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丹波の

五津合(いつあい)
京都府綾部市五津合町睦志・清水・遊里・大町・弓削


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京都府綾部市五津合町睦志・清水・遊里・大町・弓削

京都府何鹿郡中上林村五津合

五津合の概要




《五津合の概要》
上林川とその支流畑口川の合流点付近に位置する。府道1号(小浜綾部線)と府道51号(舞鶴和知線)が交差する所(大町)の附近。
五津合村は、明治7~22年の何鹿郡の村。睦志・清水・遊里・大町・弓削の5か村が合併して成立。同22年中上林村の大字となる。
五津合は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ中上林村、昭和30年からは綾部市の大字。同年五津合町となる。
五津合町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。


睦志(虫・むし)
綾部市五津合町睦志  ↓これは東岸側の集落

畑口(はたぐち)川の中流域、集落は東岸の小支谷および西岸の街道沿いにある。西の小吹(こぶき)峠を越えると舞鶴市岸谷に至る。旗本城下藤懸氏領。
中世は上林庄の地。村名は天文年間の勧進奉加帳(光明寺文書)に「虫村」「むし村」などとみえるのが初見。
弘化4年(1847)2月大火があり、35軒のうち29軒が焼失し、隣村辻村も残らず焼失した。家が密集していたことが大火の原因で、西方へ屋敷を移転したという。村内に鎌倉権五郎伝説をもつ若宮神社がある。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年清水・遊里・大町・弓削の各村と合併し五津合村となった。
虫が多いところだから、ムシだとするのが当地の解釈のようだが、
『西丹波秘境の旅』は、
睦志(虫)とは墓所のことで、呉音ではムショ(無所)で、詣で墓を意味する空無所カラムショの意味である。
虫とはムショ(無所)のことで墓地のこと。…両墓制は各地にあり、丹波にも多いが、愛知県では両墓制のことをムショ、またはラントという。死骸を埋めるところ、それは山裾であるが、そこをムショという。ムショには普通詣らない。詣るところをラントという。

与謝郡の大虫、小虫神社のムシかも知れない、ムシはヘビで鍜冶や鉱山と関係ある地名かも。片目の権五郎という鍜冶の神が祀られているので、彼をムシすることはできない。


清水(しみず)
綾部市五津合町清水

集落は段丘にある。「丹波負笈録」は「清水村 民戸五十七 園部領 在中清水と云池有、是清水村也、奥ハ白屋垣、口ハ清水と云」と記す。清水があるのだろう。園部藩領。
中世は上林庄の地。村名は天文年間の勧進奉加帳(光明寺文書)に「出水村」とみえるのが早く、「白屋垣」の地名も記される。白屋垣は今は「白垣」というようである、この名のバス停がある。↑この一つ先のバス停。白屋という地名は鋳物師と関係があるのだろうか。
村内には井関姓を名乗る鋳物師集団が居住し、何鹿郡一円の所職をもっていた、という。江戸期は鋳物師頭領は各郡に1名のみ任命され、何鹿郡ではこの五津合町の井関家であったという。
井関氏子孫   清水村白屋垣
先祖伊勢国田丸城主ノ三男井関越後 明知光秀ニ随ヒ終ニ当谷虫村ニ落テ住ス 于今左右山ノ字井関山又井関谷 井関川原 井関井根ト云 子孫ニ先祖ノ弓 鎗刀 脇指所持 大小ハ藤柄ナリ 紋丸ニ株栢 □柏ナリ
(『丹波志』)
明治4年園部県を経て京都府に所属。同7年虫・遊里・大町・弓削の各村と合併して五津合村となった。
村内に円明(えんみょう)寺があったが、昭和26年に水梨の少林寺に合寺され、臨済宗南禅寺派の五泉寺となった。


遊里(ゆり)
綾部市五津合町遊里

大町の一つ北の集落、上林川の支流畑口(はたぐち)川の両岸に位置する。由利とも書く。当地を含め北方の上林谷の支谷を畑口谷という。畑口は畑河内・畠河内と書く。
遊里村 民家四十 遊里寺内吉田と云 園部領
西谷奥ニキスミ嶺丹後キシ谷迄五十丁田辺道 小奥清水村 南へ大町村山家道
上林谷の内畑河内と云所あり 谷奥北より指込なり 其村数 遊里 清水 虫 辻 水梨 市野瀬 市志七名の所也
(「丹波負笈録」は、)

