丹後の地名プラス

丹波の

綾部市(あやべし)
京都府綾部市



附録
世界連邦都市
アンネのバラ
ふりそでの少女像
水源の里

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京都府綾部市

京都府何鹿郡

綾部市の概要




《綾部市の歴史概要》

昭和25年(1950)8月1日、何鹿郡綾部町、中筋・吉美・山家・西八田・東八田・口上林の1町6か村が合併して綾部市が成立、同30年豊里・奥上林・中上林・志賀郷・物部の各村を編入し、同31年佐賀村のうち石原・小貝の全域と私市の東部を合併して、現市域が確定した。市名は平安期以来の郷名(漢部)による。
京都府北西部。京都市の北西約55㎞に位置し、東西に長い地形で、西は由良川中流の福知山盆地東半部の沖積地・洪積台地、東はほとんどが山地であることから市域の約10%が耕地、3分の2が山林原野となっている。由良川が市南端部を西流し、これに東の山間部から上林川が、ほかに八田川・犀川などの支流が流入している。これら河川沿岸の平地や台地に集落と耕地が広がっている。由良川に沿うように国鉄山陰本線が走り、綾部駅で舞鶴線を北へ分岐する。国道27号がくの字形に南北に貫通している。
近世は綾部藩の城下町で、山家藩の陣屋も置かれた。近代になると養蚕製糸業が盛んとなり、郡是製糸発祥の地となり、また大本教の開教地として名高い。

沿革
〔旧石器時代〕昭和47年に以久田野でナイフ形石器が発見され、それ以前に、西原と上杉で表面採集されていた2つの石器も先土器時代のものと確認された。
〔縄文時代〕昭和46年の石原町における石鏃やサヌカイトの発見以後、以久田野・味方町・小貝町・青野町・寺町・館町と遺物散布地が発見されるに至った。

〔弥生時代〕大正7年に土器・石器・鉄滓などが発見された館町赤国神社遺跡。岡町・青野町・神宮寺町・睦合町からも同期の石器・土器が出土している。注目されるのは昭和48年に発掘調査された青野遺跡。住居址・土壙墓・溝などとともに集落の遺構が明らかになり、出土品からみて、弥生中期から7世紀頃の須恵器までを含む重層的な遺跡であることが確認された。また土器の型式などからみて、瀬戸内地方からの文化の流入伝播が考えられている。昭和51年の試掘調査により、遺跡はさらに東に広がっており、由良川中流地域で最大の住居址遺跡であることが確認された。
〔古墳時代〕以久田野台地・久田山台地などを中心に市内全域に広く分布している。前期古墳は小西町成山古墳と味方町紫水が丘古墳が知られている。5世紀前半頃のものとして、多田町の聖塚・菖蒲塚の方墳が著名である。府下最大とされる私市円山古墳は中頃のもの。前方後円墳は14基を数えるが、大きいもので長径60m(茶臼山古墳)程度で、いずれも中期以降の古墳である。後期古墳は円墳が主で、群集して造られている所が多く、市内全域で、500余基に及んでいる。いずれも6~7世紀前半頃に築造された。

〔古代〕むかし奈良に都ありしころ、それ以前の飛鳥藤原時代の頃になるが、市名の綾部は、渡来人の漢人の居住したところの意味。旧郡名(何鹿)や郷名を記した木簡が平城宮址や山垣遺跡から出土。この時代よりも古いと推定される何鹿とかなどの地名や大化改新(645年)に廃止されたとされている部民制度の名を残す地名群ものこされている、物部・私部・唐部・草壁。

綾中廃寺。アスパの少し南側の舞鶴線が通るあたりには七堂伽藍があったという伝承があり、1坪もある塔の心礎と思われる巨石があった、現存するものは軒丸瓦・同平瓦、風鐸の風招、須恵器などで、軒丸瓦のうちには山田寺式(7世紀末)と藤原宮式(8世紀初)のものがある。風招は銅製鋳造の完形品で幅14センチ。7~8世紀塔をもった寺院があったと考えられる。郡衙址とされる青野遺跡と接している。

平安時代になると文字の記録が見えて、「三代実録」には「何鹿郡仏南寺」「阿須々岐神社」「物部(竹冠に青)掃神」の名がある。仏南寺は、「為真言宗、即付国司検校」という記事が貞観5年(863)にあり、地方寺院としては例外的に官寺としての取扱いを受けている。貞観11年(869)の物部(竹冠に青)掃神(須波伎部神社)の神階を従五位下に進めるという記事があり、また、刑部首夏継が豊階宿禰の姓を賜り、弟の宮子は豊階朝臣の姓を賜っている。

式内社は須波伎部神社・赤国神社など12社が記録されているが、そのうちの10座が市域に比定されている。「・《サンズイに頁》波伎部神社」「阿・《サンズイに頁》々伎神社」「御手槻神社」「佐陀神社」「珂牢奈備神社」「伊也神社」「赤国神社」「高蔵神社」「嶋万神社」「福太神社」。
和名抄には賀美・拝師・八田・吉美・物部・吾雀・小幡・高殿・私部・栗村・高津・志麻・文井・綾(漢)部・余戸・三方の16郷が見える。
また「三代実録」の貞観8年(866)の条に「丹波国何鹿郡の人漢部副刀自」、仁和3年(887)の条に「漢部妹刀自」の名が見える。

〔中世〕
荘園の名が見えるのは、天元3年(980)「丹波国矢田荘二町余、故住持御忌日料」という断片を除いて、ほかは12世紀の後半に入ってからである。吾雀荘・志万荘・小幡荘・私市荘・栗村荘・高津荘・上林荘・吉美荘・漢部御厨など、いずれも皇室領か京都の寺社領として、12世紀には立荘されていた。
「上杉系図」によれば、建長4年勧修寺(藤原)重房が、将軍として迎えられる宗尊親王につきそって鎌倉に下り、その功によって上杉荘を与えられ、以後上杉の姓を名乗ったとする。上杉氏は八田郷一帯を支配するようになり館を構え、鎌倉末期に当地で生まれた上杉清子は足利貞氏に嫁して、尊氏・直義の兄弟を生んだ。鎌倉期から上杉氏の菩提寺であったと思われる光福寺が、以後足利氏と深い関係をもち、室町期には足利氏の氏寺になった。南北朝期、尊氏が全国に安国寺を建てたとき、丹波の安国寺にはこの光福寺をあてた。足利義詮は、「先年帰依の由緒」によるとして尊氏とその妻登子の遺骨一分を安国寺に奉納している。
上林荘は、古代の賀美郷・拝師郷の地域で、鎌倉期には神護寺領となっていた。同荘は室町期には仁木氏領として相国寺領となっている。江戸期において宇治茶の頭取となった上林氏はこの地の出であり、戦国末期には宇治へ移住したものである。この地にある君尾山光明寺は真言宗醍醐派の古刹で、仁王門は国宝に指定されている。この門は仁治3年(1242)起工し、建長5年(1253)に竣工したと棟札銘にある。屋根は栩葺という珍しい葺き方である。
鎌倉期に地頭として東国から何鹿郡に入った鎌倉武士に、物部の上原氏が知られる。「上原氏由緒書」によれば、上原氏は信濃上田城主の出とするが、信濃国諏訪上原村を本貫とする諏訪下社神官の一族に属するものかと見られている。「由緒書」は、上原景正が建久4年(1193)に物部へ入ったとしているが、近隣地域の地頭の状況から推して、おそらく承永年間(1219~22)以後に入った新補地頭と推定される。上原氏はその後、物部を中心に郡西部で勢力をもち、文明14年には丹波守護代となり延徳2年(1490)地侍である大槻氏・荻野氏の守る位田城を攻めたことが、「楞厳寺縁起」に記されている。「位田の乱」と呼ばれるもので、楞厳寺・木曽殿神社を焼いている。上原氏は、はじめ下市の高屋山を本拠としたが、文明年間に現在の荒山に物部城を築き、麓に館を構えたという。そのため、戦国期には上市・下市の町場らしい集落も生まれている。
室町期の丹波は細川氏の領国となっていたが、永正4年(1507)、細川氏の内訌が起こり丹波も戦乱に巻き込まれた。大永6年(1526)戦乱は何鹿郡に及び、君尾山光明寺は山門だけを残して全山焼亡した。その後天文2年(1533)に再建されたが、その時の勧進奉加帳が残されている。この奉加帳には、上林谷一円から和知谷の村落名が出ており、中世末期の村落を知る好資料である。
安国寺文書寛正2年(1461)何鹿郡代広戸九郎左衛門尉の下知状には何鹿郡内の村名26が列記されているが、その村は平安期の16郷が発展したものと考えられる。そのほか、地頭館か土豪屋敷を想定させる堀ノ内・土居・館などに関係する地名は、青野町から川糸町の一帯や、岡町・星原町・上八田町・中筋町・栗町・井倉町に多く残されている。
戦国末期には、丹波の土豪の多くは多紀郡の八上城主波多野氏に支配されていたが、天正3年から7年にかけて、明智光秀の丹波攻略によって征服され、八上城が落ちると間もなく、全丹波は光秀に支配された。何鹿郡で光秀と戦ったのは山家城主和久左衛門佐であったが、これも天正8年には攻め落とされた。
天正10年(1582)山崎の合戦で光秀は敗死し、そのあと丹波は豊臣秀吉の領地となり、秀吉は羽柴秀勝を亀山において支配させた。
中世関係の文書は、安国寺文書78通・観音寺文書32通・岩王寺文書3通・光明寺奉加帳1帖・楞厳寺文書2通、そのほか志賀家・渡辺家・河北家などにそれぞれ2~3通の文書がある。


