏がここにいても不思議なことではない。
高梨(タカ穴師)・拝師(イワ穴師)・苦無(クラ穴師)・穴石(穴師)と、与謝郡は穴師ばかりであるが、それらの元締的な物部や穂積の地であったのだろうか。
のちの伝説のツチグモだオニだと呼ばれたのはあるいはこうした連中、ワレラの祖先だが、本当はこうしたものだったかも…
保津峡の保津というのも穂積の転訛かも、木津というのも木積の転訛かも知れない。
与謝郡内に多くあって与謝郡古代史と深く関わりがありそうな社である、またいつか別に木積神社は考えてみたい。
弓木城 |
岩滝小学校前の城山公園。ここに弓木城があった。丹後一色氏の最後の拠点、中世丹後の最後の砦であった。幽斎や稲富一夢斎など舞鶴とも関係が深い。舞鶴では田辺籠城戦ばかりが有名で、一万五千の大軍に囲まれた寡兵五百ばかり方だったので同情が入ってなのか今も大人気がある。田辺城の包囲軍は関ヶ原の様子見をしていてやる気がなかったが、そうとしてでも攻められることもあるし、逆に真剣に汚い手も使って攻めることもあるのが戦国の常。逆にこの城は細川軍が三万で取り囲み、舞鶴人には申し上げたくないような歴史もあった。一色は足利の一族で、細川はその将軍家の家臣であった。だから主家筋をイカサマで亡ぼしたともいえなくはない。悪く言えばというか一色側に言わせれば絶対に許すことのできない悪逆非道の逆臣であろうか、細川の籠もる猪岡へ夜陰決死で忍び寄る一色勢の恨みは尋常ではない、コイツを生かせておいては死んでも死にきれぬという鬼気迫るような執念を一色一族総大将はじめ皆が抱いていたと思う。舞鶴人よ光秀の悪口などはつつしもうではありませんか、オマエとこの大将はどうだったじゃ、などと反論されれはどうする。その恨みを知ってか宮津人は一色を祀っている(一色稲荷・義清稲荷)。幽斎様幽斎様とはあまり言わないよう、都合の悪いことはかくす弱き者は切り捨てる御都合主義史観の舞鶴人はどこにも祀らない。タタリがありますデ、などとも言われている。
好き嫌いがあろうから自分の好みで好きならそれでいいし自分のゼニで吹聴するのも勝手にやればいいが、税金を使って一方的史観をさもホントげに宣伝するのはやめてくれ。皆のゼニだから、自分らの宣伝のためにはビタ一文使わんでくれ。
↑頂上にある石碑。カメラのGPSでは海抜55メートル。
↑こんな案内があるところから見れば、こちらが大手虎口側なのか、しかしここからはすごい急傾斜の上り坂になり、普通では登れない。
裏側搦手側か(小学校側・城山公園駐車場の南側)の稲荷神社に登る道は整備されていてその方がはるかに登りやすい。
↓表参道?後に建てられた頂上の水無月神社のためのものならそうなのだろうが、城のものならこれが大手虎口道か。道なのか空堀なのか、たぶん道ではなかろうか、一直線の古代道を思い浮かべるが、人も馬もこの急傾斜では通れまい、と現代人としては考えてしまう。スーパー「ふくや」の横の道はそのままの一直線で下から頂上の主閣へ続いているが、下からは直接に主閣は望めない。
↓中世の山城とはこんなもんじゃ、といった見本のような城のよう。すごい。このあたりは土取りされたのか?一度は足を運ばれるといい中世丹後の拠点城。
↓どの面も人がよじ登れそうにもない急斜面に囲まれた山城山
↑大内峠から見る弓木城。中央に突き出ている支脈上に弓木城。左右にも出ているが、これらにも支城。
城山の麓の北側から東側にかけてのかなり広い範囲、岩滝になる部分だが、そこを立町と呼んでいる。タテはタチとも言うが漢字で書けば「立」ではなくて、「館」であろう。
山の上の城というか柵と呼んだと思うが、そこは不便な場所で人が日常生活できるような施設もなく、普段は誰もいないし何もない、だから「代」と呼び、非常時のためにあらかじめ空けてある場所の意味だが、古代の逃げ城のような感じのものであった。城主はじめ一般の兵は、平時は麓の屋敷に住んでいたのである、その侍屋敷を館と当時は呼んだ、殿様が住んでいたら「殿」といった地名も残ることもある、立町こそが弓木城の者どもが普段住んでいた場所である。
