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丹波の

釜輪(かまのわ)
京都府綾部市釜輪町


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京都府綾部市釜輪町

京都府何鹿郡山家村釜輪

釜輪の概要




《釜輪の概要》
国道27号から乙味川に沿って北側へ入る。

鎌輪とも書く(元禄郷帳・寛政十一年丹波大絵図)。由良川右岸段丘上と、支流乙味川沿いの斜面に位置する。
釜輪村は、江戸期~明治22年の村。はじめ山家村のうち、のち分村独立した。山家藩領。明治4年山家県を経て京都府に所属。同22年山家村の大字となる。
釜輪は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ山家村、昭和25年からは綾部市の大字。同28年釜輪町となる。
釜輪町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。


《釜輪の人口・世帯数》 76・35


《釜輪の主な社寺など》

釜一三神社(かまいちさんじんじゃ)

乙味川の南岸側の高い所にある。元は斎神社であったという。これは丹後系の社か。
釜輪大明神     鎌ノ輪村 産神
祭ル神    祭礼 九月三日
拝殿 鳥居 森凡二十間ニ三十間
(『丹波志』)

四級社釜一三神社 祭神大日霊貴尊、素盞嗚尊、月夜見尊 釜輸町岡田道ノ下 境内二、〇五三㎡
祭日旧九月三日現在十月十日 区民の氏神として子供神輿を繰り出す。廷宝八年(一六八〇)再建す。安永二年(一七七三)神子屋建替。寛政三年(一七九一)斎神社と称えていたのを宮位昇進し、釜一大明神を許され鳥居を建てる。昭和九年釜塚神社を合祀する。昭和三十四年屋根改修。
釜塚神社 祭神、鎮座及び祭日ともに釜一三神社と同じ 岩場最寄の氏神で現在の神輿庫の場所に在った安永三年に上家・籠屋の建替えの記録が残っている。
(『山家史誌』)


日前神社(ひのくまじんじゃ・聖神社)
乙味川の渓流に沿って「乙味渓流荘」の方ヘどんどん入っていく。途中二俣になっていて、大きくUターンするような分かれ道があり、こんな案内板がある。

日前(ひのくま)神社(聖権現)由来
当社は釜輪町努多ヶ成壱番地の山頂に鎮座し、石凝姥命、聖命を祀り、社域十ヘクタールの山内には石灰岩が起伏し古木鬱蒼として聖域の神々しさを覚える。
創祀は天元三年五月三日橿原吉田村より移したもので、その後永禄六年に再建し現在に至る。山家藩主谷氏屡々此の地で狩猟を楽しみ必ず当社に詣で尊崇を深めたと伝えられる。例祭は毎年四月十六日で近郷はもとより遠く丹後但馬からも賽者多く終日賑やかであった。現在も尚霊験あらたかな神として尊崇の的となっている。
釜輪町自治会


燈籠の先に鳥居が見える。ここから登るようである。山頂に日前神社が鎮座あるという。奥山の権現さんと呼ばれ、雨乞いの神様とされている。上林に通じる古い古峠道だという。
日前神社 祭神石凝姥命・手置帆美命・彦挟知命
天元五年(九八二)五月三日橿原郡吉田村の聖権現を、勧請したと云う記録がある。比志利(聖)大権現、高山大権現と称し、霊験あらたかな宮として信仰篤く、モミの木の穴にたまった水を権現水といって眼病によいと頂く人も多く、四月の大祭には近郷近在からの参拝者も多い。明治二十九年御神鏡を祀る。明治三十七年本殿屋根を杉皮葺きにする。大正四年神殿修後、神楽堂茸替え。昭和三年石の鳥居を建立する。
例年は四月十六日を春季大祭日とするが、昭和六十二年は四月十九日の日曜日に創立一千年記念大祭が盛大に執行された。
(『山家史誌』)

