丹後の地名 越前版

越前

櫛林(くしばやし)
福井県敦賀市櫛林


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福井県敦賀市櫛林

福井県敦賀郡粟野村櫛林

櫛林の概要




《櫛林の概要》
旧粟野村の中央あたりになる。旧国道27号沿い南側。何も目につくものはない、日吉神社の森が見えるくらいか。こうした地名だから何かありそうと思われる。当地にはもと気比神宮の外の鳥居があったといわれる。
『敦賀志』に、
櫛林村
氏神山王社、福寿菴(禅宗莇生野村幸松寺末) 此村の若狭街道へひぢまはる隅に、東向なる両農家(庄三郎 七左ヱ門)を土俗字して外の鳥居と云、是ハもと 氣比宮の外の鳥居のありし跡なりと云(元亀の兵乱に絶しといふ)、
古事記豊浦寓段曰、故建内宿袮率其太子為将御禊而経近江及若狭国之時於高志之角鹿造宮而坐、又東遷基業ニ 神君四月廿日熊川を過て若狭路を経給ひ、廿五日に敦賀に着給ひて信長に会し給ふとあれハ、此街道古く敦賀より京へ至る街道なりけん、よて此所ニ外鳥居ありしとおぼゆ、
と記されている。
中世の櫛林は、戦国期に見える地名。元亀4年(1573)3月23日の西福寺寺領目録(西福寺文書)に、西福寺常春から同寺常住への寄進地1反と常春の「政所左衛門」からの買得地1反が、「粟生野郷之内櫛林」とされている。慶長国絵図では粟生野郷1,911石余の一部。
近世の櫛林村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、寛文8年(1668)からは安房勝山藩領。
寛永年間(1624~44)、大洪水のため当村の田畑の大部分が砂入地となって荒廃し、寛永4年には大部分の村民が加賀方面に逃散し、家数も20軒から4軒に減少した。この逃散跡の田畑を藩主の命をうけた野坂村の柴田権右衛門光有が櫛林村雁子氏とともに開発し復旧したという。明治4年加知山県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に戸数16 ・ 人口77、産物は筵1,640束・縄35丸・菜種22石余。同22年粟野村の大字となる。
近代の櫛林は、明治22年~現在の大字名。はじめ粟野村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西4町・南北3町、戸数17、人口は男51 ・ 女40。粟野村役場が置かれた。