『丹後田数帳』与謝郡に、
一 稲冨保 廿五町九段七十二歩内
一町 八幡領
四段 九世戸
一町 慈光寺
二町 柘植分 正観院殿
廿一町五段七十二歩 本主 |
とある稲冨はこのあたりだといい、ここには古くからたぶん中世以前から府中防衛の柵があって、それを「稲冨の柵」と呼んでいた、それがいつの時代にか、イミのキとなり、弓木となったのかも知れない。イタナミのキだったかも知れない、古い地名は意味が曖昧になり、現代人には資料なく正しく解けないことが多く決定打を欠く、一人でいくつかの説も出る。
『丹後の宮津』
戦国末期における丹後一色氏没落にさいしての最後の砦であった弓木城、こうはなにはともあれ、一見しておきたいところである。
この弓木城址は、高さ五○メートルそこそこの台地であり、この台地の前面、そして人家の裏になっているところは心なきものゝ土取り場として、むざんにけづりとられている。おそらく、この城址は原形よりずっと小さくなっているであろう。現在、この台地上には小祠があって城山稲荷といわれている。杉・松などが数本づつあって多くは畑地で、城址として遺されたものは何一つ見られない。
けれども、ここが「御檀家帳」のーー
一 いミの木 此里地下は表へ入く
み也 大なる城主也
稲 富どの 稲記伊助どの
福 西どの 糸井隠岐守殿
土方新右衛門殿
であり、城主が稲富氏であったことが明かである。この稲宮氏は、はじめ一色氏の家来として、のち明智光秀についていたらしく、光秀の娘お珠が細川忠興と結婚するときは、明智家からの附人として細川氏に従った。当時、日本一の鉄砲の名射手として、秀吉にも家康にも惜まれた人である。キリシタン信徒であったかとも思われるが、たしかでない。
ところで、この城が一色氏最後の砦となり、一般にはもともと一色氏の本城かのようにいわれているが、決してそうでない。それは天正七年九月(一五七九)、昔からの一色氏本城であった加佐郡建部山城が、織田信長の命令によって、細川・明智の連合軍に攻められて落城。その結果、一色九代の義道が自殺し、その子義俊が奥丹後へにげこみ、弓木の稲富の城をたよって立て籠った。一色勢としては、もはや一歩もしりぞかれぬ最後の線であった。そこで細川勢は、宮津を根拠として、しばしば弓木城を攻めるが、とうていこれをぬくことができぬ。ついに明智光秀のなかだらで和睦し、細川の娘お菊を義俊の嫁にやって父子関係をむすび、やがての機会を狙ったのが天正九年五月のことであった。
それから一年、天下の形勢はすっかり変ってしまった。天正十年六月二日(一五八二)、あの本能寺の変があってから、天下は秀吉の手ににぎられると、細川方は一日もはやく一色氏を亡ぼさねばならなくなった。かくてこの年の秋九月八日、幽斉は義俊を婿入りせよと宮津の館へまねき、その夜の宴席でこれを殺してしまった。いわば力のかなわぬ敵将に、わが娘を嫁にやって時をねらい、いつわりの手段をもって、敵をたおしたのである。戦国末期の人の心がいかに暗いものであったかが知られ、その舞台となったここ弓木城が、いかにも痛切な回顧の址となるのである。
主人を謀り殺された弓木城では、いまはこれまでと当時吉原(いまの峯山)城主であった先代義道の弟義清をむかえ、これを一色氏十一代当主として、周囲から攻めよせる細川軍とたたかうが、ついに力つきはて、義清は同九月廿八日(一五八二)、細川の陣中を斬りぬけて宮津本陣に怨みかさなる幽斉の首をねらったが、宮津川のあたりに伏せられた伏兵のため、かれは本望をとげえぬまま、川尻の漁家のかげに自匁しおわった。すなわち、足利時代二百四十年の丹後守護としてあった一色氏の最後は、実にかくも悲惨きわまるありさまで亡びつくしたのである。 |
『丹後路の史跡めぐり』
弓木城址
