丹後の地名 越前版

越前

杉津(すいづ)
福井県敦賀市杉津


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福井県敦賀市杉津

福井県敦賀郡東浦村杉津

杉津の概要




《杉津の概要》
東部は「嶺」系の高い山塊だが、このあたりは少し広い平野部が西部の敦賀湾に面する海岸まで広がっている。国道8号が通る。「嶺」の水を集めて大毛谷(おもや)川が流れる、その河口部に湊(杉津)があったものか。今は漁港がある。海岸に火山岩類でできた岡崎山(79・6メートル)が突出していて、砂州の発達で陸繋島をなしている、その陸繋上に人家が集まっている。
杉津は鎌倉期から見える地名で、元は水津と書いた。「源平盛衰記」に「(安元3年(1177)2月)十六日には水津の浦」などとある。杉津は海陸交通の要地、軍事上の要衝で、「吾妻鏡」養和元年(1181)9月4日条に「木曽冠者為平家追討上洛、廻北陸道、而先陣根井太郎至越前国水津、与通盛朝臣従軍、已始合戦」とあり、本曽義仲軍の先陣が当地に至り平家軍と合戦を始めている。永正年間(1504~21)頃と推定される年未詳6月9日の朝倉教景書状に材木の輸送経路として「杉津」と見える。永禄元年(1558)6月5日の善妙寺領目録に「横浜分在坪ハ杉津竹かはな」とあり、横浜浦に含まれたらしい。天正3年(1575)8月の越前一向一揆と織田信長の戦いで、一揆側は木目峠・鉢伏山と当地に幾つもの防御線を敷き、「朝倉始末記」によると「若林長門守・府中表ノ坊主衆・堀江衆」らが立て籠ったが(信長公記は大塩円宮寺・加賀衆などとする)、8月15日羽柴秀吉・明智光秀・柴田勝家らの信長軍によって落とされた。慶長3年(1598)の横浜浦検地帳写に杉津の百姓が20人見える。慶長国絵図では横浜浦490石余の一部。
近世の杉津浦は、江戸期~明治22年の浦名。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)小浜藩領、天和2年(1682)鞠山藩領、明治3年小浜藩領。享保12年(1727)の家数73(高持58・無高13 ・ 寺2)・人数399、牛21、舟3、塩かま屋6・塩高72俵余。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」に戸数76・人口414、林産物として桐実300俵・蜜柑30貫・炭5,000俵を産出。農業の「傍ラ炭焼、採薪並ニ物品運送ヲ事トス、又瓦焼の為メニ他村ニ行クモノアリ」という。また同書は「敦賀港に達スル路程四里ニ過キサレトモ尋常ノ道路ニアラズシテ嶮岨ナリ、物品ヲ運送スルモノハ必ス路ヲ海ニ取レリ、且敦賀ヨリ南条郡河野浦ニ達スルノ舟風波ニ逢ヘハ悉ク此ニ碇泊シ、或ハ此浦ヨリ直チニ陸路運搬スルコトアリ」と記す。同22年東浦村の大字となる。
当浦の漁業は、明治3年6月の五幡・杉津・鞠山浦漁業ニ付願書に、
  一杉津浦之義ハ、文化初年之頃杉津浦より喰用丈之
   鯖釣ニ参り度趣段々被頼候ニ付、右杉津浦之義ハ、
   冬春西風之節、折々漁師共世話に相成候事も有之
   候故、右之慈愛ヲ以鯖釣ニ艘丈大目ニ致来り候所、
   文政之末鯖釣五艘被出候ニ付、早速五艘共為相止
   メ候所、同浦宮原孫兵衛殿被参段々被侘入候ニ付、
   前年之通二艘丈大目ニ見来り候所、当節ニ至り又
   候船数も相増候ニ付、一統迷惑相成候間、慈愛二
   艘之外御指留メ被下置候様偏ニ御願奉申上候、
と奉行所に訴えている。近世では、町方の両浜漁師が冬春の西風の折当浦を避難地として利用した見返りに、食用だけの鯖釣を二艘に限って黙認していた。なお「藤原隆信集」の歌の詞書に、「すいつのわたりとて、(中略)いそにつきてあみひくをみて」とあり、平安末期に当地で網引が行われていたことが知られる。
近代の杉津は、明治22年~現在の大字名。はじめ東浦村、昭和30年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西4町余・南北1町余、戸数83、人口は男235 ・ 女248、小船9。明治29年国鉄北陸本線敦賀~福井間が開通し杉津駅が開業したが、昭和37年敦賀~今庄間の新線開業に伴い廃止。地内に杉津駅があり、嶺北地方からの海水浴客や臨海学校でにぎわった。 昭和52年北陸自動車道武生~敦賀間が供用開始され、杉津パーキングエリアが設置された。


