丹後の地名 越前版

越前

越坂(おっさか)
福井県敦賀市越坂


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福井県敦賀市越坂

福井県敦賀郡東郷村越坂

越坂の概要




《越坂の概要》
木ノ芽川沿いの国道476号ではなく、その西方の四方山中の高所集落で、南西の樫曲に通じる市道に沿ってやや開ける。超急勾配の市道はくねって下り、北東の国道476号に合流している。この市道が元々は官道北陸道・木ノ芽道であったという。
古来敦賀湊と越前との往来には、この官道の坂を越さなければならず、地名は地形から名付けられたと推定される。もとはコシサカ・オオサカとも呼ばれたのではないかという(東郷村誌)。耕地は南側山麓と木ノ芽道両側の山麓に階段状に並び、峠下にあるため、耕作には多大の労苦を要したという。
中世のオツ坂は、戦国期に見える地名。「冷泉為広卿越後下向日記」延徳3年(1491)3月7日条に「オツ坂〈薬師堂アリ、里モアリ、槻木アリ〉」と見える。元亀元年(1570)4月織田信長が越前に侵攻し、金崎城・天筒山城を落としたが、松永久秀が信長にこれから国中に打出すと「木目山・追坂・樫ガ曲リ」などの難所があると言ったことなどにより信長は帰京したという(朝倉始末記)。慶長国絵図では樫曲村491石余の一部。
近世の越坂村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)からは旗本酒井氏知行(井川領)。享保12年(1727)の,家数15(高持13 ・ 無高1・寺1)・人数90、馬3。寛政年間(寛政1789~1801)の大火で16軒のうち4軒を残して焼失した。幕末、水戸浪士の西上に際しては、小田原藩士650人が西願寺を中心に陣を構え、葉原に陣取った加賀藩の焚出しを村人総出で行っている。明治3年本保県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に戸数16(全戸農)・人数96、牛3(貨物運搬用)、産物は桐実5石・蝋実100貫・桑200貫・割木5,000貫・薪3,000束、住人は農業の「傍ラ採薪又運送ニ身ヲ労」したとある。同22年東郷村の大字となる。
近代の越坂は、明治22年~現在の大字名。はじめ東郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西50間・南北40間、戸数15、人口は男37・女48。明治期以降昭和30年頃までは割木(槃木)や柴を多量に生産し大八車で急な「なます坂」を下って町へ輸送していたが、今日では坂の鞍部がかさ上げされ坂は緩やかとなった。


《越坂の人口・世帯数》 27・9


《越坂の主な社寺など》

少彦名神社

集落の入口。旧称薬師堂といい、かつては字宮山にあったという。
『敦賀郡神社誌』
村社  少彦名神社 敦賀郡東郷村越坂字上ノ山
位置と概況 本區は樫曲區より木ノ芽道に從ひ、北方十八町にて到る、此地は吉野朝時代に、瓜生軍と足利軍との激戰を物語る通路で、獺河内區へは東十一町餘、田尻區へは北方十五町餘ある。然して獺河内區及田尻區・葉原區方面には、當區阪路上下七八町にて至るのである。西方は山道を経て東浦村田結區に、或は亦田尻區にでて赤崎區・五幡區に至る事を得るも、本村中池ノ河内區に次ぐ交通不便の地である。四隣何れの方面に往来するにも、小阪路を越へねばならね難所であつて、之れが越坂の名ある所以であらう。鎮守社は區の西部南端なる乾山の麓に座し、舊越前街道より稍々空地を経て土階十段を上れば、東面して鎮座し給へる本殿に詣づ。社域の四方は山林にて、北方は竹林を隔てゝ眞宗大谷派の西源寺がある。本社外殿は僅かに方七尺にて境内地又誠に狭隘につき、最近社域の拡張及び本殿の改造をなすべく計画中なれば、面目を一新するも遠からぬであらう。社地には樹木の大なるものなく幹圍七・八尺に及べる七葉樹の一株が、矮林中に挺出するに過ぎない。
祭神 少彦名命
由緒 按ずるに、當社は往事より薬師堂と稱し、區の北方なる宮山と稱する地籍の中腹に鎮座せるを、今の地に遷宮したと傳ふるも、其の年代は詳でないが、口碑の信ずべき理由は、明治二十八年八月二十九日、水害の爲め當社山元宮跡なりと傳へた、地籍の一部崩壊したる時、石燈籠の破片かと思はるゝもの一二點を發見したるにあり。明治維新の際、薬師堂を少彦名神社と改稱して、明治十一年八月二日村社に列せられた。
祭日 例祭 五月三日(元舊四月八日) 祈年祭 二月十七日 新嘗祭 十一月二十九日
神社と青年曾行事 一月中に(日は其都度決定す)當區青年會員は、一同神社に参拜し、神酒・鯣等を獻じたる後、當番の家に至り、其の年入曾すべき十五歳以上の男子、又其年退会すべき三十歳の會員を報告し、其他会務を了し、直会をなして退散するのである。
本殿  …


真宗大谷派戌亥山西願寺

少彦名神社の隣りにある。永正9年(1512)の創建と伝える。
『敦賀志』
越坂村〔田尻の東ニ在、
氏神薬師堂〔昔ハ少彦名命の御社成しと云〕、西願寺〔東本願寺派願慶寺末〕炭薪を市に鬻、

『敦賀郡誌』
越坂 樫曲の北に在り。 氏神、少彦名神社、村社。 西願寺、真宗大谷派、東本願寺末、もとは海津願教寺末なりき、永正九年三月創立。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


越坂の主な歴史記録



越坂の伝説




越坂の小字一覧

越坂  奥四ケ洞 口四ケ洞 堀田 田尻越 安明寺洞 梅ケ洞 上乾谷 釜谷 下乾谷 祓戸 白谷 宮山 峠 池尻 瀬戸 村西南 寺前 上ノ山 堂ノ洞 堂ノ谷 作り道 中縄手 小大 洗谷 城谷 巽谷 松山越 桂水 平田 丸山下 鳥越 口狼谷 奥狼谷 田結道 梨谷 口旡 馬洞 風吹 枝谷 小祓谷 崖 広瀬 四ノ谷 三ノ谷 青柳 松尾 弐ノ谷 一ノ谷口 坂ノ下 奥一ノ谷 巽山 東森 戌亥山 松尾山 大兀 中山 南一ノ谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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