岩滝の町へ入ると山裾に東西一五○メートル、南北一○○メートルほどの小高い丘が目につく。これこそ砲術の名人稲富伊賀守直家(一夢斉)の居城で、一色氏十代の国守義俊が大雲川の戦から引き揚げて籠城し、藤孝の娘菊をこの城に迎えたが程なくして田辺城に誘殺され、かわって義俊の叔父吉原越前守義清が十一代目の国守として峰山の吉原城より一二○騎を卒いて入城した。
天正十年九月二五日この小さな城は細川忠興の軍勢一万五千にびっしりと囲まれ、三方から攻撃を受けたが、稲富の鉄砲にはばまれて攻めあぐんでいる所へ、吉原城を陥した細川興元の軍勢一万五千が三重を越し背後の大内峠より殺到するに及んでついにささえきれず、城兵の多くは討死し、義清は残兵百余騎を卒いて野田川に血路を開いて宮津猪岡山の細川藤孝の本陣へ斬り込んだが、伏兵に包囲されて海岸の漁家のかげで自刃し建武以来二四七年間の幕を閉じた。時に天正十年九月二八日であった。
細川方は菊を奪いかえそうとしたが果さず、菊はついに城中の稲木の八竿より短刀を口にして飛び降りて自決した。ためにこの地方では稲木の八竿は忌の木と称して決してつくらない風習だという。
一説に家臣安藤隼人の援けで姓を四宮(しみや)とかえ、岩滝の奥蛇谷にかくれ住み、のち大野の里で自刃したともいい、五箇藤の森まで一色の残党に護られて逃れたところ、細川勢に奪われて家臣篠原五右衛門に再嫁させられたともいわれている。この時稲富一夢は一色氏と運命を共にすることなく細川に降参してその家臣となっている。これは一夢のたぐいない砲術を惜しんだ藤孝の誘いであったという。 |
『与謝郡誌』
弓木山城墟
岩滝町字弓木にあり、固と稲富の築く所にして所謂天険主義の山岳城にして山頂を削りて城廓を設けたる跡残れり。天文以来稲富伊賀之れに拠り天正七年正月建部山落城の後一色義俊父義道と共に中山の沼田の城に入る然るに沼田敵款を通じ細川軍を導き入れて城陥り義道自刃す義俊遁れて弓の木稲富の城に拠る。茲に於て細川藤孝義俊に和を求め其の女を以て義俊に妻はす其後織田信長の命と称して天正十年九月八日義俊を田辺城に招致し之を殺す、法名賞雲源忠大禅定門此に於て一色義道の弟吉原越中守義清は名を一色五郎義清と改め吉原城より弓水城に移り細川氏と戦ひ天正十年九月二十八日城陥り義清は宮津に於て自刃し一色氏滅亡す。 |
細川父子が攻めあぐねた堅城であった、あとは汚い手しかなかった。女と酒でだまし討ち、何という手だろうか、あーキタネー、クソだ。テロリストとか山賊でもやらないような、しかしこうでもしないと生き残れなかったのであろう。当代何人とて知らぬ者なき文人にしてこれかと逆にあわれになる。『一色軍記』に、
一色五郎討るゝ事
天正九年の三月に細川父子入国せられしかば、光秀兼て取もたれし契約の事なれば、其年の五月に藤孝の息女を一色殿に嫁し給ふ。同十年九月八日五郎殿宮津の城へ聟入ありて細川父子に対面なり。此時いまだ宮の城ならずしてはかばか敷座席もなかりければ、大手の内家臣有由四郎右衛門の宅に於て五郎殿を饗応し、既に酒宴に及ける、藤孝の杯を一色殿にさし絵ふ、五郎盃とりあげていたゞかむとせし時に、忠興一色を討給ふ。かねあひすこし迦れけん、弓手の肩を討れたり、五郎もさすが壮士にて、勇猛震といへども大勢出合取籠で終にはうたれ総ひけり、痛はしかりし有様なり。五郎の扈従蘆屋千八、金川與藤といふ者有、かれら二人は常に身ぢかくつがへし故、此時も召具せられ、次の間に有けるが兼て討手を認し置一色殿と一同に二人の者をも討せける。蘆屋、金川勇士にて?敷抜合討手も手負けれど、多勢に無勢不叶して二人も討れける。其外の一色衆、兼て大手の門外に町屋を点じて置けるが、城内何さま騒しく、一色討れ給ふと聞えければ、我先にと抜つれて、追手の門へ込入しを、細川衆切て出、大手の橋を轟し、追っかへしつ戦ける。手負死人多かりけり、一色方に十三人枕を並て討れける、生残りたる一色衆、皆弓木へ引取て堅固に城をかためたり。 |
宮津城や田辺城はまだなく猪岡の館での事件であった。
「弓木城跡」
日ノ内古墳 |
弓木城が築かれる前からこの丘陵には古墳があった。
