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丹波の

安国寺(あんこくじ)(地名)
京都府綾部市安国寺町


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京都府綾部市安国寺町

京都府何鹿郡東八田村安国寺


安国寺(地名)の概要




《安国寺の概要》

安国寺という所は、京都縦貫道の「綾部安国寺インター」を降りたところ一帯である。集落の東方山麓に丹波国安国寺があり、地名はこの寺名に由来する。
安国寺村は、江戸期~明治22年の村名。枝村に梅迫村・中村がある。中村は仁平2年(1152)の東光院文書にみえる「矢田郷東中村」にあたると思われ、今の中山町にあたる。安国寺村は中世は八田郷に属し、近世以降独立の村名となったものであろう。
「丹波負笈録」は「梅迫村・安国寺村・中村三ケ村ハ中八田庄と云、右二ケ村ハ安国寺の枝郷也、公儀ハ安国寺一本ノ所」と述べる。また同書は於与岐・上杉と安国寺を併せ八田の東谷または東股と云うとも述べる。
江戸初期は山家藩領、寛永5年(1628)から旗本梅迫谷氏知行地。安国寺の門前には商家が並んでいた。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同22年東八田村となる。
安国寺は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ東八田村、昭和25年からは綾部市の大字。同28年安国寺町となる。


《安国寺の人口・世帯数》 177・77


《主な社寺など》
宮ノ腰古墳群
石田神社の裏山をはじめ稲葉一円を、宮ノ腰古墳と称し八号墳まで数えられ、半壊のものが多い裏山を大高森、小高森といっている。御幡一流、安部丸一振、住吉丸一振、守護神鏡一面を埋蔵したと言う記録がある。  (『郷土誌 東八田』)

平山古墳
平山古墳(安国寺平山)
国道二七号線沿いで中山との境の東側の小高い山で、見張らしの良いところにあって東から西に向かって伸びる丘陵の先端部にある古墳最上部の壁晶は、約七八、五メートル直径約一八メートルの円形の円墳である。頂上部から〇、六メートル掘り下げたところに棺を埋葬した跡があり、長方形の穴をなし、中に長さ四、六メートル幅二、一メートルの、木棺の跡を発見し、その中に鉄器の遺物で直刀一、刀子三、鎌一、鏃五、馬具一、玉約一三〇個が出たこの発掘調査は昭和六十一年四月綾部市教育委員会が実施したもので、当地区民がこれに協力した。この古墳は六世紀前半頃この地域を支配していた豪族の墓であると言われる。
(『郷土誌 東八田』)


石田神社

安国寺インターがある同じ谷の北側、インターから当社が見える。
古い社殿が残されている。

石田神社のは拝殿↑、うしろにある本殿が古い。


西宮大神宮↓




石田神社
当社は清和天皇、六孫王経基、多田満仲を祭神としている。
石田神社本殿は三間社流造正面に軒唐破風千鳥破風をつける柿葺の建物である。
身舎の組物は非常に立体的で、中備、手挟、正面の扉などの装飾にも手がこんでいる。
建立は正徳三年(一七一三年)で、大工は梅迫村四方好兵衛政重、小兵衛、源兵衛父子で、十八世紀前半の神社建築の中では特に保存がよい。
境内社恵比寿神社は西宮大神宮とも称し、桁行三間、梁行二間切妻造の建物である。
建物の由緒は詳ではないが、木割が太く、蟇股の形状などからみて、当社の棟札にある延慶四年(一三一一年)造立の建物、即ち藤倉時代に建立された旧本殿であろうと考えられている。
後世において改造されてはいるが、京都府北部に残る最古の神社遺構であり、妻飾の虹梁大瓶束に禅宗様をとり入れており、全国的にみても、こうした様式が神社建築に取り入れられた早い例で、建築史上の価値は非常に高い。
指定文化財
重要文化財
石田神社境内社恵比寿神社本殿
府指定文化財
石田神社本殿
昭和六十三年十二月
    綾部の文化財を守る会


村社 石田神社
一祭神 清和天皇 六孫王経基 多田満仲
一創立 治承年中高倉院巡狩の際にして今を去る七百五十余年の前なり
一再建 延慶二年二月二十八日造営北条相模守平貞時執権時代去今六百二十五年前
一再再建 正徳三年公方源家宣公御若者征夷大将軍の御代今を去る二百二十年前
大正三年大正天皇御即位記念として拝殿幣殿の造営同年五月竣工去今二十年前
一由緒 後冷泉院御綸旨通日月雌御幡一旒安部丸住吉丸剣二刀守護神鏡面を当社境内大高森小高森の下に埋蔵して神祠を奉封す爾来梅迫安国寺中山三邑の氏神として奉仕す
元禄八年七月正一位宣命
明治六年村社に公定
大正五年三月十日神饌幣帛料を供進する神社に指定
 神社付近に正徳三年再々建に参尽力したる順西法師の墓あり 古来より祭典の日巫山祈願に用ひたる湯立水汲の池あり周囲木槹の古木五色の柿の古木等あり
昭和八年十月 社務所