〔近世〕
〔綾部藩〕天正15年(1587)前田玄以によって検地が行われたという記録はあるが、不詳。豊臣氏の下では、山家の和久氏のあとに谷衛友が入り何鹿郡東部を領し、また上林を高田治忠が領した。ほかは蔵入地となっていて一柳直末などが代官として支配していた。江戸初期の領有状況は、郡内中西部を福知山藩主有馬豊氏が領し、山家谷氏・中上林藤懸氏が郡内各地に散在所領をもち、ほかに柏原藩織田氏・園部藩小出氏の領地、旗本領・幕府領があった。領地は細分されて、1村が2~4領主の相給地となっているところもあった。有馬豊氏は慶長18年(1613)に領内の検地を行ったが、「有馬検地」で、その後福知山藩・綾部藩の領政に大きな影響を与えた。
寛永11年(1634)九鬼隆季が2万石の領主として志摩国鳥羽から綾部に入部した。以来、江戸期を通じて、郡内中西部は綾部藩領となった。九鬼氏は、綾部に入ると下市場に陣屋をつくり、のちに上野に城館をつくってここに移った。上野の台地は廃藩まで藩邸と武家屋敷で占められていた。支配地は、何鹿郡で綾部・中筋・栗村・小畑の4組8か村と天田郡山裏組20か村で、合せて1万9、500石であった。
〔江戸期の村々〕本市域に属する近世の村々は、青野・赤目坂・浅原・中(綾中)・綾部・有岡・有安・安国寺・池・石橋・石原・市茅野・市志・市野瀬・位田・井根・井倉・井倉新町・今田・上杉・内久井・梅迫・大島・大畠・大町・於見谷・大安・岡・小貝・岡安・大唐地・奥黒谷・遅岫・於与岐・小呂・鍛冶屋・金河内・釜輪・川原・上原・私市・幾見・草壁・栗・黒谷・小崎新田・小西・小山・古和木・佐里・里・志賀・志古田・島間・清水・下原・下・下八田・岩王寺゙・瀬尾谷・新宮・神宮寺・新庄・勢期・大日・高倉・高津・高槻・鷹栖・武吉・多田・忠・館・田野・佃・辻・坪ノ内・寺・寺垣・十倉・栃・戸奈瀬・鳥垣・長砂・長野・中・西方・西保・西原・西股・西屋神谷・念道・野田・延゙・白道路・橋ノ上・馬場・引地・日ノ尾・広瀬・福垣・福田・淵垣・別所・坊河内・星原・真野・味方・水梨・光野・三宅・向田・睦志・物部・八代・安場・山内・山田・弓削・遊里・和木゙・小田・小中・中(現山中)・西屋・平山・日置殿の各村で、総村高4万6、309石余(旧高旧領)。

〔城下町〕綾部には藩邸が置かれ、城下町ができ、郡内の商業の中心となった。城下は綾部村と坪ノ内村の2村からなり、城地の北側の大手門から田町・西町が南北に延び、福知山峠へ通じる京街道から上町・本町に続き、田町・西町と結び、西の外れに向かって西新町・広小路(元禄15年以後)があり、城地北側には新町があった。元禄15年(1702)の城下家数は238軒で、これが天保年間(1830~44)に278軒に増加しているが、町組の規模には変化がなかった。
綾部藩は寛文4年(1664)に検地を行い、これを幕末まで年貢収取の基礎とした。しかしこの高は有馬検地との間に差があり、そのため村によって無地高ができた。無地高は領内全体で1、911石余という、表高の1割に達する大きなもので、農民を苦しめたものであった。
〔山家藩〕山家藩は天正10年(1582)に谷衛友が豊臣大名として山家へ入って、広瀬の城山に陣屋を置いたのに始まる。当初山家・吉見・東八田・西八田・志賀郷・口上林・奥上林で、19か村1万6、000石を領していたが、衛友は寛永4年(1627)所領6、000石を割いて3子を分家させ、旗本とした。これが十倉・梅迫・上杉の谷氏である。上杉谷氏は貞享2年(1685)絶家し、そのあとは幕府領となった。なや山家藩は郡内山役高の全部、247石余を収納しているが、その理由は明らかでない。山家藩は貞享3年に内検を行って、総高1万7、300石を検見し、これ以後の藩財政の基礎とした。この内検で72%の増高となったのは、領内山間地の切畑(焼畑)などを新畑に加え、また斗代(徴収時の基準)を高めたことによる。
十倉・梅迫の旗本谷氏は古検のままで内検を行わず、貢租率を高める方針をとった。そのため村高に対して7、8割の年貢率となったところもある。貞享元年(1684)十倉藩の江戸奉公人144名が連判して、年貢減免を幕府評定所へ訴える一揆が起きた。これは村役人層が指導する全領的なものであったが、結果は7人死罪、7人領国追放、養子とも合せて324人追放という厳しい処分となった。彼ら追放者は、40年後の享保11年(1726)に帰村を願い出て許されるが、かつての持高は否定され、縁者から田畑分けをする形で本百姓身分を認められたにすぎなかった。
旗本藤懸領は、慶長6年(1601)藤懸永勝が中上林石橋へ入り、中上林・口上林と白道路・赤目坂の各村を合せて6、000石を領したのに始まる。のちに子を小山と赤目坂に分家させ、本家の城下藤懸氏は4、000石となった。藤懸領では、茶米・追鳥銭・立紙など小物成や夫役の占める割合が多く、1つの特徴となっている。

〔由良川治水〕綾部藩領には、由良川を堰止めて潅漑用水をとる井堰が3か所に設けられていた。綾部井堰・天田井堰・栗村井堰である。この井堰がいつごろ築かれたかは明らかでないが、近世初頭には、現在規模の原型ができ上がったと推定され、それによる増産が藩の内検などを実現させたと思われる。潅漑面積は左岸で約350町歩、右岸で約330町歩であった。近世の井堰はいずれも杭木洗堰で、水の上がりが悪く、そのうえ洪水のたびに堰体がこわされ、修理に多大の資材と労力を要した。そのため堰形を横堰・登り堰など工夫して組み合わせたが、堰形により井口の岸が欠落して、たびたび村争論を起こしている。天田井堰は慶応2年(1866)8月の洪水で大破したので、綾部藩代官近藤勝由の指導によって新溝約900mを堀り、綾部井堰の水路とつないだ。これにより綾部井堰の用水は、由良川左岸を天田郡まで潅漑することとなった。
由良川は、また丹波の物産を移送する大動脈としても利用された。河口の由良から福知山までは、由良か福知山の舟で荷物を運び、それより上流は大嶋港まで福知山の舟で運んだ。幕末期頃の積荷は、上り舟が油カス・干鰯・塩など、下り舟は米・茶・草綿などであった。大嶋港は天田井堰の下手にあって港の管理は大嶋村庄屋があたった。元禄13年(1700)京都の商人諏訪町半左衛門たちが綾部藩庁へ、由良川と大堰川を結ぶ通船を願い出ている。この計画は、大嶋から上流黒瀬村まで舟で上り、そこから殿田村まで陸送し、殿田村から角倉船で大堰川を下って嵯峨へ出ようとするものである。この計画はその後も受け継がれ、享保10年(1725)・宝暦9年(1759)・天明6年(1786)・文政11年(1828)と合せて5回も願い出ているが、ついに実現しなかった。丹波の物産は近世を通じて、日本海から西廻りで大坂方面に運ばれたのであり、近世の河川交通を考えるうえで貴重な事実である。
陸上交通は、山家-上林-若狭、山家-真倉-丹後田辺、山家-草尾峠-水呑-桧山、綾部-須知山-大原-須知などの道が主なものであり、山家に人足駅問屋・旅籠、綾部に旅籠があった。
近世産業の主体は米であったが、幕末期になると、郡内では木綿が多く作られるようになってきた。また現在も民芸和紙として高い評価を得ている黒谷の紙漉業も安政年間(1854~60)頃から本格的になり、技術指導をして、京出しの紙漉を行うようになった。紙の商品価値が高まるとともに、代官の十倉氏は紙の一手専売を強化しようとした。安政6年(1859)の梅迫騒動も、これに農民が反発したために起こったものである。
当地方の神社は中世以来の古い芸能や祭礼行列を伝えるところもあった。島万神社・阿須々岐神社の太刀振りと風流踊、高倉神社の田楽踊と日の神行列は著名である。中世以前の古い由緒をもつ寺院は、光明寺・楞厳寺・正暦寺など真言宗が多く、中世以降に建立された安国寺や覚応寺(山家藩主谷家の菩提寺)・隆興寺(綾部藩主九鬼家の菩提寺)・照福寺などは禅宗寺院である。全般的に臨済宗寺院が多いことが特徴となっている。


