丹後の地名 越前版

越前

櫛川(くしかわ)
福井県敦賀市櫛川


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福井県敦賀市櫛川

福井県敦賀郡松原村櫛川

櫛川の概要




《櫛川の概要》

井ノ口川の川口のあたり。気比松原に連なる浜堤の西南端に位置する。
中世の櫛川郷は、南北朝期~戦国期に見える郷で、敦賀郡野坂荘のうち。「太平記」巻18に建武3年(1336)11月2日のこととして「「朝暖(アサナギ)ニ、櫛川ノ嶋崎ヨリ金崎ヲ差テ游者アリ、(中略)亘理新左衛門ト云ケル者、吉野ノ帝ヨリ被レ成タル綸旨ヲ、髪ニハ結付テ游グニテゾ有ケル」とあり、亘理新左衛門が当地から金崎城まで泳ぎ、後醍醐天皇の綸旨を伝えたという。観応元年(1350)8月19日の山内重経田地売券(西福寺文書)に「野坂庄内櫛川郷地頭給」とあり、当郷は青蓮院門跡領野坂荘に属し、地頭は「櫛川殿」と呼ばれた山内氏であった。応永17年(1420)5月7日、青蓮院門跡は管下の近江明王院の者と思われる「安賀殿」に当郷を給付している。応安2年(1369)11月15日山内重経が郷内の原に敷地を寄進して西福寺が建立され、以後同寺に多くの土地が寄進・売却されていった。応永10年3月15日同寺塔頭善衆院に山を売ったのは「櫛川村」惣百姓(5人)で、当時百姓の間では村名で呼ばれていたことをうかがわせる。元亀4年(1573)3月23日西福寺寺領目録には「櫛川惣百姓 寄進」「櫛川惣百姓ヨリ買得」などとあり、室町・戦国期を通じて惣結合が維持されていた。郷内の(みょう)・ 字には、是時名・久延名・久乃四郎丸名・原(原村)・長尾・赤尾・馬見鼻・横縄手・高野・松木本・窪田・金屋・道上・廟際鎮守田・老壞奥殿跡・目太郎丸・友次・六反田・跨気田・板超・目大三郎丸・末守・貞末・祖父懐・細田・アトノ橋・惣田・山鼻・中河原・芝原などがある。慶長国絵図には、川村と見え,高618石2斗1升8合。
近世の櫛川村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。享保12年(1727)の家数61(高持36・無高24 ・ 寺1)・人数276 (男130 ・ 女145 ・ 出家1)で、入木銀40匁余・牛馬銀18匁余・鮭川役銀43匁・入草銀49匁余・雉子札1匁・渋柿1斗5升代米8升余・コカチ米2升余・夫役1ツ1分・夫米8俵余、馬足18匹を負担。当村に属する御林(松原)は東西8町29間・南北6町9間。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に幅員は東西3町・南北2町、戸数55・人口245、田地62町8反余・畑地1町1反余・宅地3町1反余・山地41町5反余、牛1・馬2、荷車1。同22年松原村の大字となる。
近代の櫛川は、明治22年~現在の大字名。はじめ松原村、昭和12年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北4町余、戸数54、人口は男144 ・ 女170、学校1。一部が同44年平和町、同57年櫛川町2丁目となる。
近代の櫛川町は、昭和57年~現在の敦賀市の町名。2丁目がある。もとは櫛川・原の各一部。


《櫛川の人口・世帯数》 2023・824


《櫛川の主な社寺など》

有棚式石室を持つ穴地蔵(あなじぞう)古墳

井ノ口川の川口近くには、いくつも大きな池がある。池というのか、製塩土器が出るというから昔の海の入江の残りかと思われるが、そうした池のふち、花城(はなじり))山の山麓の緩斜面の字鉢谷(はちだに)に円形封土を設けた、穴地蔵と称する横穴式古墳(県指定史跡)がある。この道ぶちで、道よりは5メートルばかり高いところにある。石室は南東に面して開口、有棚式石室で、現在は上段石棚に3体の地蔵尊が安置され、1体に永正十五年(1518)正月二日の銘がある。

