丹後の地名 越前版

越前

手(て)
福井県敦賀市手


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福井県敦賀市手

福井県敦賀郡松原村手

手の概要




《手の概要》
「手浦」と書き「たのうら」ともいう。敦賀半島東部に位置する。集落の南には沓との境界にあたる鷲崎がある。海に面する岩壁は数丈にのぼり、その面に貝殻が付着している様が鷲に似ているところから、鷲崎の神岩ともいう。大正期に行われた第2期敦賀港修築工事にこの岩石が使用されたため、現在は旧態をとどめていない。鷲崎には「延喜式」神名帳に載る和志前神社があったとされているが、山崩れのため社が流され集落の氏神である剣神社内に奉祀されたと伝えられる。
『敦賀郡神社誌』
當區は往昔よりタノウラと稱し、田浦と書いたが今は手浦と書いてゐる。往昔は、北方数町を隔てた鈴ヶ崎附近に居住してゐたが、故ありて今の地に移住した、故に共の舊地には宮山などと稱して、元の宮趾等が存してりる。南方十二・三町には山脈蜿蜒來つて海に泊リ、鵞ヶ崎をなしてゐる。この一角は巖脈重疊して、恰も鷲に似てゐるので此の名があり、此の崎の東北に森がある、これを鷲ヶ崎の明神森と呼んでゐる。現今敦賀灣築港工事に使用する岩石は、多く此の崎を砕破して用ひでゐるので、舊態は全く失はれて、往時の俤だになくなった。
産屋及び不浄屋 當區では初産は二十五日、次よりは二十日間、此の産屋に住居するのである。期間満了せば帰宅するが尚食事は一週間程産屋に於てなす。建物は間口三間奥行二間の瓦葺である。不淨屋は又別に建てられてある。
戸数制限 當區は往昔より戸数十二戸に制限してゐる。若し不得已事情により分家等の事あるも、區民としては一戸の取扱をしない。恰も本家を延長した一家同様と見做すので、自然増加がないわけである。
名所舊蹟地 鷙ヶ崎の突端の岩壁は數丈の高さに及び、天然に描ける大鷲の將に兩翼を羽撃して、天空に飛ばんとする姿態をなし、郷民は神代の靈物なりとて、鷲ヶ崎の神岩と稱へ、元緑年中狩野縫殿助永敬は船中よりこれを望見して、能筆と雖も此の書圖に及ぶべからずと感嘆したと、舊記にも見えてゐる。この近隣の蒼林を明神森と稱し、當社境内神社和志前神社の章で、概記した如く延喜式内社和志前神社の鎭座地であったと。

中世の手浦は、鎌倉期から見える浦名で、田浦とも見える。建暦2年(1212)9月日の気比宮政所作田所当米等注進状に「三箇浦 大縄間 沓浦 手浦」とあり、この3か浦で「年別御菜」を気比社に貢納していた。こうした3か浦の関係は戦国期まで続いた、永禄7年(1564)3月7日の某折紙によると、3か浦で負担する「諸公事・陣之詰夫・守護役」は当浦が上浦(縄間・沓両浦か)の半分とされていた。当浦の刀禰は鎌倉期以来秦氏が世襲していて刀禰山を与えられていたほか、たとえば正安3年(1301)6月3日には塩2升・木30束・執当御公事木しろの銭100文・御かうまつりの桶1・5月御公事たうさき布1反を気比宮に納めるだけで、ほかの諸公事を免除されていた。
戦国時代末、若狭湾一帯には度々海賊が横行し、「若狭守護代記」にも大永6年(1526)夏、丹後の海賊船が辺海を侵したとみえ、西浦沿岸も襲われ、享禄2年(1529)8月常宮神社の御神座を気比神宮に奉遷している。天文7年(1538)4月には再び当浦に海賊船が来襲し、浦刀禰は討死、3人の手負を出したが、軍功によって当年の郡役免除をうけたという。豊臣政権下での年貢は「塩手米」2俵で、1俵に付き塩7俵(6斗入り)とされていた。慶長国絵図にも手浦と見えて、高26石8斗7升6合。
近世の手浦は、江戸期~明治22年の浦名。はじめ福井藩領、寛永元年(1624)からは小浜藩領。西浦10か浦の1つ。享保12年(1727)の家数13(高持10 ・ 無高2・寺1)・人数83、塩竈屋4・塩高59俵余、舟9、本島手銀30匁・新島手銀100匁・新山手銀88匁余。「雲浜鑑」によれば、家数12(ほかに寺1)・人数80。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治7年の戸数13。江戸前期に3軒あった漁業専業者も生活困窮し江戸中期からはすべて農主漁従となったという。同22年松原村の大字となる。 現在の集落は高台にあるが、百数十年前までは海岸縁の田浜にあり、山崩れで集落が埋もれたため移動したと伝える。
近代の手は、明治22年~現在の大字名。はじめ松原村、昭和12年からは敦賀市の大字。明治24年の幅員は東西1町余・南北2町余、戸数14、人口は男49・女55、小舟18。