〔近現代〕
〔行政区画の変遷〕本市域の近世の村々は慶応4年久美浜県、明治4年綾部県・山家県の3県に分属。同年11月豊岡県に一部編入されたが、大半は京都府に編入された。同5年郡内126町村は14区に分けられ、区には区長・副区長、村には戸長が置かれた。第1区は山家、第2区は綾部であった。
明治12年綾部に郡役所が置かれ、同14年には郡連合村会が設けられた。明治22年4月市町村制の施行により郡内は1町13か村となった。
〔明六一揆〕明治6年、第1区9か村を中心に新政反対の大一揆が起こった。7月23日、第1区400余人が蜂起し、それより28日まで6日間にわたり、2、000余人が参加したといわれる大一揆となった。このため大阪鎮台伏水屯所から160人が派遣された。一揆は要求事項を出して28日には一応鎮静した。要求は各区数項目であるが、徴兵反対が中心で、ほかに学校入用金お断り・裸体免許・社倉米積立などであった。8月2日、首謀者とみられる22人が捕えられ京都に送られた。この一揆は明六一揆と呼ばれるもので、旧山家藩領の村々が参加した大規模な一揆であった。
〔地租改正〕地租改正は明治8年から実施された。地押丈量として求積をしたが、同9年には改正反別として丈量8掛けの数値を地租算定の基礎にした。8掛けにした理由は明らかでないが、全国的にみても特異なことであった。同18年にはもとの丈量反別に切りかえられた。
〔郡是製糸〕近世以来、何鹿郡一帯は養蚕が盛んであったが、農間稼ぎであって特産地の形成には至っていなかった。明治18年の東京上野の五品共進会において、京都府出品の繭は「本会列品中恐らく粗のさきがけならん」と酷評される状態であった。全国的な殖産興業の風に合せて、郡内でも明治10年代から座繰・器械製糸の両方とも盛行しつつあった。明治20年代に入ると、東八田村高槻の山室杢三郎が長瀬桑の品種改良に成功した。これによってそれまでの桑苗移入地から、一躍全国的に優秀品種生産地となった。当時、桑苗1本米1石に近い値で売られたと伝えられる。長瀬桑は関東方面に広がっていった。また、明治20年にもと綾部藩氏族授産場を借りて養蚕伝習所が成立し、まず20%の指導者を養成した。これはのちに郡是製糸社長になる波多野鶴吉の構想に基づくもので、簡易伝習所は綾部・中筋・東八田・物部・中上林・奥上林にも設けられ、明治25年からは養成された技術者が簡易巡回教師として、各町村に配置されるなど、養蚕から製糸まで郡全体の技術を統一し向上させることになった。その間「烟気取」と呼ばれる丹波地方独特の自生技術も完成されていった。
これらを背景にして、明治29年に郡是製糸株式会社が設立された。波多野鶴吉は、前田正名を東京から招いて演説会を組織した。1、500名の聴衆には「国に国是あり、府県町村それぞれに是なかるべからす」という前田の所説が共感をもって迎えられた。新しい会社は郡是と名付けられた。出資者は波多野の兄で、近世以来豪農である羽室嘉右衛門が筆頭株主ではあったがその持株は1割にも満たず、全体の75%にあたる700余名は1~2株の小株主であった。すなわち養蚕農家が自ら株主となって参加したのである。郡是製糸はその後次第に一人歩きして養蚕農家を支配していくことになるが、ほとんどを輸出向けにした生糸生産は増大し、郡内の養蚕業も拡大の一途をたどった。大正2年には、綾部郡是(のち神栄製糸)が創立され、現在まで、社名変更したグンゼとともに繊維の町綾部を形づくってきた。

〔明治・大正の動向〕交通は鉄道開通によって大きく変わった。明治37年11月、日露戦争の軍事要求によって阪鶴鉄道が福知山から新舞鶴まで開通し、綾部駅ができた。同43年8月園部から綾部へ鉄道が延び、山家駅が設けられた。
電灯がともったのは綾部が明治45年で、それから次第に周辺部に及び、大正8年には上林へ送電されるようになった。
明治5年学制が発布されると郡内各地に小学校が開かれた。高等小学校は明治20年、郡全町村立で綾部に開校された。その後次第に各村に置かれるなった。大正9年に郡立綾部高等女学校が開校され、同12年には府立綾部高等女学校となった。養蚕伝習所はその後発展して、同13年には府立城丹蚕業学校となり、当時郡内唯一の男子中等教育機関であった。
製糸業を中心に発展してきた工業は、第2次大戦中に機械工業に転換させられた。そうした中で綾部工業学校が開設され、工業技術者の養成を図った。戦後は靴下・メリヤスなどの繊維の第2次加工業と精密機械工業を中心とするようになった。
〔大本教〕大本教は、明治25年に綾部の大工の後妻であった出口直によって開教された。さまざまな人生体験を経てなおかつ貧窮にあえいでいた出口直は、57歳の正月に霊夢をみて神がかりし、やがて自由奔放に「お筆先」を書きつけはじめた。「三千世界一どに開く梅の花、艮の金神の世になりたぞと」というのが神の意志だとして、個人の至副からすすんで世直しを説いた。教団は、上田王仁三郎が出口直に養子入りし、出口王仁三郎となってから、土着的な小教団から発展し、全国的な布教も開始され、はじめ「綾部の金神さん」、大正5年には教団名も「皇道大本」と改められた。教義ももはや、素朴な金神信仰でなく、社会的な終末論が中心となり、旧綾部藩邸と本宮山に神殿や教団本部が建設された。大正10年の第1次大本示現が昭和2年に大赦免訴となったあと、昭和10年には、大本を地上から抹殺する方針のもとに、第2次大本事件の弾圧が行われ、綾部・亀岡の本部は文字通り樹木に至るまでダイナマイトなどによって破壊された。王仁三郎以下幹部は治安維持法などによって起訴され、第2次大戦の終戦に至るまで獄につながれた。綾部の大本教故地は戦後、町当局から教団に返還され、大本教は復活した。

〔市制の歩み〕昭和25年、綾部町・中筋村・吉見村・山家村・西八田村・東八田村・口上林村の1町6か村が合併して綾部市が成立した。同30年豊里村・物部村・志賀郷村・中上林村・奥上林村を合併し、同31年佐賀村のうち石原・小貝の全域と私市の東部を合併して、1郡1市が実現した。市域は農山村地域が広く、田園都市と性格づけて市制を進めてきた。昭和40年頃からは、市周辺部では過疎化が進み、中心部では過密化の傾向をみせてきた。昭和31年に5万3、328人であった人口も、同50年には4万3、490人と減少したが、それからは横ばい状態である。
昭和25年10月、綾部市議会は世界連邦平和都市を宣言した。これは日本での同宣言第1号である。
交通は、京都市と日本海沿岸を結ぶ国道27号が本市を縦貫して交通量が多く、府道では綾部福知山線の交通量が多い。
〔史跡・文化財・文化施設〕国名勝に、鷹栖町の照福寺庭園がある。君尾山の中腹にある光明寺の仁王門は国宝建造物であり、ここからの眺望はすぐれている。国重文には、安国寺の木造地蔵菩薩半踟像、伝乾峯筆絹本墨書天菴和尚大寺山門疏1巻、医王寺の木造阿弥陀如来坐像(鎌倉期)、正暦寺の絹本着色仏涅槃図(鎌倉期)、岩王寺の漆卓(室町期)、楞厳寺の絹本着色不動明王像(鎌倉期)、またかつて船井郡瑞穂町にあり、現宗教法人大本教本部の地に移された江戸中期の旧岡花家住宅がある。文化施設としては上野町に丹波焼収蔵庫があって丹波焼150点を収めている。山家城跡は市立公園となっている。


