丹後の地名 越前版

越前

沓見(くつみ)
福井県敦賀市沓見


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福井県敦賀市沓見

福井県敦賀郡松原村沓見

沓見の概要




《沓見の概要》
舞鶴の方から行けば、関峠を越えて敦賀市に入った所の左側にある。このあたりの水田はみな砂地のようで、昔は入江になっていたのかも知れない。気比高校がある。
中世の沓見郷は、室町期~戦国期に見える郷名で、敦賀郡野坂荘のうち。「華頂要略」巻55下に「御門跡領所〈応永之記〉」として「同(越前国)沓見郷」と見えて、当郷は青蓮院門跡領で、11月分の御風爐用途に宛てられていた、という。応永5年(1398)と推定される閏4月27日の道義書状写に「越前国野坂庄内沓見郷……半済事、退道将(越前守護斯波義将)代官、一円可有御管領候」とあり、当郷が青蓮院の直務となっている。戦国期の年未詳11月10日付武田氏奉行人連署奉書案(明王院文書)によると、当郷にあった乾竜院が若狭山東郷の田地7反を所持していた。慶長国絵図には沓村と見え、高1,324石6升5合。
近世の沓見村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)から小浜藩領、寛文8年(1668)からは安房勝山藩領。勝山藩は野坂村に代官所を設けて、野坂領10か村を支配していたが、文政9年(1826)庄屋による年番制に変わった。これにより各村庄屋から2人が取締方となり、1年交替で用務を務めることになった。その最初の取締方が当村の源五郎と莇生野村の多郎太夫であった。明治4年加知山県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」によると、幅員は東西12町・南北18町、戸数155、人口766、田地153町9反余・畑地2町6反余・山地217町9反余、産物は莚9,700束・粳1,689石余・縄250丸など。莚は「沓見莚」の名で江戸中期から名声が高い。明治22年松原村の大字となる。
近代の沓見は、明治22年~現在の大字名。はじめ松原村、昭和12年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西6町余・南北13町余、戸数145、人口は男400 ・ 女404、寺1、学校1。


《沓見の人口・世帯数》 1566・532


《沓見の主な社寺など》
字風呂ノ穴などに横穴式古墳が8基ある。
字城伏は天正元年(1573)8月、織田信長が朝倉氏を攻略した際の陣地跡と伝える。

信露貴彦神社(式内社)

集落の西の端、山麓に鎮座している。祭神は瓊瓊杵や日本武でなく、名のとおりに信露貴彦であろうか。シロ、シラは新羅の本名で、キは村のことであろう、そこの彦なので、首長ということであろうか。新羅から渡り来て、当地(新羅村)を拓いた人々の男首長を祀る社であろうと思われる。信露貴姫神社もありそうなものと思うが、それが久豆彌神社なのであろうか。当社の南方、直線距離で200メートルくらいのところに鎮座している。王の舞や田植祭は県民俗文化財で、5月5日に催されるという、今年はどうなのか、確かめたかったが、人影がない。

式内社の論社は今庄町にも新羅神社として祀られている。複数社あるそうだが、
『今庄町誌』は、
敦賀郡松原村沓見の式内社信露貴彦神社は、宮司の龍頭(リュウズ)一夫家は系譜に新羅国王族の末裔ということになっている。また生活慣習についても洗濯物を打棒でたたいて洗滌作業をしたり、種族の氏神に参拝する時には両手の指を組み合わせて礼拝する朝鮮風俗の拱手拝(ギヨシュハイ)を実施していることなどである。