石田神社
一 神社名 石田神社  所在地 安国寺町小字宮ノ腰拾八番地
一 祭神 清和天皇 六孫王経基 多田満仲
一 由緒 本社の由緒は丹波志と梅迫伝聞記による以外他によるべきものはないが、同書によると本社には延慶四年(一三一一)の棟札があると記録されている通り近年実物を調査した。又本社は吉美地区の高倉神社と関係あって同じ由緒によると記されているのでこれらの記録に基づき述べる。
古は正一位石田大明神と唱え祭札は旧九月六日である。安国寺村、梅迫村、中山村三村の産神で、三方を祭り舞堂は無いが、鳥居は二つあって一は石であった。三十間四方の石田大明神の森の上に、七間四方と五間四方の大高森塚小高森塚の二つの塚があり、吉美の高倉明神の由緒にも同じことが書いてある。石田神社の額は持明院中納言藤原基時卿の筆で本紙は高雄善兵衛が所持している。(現在は本社に保存す)大高森小高森の塚には古宝剣と旗等の品を埋める、以上を丹波志に書き残している。
一、造営記録
   創立  治承四年 高倉院以仁王            (一一八〇)
   建立  養和元年 巡狩りの際なり            (一一八一)
   造営  弘安七年                    (一二四八)
   再建  延慶二年                    (一三〇九)
    棟上 同 四年二月二十八日  大工 清原完行    (一三一一)
   再々建 正徳三年九月二十六日  大工梅迫 四方好兵得   (一七一三)
   拝殿改修 大正三年十月                  (一九一四)
二、造営由来
治承四年五月源頼政が以仁王を奉じて挙兵したが、平清盛は以仁王を逮捕しようとした。以仁王を護衛していた十二人の士は源顔政の荘園である丹波の吉美村にお供することにし六月二十六日平等院を出発、亀岡より檜山を越え、石田に出た。一方、頼政は平等院の門外で自刃したのであった。以仁王一行は石田にあった祠に令泉院の御綸旨を供え宝剣を裏山に納め、社建設と定めたとある。
二 造営記録の古書
大高森、小高森に埋蔵されている宝物の様子を記録した書は左記の二種がある。其の後の様子は高雄善兵衛が書いた伝聞記と棟札によって、大略を知ることが出来る。
    抑当家古者
清和流八幡太郎義家三男義光嫡子新団大槻衛門守義久永暦元辰年(一一六〇)
去河内住後被隔平清盛熊野別当弁真被為誘引十津河郷忍其後銘々当国
来神原瀬戸氏指塞所一戦伐随当所住居則先祖相伝宝物
 一後冷泉院御綸旨  一通
 一日月雌雄御幡   一過
 一安部丸住吉丸   二振
 一守護神鏡
則 石田於明神之森上大高森小高森有之森下奉封者也 氏八幡奉号本躰
清和天皇 六孫王経基 多田満仲 三形也以是敬君為義元為憐録者清和
道也 丹波国何鹿郡石垂跡以来考年紀既為極位之神神宣之啓状如件
   元禄八年(一八九五)四月千六日 神部拝 印
右を解読してみると、そもそも当家にあるは清和の流れにして、八幡太郎義家が三男義光の嫡子、新田大槻衛門義久は永暦元年(一一六〇)辰の年河内を去り、後に任ぜられ平清盛熊野別当弁真と隔せられ、十津川の郷に誘引せられ忍ぶ、その五銘々当所を窺って住居す。則ち先祖相伝の宝物(四種類)則ち石田の谷高森に封じ奉る氏八幡と号し奉りし、本躰は清和天皇六孫王経基 多田満仲の三形なり。これを以って君為義を敬す元より録を憐む者は清和の道なり。すべからく禁庭に有って、参勤する者は先例によること随一なり。
三 石田神社 棟札
本社の御造営の記録に棟札を加えれば、再建の様子が明らかとなるが、近年の調査で本殿と西宮えびす社が同じ本殿であったこと。尚西宮社は鎌倉時代に建造されたものであり、現在の本殿は江戸時代に建造され、損傷が少なく、京都府下でも稀に見る貴重な建造物であることが明らかとなったので、今回国の重要文化財に指定されたのである。
  一、棟札は創立後一二〇年後再建になった延慶四年(一三一一)の棟札(現西宮社の建物)
  二、それから四〇二年後の再々建になった正徳三年(一七一三)の棟札(現本殿の建物)
の二種が裏表に由来を書いたもので左記の札である。
四 要約
(1)石田神社本殿
三間社流造、こけら葺きで、千鳥破風軒唐破風をそなえ、妻壁を組物を用いて一手前方に持ち出した、典型的な近世中期の構えを見せる神社本殿建築である。棟札によって、正徳三年(一七一三)に建立されたことが知られる。大工は地元の梅迫村の四方好兵衛政重とその息子二人である。身舎正面の菱格子戸など神経の行き届いたもので、全体としてなかなか優れた作である。一八世紀前半期には、八田上下村において一番早く建てられ、中でも出来もよく、建築後数年足らずで覆屋が建ったため、保存もよく、屋根廻りに至るまで当初のままでのこっている。
(2)石田神社境内西宮本殿
本殿東南方にある。切妻造、銅板葺で正面三間、側面二間の規模をもつ。この平面規模は本殿の身舎規模と一致するので、正徳再建築以前の旧本殿であったものと考えられる。屋根は一新しているが、柱、腰・内法長押、三斗組物、蛙股、妻虹梁大瓶束、内陣正面弊軸構えなどに古材を遺す。痕跡等にもとずいて復原すると、当初は流造で身舎の正面三方にはくれ緑が付き妻の大瓶束が素朴な形をしていることなども、鎌倉~南北朝ころの様式手法と見られる。本殿内に延慶四年(一三一一)石田宮造営を記した陳札が有り、大工は清原憲行である。神社本殿に虹梁大瓶束を用いた例として全国でも最古の遺構である。柱が異常に太く、特異な存在であり、必ずしも保存程度は良くないものの、学術上貴重な遺構というべきものである、と調査員関西大学教授永井規男は報告している。
五 社僧と記録
平安時代は神仏混交の風が盛んであった。江戸時代に至って、神社の本体は殆ど仏像となったといわれている。元禄八年と宝永四年の御造営の当時の社僧は順斉の代であった。この時の安国寺の住職は第六世桂巌和尚であった。正徳三年の棟札は桂巌和尚の筆である。正徳三年九月の御遷宮の御導師は丹後円隆寺艮弁和尚である。
社僧順斉法師は享保十三年五月十日(一七二八)死去し、森の東側作道場に石碑がある。

(『郷土誌 東八田』)

正一位石田大明神   梅迫村 安国寺石田ト云所ニ三ケ立合ナリ
祭ル神 清和天皇  祭礼 九月六日
安国寺柑 梅迫村 中村三ケノ産神ト云
社二間四方三社作 奉唱氏八幡ト 清和天皇 六孫王経基 多田満仲三形ナリ[  ]トモ氏八幡ト云者無シ
舞堂 篭家 一二ノ鳥居 一ハ石ナリ 森三十間四方石田明神森ノ上ニ大森小森ト云 七間四方ト五間四方斗カキ上塚アリ 此塚ニ謂レ有 吉美ノ高倉明神ノ由緒ニモ書 依之同由緒ト云 石田明神額ハ持明院前中納言藤原基時卿筆ナリ 本紙梅迫村高雄善兵衛所持ス
按ニ石田明神ノ由緒ハ高倉ノ宮ト同事ト云 高倉ノ宮ハ大和ノ辺ニテ矢ニ当リ崩御成事古書ニアリト云 其家臣丹波エ落シ[  ]リヤ不分明ト云 又同郡幾見ノ高倉明神ハ伊豆国高倉ノ段ヨリ落玉ヒテ幾見ノ里村ニ崩御 是ハ御廟ノ社迄古跡アリ 由緒同事ト云ハ清和ヲ祭ル神ニテ大森小森ノ謂有ヲ以テ云成ベシ 里村ニモ是事アリ 然レバ同神ヲ故有テ祭ル成へシ 書物ハ無シト云 大森小森ノ塚ハ古宝剣并旗等ノ品ヲ埋ムト云
(『丹波志』)

五〇〇年前に立てられた神様の家
福知山市と綾部市にある神社の内、各々一社づつ中世に建てられた建物が国の重要文化財に指定されている。福知山市のものは畑中に所在する「島田神社本殿」、綾部市のものは安国寺町所在の石田神社境内にある「恵比須神社本殿」である。
どちらも「本殿」であることが注目される。普通、小さい神社は本殿だけだが、少し大きなものになると「拝殿」「幣殿」「本殿」などがセットとなっている。一般的に、本殿は神社の一番奥に建っており、祭神が祀られているため最も重要な建物とされ、また建物を建てる際も、念入りに手を加えるため立派な建物である。したがって、重要文化財に指定されるのは本殿が多い。
この地方の本殿の多くは「流造」である。流造とは切妻造平入りで、前流れの屋根が曲線的に長く伸びて、後流れより長く向拝に続くものである。また、雪の多いところでは本殿が「覆屋」で覆われているため、全体の姿が見えにくいが、この建物にも注意を払って見てほしいものである。
島田神社は中世の「豊富荘」(北山・畑中・樽水〈甘栗〉・談〈法用〉・小牧〈下戸〉)の総社であったが、現在は畑中地区のみが管理している。構造形式は、「三間社流造」で正面に軒唐破風がある。使用されている柱はケヤキで、見えやすい所は丸柱とし、身舎裏側二本は角柱としている。身舎外周は横板張りで、軒は二軒繁垂木である。縁は以前には三面あったと思われるが、今は正面のみとなっている。妻飾は古い形式の豕叉首となっている。墓股や欄間の彫物などの手法や、内陣内法貫の「文亀年(一五〇二)」銘の墨書、御神体が鎮座する宮殿背板の「永正三年(一五〇六)」銘の墨書から、一六世紀初頭の建立であることは明瞭であり、京都府北部では数少ない室町時代の建造物である。
恵比須神社がある石田神社の本殿も豪華で立派な建物であり、府指定の文化財である。この本殿の右手に恵比須神社の本殿がある。恵比須神社は別名「西宮大神宮」と呼ばれているが、福の神として有名な西宮市(兵庫県)の戎宮総本社西宮神社を勧請したものと思われる。構造形式的には、桁行三間・梁間二間の切妻造となっている。桁行から見て、元は三間社の流造であったのだろうが、現在は庇部分がない。一見してどっしりとしているのは木割が太いところからで、特に丸柱にその感が強い。縁は現在正面だけとなっているが、かつては三面ともあったと思われる。透かし彫りの墓股もやや縦長であるが立派であり、妻飾は虹梁大瓶束とし禅宗様を採り入れている。後世の改造が若干多いが、重要な部分は当初の姿をよく残しており、鎌倉時代後期の建物として、また禅宗様を採り入れた神社建築として興味をもたれている。(塩見昭吾)  (『福知山・綾部の歴史』)

