丹後の地名 越前版

越前

原(はら)
福井県敦賀市原


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福井県敦賀市原

福井県敦賀郡松原村原

原の概要




《原の概要》
沓見の北側、敦賀湾の西南部に位置する。
中世の原は、南北朝期から見える地名で、敦賀郡野坂荘のうち。応安2年(1369)11月15日の山内重経寄進状(西福寺文書)に「野坂庄櫛川郷内原」とあり、西福寺に寄進されている。以後当地に建立された西福寺の所在地、あるいは寄進地として散見され、西福寺は原寺ともいわれた。また康正元年(1455)10月10日の覚阿売券案には「原之善衆院」が見える。慶長国絵図には原村と見え、高402石4斗8升2合。
近世の原村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)鞠山藩領、明治3年小浜藩領。享保12年(1727)の家数56(高持24 ・ 無高16 ・ 寺16)・人数259(男124 ・ 女118 ・ 出家17)で、新山手銀37匁余を負担。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、幅員東西2町・南北1町半、戸数37・人口166、田地52町9反余・畑地9反余・山地57町8反余など。同22年松原村の大字となる。
近代の原は、明治22年~現在の大字名。はじめ松原村、昭和12年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北2町余、戸数37、人口は男125 ・ 女104。一部が、昭和44年平和町、同57年櫛川町2丁目となる。


《原の人口・世帯数》 423・146


《原の主な社寺など》
妙華谷横穴
西福寺庫裏の裏に三室連続の横穴があり、妙華谷(みょうがだに)横穴とよばれる。構造は地下式。出土品はなく、時代も古墳後期のものと見えられるが、詳細は不明。


別宮(べつぐう)神社と八坂神社

『敦賀郡神社誌』
氏神別宮神社は、區の西端南部の西谷山の東麓にて、區内より賽路を進み、十一級の十土階を上つて拝殿の側に出づ。これよ平坦地を進めば、正面に高さ七尺の石垣を築き、中央に十八級の石階を設けた上に本殿は東面して鎮座し給ふ。域内の三面は山にて包まれ、西方の一部は人家がある。北方は田畑及び川を隔てゝ多くの人家が介在してゐる。社域の樹木は松・杉・檜・椎等の常緑樹が多けれども、特記する程の古木や大樹はないが、社域の内外に青々と茂つた蒼林は閑寂の境地と調和して一層の森嚴を充たしてゐる。
祭神 仲哀天皇、神功皇后、合祀素盞嗚尊
由緒 按ずるに、當社は西福寺の鎭守社なりしが、何時代か詳でないが、往昔當區惡尾谷と稱する西福寺領の地に遷し奉り、後に至りて更に今の地に遷し奉ったと云ふ。現に當宮の元宮地と稱へてゐる。悪尾谷よりは祭器の斷片を發見し、又その當時の礎石の一部が今尚残存してゐる。別宮大明神と尊崇してゐる別宮は本宮に封する稱呼であつて、本宮は氣比神宮と常宮神社なりとの口碑である。境内末社に八坂神社が鎭り往昔より牛頭天王社とも稱へてゐた。蓋し別宮神社が區民の鎭守となる以前は、八坂神社を氏神と奉祭してゐたのであると云ふ。明治七年十二月別宮神社を村社に列せられ八坂神社を境内末社に載せられたが、大正二年二月八月本宮に令祀し奉つた。
祭日 例祭 九月三日(舊四月三日) 祈年祭 四月三日  新嘗祭 十一月二十四日
特殊神事 風祭 八月二十日頃を定めて風祭を行ふ、區内の老若男女は夕刻より神社に參拜し、燈明を點じ夜十二時頃まで參集してゐる。今はこれを宮籠りと稱へてゐるが、實は風除祭であると。
甘酒祭 九月十五日(元舊八月十五日)には甘酒祭と稱へて、往昔は随分盛に行はれた祭であって、早朝より甘酒を持參して神前に供へ、一番參り二番參りなどと早起參拜を競ひ、直會を行ったのであるが、酒造法規定せられて以来は全くその名のみで、今は祭典を行ふのみである。
神社附近の舊跡地 横穴古墳 西福寺裏の妙華谷地籍に横穴古墳墓がある。大正二年に発見したが、既に元禄年間に発掘したとも云ふ。これは三室連續し複雜を極め、その形式に於で珍らしいものと云はれてゐる。尚その隣接地である西南方に一個ある。この附近は多分横穴古墳の群集地かとも思はるる。