『敦賀郡誌』
信露貴彦神社 同く沓見に鎮座す。村社。舊は白木大明神と稱し、又男宮と稱す。祭神瓊々杵尊・日本武尊なりと云ふ。明治七年十二月、村社に列せらる。境内神社、神明神社・猿田彦神社・金刀比羅神社・山神社の四社あり。本社は式内にして、文徳實録に齊衡三年九月、丁巳、越前國信露貴彦神預官社、戊戌、信露貴彦神授従五位下とある者これなりと云ふ。或は云、現今南條郡今庄に鎮座せる新羅神社は、即式内信露貴彦神社なりと。
田植祭  兩社の祭禮田植祭は、俗に沓見祭と稱して有名なる者なり、同區にては田植祭の終りし後にあらざれば田植せず。是古来の慣習なり。祭は従来陰暦四月六日なりしを、十数年前よリ陽暦五月六日とす。神事に預る村民か諸戸(もろと)と稱す、其家往古より定まり、又両宮に分属して、相混するを得ず。其數信露震彦神社(男宮)に十六戸、久豆彌神社(女宮)に八戸なりしが、今は減じて五戸許宛となれり。睹戸の内より主として神事を司る者を當屋(たうや)と稱す、即御旅所なり。毎年五月七日鬮引にて翌年の當屋を定む。當屋亦各宮に一戸なり。而して神事、各宮相同じ。凡神事を行ふには、先づ五月朔日、諸戸其屬する所の神社の境内馬場先を新砂を盛りて清洒にす。此日より別火を用ゆ。此日當屋より其社に酒饌を献ず。之を機として諸戸等、齋戒沐浴して當屋に来り、和魂を祭る。和魂は前年より其家に遷座あるなり。畢て祠官、神事の役割を定む。(早乙女三人、獅子一人、獅子頭一人御幣指一人、)四日未明、當屋の主人、其神祉へ参詣し、假面箱を捧持して歸るや、諸戸裃にて又其神社に参詣し、例祭用具を捧持し、神職も亦「オハケサン」に用ふる長一丈三四尺の竹を擔ぎて諸戸と同路にて、皆當屋に至る。而して諸戸等當屋の窓前に新砂を盛り、瑞垣を作る。其間に祠官は「オハケサン」を作り、祭典の準備を調ふ。オハケサンは井の神を祀り、生井・榮井・綱長井・阿須波の四柱の神を招請す。之に平年には御幣十二本、閏年には十三本を立つ。之を作り終て、瑞垣に立て、祭典あり。六日の夜まで此に祀る。此日より不淨輩の當屋に出入するを禁ず。五日當屋に於て祠官は例祭の神饌を調へ、諸戸は扇子十六本を以て太陽に象りたる御幣を作る。俗にゴヘイサンと稱す、幤串の長さ亦一丈三四尺あり。之に和魂を移して小祭をなす。六日。此日即田植式の當日なり。同日正午、扇子の御幣、各其神社へ渡御す。時刻は正午とすれども、男宮は多少女宮に先き立つ。其行列は、警固、次に神官、次に掻器船に幾多の神饌を併列し、エブリ・早苗其他田植の其を備へ、舞人三人、早乙女、ひろ持等十五歳以下の稚児等供奉、次に日象の御幣は御幣指三人にて押立て、次に諸戸素襖烏帽子にて供奉す。一列凡百餘人、途中は「ヤーホハイヤ、来年モ當屋、来々年モ當屋」と大聲にて唱へ、太鼓笛にて賑し、さて男宮に着したるは本殿にて神饌を?供し、大祭執行畢て、別殿にて小祭式あり、畢て王舞・獅子舞・祈祷・田上式あり、田植は諸戸エブリをさし苗を植る等、百姓勞作を眞似?、田植歌を謡ふ 春来れば、山田の水、ゲニヤワー、げにやみゆかけて、苗代水を、我とり苗は四つ葉にこそ、ゆはへには田をこそ植えて、ゲニヤワー、げにやみ植来て、ひともと植て、ほうきよ田にうゑるは、葉びろのわせ、右終て御幣女宮に渡御す、行列前の如し。先きに女宮に着したる御幣の行列は、其間に神饌を供し、祝詞を奏して、男宮に向ひたる行列の来着を待つ。其来着の報あるや、行列にて之を馬場先に迎ふ。而して女宮に参向し、終て拝殿にて男宮と同様の儀あり。男宮組の者の王舞以下の儀を畢て、女宮組の者、又王舞以下の儀を行ふ。其儀畢て兩列相合して男宮に向ふ。而して女宮の組の者のみ亦前と同しき儀を行ふ。式竟て馬場先に出て、三々九度と稱する式あり。両列、一定の間を隔てゝ兩三度前に進み後に退く。此にて祭式を終るなり。維新以前は國主より使を遣して祭事を監視せしめたり。其夜十二昨頃、神官、人しれず當屋に至り、神籬を徹して、之を還宮せしめ奉る。俗に之を「オハケオロシ」と稱す。村人若し途に其還宮に逢ふ事あらば、其年に死すと云傳へ、村人背黄昏よリ寢に就く。翌七日は當家渡しと稱し、翌年の當家を定め、和魂を其家に遷座し奉る。又正月二日男宮にて、三日女宮にて、諸戸等種蒔の神事を行ふ。共謳
今日は三十吉日、日がらもよき事にて候程に、神の田を打ちましよ、若殿原雇ひいましよ、(是三度)
春田打男の、うちやはじめたりや、所よしや、そよそよ、(是三度)
(脇付)そのまー長者打ちやはじめたりや、所よしや、そよそよ(是三度)
是より西に山侯が、山の名をば福王てんど、山の谷に瀧侯が、瀧の方に木侯が、その木の名をば、椎や水木、榊や水木、元打なほせ、米うちばやせ、元の枝をば、搗臼とも名付、其又末をば、酒船とも名付、其又末をば、水船とも名付、其又末をば、うんだいがいとも名付、共又末をば、からすきせんがら、其又末をば鍬ぶろせんぶろ、割取たまへば、これより西に、出雲の國に、かぢ侯が、打ちたろ鍬は、耳六寸に先六寸に、打ちたる鍬で、一鍬うてば、日よりもよいよ、二鍬うてば、二見の浦の、漁士もよいよ、三鍬とうてば、御國も目出たし、四鍬とうてば、世り中よいよ、五鍬とうてば、いつも目出たし、六鍬とうてば六國も目出たし、七鍬とうてば、中田もよいよ、八鍬とうてば、山田もよいよ、九鍬とうてば、ここらも目出たし、十鍬とうてば、所も目出たし、今日は三十吉日、日がらもよき事にて候程に、神の牛だしましよ、若殿原雇いひましよ、(是三度)
此牛は月に三石三斗三升三合三勺三才食ふ牛にて御坐候程に、皆寄てとめて被下、此牛の左の角をそうじて見て候ひければ、二十餘の作物、古酒のかざ、ほがほがとする、此牛の右の角をそうじて見て候ひければ、悪魔降伏のすけすの今日は三十吉日、日がらもよき事にて候ほどに、神の肥だしましよ、若殿原やとひいましよ、今日は三十吉日、日がらもよき事にて候程に、神のこえふみよしよ、若殿原やとひいましよ、尾水戸あけて、頭水戸ふさいで、ずーねそずーねぐつしり、頭水戸あけて、尾水戸ふさいで、ずーねれそずーねそぐつしり、此苗代の水のすむ迄、痲紡いで候ひければ、七かせかせ乍ら麻紡いで候、
○中古雜唱集に七の兩謠を收むと雖も、脱字誤謬あり。此に收むる所は、今謠ふ所なり。イとあるも同し。


久豆彌神社(式内社)

信露貴彦神社の南200メートルばかりの山麓に鎮座している。社名の久豆彌は地名の沓見の元となったものか。槵触(くしふる.)の転クシビのことか。女宮とも呼ぶので、祭神は信露貴姫か。

本殿の覆屋の姿だけは当地あたりの独特のもの。

『敦賀郡誌』
久豆彌神社  松原村沓見に鎮座す。村社。舊は沓見大明神と稱し、又十禪寺権現と稱す、今は十禅寺権現と久豆彌神社とは祠を異にす。祭神は木花開耶姫命・瓊瓊杵尊・大山祗命三座なうと云ふ。式内の社なり。村民は女宮と稱す。明治七年十二月村社に列せらる。大正元年八月、神饌幣帛料を供進し得べき神社と指定せらる。境内神社、常宮神社・猿田彦神社・神明社・松岡神社〔祭神倉稲魂命〕の四社なり。

