丹後の地名 越前版

越前

野坂(のさか)
福井県敦賀市野坂


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福井県敦賀市野坂

福井県敦賀郡粟野村野坂

野坂の概要




《野坂の概要》
野坂岳の北麓。JR小浜線「粟野駅」がある。地名は元文6年(1741)3月の家格免許ニ付願書写に「私先祖の儀は、成相の翁稲靏姫と申ス夫婦之者当所之草村を開き、野坂村と号し、夫より追々一郡之内里村出来候、依之野坂村は里村開闢として野坂之庄何村と呼候由ニ御座候」とある(柴田修文書)。
中世の野坂荘は、鎌倉期~戦国期に見える荘園。建暦2年(1212)9月日の気比宮政所作田所当米等注進状に「野坂庄遣田廿四町五反小」とあり、当荘は供僧分10町余と社家分14町5反余に分かれていた。永仁6年(1298)4月28日伏見天皇が「敦賀津内野坂庄」などを「祇園社長日本地供」のために西大寺宝塔院に寄進して、皇室領とみられている。観応2年(1351)の青蓮院門跡勤行仏事注進状に荘名が見え、延文2年(1357)5月8日の某長丸名名主職宛行状に「気比社々司遣田免田等」とあるところから南北朝期には、周辺の荘園と同じく青蓮院門跡を本家としていた。荘内の郷として櫛川・木崎・島・沓見・金山・野坂・砂流・山泉の8か郷が確認され荘域は笙ノ川以西の平野部全域に及んでいた。応安2年(1369)11月15日に櫛川郷地頭山内重経が郷内原の地を西福寺に寄進したのをはじめ、南北朝期以後荘内各地の諸種の権益が武士・百姓によって西福寺などに寄進、売却されていった。応永5年(1398)と推定される閏4月27日の道義書状に、当庄内沓見郷・青生野(粟生野)などの半済が停止されているが、青蓮院は長禄3年にもこの文書を含む3通の証拠文書を幕府に提出していて、支配権の確保が次第に困難となっていったことがうかがえる。これ以後は青蓮院の関わりを示す史料が途絶え、専ら西福寺文書などで次第に荘名を冠さない郷名が多く見られるようになり荘園としての実体を失っていったことが知られる。
中世の野坂郷。戦国期に見える郷名で、敦賀郡野坂荘のうち。大永2年(1522)12月27日のさ近大郎田地売券(永厳寺文書)に「在所ハのさか郷」とあるのが初見。これ以前、延徳3年(1491)3月27日の末友刑部五郎売券(同前)にある刑部五郎の注記「売主野坂住人」の「野坂」も当郷のことであろう。「華頂要略」巻55の「御風爐用途事」に「野坂郷」と見え、当郷が青蓮院門跡領野坂荘を構成した郷であることを示している。前記さ近大郎は「あわうの御名」の百姓で、大永5年12月27日に当郷の田地を売却している二郎左衛門は「砂流郷之内」とされ、近隣郷からの入作がみられる。慶長国絵図には野坂村と見え高567石9斗6升。
近世の野坂村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、寛文8年(1668)からは安房勝山藩領。当村には勝山藩の代官所が置かれ、代官屋敷と呼ばれた。触の伝達や行政諸事務を担当した年番(10か村の庄屋から2名を任命、文政9年から取締方と呼んだ)が詰めた会所も代官所近くに置かれた。当初は藩用のため庄屋の寄り集まる郷宿が設けられ触流しなどを行ったが、元禄11年廃止され、触流しは当村の柴田権守が行うこととなった。柴田家は中世に当村を開いた者の子孫と伝えられ江戸初期には小浜藩の大庄屋を、勝山藩領となってからは大名主や代官をも勤めた。寛政年間から茶の栽培も行われ「敦賀志」には「此村より茶を製し出す、銘して歌ケ谷と称し、或ハ角鹿富士と云、一の名産とす」とある。明治4年加知山県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に戸数66・人口292、産物は菜種5石5斗・莚4,500束・縄150丸。同22年粟野村の大字となる。
近代の野坂は、明治22年~現在の大字名。はじめ粟野村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西10町・南北4町、戸数65、人口は男168 ・ 女163。昭和47年一部が桜ケ丘町となる。