そこの案内板には、
福井県指定文化財 穴地蔵古墳
指定年月日 昭和五三年十月一一日
所在地及び管理者 敦賀市櫛川 櫛川区
 この古墳は復元経一一メートル高さ三・六メートルの円墳で、南東に開口する横穴式石室を備えている。石室は花崗岩の平石積みで玄室り幅一・六メートル 高さ一・八メートルを測り、奥壁から四・八メートルが遺存している。
 最大の特徴は奥壁に石棚を持つことである。全国的には和歌山市の岩橋千塚が有名であるが、県内及び近隣では石棚を持つ例は市内の鳩原二号墳、白塚古墳、美浜町丹生の浄土寺二号墳、滋賀県マキノ町の斎頼塚古墳に限られ希少である。本古墳の築造に年代を知ることができる遺物はないが六世紀末から七世紀末にかけて築かれたものであろう。なお石棚には永正一五年(一五一八)銘の地蔵尊が祀られている。
平成一二年八月三一日 敦賀市櫛川区
上にもう一つ案内板がある。
福井県指定文化財 史跡 穴地蔵古墳
この穴地蔵古墳は、七世紀前半頃に築かれた古墳で、花崗岩の割り石を積み上げて作られた横穴式石室の奥に、石棚を持つことが最大の特徴です。後世にこの石棚の上にお地蔵様が祀られており、これが古墳の名の由来となっています
この古墳は、もとは直径十一m、高さ三・五mの円墳であり、現在は約五mの石室ですが、もとは全長約七mの石室であったらしく、石室内から築造年代を推定できる須恵器の他、土師器や鉄製馬具の断片などが出土しました。
 石棚を持つ古墳は、全国的に百二十例余りが知られていますが、福井県では本市の三基と美浜町の二基に限られています。特に敦賀半島域に偏在していることから、海洋集団との関わりが考えられます。ちなみに六世紀から七世紀にかけて、櫛川付近から敦賀半島一帯では、土器を用いて海水から塩をつくる土器製塩が盛んになることから、製塩集団がこれらの古墳の造営母体ではないかと見られます。なお、石棚のお地蔵様のうち一体には、永正十五年(一五一八)の銘があり、この付近の名刹・西福寺の第十二世・壽光上人の事蹟であると伝えられています。
また、明治時代の初め頃まで、石室の前に九尺(二・七三m)四方のお堂が建っていました。このため石室の入口付近が削られ、現在の形になっています。
平成二十年十二月 敦賀市櫛川区



『敦賀市史通史編』
穴地蔵古墳は、櫛川区の西北の丘陵の先端に位置する古墳で、昭和五十三年に県の史跡に指定されている(写真40・41)。付近にはあと二基の古墳が分布している。本古墳は直径約一一メートル、高さ約三・六メートルの円墳で、南東に開口する袖無の横穴式石室と考えられ、石室の現在における全長約四・八五メートル、幅一・六メートルをはかり、小規模な石室で、過去に盗掘を受けており出土品については何も判明していない。石室の奥には奥壁寄りに石棚が設けられており、上下二室に区別されている極めて特異な構造であるといえる。この石棚の上には後世に三個の地蔵が祭られており、永正十五年(一五一八)の銘のあるものもある。
このような石室内に石棚を有する横穴式石室、市内鳩原2号墳、三方郡美浜町丹生浄土寺2号墳で、県内ではこの三例のみであり、敦賀とその周辺にみられることに注月したい。本古墳の後期古墳に属し、六世紀末、七世紀初頭に属するものであろう。


櫛川製塩遺跡
松原遺跡
昭和54年、別宮神社社前で松原遺跡が発掘され、和同開珎・小鏡・銅鈴・緑釉や須恵器の破片などが出土したが松原客館跡との確証は得られなかったという。