安国寺・梅迫・中山の産土神。以仁王とかはともかくも、境内の西宮社の祭神がこそが、当社本来の祭神と思われる。エビスさんだから、海人の開発になる村々か。
社殿の後背に古墳群(宮ノ腰古墳群)があり、この古墳は高倉宮以仁王伝説を伝えるが時代は合わない。当社とこの古墳はあるいは関係があるかも知れない。


臨済宗東福寺派景徳山安国寺



安国寺と言えばモミジで有名で、「安国寺もみじ祭り」が開かれている。しかし桜もいい(あまりないが)、特に仏殿前の枝垂桜がよく、元々は桜の名所として知られていた。



名所 安国寺の老桜。本堂前にあり。世人枝垂桜といひ、開花の頃は観客多し、樹齢古きと京都府下屈指のものたり。近年樹勢衰え、開花せざることたまたまあり、現今幹の周囲四米突半あり。
(『何鹿郡誌』)
今ある桜は、その二代目だろうか。






アニメの「一休さん」で、一休さんが修業したお寺・安国寺のモデルとされたという(実際は山城国安国寺だが、応仁の乱で焼失して記録がないため、当寺がモデルとされたとか)。仏殿は山門を入って突き当たりにある。

安国寺や利生塔は、当地だけでなく、全国に一国一寺が建てられたもので、今もかなりが残っている。
足利尊氏・直義兄弟は、夢窓疎石の勧めにより、元弘以来の戦死者の霊をとむらい平和を祈願するために、1338年(延元3・暦応1)ころから貞和年間(1345‐50)の約10年ほどの間に、全国66ヵ国2島に1寺1塔を設け、各塔婆には朝廷から賜った仏舎利2粒を納めた。ついで1345年(興国6・貞和1)2月6日の光厳上皇の院宣によって、安国寺・利生(りしょう)塔と名付けられたという。
新しく建設したというよりも、大抵は従来からあった禅寺や仏塔をそれとして指定したということが多いようである。有名な「八坂の塔」(法観寺の五重塔)も以前からあったものであるが、山城国利生塔に当てている。丹波の利生塔は福知山の長安寺にあったという。
当寺はそうした全国の安国寺の筆頭として室町幕府の保護を受け、開基である尊氏の遺骨が延文3年6月21日に分骨し納められ、貞治4年には妻登子の遺骨も義詮によって奉納されるなど足利氏の帰依が深い。







宝篋印塔  三基
この宝篋印塔は南北朝時代のもので、墓碑として建てられた供養の塔であります。向かって左が尊氏の母清子、中央が足利尊氏、右が尊氏の妻登子の墓と伝えられています。母清子は康永元年(一三四二)十二月二十三日永眠していますが享年は不明です。尊氏は、延文三年(一三五八)四月三十日に五十四歳で、妻の登子は貞治四年(一三六五)五日四日に六十歳で没しています。
安国寺文書によると、尊氏と登子の遺骨はそれぞれ没後二か用後に二代将軍義詮によって安国寺に奉納されたことが記されています。
文書には、遺骨の一分を「先年帰依の由緒について当寺に奉納せしむる所也」 「往年の由緒につき当寺へ奉納の所也」といずれも光福寺(安国寺)長老に宛てており、足利氏と安国寺のつながりの深さを示しています。
 昭和四十五年三月二十日、綾部市指定文化財に指定されました。  綾部市教育委員会




景徳山安国寺 臨済宗東福寺派
安国寺は、正暦四年(九九三)ごろ地蔵菩薩を本尊として閑創されたと伝えられ、もとは光福寺と称した。
建長四年(一二五二)勧修寺重房が上杉荘を賜り、これより「上杉」を姓とするようになった。その後、光福寺は上杉氏の菩提寺となり、釈迦三尊を合わせ祀った。
嘉元三年(一三〇五)足利尊氏の誕生によって当寺は上杉氏・足利氏の尊崇を受けるようになった。
暦応元年(一三三八)足利尊氏は、夢窓疎石の勧めによって、元弘の戦乱以降に亡くなっだ多くの戦没者の霊を慰めるため、国ごとに安国寺・利生塔を建立するにあたり、光福寺を丹波の安国寺とし、諸国安国寺の筆頭においた。
康永元年(一三四二)尊氏は、南禅寺に住した天庵妙受禅師を招請して安国寺の始祖とし、多くの寺領を寄進した。それ以降、塔頭十六、支院二十八を有する大寺院であったが、江戸中期に至るまでの間に、大半の寺領は押領されて塔頭・支院は減少したが、今なお多くの重要文化財、府・市指定文化財、重宝等を蔵する名刹である。
指定文化財
書事文化財  木造地蔵菩薩半迦像     一躯
       木造釈迦三尊座像      三躯
       絹本墨書天庵和尚入寺山門疎 一巻
       安国寺文書       五巻三幅
府指定文化財 絹本着色天庵妙受像     三幅
       仏殿・方丈・庫裏     各一棟
府登録丈化財 山門・鐘楼        各一棟
市指定文化財 宝篋印塔          三基
  綾部の文化財を守る会・安国寺

安国寺ははじめ光福寺と称する真言宗の古刹であったと推定されるが、南北朝期に入り丹波国安国寺に指定され、臨済宗寺院に改宗した。光福寺の初見は、建武元年12月27日付の上杉朝定書状で八田郷内能登房跡を朝定が寄進しているが、上杉氏は当地上杉荘を建長4年に所領としており、領内にあった光福寺の氏寺化を推測される。
足利尊氏の母上杉清子は、尊氏出産にあたり、光福寺山門の下に別邸を設け、同寺の地蔵菩薩に安産祈願をしたという。別邸旧跡は大正初年に廃寺となった塔頭常光寺(現安国寺町公民館)であり、尊氏産湯の井戸は旧跡などの伝承として残す。歴史的事実かははっきりしないが、一般には本当に当地ではなかろうかと推定されている。

参道の石段下にある。写真の右手奥に写っている白い建物が公民館で、ここに清子の別邸があったという。

産湯の井戸
この地域はもと上杉荘とよばれ建長四年(一二五二)から上杉氏の所領となり、荘内に居館を構えていました。
上杉頼重の娘清子は足利貞氏に嫁ぎ、出産のため故郷の丹波に帰り安国寺の門前の別邸に住んで、当寺の地蔵菩薩に安産を祈願し、嘉元三年(一三〇五)に尊氏を生んだと伝えています。この井戸は、その産湯として使用されたという言い伝えが残っています。
この別邸は、のちに安国寺へ寄進され常光寺という門外塔頭となっていましたが、大正初年廃寺となり現在は地元の公会堂になっています。  綾部市教育委員会

