丹後の地名 越前版

越前

坂ノ下(さかのした)
福井県敦賀市坂ノ下


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福井県敦賀市坂ノ下

福井県敦賀郡中郷村坂ノ下

坂ノ下の概要




《坂ノ下の概要》
市街地の南東部。東は山地(明神山)で、村の中央を木ノ芽街道が通る。今は8号線バイパスが南北に通る、北部を金山バイパスが東西に通り、地内で合流する。
近世の坂ノ下村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。享保12年(1727)の家数33(高持17・無高15 ・ 観音堂1)・人数161 (男79・女81 ・ 出家1)、馬15。「雲浜鑑」では家数33・人数180。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に、戸数33・人口165、荷車18(貨物運送用)、産物は莚2,600束・菜種30石。同22年中郷村の大字となる。
近代の坂ノ下は、明治22年~現在の大字名。はじめ中郷村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北1町余、戸数28、人口は男79・女87。明治36年字岩谷で金銀銅鉱の試掘が行われたという。昭和32年、一部が石ケ町、同49年観音町・羽織町・樋ノ水町・深川町、同55年若泉町となった。


《坂ノ下の人口・世帯数》 134・44


《坂ノ下の主な社寺など》

坂下遺跡
集落北西方に坂下遺跡があり、弥生後期の土器片が出土した。

神明山古墳群(中郷古墳群)
8号線バイパスが通るあたり、明神山上に明神山古墳群がある。古墳群は北群・中央群・西群の3つに分かれ、北群5基は弥生後期~古墳前期の方形台状墓とみられ、中央群は古墳中期の築造、西群は古墳後期のものと考えられている。
北方の向出山古墳群と明神山古墳群を合わせて中郷古墳群と総称され、規模・内容などから各時期の首長墓を含むものであろうという。
神明山古墳1号墳は県内でも珍しい前方後方墳(全長47m、4世紀末)。
『敦賀市史上』(図も)

市内の古墳博物館のような各種の平面形を呈する明神山古墳群の分布について、中司照世の調査にもとづいて説明を加えていきたい(図43)。坂下区東方の丘陵上には一六基の古墳が分布している。この古墳群から西には坂下遺跡があり、集落が形成されていたと推定されよう。この古墳群全休の分布状態から北群・中央群・西群に三分することができるという。中央群のなかで、第1号墳は全長約四七メートルの前方後方墳で、後方部の長さ約二八メートル、前方部幅約一六メートル、高さ五・五メートルの規模をはかり、葺石をもっている。第3号墳は直径約三五メートルの円墳で高さ約六・五メートルある。第2号・第4号~6号墳は円頂である。南西群のなかで第9号頂は小規模な前方後円墳で、全長約一九・五メートル、高さ約三メートルで横穴式石室のものである。第7・8・10・11号墳は円墳である。北群の第12号~16号墳は、一辺が七~一一メートル、高さ一・八メートル二・三メートルの方墳か方形台状墓と考えられている。
明神山古墳群は、本格的な発掘調査はこれまでに実施されていないが、北群とよぶ古墳群は弥生時代後半もしくは古墳時代前期に属するものと推定され、中央群の一部は古墳時代中期の築造と考えられ、南西群は横穴式石室あるいは須恵器の出土などから古墳時代後期のものと考えられる。このことから、古墳は北群・中央群・南西群の順番に築造されていさたことが想定され、市内の古墳の分布のなかでも各時期の古墳のある古墳博物館のような内容を有している。
敦賀平野と敦賀津をのぞむ、海を極めて強く意識した奥津域として、市内の東北部の丘陵には古墳が造営され、そのふもとの地域に集落が形成されていたのであろう。とりわけ、向出山古墳群、現在は消滅したが小谷ヶ洞古墳群、明神山古墳群をあわせて総称されるべき″中郷古墳群″は、古代敦賀の首長墓、それも古墳時代の各時期の首長墓が形成されたものであるといえよう。

