丹後の地名プラス

丹波の

漢部郷(あやべ)
丹波国何鹿郡漢部郷
京都府綾部市の中心部




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京都府何鹿郡綾部町



漢部郷の概要




《漢部郷の概要》

漢部郷は、「和名抄」丹波国何鹿郡十六郷の1つ。刊本は「後部」とするが、これは写し誤りであろう、高山寺本は「漢部」とする。郷域は綾部市の味方町を除く旧綾部町域に比定される。今のJR綾部駅一帯の市街地となっているあたりである。

また「三代実録」には節婦として位を与えられた「丹波国何鹿郡人漢部福刀自」(貞観8年9月20日条)、「丹波国何鹿郡人漢部妹刀自」(仁和3年6月5日条)が見える。

漢氏は後漢霊帝の裔と称しているので、その「漢」をとって、漢氏と書いて、アヤウジとムリに読ませているものと思われる。秦の始皇帝の裔と称する秦氏が「秦」と書いてムリにハタウジと読ませているのと同じリクツである。しかし史実はおそらく何も中国王朝家とは血の関係はないであろう、己が氏族の権威付けのための虚構かと思われる。どこかの国の大将が太陽神の裔とか称するよりは真実に近いかも、どこのリッパな者の裔であるとも言えるような家柄ではない田舎者が、神の裔と名乗り、自分でもそう信じたものか、エライ者とその領内ではされているが、世界の片田舎の成り上がり者のよう、猿の裔とか称すれば正解であろうが、そう名乗る氏族は見られない。みな己が先祖を立派に見せたいようだが、それがかえって大ウソを白状するようなことになる。世の中の歴史とか言うものはたいていはそうしたもので、大ホラばかりだということに注意しなければならない。言っている当人たちすら信じていそうもないが、その取り巻きが気に入られるために大吹聴して、あたかも真実であるかのようにされ、ウソだなどと言えばムシュ行きで密かに虐殺となったのは、ほんの数10年前であった歴史をどこかの自称スンバラシイ国は持っている。もしかして脳味噌を腐らせたくなければ、ド古くさい馬鹿げた信仰を一日も早く捨て去ることである。

綾部市の漢部は中世も漢部御厨、漢部郷であり、寛正2年(1461)の何鹿郡所領注文(安国寺文書)にも漢部と書かれているが、天文20年(1551)の永忠書状(片山家文書)に、
 何鹿郡綾部郷内北分事、令合力候、弥可被抽忠節儀
 肝要候、恐々謹言
  (天文廿)九月廿三日   (彦五郎)永忠(花押)
     片山右近丞殿へ         進之候

とあって、その後は今のように綾部の文字が用いられることが多い。

「綾」は綾織物のことで、雄略14年紀に、漢織・呉織が来たの記事があるが、高級織物の技術を持った支族も含んでいたと思われる。17年紀には、漢部を集めて直の姓を与えたともある。

漢も綾も当字で本来は加耶諸国の安耶(安羅・安那)国のことだろうと推定されている。百済や高句麗や中国と近い国で文化や技術力高く、紛争を避けて国あげて渡来してきたものであろうか。
応神二十年紀に、秋九月に、倭漢直が祖阿智使主、其の子都加使主、並に己が党類十七県を率て来帰り。
とある。
綾織物が得意だから、漢部というのではなく、漢氏が得意とした織物だから、これを綾というのであろう。

漢氏は大きくは倭漢(東漢)と河内漢(西漢)がある。秦氏と並ぶ古代の巨大渡来大氏族で、両氏が日本に、厳密にはまだ日本はないが、日本のタマゴに、与えた影響は極めて大きい。
幾つもの枝支族があり、倭漢氏の場合は高市郡檜前郷(訓注・比乃久万、比乃久末)を拠点にした檜前(日前・檜隈)忌寸が代表格であった、一括して檜前氏とも呼ばれることもある。
綾部市位田に檜前という所がある、農業大学や観光牧場があるあたりで、ヒノキマエと読んでいるが、単に檜の木が生えていただけなのか、それとも檜前氏の地なのか、かなり気になる地名である、同じ小字名は舞鶴市桑飼上・下にも見られる。
大氏族だから、あちこちに見られて当たり前だが、アヤベという所は、舞鶴市女布小字横波に「あやべ」、桑田郡漢部郷(亀岡市余部町あたり)が見られる。
全国的には『帰化人』(関晃)に、
漢氏は、まず朝廷で伴造の地位を獲得すると、やがて次の段階で私有民の獲得に向うわけであるが、その私有民増大の傾向は、かなり早くから著しかったらしいふしもあり、獲得した私有民の所在地も、品部とちがって、畿外のかなり広い範囲にまでわたったようである。八世紀になってから後の文献に現れる漢部の名を拾ってみると、少なくとも左の諸地方に居たことがわかる。
 播磨国餝麿郡漢部里(播磨国風土記)
 肥前国三根郡漢部郷(肥前国風土記)
 美濃国本簀郡栗栖太里(大宝二年戸籍)
 同  加毛郡半布里(大宝二年戸籍)
 備中国賀夜郡大井郷(天平十一年備中国大税負死亡人帳)
 甲斐国巨麻郡栗原郷(天平宝字五年甲斐国司解)
 備前国津高郡津高郷菟垣村(宝亀五年同村常地畠売買券等)
 伊勢国飯高郡(続紀神護景雲元年十二月丁亥条)
 参河国碧海郡(類聚国史五十四多生部)
 丹波国何鹿郡(三代実録貞観八年九月廿日壬戌条)
 同  同  (三代実録仁和三年六月五日丁未条)

