丹後の地名 越前版

越前

元比田(もとひだ)
福井県敦賀市元比田


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福井県敦賀市元比田

福井県敦賀郡東浦村元比田

元比田の概要




《元比田の概要》

市の北、福井県嶺南地方の北のはてで、西は敦賀湾、北は南条郡南越前町大谷浦。東は「嶺」。国道8号が山腹を蛇行登坂する、小路が地内を縦横に通じている。元比田は大比田に対しての名称で、東背面の深い山や険しい谷が臂をなして海岸にまで迫り、集落は山すそにあるところから地形に由来する地名であるといわれる。

2里を隔てて、立石半島が見える。平らな所がない、斜面は急で、ワシの車で上り下りできるものただろうか、と考えるような道である。

中世の本比田浦は、戦国期に見える浦名で、天文13年(1544)7月29日の大谷浦山手銭請取状写の差出人に「本比田浦中 忠親」と見える。これ以外に中世を通じて本比田浦の名が見えず、大比田浦の所見もないので比田浦が大比田浦と本比田浦に分かれるのはおそらく織豊期になってからで(慶長3年(1598)の太閤検地か)、前記文書は疑問が残るという。慶長3年の大比田・横浜両村の検地帳写の名請人の肩書きに「大比田」とは別に「ひた」「比田村」とあり、後者は本比田浦のことか。慶長国絵図では比田浦(元比田浦・大比田浦)と見えて、高457石余。
近世の元比田浦は、江戸期~明治22年の浦名。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)鞠山藩領、明治3年小浜藩領。享保12年(1727)の家数32(高持15 ・無高17)・人数227、牛14、舟4、用心鉄砲1挺(源左衛門所持)、塩竈屋2・塩高61俵余(うち60俵余が大比田浜)。馬足役6匹の負担を課せられている当浦は、寛政6年(1794)6か所の道普請に3月から7月までに延べ30人余の人足が徴発され、道・橋の修繕と、本藩小浜藩酒井家の江戸参府からの帰路にあたる刀根坂から金山までの道筋の整備で、この整備に半数以上の16日を費やしている。享保元年の時には関・麻生口・馬足道(七里半越)の3か所で19人分の役を申し付けられた。そのうち2人が免除されたが、残り17人分のうち6人分が村から実際に出動し、11人分は他村の者の雇いで済ませた。雇い賃は1人1日分67文で,、1人分は村から役所に納められた。こうした人足の徴発は百姓たちには大きな負担であった。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌_に、戸数33・人口164、牛7(貨物運送用)、住民は農業の「傍ラ坂井港ニ至りテ生計ヲ営ムモノアリ、或ハ物品運漕ニ身ヲ労スルモノアリ」という。産物は桐実220俵・葛粉20貫・蜜柑20貫。特に桐実は大きな収益となっていた。同22年東浦村の大字となる。
近代の元比田は、明治22年~現在の大字名。はじめ東浦村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北2町余、戸数37、人口は男109 ・女98、小船3。当地と河野村の大谷間は、断層に刻まれた山腹と海食に悩まされる海岸線に沿っているため、冬季積雪期は交通が途絶し隘路となっていたが、同37年河野海岸有料道路が山裾に開通した。