《野坂の人口・世帯数》 1378・470


《野坂の主な社寺など》

野坂岳


野坂岳は市内最高峰で「敦賀志」には「郡中第一の高山にて某勢富士ニ似たり、よりて邑俗敦賀富士と云」とある。市街地のどこからでもよく見える山である。
標高913.5m。山名の由来は不明である、式内社野坂神社とかかわるか。全山花崗岩から構成され急峻。一山頂に御岳権現または六社大明神を祀る野坂神社があったと伝えるが、本社は山麓の野坂に遷され今は小さな社だけがある。かつては御岳参りといって夜中に登山し御来光を拝んだという。野坂から頂上まで徒歩約2時間半。孤立峰に近いので眺望は非常に良い。登山路につけられた一の峰・二の峰・三の峰・四の峰の呼称や、山腹に祀られている「時の木地蔵」や「行者の袖地蔵」は山岳信仰の盛んであった頃の名残という。四の峰近くには池もあるそう。
『敦賀郡誌』
野坂山、従来郡中第一の高山と稱せられたり。其姿、富士にはたりとて、俗に敦賀富士と稱す。毎年舊暦六月二十四日、御嶽參りと称して、賽者夜半より此山に登る。野坂の青年、先登するを例とす。道は野坂神社の前より通じ、山路甚嶮峻なり。一の嶽、二の嶽、三の嶽を越えて、四の嶽に至り、旭日の登るを拜す。此處に小祠あり、権現といふ。之れ絶頂なり。麓より約一里半。頂上よりは東北に白山・立山、西に丹後の山々を越えて伯耆の大山、南は琵琶湖より9伊吹・比叡の諸山を見ると云ふ。 文化文政以後、北海道に輸出したる茶歌ヶ谷は此地の産なり。
野坂山

野坂神社(式内社)