『播磨風土記』に、
餝麿郡 漢部の里 土は中の上なり。右、漢部と称ふは、讃芸の国の漢人等、到来たりて此處に居りき。故、漢部と號く。
とある。
飾磨郡漢部里は今の姫路市余部町という。讃岐国の今の綾歌郡の人がやって来たものか。綾郡とか阿野郡と書かれる。隣の鵜足郡と合併して綾歌郡となったが、郡名から推定すれば漢氏が多かった郡であろう。


漢氏がいかに多かったかは、当時の漢氏の氏族長的な坂上苅田麻呂の上奏文が残されている。『続日本紀』の東洋文庫版の訳によれぱ、
宝亀3年4月、正四位下・近衛員外中将兼安芸守で勲二等の坂上大忌寸苅田麻呂らが〔次のように〕言上した。
  檜前忌寸〔の一族〕をもって大和国高市郡の郡司に任命しているそもそもの由来は、先祖の阿知使主が、軽嶋豊明宮に天下を治められた〔応神〕天皇の御世に、〔朝鮮から〕十七県の人民を率いて帰化し、〔天皇の〕詔があって高市郡檜前村〔の地〕を頂き、居を定めた〔ことによります〕。およそ高市郡内には、檜前忌寸〔の一族〕と十七県の人民が全土に限なく居住し、他姓の者は十中の一、二〔の割合〕でしかありません。
そこで天平元年(七二九)十一月十五日に、従五位上の民忌寸袁志比らがその事情を申し上げ、天平三年に、内蔵少属・従八位上の 蔵垣忌寸家麻呂を〔高市郡の〕少領に任じ、天平十一年に家麻呂が大領に転出して外従八位下の蚊屋忌寸子虫を少領に任じ、〔天平〕神謹元年(七六五)、外正七位上の文山口忌寸公麻呂を大領に任じました。今、これらの人々が郡司に任ぜられるにつきましては、必ずしも子孫へ〔郡司の職を〕伝えてはいませんが、三氏(歳垣・蚊屋・文山口)は交互に〔高市郡司に〕任命されて、今までに四世代を経ています。
〔天皇の〕勅を奉ると、「〔今後は〕郡司としての系譜を調査せず、〔檜前忌寸の一門の者を〕郡司に任命することを許すように」〔とのことであった〕。

「臣下である私どもは、もとは後漢の霊帝の曾孫にあたる阿智王の後裔であります。後漢の天子の位が魏に遷ったとき、阿智王は神牛の教えにしたがって中国を出て朝鮮の帯方の地に行ったところ、たちまち宝帯の瑞祥を得ました。その形は宮城に似ていましたので、帯方に国をつくって人民を養育しました。その後、阿智王は父や兄を召して、「私は東の国に聖人の君主がいると聞いているが、どうして行って従わないでおれようか。もしこの地に長くいたならば、おそらく滅亡してしまうであろう」と告げました。そして母の弟の迂〔本当は迂の干の所が手という漢字〕興徳、及び七つの姓をもつ人民を伴い天皇の徳化に帰し来朝しました。これは誉田天皇(応神)が天下を治めておられた時代のことでした。そこで阿智王は奏上し、「私の旧居は帯方にあり、そこの人民は男女を問わずすべて才芸をもっておりますが、近ごろは百済と高麗の間にはさまれて住むことになり、その地を去ろうかどうか心が定まらずためらっております。どうか天皇のめぐみによって、使者を派遣して、招きよせる、お願いします」と申請しました。そこで勅して臣下を阿智王の八つの分家に遣わし、手分けして出発させました。その結果、帯方の人民の男女は村落こぞって使者に従い、すべて来朝し、永く日本の公民となりみした。それから多くの年月がたち、何代にもわたって今に至っています。いま諸国にいる漢人もまたその後裔であります。ところが臣下である苅田麻呂らは、先祖の王族の姓を失って下級の卑しい姓を授けられています。どうか忌寸の姓を改め、宿禰の姓を賜わりますように…。」。天皇は勅してこれを許可した。坂上・内蔵・平田・大蔵・文・調・文部・谷・民・佐太・山口など、十一の忌寸の姓をもつ氏族の十六人に宿禰の姓を賜わった。