現地の案内板
日ノ内古墳跡
岩滝町は、大江山系を源とする野田川の下流域、阿蘇海北岸に面し、過去の発掘調査によって、弥生時代中期(今から二〇〇〇年前)から人々が生活していたことがわかっています。
昭和五十九年に西光寺の墓地造成工事に伴い、中世の丹後を代表する山城「弓木城」跡の出丸部分の発掘調査中に墳墓が発見され、地名にちなんで、日ノ内古墳と名付けられました。
この古墳の立地は、見晴しの良い丘隊先端部に位置してあり、岩滝町と阿蘇海を一望のもとにすることができます。室町時代に弓木城出丸構築により、墳丘がけずられたため、墳形は不明ですが、古墳の規模は、径が二十五〜三十メートルと推定されます。
埋葬施設の構造は、北端辺をそろえて南北に平行に三基造られてありそれぞれ、二段に穴を掘り、板を組合わせて棺を作って埋葬してあります。棺の底には小礫を敷き詰め、第一・二主体部では石枕が置かれていました。このような墳墓の構造、木棺の埋葬工程、礫床などは、日本海側の地域に特徴的にみられる埋葬法です。
第一主体部からは、ぼう製獣形鏡一面、硬玉製勾玉三個、碧玉製管玉十六個、算盤玉一個、鉄器等が出土しました。これらの出土遺物より、四世紀末頃(今から一六〇〇年ほど前)に築造されたものと考えられ、今のところ町内では最も古い時期の古墳の一つです。
阿蘇海北岸ではこのほかに見晴しの良い丘陵上に岩滝丸山古墳(円墳・五世紀初め)、法王寺古墳(前方後円墳・五世紀中頃)が築かれてあり、勢力のある豪族がいたことがわかります。岩滝丸山古墳の組合わせ式石棺は現在、岩滝町中央公民館に保存されています。昭和六十二年三月 与謝野町教育委員会 |
『宮津市史』
中世弓木城の西隅部の標高二五メートルの位置に日ノ内古墳が所在する。弓木城の築城にともない、墳丘は旧状をとどめていないが、一辺二五メートル程度の方墳と推定される。墳頂部からは、三基の礫床を持つ長大な組み合わせ式木棺が検出された。中心の第1主体部は、全長七・五メートルの長大な組み合わせ式木棺の内部を三つに区画し、礫床を設けるものである。歯の出土などから最低二人の被葬者を納め、四獣形鏡および玉類等を副葬していた。四世紀末頃に築かれたものである。
以上の三古墳(男山法王寺古墳・岩滝丸山古墳)は、ほぼ同時期に築造された可能性をもつもので、一つの地域に前方後円墳−円墳−方墳という階層性が読み取れ、興味深い状況を示している。この階層の下に弥生時代後期以来の、霧ヶ鼻古墳群に見られるような伝統的な低墳丘の小規模古墳からなる古墳群が多数存在することが想定される。 |
西隅ではなく、北側の丘であろうと思うが、礫床と長大な組合式木棺、こうした形式はあまりないそうである。
『読売新聞』(H5.7.23)に、
弥栄町の溝谷古墳群を発掘調査していた府埋蔵文化財調査研究センターは22日、仕切り板を組み合わせていたと見られる長さ8b近い木棺跡のある古墳時代中期(五世紀前半)の円墳が見つかったと、発表した。同形の木棺跡は、府内では岩滝町・日ノ内古墳で確認されているが、全国で数例しかない。同古墳群は竹野川東約1`の丘陵地にあり、国営農地造成のため四月中旬から約3500平方bを調査していた。
円墳(直径約28b、高さ約3b)の主体部(長さ約10b、幅約3b、深さ約1.2b)には、長さ約7.8b、幅約0.6bの木棺跡があった。木棺は仕切り板を組み合わせて二室を備えていたらしい。また床面に小石が敷き詰められ、副葬品として直径9.4aの小型・製鏡などが出土。他に円墳、方墳各一基が見つかった。
仕切り板と小石のある長大な組み合わせ木棺跡は、日の内古墳(長さ約8b)や兵庫県和田山町・中山古墳群、島根県鹿島町・奥才古墳など日本海側に集中している。
同センターは「地域の有力者と家族の二人が埋葬されていた可能性が強い。古代の文化交流を探るうえで貴重な資料」と話している。 |
城山の麓にある。
霊苗山玉田寺