足利尊氏公誕生之地の碑がある。

光福寺が安国寺と改名された年次は明確でないが、史料では貞和2年12月28日付の足利尊氏寄進状に「寄進 同州安国寺本号光福寺同国春日部庄内中山村事」とあるのが初見。
寺領は上記3件のほかに、建武3年2月上杉朝定が八田郷上村内貞行名を、同年10月沙弥顕性が西股理正条田9反、同5年源資半が高槻保内守清主膳、暦応2年10月上杉清子が三河国額田郷日名屋敷、暦応4年4月上杉朝定が越後国鵜河荘内安田条上方、康永元年12月には上杉清子の寄進依頼を受けて甥の上杉朝定が、丹波国夜久郷今名村をそれぞれ寄進しており、都合9件の寺領寄進を受け、寺勢は興隆していた。
寺格も応安4年12月27日には諸山、応永21年11月18日には十刹に列して、五山派として発展した。しかし、室町中期以後は幕府の衰退とともに寺勢も衰え、16世紀には夜久郷・春日部荘・八田郷上村のみが寺領として残った。近世に入ると山家藩主谷衛忠の六男が分知入部し、同氏から寺領10石余の安堵を得たにすぎない。享保20年山津波にあって諸堂宇は流失した。再建は谷氏の援助によって旧観に復され現在に至る。
本堂・庫裡・開山堂(正コウ庵)・山門・鐘楼・観音堂など諸堂完備の寺観を呈している。寺宝には絹本墨書天菴抄受入寺山門疏(国重文)・木造地蔵菩薩半跏像(国重文)・釈迦三尊坐像・天菴妙受頂相、足利家寺領安堵状など古文書(安国寺文書)を所蔵する。

安国寺 東八田村字安国寺にあり、景徳山と号す。臨済宗東福寺派の名刹なり。本尊釈迦如来、今安国寺、中山の両区之が檀徒たり。所蔵文書中なる広智国師筆開山入寺山門疏一巻は明治十年国宝となり、大正六年四月五日地蔵菩薩の木像一体亦国宝となる。当寺は始め光福寺と称し、創建不明なれど、鎌倉時代に至りては上杉氏の氏寺として栄え、足利氏政権を握るの及びては非常の崇敬を受け、改名して安国光福寺となれり。戦国時代には大槻氏と関係を有し、徳川時代には梅迫領主谷氏の保護をうけて、今日に及べり。明治の頃までは末寺十五を有したり。山家なる南泉山照福寺、十倉なる高貴如是寺、白道路なる東谷山極楽寺等はこの末寺たりしなり。当寺古文書多し。文学博士辻善之助、田中義成、文学士中村直勝氏等によりて発表せられ、足利時代史に有力なる地位を占む。  (『何鹿郡誌』)

「逆臣・足利尊氏」論
日本史の区切りとして「吉野時代」というのが、70年ほど前まではガッコーでも教えられていた。今の南北朝時代のことである。
朝廷が南北に分かれて2つあり、元号も2つあっり、どちらが正統なものかが問題となり、戦前は南朝が正統で楠木正成はイイ人、北朝の足利尊氏はワルイ人であった。
南朝は大和の吉野に朝廷を置いたので吉野朝とも呼ばれ、時代も吉野時代と呼んだ。
しかし明治天皇もその裔もその裔も、ず~と今の天皇さんに繋がる一統はみな北朝の裔であり、尊氏なければ、今の天皇家はなかったかと思われ、今の天皇家としてみけば彼は忘れてはならない大恩人であり、超イイ人である(こうしたことは当時の国民には特定機密情報で秘密であり、知らされてはいない)。どうもおかしいリクツに合わないハナシだが、それでも尊氏はワルモノと教えられてきた。
さすがに「とりもどそう日本」「教育勅語を幼児から」に8億円もまけてやるスンバラシイの皇国史観国らしいメタクタなヤシくさいことがまかり通る国のスンバラシイ過去のようである。これらの超保守系論者どもはワシは天皇よりもずって頭がよくて、何でもよく知っていて、今の天皇よりもずーーと格が上だと思い上がっているとしか考えようもない。天皇さんよ、言ってやれ、「それならワシは逆君か、帝国は逆皇国か、ワルモノか、国賊か」とでも。
何でもない皇国とは名ばかりの、腐ったクソの自分至上史観でしかない破綻史観ように思われる。
その時代はこの地はカタミが狭かったのではなかろうか。尊氏など言えばヒコクミンであったと思われ、江戸時代の『丹波志』には見られるが、『何鹿郡誌』には開基の足利尊氏のタの字もない。



《交通》
横峠
丹後田辺(舞鶴市)から京都への京街道は当地の南で東方の山中に入り、横(よこ)峠(横尾峠)を越えて山家村の山入(やまゆり)に出た。このあたりでは山家街道と呼んでいた。だいたい今の京都縦貫道に近いルートであるが、確かにこの道は京都方面に行くには近道になる。

上の道は「京都縦貫道」、下の道は国道27号、銅像は平成15年に建立された「足利尊氏公之像」。その手前(南側)が十字路になっていて、右側(東側)へ行けば横峠である。車は通行できないと思われる。左側へ行けば安国寺方面になる。


《産業》


《姓氏》


安国寺の主な歴史記録


足利氏と安国寺
上杉氏と光福寺
 前に述べたように上杉荘は建長四年(一二五二)より上杉氏の所領となり、上杉氏はここに居館を構えていた。上杉氏が光福寺(のちの安国寺)といつごろから関係をもつようになったかは明らかでないが、南北朝時代より前から氏寺であったものと思われる。安国寺と上杉氏・足利氏との関係は「安国寺文書」によって知るほかはないが、その中で最も古いものは建武元年(一三三四)上杉朝定の書状である。
   其後久不啓案内候 不定心之極候 抑八田郷内能登房跡事 当寺寄進
   申候年内不幾候 併期明春候 恐惶謹言
     建武元年十二月廿七日
                 朝定(花押)
   光福寺方丈侍者御中
 八田郷内能登房跡を光福寺に寄進するという趣旨であるが、「その後久しく案内を啓せず候」など親しい間がらであったことが文面から読みとれる。朝定は上杉氏の始祖重房の曽孫で上杉氏の嫡流であり、叔母清子は足利貞氏に嫁して尊氏・直義の兄弟を生んでいる。
 伝承によれば尊氏が生まれるとき、母清子は故郷丹波に帰り光福寺の山門下にあった別邸に住んで、光福寺の地蔵菩薩(現重要文化財)に安産を祈願し尊氏を生んだといわれる。その別邸はのちに安国寺に寄進され、常光寺という境外塔頭となっていたが、大正初年に廃寺となり、今は地元の公会堂となっている。その隣に尊氏生湯の井戸と称するものが現存している。
『蔭涼軒日録』長禄二年(一四五八)十月二十四日の条に、「丹波安国寺内二等持院殿(足利尊氏)御髻 御袈裟座具ヲ安置シ奉ルノ事之ヲ披露御目ニ懸奉リ先規ヲ以テ御封ヲ付ラル也」
 とあり、安国寺に安置している尊氏の遺品を、将軍義政に披露したことが記されている。これらの遺品はいまも安国寺に保存されている。