注。迂(*)興徳、及び七つの姓。『坂上系図』の引く『新撰姓氏録』巻二十三の逸文に、阿智王が母・妻子、母の弟迂(『続紀』本文では迂(*))興徳と七姓の漢人らを率いて帰化したとあり、七姓とは段・李・ソウ郭・朱・多・ソウ・高の各姓であるという。これらの漢人から高向村主・刑部史・坂合部首・小市・桧前調使・佐波多村主・桧前村主など多くの氏族が出た。なお迂(*)興徳の「迂(*)」は、『字鏡集』によるとオビカワ・カワオビ(帯革・革帯)の訓がある。本文の「宝帯」と関わる姓か。


『新撰姓氏録逸文』に、
姓氏録第廿三巻曰。阿智王。
誉田天皇(諡応神)御世。避本国乱。率母並妻子。母弟迂興徳。七姓漢人等帰化。七姓第一。段(古記段光公。字冨等。一云員姓)是高向村主。高向史。高向調使。評首。民使主首等祖也。次李姓。是刑部史祖也。次皀郭姓。是坂合部首。佐大首等祖也。次朱姓。是小市。佐奈宜等祖也。次多姓。是桧前調使等祖也。次皀姓。是大和国宇太郡佐波多村主。長幡部等祖也。次高姓。是桧前村主祖也。
天皇矜其来志。號阿智王使主。仍賜大和国桧隈郡郷野焉。于時阿智使主奏言。臣入朝之時。本郷人民往離散。今聞遍在高麗。百済。新羅等国。望請遣使喚来。天皇即遣使喚之。大鷦鷯天皇(諡仁徳)御世。挙落随来。今高向村主。西波多村主。平方村主。石村村主。飽波村主。危寸村主。長野村主。俾加村主。茅沼山村主。高宮村主。大石村主。飛鳥村主。西大友村主。長田村主。錦部村主。田村村主。忍海村主。佐味村主。桑原村主。白鳥村主。額田村主。牟佐村主。甲賀村主。鞍作村主。播磨村主。漢人村主。今来村主。石寸村主。金作村主。尾張吹角村主等是其後也。爾時阿智王奏。建今来郡。後改號高市郡。而人衆巨多。居地隘狭。更分置諸国。摂津。参河。近江。播磨。阿波等漢人村主是也。
姓氏録曰。阿智使主男都賀使主。大泊瀬稚武天皇(諡雄略)御世。改使主直姓。子孫因爲姓。男山木直。是兄腹祖也。(本名山猪。)次志努(一名成努)直。是中腹祖也。次爾波伎直。是弟腹祖也。
姓氏録曰。山木直者。是民忌寸。桧原宿禰。平田宿禰。平田忌寸。栗村忌寸。小谷忌寸。伊勢国奄芸郡民忌寸。軽忌寸。夏身忌寸。韓国忌寸。新家忌寸。門忌寸。蓼原忌寸。高田忌寸。国覓忌寸(陸奥国新田郡)。田井忌寸。狩忌寸。東文部忌寸。長尾忌寸。桧前直(大和国葛上郡)。谷宿禰。文部谷忌寸。文部岡忌寸。路忌寸。路宿禰等廿五姓之祖也。
姓氏録曰。志努(一名成努)是中腹祖也。東漢費直。
姓氏録曰。弟腹爾波伎是也。山口宿禰。文山口忌寸。桜井宿禰。調忌寸。谷忌寸。文宿禰。文忌寸。并大和国吉野郡文忌寸。紀伊国伊都郡文忌寸。文池邊忌寸等八姓之祖也。
姓氏録曰。中腹志努直之男。阿素奈直是也。田部忌寸祖也。
姓氏録曰。中腹志努直之第二子。志多直。是黒丸直。於忌寸。倉門忌寸。呉原忌寸。斯佐直。石占忌寸。国覓忌寸。井上忌寸。石村忌寸。林忌寸等十姓之祖也。
姓氏録曰。志努直之第三子。安良直。是郡忌寸。榎井忌寸(大和国吉野郡)。河原忌寸。忍坂忌寸(大和。河内等国)。與努忌寸。波多忌寸。長尾忌寸等七姓之祖也。
姓氏録曰。志努直之第四子。刀禰直。是畝火宿禰。荒田井忌寸。蔵垣忌寸等三姓之祖也。
姓氏録曰。志努直之第五子。鳥直。是酒人忌寸祖也。
姓氏録曰。志努直之第七子。韋久佐直。是白石忌寸祖也。
姓氏録曰。駒子直之第一子。甲由。是大和国高市郡坂上直等之祖也。甲西之後贈大錦下坂上熊毛等。天渟中原瀛真人天皇(諡天武)十年。改直賜姓連
姓氏録曰。駒子直之第二子。糠手直。是蚊屋宿禰。蚊屋忌寸等二姓之祖也。
姓氏録曰。駒子直之第四子。小桙直。参河国坂上忌寸祖也。
姓氏録曰。弓束之後正四位上犬養。天渟中原瀛真人天皇(諡天武)十四年(日本書記曰。白鳳十三年)。挙族改連賜伊美吉姓。高野天皇天平宝字二年。又改賜忌寸姓
姓氏録曰。犬養男。従三位苅田麿。廃帝天平宝字八年。特賜大忌寸。(○第廿三巻坂上大宿禰。坂上系図。)