ハートのまち・綾部

綾部市は小さいながらも、独自色を持っていて、よく言われるグンゼや日東精工、大本教ばかりでなく、トーキョーとかには、たぶんないものが見られる。あまり知られていないかも知れないが日本の明日への希望につながるかも知れないような大事なものである。
舞鶴あたりは、国家の軍港なので国家権力は正義だと思い込む、今となればかなり時代錯誤のニセ市民というか臣民の思考が主流だが、綾部はそうは考えない、自治主義的なというかかつてのムラ社会的な考えを残しているのか、近代日本の国家主義からは遠かったためか、その迫害を受けたためか、どちらかと言えば権力とは反対の、平和と自治の精神があるように思われる。
帝国様バンザイバンザイのミライを見失った舞鶴市民から見ると、田舎っぽい人達に感じられるが、それは自分が権力的な人間がフツーと思い込んでいるからだけのことで、どちらがのどかな本物のドイナカモンかは考えてみるまでもないことである。国家権力主義的でない、市民自治主義的なところなのであろうか、そこが面白い。手探りの近代市民主義が周辺と較べると一歩頭を出している町のように見える、今後の日本社会の主流となりそうなものをワタシの勝手な判断でいくらかを拾ってみると…

世界連邦都市

市街地を見おろす「紫水が丘公園」の「平和の塔」↑
「平和塔
戦後の町村合併により綾部市が誕生した昭和25年、綾部市議会は世界連邦都市宣言を全会一致で議決した。世界の永久平和をめざしたこの宣言は、日本で初の宣言として多くの反響を呼び、以後追随する自治体か増え、綾部市は日本における第1号宣言都市として名誉を得た。
その象徴として昭和27年、市民の浄財により綾部の街を望む紫水ケ丘の地に建立されたのがこの平和塔である。」と案内板にある。



JR綾部駅南口の「平和のモニュメント」↑
「綾部は1950年、日本で最初の世界連邦都市宣言をおこなった。私たち綾部民は、これを誇りとし2000年、綾部市制施行50周年を記念し、ここに世界人類の恒久平和を願い、平和のモニュメントを建立する。 綾部市制施行50周年市民実行委員会
平和のモニュメント
丸と三角の全く異なった形を合わせ、異なる人種、国家、宗教などを越え、融合する平和な世界連邦を表現しました。丸は地球を、三角は「人」と綾部の「A」を表し、全休としては元気な子ともをイメージしています。台座は、世界連邦マークを模して製作し、十字は、方位を示しています。」とある。


JR綾部駅北口の「アンネ・フランク像」と「世界連邦都市モニュメント」↑

中央公民館前の「平和の像」↑
「綾部市は、昭和25年全国に先駆けて世界連邦都市宣言をおこなった。我々青年は、これを誇りとし、1986年国際平和年と社団法人綾部青年会議所、創立30周年、(社)日本青年会議所認承25周年を記念し、ここに世界全人類の恒久平和を願い、平和の像を建立する。
1986年5月25日
社団法人 綾部青年会議所
制作 金井征之
題字 梅垣 薰」とある。


こうしたモニュメントは人が集まる所のあちこちに見られる。「一生懸命に市民あげて引揚者をオモテナシしたんですワ、ジマンです、ホコリです」などとのたまうどこかの町にはこうしたものは見かけない、何か基本的にセンスが狂っているのではなかろうか、バンザイバンザイの精神と共通のものだろうか、綾部市のこのモニュメントにも「誇り」の言葉が見られるが、何百万という人々を殺し、何百万という同朋も殺された、その戦争を仕掛けた側の加害責任を忘れたかのような、自分の過去を忘れ、何かほかが悪いかのような、事態に対してはワシラは何も責任はありません式の言動は強い違和感を感じてしまう。自分の立場が分からなければ、ナチにバンザイバンザイやジマンやホコリがあるかどうか考えて見ればよかろう。その深い自責の念もないカ~ルイ市民がオモテナシとかジマンとかホコリとか言ったものではなかろうと思うが、日常の生活でなく公共の立場にあることを忘れてはいないだろうか。駅の構内に宣伝用の安物の看板が立てられたことはあるが、あれはモニュメントではない、低次元の宣伝用のもので、世界平和へ向けるとかのココロザシはまったくないものである。舞鶴市民ベースの記念碑で、世界平和の高邁な精神を現しているものは「殉難の碑」だけではなかろうか。町の中心地から離れているのと、金属製でないのが心残り。


綾部市は1950(昭和25)年10月14日、日本の自治体では初めて世界連邦都市宣言をしている。
「綾部市は 日本国憲法を貫く平和精神に基づいて 世界連邦建設の主旨を賛し全地球の人々と共に 永久平和確立に邁進することを宣言する  昭和二十五年十月十四日 綾部市議会」
というもの。日本はいまだ占領下で、その4月ばかり前に朝鮮戦争が勃発しており、GHQが飛んで来たというものである。
世界平和のために国連があるが、これは政府が一国国民を代表して加盟しているもので、国民の民主的選挙などで選ばれたはずのその政府だが、それが本当にその国民の多数意向を代表しているものなのか、正義の立場なのか、表向きだけで本当はヤシなものなのか、そこのカンジンなところが不明、わからないという問題がある。
どこかの国のようにエゴを出す、グローバリズムと言ってきたはずなのに、そんなこと優先よりワシガワシガファースト、国民の利益よりもオトモダチ優先、そうしたわけか戦争も終わらないし貧困もなくならない、何もないよりはずっとよいし、いくらかは改善できたとしても、これに自分の運命を任せてよいのか、問題はないのか、子孫達の平和は大丈夫か。
ホナラどうする。どこかの市民なら考えてみたこともない大問題、政府はよいもんに決まっとる式思考ではお手上げだが、綾部はそこが違った。どの町よりも違っていた。
世界の各地でいろいろな人々が考えてきたが、その一つに世界連邦運動があり、その精神に賛同しての宣言都市となった。

こうした立派な宣言はすぐに死文化し、高邁な精神はスッキリと忘れられ、なかったものになって、そうしたものは理解もできない者どものアホ丸出し路線主導となってしまう。後の態度が大事だよで、宣言に沿って実際に何をし続けるか。
綾部のエライところはここ、言いだし番長で終わることなく、その後の努力はスゴイ。
中東和平プロジェクト
わけても、平成15年の「中東和平プロジェクト」。親兄弟、親族を殺されたイスラエル、パレスチナ双方から10代の若者たちを招き、ホームステーの一つ屋根の下で、いわばカタキ同士を語り合わせ将来を語ったという。これは行政だけでできものではなく、市民あげてのムリを可能にした努力は頭が下がる。
何ほどの効果があるのかとの声もあろうが、それは何であってもそうしたもので、すぐに大きな効果が出るとかいったものではなかろう。続けることであろう。小さな雨だれが石を穿つようなものである、続ければ必ず穴が穿たれる。途方もないことに見えるが、力を合わせ、力を集中させ一点で突破しよう。


アンネのバラ

グンゼスクエア内の綾部パラ園↑(中央のプレートは世界連邦マーク、園全体もこの形に作られている)
JR綾部駅北口広場↓(アンネ・フランクの像)