別宮(べつぐう)神社

『敦賀郡神社誌』
…嘉永・安政・文久の頃、黒船騷にて海内物情騷然たるに際し、各藩竸て海防の備を爲したが、若狭藩は本郡内にて金崎・川崎・洲江庵等に砲臺を築かれたのである。或る年始めて金崎に砲臺を設け、井ノ口川尻の花城山を目標として、木弾等を試射せしに、最初は迚も目標逹しなかったが、技漸く進み設備漸く改良されて、遂に花城山まで逹したと云はれてゐる。之を今日の砲術と其の着弾距離に比して實に今昔の感なき能はずである。今も當時の練習用の木弾が、山麓附近から發見することがある。この花城山は城が鉢と稱する城趾であると、氏神別宮神社は、區の中央北端に東面して鎭座し給ふ。先づ松原公園より、當區及び原區・沓見區に通じ、又常宮に到る通路に沿ふ平坦地にて、社標及び鳥居を經て左側の社務所を過ぎ、拜殿の傍を經で本殿を拜す。本殿の左右に末社と燈明舎及び寶物殿があり。拜殿の北方には神饌所がある。而して社背及び社域の兩側は松林となりてゐるが、本殿の西南に當る西大蛇地籍には、椎・藤の古木数株が殘存してゐる。境内及び建物等概ね整備し、本殿の銅葺屋根が孔雀石の如く、緑青を呈し美しく神々しく、神前を往来する人も、自ら神成の高く尊く坐すことを感ずるのである。
祭神 仲哀天皇、神功皇后
由緒 按ずるに、當社は往昔より別宮大明神と尊稱し、其の由緒詳かならざれども、聖武天皇天平二十年異賊襲来して西浦海岸に至りし時、その十一月十一日の夜、敦賀の天地轟々震動して、久志川の濱邉には数子株の緑松が忽然一夜の中に簇生し、これに數萬の白鷺が群集して、恰も樹上に白旗の翩翩たる如く見え、又西浦海岸の立石附近には數丈の巨巌が突然海中に屹立して、船の進路を妨げたので、これを見た蒙古の賊徒は、天の爲せる此の堂々たる威風に恐怖し未だ一戦に及ばずして、敵船悉く海中に覆没し、敵軍の溺死其數を知らずと傳へてゐる。この神瑞震異の事實を氣比宮の神官が委曲天聴に奏聞したので、氣比宮の御造替の宜旨があつた、其節櫛川と松原にも神社を創立したと云はれてゐる。始め櫛川神明社と稱へたるが、後に郷民は別宮大明神と奉稱したるものにて、當社御創立の以前は氏神に山神社を奉齋してゐたものゝ如く推想される。而して當社別宮大神は、氣比大神並に姫大神と傳へてゐる。姫大神は常宮大神にて仲哀天皇の姫神神功皇后を奉祭した社であると云ふのであるが、正確なる考証の據るべきものを発見しない。然し別宮の神號並に社號は、本宮に對する稱呼で、別社即ち別の宮の意であろから、御祭神は御本社と御同體であるべき筈である。故に古史に照し由緒に徴し、又口碑や寳物の古神像等によつて、畏かれども祭神は仲哀天皇并に神功皇后を奉齋せるものと推定したのである。明治七年十二月村社に列せられ、大正四年一月十六日神饌幣帛料供進の神社に指定せられた。
祭日 例祭五月二日(元舊四月三日) 所年祭 三月二十五日 新嘗祭十一月二十五日
境内神社
蛭子神社 祭神 事代主命
愛宕神社 祭神 火産靈命
舊特殊神事(今は廃絶) 今より凡二十年前の事であつて、神社合併が盛んに行はれる頃までは、毎年四月三日に『御供参り』と稱へて、十五・六歳から二十歳までの未婚の娘が参加した、その娘は區内で相當の地位ある家の娘で、成るべく其り年又は翌年他に嫁ぐ婚約の出来たもの又は病弱なるもので希望の申出であるもの、これ等のもの無き場合は他の適當の者に依頼して決する。娘は當日盛装して、白米五升で作った小餅を飯櫃に入れ、之れを頭上に載せて、區長宅から神職・區長・氏子等と共に列をなして神社に到り他の神饌と共に神前に供へ、御供女も祭典に列して拜禮し、終了すると帰宅するのであって、この小餅は氏子各戸に配付したのである。
神社附近の傳説地 當社本殿より西南方約四十間程を隔てた所に、周圍四・五町の大池があった。其の池の邊には幹圍一丈七・八尺の椎や老桧が林立し、それに周り四尺以上もある大藤が數株纒絡して晝尚暗く陰濕な空氣が満ちて、小気味悪い池であった。この池には大蛇が棲息してゐたと傳へられてゐる。或る日池邊の人家のものが、未明に起きて門戸を開きつゝふと見ると、椎の大木に大蛇が蜿蜒絡みつき、口より炎々眞紅の気を叶いて、今しも飛びかゝつて呑まんとするの形勢なので大に怯き、直に家の構造まで改めで、池に面した入口を妻戸の方に付け換へ、そして原の西福寺の僧侶に祈禱を依頼したので、それ以來大蛇も姿を潛めたと傳へてゐる。今でもこの池を大蛇池と稱し、附近には西大蛇・北大蛇と云ふ地名が殘ってゐる。又家の入口を換へたと云ふ家は、今も昔の如く傳説を保守して、池と道路に反した方に入口がある。西大蛇の地や大蛇池の趾は、今も雑林で椎・椿の古木や大きな藤があり、池は埋まったが水草が密生して居る。此り附近一帶の小川や北大鉈の耕田には川蟹が非常に多く畔豆や稻などに害をするが、往昔この大蛇池に大蛇を封ずべく祈?した時に、蟹が群集して大蛇を鋏み殺したので、村人は蟹を徳とし捕へないからだと傳へてゐる。
神社附近の舊蹟地 古墳(穴地織)當社背後の西南方、数町の井ノ口川を隔てた櫛川山の鉢谷地籍の山麓に、俗稱穴地藏と云ひ地藏尊三躯を安置した所がある。これは圓塚古墳の石槨中へ後世地藏尊を祀つたのである。この古墳は幅五尺餘の奥壁にて総長十六尺餘あり、これに大なる蓋石がある。奥壁より六尺五寸餘の所から室を石板で棚の如く上下二室にして、その上室に地藏尊が安置されてある。中に永正十五年正月二日の年號のあるものもあるから恐らくその頃に發見されたものと察せられる。此の附近約二十間の所にも又一個あれども破壊され、その石材の一部は他に搬出したとのことである。而してこの二箇所とも口は東南面に開かれ方形石室で石材は土産の花崗岩を用ひてある。この古墳築造は大化以前のものと見るべき様式であつて棚を以て上下二室にされてゐるのは珍らしい。