『姓氏家系大辞典』には、
漢部 アヤベ 漢人によりて組織されたる品部なり、漢人部と云ふと同じかるべし。
1 倭漢部 雄略紀に「詔して漢部を聚め、共の伴造者を定め、姓を賜ひて直と曰ふ」と見ゆ。
2 忍海漢部 オシヌミ條を見よ。
3 西漢部 又川内漢部ともあり。川内を本拠せし漢部なり。
4 甲斐の漢部 天平宝字六年六月三日の造石山院所公文案に「漢部千代、甲斐国巨麻郡栗原郷戸主丸マ千萬昌戸ロ」と見ゆ。天平宝字五年の甲斐団司解には漢人部と記せり。漢部と漢人部との通ずるを知るべし。
5 丹波の漢部 和名抄丹波国桑田郡に漢部郷あり、又高山寺本、何鹿部に漢部郷(流布本後部郷)を収む。貞観八年九月紀に「丹波国何鹿郡人漢部福刀自、伉儷の亡後、二十二年歴るも、独居虚室節た守る云々」また仁和三年六月紀に「丹波国何鹿郡漢部妹刀自売、生年十四、秦貞雄に適く云々」と見ゆ。高山寺本和名抄本郡漢部郷は後の綾部町の地にして此部民の住居せしより起りしものとす。
6 美濃の漢部 大宝二年栗栖太里戸籍に中政戸漢部目疎、外・母に一、妻に一見え、半布里戸籍にも寄人一人見ゆ。
7 播磨の漢部 播磨風土記、揖保郡漢部里條に「漢部と號する所以は、漢人此の村に居る。故に以て名と為す。」また飾磨郡漢部里、右漢部と称するは、讃芸国漢人等到来、此の處に居る、故に漢部と號く」など見ゆ。
8 美作の漢部 和名抄苫東郡に綾部郷あり。漢部の住居せし地なるべし。
9 備前の漢部 吉田文書、宝亀七年十二月十一日の備前国津高郡収税解に漢部古比麻呂、漢部大楮、漢部眞長、また宝亀五年十一月廿三日の備前国津高郡菟垣村常地畠売買券に菟垣村漢部阿古麻呂、漢部真長、漢部古比麻呂など見ゆ。
10 肥前の漢部 肥前風土記三根郡に漢部郷あり、猶ほ忍海漢人條を見よ。
11 豊後の川内漢部 豊後国大宝二年戸籍に川内漢部佐美、外三人、戸主川内漢部等與外九人、見ゆ。
12 漢部直 倭漢氏の族なり、漢直に同じ。
13 漢部宿祢 漢帰化族。大間書、姓名録抄、拾芥抄等に見ゆ。漢部の宿祢を賜ひしものなり。


秦氏と較べると漢氏は中央権力に近い氏族であった。しかし権力中枢に上り詰めるとかすることはあまりなく、中下級の役人になっている。上は三流のアホで役立たず、実際の仕事は中下層によってしっかり支えられているとか言われる日本の組織の特徴はこのころに作られたものかも知れない。この中間層がダウンするようなことになれば、日本全体、特に権力は終了してしまうであろう。しかし上と下に挟まれているので頭がフラフラするのが特徴で、何党だったか、アレみたいにものか、普通選挙が行われるなかでは、愚かにも上側へのブレが目立つと一挙に見放される立場でもある。日本社会では何でもそうだが、上に妥協的だったりすると即終了である。ド田舎では別としても、あたかも下の味方であるかのように振る舞わねばならない、たいていは大ウソを演じる猿芝居であっても…
また住んでいた所がそんな所であった、権力のすぐそばにいる。彼らが寄っていくのか、権力のタマゴが寄っていってそこで成長するのか、飛鳥の場合は後者であったが、何鹿郡もそうした位置にいて、当地の事情も飛鳥と同じかも知れない。
拠点地の檜前やその周辺(高市郡)は、漢氏の祖の阿智使主が建てた郡で、初めは今来郡と言ったが後に高市郡と改めたともある。高市郡の南部がそれに当たるとされるが、今来は今渡来して来たという意味で、新渡来人郡の意味、あたりには古来の渡来人たちもたくさんいて、それらと区別する言葉かと思われる。その今来郡は日本史の時代区分の「飛鳥時代」の中心地である。また「軽」という所もある、イカルカのカルと関係があるかも知れない。
高市郡は、早く允恭天皇の遠飛鳥宮、顕宗天皇の近飛鳥宮が営まれたとも伝えるが、推古天皇が豊浦宮で即位した592年から、710年(和銅3)の平城京遷都までの100余年間を「飛鳥時代」と呼ぶ。この間、孝徳朝に難波宮、天智朝に近江大津宮へ短期間都が移った以外は、推古朝の豊浦宮・小墾田宮、舒明朝の飛鳥岡本宮・田中宮、皇極朝の飛鳥板蓋宮、斉明朝の飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮、天武朝の飛鳥浄御原宮と宮室は集中的に飛鳥の地に営まれており、次の持統・文武朝の藤原京も新益(あらまし)京と呼ばれるように、飛鳥中心の倭京を拡張したものであった。
この地の住民の90~80%は漢氏だと述べている。飛鳥藤原時代と呼ぶべきか、それとも漢氏時代と呼ぶべきものか、渡来人時代とよぶべきものか。皇国史観では触れないが、彼らなくしては古代日本国家も政治も文化も経済も、その誕生はなかったであろう、日本国誕生なのか、それとも漢氏国の誕生なのか、歴史認識の基本に関わってくることであるが、まあだいたいは故意に無視されてきている、タブーというのでもなかろうが、神聖なる権力を傷つけると考えたのかも知れない、エライ神聖な神のような日本人がいて、実は文字も読めず書けずのレベルだが、その彼らが日本国を作った、日本は神国だと、そうするためには彼らの存在はタイヘンに都合が悪かったのかも知れない…。

