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鍜冶屋(かじや)
京都府綾部市鍜冶屋町


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京都府綾部市鍜冶屋町

京都府何鹿郡豊里村鍜冶屋

鍜冶屋の概要




《鍜冶屋の概要》
旧・小畑村の中心地で、小畑(豊里西)小学校やJAがある所の一帯。(豊里西小学校は豊里東小学校(栗町)と統合し閉校となり、今は「綾部市里山交流研修センター」になっている)
鍜冶屋というから鍜冶屋があった鉱工業の地のだろうが、江戸後期の記録にもなく、もっと古い時代のことか、今は農村である。


鍛冶屋村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。小畑四箇の中央にあたる。明治4年綾部県を経て京都府に所属。同22年小畑村の大字となる。
鍛冶屋は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ小畑村、昭和24年豊里村、同30年からは綾部市の大字。明治22年の市町村制施行後小畑村の中心地となり、小学校・村役場が置かれた。昭和30年鍛冶屋町となる。
鍛冶屋町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。


《鍜冶屋の人口・世帯数》 393・80

《主な社寺など》

八塚古墳群
八塚古墳群
字鍜冶屋八塚谷に十個余、三の宮(地名)に五個程の古墳がある。この古墳も以久田野古墳と同時代か或は稍古い時代のものであると考えられる。出土品には、管玉(瑪瑙)、なつめ玉、丸玉、高杯、つぼ、鉄斧、鉄鏃、刀子等がある。石室は無く、内部の底を粘土で固め、その上に木棺を置いたものと考えられ、出土品等より推察して、四世紀頃の古墳ではないかと思われる。
なお現在の一の宮神社の境内から経筒が出土しているが、殿山のそれと共に研究すべき余地がある。  (『豊里村誌』)

一の宮神社

府道沿いに鎮座。当社の社伝によれば、「延喜式」神名帳何鹿郡の「佐陀神社」とされ、佐陀神社と呼んでいたが、中古熊野神社を境内に勧請してから一之宮神社と改称したという。

一宮神社 小畑村字鍛冶屋小字佐陀にあり。村社にして伊奘諾尊、事解男命、速玉男命の三神を祭る。氏子八六戸。鍛冶屋全区之に属す。例祭は陰暦九月十六日なりしを、明治の世十月十六日と定む。元禄十三年の状況を記せば、
一ノ宮大明神 森ノ区域 東西五十間、南北百間 祭礼 九月十六日
社領 上田四畝二十一歩 下田三畝十五歩
右は熊野三社之中本宮権現の流れと申伝候。然れども縁起はこれなく候。  (『何鹿郡誌』)

一の宮神社
所在 豊里村字鍛治屋小字佐陀
祭神 伊邪那岐碑、速玉男之神、事解男之神
由緒
 創立年月不詳、口碑によれば、貞観二庚辰年造営、又寛文十三癸丑年(延宝元年)の棟札ありと。なお、当社は元延喜式内佐陀神社たりしも、中古紀伊国熊野神社を勧請合祀し、社号を一の宮神社と改称すと。
資料 元禄十三年社堂改帳に「一の宮大明神、右者熊野三社之内本宮権現のながれと申伝候、然共何にてもゑんぎは無御座候」とあり、又、元文五庚年申四月仏誕生会の丹波何鹿郡小畑庄鍜冶屋村氏神記に、当社並に二の宮・三の宮祭祀の記事あり。
縁起式内佐田神社に決定請願の文書あり。
 宝物 経筒瓶及び経筒あり。大正七年拝殿改築の際発掘
 神像二体 不鮮明で虫食なるも古雅な衣冠姿の像
境外社
・空山神社
 所在 字鍛治屋小字空山八番地
 祭神 弥都波能売神 縁起 不詳
・秋葉神社
所在 字鍛治屋小字空山七番地
祭神 迦具土神 縁起 不詳
・三宝荒神(元禄十三年文書)
村中に有り、奥津此古神社とも称す。
・大田神社
祭神は倉稲魂神 もと一の宮境内にあったが大正十五年四月移転して現在荒神の上   (『豊里村誌』)