浄土宗中本山大原山西福寺

西福寺は勅願所、領主の祈願所として信仰された。その庭園は西福寺書院庭園として昭和7年4月に国名勝に指定された。当寺には国重文の絹本着色主夜神像1幅・観経変相曼荼羅図1幅・阿弥陀如来像1幅・書跡西福寺一切勧進経25巻・紙本墨書般若経1巻・県文化財八十一難経版木6枚・絹本着色観経曼荼羅図1幅・西福寺阿弥陀堂1棟があるほか、市文化財11件のうち中世の西福寺古文書254通がある。

御影堂(本堂)は修理中の様子。書院庭園は御影堂の左手奥にある。
大原山の南麓、本尊円光大師。創建は応安元年(1368)、開山は良如。本山は中世は京都浄華院(上京区の清浄華院)、近世は同黒谷金戒光明寺(左京区)、近代は知恩院(東山区)であった。塔頭寮舎は天正以前は上塔院以下24以上、近世中期に15院、末寺も53ヵ寺をそれぞれ数えたという。
天正年間(1573~92)成立の西福寺縁起に、良如は府中(武生市)の人で、幼くして平泉寺(跡地は現勝山市)に入り、のち浄華院敬法に学んで浄土宗、ことに融通念仏を伝授された。北国に下り、敦賀津の庄橋で西方に弥陀三尊を見て、その山に登ると三尊は大石となって現れた。この旨を奏上して後光厳天皇から津の西山にあたるので「西福寺」の勅額を賜り、その年応安元年山に入って仏殿を建立したという。櫛川郷の地頭山内重経は良如に帰依、寺地を寄進した。孫の将経も田畠・山林・名主職などを寄進、明徳元年(1390)7月に後円融上皇より祈願所の院宣が下り、応永33年(1426)8月に将軍足利義持、永享2年(1430)12月には義教よりそれぞれ祈願寺の御教書が下されている。また戦国大名朝倉氏の庇護も受け、寺領安堵を主とした安堵状・書状・判物が多数残されている。慶長3年(1598)の検地でも寺領はもとのごとく認められ、同8年には福井藩主結城秀康が原村のうち33石余を再寄進し、小浜藩酒井氏の時代には別に台徳院仏供料米30俵が給されている。原村民の藩への夫役は西福寺の門前村であるため免除され、代りに当寺に勤めた。明治4年、寺領・仏供料を失ったが、境内3千余坪は除地とされたという。
現在の本堂は文化8年(1811)の再建で14間四方。等身大の本尊円光大師坐像は法然自作と伝え、越前一乗谷の一乗寺より朝倉氏滅亡後の文禄2年(1593)2月に、阿弥陀堂(7間四方)とともに当寺に移されたという。書院・庭園は国指定名勝、絹本著色主夜神像・観経変相曼荼羅図・阿弥陀如来像・紙本墨書経巻・般若心経の5点が重要文化財。八十一難経版木19丁分・阿弥陀堂の2点は県指定文化財。当寺の古文書約400点余のうち300点近くが中世文書で、大半は寺領関係の売券・寄進状・安堵状であり、また融通念仏関係史料としても貴重とされる。






十三仏石像の堂
集落の西の端、墓地があるが、その入口付近


1メートルくらいの花崗岩の石に石仏が刻まれて13体ある。摩滅してほとんど顔の表情などはわからない。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