野坂神社は境内社に日吉神社・熊野神社・猿田彦神社・神明神社の4社がある。織田神社の祭神は大山咋命、境内社は秋葉・蛭子の2社、同社は明治44年野坂神社に合祀された。野坂神社で旧暦1月8日に行われるだのせ祭りは田遊びの色濃い予祝芸の行事で、市無形民俗文化財に指定されている。
『敦賀郡神社誌』
村社  野坂神社   敦賀郡粟野村野坂字堂後
位置と概況 本區は垂仁天皇二十五年大和國十市郡の人、此地に居を占め、田地を開拓し、其子孫繁榮したと云はれてゐる。東西南の三方は田畝開け、西方は關區南方は野坂山に連り、北方は八町餘にて金山區に隣し、第十八旅團本部、第十九聯隊は目睫の間にある。往時は野坂庄と稱して莊館あり、又加知山藩の代官所を置かれた所で、現時は敦鶴鐡道粟野驛も當區にありて重要の土地である。野坂山は郡内第一の高嶺にて、海抜三千餘尺あり、其の山姿秀麗にて俗に敦賀富士の稱がある。山頂よりは遠く東北方に加越の白山・立山を西方に丹伯の諸山を望み、又南方は琵琶の大湖・伊吹・比叡等の高峰を遙に望み得る。此山は野坂神社の附近より登るので、山頂に野坂權現の小祠がある。毎年陰暦六月二十四日は御嶽參りと稱へて、近郷近在より多数の賽者夜半より登山し、昧爽東天に昇る金色の御来光を拝する著名の靈山である。平重盛の歌に『見るたひに富士かとぞ思ふ野坂山白きかうべにふれる白雪』とある。
 氏神野坂神社は區の中央に位し、本殿は東面して鎭座し給ひ、社地と連接して舊社家宮田氏の住宅がある。廣き社有林を隔てゝ四方は田野にて、この周圍に人家は三々伍々介在してゐる。社域の入口の鳥居を入って進むと、高さ二尺の石垣を以って一段高くせる齋庭に床割式の拝殿がある。これを進めば正面に高さ六尺の石垣を築き、その中央に設けた石階七級を上ると、萱葺の本殿が鎭り、その建築様式は古風の面影を存して森厳である。其の社殿の周圍には石玉垣を繞らし境内外には数へ拳ぐべき大木とては無いが、杉の木立繁き一團の森がありて神さぴ、人家を隔てた山麓は常に閑靜にて清澄の氣を漂はせ、其の神々しさは自から延喜の古社たるを偲ばしめてゐる。昭和六年八月氏子等は廣大なる神恩に浴し、無辺の神威を欽仰し居るも、崇敬奉仕の猶到らざるものあるを想ひ慚愧恐懼に堪へずとなし、誰言ふとなく神慮を奉慰する爲め、神苑を築きては如何と發議せしものあり、議忽ち決し多額の經費と勞力を寄附して、接続せる境外地水田百二十餘坪を神域に編入し、池を掘りて清泉を湛へ、多数の奇岩怪石を集めて蓬莱嶋を築き樹木を植栽し、錦鱗を放ち、一拳にして瀟洒な神苑が生れたので、末社市杵島姫の鎭座し給ふ一小島と相待ちで、神域に典雅と優麗とを加へ社頭の面目を一新した。
祭神 大山祗命 天津彦火瓊々許尊 木花開耶姫命
 相殿 秋葉大神
     蛭子大神
由緒 當社の由来を按ずるに、懿徳天皇二十三年甲子三月八日伊豫國越智郡三嶋大明神の祠官、越宿禰成相翁稻鶴姫といふ夫婦が、大神を勧請し奉つたと傳へてゐる。以来當區の氏神と崇敬し、御嶽権現又は六社大明神と尊稱し奉つてゐる。延喜式神名帳に敦賀郡野坂神社とあるは、即ち野坂山麓の當社にて明治九年七月十七日村社に列せられ、同四十四年一月二十三日、同區蛭子谷地籍鎮座、村社織田神社(粟野驛前山麓)は鉄道用地の爲め當社に合祀し奉る。此の織田神社は七社大明神と奉稱し、又俗に妙法堂とも稱し、祭神大山咋命を祀ると傳へらる。此の織田神社の境内神社に秋葉社祭神秋葉大神、蛭子社祭神蛭子大神をも共に當社に合祀し奉り、明治四十四年五月六日神饌幣帛料供進の神社に指定せられた。
祭日 例祭 五月五日(元舊四月五日) 祈年祭 三月二十三日 新嘗祭 十一月二十五日
特殊神事御田打祭と御田植祭 陰暦正月六日早朝、菱形の餅を搗き八日神前へ獻り、此の日午後一時頃から全戸が境内に集合して、田植式を行ふ。これを「ダノセ祭」と云ふ。ダノセ祭と呼ぶは歌詞中にダノセと囃すからであらう。この神事は素襖を着けたもの六人が奉仕し、チサの木にて其り型を作つた鍬を持ち、青杉葉を早苗に擬し之れを三段に植へるのである。この式は百姓が田を作る種々の所作をするのであるから晝持ちと呼んで妊婦に扮装したもの一人と、小娘に扮したもの一人が、田に晝辯當を持ち行く状なども行つてゐる。この式に歌ふ田植歌は随分長いが、古式の漸く廢れ行く今日之を永遠に存続せんことを欲する餘り、茲に収録することにした。此の日午前中當渡しと稱して頭渡當番の交代する式が社務所で行はれる、これには萬歳樂といふを三度舞ふことになつてゐる。この二つの神亊の式作法も一々詳記したいが、冗長の嫌あるから之を略する。田植歌は當社記事の末尾に記した。
境内神社
神明神社 祭神 豊受大神、市杵島姫命、大山咋命、伊弉諾尊、猿田彦命
由緒 大正四年十二月十八日、境内神社の日吉神社祭神大山咋命、熊野神社祭神伊弉諾尊、猿田彦神社祭神猿田彦命を當社に合祀し奉り、大正五年一月社殿を改築した。…