上杉清子 清子は亡くなる四か月まえ、甥の上杉弾正少弼朝定にあて、光福寺へ寺領寄進の消息文をつたえている。清子はその中で、夜久郷の内で光福寺へ寄進したいと思うから寄進地を知らせてほしい。殿(尊氏)へも相談したいからとし、
 (前略)「まつその程も知りかたき身にてさふらふはとに串をき候 むまれそたちたる所にて候程にうち寺にもしたく候 御心え候へとて申をきさふらふ」
    かうゑい元年(一三四二) 八月十三日  花押(清子)
    うゑすぎのせう(少弼)日ちとのへ
と書いている。清子は康永元年十二月二十三日永眠しているから、これが最後の願いであったのであろう。「生れ育ちたる所にて候程に氏寺にしたく候」という文言は大切である。朝定は清子の希望の通り、清子の死んだ日に夜久郷の地頭に、今西村を光福寺に寄進するよう指示している。
   自二大方殿一被二仰下一丹波国夜久郷之内今西村事可レ被レ打二渡光福
   寺雑掌一之状如レ件
     康永元年十二月二十三日   朝定(花押)
   備後八郎(源行朝)殿
右の指示にもとづいて地頭源行朝は、
   自二上杉殿一任下被二仰下一候之旨上夜久郷之内今西村為二大御所(尊氏)御寄
   進一所渡二進於光福寺座主一之状如件
    康永二年一二月十一日     源 行朝(備後八郎)(花押)
    進上光福寺座主禅師
と光福寺に寄進を報じている。今西村が尊氏の寄進として施入されたことは、母清子の望郷の情によるものであろう。
 この後光福寺は安国寺となり、足利氏の氏寺になっていった。延文三年(一三五八)六月廿九日には尊氏の遺骨一分と袈裟・座具を、貞治四年(一三六五)七月十六日には尊氏の妻登子の遺骨一分を、「先年帰依の由緒に就いて当寺に奉納せしむる所也」として二代将軍義詮が奉納している。いま安国寺の境内には尊氏・清子・登子の墓である宝篋印塔三基が並んで、足利氏とのゆかりを伝えている。

尊氏の地蔵信仰と国富荘の寄進
 尊氏は母清子が安国寺の地蔵菩薩に祈って生まれたという縁があってか、地蔵尊を深く信仰していた。自ら地蔵尊像を描いて部将や寺院に与え、また元弘以来の死者の霊を慰めるために十万体の地蔵像を作ったといわれ、現に数多く残っている。足利義満が建てた鹿苑院(金閣寺)の本尊は尊氏の持仏の地蔵菩薩である(蔭涼軒日録)ことなどからみても、尊氏は生涯を通じて地蔵信仰にあつかったものと思われる。夢窓疎石が尊氏を評して、「合戦に命を捨てねばならないようなことがたびたびあったが、笑を含んで畏怖の心がない。」とか、「慈悲は天性であって人を悪むことがない。多くの敵を宥すること子のようである。」「心が広大であって物惜しみ気なし。」などといっているが、こうした性格は天性もあったであろうが、また地蔵信仰と無縁ではなかったと思われる。
 尊氏は建武二年(一三三五)に、国富荘石崎郷の地頭職を光福寺に寄進している。
    寄附 丹波国八田郷 光福寺
    日向国国富荘石崎郷地頭職事
    右為祈四海之静謐一家之長久将亦
    為救相模入道高時 法名崇鑑 并同時所所
    滅亡輩之怨霊所寄附如件
      建武弐年三月一日   参議(足利尊氏)(花押)
  光福寺長老
 この国富荘は元弘三年(一三三三)六月、北条氏討伐に功をたてた朝臣・武将たちに論功行賞が行われたとき、尊氏が与えられた武蔵国以下三か国の分国(知行国)と数か国の守護、多くの荘園所職のうちの一つであり、また丹波の六人部荘などとともに平頼盛家の所領で平家没官領からはずして、領家職を安堵されたところであった。これらはみな本所が八条院になっているから、もともと皇室領であったが、鎌倉末期には北条家に帰し、「比志島文書」には、国富荘は北条泰家(高時の弟)の所領の跡としている。国富荘は日向国宮崎・那珂・児湯の三郡にわたり、石崎郷はその中の一郷であって、現在は宮崎郡佐土原町になっている。
 寄進状は、光福寺へ石崎郷の地頭職を寄進したものであるが、この後暦応三年(一三四〇)、天竜寺へも国富荘内の田島郷を寄進している。こうして尊氏が後醍醐天皇から賜わった由緒ある荘園を光福寺に寄進したことは、「四海の静謐一家の長久」を祈るとともに、相模入道高時や、その他将士の怨霊の冥福を祈るためとしている。このことは当時の怨霊思想をあらわすとともに、後醍醐天皇の冥福を祈って天竜寺を創建し、諸国に安国寺・利生塔を建立する源流をしめすものとして注目されるところである。

安国寺の成立 足利尊氏は宿願の征夷大将軍となって幕府を開くと、暦応元年(一三三八)夢窓疎石のすすめにより、後醍醐天皇をはじめ、元弘以来の戦死者の霊を慰め国家の安泰を祈願するため、国ごとに安国寺・利生塔を建てさせたが、丹波の安国寺には尊氏・直義の母方上杉氏の帰依する光福寺をあて、諸国安国寺の筆頭においた。光福寺から安国寺に改称された年代はあきらかでないが、「安国寺文書」によると、貞和二年(一三四六)の尊氏寄進状に、「丹州安国寺 本号光福寺」となっているのが初見で、貞和四年の足利義詮の下知状では「光福寺長老」となっている。しかし貞和五年以後はすべてあて名に安国寺名を使用しているから、貞和初期より安国寺と称したことがわかる。
 丹波の安国寺は応安四年(一三七一)諸山に列し、応永二十一年(一四一四) には、等持院・大徳寺などとともに京都十刹の寺格を与えられ、丹波・越後・日向などに荘園を持ち、寺領三千石・塔頭一六・支院二八を有する地方きっての大寺となった。


安国寺始祖天菴妙受 尊氏は康永元年(一三四二) 十二月、南禅寺の天竜妙受を招いて安国寺の開山始祖とした。妙受は高峯顕日の弟子で、天竜寺の夢窓疎石と同門である。元朝の代、天竜山の虚堂禅師に学び、帰朝後関東万寿寺に住し、ついで真如寺(京十刹)・浄智寺(鎌倉五山)・南禅寺(五山上位)に歴住した高僧である。この妙受を丹波に請じたことは、尊氏がいかに丹波の安国寺を重視していたかが想像できるところである。
 妙受が安国寺に入ったとき、同門の乾峰士曇が書いた祝辞が残されている。「天竜和尚入寺山門疏」とよばれる堂々とした書で、重要文化財に指定されている。妙受は安国寺に住すること三年、貞和元年(一三四五)十月二十一日、七十九歳をもって遷化したが、その直前病床に座してつぎの遺偈を残したという。いま遺偈の一軸が安国寺に秘蔵されており、その文言墨蹟には禅僧の面目躍如たるものがある。
   幻生幻滅
   寂滅現前
   千江有水千江月
   万里無雲万里天
    康永四年(貞和元年)十月廿一日
    珍重首座大衆妙受 (花押)
妙受は死後、朝廷より仏性禅師の称号を賜わり、安国寺の正?庵、真如寺の宝光院および浄智寺の正覚菴にそれぞれ分骨してまつられている。