畑川とも言ったようである。
当地に寺内(てるち)の小集落があり、「丹波志」には寺内に「穴宇山伝勝寺」の古跡があったという。また寺内の室尾谷神社は畑口(7ヵ村)と大町・弓削・長野・志古田村11ヵ村の総社。元応元年(1319)社殿建立の棟札がある。
明治4年園部県を経て京都府に所属。同7年清水・虫・大町・弓削の各村と合併して五津合村となった。


大町(おおまち)
綾部市五津合町大町

上林谷のほぼ中央部、上林川の本流に畑口川が合流する地に位置する。若狭街道(府道1号)が通り、舞鶴の方からだと51号線は当地で合流する。
大町村 家数四十軒   藤掛殿知行所
山家へ三里 大町村より奥へ惣谷ヲ三部一谷と云 古御順見の節是より奥ハ何程と尋有しに三分一と申 然ハ奥ハ無用とありて 三部一の名ありと云 村数 大町 長野 弓削 志古田 鳥垣 草賀部 山内 有安 川原 八代 小和木 小中 光野 栃 大唐内 小唐内 市茅野 都合十七
(「丹波負笈録」は、)

弘化4年(1847)防火のため密集する40戸のうち11戸は村域内の皿田(さらだ)と大杉に移転した。
皿田に古墳群(円墳八基)がある。同じ所に古城跡があり、比久尼ヵ城、その奥に姥ヵ城。
寺院に臨済宗臨川山芳林寺がある。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年虫・清水・遊里・弓削の各村と合併し五津合村となった。


弓削(ゆげ)
綾部市五津合町弓削

大町の対岸、上林川中流域、左岸の小支谷に位置する。南方の大栗峠(大国峠)を越えると和知町粟野に至る。旗本城下藤懸氏領。
中世は上林庄の地。村名は文明2年(1470)の浅原村山立目覚(川北家文書)に「一弓削村 大国より今年から立せ申筈也」とみえる。
村の入口の東北、丸山の東麓に弓削古墳群がある。またその奥に弓削城跡がある。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年虫・清水・遊里・大町の各村と合併して五津合村となった。

弓削は古代に発する地名で、
弓削(部) 五津合町のもと弓削村である。弓削の名は弓削部からきた地名であろう。弓削部は弓を作る職業的部であって、『日本書紀』に垂仁天皇の代、「是の時楯部 倭文部 神弓削部 神矢作部……并せて十箇の品部をもって五十瓊敷皇子に賜ふ」と初めて弓削部が記録されている。弓削部の本拠は河内国らしく、全国各地にも弓削部を置いている。丹波では桑田郡に弓削郷があり、『続日本紀』に、養老八年(七二二)丹波国弓削部名麻呂の名がみえている。当地の弓削も、丹波の弓削部との関係があって地名となったものであろう。
(『綾部市史』)
五十瓊敷皇子は日葉酢媛の子で、丹後とも関係があるるものか。


《五津合の人口・世帯数》 273・129


《五津合の主な社寺など》

室尾谷神社


遊里の府道筋からは川の対岸で、スゴイ参道と鳥居があり、境内は広い大社。
正一位室尾谷大明神    遊里村
祭ル神       祭礼 六月十四日 九月八日
三間四方拝殿 二間六間長屋 一鳥居ハ在中ニ有リ 森凡百間四方 氏子遊里 大町 弓削 長野 志古田 清水 虫 辻 水梨 市ノ瀬 市志都合十一ケ村ノ惣社 宮本遊里ナリ
(『丹波志』)

室尾谷神社
中上林村字五津合小字寺内鎭座。村社にして五十鈴依姫命を祭る。氏子三七二戸、中上林村五津合、五泉及奥上林村なる長野、志古田之に属す。例祭は十月五日。
 氏神正一位室尾谷大神社、遊里村にあり。氏子他領共に十一ケ村。境内に小社壹社。(園部藩記録)
(『何鹿郡誌』)