八幡神社



『敦賀郡神社誌』
祭神 應神天皇、神功皇后、比咩大神
由緒 當社は明治二年八月の神社改帳の控によると桓武天皇の御宇延暦四年に鎭座して、舊説に『天鈴神社と有之候得共、何時よりか、唯八幡宮と奉稱號仕候云々』とあるが、天鈴神社に就きては、何等證憑となるべきものを發見せぬ。口碑によれば、當社は永祿年間武田氏の臣にて、粟屋越中守勝又と共に三方郡耳村佐柿の東方に當る國吉城に籠城した、山東十郎と云へる武将、曾ては朝倉太右衛門、平田又三郎の大軍を撃破した無双の勇士であつたが、其子の小八郎なるもの此の地の小谷に隠遁して老を養ひ、祖先より崇拝してゐた、八幡大神を奉祀して、鎭守社となし、その子孫累代別當として奉仕したとのことである。これ當社創立の由来にて、山東屋敷と稱する屋敷址は、今も同區小谷の地籍に存してゐる。當社は斯様に武家崇敬の鎭守であって、明治七年十二月村社に列せられた。
祭日 例祭 九月十五日(元晢八月十五日) 祈年祭 三月十五日 新嘗祭 十一月廿三日(以降十一月中)
日待祭 正月二十日 日待祭を當番の家にて行ひ、翌朝未明當社
に參拜して祈禱を爲す。この祭を昔より日待祭と唱へてゐる。蓋し禪寺の卓袱(シツボク)料理に黒大豆の巻繊(ケンチン)(唐竹)といふがある。之が轉じて豆腐・蓮根・牛蒡などを油でいためて汁としたもの或は雁もどき他の野菜との汁などをケンチン汁と稱してゐるが、此の汁をお日待の講員に賄ふのでケンチン祭と呼ぶものもあるに至りたかと思はる丶。元来お日待は日祭の意で月に三度旭を拜する祭で、神佛習合時代に佛教から影響して起つたのであらう。されば祭場も多くは寺院や道場が充てられてゐるから、ケンチン汁なども思ひ付いたであらう。又或はケイチンの転化でなからうか、熟睡を防ぐための枕に警枕といふがある。お日待は徹夜が本體であるから、若し睡氣が催せばこの謦枕を用ひたかも考へねばならね。警枕とは司馬温公圓木を以て枕となし、纔に睡むれば枕轉んで覺む、そこで起きて書を讀んだといふ故事がある。蛇足の樣なれども記した譯である。
境内神社
稻荷神社 祭神 倉稻魂命
山神社  祭神 大山祗命


西神社
地図によれば、久豆彌神社の裏側のような所に鎮座しているようなのだが、さの参道が見つからない。
『敦賀郡神社誌』
無格社   西神社
   敦賀郡松原村沓見字大谷
位置と概況 本區の概況は既に久豆彌神社の章に於て述べたからこゝには省略する。當社は區の西端大谷山の東麓にて、本殿は東南面して鎭座し給ふ。人家邊より社域及び山林に通ずる渓間の小路を一町ばかり進むと、狹き平坦地に晝尚暗き杉森があつて、其の間に神殿を拜する、これが即ち西神社である。社域の西南方は山路にて社背には高さ三尺の石垣を築きて境外の雜林と境してある。北方には一の渓流ありて井ノ口川に注入する。此の神域は四圍靜閖にして俗塵を絶ち、心境自から犇々と緊縮し、胸襟を正さしむるものがある。
祭神 蛭子命
由緒 按ずるに、當社は往昔よ玄西ノ宮と尊稱し、初め當區の沓見神社境内に鎭座し給ひしが、何時の頃か詳かではないが、上山太郎右術門と云ふ人が今の地に奉遷し、鎮守社と尊崇したと傳へてゐる。社域は狹きも、巨杉矗々として神林を爲すを見ても、古き社地なることは明らかである。明治元年神社改めの際に其の筋の命にて區に移管した。同七年十二月無格社に列せられた。
祭日 例祭 四月二十二日(元舊三月二十三日) 秋祭 十一月二十八日(元舊九月二十八日)
本殿  
拜殿 
手水所
鳥居 
石燈籠
樹木杉 
口碑と舊慣 此の神域の杉は神木と傳へられ、其の一枝を折り採るも病気に罹ると信じてゐる。先年或る人來りて、今の時代にかゝる迷信の事實あるべき筈なしとて、二・三木の枝を切り落洛したるが、即座に腹痛を起し、数日を經るも癒へず苦悶するので家族等大に驚き、當社に參拝して其の不心得を詑びたれば、腹痛も癒えたとのことである。
牛石 高三尺 長六尺 幅四尺(社殿直後にある)
口碑 此の牛石はその名の如く、形状牛の伏したるに似てゐる。正月元日には此の牛石の上で鷄が鳴くと傳へ、鶏鳴傳説の一種が親から子に子から孫へと傳へられてゐる。區民の子供が病気の時には豆や霰餅等を此の石に上せ或は石の小穴に入れて、祈願する風習が今も行はれてゐる。


曹洞宗鳳凰山(鳳雲山)龍谷寺

立派な山門がある、総欅造で、仁王像もある、ある篤志の檀家の寄贈だそう。
「敦賀郡誌」に、「龍谷寺、〔鳳凰山〕曹洞宗、三方臥龍院末、本尊薬師如来、文碌二年十月二十一日臥龍院縱横弟子源勢創建。」とある。