原の主な歴史記録

『敦賀郡誌』
西福寺  松原村原に在り、浄土宗鎮西派。大原山と號す。本尊圓光大師。本山はもと京清浄華院なりしが、今は金戒光明寺末に屬す。開山は良如なり、良如、初一宇趁立り誓順ありて、北國に下り、敦賀津筮橋にて西に當り、圓光り中に彌陀の三尊住立し給ふを見、山に登りてで放光の地を求むるに、三尊は大石と現せり。良如、威喜しt此旨を奏聞したるに、後光嚴天皇叡威ましまして、西福寺の勅額を賜ふ。津より西の山なればとて、西福と云ふなり。其年正平二十三年〔北朝応安元年〕八万十日、良加始めて山に入りて地を開き、佛殿の地を定け。時に土中より銅鉢銀杓子及和同?錢百三十三文を發掘す。後之を舎利殿に納む。十一月十五日、佛殿の造立成る。〔本尊は弥陀三尊なり〕境内の地は櫛川郷地頭藤原重経の私領なり、重経之を寄進す、加之、重経の孫将経の西福寺に寄進したる田畠山林名主職等多し。盖し西福寺の創立は、この藤原氏の力に依れるなるべし。元中七年〔北朝明徳元年〕七月二十四日後圓融上皇勅願所の院宣を下さる。應永三十三年八月、将軍義待、永享二年十二月、将軍義教、並に祈願寺の御教書を給す。又應永三十三年八月、青蓮院より同領莇野保内守弘名々主職を寄せ、義滿及其室勝鬘院の菩提と訪はしむ。當時の青蓮院門主は即將軍義教なり。第二世良信の時、三重塔娑を建立す、三年にして功竣ゆ。第三世浄鎮の時、畠山播磨守教元、父滿基菩提の爲に一切經蔵を建立せんと欲し、氣比・常常に所願するところあり、時に西福寺に建立すべき常宮の託宣ありしが、西福寺は勅願所たるを以て、私に建立すべからざるを以て、此由を奏聞す。文安二年三月後花園天皇勅許あり、同時に勅願所の宣旨を下さる。當時、公家武家上下萬民喜捨多きが中に、勅賜し給ふ經巻には、聖武天皇・稱徳天皇・光明皇后を初め幾多の古寫經あり。又開白二絛持基、般若心経を自寫して寄せらる。此等の經巻は今に傳えて寺に蔵す〔今は国宝となる〕經蔵の額は後崇光院の御筆なり。本尊金銅釈迦三尊及四天の像は政所執事伊勢貞國之を寄進す。是に於て唐様の輪蔵を建立し畢て七千餘卷の經論釈を蔵す。即ち畠山教元は島郷の内にて五石八斗の地を一切経曾料として寄進す。〔道残筆縁起に、畠山満基の建立となすは誤なり〕以上の建造物は現今廢絶す。或は火災に罹りし者なるか、詳ならず。現今の建造物中、本殿は延寳八年、善也住持の時、新に建立したる所にして、文化八年、專超代に再建す。〔十四間に十三間半〕本尊圓光大師の座像は等身にして法然自作と傳ふ。法然の弟子勢觀〔?源智平師盛息〕越前一乗谷に一宇を創して之を安置す。即一乗寺なり。朝倉氏滅後、阿彌陀堂と共に本寺に移して安置する所なり。阿彌陀堂〔七間四方〕は文祿二年二月、一乗寺より之に移す。山門〔八間半七間〕は元禄二年六月の再建に係る、阿彌陀堂は、正平二十三牟、良如創立以来、後圓融上皇・後花園天皇の院宣宣旨を奉じて、日別此堂にて寶祚延長、同家安穏の懇祈を抽する亊、今に絶えず。故に古来勅願殿と呼び慣へり。将軍守護の寺領安堵は、應永十三年閠六月守護斯波義將、同二十年三月同義重、同二十九年三月同義淳、永享二年五月の同人、同年十二月将軍足利義教、文龜三年九月守護朝倉貞景、元龜四年四月同義景、及敦賀郡司より並に安堵せしめたり。慶長三年の検地に際し、寺領は従来郡帳に除かれたる由緒を以て、元の如く寺納せしめらる。同八年正月、結城秀康原村にて寺領三十三石一斗三升を寄せられ、〔〕。酒井氏の時、台徳院佛供料として米三十俵を給せらる。又斯波義淳・朝倉教景・同義景・織田信長・羽柴秀吉・武藤父子・蜂屋頼隆・大谷吉繼・京極忠高等の守護領主等より、寺内禁制の判物を給せられたり。十五世道殘を中興とす。其頃にや、當寺を禪院たらしめんとしたりしが、舊の如く融通念佛の道場たるべき旨にて、其事止みたり。明治三年。従来使用の菊花紋章、及下馬下乗札を撤去せしめらる。同四年、台徳院佛供抖を廃せられ、三十三石餘の寺領は上地を命ぜらる。〔〕台徳院の位牌は、小濱九院寺に納むべき命ありしかども、寺の願によりて舊のまゝに之を安置す。
従来、原村民は、西福寺門前としで、公の夫役を除かれ、西福寺に夫役を勤め来りしが、又同時に停止せしめらる。現今の重要なる建造物は本堂・阿彌陀堂・山門の他に方丈・庫裏・鐘楼等あり。塔頭寮舍は元龜天正以前に見えたる者は上塔院・中興院・極樂院・栖閑院・祥聚院・念佛院・成就院・祥受院・正壽院・摂月軒・福寿軒・寳相軒・松月軒・妙花院・香城院・善聚院・清觀院・珠得院・桑願軒・仙陽軒・清祐軒・懷玉軒・仲陽軒・瑞芳軒〔〕等なり。なほ徳川時代の中頃には十五院〔〕ありしが、明治に至って次第に廢絶す。末寺も五十三寺ありしが、亦或は廢して、現今四十八寺なり。現今、境内三千二百○九坪、地は大原山麓なれば、幽静にして、又林泉の勝あり。
  〔〕
 [大原山西福寺縁記〕