浄土宗西性寺(廃寺)
『敦賀郡誌』に、「廃寺、西性寺、松原山、浄土宗、京都知恩院大谷寺末」とある。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


櫛川の主な歴史記録

『敦賀市史通史編』
市内の製塩遺跡
若狭湾沿岸に五七か所の分布が確認されている製塩遺跡は、昭和五十一年(一九七六)には、白本区にその存在が知られるに至って、市内に製塩遺跡の可能性が出てきた。白木区の山を越えた美浜町丹生には、丹生小中学校遺跡とオクノウラ遺跡の二か所の製塩遺跡が判明している。白木遺跡の場合は、相手の支脚が採集されており、若狭地方の塩浜式(一〇世紀)の時期のものである。また、船岡式(八世紀)に類似の土器も採集されており、奈良・平安時代の遺跡があるようだ。白木遺跡と同様の支脚は沓区からも採集されているが、遺跡の内容は明らかではない。
県埋文センター山口充の熱心な調査活動により、浦底区より採集された土器片は、若狭地方の浜禰ⅡA式土器(六世紀)そのものであり、浦底遺跡は、本市では最古の製塩遺跡である。さらに鞠山区の田結崎遺跡でも製塩遺跡の存在が判明しており、田結崎遺跡は後述の興味深い内容をもっているようだ。その後、櫛川区にも製塩遺跡が知られるようになった。
本市における本格的な製塩遺跡については、昭和五十四年に県教育委員会が重要遺跡緊急調査の一環として櫛川遺跡を松原客館擬定地として、発掘のメスを入れた。遺跡は海岸線より約五〇〇メートルも内陸に入った櫛川区東方の砂丘にあり、発掘が県教育委員会によりなされた。調査は小規模な範囲しか手をつけることができず、松原客館に関連する遺構は確認することはできなかった。別宮神社前の地点を中心にして、銅銭八点(和同開珎五、降平永宝二、神功開宝一)、小型銅鏡(儀鏡)一点、銅鈴一点、刀子一点、緑釉土器片など多彩な遺物も出ている。調査者は、これらの遺物が能登客院跡と推定されている石川県羽咋市寺家遺跡の出土遺物と共通する様相を指摘している。
 しかしながら、付近からは製塩遺跡が濃厚な分布をしており、櫛川遺跡は生産遺跡としての性格を有している。本遺跡の調査成果の本格的な発表がなされていないが、県内外の製塩追跡でも、和銅開弥や緑釉土器、刀子などの鉄製品の出土などがみられ、塩作りにおける祭祀の存在も大いにあり、今後の検討が待たれよう。
 櫛川遺跡から検出された代表的な製塩炉は、一部は宅地のため未発掘となっているが、長さ六・八メートル、幅二・四メートルで、平たい石を約二〇〇個以上敷きつめた敷石炉であり、調査者によれば、六世紀後半(古墳時代後期)に属するものとされている。このような細長い敷石炉は、大飯町宮留遺跡でも浜禰ⅡB式古(七世紀前半)の時期のものが検出され、東西約十三メートル、南北約四メートルの大きさで、実際には、いくつかのブロックに分けられるようである。
 市立歴史民俗資料館に保管されている製塩土器と支脚を写真にあげたが、その編年的位置は定かではない。土器の観察をすると、土器の表裏とも赤褐色を呈し、その厚みは三~五ミリと薄く、外面は指で押して粗く調整し、内面はハケ目が残り、ていねいな調整が加えられている。土器片は著しく加熱を受けておりボロボロである。土器からいえば、若狭地方の浜禰ⅡB式古(七世紀前半)に併行するように思われる。製塩支脚は頭部の破片であるが、若狭地方の傾式(九世紀)の時期のもののように思われる。製塩土器も支脚も一~三ミリの白い砂が混入しており、この地で焼かれたことを示している。
 このように市内の製塩遺跡は、六世紀前半(古墳時代後期)より奈良・平安時代にかけての時期のものが想定され、必ずしも若狭地方の製塩土器に当てはまるものばかりではなく、当然のことながら地域色があると思われ、今後の研究が待たれる。