室尾谷神社
一、所在地 五津合町寺内百九番地
一、祭 神 五十鈴依命(大国主命の孫綏靖天皇の皇后)
一、創 立 年月不詳
一、祭 礼 十月八日
  当日は午前九時頃神輿御神幸がある口番(長野志古田弓削大町方面)奥番(遊里清水市志市野瀨方面)と分ち毎年交替に順幸子供等二十名余が奉仕する正午頃奈典は終り、紅白の餅まき其の他余興があり氏子参詣者多数で賑ふ。
一、境内小社 壱社あ少。
一、由  緒 創草年月日は詳かでないが往古大町村畑川村の間の字阿須伎といふ所に祀られていたが、昌泰年中(八九八-九〇〇)阿須々伎神社と号し右村の氏神であった。保元年中(一一五六-一一五八)蔵持丹波守是を守護神としたと云ひ伝う。其の後星霜を経て承久年中(一二一九-一二二一)に至り兵乱に変廃する。仍て貞応元年(一二二二)八月此の阿須伎より遊里山村室尾谷に移して社号を室尾谷明神と云った亦正和弐牛(一三一三)十月再建後正徳五年(一七一五)二月三日宗源正一位の官を請ひ神部伊岐宿弥奉務した。右保元以来の棟札並に位官の記録等は今に保存されている。昭和二十七年宗教法人法により宗教法人となった。
(『中上林村誌』)

立派な社だが、さっぱりわからない。室尾谷というのは大江町南山の室尾谷山観音寺がある。御諸山とかの姿のよい裏山がカンナビ山なのか。ススという名が伝えられているので元々は金属系の社か。

「当社は初め拝師郷畑川村に鎮座し、大室明神と称す」(室尾谷神社の由緒)
(『山家史誌』)

近くには与謝郡拝師郷、天田郡拝師郷。当地一帯が何鹿郡拝師郷の地であった。
あちこちにある郷名だが、ナニのことかは不明とされている。
「播磨風土記」揖保郡条に、
林田の里 本の名は談奈志(いはなし)なり。土は中の下なり。談奈志と称ふ所以は、伊和の大神、国占めましし時、御志を此處に植てたまふに、遂に(いはなし)の樹生ひき。故、名を談奈志と称ふ。
明確にハヤシはイワナシと述べられている、イワナシは樹の名でなく磐穴師だといわれる。
日葉酢媛の妹に渟葉田瓊入媛、彼女と垂仁の子が鐸石別命で、その裔がこの地の磐梨氏という、後に改名して和気氏ともなり、和気清麻呂などがいる。ヌデは銅鐸のことでイワナシ氏は半分丹後系の銅鐸氏族のようである。銅鐸まで作ったかは別として銅鉱山や精錬冶金に携わっていたのではなかろうか。桑田郡弓削郷の京北町下弓削からは丹波唯一とされる銅鐸が出土していて、拝師や弓削というのは意外にも銅鐸と関係があるのかも知れない。


若宮神社

「現地の案内板」
若宮神社御由緒
当神社御祭神鎌倉権五郎景正公は桓武帝の後裔で後三年の役に源義家公に弱冠十六才で従軍活躍す。奥州後三年記によれば敵将鳥海弥三郎に左眼を射抜かれたが怯むことなく射返して相手を殪したりと云う。傍の従兄三浦為継その矢を抜くために景政公の顔に足をかけたところ武士の顔に土足をかける無礼を咎め謝らせた話は有名である。
鎌倉市には景政公を祀る御霊神社があり権五郎さんの愛称で眼病の神として崇められている。
又眼を負傷した景政公が戦場から帰途霊泉に浴して矢傷を治したと云う伝説から眼の神として東北各地に崇祀されると云う。丹波史年表には丹波雀部庄に景政公の後裔梶原氏の領知が存在した記録は見逃せない又当地古伝によれば当地は毒虫害獣多く棲息して虫村貉村と云われる程未開の地であったが景政公此地に来りて虫獣の害を除き上林村の基を作った功績に里人一祠を造営して眼の病の神、村落の守護神として崇敬し今に至ると云う。社殿は永久元年(西紀千百十三年)に造営以後七度改修され現在に到る。