『敦賀郡誌』
沓見  木崎の西に在り。沓見尋常小學校あり。 氏神、久豆彌神社、村社、氏神、信露貴彦神社、村社。 八幡神社、村社、明治七年十二月、村社に列せらる。舊別當山東氏は永禄年間、粟屋越中守と共に佐柿國吉城に籠城したる、山東十郎の子小八郎の此に退居したる末裔なり。 愛宕神社、旗護山上に鎮座す。 秋葉神社、龍谷寺、〔鳳凰山〕曹洞宗、三方臥龍院末、本尊薬師如来、文碌二年十月二十一日臥龍院縱横弟子源勢創建。 永壽寺、眞宗大谷派、東本願寺末、初敦賀無量寺末。 観音堂、三内山光明寺と稱す。天台宗眞盛派、常宮吉祥院末なりしが、吉祥院は廢してより敦賀眞禪寺末、萬治三年三月三日創立。廃寺。建徳寺 起雲軒 玉龍寺・?勝庵・來福庵・長松庵・雲耕庵、以上七ヶ寺、皆曹洞宗、龍谷寺末、本寺に併合す。白泉寺〔〕修験、伊勢世儀寺下、白木大明神の宮守。十禪寺、眞言宗。青蓮院末、初気比神通院末、沓見大明神の宮寺。二寺とも神仏離の際廃絶。 眞柄屋敷、小山の上大谷口に在り。朝倉氏の臣眞柄十郎左衞門父子、姉川合戦に戦死の後、其孫某、母と共に潜在したる所々なり。山東屋敷址、字小谷に在り。山東十郎の息小八郎の居宅の址なりと云。此邑産する所の筵は沓見筵と稱す、産額郡内に冠たり。

真宗大谷派永壽寺

「敦賀郡誌」に、「永壽寺、眞宗大谷派、東本願寺末、初敦賀無量寺末。」とある。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


沓見の主な歴史記録


『敦賀郡神社誌』
(信露貴彦神社)
…而して當社の神事又は行事は、往昔よりの古事舊慣を嚴守して行ひ、就中、例祭に行はれる田植祭に、王の舞と稱する神事かある。この神事は郷土の名物で、沓見祭と稱し、昔時からこの祭に封し見るも馬鹿、見ぬのも馬鹿と評されてゐる樣なれど、こは何れの時代かに、見ぬのは馬鹿と評したのに封し、見るのも馬鹿と洒落たのが封句となりたものであらうと思ふ。然らざれば苟も神事に封して、かゝる不謹慎な評のあるべきものでない。凡そ古代そのまゝの神事の如きは、精神に重きをおき毫も虚飾なさため乾燥無味であるから、今日の如く演藝の進歩した妙技から、客観的に拝観する時は、見るに足らない感じのするのもあるが、よく其の精神を玩味すれば、主観的には實に神々しく観ぜられるものである。こは其の見ろ人の心理状態にあるので、一人々々の感覚は異ならねばならぬ。故にこの神亊に預る人々も、徒らに観衆の笑覧を得んとして、俗技を交へるが如きことなく、極めで眞面咩に古代のまゝ奉仕されんことを望み、編者は敢て一言して、永久に存續せんことを祈るのである。
祭神 邇々藝命、日本武尊
由緒 按ずるに、當社は往昔より白木大明神と尊稱し、區内の村社久豆彌神杜は姫神に座すと云ひ、俗に當社を男ノ宮と稱へ奉つてゐる。推古天皇十年に創立し、延喜式神名帳には越前國敦賀郡信露貴彦神社とあり。「文徳大皇齋衡三年九月丁巳越前國信露貴彦神從五位下]の神階の事も即ち當社なりと云ふ。元祿十四年辛巳四月藩主酒井備後守より黒印地御供田三畝歩、御祭田二段二畝二十七歩、御修復田一段一畝二十四歩を寄進せられ、除税地であったが、明治九年地租改正の際に有租地に編入された。これより先明治七年十二月に村社に列せられ、大正四年十一月六日神饌幣帛料供進の神祀に指定せられた。
祭日 例祭 五月六日(元舊四月六日) 祈年祭 三月二十一日 新嘗祭 十一月二十三日
特殊神事と行事 當社社家龍頭氏の記録を抜萃す。因に《》括弧内は編者の註である。
田打ノ式 種蒔祭ト稱ス。
 舊正月二日當榊社拜殿ニテ諸戸《神事に預る者で地方によりて諸戸(モロト)現在にては組頭は座て云ふと同じであらう。或は籠人の意か》ノ者十餘人、百姓ノ耕作スル状ヲナシ、次ニ種蒔ノ式ヲ擧行ス、蓋天孫高千穂ノ二上峰ニテ、大鉗小鉗ノ奏言ニヨリテ、稻千穂ヲ四方ニ投散シ給ヒ、暗冥ヲ睛シ給ヒシ故事ヲ物スルナランカ《田打祭・田植祭・田祭等称して豊作を予祝する古神事であらう。》
田植の式の嘔ひもの
今日は三十吉日、日がらもよき事にて候程に、神の田を打ちませう、若殿原やとひましょ 是三度
春田打男のうちや、始めたりや、所よしや、そよそよ 是三度
脇付 そのま長じヤ、打や始めたりや、所よしやそよそよ 是三度
是より西に山候が、山の名をば福王でんと、山の谷に瀧候が、瀧の方に木候が、其名をばしりや水木酒や水木元打なをせ、末うちは又末をば、鍬ぶろせんぶろ、割取たまへば、これより西に出雲の國に、かぢ(鍜冶)候が、打ちたる鍬は、耳六寸に、先六寸に、打ちたる鍬で、一鍬うてば、日よりもよいよ、二鍬うてば、二見の浦の漁士もよいよ、三鍬とうてば、御國も目出たし、四鍬とうてば、世の中いよいよ、五鍬とうてば、いつも目出たし、六鍬とうてば、六國も目出たし、七鍬とうてば、中田もよいよ、八鍬とうてば、山田もよいよ、九鍬とうてば、爰らも目出たし、十鍬とうてば、所も目手たし。
今日は三十吉日、日がらもよき事にて候程に、神の牛だしましよ、若殿原やとひましよ 是三度
此牛は月に三石三斗三升三分三勺食ふ牛にて御座候程に、眥寄てとめて被下 是三度
此牛の左の角を、そうじて見て候ひければ、貳拾餘の作物、古酒のかぎほがかぎほがとする、此の牛の右の角を、そうじて見て候ひければ、悪魔降伏のすけすの。
今日は三十吉日、日からもよき亊に候ほどに、神のこゑだしましよ、若殿腹やとひましよ今日は三十吉日、日がらもよき事にて候程に神のこゑふみましよ、若殿原やとひましよ尾水戸あけて、頭戸塞で、ずーねそずーねぐそっしり、頭水戸あけて、尾水戸塞で ずーねそずーねそ、此苗代の水の清む迄、麻紡いで候ひければ、七裃かせ乍ら、麻紡いで候、其後種蒔 早稲 中稻 晩稻