曹洞宗金伝寺

曹洞宗宗福寺

金伝寺は莇生野幸松寺末で、天正元年の創建。宗福寺は天長3年元真の開基と伝える。明徳4年に曹洞宗に改宗したというがもとの宗派は不詳。本念寺は元亀3年祥岌が創建、のち昭和29年廃寺となる。
『敦賀郡誌』
金傳寺、曹洞宗、莇生野幸松寺末、本尊大日如来、(傳教え作と云)天正元年創立。 宗福寺、同宗同末、天長三年正月元眞開基、明徳四年、曹洞宗に改宗。(元宗不詳)本念寺、同宗同末、本尊阿彌陀如来、元龜三年三月、僧祥岌創立。 地蔵堂、天長三年、空海、野坂登山の時創立す。其後堂宇破壊し、石室に安置す。永祿中堂宇再建。 加知山侯の代官役所を置かれたりき。


《交通》
JR粟野駅


小浜線。JR西日本の北陸本線の支線。敦賀~東舞鶴間84.3km。当初は敦鶴(とんかく)線と仮称。大正4年5月敦賀から着工し、同6年12月15日十村(三方上中郡若狭町)まで開通し営業を始める。翌年11月10日小浜、同10年4月3日若狭高浜へ達し翌11年12月20日全通。北陸・山陰両本線をつなぐ路線の一部であり本州日本海側縦貫線の一環をなすが当初から政府はあまり重要視せず建設は遅れた。最初の難所・関峠は築堤・切通しと3つの小トンネルで1,000分の10の緩勾配で通過、次の難所十村と大鳥羽間の標高差30mも十村から天狗山トンネルにかかる前の築堤で高度を稼ぎ克服した。最後の難関の吉坂峠は峠下を長さ850mの吉坂トンネルで通過する。風景の美しい若狭湾岸を走り、「海のある奈良」小浜、三方五湖も沿線にあって観光路線として人気がある。特に夏は京阪からの海水浴客の利用が多い。赤字廃線の対象とされたり、便数を減らしたり民営化案もあるが、若狭地方唯一の鉄道であり沿線住民の愛着と依存度は高い。
2022年は小浜線全線開通100周年。2023年は電化開業20周年だそう。おめでとう!しかし将来予想としては明るくはまったくない。