『敦賀郡誌』
…中に就て特記すべきは櫛川村の俗に穴地蔵と稱する一古墳なり。此の古墳は山麓の緩斜面に圓形封上か設けて造りたるものにして、埴輪圓筒を見ざるも横穴式石室南東面して開口す。其の内部の構造は花崗岩を積みて方形の石室を造り、玄室と羨道との區別なく現存せる総長十六尺円寸・幅奥壁にて五尺二寸五分あり而して其の室と思はる部分(即ち奥壁より六尺五寸餘の間)には別圖に示すが如き石棚中間に在りて之を上下の二室に區別せるを見る。之は頗る珍とすべきもりなり。由来奥壁に接し小棚を有する石室は紀伊の岩橋千塚・河内の高安千塚他に例あるも、此の如く恰も二箇の棺を収め得る石棚ある石室は未だ之を見聞せず。


櫛川の伝説

『越前若狭の伝説』
一夜の松原  (櫛川)
敦賀の町を離れ、西の方に出れば、きれいな松原がある。これを一夜松原という。むかし神功皇后のとき、唐土から賊船が多く襲い来た。そのときこの海浜に一夜の間にこの松原がはえ出て、こずえにさぎが多く群(む)れ集った。それが敵の目にはおびただしい軍兵の旗さしものに見え、驚き恐れて逃げ去った。(東遊記)
参照蒙古来攻(三)(敦賀市曙町)
一夜の松  (櫛川)
松原に大きな松がある。苗を植えたところ、一夜でりっぱな大木になった。今では松原一帯の松の親である。その名を一夜の松という。   (中塩清之助)
大蛇が池   (櫛川)
池は松原官林の西の別宮神社の裏手四十間ばかりのところにあって、周囲は三町ばがりである。今はうずまって水浅く雑草か繁茂している。しかし四周は老松や雑樹にふじがからまって陰うつとしているので、むかしはいかにものすごいところであったことは想像される。この池に住んでおった大じゃは毎春櫛川村のおとめをひとみごくう(人身御供)に供えさせた。その要求に応ぜぬときは、秋になって大暴風大洪水があって、一村の収穫は皆無となるのである。ゆえにいかにかわいがっておいても、そのおみくじに当った家では、その娘を別宮の社前に供えた。
むかし櫛川郷には地頭藤原兵庫助という長者があった。くし川殿と称して、この辺では並ぶ者がない長者であった。西福寺の寺域や山野は元はくし川殿の私有で、吉野朝時代に兵庫助重経というのが良如上人に帰依して西福寺を寄付し、同寺が創建された。ある年のおみくじはこのくし川殿の娘に当たった。くし川殿ではひとり娘のことで、ひじょうにがわいかって育てておった。彼女の母はすでになくなって、ことにちょう愛しておったので、その不運を悲しんだ。村のはなに貧しく暮している者のうちに娘のある家が三軒ばかりあった。くし川殿は彼らに身代わりを求めた。なき後々その家はくし川殿から末代まで扶養する約束であった。しかしいずれの親も娘がかわいく、娘も大じゃに食われる恐ろしさに、身代わりに立とうというものがなかった。そのうちの一軒の娘は十七八でたいへん気丈夫であった。その家は父をなくして母が三人の兄妹を養育するに難儀しておった。彼女は身代わりに立つことを母に相談した。母親は一時は悲嘆にくれたが思案の末ついに承諾した。
いよいよ祭礼の日かきた。それは陰暦四月三日であった。その夜村の若者は身代りの娘を白木の大びつに入れて神前に供えた。そのひつには上に大じゃがかま首を入れるだけの穴があけてあった。若者は走り去った。うしの刻すぎたと思うころにわかに騒々しくなって、ひつの周囲を幾回転する恐ろしい音に娘は気絶した。大じゃはかま首を上げて穴に向けたが、身代わりであったので食うことができぬ。あらためて二度三度穴の口まで首を入れたが、やはり食うことができなかった。気絶した娘は夢うつつともなく聞いた。