漢部の「漢」とはそうした氏族名である、豪族に属した部で、綾織部とする職業部のことではない。「部」はベともトモともよみ、日本では大化改新以前に、朝廷あるいは天皇・后妃・皇子・豪族などに隷属し、労役を提供し、また生産物を貢納した人々の集団をいう。部は中国・朝鮮などにもひろく存在した社会制度で、日本の部の制度も、魏もしくは三国時代の百済の制度を入れたものといわれる。
後にこの制度が整ってくれば、そうしたことであるが、まだ国がなく、国民とか公民とかいったものはない、日本に住んでいる人々は昔から近くの氏族長とかの配下に組み込まれてその氏族長(豪族)に税を取られていた、税といってもお金がない時代だから、生産物や労働や軍役などで支払う、人身的にも隷属していた奴隷も一部にはあった。こうした人々を従来はトモと言ってきたが、それに中国制度の「部」を当てたものと言われる。
部民制度は大化改新(645)で廃止される、真実かどうかは不明だか、だから一応はそれ以前の名である。それ以降は今で言えば皆が国民ということになり、国家に支配されて、丹波国何鹿郡漢部郷とかの国家の地方組織に組み込まれる。


中世文書に「漢部御厨」が見える。鎌倉期~室町期も漢部の文字が使われている。
建久3年(1192)8月日の伊勢大神官神領注文に「丹波国 漢部御厨 内 給主散位源行貞子息〈仲御厨 建立子細追可注進也〉供祭物 御上分米十石件上分米号有国妨 不致其勤」(神官雑書)という。また建久6年9月8日の大神宮神主注進状によれば、当御厨は仁平年間に寄進され成立したもので、国の押妨を停止すべき旨の宣旨が元暦元年に下されたが、実行されないので再び宣旨を要請している(同前)。
南北朝期成立の「神鳳妙」には「内宮 漢部御厨 上分十石」とあり、「神領記」には「漢部御厨 三貫 往古五貫」とあるそう。

中世も漢部郷で、鎌倉末期頃のものと推定される足利氏所領奉行注文に「漢部郷」とあるのが初見(倉持文書)。次いで永徳2年(1382(北朝))12月15日の普明国師管領寺院注文に「漢部法住寺」とある(鹿王院文書)。
応永10年(1404)11月24日付将軍足利義満袖判御教書をもって「丹波国漢部郷〈除原村〉」は、尾張国印庭荘の替として上杉憲定に宛行われ、同19年8月7日には足利義持の安堵を得た。これ以後当郷は、いったん御料となったらしく、同33年7月14日の将軍足利義持袖判御教書では「料所之儀」を止めて上杉憲実に返付するよう命じ、同年7月20日付で丹波守護細川満元施行状が出されている。
文安元年(1444)9月日の上杉憲実譲状によれば「丹波国何鹿郡内漢部郷」は次男竜春(上杉房顕)に譲与され、同3年4月5日の上杉憲実譲状でもこれが確認されているが、この文書には「丹州漢部村」とある。年未詳12月28日の上杉憲定置文にも「丹州漢部村」とある。その後明応5年(1496)7月日の上杉顕定裏封文書目録に「丹州漢部村事」とある。
天文20年(1551)9月23日の永忠書状に「何鹿郡綾部郷内北分 云々」とあり、初めて「綾部」の文字が使われている。