岩滝町字弓木にあり本尊華厳釈迦三尊南都東大寺の住持良弁僧都を開山と称す天正元年当国の城主一色義氏歴代の香華院として該堂を再建し寺名を改めて霊苗山玉田禅寺と称し模翁租範禅師を洛陽の萬寿山より懇請して住寺中興たらしむ而して後嘉永三戌年祝融の災に罹り堂舎悉く焼失す依て檀越と議り浄財を募り遂に嘉永六丑年旧観に複するを得たり因に云ふ当寺本堂の襖の絵は近世書家の明星岸竹堂翁の筆になりて有名なるものなり檀徒百二十戸。
(『与謝郡誌』) |
霊苗山玉田寺
臨済宗妙心寺派
縁起 本寺はもと華厳の寺で、大内寺といい、天平十三年辛巳の歳(七四一)奈良東大寺の住持、良弁僧都府中国分寺巡察の際、当地に足を止め「西に狼煙山を眺め、東に橋立を望む風光絶佳の地」とほめ、この地に小庵を結んでかなり長く住んでいた。大内寺というのはその庵号で別に玉田ともいったと伝えられている。聖武天皇(七二四〜七四八)は同師に篤く帰依し、天平十五年(七四三)、勅して華厳釈迦如来の霊像と、禄若干を贈与した。それ以来華厳の慈容を奉安し本尊とし今日まで伝えられている。この由縁により聖武天皇を開基とし、良弁僧都を開山としている。
「北に国分寺あり、西に大内の玉田あり。」といわれ、共に法灯隆昌し、就中、潤雪、舜雙、竹翁の三哲といわれた名僧を出したけれども、千有余年の長い間寺運を維持し得ず、堂塔は頽廃し殆んど往昔の面影を失った。然るに天正元年(一五七三)丹後国の城圭一色義氏は一色氏歴代の香華院として講堂を再建し寺号霊苗山玉田寺と改め、洛陽の万寿寺から模祖範禅師を懇請し中興の開山とした。師の鎚下に覚翁宗悟、法岳祖伝、義山祖仁(玉田寺第二世)の俊英を出し、爾来法孫連綿として七世金陵祖精禅師に至った。彼は深く堂塔の荒廃を憂い、広く有縁をつのり諸堂の大改築を行った。彼はまた碩学抜秀で「謝海に冠たり」と絶讃された程であった。依って「再中興」の贈号がある。その後、嘉永三年(一八五〇)弓木の大火に遭遇し堂舎は悉く焼失した。九世航岸禅師は檀徒と諮り(此の時浜糸井家建立を申し出たが却下された)浄財を集め嘉永六年(一八五三)遂に旧観に復した。続いて十世祥嶺禅師に大門石段(慶応三年・一八六七)が、11世大龍禅師に至り山門(明治二十六年・一八九三)梵鐘(同二十九年・一八九六)が設けられた。
昭和二年(一九二七)丹後大震災に観音堂等倒壊したが、本堂庫裡は大事には至らなかった。しかし相当透間を生じ、十二世弘宗禅師諸堂の修繕をし、以来十三世に及び、本堂西側の拡張、諸堂並びに庭園等の補修改良、梵鐘の再鋳(太平洋職争供出のため)土塀の設置、隠寮の再建等をして今日に至った。…
(『岩滝町誌』) |
天下の絶景・大内峠 |
古くからの紅葉の名所たけあって、樹が大きい、これはにわか作りの新観光地とやらには真似できない。文化の深さを知らされる。
↑ 標高186m、これはワタシのカメラのGPSで、あまりアテにならない、書によっては180mとしたり、166mとしたりしている、これもアテにならないよう。横一文字に見えるところから「一字観」と呼ばれている。大内峠がよく利用された江戸期の旅人にはここでよかったと思うが、明治以降は橋立が右に伸びていて、この位置からは文珠側が見えない。もう少し北にある板列展望台からなら全体が見える。
↑「股のぞき発祥の地」とある。
江戸期ともなるとすでに完璧に忘れられてしまったようだが、古くは天橋立は地元俗称ではヘビと呼ばれていた。まさに与謝海に横たわる大蛇である。ヘビはハミとかハビ、ハブとか当時は呼ぶのだが、この名はやがてハナナミとなり、イタナミと転訛していった。これほど立派な大蛇なら何か神話がありそうなものだが、今はそのカケラのようなものしか残されていない。岩滝の項目を参照して下さい。
↓古くはここに寺院があったというが、今は妙見さんが祀られている。紅葉が美しい。
少し下っていけば、往時の大内峠越え街道になる。