佐陀神社は何鹿郡式内社12社の中に見える名だが、この名の神社は、それ以後記録には見えない。当社鎮座地は今の地図では「佐田」である。式内社佐陀神社の比定社としては、栗町の大川神社と沢神社も申し出ているが、いずれも決定はない。

小畑村の一の宮・二の宮・三の宮合同の祭礼を「小畑祭」という。
小畑祭
小畑祭は、古来郡内でも有名な祭であって、その賑かさは、近郊の祭礼中最も人出の多いのは吉見高倉神社の祭、最も盛大なのは小畑の馬場といわれている。
毎年旧九月十六日が祭日である。馬場は鍛冶屋、幅三間・長さ一町半計り。
十五日の夜は、宵宮といって、各々氏神前で祭礼と行い、翌十六日は、中、鍜冶屋、小西の三部落より、神輿四社・屋台三社、その他鉾二つ以上、獅子各々一宛の渡御がある。
当日は正午を期して、各部落共氏神境内に参集し、勢揃いして馬場に向う。その行列を「シグルマ」と称し、神木・金幣・木鉾・御旗を持ち、二十-四十名の壮者が袴の股立をとり鉢巻と締め白張に身を固めて御輿と舁ぎ、獅子・鉾等が前後して続く。次に祭礼組(屋台の練込を行う仲間)は、先箱・神弓・ミケシ立傘・台傘・槍を両側に配し、その中に大中鳥毛を打振って供し、次に屋台が後に太鼓・鉦・笛等十数名の若者を従えて続く。これは徳川時代の大名の参勤交代を擬した行列であり、神輿が全部揃うと観物の所謂練込みが始まる。全員宮の定紋付の平袖の襦袢を着用し、脚絆・草鞋がけの姿も凜々しく、夫々の所礼を奉納する。即ち、先箱・弓・ミケシ・台傘・槍の順序に左右に分れ、その中央で中大鳥毛各三名宛交替で或は高く或は低く掛声勇ましく振廻す。(俗に云うヤツコ振り)様式は三社共異る。これに続いて屋台を引出す。屋台の後に太鼓を据え、鉦を吊し、笛を吹く物之に続く。この笛・鉦・太鼓による古色豊かな合奏が奉納せられ、一曲終る毎に十二名の青年(四本柱と言う)が笛や太鼓に合せて祇園噺を歌い屋台は前進する。
この練込みが終ると、以前は三頭の神馬が競馬を行うこと三回を以て全祭礼が終了するのであった。(現在競馬は中止)そして御輿の遷御・屋台は合奏しながら夫々の宮に帰る。
なお、子供の祭太鼓も有名である。これも亦練込太鼓とも云われ、三社各々様式を異にするが、祭礼の華である。
祭礼の起源については詳でない。
赤国神社・沢神社・大川神社・大嶋神社合同の三宅天神馬場での祭礼も賑かである。小畑祭と大同小異。毎年十月九日が例祭日。
(『豊里村誌』)


高野山真言宗慈雲山普門院
普門院は天和3年(1683)に大日寺・瑞泉寺・長流寺普門院が合寺したものだそうで、空山の高い所にある。
山の中腹の木々の中のポツンと一棟だけの赤い屋根が目を引く。
坂根正喜氏の航空写真2007→







慈雲山端(瑞)泉寺普門院 
真言宗室尾谷山観音寺末  鍛治屋村
空也上人開基也 当寺往古ハ小西村域ノ北彼谷有リ 落城ノ後今ノ在中ノ西エ引 古跡字ニ大日三ノ宮ト云 別ニ観音堂三間ニ三間半 郡十九番札所 鐘楼堂宝蔵アリ 人家ヨリ二丁斗高シ 東ニ当リミセンカ嶽迄四里ノ間見ル霊地ナリ (『丹波志』)