綾部村は、江戸期~明治22年の村。今の本町・西町・広小路・西新町・駅前通り・相生町・幸通り・若松町・若竹町・並松町・本宮町・川糸町・新宮町・上野町・新町・田町・月見町・中ノ町・天神町・神宮寺町・青野町・井倉町・井倉新町・宮代町・綾中町・味方町・野田町・寺町・田野町。
はじめ福知山藩領、元和6年幕府領、寛永10年からは綾部藩領となり、村域の一部はその城下町となる。
綾部村は郷帳類では一村であるが、実際は町分を本郷綾部村とし、枝村の野田村・味方村・青野村・中村・坪内村・井倉村・井倉新町・神宮寺村・新宮村・寺村・田野村で構成され、綾部郷12ヵ村とよぶ。ただし元禄13年(1700)の知行所村高付帳は中村と神宮寺村を本郷綾部村に、井倉新町を井倉村に含めて枝村を8ヵ村としている。
城下町綾部町は当村から本宮村にまたがって形成され、当村内で城下町綾部町を構成した町場は田町30軒および裏行18軒・新町61軒・上町35軒。
綾部藩は領内を地域別に7組に分けて支配したが、綾部郷12ヵ村は綾部組ともよばれ、大庄屋(2人)と各村に小庄屋、町分には別に町年寄(2人)を置いて民政にあたった。
「元禄郷帳」によれば当村の枝村として野田・味方・青野・坪ノ内・新宮・寺・田野・井倉の計8か村が見える。また当村からは綾部組の大庄屋が出ていた。
明治4年綾部県を経て京都府に所属。同14年村内の町場部分は綾部町となり残余の村分は同22年市制町村制により成立した綾部町の大字となる。


綾部町は、明治22年~昭和25年の何鹿郡の自治体。綾部町・本宮町・綾部村・本宮村・野田村・味方村・青野村・井倉村・井倉新町村・神宮寺村・綾中村・寺村・田野村が合併して成立し旧町村名を継承した13大字を継承した。
明治10年以降養蚕製糸業振興の気運が高まり、多くの小製糸工場が設けられた。その後はめざましい発展をとげ、大正2年には青野に綾部製糸株式会社が設立され、郡是製糸の工場とならんで青野は製糸工場地帯となった。
明治25年、出口なおが大本教を開教し、出口王仁三郎がこれを助けて全国に布教して教勢は拡大し綾部には本部が置かれて信者の来住が多かった。大正10年・昭和10年の2度にわたり大弾圧を受け、本部の建物は破壊されたが第2次大戦後復興した。
養蚕製糸業は昭和10年代に入ってから急速に衰え、戦争の進行とともに製糸工場は軍需工場に転換された。第2次大戦後は繊維の2次加工と精密機械工業の工場が多くなった。昭和25年綾部市の一部となる。町制時の13大字は綾部市の大字に継承された。

近代の綾部村は、明治22年~昭和28年の大字。はじめ綾部町、昭和25年からは綾部市の大字。同28年西町l~3丁目・相生町・西新町・駅前通り・幸通り・天神町・宮代町・青野町・中ノ町1~3丁目・井倉新町・若松町となった。

綾部市は、昭和25年~現在の自治体。綾部町・中筋村・吉美村・山家村・西八田村・東八田村・口上林村の1町6か村が合併して成立。合併各町村の49大字を継承。同30年豊里村・物部村・志賀郷村・中上林村・奥上林村を合併、29大字を継承。同31年佐賀村のうち石原・小貝の全域と私市の東部を合併、1郡1市が実現した。この間、昭和28・30・32年に字区域および名称変更を行い大字は町名となった。




文井郷
「和名抄」に、何鹿郡16郷の1つに文井郷が見える。高山寺本・刊本とも訓を欠くが、アヤイと読まれている。この郷はどこにあったものか不明である。このような地名は「和名抄」以外の他の文献などにはいっさい見られない。
「和名抄」は、今の上林からだいたいは反時計回りに郷名を挙げている。
…-高津-志麻-文井-小幡-漢部 (高山寺本)
…-高津-志麻-文井-後部 (刊本)
この郷の配列の順序からみれば、志麻郷と漢部郷の間にあったよう、実際は両地は接していて間はないのだが、井倉あたりとみるか、その境界線の南北あたりの地であろうか。
『大日本地名辞書』
【文井アヤヰ郷】和名抄、何鹿郡文井郷。○今詳ならず、阿也為とよむか、或は綾部を之に擬すれど、従ひがたし。
『何鹿郡誌』
文井郷 今不明なり。内久井をさす説あり。