「アンネのバラ」はこうした金色~ピンク色に見える色をしていて、すぐ見分けられる。蕾の時は赤、開花後に黄金色、サーモンピンク、そして赤へ変色するそうである。きれいなバラだが、育種者が有償での販売を禁じていたため、地元のヨーロッパでは途絶えてしまっていた、その後日本から逆移植されて、今はかの地でも咲いているそうである。
1955年ベルギーの育種家デルフォルヘの新交配種で、1960年 Souvenir d'Anne Frank (アンネ・フランクの形見) として品種登録されている。 1959年、デルフォルヘはスイス旅行中にオットー・フランク(アンネの父)と出会い、自分が作り出した交配種の中から最も美しいバラを「アンネの形見」として捧げた。 オットー氏は当初は庭がなかったので育てることが出来なかったが、やがて庭付き家に引っ越して、アンネのバラを育てた。
一方、綾部市白道路町出身の大槻武二氏が1946年に創設した「聖イエス会」の合唱団(しののめ会)が1971年海外演奏旅行に行き、その途中、イスラエルで、オットー氏と出合った。
合唱団帰国後、メンバーの一員・大槻道子氏はオットー氏との間で文通を重ね友情を深めていった。1972年クリスマスに、オットー氏から「アンネの理想と理念に対して深い理解を寄せて下さるあなたにアンネのバラを託します」との手紙を添えて、10本の苗木が送られてきた。
しかし、長旅のうえ検疫や冬の寒さにより10本のうち9本は枯死寸前で、ただ1本だけが京都・嵯峨野教会の大槻武二氏の庭で根付き、1973年春、日本で初めてアンネのバラが咲いた。
1975年8月、NHKの教養番組でアンネのバラが紹介される。
1975年秋、杉並区の中学校からアンネのバラを育てたいとの要望もあり、大槻道子氏は渡欧して、オットー氏と再会した。翌年春、再会記念として再度10本の苗木が送られてきた。2度目の苗木は10本とも状態良好で、うち3本は当日中に東京都農業試験場で技師達により育てられた。また「アンネと同年代の、日本の少年少女たちの夢をかなえてあげたい。」との意向により3本が同中学に送られる事になったという。
10本の中の1本を増殖のためにと託されたのが綾部市高槻町の山室隆一、建治父子であった。隆一氏は大槻武二氏の義弟、建治氏は道子氏とは従兄弟である。高校の教師だった二人は、このバラによってアンネの平和への願いを伝える事が使命と信じ、託された1本をもとに接ぎ木による増殖を始め、平和を願う全国の人々に送り続けたバラは、親子二代でこれまでに8000本を越えているという。綾部に咲くアンネのバラはその1本から増えたバラである。
舞鶴の中学校などにも贈られたというが、その後どうなったものか、バラはけっこう手間のかかるハナだそう。中学校というのはアンネの同年齢ということだが、本来なら隣町だから、こちらからもらいに行くくらいはしてほしいが、どこかの町のすぐ木を切る、心にバラが咲いていない屁がトグロ巻く風土では、どうも根付くのは心配と思ったりアタシはしている。
アンネのバラは綾部がなければ全世界から絶滅していたかも知れないバラ品種である。アンネのバラとすれば綾部こその故郷ということになろうか。今は販売もされているようだし、一般市民も育てる人があるようが、だいたいは「聖イエス教会」系の教会などで育てられてきたようである。
グンゼスクエア内の綾部パラ園の案内プレート

アンネのバラ・日本伝来と伝播の真実
”もし神様がわたしを長生きさせて下さるなら、わたしは世界と人類のために働きます。戦争が何の役にたつのでしょう。なぜ人間は仲よく暮らせないのでしょう。”
 第二次世界大戦時ナチスに捕えられ、強制収容所で15歳の短い命を失った少女、アンネ・フランクが、苦悩の隠れ家生活の中で平和を訴えた日記の一節である。「アンネのバラ」はベルギーのバラ育種家デル・フォルグ氏が育成した新品種で、アンネの死を悼んで「アンネの形見のバラ」と命名し、アンネの遺志を伝えるため活動していたアンネの父、オットー・フランク氏に贈られたものである。
 このような、平和と命の大切さを伝えるアンネのバラが日本にもたらされ、広まるにあたっては、そこに不思議な綾部との大きなかかわりがある。
 綾部市白道路町出身の大槻武二氏が1946年に創設した「聖イエス会」の合唱団が1971年海外演奏旅行に行った。
その途中、イスラエルのナタニアで一人の初老の紳士が合唱団に声をかけてきた。彼こそアンネの父オットー氏であった。
オットー氏は、恐怖のアウシュビッツ強制収容所から、家族の中でただ一人生還した人である。
 合唱団帰国後、メンバーの一員・大槻道子氏はオットー氏との間で文通を重ね友情を深めていった。1972年クリスマスに、オットー氏から「アンネの理想と理念に対して深い理解を寄せて下さるあなたにアンネのバラを託します」との手紙を添えて、10本の苗木が送られてきた。しかし、長旅のうえ検疫や冬の寒さにより10本のうち9本は枯死寸前で、ただ1本だけが京都・嵯峨野教会の大槻武二氏の庭で根付き、1973年春、日本で初めてアンネのバラの花が咲いた。
1975年、大槻道子氏は渡欧して、オットー氏とスイスで再会した。翌年春、再会記念として再度10本の苗木が送られてきた。この時の10本はそれぞれに増やされていったと思われるが、すべては把握されていない。しかし、その中の1本を増殖のためにと託された綾部市高槻町の山室隆一、建治父子の事は特筆したい。
 隆一氏は大槻武二氏の義弟で、建治氏は道子氏のいとこである。高校の教師だった二人は、このバラによってアンネの平和への願いを伝える事が使命と信じ、託された1本をもとに接ぎ木による増殖を始めた。平和を願う全国の人々に送り続けたバラは、今年3月までに約8000本となった。
 こうしてアンネのバラは、「愛と平和の使徒」として日本各地で愛される存在となっている。 2010年10月16日
寄贈 アンネのバラ  山室建治
綾部市制施行60周年市民会議
市民バラ園整備実行委員会



ふりそでの少女像

長崎原爆資料館の屋上庭園の「未来を生きる子ら(ふりそでの少女像)」。同館のシンボル的な像となっている。
碑文には次のようにあるという。
未来を信じ、未来に生きる若者として、戦火の中で傷つき苦しめられたアジアの人々に、そして、平和を愛し戦争の無い世界を願うすべての人々にこの像を捧げたい。
戦後50年の春、「悲しさ別れ-荼毘」に描かれた少女の一人、福留美奈子ちゃんの母志なさん(93歳、京都府綾部市在住)の、「長崎に平和を祈るお地蔵さんをたてたい」という願いをつづった一通の手紙が綾部中学校生徒会に届いた。原爆にわが子を奪われた母の思いを折り鶴に込めて、ヒロシマへ修学旅行に行く私たちに託し続けてこられたおばあちゃん。過去の歴史と現実について学んできた私たちの胸に、おばあちゃんの願いは強く響いた。その願いをかなえたいと、中高生の仲間、父母、先生、地域の人々が集まり「長崎にふりそでの少女像をつくる会」が生まれ、募金活動が始まった。「像をつくって終わるのではなく、そこから世界へ平和を考える輪を広げたい」そんな私たちの思いに共感して下さった全国の方々の支援と、像制作にたずさわった多くの方々の熱意と努力によって、像は完成した。核兵器のない自由で平和な世界を願い、ナガサキから世界の青空へと舞い上がる二人の少女によって人々の思いは一つに結ばれた。
この像がつくられた道のりこそ、平和な未来をつくる真実の道だと私たちは確信する。
 1996年3月31日 長崎にふりそでの少女像をつくる会

ブロンズ製の幅2メートルを越える、等身大を少し上回るくらいだろうか、ワタシは見たことがないので、正確ではないが、かなりの大きさの立派なものである。驚くことに、この像は綾部中学校の生徒たちが募金を集めて建てたものである。
広島の原爆ドームの保存運動も、わずかな小・中・高校生が当初の中心だったという、かれらには神が乗り移る時がある、のかもと、感じられるような大活躍をすることがある。後には彼らの活躍はたいていは消されて、何か最初から立派な団体等が始めた運動かのように記録されるが、それはだいぶにヤシものである。大きな立派な団体などは図体がでかいため小回りがきかず、最初から敏感に動いたりはできない。行き先不透明な社会動静のなかでのここ一番の突撃隊はもっと若くしがらみなく、純な感性を持った行動力のあるところから生まれる。取り壊されようとしていた原爆ドーム、米大統領も訪れたドームの保存に最初に立ち上がったのは、立派顔をした連中ではなかった。原爆の子の像もそうした中学生などが中心であった。
それはともかくも、綾部中の毎回修学旅行は広島で、原爆の子の像などに千羽鶴を届けてきていた。オバマ大統領も自らが折ったものを届けてくれていたが、鶴は生徒が折った物のほかに、市民が折ったものなども一緒に持って行った、6万羽とかにもなるそうであるが、市内に福留志なさんというおばあちゃんがおられ、この方もいつも中学生たちに折鶴を託されていた。
この方は「ふりそでの少女」のお母さんである、このお婆ちゃんの「娘のために小さなお地蔵さんを建ててやりたい」の願いを中学生たちがきき、何とか作ってあげたいの思いが、この像に発展していったものであった。

