丹後の地名 越前版

越前

五幡(いつはた)
福井県敦賀市五幡


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福井県敦賀市五幡

福井県敦賀郡東浦村五幡

五幡の概要




《五幡の概要》
地内の県道五幡新保停車場線は、ウツロギ峠を経て木ノ芽峠に通じる古道の1つだという。この道か↓? 圃場整備されていて、昔の道ではないよう。県道は途中は廃道のような感じで、古くはよく利用された道なのだが、今の地図にはこの道はない。
北陸道は敦賀から木ノ芽峠を越えて今庄へ出るのが本道であるが、敦賀湾沿いの道もあった。「仙覚抄」は「イツハタノサカ、越中・越前国ヘコエルニ、二ノ道アリ。イツハタコエハ、スイツ(杉津)。キノベコエ(木ノ芽越)ハ、ツルカノ津ヘイツルナリ。キノベコエハ、コトニサカシキ道也」と記す。「枕草子」の「山は」の段は、越前の山として「かへる山」と並べて「いつはた山」をあげる。

帰山や当地「五幡の坂」は「万葉集」以来歌に詠まれる名所、歌枕で、「五代集歌枕」以下の歌学書に記される。「何時はた」と掛けて詠まれることも多い。実際に当地を訪れたことがあるかはわからないが、ミヤコでもよく知られた所になる。
「万葉集」巻一八に
  可散流廻(かへるみ)の道行かむ日は五幡の坂に袖振れわれをし思はば                 大伴家持(「万葉集」巻18)
  我をのみ思ひつるがの越ならば帰るの山は惑はざらまし                                    読人しらず
  君をのみ五幡と思ひこしなれば往来の道は遥けからじを
             読人しらず(後撰集)
  忘れなむ世にも越路の帰る山いつはた人に逢はむとす覧                            伊勢(新古今集)
  かへる山いつはた秋と思ひこし雲居の雁も今や逢ひ見む                            家隆(続後拾遺集)
  行めくりたれも都にかへる山いつはたときくほとのはるけさ                           (紫式部集))

東の山側はそうしたことだが、西は敦賀湾に面する。国道8号が通る。地名は、聖武天皇の天平20年(748)、敦賀の海に蒙古が来襲した際地内南西の山頂に五色の旗が翻ったことに由来するという口碑がある。
中世の五幡保は、鎌倉期~戦国期に見える保名で、建暦2年(1212)9月日の気比宮政所作田所当米等注進状に「五幡保米三十六石四斗六升五合三勺五才、皆御神楽用途也」と見え気比社領であった。永正14年(1517)4月15日の五幡下方住人山売寄進状に「五幡下方」の表記があり、同16年2月18日の石塚景雄知行安堵状でも「五幡保洞春庵全尖知行分」の山について「是は上与下入組在之」とされ、この頃上方・下方の別があった。この頃当保は気比社の社家石塚氏の支配下にあった。永禄元年(1558)6月5日の善妙寺領目録に「在坪ハ五幡浦堂之前」とあり以後は浦名として見える。元亀2年(1571)4月2日の五幡浦刀禰・江良浦刀禰・挙野浦年行事等連署言上状には五幡浦の刀禰2人署名していて上方・下方にそれぞれ刀禰が置かれたものと思われる。慶長国絵図には五幡浦と見え、挙野浦分を含み高289石2斗1升9合。
近世の五幡浦は、江戸期~明治22年の浦名。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)鞠山藩領、明治3年小浜藩領。享保12年(1727)の家数67(高持60・無高2・寺5)・人数321、牛17、塩かま屋17・塩高285俵余。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数63・人口307、塩生産高150石。同22年東浦村の大字となる。
近代の五幡は、明治22年~現在の大字名。はじめ東浦村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北2町余、戸数60、人口は男172 ・ 女174、学校1、小船9。当地は敦賀郡最後の塩浦で明治40年まで製塩していた。