若宮神社
一、所在地 五津合町睦志
一、祭 神 鎌倉権五郎景政(稲倉鬼神)
一、由 緒 鎌倉権五郎景政虫村に隠捷し、住民の害獣等の危害に苦しむを見て猛獣害虫を誅伐して里人は日々を安んずるを得たと云ふ。亦虫村を改めて睦志村とする。景政遂に比の地に於て卒去し里人等は波の功徳を欽仰して景政の霊を祭り、永久元年(一一一三)一祠を造営して此の地の守護神とし若宮神社と称した。天明二年(一七八二)迄に数度修繕に及び天明二年八月再建し後今に経暦する。右境内山林保管は元睦志村中持ちであったが、明治維新の後社地調査が行われた際上申の錯誤に因り官有地となったが、昭和二十二年申請し払下げを受け睦志区に於て再び保管する事となった。尚ほ景政愛用の厚さ一寸八分もある強弓は区内田中仙治宅に保管されている。
(『中上林村誌』)

若宮    虫村 産神
祭ル神
浪人藤縄権五郎金政ヲ祝祭ル神也 村ニ子孫アリ 姓氏部ニ出ス
(『丹波史』)

藤親権五郎金政子孫   虫村
天正ノ比カ金政敵ヨリ矢ヲ負テ落ケルヲ 後ヨリ敵又追馳来ルニ矢ヲ負ナカラ船井郡境大栗峠ニテ敵ヲ射止メ 又帰リテ住ス 字ニアシ坂ト云ニ 小家五軒一株也 紋藤ノ丸 先祖ノ五人張ノ弓 乗鞍所持 貧家ニテ氏モ紋モ云カタシ 金政ヲ若宮ト祝リ祭ルノ所 貧家社ヲ不持田地少分付村エ出ス 今ハ村ノ産宮也
(『丹波志』)

片目の影政は鍜冶神である。今でもメッカチとか言うが、このカチは鍜冶のことで鍜冶屋の職業病で長く従事していると彼らの目はつぶれた。カチと言えばビッコの事をいう所もあり、ふいごを踏むために彼らは足もつぶした。
片目片足は鍜冶神である。ここでも鍜冶屋の祀る鍜冶神として祀られたものと推測されるが、今は鍜冶屋などはない様子。しかしこの神社があるということは過去にはあったのだろう。原料はどこかから持ってくるということではなかろうから、原料の金属もこのあたりでとれたのではなかろうか。
ゴンゴロウは雷のことだともいう。民俗学上では雷と鉄が関係深いことは知られている。


臨済宗南禅寺派臨川山芳林寺


芳林寺  五拝合字大町  臨済宗南禅寺派
本尊  釈迦牟尼仏
臨川山と号す。文禄二年の創建、芳林瑞徳禅師を開山とす。芳林瑞徳は南禅英岳景洪禅師の法を祠ぎ、南禅寺正因に住し、この地に請ぜられて芳林、清林の二寺を開創、寛永十一年に示寂、現堂宇は文化年中九世天真祖祐によつて再建、爾来三百六十余年寺檀の関係渝々密、愛山護法の念篤く十二世の住持を中心に三宝に帰依し今日に至る。
開山伝法衣 一肩 三百六十年を経ると称す。
檀徒数 七十戸
現住職 荘林良宗
(『中上林村誌』)