「ふりそでの少女」は、松添博氏の絵本(←)で知られるが、氏が長崎で被爆されたのは中学生のときであった。
長崎のあちこちで、死んだ人が山積みにされ、一度に何人もが火葬されていたという。
そんなある日、←こうしたところ行き会わせたという。

近くの畑で、私は二人の少女に出会ったのです。
美しい晴着を着て、うすげしょうをしています。
はい色の町の中で、そこたけが別世界のようでした。
二人は、これから火葬にされるところでした。
何年たっても、私は、この光景をわすれることができませんでした。
そしてある年、とうとう一まいの絵にしたのでした。

それはこの時より29年後のことであり、「悲しき別れ-荼毘」と名付けられ、原爆資料館に展示され、またストックホルムで開かれた「核の脅威展」で複製が展示されたりした。
その後、氏はこの少女たちの身元探しをされる。神のお導きとでも言うのか、戦後40年以上も経ているのにポロポロと判明しはじめ、福留美奈子ちゃん(9才)と大島史子ちゃん(12才)で、美奈子ちゃんのお母さんは綾部におられるということがわかり、この絵本も作られた。
史子ちゃんの両親はなくなっておられ、美奈子ちゃんのお父さんもなくなっていた。不思議なめぐりあわせで、綾部こそが、この少女たちのこの世での親元の地となっていた。

綾中の生徒たちは募金運動に取り組みはじめた。学校の中はダメだといわれるので、それなら外でやろう。外となると大人達のサポートがないとどうにもならない、すぐに熱心な「長崎にふりそでの少女像をつくる会」も立ち上がってくる。子は社会の鏡というが、子がシッカリしているのは周囲がそうだということであろう。イジメばかりしているならそれは周囲の大人がそうだということであろうか。さらにそれを隠すという大人の腐った社会こそが問題なのかも知れない。
中学生たちがアスパ前とか街頭に立とようになるとマスコミが取り上げ、それを知った全国の人々から支援が寄せられる。
像の制作者は舞鶴の余江勝彦氏で、浮島丸殉難者の像の制作者、追悼する会会長である。殉難の像は舞鶴一の像だがセメント、長くもたない、この像もよい、しかも長くもつ。
どちらが美奈子ちゃんというものではなく、戦争で亡くなった全世界のすべての子供、人々を代表した二人の少女の像ということという。


水源の里

最初に「水源の里」に指定された市志↑フキのオーナー制度などかある。市の中心より27㎞、16世帯、23人、高齢化率100%

「限界集落」という言葉がある。65歳以上の高齢者が集落人口の半数を超え、冠婚葬祭や田んぼ・生活道路の管理など、社会的な共同生活の維持が困難な状況にある集落をそのように呼ぶ。機能を失った集落は消滅に向かうとされる。
1集落どころか、村ごと、町や市全部が、いや日本という国全体がまもなくそうなってしまうかも知れないという事態となっている。2005年くらいから日本は出生数より死亡者数が上回っていて、放置すれば、日本消滅となろう。何も綾部だけの問題ではないが、綾部市は昭和25年から人口が減り続けている。舞鶴市は昭和40年くらいから減り始めている。
元々が社会単位として生活基盤が強くない所、交通不便な山奥とか、町なかでも団地やマンションなどの同世代ばかりの社会、今はバンバンでまったくダイジョウビでも、時が進めばこうした状態へとまずは追い込まれていく。
箇々の集落の問題というよりも日本社会、日本人の全体と一人一人が「死に至る病」に冒されている、一見元気そうに見えるが内科系の重病でジワジワと死が迫っている。
綾部は行政がしっかりこうした所に目を向けている、これはよくがんばっている所すらも昔からホッタラカシにする舞鶴からも知られていた。綾部の田舎を歩いて気付くのは行政の目が行き渡っているのが感じられる、いわれる。要は「心が通っている」ということのよう、相手は人間なのだから「心」を欠いては何をしてもダメで、どこかの町がその好サンプルになる、アホほどゼニをかけて行政が大ラッパを吹きトップダウン式に進めるが、市民は横向いている。「あんなとこは二度と行きとうないですワ」などといわれているが、それにも気付かない。このやり方はダメ、一方的に上から視点で「お助け」すればいいというものではない。

上流が荒れると下流は大洪水に見舞われる。全部つながっているのだから、上流だけの問題で終わりはしない。下流だけ発展しようなどと、さもしいことは考えてはならない。
舞鶴市の西方寺平も視察調査をしたりして、日本最初の「水源の里」条例ができ、5つの集落が指定された(平18)。
舞鶴市岡田中は全体としては減り続けているが、西方寺平が元気で70名はがりのIターンの若者が農業に取り組んでいる。オドロキだが、これは愛農高校の卒業生たちや市内のサポーターたちががんばってきておられたもので、当初は行政とか政治は何も別にしていないと言ってもいいようなことである。農業者たる前に人間たれ、と教えられた卒業生たちが魅力でそれを慕って集まり次第に増えていったというところか。ムラ自体にすらヨソモンへの拒否反応があるくらいのことである、ムラが存亡の危機にある、ヨソから助っ人にきてもらおうか、来たいといってる人がおるんやが、イヤそれはチョット。
別に農村だけではなく、舞鶴などはアチコチでよく聞かれるハナシである、身勝手が服を着て歩いているような者ばかりで自分で自分の首を絞めていく、よく見られる。そのムラなり会社なりで中心的な人物すらがこうしたことで、寄せ付けないような狭い根性はすぐに見抜かれて、こんなトコはユメは持てないとみて若者が去って行くのも当然、有意な人はそうしたことにも敏感である、「自然はエエとこやけどなあ、住んどる人間がなあ」「アンナモンがおるようなトコやでなあ」などと言われて嫌われる。農村が停滞衰退する、それは政治や行政、経済など外部だけの問題ではない、そのメンバーの人間も問題である。いくらゼニを投入してもそこの人間が嫌われていては人はこない。都市はロクな者がいなくともゼニがあって群がってくるのだが、田舎はゼニはない、田舎は都市と同じテイドの心では勝負できない、自分の子さえ去って行くでないか、問題はド深刻である、甘いハナシではない、チョコチョコではムリ、身勝手でワシガワシガの全員が人間としての心を磨くくらいのことはして勝負ということか、過去にも経験したであろう危機であり、その克服法が村には残されているかも、それらがないなら自滅が半分くらいの滅亡は避けられないかも。。
その後も同条例は拡張維持され、今では16集落が指定され、自助努力とともに行政もあらゆる手段を総動員して問題に立ち向かっているという。
また全国組織「全国水源の里連絡協議会」を立ち上げ、舞鶴市も含めて161の市町村が加わっているという。
具体的にそれらについては他のページや書籍などを参照して下さい。
小さな集落の崩壊だけての問題ならば、そうした所だけに限られた問題というならば、まだたいした問題ではないかも知れない。しかしこうした社会の基礎の崩壊は何もこうした所だけにとどまりそうにもない。あちらでもこちらでも壊れている。頻発する群小地震のようなものか、日本社会の全面崩壊の凶兆でなければよいが。
そんな不便なトコはあきらめて、都会に来て住みはったら、というのはもう狭い日本はあきらめてアメリカに住みはったらどうです…、と同じかも。そうした問題ではなかろう、どこであろうが住みやすくしていく努力をしなければなるまい。難民移民受入断固反対のくせに、それは海外の人々だけでなく、口先は別として困っている人へは意外に冷たい、性格ワルイ面ももつ国というか国民で、国内の人でも受け入れないのであろうが、それはどうした努力をしていくべきかは、ジャバニーズ全員アメリカか満州移住しよう論を批判しながら考えればわかるかも。。。