右ノ歌ヲ音頭ナル者嘔ヘバ他ノ者ハたのせのせやト云ヒツヽ杖《径五・六分長三尺餘木ノ皮ヲ削リタルモノ》ヲ衝キツゝ《杉ノ若芽ラテ作レル苗ノ形》ヲ中央ニヲキテ周ルナリ。
古雜唱集中に壹升柴幸柴木のねをいすろやァしゝの娘にとくかいこみさいな 是三度とあり。《本郡粟野村野坂野坂神社御田植神事及び同村金山金山彦神社の特殊神亊の章参照》
馬場揃
 舊四月一日諸戸十四人、早朝ヨリ當神社境内及馬場先ヲ新砂ヲ以テ清淨ニシ盛砂ヲナス。而シテ諸戸本日ヨリ飲食物皆別火ヲ用フ。諸戸ノ内當家ヨリ御酒御饌ヲ持参シテ當社ニ獻上ス。諸戸ソレヲ合圖ニ自宅ニ歸リ、齊戒沐浴シテ當家へ至リ、和魂ヲ祭リ小祭二侍ル、終テ直會ノ最中ニ神職例祭役割ノ抽籤ヲナス。抽簸左ノ如シ。
 早乙女 三人 獅子 一人 獅子頭 一人 御幣サシ 一人 其他 三・四人
御旅當家
 四日未明ニ、諸戸ノ内去年ノ鬮當リテ御旅ノ當家トナシ、主人當社へ参詣シ、假面箱ヲ捧持シテ、村内ノ大道ヲ通リ歸ルヤ、諸戸十餘人禮服着用シ、當神社へ参詣シ、例祭用具ヲ捧持シ、神職ハ祭服着用シ、俗稱オハケサンヲ擔ギシモノト同道ニテ當家へ至ル。當家ニテハ之ヲ門前ニ出迎フ、而シテ當日ハ諸戸當該家ノ窓ノ前ニ新砂ヲ盛リ、瑞垣ヲ作ル。其間ニ神職ハ神籬及例祭用ノ御幣ナドノ準備ヲナス。瑞籬ハ女竹ヲ二分シ、菱形ニシテ四角形ノモノ。紳籬ニ用フル注連縄ハ、一月四日仕事始メノ第一ニ當家ノ主人齋戒沐浴シテ作ル、表ノ菱結ビ目ハ十ニトシ、閠年ハ十三トス久豆彌神社ニハ定数ガナイ。ソノ神籬ニハ半紙ニテ四垂ノ幤十二本〔尤モ一年ノ月ノ数丈、モシ閏年ナレバ十三本〕美濃紙ニテ四垂幣十二枚〔尤モ十二枚ヲ横ニ二分セシモノ〕幣袋ニ名田庄紙四枚、神籬ヲ纏フニ用ユル美濃紙二枚及ビ紙捻十二本〔賣年ナレバ十三本。〕四垂幣ヲ用フルハ生井・榮井・綱長井・阿須波ノ四柱ノ神ヲ招請シ奉ルニヨルカ、ソノ神籬ヲ立テ祭典ヲ舉行ス。
王ノ舞ニ用ユル幣 美濃紙十二枚四垂
 御幣ヲ用フルモノヽ幣ハ、名田庄紙二十一枚ヲ縱ニ六ツ折ニシタ六垂ニシタモノ及ビ二十一枚ヲ横ニ八ツ折ニシテ八垂ニシタルモノ同ジ長サニナス、幣袋ニ四枚ヲ要ス「本日ヨリ當家へ不淨輩ノ出入ヲ禁ズ」(この制札を門前に建つ)
御幣造り
 五日御旅所ニテ神職ハ例祭神饌ノ中御供ノ準備ヲナス。諸戸扇子十六本ニテ日ノ形ノ御幣ヲ造リ、和魂ヲ移シ小祭ヲナス。同時ニ諸戸白青ノ菱餅及ビチマキヲ製ス。
祭日田植式(沓見區にては如何なる事情あるとも此祭を了せざれば田植せず)
 六日ハ御旅ノ當家ヨリ、當神社へ扇子十六本ニテ作レル日ノ形ナル御幣渡御、尤モ當神社へ參拜ハ正午ノ刻トス。其ノ行列ハ警固《裃着菅笠を被り鐡杖を持つ二人》次ニ神職祭服着用、掻器船ニ種々ノ神饌ヲ併列シ、エブリ・早苗《早苗は杉の小枝エブリは木製、早乙女の服装は表黒色に紋あり笠裏に二箇所ツツジ花又は木の若芽の色赤きもの七附す》久豆禰神社とは多少相違あり、其他田植ノ具ヲ揃へ、早女ひる持等、十五歳以下ノ稚児等供奉、御幣指ト稱ス作者三人、堆ク押立、次ニ諸戸十餘人素襖烏帽子着用ヲ以テ供奉百餘名行列シ、やーほはいや、来年も當家、末々年も當家ト、大聲ニテ唱へ太鼓(テイツクツクと聞ゆ)笛ヲ以テ賑々敷渡御、當社へ着シテハ、本殿へ神饌ヲ傳供シ、大祭執行、終テ別殿ニテ小祭式、終テ拝殿ニテ王ノ舞獅子舞、田植式及ビ祈?、諸戸エブリヲ指シ、苗ヲ植エル等、百姓ノ勞スル状ヲナシ、田植ノ謳ヒモノアリ。終テ久豆禰神エ渡御、(行列前ニ同ジ)久豆禰神社ニテハ、行列シテ之ヲ馬場先ニ奉迎、ソレヨリ同神社へ參向、終テ同神社拝殿ニテ同様ノ式ヲ挙行シ、竟テ兩社合シテ歸宮、且ツ同様ノ式ヲ行ヒ、竟テ馬場先ニテ御幣面ヲ合シ、三々九度ノ固有ノ式アリ。
維新前迄ハ國主ヨリ使者ヲ以テ、當神社田植神事ヲ認メラルヽ例ナリシヲ維新後ハ絶ヘタリ。(六日の夜十二時後、四日に作り當家の窓下にて齋奉れる神籠へ神酒を獻じ、神職之を捧持しで歸宮令坐奉る。俗に之を「オハケオロシ」と稱す。尤も御忍びなれば、村人之に出逢ふときは、必ず其の年に死すと云ひ傳へ、村人は黄昏より戸外に出でず。)
古老の説 ヤーホハイヤとは當區の稲架は八穗(八段)より多くはなすべからず八穗より多き時は廢すべしと言ふ意なりとて當區内の稲架は皆八穗を定数としてゐる。テーツクツクとは昔久豆彌神社は當區の字父ヶ花に座し座しければ軈て父ケ花へ着くと言ふ意を何時しか訛りてかく言ふならん、今尚其の本殿跡は田なるも下肥を施さず。(舊神社位置の口碑参照)
王ノ舞 王ノ舞ハ鼻高キ仮面鳥兜ヲ着シ、手ニ鉾ヲ持テ靜ニ俳優ス、蓋シ天孫天祖ノ詔ヲ奉シ、日向ノ高千穂ノ槵触峯ニ天降坐ストキ、衢神猿田彦神ト大錙女神ト物シ玉へル故事ヲ学ブナランカ、又一書ニ火酢苔尊火々出見尊ニ惱マサレ玉ヒシ故事ヲ學ブナランカ、然モアリナン、釋日本記ニ王ノ舞ノ面トアレバ京ニモアリツルカ、又若狭ニモアリト聞ク。
田植の謳ひもの
 春来れば山田の氷、げにやわげにやみゆかけて、苗代水を、我とり、苗は四ッ葉にこそ、ゆはへには田をこそうゑて、げにやわ、げにやみうゑ來てひどもとうゑて、豊きよ田にうゑるは、葉びろのわせ。   是三度