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


五津合の主な歴史記録


鋳物師に関する研究
綾部史談会  村上 真澄
はじめに
鋳物業は、古代より織物業に並ぶ産業の一つであった。それは鋳物師が、農民の必需品である、鍋、釜、鋤、鍬の生産から寺院の梵鐘、領主の什器、兵器に至るまでを鋳造していたからである。そこで本稿では近世鋳物師の統卒者、真継氏の性格を文献により追及することから、近世鋳物師の性格を全国的視野にたち考察しながら、郷土鋳物師の性格及びその業績を明らかにしたいと考える。
〔一〕鋳物業発達の概観
〔古代〕鋳物業は大陸からの技術輸入により砂鉄の産地と結びついて立地しており、例えば九州の多々羅浜、下総の多々羅を明記することができる。
〔中世〕半農を営みをがら庄園内に分れ住み、鍋、釜、鋤、鍬類を製作し、販売していた。当時は需要が限定されていたため、各地を流浪し、注文に応じて鋳物業を営んだ。而し戦国末期から群雄割拠対立という軍事面と、農業の発達による需要の増大により次第に定住化がはかられ、集団で行われる場合は鋳物師村となった。又定住した地は一般に川沿いで原料の得やすく、しかも市場に近いところであった。この定住化により鋳物師は座の形成をはかり、領主から課役免除の特権をうけ、排他的傾向を強化するに至った。
〔近世〕諸国鋳物師は、ほとんど朝廷蔵人所小舎人真継家の支配をうけ、株仲間を結成し自己の市場確保に当った。そして真継家を頂点として鋳掛職に至るまでのビラミツト型ギルド組級を形成したのである。これを図で示せば表1の如くである。
〔二〕真継家の由来とその性格
初め丹波国多紀郡真継郷の領家で、後に朝廷蔵人所直属の公家として御蔵を掌握し鋳物師の支配にあたった。真継家の鋳物師支配の契機は応永年間で、この時期は領国経済の発展途上にあり、諸国鋳物師の台頭がはげしくかつ支配者を必要とした時であった。更に宝徳年間に入ると由緒ある河内国丹南郡日置荘(堺市・河内鍋の産地)の鋳物師は、一〇九人散在したと伝えられ、技術的に高度のものを所有していたという。この伝説期を過ぎ真継家の勢力を伸長しはじめたのは、永禄~天正にかけて正親町御宇期に権左大弁が日野中納言あての鋳物師諸役免除の書状を出した頃だと思われる。更に事実上の鋳物師支配の確立を見たのは、江戸中期(明和、寛政)である。この頃の真継家は、三都と一部の諸国を除き全国の鋳物師を支配していた。その支配において新規鋳物師を禁止し、鋳物師の独占権を護っていた。一国一郡の大工職領域などについての争いは諸藩の裁定に従っている。
これに対し鋳物師側は表1にも示したように御即位の時の御祝儀、年頭八朔の祝儀、真継家代替の時の祝儀や鋳物師の継目の時の献上金の義務があった。鋳物師どうしは、騒動の起きぬように惣官鋳物師を中心として、「仲間規約」を作成して、連帯意識をもって職分に励んでいたのである。真継家の衰退期は一応幕末に求められる。その理由は、休職者の増加により財源確保のため新規鋳物師を認めざるを得なくなり、ギルド組織がくづれたからである。明治の世に至り、権威を完全に失い崩壊し、解体していった。(日本歴史七月号より引用)
〔三〕真継家支配の郷土鋳物師に関する資料
 (注)井関家(上林清水村)、国松家(舞鶴引上)より、尚支配体制が同じであるので両家に存在する文書はほぼ同じ形態である。従って代表的なものについて以下資料として掲げることとしたい。
〔四〕鋳物師
 上林井関家の由来
(1)井関家の由来によれば、出身は和歌山で関ケ原の合戦に於て豊臣方に加わり、敗戦後、徳川方には仕えず、本願寺(京都)で出家、鋳物師技術を習得、元和三年清水村に来在、その先祖を「井関越後頭」と言い、大先祖として祭られている。以上のような伝承がある。
(2)次に文献としては、「諸国鋳物師名記」
文政以前、「諸国鋳物師名寄記」文政十一年~寛永五年に、井関伝助、福倉長右衛門、井関八左衛門、井関伝兵衛、井関善右衛門、以上五名が記名されている。この事から文政年間以前より定住していたと考えられるが、伝承との関係は明らかではない。
(3)鋳物業からみた立地条件について
 ① 「諸国鋳物師名寄記」を通覧するに五名ほどの集団は全国的に見て数の多い方である。この事は、生産資材(鉄の材料、型を作る上、鉄を溶解する燃料)及び需要との関係から考察する必要があると考えられるが、現在のところ次の事が考えられる。
 ② 上林谷は京都から若狭、舞鶴に、通ずる交通の要路に当り、材料の輸送に便利であったこと。
 ③ 特に鉄の融解のためには多量の松炭が必要とされるが、この材料が入手しやすい。などの点は考えられるが、定住の必須条件として外に何かあると考えられるが、後日の研究にまちたい。
(4)井関家と真継家との関係
 ① 井関家は真継家につながる鋳物師で御用鋳物師であった事は、前掲の資料から明らかである。
 ② 資料3に見られるように、「大工職」と銘記されているように、本地方の営業独占権が与えられていたものと考えられる。
 ④ 資料6・7に見られるように、京屋(注 綾部藩の財政をにぎる有力商人であった羽室家)と関係を持っている。即ち「株料」を京屋より渡していること。「出職」の許可証は京屋が預っていることなどから見て、大工職の領域などについては、藩の裁定、なかんずく大庄屋によって活動が支配されていたのではないかと思われる。
(5)鋳物師と農業との関係
 ① 家屋の構から見て農家と比較して豪家であること。現存するものとして長さ五間に及ぶ長屋門、白壁の倉などに当時の財力を知ることができる。
 ② 又土地の集中が相当行なわれている事が、井関伝助家文書で知る事が出来る。
  例安政五年牛極月 柴ノ木 清水村
   上田 七畝歩  高九斗二升
   御上納      四斗九合二勺
   嘉永六年子十一月 キシノ下 井関谷
  上田 七畝歩 高九斗七合
  嘉永五年子極月 たづをの檀 清水村
  山林 一町歩
  嘉永子十二月日 井関谷
  下畑 二畝   高八升(川岸共)
  明治十三年一月三日
  畑  二五歩  五津合村