《杉津の人口・世帯数》 168・69


《杉津の主な社寺など》

日吉神社

海岸に孤立した丘陵上、字中条の日吉神社。旧村社、祭神は大山咋命。敦賀郷方覚書に山王権現、「敦賀志」に山王社とみえる。
『敦賀郡神社誌』
村社  日吉神社 敦賀郡東浦村杉津字中條
位置と概況 本區き南方十六町餘にて、阿曾區に隣接してゐて、北陸街道より區内に入る、僅かの里道を経て直に人家があり、その多くは西方海濱にある。西北は海に面し、東南方は國道即ち北陸道、及び田畑ゑ隔てゝ山嶺相連つてゐる。當區名を杉津と書きしを、越前名蹟考に「椙の字杉の字にかヘ用ある事上代よりの誤なり」とある。北陸鉄道本線の敦賀・今庄兩驛間にある上下十二の隧道の爲め明暗又明暗の後、漸く汽車は徐行となり、停車となり、煤烟に苦しめられた旅客が、思はず快哉を呼ぶ、これぞ名だたる杉津驛である。車窓より展望すれば、海波渺々遙かに立行灯臺・水島を望み、又眼下の傾斜せる水田は、姨捨山田毎の月を思はしめ、岡崎山・向山等の半島は、土佐畫の如き群青を施し、紺青の水色と調和して絶佳である。杉津驛は海抜六百呎の高所で、これより本區に通ずる道路がある。氏神日吉神社は區の中央に當り、海岸に孤立した丘陵上に座しまして、郵便隔の附近から、約四十級の石階を上れば拝殿がある。それより又三十級の石階を上れば平坦地があり、こゝに本殿は西面して鎮座し給ふ。その背後は松林にて、北方は檜林、南方及び西方の一部は雑木矮林である。断崖削るが如く、その直下は海清く稍々遠浅にて、夏期の海水浴場に適し、然かも黄塵の巷を離れて、風紀を紊す虞もないので、殊に女學生の浴客などが多い。
祭紳 大山昨命
由緒 按ずるに、當社は往昔より山王大権現と尊称して、地方の崇敬厚き社である。明治十一年頃村社に列せられ、大正二年一月十六日神饌幣帛料供進の神社に指定せられた。
祭日 四月十五日()
祈年祭 三月二十二日 新嘗祭 十一月二十四日
祭禮行事 四月十五日の例祭には山車を出し、青年がこれを挽きて笛・太鼓の囃を入れて、區内を練り廻るのであるが、凶年には行はないとの亊である。

神社附近の遺蹟と傳説地
杉津砦趾 天正三年越前一揆の據りし所にて、杉津阿曾の境にあり、今雑木林となつてゐる。
河野丸砦趾 越前一揆、猪鹿子孫左衛門・堀江中務丞量忠の守城にて、本區より約二町未申の方に二十間に十間餘の砦趾があるのみで、今に畑地となつてゐる。
蛇の穴 杉津・横濱兩區の西北海岸に突出した、半島の洞窟には、往昔女蛇が棲息したと稱してゐる。その他小洞窟多くあるが、恐らく海水の作用によりて、自然に作られた普通の洞窟ならんも、旱魃の時農民はこゝに至りて、雨乞をなすとのことである。


浄土宗来迎山海蔵院

海蔵院。浄土宗、もと原の西福寺末、本尊は阿弥陀如来。天文4年(1535)3月創立、開基は方誉念西と伝える。

本門法華宗八葉山本蓮寺

日吉神社の向かいにある本蓮寺。本門法華宗、山号は八葉山、本尊は釈迦如来。永仁2年(1294)の創建で開基は日像と伝える。寛永12年(1635)頃の「水津浦宗門人別証」があり、これによれば一家複寺制がみられるという。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


杉津の主な歴史記録

『敦賀志』
杉津浦
氏神山王社、海蔵菴〔浄土宗西福寺末〕・本蓮寺〔法花宗本妙寺末〕東遷基業曰、桜井新左衛門七百、鰐淵将監三百余杉津口へ指遺し、又信長記一揆退治の条ニ、杉津城にハ大塩の圓強寺、此時修理亮勝家ハ猶子伊賀守一族・佐久間玄番・同帯刀・毛受勝助・拝郷五左衛門・徳山五兵衛・安井右近を先として、手勢五千余人杉津口ノ城に押寄、持楯竹束をつきならべ、揉ニもんで攻上る、此城に籠りたる堀江中務丞堺図書等叶ふまじと思ひ、裏切して城門を押あくれハ、柴田か軍勢乱レ入、一城の軍民を悉く撫切にし、城に火をかけ焼立たり、其比岡崎山二ハ一揆の為猪嘉子孫左衛門こもれりと云、岡崎ハ此浦の出崎に在て、奥ふかき巌穴也、大蛇住と云、

杉津の伝説




杉津の小字一覧

杉津  南向山 堂ノ道 小丸 下条 知足院 繩手 南縄手 日ノ詰 中条 上条 込袋 ゴゼンナ 堂田 阿上 道寄 地岩 大木下 大木上 焼屋 渡り世 判官堂 野林 釜ノ口 森ノ木 猿ケ馬場 西谷 東谷 栗尾 蛇合 上蛇合 横藪 岩井田 寺向 下河原 南焼屋 中河原 野里 鹿ノ背 仏岩 上河原 田代 猪野口 山田 大山田 中山田 上ロクロ師 ロクロ師 河野谷 河野 込口見 坂ノ尻 開フチ 坂ノ本 坂ノ上 獺ケ谷 菅ケ窪 身寒 上名ケ谷 上ミサプ 松ケ平 馬場 井ノ上地 柳ケ谷 長谷 三林 河野土 滑谷 関谷 河野大 桐木座 板取原 細谷 宮ケ谷 坂 下谷 割谷 小間低 老道シ 大毛ヤ谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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