↑ 中世以前は北の鬼坂峠がメーンだったと思われるが、江戸期は大内峠に移ったようで峰山藩の殿様も参勤交代にここを越えた。宮津藩の検札所もあった。今は府道651号線だが、かつては物資の運搬に常時2〜30台の馬車車が行き交う賑やかな峠で、長命いっぷく名水やいっぷく地蔵のある向かい、写真のこのあたりに何軒かの茶屋があったという。丹哥府志にも見える「一字観彳丁楼一茶亭」は多くの文人墨客がこの茶店に遊んだと伝わり、附近には彼らの歌碑も多く残されているが、明治30年ごろに廃業した。その後「天の家」という茶店が細々と営業していたが、昭和2年の丹後大震災でに倒壊しその後は再建されなかったという。大正14年に岡蒸気も開通してこの峠道はいよいよ利用価値が落ちたのであった。その岡蒸気をめくろうという話が今後出てこようから、そうなれば復活するかも…。高浜原発から30キロ圏内に天橋立は入る。この峠はかろうじて逃れられる。一字観が死の土地を眺める名所とならぬようわれらには懸命な努力が求められよう。
大内峠 大内峠は樗嶺とも王落峠とも書かれている。大内は大内山の名にあこがれてつけ、樗嶺とはその昔頂上に巨大な樗樹(おうちの木)があったのでその名がつき、王落とは寛平法王(竹野郡網野町銚子山にその陵がある)が落ちていったからこの名が付いたといわれている。
又、一説には異王谿城(岩滝)に隠棲していた応神天皇の皇子異母兄妹隼総別命女雌鳥王が落ちていったので王落峠と書くのであるとも伝えられている。大内峠は若狭湾国定公園の一部で岩滝町弓木と中郡大宮町三重の境にあり、標高一六六メートル、府道大宮岩滝線が通じている。
頂上には妙見堂があってこの辺からはどこからでも天の橋立が眺められる。南北真一文字にのびた橋立は与謝の海と阿蘇の海を区切ってまるで天のかけ橋を見るようである。天橋立の名の生れた由縁もこの峠から見て始めてうなづける。天橋立眺望四大観(東栗田峠、西大内峠、南桜山、北成相山)の中で随一といわれ、明治から昭和二十年まで小学校五年生の地理教科書に天橋立の写真が掲載されていたが、この写真は大内峠から写したものであった。
この峠からの眺望は格別で、北に府中、南に吉津を眺め眼下に岩滝町が展けている。
大江の連山から倉梯山、加悦谷平野を流れて阿蘇の海に注ぐ野田川、川裾の森、日本冶金の大煙突から吐く四条の白煙、狼烟山、須津峠を遥かに由良獄、青葉山、栗田半島突端の黒崎、冠島、沓島、伊根町、鷲崎、府中傘松、成相山、鼓ケ岳、水平線上には越前の山々、冬のよく晴れた日には傘松の上に白雲におゝわれた加賀の白山が雄姿を現わし、まるでパノラマを見るようである。
峠には松の老木、桜、楓「天保年間(一八三○〜一八四三)に高雄から移植したといわれる」が、四季を通じて変化に富み風趣をそえる。
又この峠は松尾芭蕉、与謝蕪村、頼山陽、中島棕蔭、五升庵、蝶夢、高浜虚子、など古今の文人墨客の杖をひくもの引きもきらず、与謝野寛、晶子の歌碑をはじめ、蝶夢、樗牛、洗心、碧梧桐の句碑、小室信夫翁の記念碑、一字観公園の碑など数々の碑が幾十星霜を経て苔むしている。
大内峠は徳川時代峯山藩の参観交替の本道であり、宮津藩の検札所があった。頼山陽が中島棕蔭と清遊した時名をつけた一字観彳テ(てきちよく)楼茶屋が明治三十年頃まであった。又、昭和二年丹後大震災までは天野重右術門茶屋があって自慢の手打ちうどんや妙見餅に舌づつみをうったものである。
国鉄宮津線開通前は奥三郎に通ずる雄一の要路として日夜二十数台の馬力車が岩滝から峰川、網野へ往復、生糸、紡績ちりめん、日用雑貨類を運搬し大いににぎわった。現在は頂上まで三キロ半をドライブウエーとして天下の絶景天の橋立を眺めながら心ゆくまで快適なドライブを楽しむことができる。
麓弓木区では昭和三十六年四月、大内峠保勝会を結成し、全山を桜、つつじ、楓で埋める計画をたて観光と開発につとめている。
(『岩滝町誌』) |
大内峠(樗峠)
天下の名勝天橋立を西から真一文字に眺めることのできる大内峠は一字観公園とよばれ、頂上の妙見堂は花月堂ともよばれている。