原の伝説

『越前若狭の伝説』
西福寺(一) (原)
開山は良如上人である。一寺を建立しようという願を起して北国に来た。敦賀津の景色を見て、この地に建てようと、土地をさがしていた。庄の橋から見ると西の方に円光が上がっており、光の中に弥陀の三尊が立っていた。かたわらの人に、「あの山は何の山か。」と問うと、寂阿弥という人が「あれは櫛川松原の西の山である。かの松原は、むかし異国退治のため仲哀天皇が下向のとき、一夜に出生した松である。」と申した。上人は神秘を感得し、光を放つ所をたずねようと、夜山に登った。光明は消え、三尊は大石に現じた。これを三尊石という。当山の東北の峰にある。上人はこれを奏聞し、天皇は津の西にある不思議な山であるというので西福寺という勅額をたまわった。
 応安元年(一三六八)八月十日山に入り、仏殿の地形を定め、みずからくわを持って地をならした。土中から銀のはちと、銀のしゃくと、和同開宝銭百三十三文が出た。上人は、これは尋常の山でないと、これらの品物を舎利殿という箱に納めた。その箱は今もある。十一月十五日仏殿は造立したが、まだ本尊がなかった。十二月十五日に流浪の老僧が阿弥陀三尊を持参して、「寺院が建ったので、本尊を望んでいると聞いた。これを寄付し奉る。」といった。上人が「なに人か。」とたずねると、「京都の東山のあたりに住む者だ。」と答えた。今の本尊がそれである。
翌年商人が来て本尊を拝み、「これは京都の東山におられた仏である。ある年平重盛か、東山に四十八日の念仏興行をしたとき作った阿弥陀である。見るところ疑いない。」と渇仰(かつこう)の色を示して、消え失せた。これはただ人でなく、観音の化身かとみなの人はいった。
開山上人は、自分で山から掘り出した銅のはちが、仏舎利(しゃり、仏の骨)をいれるはちであろうと思い、このはちにふさわしい仏舎利が来現せよと祈っていた。永和元年(一三七五)白衣の老翁が仏前に参り、上人に「わたしが久しくとうとんでいる仏舎利を当寺の仏法のために寄付する。」といって、青い仏舎利と白い仏舎利を二粒上人の手に渡した。上人が礼拝し崇敬すると、老翁も喜び、庭に出て、白い煙となって、当山の東北の谷に昇った。その夜の夢に「わたしはこの山に住む者で、仏法の興起を久しく待っていた。今その時を得たので、自分の所持する仏舎利をさし上げた。この寺に安置して深く貴敬すれば、わたしも山にあって仏法を守護し、国民を守る。」と告げた。かの谷を仙人谷といい、谷の中に仙人石という不思議な岩がある。    (西福寺縁起)
良如上人が、はるか西の山に弥陀三尊が光明の中に立っているのを見て、光明をたよりにこの地に来た。辻堂のあたりまで来ると、一ぴきの白きつねが現われ、上人を導いて山のふもとまで来て、姿を消した。白きつねは当山の守護神として御影(みえ)堂の裏山に祭ってある。
仙人岩は、三尊石の下にある。開山上人に仏舎利といん石を献じた老翁の現われた所である。その仏舎利といん石は寺宝になっている。  (西福寺案内のしおり)
   註
良如は、足羽郡鳥羽村の人である。父を大町殿という。一説では府中の人という。(敦賀郡誌)