普門院(慈雲山瑞泉寺普門院)
所在 豊里村字鍜冶屋小字定国
宗派 真言宗 本尊 十一面観音
縁起
本寺はもと、行基菩薩の開創と伝え、法相宗の寺院で、鍜冶屋奥の小字大日にあつた。
「この大日寺は、もと七堂伽藍を兼備せる大寺にして大いに栄えたり」(寺伝普門院宝物記)近傍に三の宮・鳥居ケ岡・寺内・御所の奥等の地名の存ずるはこれに関連あるか、附近一帯に数個の古墳群もある)応仁の乱後荒廃し、天和三年現在地へ移る。この寺基を移したのは真暁上人といい。中興の開山としている。其の後正徳四年再建、天保三年本堂・庫裡を建てた。明治十五年三月室寺大恵中僧都が改築して現在に至っている。
 本寺は何鹿三十三ケ所札所中第十七番。
  慈悲の雲いつしか下りこの山の
   みのりのはなに 雨ぞそそがん。
什物
(1)仏典 大般若経、釈摩訶衍論、大日経、相義実相義、十巻章。
(2)仏画 涅槃像、十一面観音(宝暦五、恵心僧都作)十六善神、五大力明王、不動明王等
(3)仏像 本尊十一面観音外
(『豊里村誌』)


赤い屋根は十一面観音堂。


六反城
一宮の裏山にあったという、波々伯部氏の支城か。資料なし。


《交通》


《産業》


《姓氏》


鍜冶屋の主な歴史記録




伝説

三坂峠

旧豊里西小学校下の交差点。左右に通る道路は府道小西西坂線(489号)で、ここから西へ入る狭い路。奥の高い山は空山で、この山の左側(南側)を越えて報恩寺へ出る。

三坂女郎物語
字鍜冶屋から隣村佐賀村字報恩寺へ越える曲折した山路に三坂峠と称する峠があり、その麓には清水滾滾として尽きざる御太刀池と呼ぶ池がある。この峠と池について古くより三坂女郎物語と云う哀話が言いつぎ語りつぎ今に伝えられている。
時は天下麻の如く乱れた戦国の世の末期、天正七年八月十八日、明智光秀の大軍は潮の如く押寄せて横山城(今の福知山城)を政略。此の時、庵我の城主塩見筑後守利勝は、この情勢を目撃して到底及ぶ所に非ずと観念し、居城に火を放ち煙に紛れて逃亡したが、川北村まで落延びた所を敵に急追せられて無惨な最期を遂げた。時にその奥方は、一子を伴い従者と共に里方なる小畑村波々伯部方へ遁れんものと、この三坂峠まで辿り来つたが、不幸敵の探索する所となり、空しく峠の露と消えたのであった。更に遺児を抱いて逃れんとした従者も哀れ此の地で討たれて了つた。かくて血に染んだ刀を洗った池を今に伝えて御太刀池と云うと。
後年、里人その隘路に碑を建てて佳人の霊を慰め菩提を弔うと。風雪幾星霜、今や墓石苔蒸して碑面判読に苦しむといえども、往時を偲びてその末路を憫む。
 碑に曰く、
   南無妙法蓮華経 為此亡霊仏果菩提
      法界萬霊 片岡権右衛門志塔
     明和六年巳丑 正月二十三日建之
 (此の物語に異説あり、此の項横山硯による寺院の項惣持院参照、又(母?)壁姓現存す)
(『豊里村誌』)