《手の人口・世帯数》 41・13


《手の主な社寺など》

鷲崎

和志前神社(式内社)
剣神社

『敦賀郡誌』
劒神社〔和志前神社〕  松原村手浦に鎭座す。無格社。秦文書康永二年〔興国四年〕の氣比宮政所の下交に、利劔宮と見ゆ、氣比大神の御子天利劔神を祀れるなるか。同文書永禄二年十月の作職安堵状には、利劔八幡とあり。式内和志前神社は、舊、鷲崎に鎭座す。鷲崎は手浦沓浦の堺にあり。絶壁数丈の面に貝殻生着して、鷲の形をなす、是を鷲崎の神巌といふ。社はこの邊に在りしなり。〔気比社記云、古老傳謂於二手浦前一、巌石上在レ森則神祠之舊蹟是也。敦賀志稿云、神巌の南に南北二丁〕石頂上在レ森則神祠之む蹟是也。殺戮志稿气御掻の別に南北二丁許の白濱有て金屋濱と云、其處に在しが一年山抜の爲に御社も流れ行しと西浦人に云傳ふ。(以上)金屋濱は、往古一大老杉ありしとの口碑あり。〕今劔神社境内に鷲崎神社・秋葉神社の二社あり。口碑に云、鷲崎神社は手浦民の氏神なりしを、劔神社を奉祀してより其境内に移し祀れるなりと。

『敦賀郡神社誌』
祭神 天利劔大神
由緒 案ずるに、當區は往時の延喜式社鷲崎明神を氏神と崇敬して居ったが、中古當時村長秦治郎左衞門といふが居住してより、其の祖先が武家であった故を以て、世代相傳の寳劒一口を御神體に奉祀し、劔大明神と奉稱したので、浦人も共に尊崇して、遂に區民一般の鎮守となりしとのことである。抑ゝ當社は南北朝時代の康永二年の文書によれば利劔宮とあり、桃山時代初期の永録年間の文書によれば、利劔八幡宮とあり。由緒正しく甚だ古き證左のある社である。明治九年七月無格社に列せられた。
祭日 例祭 舊四月八日 放生曾 舊八月十五日
百度詣 區民病気其他所願の時は其の家族又は親類等が、當社に百度詣りをする舊習がある。その區間は一ノ鳥居を起點として、二ノ鳥居の本殿までゝあるが、又は本殿の周圍を百度廻るものもある、數取には薄き木片、或ひは用瀬の清き小石を用ひてゐる。
境内神社 和志前神社 祭神 鷲崎大神
由緒
 按ずるに、當社は延喜式神名帳に越前國敦賀郡和志前神社とあるは即も當社にて、今は劒神社の境内社なるも、往昔は當區より南方七町許りを隔つた、海中に突出した岬の乾方の蒼林、即ち郷民の手ノ浦鷲崎の明神森、或は唯単に明神森とも云つてゐる神林に鎭座し給ひしを中古劒神社の域内に遷宮せしと云ふ。
社殿 方三尺 流造 平入 板葺


曹洞宗船幸寺

『敦賀郡誌』
船幸寺、曹洞宗、敦賀永嚴寺末、本尊阿彌陀如来、文緑元年、存察創立、弘化二年、元屋敷より現地に移る、明治八年七月、法地挌に昇等す。

秦家の古文書33点は市文化財
当浦の秦家には現敦賀市内最古の古文書、正安3年(1301)6月3日付の太神宮政所よりの御神領手浦刀禰職補任状がある。そのほか37点の中世文書を蔵し、刀禰職補任状や塩業・海賊に関する文書群33点は市指定文化財。秦氏は中世以来、気比社領の手浦刀禰を務め、江戸時代は治郎左衛門を名乗り、手浦の庄屋役を勤めた。

《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


手の主な歴史記録




手の伝説






手の小字一覧

手浦  塩浜 元屋敷 畠 寺元 水場 村中 見よ山 北横地 上田 河坂 山上谷 立花 古畑 ゴフコ田 南横地 桜ケ谷 松ケ谷奥 北鳴子 六良田 中堀 大良 堂田 下中田 上中田 赤坂道 南鳴子 高平 赤崎 北田 鹿麻谷 鷲ケ崎 田浜 シカマ谷山 厳谷 北田山 川坂山 西方岳 獅子山 ヲヂ山 見上山繁 村中林 寺之林 治郎?山 馬ケ谷 尻無山 本橋 奥山 梅ケ谷 五郎作山 大平 浜ノ上 畑田下 寺山 堂ケ崎 シヂノ山 元宮山 壁山 蛭子山 北畑 鈴ケ崎


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『敦賀郡誌』
『敦賀市史』各巻
その他たくさん



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