舞鶴 国松家の由来
国松家の場合は井関家と多少異るので以下資料を中心にその由来について述べたい。
資料8 高野鋳物師由緒
 注 江州栗太郡葉山村(高野、伊勢落、林
   六地蔵、小野、手原、大橋、出庭、辻)
続日本紀元明天皇和同元年七月丙辰
令近江国鋳鋼銭云々
又高野郷 高野道経者奉 皇命鋳和同開珍銭
高野宿弥道家家在六地蔵村見千金勝和右絵図
二人亦伝云在村南今称塚本云々
 高野通経者高野郷人時ノ地頭代而蒙鋳銭司
ノ役ノ人也、和同開珍銭多ク当国高野ニ於テ
鋳タリ 従上古御代々旧書奉納高野氏神又踏
鞴場者有リ氏神ノ西里中ニ称今金屋鋳銭館模
ニ用ユル土当郡ノ名産タル事 諸国名産記ニ
見ヱタリ比の土恐クハ野倉山土ナリ上古ヨリ
今ニ至リ我居舗ニ多ク埋ミアリ
  文政八年迄年暦千百二十八年当ル
    江州栗太郡辻村 国松六左ヱ門考之

この資料から和銅年間(七〇八年)頃にすでに鋳物師の集団が存在していた事が明らかであるが、この仲間であった国松家がどうして舞鶴引土に進出したかについて、次の資料により明らかにしたい。
右の資料から国松六左ヱ門は舞鶴引土村国松家の祖であり、国松家の由来によれば人皇代七十六代近衛院御宇仁平年中辻村鋳物師株の一人であると言う事ができ、資料2~5までによって、どのような経過をたどって舞鶴の地で営業を初めるようになったが明らかになったものと考える。又資料5の訴訟文書から同業組合(ギルド組級)的性格が如何に強固なものであったかを知る事ができる。