《五幡の人口・世帯数》 140・46


《五幡の主な社寺など》

五幡山
古来の名所。五幡の坂ともいい、平安期以降の歌枕。五幡にある上の山かともいい、古代の交通路帰山路の道筋にある山ともいい、越前国府(武生市)から鹿蒜谷(南条郡今庄町)を経て、山中峠付近を越えて杉津に出た、その杉津東方の山地とも考えられるという。山名の由来は仲哀天皇の代、蒙古軍が当地を攻めた時、五本の幡が天から降り下って敗走させたことによる(越前志抄)ともいう。
なお,上の山のふもとにある式内五幡神社は、その旧跡とされる八幡社境内に、安永年間(1772~81)鞠山藩主酒井氏が復興したものという。

この道の突き当たりが五幡神社(八幡神社)になる。その裏山が五幡山かも…
帰山とセットで歌われることが多いので、帰山の近くかも。しかしその帰山も、どの山を言うのかわからない…


式内社・五幡神社

イノシシ除けの頑丈な鉄柵で閉じられていて、これ以上は近づけない。五幡山のイノ君は暴れん坊のよう。この社は私のナビでは五幡神社、地図などでは八幡神社となっている。両社が同じ所に鎮座しているようである。
「延喜式」神名帳の敦賀郡43座の1「五幡(イツハタノ)神社」は、久しく廃絶していたが江戸時代に再興した旧村社。祭神は三女神(式内祭神考)。再建碑の銘文によれば、安永6年(1777)6月に鞠山藩主酒井忠香が旧跡の失われるのを憂い、神霊を奉祀したものである。「越前志」は「五幡明神、祭八月十五日、別当同寺(西勝寺)、八幡宮ヨリ上ルコト一丁計山上ニ在、予八幡宮ヲ五幡社ト思テ、山上ヘ上ラス、後ニ聞テ遥ニ拝ス」と記し、再建の様子を「五幡別当日」として「古ハ此村ニ八幡宮ハカリニテ、五幡社ハナカリシヲ、丸山殿様寺社奉行ニ被成候節、如何成書物ヲカ御覧被成ケン、古ハ此村ニ五幡社アリシニ今ハナキ故、新ニ建立シ奉ラントテ、江戸ヨリ御厨子ヲ御上ケ被成、今八幡宮ノ山上一丁計ニ御立被成」と述べる。後に何度か遷座して、今はこの位置にある。
『敦賀郡神社誌』
村社 五播神社 敦賀郡東浦村五幡字宮山
位置と概況 本區は南方四町餘にて江良區に、北方五町餘にて擧野區に隣し、東方及び西南の大部は山を以て圍み、北方に海に臨み、長汀曲浦は眞に絶佳と賞すべきである。