高山聖権現(釜輸町怒多ケ成壱番地)
天元五年(九八二)に大和国橿原から勧請創始されたといい石灰岩のカルスト地形をした山上にある。祭神の石凝売命女命は蚕の神といい、お山の石を「猫石」と呼んで鼠の害を防ぐ石として持帰り、養蚕がすめばお返ししたと伝えている。又疫病はやり病の神として「お神水」を載いたりした。昭和六十一年から関西配電の送電線の鉄塔設置のとき、基盤となる所に大穴が発見されて埋没するに苦心された話も残っている。或は大鍾乳洞の一部ではとも思われる。

橿原郡吉田村というのは今の奈良県橿原市のことなのか、吉田やそこから分かれた古川には、記録にはこうした神社が見当たらない。吉田という所はあちこちにあるので、本当なのかどうかは不明である。何がモグリかわかったものてない。
聖神社は和泉国が本場というのか起源とされ、天武三年(674)に、勅願により信太首に祀らしめたという。枕草子の「杜は信太の森」というのはこの社の鎮守の森である、「しのだづま」の狐もこの社の深い森にいたという。大阪府和泉市の王子町という所にあるが吉田という所は見当たらない。和泉穴師神社と並んで和泉では最高の神社であった。大鳥神社とか和泉は金属ばかりである。日葉酢媛の子の五十瓊敷入彦皇子が菟砥の川上で1000口の剣を作ったというのもこのあたりだろうか。
信太首は百済系渡来人だが、境内に土蜘蛛窟と呼ばれる古墳が数基あるそうで、その土蜘蛛の神社であったとされる。和泉千塚といってたくさんの古墳もあるが、景初三年鏡が出土した和泉黄金塚も近くである。
聖神は旧事記によれば、素盞嗚命-大歳神-聖神で、素盞嗚や大歳と同血統の神だが、あるいはまた聖は日知りで暦などに通じた、といっても暦は政権の専権事項だから、それではなく、いわばモグリの者で、これも賤であったが、こうした陰陽師を土蜘蛛の裔であろう和泉首などが信仰していたのではなかろうかともされる。
聖社を祀るのはこの辺りからやってきた人々だったのかも知れない。聖念仏など芸能の民でもあり、「山家踊り」「山家音頭」「浄瑠璃」というのもそのながれなのかも…
祭神とされる石凝姥命は鉱山鍜冶。手置帆美命・彦狭知命は大工さんとか各種職人の祖神とされる神で、大師講とかでよく祀られる。職業ギルドのような、書くのもどうかとは思うが、どこかの国では工や商やこうした稼業はかつては賤民のものとされ、彼らは差別を受けてきた、そうした過去が21世紀でも尾を引いているのか、どこかの国の村々の入口などには、それを暗示するような大きな看板が立っている、まだ解放されず苦しみになかにいるのだろうか。そうした人達は、都会の市民などとは比べものにならないほどの深い歴史的由緒あろうと思われるが、通りがかりの物好きが頭を突っ込めるようなことでもない。
天皇や貴族が貴種で、そのほかの日本人は何でもカンでもすべてだいたいは賤民であった、土地付きの農とか税をとれるところはカッコだけは良民とされた。しかし実際はそうした賤こそが日本を支えてきた、貴族文化などたいしたものがあるはずもない、太ったブタは決して良い物などは生み出せないというリクツが成り立つからである。経済はもとよりどの日本の技術や文化でも賤なくして成り立つものはない。日本が世界に誇る文化や技術はすべて彼ら痩せたソクラテスが生み出してきた。
ワタシは被差別部落の出身ですというお医者さんからメールを貰ったことがある、スゴイ史観をお持ちであったが、そうしたお医者さんも賤、というか穢であった。病気や死は穢だから、それに携わる者もまた穢なのである。ウソーと思うかも知れないが、今でも「喪中はがき」というものがある、私は肉親の死で穢の身だから年頭の挨拶を遠慮させてもらいます、の意味である。スンバラシイ国のカースト制。何もしない者だけが、貴種だという亡国の考え方である。天皇栄えて国亡ぶ、まさにその歴史をついさっき見せたばかりである。退位させてくれ、というか女性も差別している天皇制などはもう超時代遅れ、もうやめてくれないか、なのかも知れない。天皇制あれば賤民制あり、は正解で、看板が訴えるような本当に民主的な基本的人権を守る国とするためには、反対側もよく見て天皇制を廃止しなければなるまい。こうした犠牲の上の天皇制などは何も誇れるようなものではない。どの国も似た過去であったとはいえ、どこが特にスンバラシイのだろうか、上っ面だを見たヒラメのダーダーでは何もわかるまい、しっかりした批判精神を持ってもらいたい。
天皇さんの一族などは臣籍降下といって、その特権から離れる場合はだいぶに貰えるし、明治初期の武士なども平民になる時にだいぶに貰った、しかし賤民もその身分から書面の上では一応は解放されたが、一銭ももらってない。今からでもおおいに貰ってください。そのゼニを払うのは誰か、上に踊らされて根拠のないアホな、マチガイでしょうといったことを続けていると、とんでもないツケが回ってくることも覚悟せねばなるまい。

