丹後の地名 越前版

越前

大蔵(おおくら)
福井県敦賀市大蔵


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福井県敦賀市大蔵

福井県敦賀郡東郷村大蔵

大蔵の概要




《大蔵の概要》
市街地の東方、西は余座、東と北は山地。南部を国道476号がとJR北陸本線。それらと並行して木ノ芽川が西流する。東の山地に北陸自動車道縦貫している。地名は氏神大椋神社の大椋を大蔵に改めたものという(東郷村誌)。
中世の太蔵は、戦国期に見える地名。永禄元年(1558)6月5日の善妙寺領目録に、塔頭蓮藏院領の240歩の地に「北ハ太蔵之上坊分ヲ境也」と記される(善妙寺文書)。慶長国絵図では大蔵村332石余。
近世の大蔵村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)鞠山藩領、明治3年小浜藩領。享保12年(1727)の家数22(高持17・無高2・寺3)・人数95、馬4。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数15(全戸農)・人数73、産物は莚350束・薪4,500束・割木7,000貫。農業のかたわら「莚ヲ織り或ハ薪ヲ採ルヲ以テ余業」としたという。同22年東郷村の大字となる。
近代の大蔵は、明治22年~現在の大字名。はじめ東郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西40間・南北1町、戸数17、人口は男45・女47。昭和31年、一部が本町1丁目、同32年本町1~2丁目、同49年深川町、同55年若泉町・藤ケ丘町となった。


《大蔵の人口・世帯数》 74・24


《大蔵の主な社寺など》

大椋神社の背後の山に古墳がある。


式内社・大椋(おおくら)神社

集落の入口、少し高くなった山裾に氏神の大蔵(大椋)神社。祭神は天手力雄命。旧村社。岩戸別(いわとわけ)神社または天ノ宮(雨の宮)ともいう。式内小社。「三代実録」元慶4年(880)9月17日条に、正四位下に神階が進めらた。
『敦賀郡神社誌』
村社 大椋神社 敦賀郡東郷村大藏字獅子ヶ谷
位置と概況 本區は余坐・谷口・深山寺・井川の各區に近接して、東北は山脈で圍まる、氏神鎮守は區の東南端の東部に位し、大獅子ヶ谷の山麓にありて、人家及び大藏寺は社域より約一町に過ぎぬ。境域の入口には式内大椋神社の標石が、車窓より拝せられ小川が流れで、コンクリートの橋が架してある。これを渡りて十七級の石階を上り、兩部鳥居を入り、四級の石階を進んで拝殿に至る、この背後に四圍板玉垣を繞らした浄域がある。この内裡の石階十級を登りたる上地に、本殿は南面して鎭座し給ふ。蒼々たる森林が社殿を圍繞して、山麓一帶には、幾百千年を經たかと想はるゝ椎の老幹十数株が参差枝を交へ、その間に榊・松・杉・檜・椿等介在して、蔚然天を蓋ひ、神厳の氣身に沁みて、神威の荘厳を仰がしめてゐる。蓋し延喜式神名帳の、越前國敦賀郡大椋神社とは即ち當社である。
祭神 天手力雄命
由緒 按ずるに、當社は雨の宮又は岩戸別の宮と尊稱し奉った。抑々延喜式内の名社にて、往時より夙に國史に載せられ、三代實録には元慶四年九月十七日授越前國從四位上大椋神社正四位下と、神階の事が見え、氣比宮社記には坐于大蔵村南面是東方鎮守社、又謂天宮或稱天磐戸開神社當郡四方鎭護社とありて、氣比神宮四方鎮護の東方社であった。古来皇室の御崇敬も厚き、郷土の名社であって、明治十一年八月二日村社に列せられた。
祭日 例祭 五月三日(元舊六月一日) 祈年祭 四月三日 新嘗祭 十一月十七日
特殊神事 紀念祭舊六月一日、明治の後期、町村自治の発達は部落観念を根絶するにありとなし、古来由緒ある各部落特有の祭禮日をも統一して、一村同一とするも其一方法なりと奨勵した、本區も此方針に基き、之れを實行するに至つた。然るに區民の多くは、この歴史的祭日を忘るゝに忍びず、舊祭禮日を紀念祭、又は元祭と稱して、更に祭典を行つてゐる、これ神を敬ひ、由緒を重んずる、精神より出でたるものであるが、一面社會的には、自治の発達に貢献せんとし、他面精神的には、祭典の重んずべきを知るものにて、誠に良風美俗といふべきか。
 八朔祭 陰暦八月一日に八朔と稱し、又は廿酒祭とも稱して、椿葉に酒を注いで神前に供へるのである。醸造禁令以前は廿酒を造りて献りしが、今はたゞ形式的に古風の神事祭名が存してゐるに過ぎない。
 放生會 陰暦八月十五日、神饌を供へて祭典を奉仕するので、普通神社祭式と異なる所がない。
 贈位祭 陰暦九月十七日、秋祭股は贈位祭と稱して、この日秋の初穂の種々を供へ、又赤飯を角盛になして供へ、祭典を奉仕する。この祭意は由緒を参照。
本殿  …
神社と傳説口碑 青色の百足は、當社祭神の神使ならとして、決して殺さないことになりでゐる。陰暦九月十七日昔時より秋祭と稱へ、近時は贈位祭とも稱へて、御祭神の神徳を讃へ奉り、區民は角力を行ふこと毎年の行事であつたが、近来は警察の手続面倒なりとて、角力は中絶してゐる。然し區内にはいつも好角家が多いとのことである。
宮講 陰唇正月・五月・九月の二十四日には、宮講とて各戸が神社に参拜し、神饌を献じて、後に當番の家に至りて直会をなす。この直会は、豆腐粕の味噌汁に豆腐を入れた汁物を用ひ、飯と膳とは各自が持参する古風を今も厳守してゐる。


境内にコンクリート製の防空壕?
古墳がありそうな風水の地、経塚もあったという。
どうやら、鉱山神でなかろうか。銅鉱山があったのでなかろうか。


高野山真言宗大蔵寺

集落の一番奥、背後の高架橋は北陸新幹線。真言宗古義派の大蔵寺。ほかに吉祥院・持明院(いずれも真言宗古義派)があったが、のち明治16年大蔵寺に併合された。持明院本尊であった十一面観音菩薩像は大蔵寺内陣の厨子に安置されているという。
『敦賀志』
大蔵村  深山寺の山の後、谷口の西ニ在
氏神大椋神社〔式内岩戸別神社又ハ天ノ宮とも云〕
三代実録曰、陽成天皇元慶四年秋九月十七日、奉越前國従四位上大椋神正四位下〔是当郡東方鎮護の御社也〕
大蔵寺・持明院・吉祥院〔共ニ真言宗高野金剛峯寺末〕

『敦賀郡誌』
大藏  余座の東に在り。 氏神、大椋神社、村社。 大藏寺、眞言宗古義派、高野山金剛峯寺末、本尊千手観世音。 廢寺、吉祥院、持明院、共に余剛峯寺末、明治十六年九月二十六日、之を廢し、大藏寺に併合す。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


大蔵の主な歴史記録



大蔵の伝説





大蔵の小字一覧

大蔵  半河原 獅々ケ谷 後藤 堂ノ下 家ノ下 野瀬 大門 東丁田 菖蒲谷 取合 西丁田 コラ田 地蔵 道場 川尻 五反田 下八反田 北横枕 半河原谷 大獅々ケ谷 後藤ケ洞 北菖蒲谷


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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