五幡の地名は往古より其の名が高い、萬葉集十七に越中守大伴家持が歌に、「歸廻(カヘルミ)の道行かむ日は五幡の阪に袖ふれ吾をし思はゞ」後撰集に「君をのみ五幡と思ひこしなれば往来の道ははるけからしを」、新古今集の伊勢の歌に「わすれなむ世にも越路のかへる山五幡人にあはむとすらん」、続後拾遺の家隆の欹に「かへる山五幡秋と思ひこし雲ゐのかうも今やあひ見む」、夫木抄、五首、歌合雪の藤原範縄の歌に「かきくらし越のかた道降る雪は五幡山を思ひこそやれ」、又紫式部集に「行きめくりたれも都にかへる山いつはたときくほとのはるけさ」清少納言の枕草子に「山は五幡山」とある。近代では御歌所長子爵故高崎正風翁の歌に「かへる山かへりみすれど五幡の坂に袖ふる妹だにもなし」など見えてゐる。其の他諸書にも散見してゐる。兎に角に五幡の地名につきては郷土の口碑がある。それによると、聖武天皇の御宇蒙古来寇の際に、この區の西南當る高き山巓に、五本の旗が現れたのに因んで、五幡の名が起つたと云ふ、古書に五幡山は五幡阪と稱してゐるのは、古の官道、即ち舊北陸道の、江良區より五幡區に連続した長い山を云ふのである。この區から東郷村葉原に出で、南条郡鹿蒜村に至り、今庄を経て武生(府中)に達するのが當時の國道ある。氏神五幡神社は、延喜の制の式社にて區の東北端に鎭り給ひ、八幡神社の屋内より僅か一町ばかり登りたる山中に鎮座し、本殿は西面し給ふ。當社の境内は甚だ狹き樣なれども、八幡神社の社地と連接して、古樹喬木多く、鬱々蒼々として神さび、神氣の極致を感ぜしめてゐる。
祭神 五幡大神
由緒 按ずるに、當社は古来五幡大明神又は名神様とも稱し奉り、延喜式内の社である。式内祭神考によると、三女神とあり、又気比宮社記には八幡宮也、又曰く仲哀天皇奉勸請之神祠也とあつて、未だ確證を得難いが、五幡の御社號につきては、氣比宮社記に「蒙古将襲我國于北陸之海上時鹿比流山ノ麓五ッノ旗靡キ揚ル事数日也云々其五幡旗之現レシ處ヲ號五幡神是也」とある。此社は久しく廃絶してゐたが、領主鞠山藩酒井忠香、其の舊趾の沒するを憂へ、有司の命を乞ひ、神祇伯白河家より神霊を奉祀した、これ安永六年六月十五日の事である。故に此日を以て例祭日と決めたのである。然して又和歌を捧げられて安永九年三月に、同地籍の八幡神社域内に其の歌を石に刻み、又石背に再建の所以を刻んで建てられた。明治三年九月鞠山小濱の兩藩併合に際し、鞠山藩より小濱藩に對し移牒した書中に「五幡浦五幡神社修覆並に鳥居一箇所御上より被成候事」とあるを以ても、武家の崇敬厚かりし社であつたことが窺はれる。明治三十九年一月一日御炎上の事ありて、元十町餘を登りたる山嶺に鎮りしを、現地に奉遷したのである。明治十一年頃村社に列せられた。
祭日 例祭 七月十五日(元舊六月十五日)
五幡神社再建碑 自然石 安永九年春三月建立