福知山の宗部郷はのちに曽我井庄とか曽我井村と呼ばれているので、漢部がアヤイと呼ばれたかも知れず、アヤイ=漢部で実際は重複しているのかも知れない。
面白い説を出しているのが『綾部市史』で、
文井郷 この郷は今日まで不明である。『日本地理志料』には「内久井」をあてているがこれは採れない。『大日本地名辞書』に、「今詳ならず 阿也為とよむか」とあり、あやいと読んだものであろうか。いまこの郷を地名的に考えて比定する地域は考えられない。しかし郷の記載順が、由良川の左岸を高津から志麻・文井・漢部と順序よく上流に向っているので、志麻郷と漢部郷の間にあったと考えられる。そうすると岡から井倉・神宮寺へかけての地域が考えられる。神宮寺には古墳群もあり、井倉には条里制の遺構と見られるものも残されているから、文井郷と推定することができる。
もう一つ考えられるのは位田である。位田の地名起源については明らかでないが、位階によってどの人物かに与えられた土地であろう。下位田には古墳群もあり、槍前という地名や太秦と音の通じる氏政神社があって、社殿は朱塗りになっている。「あやい」の「あや」は「漢」とも考えられ、渡来人との関係が想像されて、古くから開かれたところと思われる。そして由良川の流路は、かつては井倉の集落のすぐ北側を流れていた痕跡があり、奈良・平安時代にはそこを流れていたとすれば、位田は現河道をふくみ、その南側の広い平地を耕した集落であって、一郷の規模をもっていたと考えられる。
寛正二年(一四六一)の郡内村名は大部分が郷名とつながるが、上位田・下位田だけはつながるところがない。文井郷を位田とするのも一つの見解である。


ヒノクマはもう一つ山家の釜輪に日前(ひのくま)神社がある。この社は紀伊国一宮の日前国懸神社の日前社のことだとしている。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


漢部郷の主な歴史記録


漢部(綾部町) 織物を以て朝廷に奉仕せる部曲なり。雄略天皇の十五年には秦氏百八十部(姓氏録には九十二部一万八千六百七十人あり。翌十六年秋七月勅して桑に適する国県に命じて桑を植えしめ、且つ秦氏を分ちて、此れに住居せしめて、庸調を献ぜしめ給ひき。冬十月勅して漢部を集め、其の伴造を定め給ふ。
(『何鹿郡誌』)

漢部郷
醍醐天皇延長年間(九二三-九三〇)に源順が著した和名類焼抄に、丹波国何鹿郡に十六郷をあげている。即ち賀美、拝師、八田、吉美、物部、吾雀、小幡、高殿、私部、栗村、高津、志麻、文井、後部(漢部)、余戸、三方の各郷である。古代社会は自然発生的な集落によって成立していたが、前記の古墳時代には統一国家の下部組織として、丹波国は勿論、郡郷の基礎は略々出来ていたのではあるまいか。
郷は村落の意味である。古代の集落は最初村、又は里と呼んでいたようであるが、大化の改新によって国郡里の制度を布き、五戸を保と云い、十保を里、即ち五十戸を一里とする行政的な地域を作り、里には里長を置いて管理したわけである。里は後郷と改められ、長く村名として伝えられた。こゝに注意せねばならないことは、加佐郡、天田郡が僅に十郷に過ぎないのに、何鹿に十六郷もある点と、和名抄の郷名が、大体に於で現在の郡内町村の区域と一致することは、村落の発達がその地理的環境に制約されて、古代より余り大きな変化がないように見えるということである。十六郷の中、後部郷(これは漢部郷の誤り)と三方郷は現在の綾部の地であって、中筋区が高津、志麻の二郷を含んでいるのと同様、由良川平野の枢要なる地位を有していたと考えることが出来る。
漢部郷の地域は今の青野、綾中を中心として、神宮寺台地、本宮山東、北山麓上野より斜面をなして平地へ続いている現在の市街地及び井倉を含む範囲にわたっていたものと思はれる。
漢部を綾部と書くようになったのは、いつ頃か判らないが、安国寺文書、長禄(一四六〇)四年のものと恩はれる広戸九郎左衛門尉下知状に、郡内村名を挙げた中に、「漢部」の文字を使用している。江戸時代にも尚漢部の文字を使用したことは、慶安三年に作製した「山家藩古図写」等多くの例が残っている。漢部の名は所謂古墳時代に当る氏族制度社会を以て成立した古代国家の部民から出た名で、恐らく皇室所属の絹織物を専業とする帰化人の職業部落であったであろう。
綾部の地は古代から、由良川沿岸の荒蕪地帯や、山麓台地には、桑の木が自生していて、自然、養蚕、機織の好適地として大陸より帰化人が土着するようになったと思はれる。帰化人が我が国に渡来して、文物の伝来に大きな貢献をするようになったのは西歴四世紀頃であるが、彼等は一般に綾を織る技術に長じていたので、アヤヒトと呼ばれ、国々の要所に集落を作り生産に従っていたが、やがて大和朝廷に属する品部の一種としてあや部が成立したもので、綾部の起源も恐らく品部から発したものと思う。それは仁徳から雄略の朝へかけて、急速に需要を増した絹織物の生産の為、(1)雄略天皇十六年(四七二)壬千秋七月詔して、「桑に宜しき国県に課して桑を植えしめ、因て秦氏を分ちうつして庸調を献ぜしむ。冬十月詔して漢部をあつめ、其の伴造を定む」とあって応神天皇の頃大陸から帰化した弓月君の一族である秦氏や、同時代の帰化人阿知使主の子孫が漢部の伴造として部民を率いたことから見ても妥当と考えられる。この事情を裏づけするものに、三代実録所載の「何鹿郡の人漢部福刀自、秦貞雄」等の人物が実在していることで、八田郷が秦氏に綾部が漢部と関係づけられて、その起源を考えられるのも無理はない。
要するに漢部郷が帰化人を中心とした、絹織物専業の職業部落であったとすれば、朝廷の庇護の下にー時非常に栄え、奈良朝前後を最盛期として平安中頃以来漸次衰えて行き、承平天慶の乱以後、全国的な蚕業衰微の傾向に伴い、多少の消長はあったとしでも、嘗ての盛時には帰らなかったものと解釈することが出来る。現在綾部地方が日本的な蚕業都市として知られているのは実に興味が深い。
三方郷は大体味方の地域であったであらう。名称の起源は御県から来たといわれている。御県は大和朝廷の御料地であり、最初は早くより開けた田荘である。朝廷の勢力が増大するにつれて、地方の小国主は土地人民を献じて、国造、県主等の地方官になっていったものである。
古代の三方郷は、由良川が青野地区に於では今綾部井堰の水路になっている低地帯を流れて郡是を横断し、大塚の南方を井倉の方へ流れていたものの様であるから、その範囲は綾部橋以北の地域は青野の二宮神社裏より今の由良川の川敷を含む広大な平野となり、水田耕作地として御県の名にそむかない土地であったであろうと思はれる。この推定なくして三方郷の県主又は田部の首長を葬ったと思はれる味方の古墳群の説明がつかない。思うに漢部、三方の両郷は古代の先進地として、以久田野を中心とする地方に次いで重要な集落地帯であったに違いない。