安国寺の寺領 上杉氏・足利氏の氏寺となった安国光福寺は、南北朝のころより上杉氏・足利氏によってたびたび寺領の寄進を受けており、「安国寺文書」によれば左の通りである。
 年 月 日      寄進者   所領地・所職
 建武元・十二・廿七  上杉朝定  八田郷内能登房跡
 建武二・三・一    足利尊氏  日向国国富荘石崎郷地頭職
 建武三・二・九    上杉朝定  八田郷上村内貞行名
 建武三・十・一    沙弥顕性  西股理正番田 九反
 建武五・四・四    源資平   高槻保内守清名主職
 暦応二・十・十五   上杉清子  三河国額田郡日名屋敷
 暦応四・四・十三   上杉朝定  越後国鵜河庄内安田条上方
 康永元・十二・廿三  上杉朝定  丹波国夜久郷今西村
  同年八月十三日   上杉清子の寄進依頼書状あり
 貞和二・十二・廿八  足利尊氏  丹波国春日部荘内中山村
右の表で見る通り、建武元年以来貞和二年に至るまでに九回の所領寄進があり、寄進したのは上杉朝定と足利尊氏がほとんどである。前に述べた夜久郷今西村は、上杉朝定の命により尊氏の寄進として光福寺に寄せたものである。この建武元年より貞和二年までの一三年間は、建武の新政が失敗に終わり、南北朝の戦乱の最もはげしく戦われた時代であり、尊氏も敗れて九州へ逃れたり、また勢力をもりかえして京都に入り、建武五年には北朝より征夷大将軍に任じられるなど、勢力の交代がはげしくくりかえされた時代である。その間に安国寺へ所領の寄進が相ついで行われたことは、国富荘におけるように怨霊を鎮めるためということもあるが、直接には足利一族の武運長久を祈ったものであり、さらには丹波のこの地域に、足利氏の勢力を植えつけるねらいもあったのであろう。

寺領の変遷 これら寄進された寺領のその後の変遷について、「安国寺文書」より述べてみよう。寺領のうち三河国日名屋敷は上杉清子の寄進によるが、その後文書に一度もあらわれてこない。また日向国国富庄は尊氏の寄進による重要な荘園であるが、その後観応三年(一三五二)に義詮の下知状があり、在地武士の押妨の停止を命じているだけで、その後はあらわれてこない。越後国鵜河圧は上杉朝定の寄進であり、永和元年(一三七五)に足利義満が再び寄進を確認しているが、在地武士の押妨がつづき、たびたび幕府は御教書を出してその停止を命じている。康応元年(一三八九)管領斯波義将より、越後守護上杉氏朝へあてた毛利宮内小輔以下の輩の濫妨停止の御教書があって、そのあとに文書はない。これらからみて遠隔地の所領は、幕府の威令が行われない政情のもとでは領主権は侵されやすく、しだいに在地の武士に押領せられ、安国寺の支配から離れていったものと思われる。
 安国寺の所領として長く保ちつづけられたものは、夜久郷今西村・春日部庄中山村・八田郷上村貞行名の三か所であった。「安国寺文書」によるとこの三寺領については、
 至徳四年  (一三八七) 六月二十九日  将軍足利義満
 応永二十九年(一四二二) 五月十四日   〃 足利義持
 永享元年  (一四二九) 十一月十九日  〃 足利義教
 長禄二年  (一四五八) 十月二十五日  〃 足利義政
 永正五年  (一五〇八) 九月十五日   〃 足利義稙
右のように将軍御教書が出され、「貞和以来(尊氏の春日部庄中山村の寄進)度々の御判(御教書)に任せ寺家領掌相違あるべからず」と所領が安堵されている。これらからみて、一六世紀のはじめのころまでは、この三か所が安国寺の所領として支配されていたものと思われる。
 そうした中でも夜久郷今西村においては、荻野出羽入道常義が半済押領をするので、それを止めよという御教書がたびたび出されており、春日部庄中山村では、赤松筑前入道世貞の濫妨停止だとか、赤松伊豆入道の半済押妨を止めよとかの御教書が出されている。これら寺領に対する在地武士の押妨は、荘園として安国寺の支配が安定していなかったことをしめすとともに、在地にあってしだいに勢力を伸ばし、荘園を侵して領地を広めようとする土豪、のちに国人と称されて戦国期に活躍する武士たちの成長のすがたをしめすものである。半済というのは、荘園の年貢を武士に半分与えることである。在地の武士がそれを称して勝手に半分をとるので、荘園領主の大きな損失となったものである。
 八田郷内の安国寺領については、前に記した通り能登房跡 理正番田の九反 高槻保内守清名主職と貞行名があるが、貞行名のほかはその後の状況は明らかでない。ただ永和三年(一三七七)の室町幕府奉行人の奉書があり、貞行名以下寺領について、「給主の綺(干渉)を停止されるべき」旨が記されているところをみると、もとの持ち主がしだいに実質的な領主権をとりもどしたのではなかろうか。  (『綾部市史』)

足利尊氏の心のふるさと
●安国寺の歴史
 景徳山安国寺は、綾部市安国寺町に所在し、臨済宗東福寺派に属する。同寺の由緒や文書・文化財は、足利氏や上杉氏との関係を通して、鎌倉から室町時代の丹波を語る貴重な資料である。
 建長四年(一二五二)藤原氏である勧修寺重房が、鎌倉幕府に迎えられた皇子将軍宗尊親王に従って関東に下り、丹波の上杉荘(八田郷)を領有して鎌倉御家下人となった。これが上杉氏のはじまりであり、この八田郷を本貫地として「漢部」も領有した。また、八田郷には光福寺(安国寺の元の名)があり、上杉氏はこの寺を氏寺とした。上杉氏は上総国(千葉県)の守護であった足利氏との関係が深く、室町時代には関東管領となり、関東から越後(新潟県)にかけて活躍した。足利尊氏の母・上杉清子も足利貞氏に嫁いで、尊氏・直義の兄弟を産んだ。尊氏は、清子が光福寺の地蔵菩薩に祈願して産まれたと伝わり、その生誕地は後に安国寺へ寄進された境外塔頭常光寺であるといわれる。
 南北朝の争乱の中で征夷大将軍となった尊氏は京都に幕府をおくが、暦応元年(一三三八)夢窓疎石の勧めで、国ごとに「安国寺」と「利生塔」(戦没者の慰霊と平和を願う塔)をおくこととした。そして、光福寺を丹波の安国寺とし、諸国安国寺の筆頭とした。この寺号の初見は貞和二年(一三四六)である。丹波の安国寺は応永二一年(一四一四)京都十刹の寺格を得て、丹波・越後・日向(宮崎県)などに荘園を持ち、寺領は石高に直して三、〇〇○石、塔頭一六、支院二八を有する、この地方きっての大寺となったという。
 安国寺所蔵文書中「天庵和尚入寺山門疏」は、尊氏が安国寺の開山始祖とした天庵妙受の入寺を祝した乾峰士曇の書であり、「天魔妙受遺偈」は妙受自筆の最後の偈で、禅僧の代表的遺墨である。上杉清子書状「仮名消息」は夜久野郷今西村の、安国寺への寄進状だが、女性の消息文の逸品といわれる。また多くの御教書や引付頭人の奉書、守護・守護代発給文書、譲状は『安国寺文書』(五巻ほか)としてまとめられ、中世史研究の宝庫となっている。わけても日向国国富荘を寺へ寄進する御教書は、尊氏の安国寺や利生塔建立発願の趣意を明らかにしている。このほか「安国寺境内図」は、結界図として中世の絵図の中でも注目すべきものである。「絹本著色天魔妙受像」三幅は禅僧の頂相(肖像画)として珍重視されている。
 寛保三年(一七四三)の再建になる仏殿・方丈・庫裏・山門・鐘楼の境内の配置は、丹波で唯一、往時の禅寺の景観を残している。「地蔵菩薩半踟像」のほか、本尊の「釈迦如来及両脇侍座像」は中尊が丈六の大仏で南北朝時代の作である。二代将軍義詮から、尊氏の遺骨・遺品及び妻赤松登子の遺骨を寺へ納める御教書があるが、境内には南北朝時代の宝篋印塔三基がある。
 以上の多くは国及び京都府指定の文化財である。(木下禮次)).91(尊氏ゆかりの文化財
 安国寺には、足利尊氏ゆかりの文化財が多く、中世の丹波を知る上で貴重である。それらの中から主な資料二点について簡単に紹介してみよう。
木造地蔵菩薩半踟像(国指定重要文化財) 足利尊氏の母は、この地に居館を構えていた上杉頼重の娘・清子である。尊氏の出産に当たり出身地に帰り、現在の安国寺門前にある公民館の位置に住んでいた。そして同寺の地蔵菩薩に安産を祈願し、嘉元三年(一三〇五)尊氏を生んだと伝えられる。そのためか、尊氏は地蔵菩薩信仰の念が大変厚かったという。この地蔵菩薩像は仏殿右側奥にあり、平安時代の面影を伝えている。半踟像とは、台座の上に座し、片足を他方の股に載せ、もう一方の足を台座外側に垂下させる形であり、通常、左足を垂下する像が多い中で本像は右足であり、興味ある作品である。元は彩色されていたようだが、現在は見られない。