堂坂中世墓地
明神山古墳群の一部に重複して営まれた鎌倉期~室町期の中世寺院に伴う墓地群があり、堂坂中世墓地と呼ばれている。


常宮(じょうぐう)神社

氏神は字宮ノ上に鎮座する。旧称大将軍(だいしょうぐん)社。祭神は仲哀天皇・神功皇后。旧村社。
『敦賀郡神社誌』
村社 常宮神社  敦賀郡中郷村坂ノ下宮ノ上
位置と概況 本區は道ノ口區より六町餘の東北に位し、木ノ芽街道に沿ふてゐる。長澤區より行くには、柳ヶ瀬街道(江州街道)より分岐したる約五町餘の間道に依る。東方は山脈急に迫まりて宅地乏しく、人家の過半は木ノ芽街道を挟んで、急傾斜の宅地に建築されてゐる。氏神常宮神社は、區の南西部に當り、人家より稍々離れ、境内地は平坦なれども狭隘である。本殿は東面なるも稍々北にふれ、社域には椎・タモの老幹巨樹あり、その附近隣接地にも多数生ひ繁り、往古を偲ばせる。當鎮守の社地は低く田圃に接し、氏子の宅地は概して高く山麓にあるは、一目に奇異の思がする。區民の言によれば、往昔は山腹にありしを、參拜に不便なりとして、中古此の地に奉遷したとの事なるが、境内樹木の高齢なるに顧みれば、昔者此の地は古墳分布地なれば、常に老樹の鬱茂せる由緒深き地なるを利用して、其の一部を社地としたのではないか、現に社後の椎のごときは枯死して腐朽し、軟質部は剥落したれども、幹圍猶二丈に餘り注連を引廻してゐる。
祭神 仲哀天皇 神功皇后
由緒 按ずるに、當社は往昔より大将軍社。又は正八幡宮と尊稱し奉つた。気比宮社記に「或説曰大將軍磐長姫命鎮座也」とあり。然らば大山祇命の御女であるが、磐長姫命とあるは、氣長足姫命の誤りではあるまいか、氣長足姫命は仲哀大皇二年皇后に立ち給ひて、後政を摂し給ふこと六十九年、後諡て神功皇后と申し奉り、此の敦賀地方に殊に深緑あろ大神に座せば、當社附近の状況と古墳分布の状態などを考察して、祭神磐長姫命でなく、明細書所蔵の祭神に從ふべきであると信ずる。大永年間の頃鎭座し給へりとの口碑なれども信ずべき確證がない。後に至り常宮大権現とも尊稱した古社である。明治維新神社制度改新の際に、社號を常宮神社と改稱し、明治十一年三月村社に列せられた。
祭日 例祭 五月十日(元舊四月三日)
特殊幹事 舊三月八日鎮火祭と称して區民業を休み祭典を行ってゐる。こは明治二十年三月八日の眞夜中に當區に大火があったので、爾来鎭火祭を行ひ、當時の惨状を追懐して火を慎んでゐる。
本殿 …
境内神社
 愛宕社 祭神 火産神  
  由緒
    今を去る三十数年前の大火に鑑み當時勧請して當社を創建し、境内社として尊崇してゐる。曾て宮ノ前地籍を改修の際、古墳を發掘してより、區内に火災頻出するのは、正しく古墳發掘の祟りなりとの流言を爲すに至り、恐怖の餘り其の出土品の個人の手にあるものは、悉く返還の意味にてその社祠の下に埋蔵したと。
神社附近の遺跡 當社西方に連續せる宮ノ前地籍の畑地の通稱タモの木と稱してゐる小塚上に、タモの巨樹があった。これを伐採せしに一の石室を發見し、其の中より刀剣二三口、土器數十點、及び金環、銀環等種々の副葬品を發掘した。又此の附近にシヤウ塚と稱するがあり(將塚と書くか)其の近くに又一個の無名塚があった各開墾の際多数の出土品があつた。此の出土品中の一部は學校に寄附し、他は個人として所有せるものもありしが、個人の手にありしものは、當社境内の愛宕神祠の地下に埋蔵した。尚當社の背後にも埋めて、其の上に石槨の大石を積み重ねで、石塔の如く作ってある。この古墳は圓塚の形式なるが如く、且つ登掘品の種類・様式等によりて推察するに、上古に屬するものでなく、垂仁以降大化以前に属するものと見て可なるべく、吉河區の古墳も又同時代のものと推定しで可なりと信ずる。尚當社より約十数間を隔りたる竹林中に、周圍十数間高さ五尺位の圓形の盛土の中より大なる岩石が露出した。之に砂礫も堆積されい其の塚上には大樹の伐株が腐朽して残存してゐる。この圓形の小塚も、古墳なることは疑を容れぬ。其の附近に尚二三の古墳分布せるものゝ如く、宮ノ前の古墳より出土せる坩堝を見たるに、上部は正圓をなさず稍々いびつにて、坏は完全であったが、紋樣なく彌生式土器に屬するものと認められた。尚當區及び吉河區には史的方面に於ても、考古學上に於ても重要なる研究材料が殘されてゐる。
大将軍はダイジョゴという。そのジョゴに常宮の漢字を当てたものと思われ、敦賀半島の常宮大社とは関係がない。将軍と当てているので武神ともされるが、元々は道祖神のように村の境界に祀られた遮の神で渡来系人々の信仰である。古墳群を守護する神であったのかも…
『上中町郷土誌』
大将軍
大将軍は方角を守る神として古来から知られているが、当地方ではこれを更にダイジョコといい、また大地権ともいい、祖霊すなわち祖先神として夕モその他の木を霊木とし在る処を霊地とし、損傷しては祟りありとあがめ祭られている所が大字に1ヶ所位は大抵あるように思われる。年に一度十二月二十三日に祭られている。これは氏神がまだ現今の如く無かった時分の信仰の対象物であろうと思われる。それに関する伝説等も余り荒唐無稽が多いようなので省略する。


観音堂(天台宗金光山宝珠寺)
集落が管理する無住の天台宗金光山宝珠寺があり、観音堂と称されていた。
8号バイパスより山手にあるようだが、どう行けばいいのか…
何か金属がありそうな感じがしてくる。
『敦賀郡誌』
坂下  道口の東北に在り。中郷村役場あり、初め道口に置く。 氏神、常宮神社、村社、もと大將軍社と稱す。八幡神社。観音堂、天台宗、金光山寶壽寺と稱す。


《交通》


《産業》
昆布資料館

《姓氏・人物》


坂ノ下の主な歴史記録




坂ノ下の伝説

『越前若狭の伝説』
愛宕社   (坂の下)
坂の下区の常宮神社の境内に愛宕社がある。これは三十数年前の大火にかんがみて、当時火産神を勧請して、創建したものである。かつて宮の前地籍を改修したとき、古墳を発掘してから、区内に火災がたびたびあった。これは古墳を発掘したたたりであるとのことで、その出土品のうち個人の手にあるものは、ことごとく返還して、この社の下に埋蔵した。 (福井県の伝説)



坂ノ下の小字一覧

坂ノ下  関前 上関前 吹寄 小泉 東六町田 北石ケ町 西七反田 東七反田 溝先 折立 忍寅 藪下 壱町田 己ケ渕 八反田 三反田 小河田 明道田 羽折 下出 道ノ上 堂坂 上野山 案内屋敷 宮ノ上 宮ノ前 烏帽子形 横田 岡山下 ザル タモノ木 三反長 加良加良 村下 明神 狐塚 奥明神 明神山 岩谷 トトキ谷 小谷 忍寅山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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