綾中廃寺址

貞婦漠部氏
綾部の地が古代品部の一種、帰化人を中核とする綾絹を織る漢部の集落地であったことは、既に述べた通りであるが、大化の改新以後、氏族制度が崩壊し、部民の解放によって漢部を構成していた人々は最初は雑色となって朝廷の支配下に専業についていたかも知れないが、漸次自由民となって行ったわけである。その中に姓を漢部と名乗る人々が生ずもようになったに違いない。平安時代貞婦として朝廷より表彰された漢部氏を名乗る二人の婦人が、三代実録に載せられている。
 イ 綾部福刀自
清和天皇、貞観八年(八六六)九月二十日の条に、
漢部福刀自は丹波州何鹿部の人なり。伉儷亡き後二十有二年を歴す。独り虚室に居り節を守る。是れ真の節婦なり。貞観八年秋九月、特に優奨を加え、位二階に叙し、戸内租を免じ以て門閭に表す。
 ロ 漠部妹刀自
光孝天皇、仁和三年(八八七)六月五日の条に、
丹波国何鹿郡の人、漢部妹刀自売、生年十四にして秦貞雄に適き、二男一女を生む。貞雄の死後三十二年を歴、常に素服を着、独虚室に居る。復た再ショウの情なし。男女を均しく養うこと譬えは猶戸鳩のごとし。国司申請し、以て節婦となし、門閭に表し、勅して位二階に叙し、戸内田祖を免す。
 右の節婦は明暦元年(一六五五)黒沢弘忠の著、本朝烈女伝にも載せられ、古来有名である。尚妹刀自の夫である秦貞雄は秦氏の出であり、綾部又はその近在を本拠とする人物と考えられ、何れも平安中期まで古代社会の名残がはっきり認められることは注目すべきである。
(『綾部町誌』)


漢部 漢部は古代国家成立のあと、朝鮮半島から渡来した漢民族が漢氏を与えられ、その漢氏が所有しあるいは支配した部である。丹波のほか甲斐・美濃・播磨・肥前などに分布し、帰化人の子孫もあったであろうが、多くは日本農民であったと考えられている。
漢民族の渡来は五世紀のはじめころ、大和朝廷の勢力が朝鮮半島へ進出したのを機に急激に増大した。
『書紀』 に、漢氏の祖阿知使主とその子都加使主が十七県の民を率いて渡来したとあり、これらは倭漢氏を称し、大和国高市郡槍前を中心にして広まった。その多くは朝廷の政治組織に入れられ、渡来人の技術と労働力が古代国家の発展に重要な役割を果していた。
五世紀後半の雄略朝のころにもまた渡来人は多くなり、今来の才伎とよばれた。それらの中に百済から来た漢陶部や錦部、呉(高句麗)からきた漢織・呉織・衣縫の兄媛・弟媛などがあり、大和や河内に居住地を与えられて畿内を中心に発展していった。(上田正昭 帰化人)雄略天皇十六年、各地に分散する漢部を集めてその伴造を定め、直の姓を与えて統轄させたというから、こうして集められた漢部が住んだ地が漢部と呼ばれるようになった。
郷土綾部は、江戸時代のはじめのころまでは漢部と記していた。古代において由良川の氾らん原には、自生の桑が繁茂して養蚕の適地であったと思われるから、漢部は綾絹の生産地であったのであろう。この推定は古くからあり、明治以後に綾部が養蚕製糸業の中心となっていったことと関係させて、その歴史的遠因と考えられてきたところである。
(『綾部市史』)







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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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