八幡神社
『敦賀郡神社誌』
村社 八幡神社 敦賀郡東浦村五幡字宮山
位置と概況 本區は、古書に五幡浦又は五幡保などと見てゐる。敦賀志稿に、此村は鹽を燒くを業とすとあるが、今は農業に従事してゐる。鎮守八幡神社は、五幡神社に詣づる境内の下方、山麓に鎮り給ふ。社域は石垣にて三區に劃され、鳥居を入り、数級の石階を上ると、南側に拜殿がある。こゝより更に數階の石段を級した上の、正面には石玉垣を繞らし、多数の石燈誕が併立してゐる。本殿はこの裡に西面して鎭座し給ひ、清明高雅にて、當社本殿の南側より宮山に登る土階がある。これを約一町も進めば、延喜式内社五幡神社に詣づるのであつて、當社の境内と五幡神社の境内とは相連続して、確たる區劃は認め難い關係であつて、全く五幡神社は奥宮で、八幡神社は口ノ宮の感がある。五幡神社は明治三十九年迄は、この山麓から約十町餘の山嶺に鎭座し給ひし事實に徴し、一肩その感を深うするのである。
 氣比宮社記に、五幡神社の祭神一説に八幡宮也、又説に曰く氣比大神仲仲哀天皇勸請之神祠也とありて、御祭神は御同體で座すとも拝察出来るのである。故に八幡社は口ノ宮でち下ノ宮に、五幡神社は上ノ宮で即ち奥宮(奥ノ院)に、相當すべき地理的位置に座すのも、當然の事と思ふ。然るに五幡神社の一時廃絶に歸してあつたのは、敦賀志稿に云へるが如く、亂世中何かの關係で廃絶したものであらう。或は參拝に不便な爲め、五幡神社を八幡社と改稱して、山上より山麓に奉遷したのか、或は下ノ宮として新に當八幡神社を創立したのかで、此の兩社は御同體の御祭神であるので、安永年間鞠山藩主が、既に廃絶されてあつた五幡神社を、その舊地に再建したものであると、編者は確信する。若し両社の御祭神が全く異るとせば、神祇の時代的変遷とか、民俗信仰の移動等、更に考證の據るべきものがあらねばならぬと思ふ。當社の社域は荘厳にて、境内の東北方には、巨岩露出して青苔に包まれ、幾百千年の星霜を経たる、タモ・椎・欅の老樹鬱蒼としで天を蔽ひ、四隣閑静俗塵を遮り、甚だ神さびて、神代の昔を偲ばせる境域である。
祭神 應神天皇
由緒 五幡神社の章に述べたから省略したが、特に當社の位置概況の條を参照、明治十一年頃村社に列せられた。
祭日 例祭 九月十五日(元舊八月十五日) 祈年祭 三月二十四日
       新嘗祭 十一月二十五日
祭禮と獅子舞 九月十五日の早朝青年会員は、八幡神社の境内に參集して、獅子頭を被つて、神楽獅子の舞を奉納する。舞には弊と鈴を持ちて、数種を舞ふ。この舞をする間は、笛・太鼓等で囃しながら、神樂歌を歌ふのであつて、奉納舞が終ると、區内各戸を巡回して悪魔祓と稱へて獅子舞をなすので、全くその風俗は伊勢神樂に似てゐる。
風祭 八月二十四日には風祭と稱へて、二百十日の平穏無事と五穀豊穣の祈願祭を行つてゐる。祭式其他一般の祭典と異る所は無い。
神明講其の他 毎年三月頃までに、區民の代参者三人宛を、順番にて伊勢両宮に参拝せしめる舊慣である。尚京都八坂神社・四國金比羅宮・京都府社愛宕神社へ三月までに二人を、遠州秋葉神社へ一人を代參せしめてゐる。
左義長 一月十四日朝、鷄の一番聲を相圖に、區内の若連中は我れ先にと起きて「あしたはすとどんの仰せで狐狩りやいの-まつ葉をくすべてさこどんぢやいの-」と、大聲で謠ひながら區内を巡廻すると、各戸は起床して小豆粥を炊くに門松を燃すのである。この行事は各地方で行はれてゐる、左義長に似てゐるから、多分それの變化したものであらう。明治の後期まで行はれてゐたが、今は中絶してゐると、一體左義長には佛教説もあるが、宮中でも行はせられた儀式であるから、日本的行事として考へねばならぬ、この左義長は精神生活更新の表現、即ち陰を去つて陽に就かんとする生々した気分の培養である。この説明は蛇足であるからこゝでは述べない。
神社附近の遺蹟
旗屋敷 五色の旛が飛揚して五幡の地名が起ったと傳へてゐる所である。
耳塚 胴山地籍にて、聖武天皇三十年霜月蒙古来寇の際に、鐵輪其の他賊軍の首を埋めた地と傳へられ、五幡と江良との間の山林中で、北陸道開鑿の際には、土器・鐵器物を発掘したと。
首取阪 蒙古鐵輪の首を切つた阪であると傳へてゐる。
追岩 蒙古人上陸せし時に、武内刀禰が鐵輪を追廻した岩であると傳へ、現に五幡海岸にある。
製鹽 五幡區は田結區と共に、往時は製鹽業が盛んで、武烈大皇供御の鹽も、この五幡區又は田結浦の産であったことであらうか。武烈紀、眞烏大臣罪有て誅せらるゝ時の章に、「角鹿之鹽爲二大皇之所一レ食、餘鹽爲二天皇一所レ忌」、云々とある。