《櫛林の人口・世帯数》 1236・454


《櫛林の主な社寺など》

日吉神社

左は弁天様(市来島神社)。右が日吉神社で、明治9年村社となった。祭神は国常立尊、「気比宮社記」には串林神社とある。

『敦賀郡神社誌』
村社  日吉神社    敦賀郡粟野村櫛林字久保
位置と概況 本區はその大部分若狭街道(丹後道)に沿ひ、人家の多くは街道の南側に櫛比し、本村役場及び巡査派出所もこゝに在る。四面田野開け東方は助高川の一水を隔てゝ和野久區に隣し、南方は十一町にて砂流區に、東北方は市野々區に連接してゐる。役場附近より松原村の松原公園に通ずる道路があり、莇生野區・金山區へは西約数町である。本區は元祿年間地頭の苛斂誅求に逢ひて、農民は塗炭の苦を嘗め、生計の途を失ひ、遂に全村を挙げて加賀國能美郡串と稱する地へ移住したが、其中の二・三戸は望郷の念禁じ難く遂に数年にして復歸し、大いに田野の開拓耕作の改良に努力したので人家次第に増加して、今日に至ったとのことである。本區の舊家に雁子の姓あるは、移住して更に帰村した時には雁が門前に巣を作り、子を生んでゐたので、それに因んで姓としたとの口碑もある。氏神日吉神社は區の中央東部に當り、若狭街道より分岐して、砂流區に至る道路に沿ひ、南面して鎭座し給ふ。社域の周圍には、幾圍の欅・松の巨樹多く、蓊鬱として境域の空を掩ひ、尚常緑の小樹は青垣なして社域を圍み一見古社たるを推想せしめ、神威の莊厳を仰がしめる。社域は平坦にて、これを二分し、本殿の前面及び左右の三方は、高四尺位の石垣を以て一區劃を爲し、本殿はその浄域裡に鎭座し、前面の石垣には五級の石階が設けである。社地の南方には観音堂あり、その西方は直に耕田に連續し、東方は砂流道を隔てゝ人家がある。北方即ち社後は僅かばかりの雜林を經て、本村役場の背後に接してゐる。若狭街道より役場の後方に一團の森が見へるのはこれ當社の社域である。
祭神 國常立尊
由緒 按ずるに、氣比宮社記に串林神社とあるは、これ當社にて、往昔より山王社と尊稱し奉つてゐる。或年當區の雁子源右衛門の夢の告げに氏神山王社の御神體が盜まれ、江州鹽津濱に座すとのことにつき、扨ては不思議の夢かなと、直に氏神社に至りて調ふるに、果して夢の如く御異状あらせ給へば、恐懽措く處を知らず、そり儘追跡せしに、舟に乘り遅れて、困惑の態なる怪しき二人の男があり、其内の一人が背負へる荷物に、異様の靈感があるので、これ正しく御神體なるべしとて、共の不敬罪悪を詰責し、遂に之を返還せしめ元の如く安置し奉つたとのことである。明治九年七月十七日村社に列せられた。
祭日 例祭 五月二日(元舊四月二日)
 辯大祭 七月十四日末社辨財天の祭禮を行ふ、此の夕刻は、境内に献燈を點じ、花鉾を立て、區内の青年等が所謂盆踊をするのである。
本殿…
境内神社
市来島神社 祭神 市杵島姫命
宮の講 二月十一日宮ノ講と稱し、これを新舊二講に分ち、舊講は舊慣の七戸を限定され長男十五歳以上を以て組織してゐる。又新講は舊講を除いた他の三十九戸の戸主のみを以で組織されてゐるが、この兩講員から一人宛出でて宮守の補助役を勤めるので、宮守は舊講七戸の中から一人を定める例である。新舊兩講共に、戸主が十五歳以下の場合にも、代理者が講員となる亊は出来ないのである。當日兩講員は神社に參拜して、當番の家へ行き直曾の式がある。當番は舊講七戸の廻番である。
伊勢講 毎年三・四月頃、二人宛を伊勢兩宮へ代參せしめてゐる。
神社附近の參考地 雁子氏の所有地に、西所と呼んでゐる地籍がある。此處には山神と稱して塚がある。三十坪許の楕円形であつたが、段々土を削って田になした爲め今約十坪餘で、松が一本あり、ただ古蹟とのみ傳へて何人の塚なるか、又宮趾か祭祀趾なるか今に不明である。
気比宮外鳥居趾 気比宮の外鳥居のあった趾であると云ふがあり、元龜の兵乱に廢絶したと傳へてゐる。古事記豊浦宮段曰「故建内宿禰卒其太子爲時御禊而經近江及若狭國之時於高志之角鹿造宮而坐」とある。又東遷基業に「神君四月廿日熊川を過で經玉ひ二十五日に敦賀に着玉ひて信長に曾し玉ふ」とあれば、此街道は、古くより敦賀より京へ通ふ、街道となつてゐたのであらう。然れば此所に外鳥居のありしは事實なるべく、此舊趾を神主前と稱してゐる。


曹洞宗福寿庵があったが廃絶。『敦賀郡誌』に、「廃寺、福壽菴、曹洞宗、莇生野幸松寺末。」とある。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


櫛林の主な歴史記録




櫛林の伝説

『越前若狭の伝説』
雁子(がんこ)の姓     (櫛林)
 文禄のころ(一五九二ごろ)櫛林の村民は、地頭から重い税を課せられ、生活に困って、ついに全村をあげて、加賀国能美郡串(くし)という所へ移住した。そのうち二、三戸は、故郷なつかしさに、数年後にこの地に帰って、耕作に努力した。それで人家かしだいに増加して。今日に至った。
 この部落の旧家に雁子(がんこ)の姓があるのは、一度移住してさらに帰村したときに、がんが門前に巣を作って、子を産んでいたので、それにちなんで姓としたのである。         (福井県の伝説)


櫛林の小字一覧

櫛林  助高 川端 神主前 新与田 下崩レ 東六本松 三反田 堂ノ上 久保 中射 畦高 畦高ノ上 中筋 寄合田 焼ノ下 十郎丸 中通り 西所 中野 ?安田 右近橋 西久保 上江町 江町 下江町 竹ノ下 靏首 海道 東三反田 時繁 下ケ谷 馬場


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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