綾部市の主な歴史記録


『両丹地方史70』(2002.6)
世界連邦都市 綾部のローカリズムからグローバリズムへ
綾部史談会  山崎 厳

はじめに
昭和二十五年八月一日 一町六ヶ村の第一次合併(第三次合併 昭和三一年)により綾部市が誕生し、長岡誠初代市長や初めての市会議員が選出された。十月十四日には第二回綾部市議会が開かれ、世界連邦都市宣言が可決された。これは日本でも最初のことであり、綾部にとってはまさに画期的なことであった。それ以来現在までに全国で三百七十八の自治体が都市宣言をし、世界連邦建設同盟の傘下に世界連邦宣言自治体全国協議会(会長 四方八州男綾部市長)の組織をもって、世界的な平和運動を展開している。
京都府で現在までに宣言しているのは、二番目として旧亀岡町(宣言日時昭和二七・一一・二、旭村(昭和二八・七・一九)。これらが合併し、亀岡市(昭和三○・六・二八)となり、京都市(昭和三二・一○・一八)、園部町(昭和三三・九。二七)、宇治市(昭和三五・一二・一九)、京都府(昭和三九・九・一九)、福知山市(昭和四五・九・三○)、舞鶴市(昭和四五・一○・二)、宮津市(昭和四六・三・二九)等で、近くでは豊岡市(昭和四二・三・二二)が宣言している。
終戦時の東久邇宮内閣から請われて内閣参与になっていた賀川豊彦に、首相から「日本が平和国家として今後国際社会に復帰するには如何にするか」という諮問に答えて、昭和二十年九月七日「国際平和協会」を設立し、これが母体となって同志小塩完次らとはかり、昭和二十三年八月六日世界連邦建設同盟(初代総裁 尾崎行雄、副総裁 賀川豊彦)が設立され世界的に運動を展開することになった。世界的なフェデラリストであるアインシュタインの意志を受け継いだ湯川秀樹夫妻も一生を世界連邦運動に捧げられた。綾部でおこった大本教も、人類愛善会の組織で綾部市と協力しながら今日まで半世紀に及ぶ世界連邦運動を推進してきた。

綾部のローカリズム
綾部は戦前五十年間は養蚕製糸業が栄え、蚕都綾部と呼ばれ、東の片倉西の郡是とも言われ全国的に有名となった。戦後の五十年は世界連邦平和都市を標榜してきた。又、大本教は明治二十五年綾部で開かれてから百年間に、二回の国家権力によって壊滅的弾圧を受けながらも現在なお隆々と栄え、世界連邦運動に貢献している。舞鶴と福知山に挟まれた山間の綾部は両市とは異なった近現代史の道を歩いて来た。その綾部人の一貫した共通の考え方は在地性の強い素朴なローカリズムともいうべき綾部人気質が貫いているように考えられる。さらにこのローカリズムが明治以来の国家主義的ナショナリズムにより蹂躙され、その苦難を乗り越えてグローバリズムへと変貌しながら綾部の現代史を歩んできている。耕地も少なく生産性も低く、毎年のようにおこる由良川の氾濫に田畑は荒れ、藩政改革も行われず、とにかく綾部の農民は恵まれず貧困であった。その上明治の貨幣経済にも取り残されていった。その新政への不満は明治六年の明六一揆や明治十五年の自由民権運動の反政府運動に立ち上がったが、権力の前にあえなくついえさった。綾部が救われるのは明治二十年代の蚕糸業の発達であり、綾部人はこれに運命を賭けることになった。明治二十六年、城丹蚕業学校(はじめ高等養蚕伝習所)を創立し、何鹿郡の青年を養蚕技術者に養成し、養蚕農家の指導にあたらせ、明治四十年女学校の創立は普通女学校と異なり何鹿郡養蚕農家の主婦養成を目的としている。日清戦争直後の明治二十九年には郡是製糸会社が設立されるが、非常に綾部のローカリズムをうかがうことが出来る。郡是という社名も何鹿郡の発展を蚕糸業によって復興することを使命とする会社であることを自ら表現したものである。設立の動機は、当時何鹿郡の繭の生産高は三千五百石で、これを郡内労働力で生糸とし付加価値を高めて郡外へ販売することを目指し、その繭を生糸にするために必要な百六十八釜の規模の製糸工場で創業している。株券も総株数四千九百株(額面二十円)の七五%は何鹿郡の養蚕農家に一株~二株をもってもらい、会社と養蚕農家との結び付きを深めている。繭の購入でも今までは製糸家が養蚕家の弱味につけこんで繭を買いたたく従来の古い悪弊を改め、正量取引を行い繭の切歩(繭糸層重量)を秤量し、諸経費や加工賃など差引いた上で、その時の公開生糸相場で繭価を算出する合理的な方法で、養蚕家の信用を得ている。会社の役員は郡内各村の有力者がなり、従業員は当初何鹿郡農家出身者から採用している。又当時一般製糸工場の女子工員が風紀が乱れているという批判に対し、全寮制にしてキリスト教的道徳教育で厳しく訓育した。このことは地域や親から信頼され、女子工員が結婚する際には積立貯金通帳と箪笥や下駄箱などの嫁入り道具まで持たすほど行き届いたものであった。確かに養蚕製糸業は綾部を豊かにした。村々には白壁の蔵が建ち、北西町商店街も繁栄し白亜の三ツ丸も建った。月見町の花街さえ繁昌した。又電話(明治四三年)や電気(明治四五年)、道路整備など綾部の文明開化も郡是の後援で近代都市化していった。これらを資本の労働搾取の類型であるとする一部の論もあるが郷土史の立場から見るとそう簡単に割り切るべきではなかろう。
ところが綾部人が半世紀営々と築いた蚕糸業も、戦争のため国家の命令で製糸工場はすべて軍需工場となり、桑畑は掘りおこして芋畑と化した。戦後化学繊維の普及で生糸産業は経営の転換が余儀なくされる運命ではあったけれど、戦争遂行の国策のためとはいえ蚕糸業の急激な衰退は綾部人にとっては誠に口惜しいことであった。
大本教は明治二十五年出口ナオによって開かれた。ナオの地獄の鍋のこげおこしの貧困と逆境のどん底から生れたものであるが、同じように苦しむ綾部人の救済でもあった。艮(うしとら)の金神という極めて土俗性の強い土地神への信仰に発し金神の再現によって「けものの世われよしの世をみろくの世に」立て替え立直す世直し的終末観を唱える在地性民衆宗教として綾部に生まれた。この土俗神信仰と、立替え立直しの革命的性格は天皇制国家主義と当然相入れない接点があり、大正十年と昭和十年と二回にわたり邪教大本として国家権力により壊滅的な弾圧を受けねばならない運命があった。この二度の弾圧のなかから大本が生き残っていくには、軍国主義的な天皇制国家の呪縛から離脱し、国家・民族を飛び越えて自由な普遍性理論を樹立し、人類愛善・万教同根の普遍宗教として発展していかねばならない要因が内在していた。早くも第一次大本事件後、責付出獄中(仮釈放)の身でありながら出口王仁三郎は、大正十年十月より今までの開祖ナオの神諭をもとに霊界物語八十一巻を著し、大本教理を確立し、世界宗教統一をめざし先ず満蒙の統一のため日本を脱出し入蒙している。又中国の宗教界と提携し世界宗教連盟を北京で結成、日本では万国信教愛善会を設立し、国際的な宗教融和運動に乗り出し、大正十二年から国際共通語エスペラント語を取り入れ、エス語普及会をつくり海外普及運動を展開し、これらの運動をさらに発展するため、大正十四年六月「一つの神、一つの世界、一つの言葉」を実現すべく人類愛善会を設立している。このように大本は第一次弾圧のあと、国内布教の限界と国家権力の軋轢から脱し、海外布教と国際的活躍の場を求め、グローバリズムに変貌していく兆しを既にみることが出来る。
戦争が終り綾部の古い支配者層は引退し、三十代、四十代の若い層が進出し、新憲法のもと文化国家、平和国家建設が叫ばれた。養蚕業を戦争で失った何鹿の農民は戦後新しい生活をいちから立直さねばならなかった。
今度の戦争で何鹿郡千九百余名の戦死者の遺族達は赤紙一枚でお国のために夫や子供を失った悲しみの中で、お国とはわれわれにとって一体何であったのかを考えたであろう。
再び戦争を起こさないためには如何にしたらよいのか真剣に模索したであろう。
このように、明治の近代化に取り残された綾部人の救いともなった綾部ローカリズムの思潮からおこった蚕糸業の富も、大本教の救いも、軍国主義化した国家権力の前にあえなく潰え去った。その綾部の蒙った地域的受難をバネにしてインターナショナルなグローバリズムが芽生え、その延長線上に戦後世界連邦運動が綾部で結実していったものと考えられる。