浄土宗金光山西勝寺

洞泉寺の下手の西勝寺。浄土宗、かつては原の西福寺末。本尊は阿弥陀如来。


曹洞宗贅雲山洞泉寺

曹洞宗洞泉寺はもと洞春庵といい、元和・寛永年間頃に改称した。本尊は釈迦如来。寺蔵文書に永正8年(1511)3月の洞春庵施餓鬼田寄進状がある。


『敦賀志』
五幡浦
氏神八幡社、五幡神社ハ式内の社成しが、乱世中廃絶せしを、安永年間御領主酒井侯乞神祇伯王其旧趾再建御社の傍に碑石を建歌を刻し玉ふ、
 いにしへにかへるの山にあとたれて
    光やはらく五はたの神    飛騨守 忠香

 世々をへて帰の山に守ります
    恵そしるき五はたの神    同夫人 雄子

 国民もゆたかにあふく五はたの
    神ハいく世を守りますらん 息相模守 忠言

 陰たかき五はた山の嶺にます
    神の恵をあふくもろ人   同夫人  寿子

 碑陰に記有文長けれハ略之、
万葉集 …
新古今集 …
洞泉寺〔禅宗永建寺末むかしハ洞春菴と云り〕此村天正以前ハ氣比宮司石塚氏の堡地也、此寺境内山畠石塚大炊介の免除也、世々の 領主も其免状の面ニ不違賜之、
   於五幡保洞春菴全尖知行分之事
一 山壱所 是ハ上与下組在之
一 畠壱枚 刀袮名之内
  已上、 石塚大炊介
   永正拾六年二月十八日     景雄 判
重徳菴・宝林菴〔禅宗永建寺末〕・西勝寺・清雲院〔浄土宗西福寺末〕五はた坂ハ海畔の街道也〔先輩此坂を帰山といへるハ委しからず〕、此村ハ塩を焼を業とす、


《交通》
「延喜式」によると、若狭を除く北陸道6か国の官物はすべて敦賀に集め、琵琶湖北岸塩津から大津を経て京都へ送ることになっていた。治暦元年(1065)敦賀津や近江の塩津・大津・木津・若狭の気山津などの刀禰が、官物を勘過料(関料)徴収しているとして、越中国司から訴えられているが(壬生文書)、これらの津には官物以外にもさまざまな物資が集まり、刀禰が関料を徴収していたことがうかがえる。
古代駅制では近江鞆結から越前に入り、松原・鹿蒜と続くが、松原~鹿蒜間のルートは、陸路のみをとるコースのほかに、敦賀湾を北上して五幡から山中峠を越えるコースもよく利用されたらしいことは、大伴家持の「可敞流廻の道行かむ日は五幡の坂に袖振れわれをし思はば」(万葉集)によってもうかがわれる。


《産業》


《姓氏・人物》


五幡の主な歴史記録




五幡の伝説





五幡の小字一覧

五幡  上大畑ケ 下大畑ケ 中見谷 上見谷 二道谷 下見谷 下引坂 上引坂 世別藤 ナガヲ 焼小路 曽レ路 塚畑ケ 大谷 釜ケ谷 尾野 三条谷 奥寺尾 榎本 パケ谷 杉本 平弓 冷田 漆谷 二反田 幸長 六反田 宮ノ谷 宮山 浜田 向浜 中浜 丁田 坪ノ内 大辻子 長谷 西賀手 片山 五反田 尾長谷 下ドンガテ 上ドンガテ 桂谷 伊尾谷 イラ谷 フチ 下峠 上峠 尾場谷 ウシロ谷 三月田 下ウツロギ 上ウツロギ シヨロ谷 鳥越 別所 鴻ノ巣 榿本 流田 和泉海道 南長谷 南片山 メノコ谷 小峠 尾長 谷山 長畑 南イラ谷 土尾谷 峠ケ谷 ジイボシ ウツロギ 前谷 東桂谷 南場ケ谷 南奥寺尾 東三条谷 釜ケ谷山 東大谷 南引坂 大窪 舟原 北見 世別藤山 宮ノ谷山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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