京都府が丹後半島開発のためにとりくんだ丹後縦貫道路の入口でもあり、ここから成相の奥を通り丹後半島の屋根駒倉、木子を経て太鼓山、碇高原を経て宇川の上野に達する雄大なものである。
この大内峠は昔から中郡へ達する主要な幹線で、安康天皇の代四五六年に億計(おおけ)弘計(おけ)の二皇子が眉輪王の乱の時難を与謝へ避け、府中難波野からこの峠を越えて三重の長者五十河真黒人のもとへかくまわれたので一名王落峠ともいう。
寛文四年(一六六四)三月、熊野郡二俣村の百姓が強訴のくわだてをして喜斉坊という流れ者に密告され、庄屋七人がこの峠で打首となった。熊野郡にはこんな歌が残っている。
憎くや喜斉坊油にしめて
大内峠にともしたや
憎くや喜斉坊いとしの庄屋
大内峠の木の末に
明治元年(一八六八)正月二六日、岩滝の千賀両助宅に小休止した山陰道鎮撫使西園寺公望ら一行は、ここで峰山藩の出迎えを受けて騎馬で大内峠を越して峰山へ向った。西園寺時に十九才であったという。
昭和五年五月、歌人与謝野寛・晶子夫妻は山陰の旅に出てここへ立ちより歌を残している。
楽しみは大内峠にきわまりぬ
まろき入江にひとすじの松 寛
年ごろも今朝も思いしおもむきに
与謝の海みる大内の峠 晶子
妙見堂にこの二首の歌碑が建てられ、男山板列八幡にも歌碑がある。
(『丹後路の史跡めぐり』) |
この岩滝町弓木の背面に中郡へ越す大内峠がある。べつに「樗」ともかいており、文殊堂の境内先端を「見樗の鼻」というのは、この峠に対していうのである。また例の億計・弘計二王子の伝説にむすばれて、「王落」だなんてもいわれているが、普通は「大内峠」といっている。この峠が有名なのは交通路としてではなく、目のまえに見られるとおり、実に「あまのはしだて」観賞の第一等地として、むかしから文人墨客にしたしまれたからである。いわゆる「大内峠の一字観」といって、古来「栗田峠」と「傘松」とをあわせて、「天橋立三大観」といわれてきた。それは見ごとに「横一文字」の「はしだて」がながめられることによって、きわめて特異な「はしだて」観賞の一地点とされているからである。
年ごろも今朝も思ひしおもむきに 与謝の海見る大内の峠 与謝野晶子
橋立や松をしぐれの越えんとす 五升庵蝶夢
櫛の歯の松に棹雁折れ落ちん 碧 梧 桐
(『丹後の宮津』) |
そのほかたくさんあります。
《交通》
《産業》
弓木の主な歴史記録
『丹哥府志』
◎弓木村(須津村の次)
【阿知江神社】(式内)
阿知江神社今山王権現と称す。祭八月朔日。成相寺の古記に弓木を忌木ち書きたり。蓋今の弓木村は阿知江神社の境内にして汚穢不浄のものを忌むといふしるしの建たる所なりといふ。
【霊苗山玉田寺】(臨済宗)
【一色五郎義俊城墟】…略…
【大内嶺】(是より中郡三重村へ出る、一名樗嶺又名王落峠)
凡登臨三絶と称するものあり、大内嶺は其一なり。嶺の上に茶店相並ぶ。一を彳□(行の右側だけ)樓といふ、一を一字観といふ。
【蝶夢の句塚】(嶺上)
橋立や松をしぐれの越えんとす (蝶夢)
【妙見社】(嶺上)
社の前後左右多く桜の花を植ゑて遥に天橋と相対す、呼んで花月堂といふ。
【異王城の跡】(王落峠の下)…略…
【付録】(三社権現、権現の社、水無月堂、荒神社、庚申堂)
【石田】(弓木村の支郷、是より加悦谷海道) |
『丹後与謝海名勝略記』
【弓の木村】 岩滝より二町西大内峠は中郡へ出る但馬道なり。坂より左へ行は加悦道これ巡礼道也。一色五郎義清の城跡あり。天正十年九月八日細川氏是を討蓋明徳壬申一色満範丹後を領してより(将軍家譜)天正十年まて凡百九十年累代守護たり。義清に到て滅亡す。 |
『丹後の笹ばやし調査報告』
石田・笹ばやし
名 称 笹囃
所在地 与謝郡岩滝町石田
時 期 五月一日
石田に鎮座する木積神社は石田、弓木の氏神である。その五月一日の例祭に石田から太刀振と笹ばやし、弓木から神楽が奉納される。