當家渡し 七日本年ノ御旅當家ニテ、神職諸戸參集シ、小祭ヲ行ヒ、直會ノ最中ニ来年ノ御旅富家ノ鬮ヲナシ、赤椀二個ニ十分ニ酒ヲ盛リ、當家渡シノ式ヲ行ヒ、鬮當リ即刻歸宅シ、御酒御饌ヲ各神社へ獻上ス、其ノタ刻該家ニテ御旅ノ小祭ヲ行フ。
新穀供奉 舊八月朔日(今は十月十七日に行ふ)早旦、本年四月田植祭ヲ執行シ、本年ノ五穀豊穣フ祈リ、其後田植ヲナシ、萬ノ水旱其ノ他ノ災害ヲモ蒙ラズ、収穫ヲ得シ報賽トシテ新穀及ビ新米ニテ醸造セルー夜酒ヲ獻ズ。《一夜酒は今行はざる由》
本殿 内殿 方二間 …
境内神社
 神明社 祭神 天照皇大神

舊神社位置の口碑 當時は往古より現在の地に鎭座し給ひたるにあらず、元は當社の南方に當る區端の字神所・下ノ森地籍に鎭座し給ひしが、年代不詳なるも、現地に奉遷したのであると云はれてゐる。又久豆彌神社も現在の位置より東北方の區端の字父ノ花地籍に鎭座し給へるを、遷宮し奉つたと云はれてゐるが、今此の兩社の現在位置と舊趾とを考察するに、兩社共に何故か全く反封の方向に遷座したのであれども、往古よりの氏神信仰の観念は今に至るも變らず。即ち久豆禰社附近の者は、信露貴彦神社の氏子であり、信露貴彦神社附近の者は、久豆彌神社の氏子である。而して此の兩社の遷宮し給ひし年代は詳でないが、恐らく同時代と拝察される。そは兩社の社殿及び土地開墾の状態より見ても、共通した一致點が見出さるゝのである。特にこの口碑と舊社趾であったと云ふ所の地名によりても、深き囚縁あることを推想され、この兩社祭禮の日には「テーツクツク」と、太鼓の敲く音が響いで来ると言ひ傳へられている。
舊神職 龍頭家 世代奉仕 系譜…
 伊勢世儀寺末にて白泉寺と號し樂養院と稱す、元禄年間記録焼失して系譜も不明となった。
 …