しばらく村の中を進むと溜池のそばに出る。石燈籠があり、その山手に御太刀池がある。山手の低い所にある。

案内板がある。
報恩寺から鍛冶屋町小西へ越える曲折した山道を三坂(さんさか)峠という。その麓(綾部市鍛冶屋町)は清水深々と湧き出るみたち池がある。この峠と池について古くより三坂女郎物語と云う哀話が言いつぎ語りつき今に伝えられている。
「時は、天下麻の如く乱れた戦国の世の末期、天正七年八月十八日 明智光秀の大軍は潮の如く押し寄せ横山城(現福知山城)を攻略。この時、庵我の城主・塩見筑後守利勝は、この情景を目撃して到底及ぶ所に非ずと観念し、居城に火を放ち煙に紛れて逃亡したが、川北村まで落ち延びた所を敵に急迫せられて無残な最期を遂げた。時に、その奥方は一子を伴い従者と共に親元なる小畑村波々伯部方へ退かんものと、この三坂峠まで辿りついたが、不幸敵の探索する所となり空しく峠の露と消えたのであった。更に、遺児を抱いて逃れんとしだ従者も哀れ此の地で討たれた。かくて、血に染んだ、刀を洗った池を今に伝えて・みたち池・と言う」  庵我村誌より

後年、里人その路に碑を建てて佳人の霊を慰め菩提を弔う。風雪幾星霜、今や墓石苔生して碑面判読に苦しむと言えども、往時を忍びてその末路を痛む。
碑には、南無妙法蓮華経 為此亡霊仏果菩提(苔生して判読困難)
法界万霊  片岡権右衛門志塔
       明和六年己丑 正月二十三日之建
平成25年5月 笹の雫の会
石燈籠は昭和の物、苔生した墓石らしき物は見当たらない。



小畑六左衛門

旧・小畑小学校の跡地にこんな石碑がある↑。このあたり(的場という所)を本拠にした人という。六左衛門は奇人・機知あるい豪勇の士として当地方の伝説上の超有名人物で、その話はたくさん残されている。
小畑六左衛門翁之碑  「ポイのもち」
ある日報恩寺の嫁の里へ行った時ぼたもちをごちそうになった六左エ門はあまりおいしかったので家でも作ってもらおうと思って「この食べものは何か」と尋ねると「ぼたもちや」と教えてもろうた 忘れんように帰ろうと思って「ぼたもちぼたもち」ととなえながら帰ったそうな 途中で川があったので「ぽい」ととんでわたったそのひようしに忘れてしもうた六左エ門「はあてな?あゝそうそうポイのもちだったわい」と思い出し「ポイのもちポイのもち」と家に帰りついた嫁さんに「ポイのもち作れ」と大声でいった嫁さんは何の事かさっぱりわかりません仕方なく「ポイのもちは作れんがぼたもちならできる」とぼたもちをさし出すと六左エ門は「そうだこのもちだ」といって大きな口をあけてパグパク食ったそうな

小畑六左エ門
小畑六左ヱ門の事歴史逸話として伝承し、人口に膾炙しているものはその数頗る多い。(へつこだんご、のれんと蚊帳、鯛のさしみ…つくり、中ぶらりん、ポイの餅、風呂と沢庵)しかし是等の中には、後人の仮作や牽強附会のものも含まれているであろうし、その話の内容は殆んど剽軽な馬鹿話であり、果してかかる奇行の主であったか真偽の程は全く不明である。
 今僅かに残る事蹟や口碑の伝うる所を綜合すると、彼六左ヱ門の生年は豊臣秀吉の盛時、没年は徳川四代将軍綱吉の頃と推定せられる小畑郷三千三百余石を領する豪族であった。彼が屋敷跡は小畑小学校の前校地(別章豊里西小学校の項参照)一帯とされ、「一日克く一斗の塩を消費するだけの勢力ある者に非ざれば居住し難し。」と言われる広大な地域を占めるものであり、的場と称する彼が弓術の練習場跡も地名として現存し、所在には礎石が累々として散在している。
 六左衛門の墓石には左の如き碑文が刻まれている。
   延宝五年六月二十二日
 独翁 善宿信士 位九十歳
    俗名 小畑六左衛門  (『豊里村誌』)