「わしはこの池のぬしである。年に一度若い娘の生き血を吸わねば生きておることはできぬので、毎年村からその娘を供えさした。ことしもその血を吸おうとしたら身代わりである。二度三度吸おうとしても身代わりでは寄りつかれぬ。さりとて生き血を吸うことができぬなら、もはやこの池に住むことはできない。他の池に移ろう。それで今後村の娘をごくうにたてることはいらぬ。その代わりに村の娘は白もち五升を身代わりとして供えてくれ。なお神前では塩水の湯立てをして、村の娘はその勤めをせよ。今後村へたたりをすることはやめる。」といってそのままのた打ちしつつ池に帰り去った。
夜が明けて、村の若者は例のごとくひつを納めようと神前に向かった。ひつにはまだ娘がいるので、村の若者は怪しみながら近寄った。娘は昨夜半の大じゃが述べたことを告げた。村人どもは意外のことに喜んだ。くし川殿はもとより村民一同は彼女の一家を村の恩人であるとて扶養することにした。それ以来村の祭日にはおとめひとりを選び、五升の小もちを舟びつに入れて頭上にのせさせ、村民は彼女のともをして参拝して神前に供えることになった。一方神前では塩水の湯立てをすることになった。ここに奉仕する村の若者もおみくじで選んでおつかえさせるが、その姿は貪しい娘の服装をした。
その後大じゃは大洪水があったときに西浦の浦底の猪之(いの)が池に去ってしまったという。この時池から川に出た道筋であるというのが、今大蛇(だいじゃ)と称している道である。池の南の稲葉彦作という家の門口は元は池の方に向いていて、そこから大じゃがしいの老本などに巻きついているのが見えたというので、その出入口は池の見えぬ方へ変えたという。  (伝説の敦賀)
この池の近くの人家の者が、ある日朝早く起きて、戸を開いてみると、しいの大本に大蛇がからみつき、今にもとびかかって、のみこもうとする形勢なので、大いに驚き、ただちに家の構造をかえ、池に面した入口を妻戸の方に付けかえ、原の西福寺の僧に祈祷してもらった。それ以来大蛇は姿をひそめた。その家では今も池と道路に反した方に入口がある。この池を大蛇が池といい、西大蛇、北大蛇という地名が残っている。    (敦賀郡神社誌)
   註
「福井県の伝説」にも「伝説の敦賀」とほぼ同じ内容のものか記載してある。(杉原丈夫)

穴地蔵   (櫛川)
深さ五メートル、横一・二メートル、高さ一・五メートルの穴に、たけ七五センチの地蔵が安置してある。俗に穴地蔵といい、男女ともに下の病気ある者が参けいする。 (寺社什物記)





櫛川の小字一覧

櫛川  宮森 出口 松ハツレ スノコ橋 松添 松開 芝添 下堂仏 下庄境 上堂仏 上庄境 向河原 野田 新出来 出し川 窪田 森光 砂田 鳥丸 竹内 一玉丸 上村中 村上 上出来 村中 中川原 蓮池 前川 下村中 竹馬 西大蛇 宗八 北大蛇 下出来 池尻 古川 布毛 久保出 照福寺 光塩入 塩入 花城 山下新田 蟹喰 向宗八 毘沙田 登り橋 越前田 上高野 西高野 下高野 西毘沙田 内辻子堂 メタ口 前田 外辻子堂 辻子堂 茶円鼻 水込 薬師丸 又水田 セト川 流田 湯詰 油田 東金ヤ 西金ヤ 上五郎丸 コモ添 山鼻 下五郎丸 三枚田 八反田 東ストンボ 西ストンボ 土取 西沖 大打谷 神田 畦高 沓見坂 西沖合 ストンボ 大打山 茶円花 三ツ石谷 高野 東高野 鉢谷 花城山 イトコ崎


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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