例祭は、四月三十日の神幸祭、翌一日の還幸祭に分かれる。神幸祭は弓木が中心になって行うもので、神楽(太神楽系の獅子舞)が奉納されたあとそれを先導に神輿が弓木の御旅所に渡御する。神輿は一夜をお旅所に過ごし、翌日宮へ還御する。この時、神楽を先頭とする還幸列を、石田が太刀振をもって出迎え、石田の公民館で一休みののち、神楽−神輿−大刀振の行列を組んで宮へと向う。鳥居にかかるところから太刀振がみせる道中振がなかなか壮観である。こうして宮に入ると、まず神楽が舞い、ついで太刀振が演じられ、さらに一段上った本殿前で笹ばやしが奉納される。
太刀振は、ジュバンにタッツケ袴をはき、タスキを背にたっぷり垂らした少青年が、手甲、ハチ巻姿も勇ましく、白足袋はだしで太刀(棒に刀をつけ棒の両端を白紙のシデで飾る)を振る大太刀型の太刀振てある。楽台にのせて曳行する大太鼓に笛のはやしがつく。青年一人の露払、年令順に数人ずつ組んで陣型を変えながら振るナカ、再び青年一人のトメという次第で行われる。一番、二番、三番とよぶ振り方がある。
笹ばやしは、シンボチ 一名、太鼓タタキ 二名、歌い手 若干名で構成される。踊子はいない。シンボチは青年、太鼓タタキは少年の役で太刀振役を兼ね、そのままの支度で行う。シンボチは面かぶりとも面かつぎともよばれるように、左の額に鬼面をあて、左肩に笹をかつぎ右手に軍配を持つ。笹は枝を三段のこした二米あまりの竹で、大きなゴヘイがつけられる。太鼓タタキは左手に締太鼓を下げ、右手に色紙を巻いた桴を持つ。歌い手は普段着のままである。
伝承曲は「歌舞伎踊」「弥勒踊」の二曲である。
神前に向って、シンボチが立ち、そのやや前方左右に太鼓タタキが向い合って坐る。歌い手は神前を背にして歌をうたう。まず、シンボチがややかがんだ姿で体を左右に揺りながら、「なかでシンボチはやし申そう、太鼓の歌そろりそっと頼み申そう」と口上を述べる。それが終ると同時に「ヒイヨオ、ヒイヨオ、サ、サ、サ、ヤートン」と太鼓タタキが受けとって立ち上り、「ヤアーアー 岐阜ノ御山ハ鐙か鞍カ 諸国諸大名が乗リタガル
コリャコリャ」の歌に合わせて太鼓を打つ。その動作は足を交互に踏み出してはひくだけの簡単なものだが、「コリャコリャ」のところで行き交う動きをみせる。行き交う動作は一節ごとにくり返される。シンボチは足を斜め前に交互に出しては笹をかたむけその柄を軍配で打ってリードする。ひき続いて「弥勅踊」が行われる。その演奏のし方は、太鼓タタキが行き交う動作のないほかは変らないが、最後にシンボチの「シャッテモ良イ踊リヤ、後ハ狂言狂言」と唱えながら太鼓タタキに笹をかざしかけて往復する所作が加わる。こうして笹ばやし全体をしめくくるのである。
笹ばやしは祭礼芸能の「納め」といわれる。これをもって祭礼は終るのであるが、太刀振はなお、「町あるき」と称して氏子の各戸を廻り、家々ではハナを出してもてなすならいである。しかし、笹ばやしは神前での一回しか行われない。
笹ばやしの由来はわからない。ただ、それに用いる鬼面には、大江山の鬼退治のときここの宿に忘れていったものとの云い伝えがある。
太刀振はここでも笹ばやしと一体のものと意識されている。幸いここには「太刀振の栞」がつくられているので、参考までに次にそれをあげておく。
「(表紙)
昭和八年四月
太刀振ノ栞
(寄附者 蘇理力蔵)」
序言
抑其太刀之如キハ、往古ヨリ伝来シ、最近ニ於テモ明治廿年頃山添又右衛門氏白数竹吉氏中郡常吉村へ出張教授シ、又大正元年頃白数米蔵氏白数勝助氏中郡口大野村へ出張教授シ、又々大正四年十月御大典ノ際、白数勝吾氏日数勝助氏与謝郡上山田村へ出張教授致シ居候。然ルニ当区太刀振不揃ナル事ヲ遺憾卜存ジ、以後一般一致スル様、此ノ太刀振ノ栞著作セシモノナリ。
蘇理力蔵
著作発行者
堀口作蔵
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弓木の小地名
弓木(ゆみき)
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