世界連邦都市宣言の経過
綾部に於ける世界連邦運動は最初キリスト教徒によって丹陽教会からおこっている。昭和二十三年八月六日賀川らにより世界連邦建設同盟が設立された。それ以後賀川・小塩などは全国的な平和運動を展開し、全国遊説に乗り出していった。
昭和二十四年三月十二日に賀川は綾部の丹陽教会に来て「十字架宗教の社会的創造性」と題して講演を行っている。恐らくこの時に丹陽教会原忠雄牧師と賀川との間に世界連邦についての話し合いや、小塩完次綾部講演会開催の依頼もされたと思われる。原牧師は早速信徒代表で前記国際平和協会々員でもあった佐々木小太郎と相談し講演会準備を進め、又郡是でも講演会を開くため下交渉に行っている。昭和二十四年六月二十三日小塩完次が山陰地方遊説の帰途、来綾し丹陽教会で講演会をもった。これが綾部の世界連邦運動の口火となるのである。
午後五時半小塩と原牧師は郡是へ行き、社内講演会をもったあと八時半より丹陽教会で「第三次世界大戦と世界連邦」と題して講演。この時賀川が戦後アメリカから持ち帰った、作家シドナ・ホワイト女史の「如何にして戦争を絶滅するか -二十世紀にやりとげる世界連邦への手順-」という、その当時としては珍しいスライドを使っての講演であった。筆者も復員して地元城丹の教師となっていたが、その時丹陽教会の原牧師もアルバイトで城丹の英語講師で来られ机を並べていた。親子ほど年は異なったが、戦時教育の中で育った私に、アメリカ留学の経験など新しい知識をいろいろと教えて頂いた。そんな関係で賀川・小塩の講演も原牧師の誘いで偶然にも聴きに行っている。この時分電力事情悪く電圧が低くてスライドの画面は暗かったが熱のこもった講演であった。この講演を知っている綾部人も今は数少なくなった。午後十一時までかかり、その夜は佐々木宅に泊まったことが原日記に記されている。第一回の小塩講演の反響は大きかった。世界連邦に賛同していた山田吉之助綾部文化協会副会長(のち支部長・医師)は役員会にはかり、世界連邦思想を市民に啓蒙するため綾部町と文協主催で第二回小塩講演会を開くことになった。佐々木小太郎氏から再び小塩氏に講演依頼をし、七月十二日波多野記念館(現熊野神社の位置)で開催。予想を上まわる人気で聴衆は千五百名を超え、筆者も文協役員で当日会場係をしていたが、柱だけで支えられた木造二階の突き出しがあふれ、必死で移動してもらった思い出がある。講演は大成功で聴衆に深い感銘を与えた。その翌日(七月十三日)商工会館(当時本町三丁目)に有志六十余名が集り、その場で三十一名が世界連邦建設同盟に入会、町議員全員二十四名のうち二十名が入会、佐々木の動議で当日の入会者をもって綾部支部設立準備委員会を結成、長岡誠町長が委員長に選出された。今後支部結成のための署名活動や市民への啓蒙活動などの運動方針が議せられた。
一方大本関係の動きとしては第一回小塩講演会の時、大本幹部山口利隆(松月)もその夜の聴衆の一人であった。山口氏は昭和二十三年頃から原牧師などと綾部宗教連盟という私的な宗教人の会をつくり、綾部の各派宗教人が定期的に懇談会をもって交流を深めていた関係で原牧師とも懇意であった。海軍将校から大本に入信された人である山口は、小塩講演に大変感激し、その翌日(十四日)わざわざ小塩氏を口説いて綾部から亀岡へ同道し、出口すみ二代教主(ナオ末娘王仁三郎妻)に会わせ、出口伊佐男(すみ三女八重野女婿・宇知麿・のち愛善会長)や大本幹部十数名と懇談、大本の愛善思想と世界連邦思想が共通するものがあることの理解が深められた。七月十二日第二回小塩講演会の時、小塩に同道した世界連邦本部の大橋松太郎は十二日亀岡を訪れ、教主や幹部と懇談したあと、すみ教主は小塩氏と会うべく、わざわざ綾部に帰りカナメ荘に入られた。ここで講演を終えた小塩氏と夜を徹して世連邦運動について意見交換が行われた。その話し合いを通じ教主は戦争絶滅・世界平和の実現はこの道よりほかにないとして、世界連邦運動に全面的に協力することを決意され、その取り組みを指示された。それを受けて役員で検討された結果、このような社会運動は宗教団体とは別の外郭組織(人類愛善会)をつくって進めることが適当であるという結論となった。既に大本では大正十年の第一次大本弾圧事件のあと、大正十四年王仁三郎師が「お照しは一体世界は一つであり人類はすべて同胞で国家・民族・宗教を超えて人類愛善の光明世界の建設を目指す」目的で人類愛善会を設立した。ところが昭和十年の第二次大本事件で組織が崩壊していたものを、昭和二十四年十二月八日世界連邦運動を推進するための組織として人類愛善会を再発足させ、会長に出口伊佐男氏が就任した。昭和二十四年九月四日第三回小塩講演会と世界連邦綾部支部結成大会が波多野記念館で挙行された。この時山田吉之助文協副会長が世界連邦建設同盟綾部支部長に正式就任された。其の後綾部支部が中心となって、世界連邦について市民に署名運動を行った結果、賛成者五千百三名が集った。
このように多くの市民の賛成が得られたことは、長岡市長をはじめ当事者たちが市会決議に踏み切る情勢が固まっていった。昭和二十五年十月十三日第二回定例綾部市議会の全員協議会に、世界連都市宣言の案件が第二十九号議案として、米川清吉・梅原啓治連名で提出された。米川議員は大本選出市会議員のフェデラリストであり、梅原議員は文協役員で青年団を母体に選出された議員である。当日は小塩氏も来綾し発言が許されている。全員協議会で可決され、翌十四日の本会議で全員一致で可決された。この提案は第一回小塩講演会から一年余り大本側と市側とが別々に運動を進めていたものが合体して、協同提案の形で提出された。以後両者は相互の独自性を尊重しながら相提携し、今日まで半世紀世界連邦運動が進められている。当時左翼の平和運動が盛んであり、この年六月には朝鮮戦争が勃発し、米ソの対立で緊張している時で、長岡市長はG・H・Qの指示で京都府警に呼び出され、国家主権について尋問されるという緊迫した時代で、日本最初の宣言という大いなる不安や批判などがあったのに決断に踏み切ったことは綾部にとって歴史的な事件であった。昭和三十七年長岡市長勇退の時の談話に「私の十五年間の市長生活で最も価値あることは都市宣言であった。机上の空論とか、痴人の夢だとか批判を受けたように、確かに市民意識に先行していた点は承知していた。
しかし東西冷戦・水爆実験・朝鮮戦争など世界情勢は緊迫していたなかで、私の信念はますます強く、地に播いた一粒の麦がやがて大きく育つことを希って。…」踏み切ったことを述懐されている。
綾部の宣言は世界連邦本部に於いても反響を呼び、組織が設立されたものの具体的運動を如何にするか模索されていた時で、綾部の宣言に大いに力づけられ、運動の方向づけが示され、日本の世界連邦運動が今後自治体宣言の拡大に重点を置く方針が確立していくきっかけともなった。

〔資料〕
・議第二十九号 議案
    世界連邦都市について
日本憲法第九条により日本国民の正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求するは、我が国民の義務にして、同時に世界の人々が求めて止まない処である。即ち地上永遠の平和と人類の幸福を具現するの道は、一に世界連邦機関の顕現にあり、故に我等市民は、これが同意を中外に宣揚する為、次の宣言文を綾部市議会の名において決議されたい。右提案する。
  昭和二十五年十月十四日
         提出議員  米川 清吉
               梅原 啓治
  綾部市議会議長 村上義信 殿

・世界連邦都市宣言文
綾部市は 日本国憲法を貫く平和精神に基づいて 世界連邦建設の主旨を賛し全地球の人々と共に 永久平和確立に邁進することを宣言する
  昭和二十五年十月十四日
              綾部市議会

現在宣言都市は三七八自治体に及び、それぞれの宣言文をみると内容が違っている。大きな相異点は、自ら世界連邦都市たることを決意すると世界連邦をはっきり称しているもの、世界連邦を記さず、単に世界平和という表現にしているもの、世界連邦を記しているが、ニュアンスが異なっているものがある。綾部市の宣言は最も多いタイプで、第九条型ともいえるもので、憲法の平和精神に基づいて世界連邦建設を賛しと穏やかな表現をとっているが、前文は格調高く優れたものと評されている。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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