石造宝篋印塔(市指定文化財) この塔は境内東側、開山堂の右手に三基ある。尊氏の塔を中心として、向かって左側が母清子、右側が妻登子の墓とされる。塔の高さは中央が約一七四㌢の完形品であり、左右二基は相輪の上部を欠失している。三基とも銘文はないが、笠の隅飾突起の形や笠石下端と基壇の上端を二段式としていることなどを見ると南北朝時代の作品であることを示している。
 このほか、「尊氏産湯の井戸」と伝えられる井戸が、先述の公民館の傍らに保存されている。 (塩見昭吾)  (『福知山・綾部の歴史』)

以仁王
石田神社と十二士・以仁王との関係は地域区民にとって知って頂きたいことが多い。それには石田神社に残る古文書を中心に十二士と以仁王の間がら、進んで平家物語に出てくる以仁王の最後の地の、相違を明らかにしておきたい。以仁王の系図をみて頂きたい、京都で一門の栄華を誇っていた平氏を討ち滅ぼして武家の政権をつくったのは源頼朝である。その叔父にあたる源行家が後白河法皇の皇子以仁王の令旨を頼朝に伝えたのがはじまりである。この令旨は京都で源頼政とともに平氏打倒の兵をあげた以仁王が東国の源氏に対し都での平士の罪状をうったえて、ただちに立ちあがることをよぴかけたものであった。以仁王は母の関係で王に留まっていた、その不遇の以仁王を誘ったのが頼政であった。しかし計画がもれて、王は頼政とともに、奈良の興福寺に落ちのびる途中宇治の平等院で、戦いとなった。以仁王は十三騎ばかりであった。平家は五百余約、平家の軍勢に追いつかれ護衛の兵士はほとんど戦死したがこの兵士はすべて園城寺の僧兵である。頼政は身をもってたたかい、矢面に立って平等院扇の芝で自刃した。
頼政は辞世の歌に
 埋もれ木の花咲くこともなかりしに
   実のなる果てぞあわれなりける
家臣は頼政の首級を守って以仁王のあとを追った。介しゃくした女婿杉山右近介政国は、一行の後を追ったが平氏の射る矢は以仁王に向って激しさを増すばかりであるを見て以仁下の側近十二士等と打ち合わせた結果以仁王は頼政の荘園洛北吉美の里へ落ち延びることとなった。
ここで以仁王は兜を脱がれ僧兵で南都への使者の須藤俊秀に着用させ、さらに腰に着けておられた愛用の横笛「小枝」を俊秀の腰に結わえさせられた。俊秀は白衣のままで兜をつけ、宮からお預かりした軍用金と宮のおん直筆「三社託宣」並びに宮より拝領した御刀を身につけて南都へ向って出発した。追跡してきた平家は俊秀を以仁王と思って首をとり、槍の先につけて、意気揚ようと京へ凱旋した。
一方以仁王は道を変えて洛北へ進まれた。亀岡荘に着いた以仁王の一行は頼政公の首級を八田の森に葬った。丹波町の藤田五郎左衛門尉忠国が一行に加わり道案内の役をつとめ、京都街道をとり檜山を越え石田に出たのである。以仁王一行の身に携えていた冷泉院の御綸旨を神に供え平家討伐を祈願され裏山に宝剣を埋められた。その冷泉院の御綸旨写しが残されていたことは周知のことである。以仁王一行は八田川を渡り高倉の道を取られ平等院を出られてから十四日目であった。折から田植えの最中だった里人たちは、温かく一行をお迎えし、裸足のまま王の一行をとり囲んだ。尊い宮のお姿を拝した里人は喜び勇んで笛太鼓をならし、踊り舞った。以仁王も人びとにつられて「イヤ、ソー」とおはやしになり太鼓をたたいてお喜びになられた。このときのおはやし「イヤ、ソー」がなまって、「ヒヤソー」「ヒヤソ踊り」となっていまに伝わっている。吉美の郷で安らぎのお気持ちを取り戻された以仁王であったが宇治川の合戦のとき受られた御矢傷が次第に重くなられ、里人たちやお供の十二士の看護のかいもなく、亡くなられた。おん年二十九才、人々はやり場のない憤りにふるえ、悲しみのうちに以仁王が念顧していられる平家が一日も早く討伐がかなえられるよう祈願した書がある。
・以仁王に従った十二士の名前
一、八條院蔵人として出仕していた人たち
 大槻権守光軒(京都府綾部市高津町)
 渡辺隠岐守俊久(京都府綾部市十倉町)
 坂田甲斐守重時(京都府綾部市上林武吉町)
 上原豊後守忠将(京都府綾部市物部町)
 河北岩見守貞則(京都府綾部市志賀郷町)
 萩野岸守盛政(京都府綾部市位田町)
二、源三位頼政の家人で、以仁王のお供をした武士
 村上判官秀行(京都府綾部市高槻町)
 確井判官貞時(京都府綾部市高倉町)
 小野木右馬介秀盛(後に森下姓に改める。)
 能勢伊織武俊(京都府綾部市渕垣町)
 福井次郎季重(京都府綾部市上林真野)
 塩尻兵衛道貞(京都府綾部市上杉町)
以上の十二士です。
他に、杉山右近介政国(源頼政の女婿・綾部市有岡町)があり、
(『郷土誌 東八田』)

上杉清子
上杉清子を上杉せいしと呼ぶ、足利尊氏(高氏)の生母である。上杉重房は藤原鎌足十九代の後えいで勧修寺氏を称していたが、建長四年(一二五二)後嵯峨上皇の皇子宗尊親皇(当時御年四才)が将軍として鎌倉に下ったときお供を仰せつかった。その功により上杉庄をたまわり、上杉氏の先祖になった。上杉町はその発祥の地となった。その館の跡が天満宮で、弾正屋敷跡といわれている。清子は上杉家の三代目に生れ代々足利家と縁ずき清子は貞氏と結嬉し尊氏を生んだのであった。
そのころ源氏を唱える鎌倉幕府が三代で倒れ、後を平家の北条氏が天下をとっていた頃である、北条の一族は自分の身を守るため、源氏の頼朝や足利一族と縁を結んでいるときであった。その最中に、北条氏が朝廷の監視と京都の警備が目的である六波羅探題という重要な役を勤める足利貞氏の後妻となった。貞氏との間に男の子がなかった、清子は夫貞氏と京都に暮らしていたが、生まれ故郷である上杉との間は度々往復していた。そのたびに安国寺に立寄り境内の常光寺に泊めて頂いて、御地蔵さんにお参りして、子供が生まれるよう、祈願していた。或日七日七晩行をつずけ、満願の朝夢の中で明星が飛んできて口の中に入る夢をみた。それから清子は妊娠して嘉元二年に男が生まれ高氏と名ずけた。足利家は源義家の子孫である。貞氏の父家時が切腹した時先祖の置文というものがつたわっていて、それには「自分は七代ののちに生まれかわって天下を取る」だろうということが書かれていたという七代めの家時は「自分が天下を取れなかったので、命をちじめて三代のうちに天下をとらせよう」といい残して二五才で切腹したその三代目あたるのが高氏である。これを知った清子は、その天下を取るべきものは我が子高氏であると信じていた。北条政権が支配する鎌倉の町に緊張がみなぎっていた、後醍醐天皇が北条氏打倒を諸国に号令した。夫の貞氏が六九才で亡くなってからはや一年七ヶ月がたっていた。気にかかるのは嫁の動向である、眠られぬ夜がつずいた。信頼しているとはいえ、嫁の言動が足利家の運命を握っている。嫁がその夫・高氏と行動を共にすることが、高氏に未来を与え、四才の孫千寿王(後の義詮)の命を救うのだ、その嫁が鎌倉方の守時の妹なのだ。高氏の謀反が鎌倉に伝わらない内に清子は二人をつれて鎌倉を脱出した。この親ならでの心情はよくわかる。清子はついに高氏をして成功させたのである。

