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広小路(ひろこうじ)
京都府綾部市広小路


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京都府綾部市広小路

京都府何鹿郡綾部町

広小路の概要




《広小路の概要》

市街地の中央部で、東の西町と西の駅前通りを結ぶ商店街。マーケット・遊戯場・各種小売店などが並ぶ。
広小路は、昭和28年~現在の綾部市の町名。l~4丁目がある。もとは綾部市大字綾部町の一部。
現在はどこにあるのやら、古びてわかりにくい人通りもまばらな商店街になっている、商店街はだいたいどこでも似たようなことだが、当地は江戸期の綾部城下町の一部であった面影をのこしている。。



《広小路の人口・世帯数》 80・31


《主な社寺など》


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


広小路の主な歴史記録


『綾部市史』(図も)に、
上野城地と城下町



城下町は、大手門に通じる田町、それより京道へつづく本町、福知山街道へつづく西町を中核として、上町・新町・西新町(元禄十五年以後広小路と西新町に分かれる)などがあった。城地とは田町のところの大手門、田野からは田野口門、上町からは新宮門で通じていた。
城下町の規模は表(15)の通りである。
綾部城下町のようすを知るのに貴重なものは元禄十五年の市中図であり、初期の城下町のようすを明らかにしている。六町の間数は天保のころと同じであるが、家数は元禄に二三八軒、天保には二七八軒とやや増加している。各町における家屋の規模は、本町・西町は奥行二〇間、その他一五間となっており、間口は一七間の柏原家を中心に一〇間以上が二〇軒あり、商家の中心をなしている。道路はすべてT字路になっており、町の端に土塁を設け、さらに熊野神社・了円寺・浄光寺などを配置していることなどは城下町の形をととのえているところである。
 熊野神社はもと本宮山の麓にあって熊野三山をまつっていたが、寛文十二年の秋に新宮を現在地に移し、本宮の御神体もあわせまつったという。浄光寺は舞鶴市瑞光寺の分寺として寛永十一年に創建したもので、元禄十五年、広小路の出はずれの芝原を拝領して現在地に移されたものである。了円寺は承応二年(一六五三)、大島村の法華寺が廃寺になっていたのを綾部に移したものである。これらの社寺が出城的な性格をもっていたことは明らかであり、T字路と共に戦闘に対処するためのものであった。なお田町は、もと若宮神社の馬場であったものが築城とともに大手門の本道となったものである。市街には獄屋・天水等が配置されており、獄屋は本町から西町にかわるところにもうけられ、西新町と西町の交叉点に天水を配置して火災に備えている。
 以上が大体城下町のようすであり、ここには半農半商の商家が立ち並んでいた。商家のうち主なものをみると、上町に山崎屋、本町に扇屋・近江屋・京屋・上林屋・味方屋・亀甲崖など、西町に紅屋・白道路屋・鍵屋・京屋・大島屋、広小路に信濃屋・柳屋・京屋、田町に城屋・山崎屋などがあり、特に京屋(羽室)一族および山崎屋(大槻)一族などが町の主要部を占めていた。
 天保十一年、綾部に釆て領内を詳しく視察した佐藤信淵は巡察記の中で、城下町である綾部村・坪内村について次のように記している。
   「(二村合せて)年々五千両宛の金をかち得るに非されば、この二村の物産は三千金に過 ることなきを以て、年々二千金づつの不足なり。然れども飢寒に迫る者もなく、飽て食ひ、暖かに衣て年月を渡る者は交易の利分を得ると、御陣屋及び御家中より下る所の潤沢を蒙るに頼りてなり。」
 城下町が綾部領二万石の経済の中心として商業による利益と、藩財政との結びつきによって成り立っていることを明らかに述べている。
 こうして綾部城下町は交換経済の発達につれ、京屋・山崎屋などの豪商を成立させ、領内経済の中心となっていった。



伝説





広小路の小字一覧




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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