『敦賀郡神社誌』
(久豆彌神社)…又現在までに發見された圓塚古墳・横穴式墳墓が數箇所あつて、當區の往古を推想させる。區内には鎮守社が四社ありて内三社は村社に、一社は無格社に列せられてゐる。當社(久豆彌神社)は區の中央西部の寳殿山東麓の宮ノ下地籍にて、馬場先の賽路には社號標石が建てられてある。社域の人口正面には道路と堺して高さ六尺の石垣を築きてある。この道路は區道にて南北に通じ、馬場先よりの詣道と結びて丁字形になつてそこには十級の石階かおる。この石階は天明七年に設けられたことが刻んである。これを上って鳥居を潜り、左側の社務所と右側の松岡社を經て手水舎に到る。この邊には、竹生島を模した箱庭式の園が作られてある。こゝから古風簡素の往昔を偲ばるゝ拜殿の傍を進めば、山麓の斷崖となつてゐる。これ往古この山麓を拓いて本殿を鎮座し奉つたことを明確に證し得る。この断崖に設けた二十八級の石階を上ると、本殿は東面して鎮座し給ひ、その両側に各末社が鎭り給ひ、向て左側の束南隅に神饌所がある。背後と北方及び南方の一部の三面は寶殿山の樹林に圍繞され、尚南方山麓には寶殿神社の小祠がある。拜殿の南方平坦地は、社地を隔てゝ人家が近隣してゐる。域内には幾百年を經たらんかと思はるゝ老杉・古椎が枝を交へて聳へ古色森厳、神代の昔をも想起せしめ、夙く延喜の制の名社たるを肯かしめてゐる。
祭神 木花開夜姫命、邇々藝命、大山咋命
由緒 按ずるに、當社は延喜式神名帳に、越前國敦賀郡久豆彌神社とあるは即ち當社にて、往昔より沓見大明神、又は山下権現とも、山王十禪権現とも、或は十禪師権現とも稱へた。今は十禪寺社が境内社として鎭座されてゐる。而して尚當區には信露貴彦神社がありて、この兩社の特殊の神事には交互連鎖がある。そは久豆彌神社の彌を美として女神とし、信露貴彦神社の彦を男神とせしか、(気比社記久豆美社とある)又は當社の祭神中木花開夜姫命を祀るが故か、そは明確なることは判然しがたいが、何れにせよ往古より當社を女ノ宮と唱へる舊慣がある。社家は十禪寺と稱へ初め神通院末の支配であったが、後に粟田青蓮院宮家(久邇宮家)の支配となり、慶應四年六月二十日青蓮院宮家より、菊花御紋章提灯二對を奉納せられ、元禄十四年四月藩主備後守より、黒印地御供田二畝歩・御祭田七畝歩、御修覆田四畝二十一歩を寄進せられて除税地であつたが、明治九年地租改正の際に有租地に編入された。明治七年十二月村社に列せられ、大正元年八月二十六日神饌幣帛料供進の神社に指定された。
祭日 例祭 五月六日(元舊四月六日) 新年祭 三月廿一日 新嘗祭 十一月二十三日
特殊神事 一月二日御田打祭、五月六日御田植祭の神亊があるが、詳細は信露貴彦神社の章で詳記す
本殿 …
外殿 …
境内神社
常宮神社 祭神 神功皇后
猿田神社 祭神 猿田彦命 天宇受賣命 天津國津神 八百萬神
神明社 祭神 天照皇大神
松岡社 祭神 倉稻魂命
十禪寺社 祭神 大山咋命
 {附記}當末社を十襌寺社と稱すれば山王神社の餘波をうけて創立したものであらう、さすれば祭神大山咋命なるべければ(神社啓蒙に十禅師瓊々許尊とある)不詳とあるも此の際推定した、(何れなるも本宮祭神にも座す)然して十禅寺とあるも十禪師が正しいであらう。

寶殿神社 祭神 大地主大神
由緒 當社を此の地に遷宮せし際に奉祀した神なりと云ふも其の年代詳でない。
神社附近の舊蹟地 舊神社の口碑に就ては信露貴彦神社の章参照。
眞柄屋敷 大谷口にある。朝倉氏の臣眞柄十郎左衛門の父子が姉川合戦に討死し、孫某が母と共に此の地に蟄居した。當時の遺愛の梅と稱せらるゝ白の座輪梅といふがある。
山東屋敷 當區八幡神社の章で述ぶ。
横穴古墳 本區も横穴式古墳墓の群集地で蛭子棚・建田地籍や、板ヶ谷・堂山・明光地籍にもある。後者は二室連續のものであり、これ等の多くは崩壊してその埋葬物が出土したか否さへ知ることが出來ない。風呂山地籍のものは三家連績の形式で第一室は圓形の穴にて西面し廣さ八尺に高さ四尺で第二室は北面にて楕圓形の穴で第三家も楕圓形にて西面し高さ五尺・長十尺・幅約七尺五寸である。
區名の口碑 桓武天皇の御字、名子郷に八幡大神が出現し給ひて、繩間に御幸し給ひ、又沓浦にも御幸し給ふ。此の時浦人等は、あな畏し早く拜し奉らんとしたが、忽ち御尊影は消へ給ひて見えずなり、たヾ神馬の沓の跡のみ殘れるが故に、區名をば沓浦と名付け、その沓が逐に當社前にて發見された故に沓見ゆと云よ意にて、この區の名を沓見と呼ぶに至ったと傳へられてゐる。
〔附記〕 當社を久豆彌(クツヤ)神社と稱呼するものあれど、彌は「み」と訓れば久豆彌(クツミ)神社と訓むが正しいのであらう。氣比宮社記にも久豆美神社とある。
舊神職 菊地大藏(元舊社家) 山東鳴海、龍頭起内、龍頭嘉之助
現任神職 龍頭 衛

『今庄町誌』
敦賀郡松原村沓見の式内社信露貴彦神社は、宮司の龍頭(リュウズ)一夫家は系譜に新羅国王族の末裔ということになっている。また生活慣習についても洗濯物を打棒でたたいて洗滌作業をしたり、種族の氏神に参拝する時には両手の指を組み合わせて礼拝する朝鮮風俗の拱手拝(ギュシュハイ)を実施していることなどである。また若狭湾漁村の特習である産小屋・月経小屋制も存してきたが、これは南洋系民族の流入でありむしろ後世の移入として、別個の観察をする必要がありはしないであろうか。…
だから例え後世の付会とは言え、今庄信露貴彦神社については、同山名・同川名・同瀧名・同村名など所緑の地名が多いが、沓見同社については新羅王族の苗裔たる龍頭宮司につながるものだけであり、関連地縁の場所について絶無であることを特徽としよう。また別節下総国高麗神社及び同社高麗宮司で見るように、高麗神社なるものが少なくとも高麗人グループの祖社であり鎮守であることには間違いないことは事実であろう。それと同様に沓見の御社が新羅人の氏神であることには誤りなからんも、それが果たして信露貴彦神社であったかどうかについては断定さを欠くもりである。新羅人の渡来定着が歴史科学的に確認されたとしても、それらの村落鎮守が総て信露貴彦神社にならなければならないことになるし、白木や菅浜の御社も同名式内社にならなければならないことになるわけだ。