足利尊氏
足利尊氏についての評価は後世の人々によってまちまちである。室町時代には幕府を開いて武家の為に尽くしたということで立流な武将として讃えられ、江戸時代になると儒教の大義名分論の立場から南朝を支持する議論がさかんになってきた。
尊氏は北条氏を例すべき運命と期待のもとに生まれた。後に征夷大将軍の地位を望み、後醍醐天象と敵対しあくまでも天皇政治に反発し、南北朝の混乱期をもたらしたのも、尊氏の野望というよりも、源氏の正統に生れた運命によったといってよい。尊氏に北条氏を裏切るように勧めたのも、後醍醐天皇の綸旨を尊氏に届けたのも、全部清子の兄憲房や、甥の重能であった。
北条氏打倒の声が各地におこり、後醍醐天皇も隠岐の島をぬけだした。事態は急である。幕府は足利高氏を京都に派遣した。高氏はチャソス到来とばかり出陣した三河国に来たとき後醍醐天皇に連絡し近江国で天皇の命令を受けとった。高氏はひとまず六波羅探題の指図で船上山に向かったが、その途中丹波の篠村に陣取ったときはじめて公然と幕府に反旗をひるがえした。後醍醐天皇は六波羅探題をおとしいれた高氏のてがらを第一として領地や地位をあたえ自分の尊の字を譲った。高氏の寝返りに、六波羅探題はおどろいた。下野国足利荘を中心に大きな勢力をもち、ばん阿寺は足利氏の豪族屋敷で尊氏もここで育った。尊氏は源氏の鎌倉幕府を再興しようと考えていたのである。
武家政権の再興をおそれた天皇の皇子大塔宮護良親王は、父に願ってみずから征夷大将軍になり、尊氏を除こうと考えた。しかし、かえって尊氏に讒言されて鎌倉に押しこめられたのである。そして半年後北条時行が鎌倉にせめこんできたとき、鎌倉を守っていた尊氏の弟直義は東光寺薬師堂に閉じこめていた親王を殺させた。こうして建武の新政府を支える新田義貞や楠木正成らと尊氏の対立がはっきりし新政府は多くの武士に見放されはじめた。年が明けて天皇は正成・義貞らに守られ比叡山にのがれ、そのあとに足利軍が京都を占領したがやがて北畠の大軍がきて足利軍は半月程度で京都を離れ九州に落ちのぴた。尊氏の軍勢は三〇〇、馬も無く、鎧もつけていない、これに対して菊地軍は四、五万、しかし尊氏の弟直義に励まされ、勝ちに乗じて軍勢を集め京都に進撃した。ここで湊川の戦いとなるのであるが、後醍醐天皇は楠木正成の作戦をきかず、大敗するのである。尊氏は正成にむかって私もあなたも、天皇の為に働いているのである、戦いの勝負は見えている。戦いでは手をとりあって天皇のためつくそうではないか、といったが正成はいまとなって手をひく訳にはいかない、といって戦死してしまった。尊氏は正成の死がいを丁重に扱い正成の奥方に送るという情深い武士であった。
尊氏は後醍醐天皇に和睦を申し入れた、自分は天皇と戦っているのではない、天皇には京都に帰っていただきたい。尊氏は後醍醐天皇にせまって、正式に光明天皇に皇位を譲らせ、新しい幕府を京都で始めた。ここで問題になるのは三種の神器である。後の世で三種の神話のほんものは天皇が持ったまま吉野へ移ったのであるから吉野の南朝が正統であるという説が残っている。
吉野と京都のにらみあいは、それから後六〇年近くつづき、その間に諸国の武士は領土の支配を争って果てしない戦いを続けた。元を正せば京都の朝廷は院政の形が続き、後嵯峨天皇の後、後深草天皇と亀山天皇の系統が互いに皇位を争い後伏見天皇の後は鎌倉幕府の勧めで、両統からかわるがわる天皇をたてることになった。ところが後醍醐天皇に至ってその約束が守られず北朝と南朝に別れてしまい、天皇家を二つに分けてしまった。しかし北朝側の後小松天皇から現代まて北朝が続いた。ここにおいて考えられることは、南朝は後醍醐天皇より後、三代で終り、北朝の御世となったことは、足利尊氏の行いには、逆賊と言われるところはなく、室町幕府を作った功績は大きい。御醍醐天皇は尊氏がおした光厳天皇を無理やりに止めさせ、勢いを取り戻すために天皇は義良親王に北畠親房をつけて東国に派遣した。東国での戦いの成果が上がらないうちに御醍醐天皇ははるか京都の空をにらみながら悲憤の思いをのこして吉野で死んだ。北畠親房は義良親王が若いため南朝の天皇が正統であることを「神皇正統記」に書いた、これが後ほどまで論議のまととなった。弟の直義と尊氏は戦場で意見が合わず兄弟の仲は隔たるばかりであった。尊氏は知識が勝ちすぎるが決断力が乏しい。一方直義は気が強く直線的であるがため、この性質が作用して尊氏の動向が気になる。それが後世に反逆者の汚名を受けた原因となった。ついには直義が側にいては邪魔になる、ついに家来にそれとなく命じて暗殺してしまうのである。夢窓疎石は二人の仲をみてこれほど悪い心では物ごとが成功する訳がない、何とかこの尊氏の良い所を伸ばしてやりたいと、御醍醐天皇の冥福を祈る為京都に天竜寺を造立させた。また元弘の乱から今日までの戦死老の霊をまつるため安国寺を全国に六六ヶ所建てるなど、尊氏の信仰心の深いこと、左の地蔵菩薩を一万体も書き人に与えている。  (『郷土誌 東八田』)

安国寺村
安国寺村は石田、和田を含めた地域で往時は家数七十軒であった、石田神社の建立は古く梅迫村の内谷と同じ頃と言える。安国寺一山は八田上村といっていた。
現在の安国寺はもと光福寺といい、足利尊氏が安国寺を開いてから安国寺となったのであるから何時頃から安国寺村となったか判明しない。
同村の東に横尾峠があり、梅迫村より京への往来の道で、道には松並木を植えていたという。
嶺には輝光堂という旅人が休憩する休堂があり、梅迫御殿が建立されたとつたえられている。山家まで一里と言う同嶺に山家と梅迫の領境を示す棒杭を立てたといわれ、安国寺村の山道に入る付近に一里塚があったとつたえられている。
(『郷土誌 東八田』)


伝説







安国寺の小字一覧


安国寺町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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