『新わかさ探訪』
*小浜線の建設  若狭のふれあい第138号掲載(平成15年7月18日発行)
*今津回りのルートも検討
*大正11年に全線開通
 若狭を横断して敦賀-東舞鶴間を結ぶ小浜線。その建設の歩みをたどってみると-明治28(1895)、鉄道敷設法が改正されて計画路線に加えられたものの、その後の民間による建設の動きが資金不足で頓挫。国による着工が決定したのは明治45年(1912)で、実際の工事開始は3年遅れの大正4年(1915)5月でした。というのも、敦賀-小浜間については当初二つのプランがあり、一つは現在の小浜線のルート、もう一つは敦賀の疋田から近江今津へ出て若狭熊川(旧上中町)へ向かうというもの。両案について予備測量を行った結果、距離が短く難工事も少ないことから現ルートが採用されました。
 かくして、工事は敦賀側から開始。線路は黒河川を渡り、その広い扇状地を横切って野坂山の山腹を徐々に這い上っていきます。敦賀と美浜の境、関峠の標高は約100mで、小浜線の最高地点。ここもトンネルではなく峠部分をやや掘り下げて通過。近年まで雪避けの三角屋根が設けられていましたが、電化工事の際に取り除かれました。
 その後の工事は順調に進み、2年後の大正6年(1917)に三方(現若狭町)の十村まで達し、同年12月15日、敦賀-十村間29・3㎞がまず開業。金ヶ崎(敦賀)と長浜を結ぶ敦賀線(当時の名称)が部分開通して臨時に貨物の取り扱いを始めたのが明治14年(1881)ですから、それから36年遅れて若狭の鉄道輸送がスタートしたことになります。
 十村駅には転車台を設け、その上に蒸気機関車を載せて方向を反転、折り返し運転をしました。当初は1日4往復、片道約70分でした。十村駅前には乗降客のための旅館も開業しました。この路線は、初め敦鶴線と呼ばれていましたが、小浜出身の山口嘉七代議士が「小浜線と名付けるべし」と断固主強して、その名が決まったとのこと。
 十村からは築堤で高度をかせぎ、天狗山トンネル(長さ664m)を抜けて上中へ。小浜まで開通したのは翌大正7年(1918)11月10日。開業の日、田んぼの中に造られた小浜の停車場は、日の丸の小旗を持った人たちであふれ返ったといいます。当時、敦賀-小浜間は片道2時間あまり。ちなみに電化された現在は、半分の約1時間です。
 小浜から西は、第一次世界大戦の好況による物価高やトンネル建設などで工事が遅れ、若狭・丹後国境の吉坂トンネル(850m)を抜けて新舞鶴(現在の東舞鶴)まで、小浜線84・3㎞が全線開通しだのは大正11年(1922)12月20日。着工決定から11年目でした。
 そのころの旅客列車は、敦賀-小浜間6往復、小浜-新舞鶴間7往復。敦賀方面は敦賀止まり、舞鶴方面は大阪、京都行きの直行列車が各2便と、綾部行きが3便でした。
 小浜線の開通に伴い、列車を利用しての通勤・通学、旅行などができるようになり、人々の暮らしも変わりました。主要駅の前には旅館や飲食店、雑貨店、運送店などができ、また木材を鉄道輸送するため、各駅の近くに製材所や材木置き場が設けられました。今もその名残を各地にとどめています。
 もちろん当時は蒸気機関車の時代。昭和36年(1961)3月、小浜線に初めてディーゼルカーが走り、同46年9月には蒸気機関車が姿を消しました。そして平成15年3月15日、電化開業を実現。全線開通から80年余の歳月が流れています。


《産業》


《姓氏・人物》


野坂の主な歴史記録


野坂の伝説

『越前若狭の伝説』
野坂山  (野坂)
野坂山は嶺南で一番高い山である。粟野駅近くに権現さんがあり、七月二十三日の祭礼には、祭神をご幣に移して、地元の村民数百名がこのご幣を持って、夜遅く山頂に登り、日の出を拝む。また九月二十四日の秋祭りには「馬とばし」といって、馬を連れて来て、堂の回りをかけ回った。
山の中腹に平重盛の屋敷跡がある。むかしある女が難産で苦しんでいるのを重盛が見て、白山大権現をお祭りした。そのときひとりの坊さんが現われ、石の観音を刻んでいったので、これを権現に祭るようになった。後にこの坊さんは弘法大師であることがわかったという。    (杉本伊佐美)


野坂の小字一覧

野坂  関組 笹山 井ノロ 川端 西ノ木戸 関脇 広廻り 丸山 竹中畑 折戸 山道 柿ノ木 久保 蛭谷 柳谷 南蛭谷 山添 山口 光照寺 西畑 源子 山越 東野 源ケ下 北畑 鳥城 下北野 北野 大田 堂後 宮ノ前 高木 下荘 北原 野畑 下向野 北牛岩 牛岩 東牛若 向林 南沢 渇々 流田 門口 畔ノ内 八反田 平成 明前 中田 神田 橋詰 光門 南光門 貞友 東山ケ花 三反田 免田 水汲 川添 井ノ下 西山ケ花 穴田 八重 志類田  椎木 大坪 舞尻 島崎 上荘 堂銘街道 畦高 九日田 清水ノ下 大山町 山町 仲雀 野々際 中尺 新林 平山 轡谷 下山 上山 穴釜 四岳


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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