二、鋳造技術について
当時の鋳造方法の施設的な面については第九七号に解説したので詳細についてはこの項を参考に見ていただきたい。特に本稿では明治十六年旧正月に舞鶴慈恵山円隆寺の鐘鋳が行なわれた際の施工者国松氏が出した見積書を紹介して、資材、施設、諸掛りについて参考に供したいと考える。
炭四俵をぐるりと立てかける。
 (最後までせず炭みとして残る)
其の上に焼けた炭を入れる。
すると「上ってくる」といってたゝらをふむ。
湯が上ると鉄を入れる。
一度に(五百目の鉄)一〆二百位しかいれず(二貫四百の炭を入れると鉄を十ぺんに分けて入れ、後は五百目程増して炭を交互に入れ、量を増して行く。空気が湯に入ると固まる。
 以上のようにして鐘鏡が行なわれたようであるが、釣鐘の鋳立は一日で完了し、次の日が鍾引、三日目に撞初めの行事が行なわれた事になっているが、鐘鋳は寄進者にとって縁起のものであり、最大の仏事でもあるので真剣さがうかがえるが、鋳造者にとっても真剣をものであったと考えられる。

 次に鍾鋳にまつわる余談について当時の記録から一部を紹介してみょう。


三、鐘鋳余談
竹矢来の中へ入るのに五銭を要し、火が起こると善男善女が銭やカンザシを投げるので集めて入れる風をして物が出来てから上へ入れる。又早く手鏡など年名をかいて多く寄進して来る皆名を読んで右の如くして入れる。
 撞初め、本堂の広庭、本堂の椽の南東隅から伝い廊下を作り、仮鐘楼あり(※しゅ木、白木の三宝にしゅ木を奉書でまいて水引をつけてつらずに手でつく)、撞初め第一番は袴紋羽級で国松氏がつき、二番住職、俗人の撞初め無紋の上下、妻は白ムクにて夫のみつくしゅ木は持ち帰る、家宝とす、釣ったしゅ木は国松氏と住職のみなり、俗人三番鐘まであり金が入要、一番は米三俵とか云う、後おろして飾り銘を切る。
 鐘引き、鋳上ると山から下してヤグラに積んで町中を引き廻す。愛宕さんの開張、弘法大師の千五拾年忌と鐘鋳と三ツ一緒で町家木綿を寄進して軒下に張る鐘引きを終って撞き初めをなす。
 紺屋町では女のゆもじを鐘鋳の時は外に干すなと言う者あり、ゆもじを鋳込まれると狂人となるとの迷信あり、又鐘は竜がつき易いとの伝説あり、海では鐘を送らずとのしきたりがある。
 湯をケドから抜く時、国松氏祝詞、次に住職御経あり、その後に湯を抜く、湯セキ口まで来れば「オイ来タゾ」と合図すると、ぬさを振って「湯渡り成就」と大声で(三-四)で云う。一度に喚声を上げ竹矢来を押しつぶして大騒ぎ、湯の口を止めるつめをするまで湯入過ぎ湯は火花を散す、鐘は四時位で仕上る、円隆寺でたたら踏は、男女共一人五銭で踏ませたので湯はわかず、時間多くかかった夜祭の如く総門上った処の下の広場に土産物屋一パイ店を開き多くの人出なり、寺から血脈を出す十五銭。


四、営業権にかかる諸費納入の形態について
 前回の稿で鋳物師座法之掟について述べたように、ギルド組織を維持するため厳しい定めがあった事は繰返して述べる事を略したいと考えるが、具体的にどのようなものであったかを、次の資料で紹介してみたい。


五、国松家の業績
鋳物師は言うまでもなく鋳物によって日用品(鍋、釜、その他)、生産用具(鋤先など)を生産する業が主たるものであるが、国松家は幕末海防の事が起きるや、田辺藩主牧野氏の依頼により舞鶴港防備のため大砲の鋳造を行なうなど特異な業績を残している。又製造した品目は鉄砲、釣鐘、半鐘、雲板、鰐口、擬宝珠、御神鏡など各方面に渡っており、地域も地元舞鶴は言うに及ばず、大江町、若狭、綾部など相当広範囲に業績を認める事ができる主なるものは、寺院の釣鐘、半鐘、元伊勢神宮の御神鏡、大川神社の御神鏡、白糸橋、朝代神社の擬宝珠などを挙げる事ができる。
 以下表を掲げて参考に供したい。
(『両丹地方史』(昭47.6.30))



五津合の伝説





五津合の小字一覧


五津合町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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