小畑六左衛門のはなし
六左衛門は久し振りに、私市の奥さんの里へゆきました。お母さんは大へんよろこんで、六左衛門の大好物のぼたもちをつくってくれることになりました。
お母さんがぼたもちを作っとるところへ家の子供がきて、なんべんもぼたもちをねだるんで、お母さんはうるさがり、
「これぼたもち、狼あずきがはいっとるからかむとこわいぞ。」
とおどしました。奥でこれをきいていた六左衛門はびっくりしました。(狼あずきは、当時私市の河原の野生で粒も大きかった、ということです。)
お母さんが、できたてのぼたもちを六左衛門にすすめましたが、六左衛門、噛まれたら大へんと思って、いくらすすめられてもたべません。お母さんは六左衛門が遠慮してるんじゃなと思い、帰るときどっさり、家重代の立派な重箱にいれてお土産にもたせました。
六左衛門、狼あずきにかまれると困るので、棒のさっきにきっと結びつけて、
「ぼたもちかむなよ、ぼたもちかむなよ。」
と、いいながら帰りました。途中一ぷくしたとき、こわいものを見たきに重箱をあげてみると、ぼたもちはゆられゆられてクチャクチャになって、白いごほんが中から歯をムキだしているように見えました。
「そらあー、ぼたもちがかむ。」
といって、よい重箱を棒のさきでめちゃめちゃにこわして逃げかえりました。


六左衛門が私市の奥さんの里に行ったのは、初夏のあついころでした。よる縁側で涼んでいますと、座敷にお母さんが蚊帳をつり、寝床をしていてくれたんで、六左衛門、蚊帳の中に入って寝ましたが蚊帳が破けていたんか、一晩中蚊にくわれて因りました。
あくる日、帰ってこの話をすると、奥様はさっそく私市にいって、
「お母さん、破けた蚊張は、ひどい。」
と申しますと、お母さんは、
「六左衛門さんは、スダレと蚊帳とまちがえて、スダレと蚊帳のあいだで、寝とったんじゃ。」
と笑いました。
六左衛門はお盆にまた、私市にゆき泊まりましたが、奥様からこんどは笑われんように、寝るとき、
「これはノオレン(すだれのこと)これは蚊帳。」
と、いうように教えられてゆきました。
夜、縁側で涼んでいると、お母さんは寝床を敷くとき、このまえ、六左衛門がスダレと蚊帳をまちがえたんを思いだし、こんビスダレを取っておきました。六左衛門、寝るとき奥さんのいいつけ通り、
「これはノオレン。」
と、いって蚊帳のなかへはいり、
「これは蚊帳。」といって外で寝ました。
(『綾部市史』)

もっともっとあるのだろうが、『何鹿の伝承』にも13話ばかりが集録されている。
アリエナイ馬鹿話で、こうしたものは笑っていられる。子供にも話せる。どこかの国の権力中枢の「国民への丁寧誠実な説明」とかの国会ヤシ答弁みたいなドトボケタ、ありえない話はアホクサイ、聞けたものでない。日本の国家権力の中枢は情けないばかりの超小心者の大ウソつきどもばかりだ、日本をあずけるわけにはいかない。子供にも話せるようなハナシではない。




鍜冶屋の小字一覧


鍛冶屋町
佐田 市ケ後 茅倉 箱ケ迫 狐穴 薄井野 花ノ木 大迫 駒ケ迫 蓼ケ迫 宮ノ前 角木 大谷 上開田 下開田 坪ノ上 仁蔵谷 野口 六反 後位ノ内 馬場下 八塚谷 中ノ坪 安川 岡ノ下 福田 鳥ケ岡 三反畑 寺内 三坂 御所ノ奥 大日 三ノ宮 ハチガタハ 岡ノ段 家ノ下 月ノ木 前地 繁地 鍛冶屋奥 定国 上ノ段 成竹 北迫 芝崎 後川 的場 御光道 稲場 高稲場 下稲場 佐田 市ケ後 空山 シメジ 六反

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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