《元比田の人口・世帯数》 30・18


《元比田の主な社寺など》

貴船神社

県道204号線、元比田の北外れから通行止めになっている。神社は、この少し先にあるように地図にはあるが、行くのはあきらめた。
海岸に臨んで突出した山麓の字宮ノ脇の貴船神社は旧村社。祭神は貴船大神。敦賀郷方覚書に「貴布禰大明神四月一日・十一月一日湯ヲ上ル」とみえる。境内に幹囲一丈二尺のタモの大樹が茂る。市天然記念物。
『敦賀郡神社誌』
村社 貴船神社 敦賀郡東浦村元比田字宮ノ脇
位置と概況 本區は當郡及び當村の最北端に位して、北陸道に沿ひ、大比田區を距ること東北九町餘である。西北及び南方の一部日本海羅に臨み、西方は海を隔てゝ立石岬と相対し、東北は山嶺相連り、北方は十四町にて南條郡河野村と堺してゐる。氏神貴船神社は、區の北方に位して、北陸道より約四町餘の九折(ツヅラオリ)の道を下れば、海岸に臨んで突出した山麓に鎮座し、境内にはタモ・欅等の大樹老木ありて、鬱蒼神嚴を極め、神氣境域の内外に漲りてゐる。鎮守の西南は、段々の田を隔てゝ海に臨み、北方は一町餘を隔てた出崎のコンモリした樹間から、仏教遺跡の墓碑・塔石などが見えてゐる。境内入口の鳥居を潜れば、清冽なる渓水流れ、この清響を聞くからに眞に雑念を清められる感がする。之に架した石橋を渡つて、約四十級の石階を上りつむれば、相當に廣き平坦の社域があり、本殿はこゝに西面して鎭座し給ふのである。社域は外周の密林に蔽はれて、四時蘚苔き敷き一段と神さびてゐる。
祭神 貴船大神
由緒 按ずるに、當社は往昔より貴船大明神と尊称し奉つてゐる。氣比宮社記に高オカミ神を祀るとあればこれに従ふ。古老の口碑に徴するに、往昔大友源左衛門と呼ぶ人が此の地に移住して、山野を開墾せしも、冬季海浪に渫はれ、霖雨山谷の崩潰等ありて、水難の兔がれ難きを恐れて、貴船大神を奉斎したが、後世大友家は火災に罹り、居所を同區内の山の手の高所に轉じた爲めに、朝夕の奉仕にも不便を感ずるに至り、一面同部前の戸口繁殖したので、この部落全體の氏神と尊崇することゝなつたのである。明治十一年頃村社に列せられた。
祭日 例祭 四月十五日(元舊四月一日) 祈年祭 三月二十五日 新嘗祭 十一月二十七日
庚申祓 四月十四日は例祭の前祭で、夕刻七時頃から、當社で獅子舞の初神楽を奉仕し、次に區長宅
で舞ひ、更に特別の希望があれば其の家で舞ふのである。又十五日の例祭當日にも、同じく當社で初舞を奉仕してから、順次戸毎に舞ふのである。この獅子舞のことを區民は庚申祓と稱して青年が行ふのである。獅子は二頭で、舞の種類は刀舞・鈴舞・幣舞等あって、敲つ太鼓と吹く笛と勇ましく囃して、歌は伊勢音頭相ノ山等である。各戸巡回の時は、祠造の唐櫃を二人の青年が肩に担ひ、全然伊勢神樂の地方巡業のそれに似てゐる。
當區位置の口碑 既に記した當區古老の傳の如く、往昔の人家は神社附近の下方の海岸に沿ふてあつたが、水火災のため漸次山の手に移轉したのであると云はれてゐるが、現在の當神社位置と、區の人家の位置との関係が通例の如くでなく、又當神社下方及び海岸に沿へる段々の田地より、銅器類又は家屋の舊趾と認むへき礎石類を發見すると云ふのは、此の事實を證明するに足るのである。
 「北陸道新設」
 明治十八年より同二十年に至る三箇年継続にて、工費二十萬圓を投じて國道を開通せられたが、本村は一・二部落を除き全部其の區域に入りて、多大の恩恵に浴し、交通上の大革命を見たので寂寥たる農漁村が、一變して今日の如き繁榮を見るに至つたのである。


浄土宗元比田教会

当浦は寺院がなく、近隣の浦に檀那寺をもつ。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


元比田の主な歴史記録


『敦賀志』
本比田浦
氏神貴船大明神社、此浦天正迄ハ氣比宮司北河端氏の堡地也、此浦ハ敦賀郡の北の果なり、

元比田の伝説





元比田の小字一覧

元比田  鴻ケ谷 山吹原 イラカ谷 内友 深谷 分田 西ノ脇 表田 山神 庄ケ谷 平長谷 ワラ田 宮ノ脇 西山 堂ノ上 堂ノ坂 堂ノ谷 上野 大塚 竹中 セナツリ 横平 江ノ下 下坂ノ尻 坂ノ尻 大亀谷 大江 ヤナ平 丸岡 堂田平 森谷窪 イラ谷 漆谷窪 赤畑 森添 上ヤ 森ケ下 北畑ケ 女夫岩 南堂田平 中野窪 上ヤナ平 八月 小清水峠 イタドリ 大亀谷蔭 大亀谷日向 上坂ノ尻 奥庄ケ谷 奥イラカ谷 奥鴻ケ谷 北内友 長谷 北西山 大平 真窪

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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