沓見の伝説

『越前若狭の伝説』
鶯宿梅(おうしゅくばい)    (沓見)
沓見区大谷口に真柄(まがら)屋敷といわれる屋敷がある。これは朝倉氏の家臣真柄十郎左衛門の孫、源太夫隆重と母(宗滴の娘で、義景の伯母)とが、閉じこもっていた屋敷である。屋敷内に伯母(おば)君樣(隆重の母を里人はこう呼んでいた。)の愛好された鶯宿梅があった。この梅は、白の座輪梅で、花は咲くけれども、決して実のらない梅であった。ところがある年、三つ四つの実があり、親木は枯れてしまった。里人は驚いて、その種を隣家の裏に埋めて置いたら、翌年芽を出してきた。幾年かたって成長してから、本の枯木の根に移植したところ、枯木の根からも、また芽が出てきて、二本が一つになって大きくなった。明治の初年に、どこか遠いところへ移植したとのことである。いかにも悲しそうに、枝が打ちふるえていたと、古老はいい伝えている。   (山本計一)

牛石   (沓見)
沓見の西の宮の境内に牛石という石がある。むかし沓見に真柄十郎左衛門という人がいて、きつねを使った。彼の妻かあるとき、袋に小石を入れて西の宮に参り、それを境内に置いた。ところがその石が段々と大きくなり、現在は牛ほどの大きさになって、牛石といわれている。
この牛石には、鶏かつついたといわれる小穴がところどころにあいている。子どもか病気をしたときに、親が豆や菓子をその穴に入れて回復を祈ると、ご利益があるといわれている。しかし子どもが、親のために願うことは、いっこうききめがないという。また元旦には、この牛石の裏で鶏がなくともいう。  (福井県の伝説)

但馬屋敷  (沓見)
沓見の山内家の屋敷は、もと山内但馬守の屋敷であって、周囲には堀が掘ってあったそうだが、今は道路になっており、この道を堀といっている。姉川の合戦に但馬守は出陣して戦死した。愛馬がひとり姉川から帰ってきたので、奥方は主人の戦死を知り、宝物を池に投じ、家に火をつけて、自殺した。その門だけは、今も残っている。   (福井県の伝説)

冷泉  (沓見)
沓見のさるはし谷から、山路を少し登ると、昼なお暗い木立の中に、地蔵堂があり、地蔵堂の前に清い泉がある。むかしこの泉は温泉であったが、ある人がこの温泉で馬のわらじを洗ってから、冷泉に変ったのだという。  (福井県の伝説)

神木  (沓見)
西神社の杉森は神木といわれる。その一枝を折っても病気になる。先年ある人が、そんなことは迷信だといって、二三本の枝を切り落したら、即座に腹痛となり、数日たってもなおらず、苦しむので、家族が当社に参拝して、不心得をわびた。すると腹痛もなおった。  (敦賀郡神社誌)





沓見の小字一覧

沓見  桃木谷 度々屋敷 鋳物師谷 水晶谷 薫谷 建田 辻堂 辻堂前 茂谷 西原 志源 六斗田 小坂 板ケ谷 東板ケ谷 横座 大田 右近ケ下 稲口 川端 道端 大黒棚 蛭子棚 蛭子山 引地 南右近山 右近山 野田尻 腰根 王竜 会下 イブリ谷口 東井振谷 井振谷 孫六 会下山田 神田谷 神田谷口 中島 大山 イガミ谷 大山久保  雲ケ下 堂ノ上 塚田 北鐘撞 三反田 開戸尻 流田 杉木谷 福良谷 縄手 樟ノ本 樋ノ詰 芋田 馬場崎 清水ケ尻 鐘撞田 萩花 馬場脇 治良別当 宮ノ内 宮ノ前 白本 森花 松ケ花 竹ノ下 東地頭 西地頭 堂山 釜ノ口 寺前 寺ノ内 姥ケ花 宮ノ下 延命 大山 大谷 尻ナシ 白木谷 滝ケ谷 明光 滝ノ方 猿橋 孫三郎谷 風呂屋 登り 福島 高橋 八幡脇 小谷 窪田 西中庄司 東中庄司 堂ノ下 西風呂山 勘所 下ノ田 稲場 蔵ノ町 門田 大坪 角田 町田 八反田 沓森 東五反田 西五反田 下風呂山 上風呂山 金山境 乙ケ花 石ケ町 山端 南水反 北水反 玄野 南雨坪 北雨坪 廻り戸 トチコ 松ノ下 屈地蔵 坂ノ下 西坂ノ尻 坂ノ尻 東上坂ノ尻 東下坂ノ尻 青原 馬場 柳町 穴田 畑東畑 蛇ケ花 庚申塚 池町 広田 文ケ花 毘沙田 越塚 西馬坂 馬坂 北木崎坂 木崎坂 北庄田 寸尺 笹畔 南庄田 向山 東向山 落合 北川尻 免田 東砂田 中田 西砂田 入ノ口 神廻り 笠取 川長 南川尻 東山 元坂ノ尻 葦谷 三内山 小屋谷 神庄谷 大平谷 石ケ谷 神殿  竜滝 旗護山 宝殿 ?木谷 猿滝 殿ノ上 殿ノ下

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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