西福寺(二)  (原)
むかし若狭の田烏に一農夫があった。名を三郎太夫という。前業の報いか、年二十のとき、にわかに盲になった。敦賀の常宮神社にお参りして、開眼を祈願したが、数日たっても何ら効験がない。これもわが悲願の浅いためか、またはわが前業の深いためかと、泣く泣く二七日たった。するとその夜の夢に、「お前の前業は免れがたい。これより西に弥陀如来がおられる。これはわが本師である。頼み申せ。」と、神のお告げがあった。このお告げを信じて、大原山西福寺に参けいし、また二七日の祈願を一心に、こめた。けれども何の効験もさらにない。さては仏の済度もかいなく、因果は免れがたいことかと、わが身が浅ましく、こっそりと帰ろうといま一度合掌礼拝して、「ああ悲しいことだ。今生は助からなくとも、来世はかならず助け給え。」と信心をこめた。するとそのうちにはっきりと仏様をその眼で拝むことができた。あたりを見渡すと、両眼が開いて、もとの通りになっていた。
これを聞いた近郷の人々はいうに及ばず、遠国の人たちも仏のご利益(りやく)に感激した。三郎太夫は仏供米として、田を三段寄進したという。  (西福寺縁起)

仙人岩  (原)
いつのころか年代も和尚(おしょう)の名も判らないが、西福寺に囲碁の名人と呼ばれた和尚がいたので、毎日夜になると、ひとりの大入道が訪ねてきて、囲碁の相手をしていた。いっこうに自分の宿坊を教えないので、和尚は不思議でたまらず、ある夜のこと、貴僧の宿坊を訪ねたいから、連れてたまわれと、何度も何度もくり返し頼んだ。大入道も今は是非もないと思ったのか、しがらばわが肩に負われ、目を閉じたまえ、けっして途中で目を開いてはならないと、堅く約束させた。それは真夜中のことであった。歩くのかと思えば、空中を飛行しているらしい。それは風当りで想像された。しばらくすると到着した。京の山中らしいが、入道は何も語ってくれない。二三日して、和尚は敦賀に帰りたいといったので、入道は来たときと同じように、肩に取りつかせて、目を閉じさせ出発した。どうやら大空を急速力で飛行しているようである。和尚は実は堅い約束はしたが、一体どこを往来しているのがみたくなったので、ひそかに細目をあけてみると、下界はまっ暗で、その中に波の音がひびき、波の穂が白く見え隠れしている。和尚は早速目を閉じて思った。どうも琵琶(ぴわ)湖の上空らしかった。そうすると大入道は、天狗(てんぐ)であろう。ほどなく敦賀の原に着いた。大入道は、「お前は目を開けたな。」とただ一言いい、一とにらみして姿を消した。それから後はふたたび姿を現わさなかった。西福寺のうしろの山腹に仙(せん)人岩という岩がある。和尚が天狗とこの岩の上で碁を囲んだがら名づけたという。 (伝説の敦賀)
 参照 西福寺(一) (敦賀市原)




原の小字一覧

原  奥出 村上山田 上出 バンシヤ鼻 西清観谷 東清観谷 田中前田 向出 善取衣谷 前田 二ノ門前 一ノ門前 西福寺 下原 内辻堂 外辻堂 後谷 二後口谷 茶花 茶円花 辻堂下 メタロ 安堵詰 水込 薬師丸 又本田 菰添 山ノ花 下五郎丸 土取 西ヲキ ヒウチ谷 神田 畦高 西ストンボ 東ストンボ 上三枚田 西金屋 上五郎丸 瀬戸川 東金ヤ 流田 湯ノ詰 高木 八反田 松本 溝崎 シゲ竹 花ツゲ 東亀田 畦ナシ 北屋敷本 兼戸 後久 油田 一杷丸 北溝尻 南湯詰 東八反田 湯ゴモ 通ノ道 深沢 向河原 上野田 出ノ川 新出来 土庄境 上堂仏 下庄境 芝添 下堂仏 スノコ橋 砂田 御所田 一王丸 竹ノ内 鳥丸 中河原 蓮池 竹馬 下村中 西大蛇 北大蛇 窪出 光塩入 古川 布毛 宗八 向宗八 蟹喰 毘沙田 登り橋 西毘沙田 越前田 上高野 下高野 妙華谷 悪尾谷 腰谷 松尾 鳥越 焼尾 西バンシヤ鼻 笹原 西谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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