聖神社というのあちこちに見られるが、日前神社というのは当社だけのようで、この辺りには見当たらない。紀伊国一宮に日前国懸神社があって、この社でないかと言われる。ヒノクマのクマは神のことで、日前は「日の神」のことであろうか。
紀に、
石凝姥を以ちて冶工とし、天香山の金を採りて日矛に作る。又真名鹿の皮 を全剥にして、天羽鞴に作る。此を用ちて造り奉る神は、是即ち紀伊国に坐します日前神なり。
などとあるが、こうしたことである。紀伊国の神というか、記紀に出てくるような神だから大和政権の息のかかった傀儡のような神でもある。本当の地方の神が正当に記載されて残っているケースはまずはなく、聖神などもその部類で正確には不明としか言いようもない。
記紀で過去を見るということは、中国文献で倭国を見るような、アメリカ文献だけで今の日本を見るようなことである。彼らの傀儡だけヨイショして書いているのであって、何もそこに書かれているからと言ってもネウチがあり、正統なものかどうかは別のハナシになる。
『山家の村々』
聖神社については「日前神社」と再び社名を改め、祭神を「石凝姥命」としている。
社名の改称は「聖」が仏語であったためと考えられるが、「日前」とはどこからもたらされた名であったか。何鹿郡や天田郡に同じ社名は見当たらず(『神社明細帳』)、位田町に桧前という小字は見られるが、それ以上の関連を見出すことはできない。
日前神社の境内に掲げられている由緒書によれば、大和国吉田村から勧請した神であることが、京都の吉田神社祠官であった吉田家より報告されていると伝え(綾部の文化財を守る会第三八号「日前神社と湯立神楽」)、文政十年 (1827)には吉田家から聖権現へ神道裁許状が発行されていることからも(木下家文書)、吉田家との関わりがあったことは確認できるが「日前」につながるものではない。
現在の社名と祭神名から想起されるのは、和歌山市に鎮座する日前神宮である。中世には熊野詣の途次に日前神宮へ参拝していたという古事があり(『神道事典』)、ここに改名の手がかりを得た可能性が感じられる。
つまり、奥山の熊野神社と聖神社がひとつづきの巡拝路にあることを熊野詣と関連付けて、聖神社を日前神宮になぞらえたのではなかったか。
日前神宮の由緒には神話との関わりが見られ、皇霊を尊んだ明治の風潮にも適っている。
こうして神仏分離が進められる中で、本来の神名であった 「聖」の語は消え、新たな祭神名が付されることとなった。釜一三神社の祭神を大日霊貴尊、素盞嗚尊、月夜見尊としたのもこの頃であろう。明治維新期には各地でそうした出来事が多々あったことを記憶に留めておきたい。


聖神社の本社と見るべき和泉市王子町は王子というのだから、熊野信仰とも関係があろう。『山家の村々』の推測は当たっているのかも、丹波負笈録も山家藩記録も聖社となっていて、一応は聖(ひじり)神社と見ておくのがよいのかも。「釜一三」とか斎のままでよいのにヘンな(失礼)改名もしたりしていて何かそうした時代にあったのかも知れない。
聖神社は鉱山と関係がある神社である、これはこの辺り各地の聖神社から推してそう推測できる。眼病によいなどと当社もそうしたものか。
湯立神楽
神楽の主要な行事として各地に伝わるもので、釜の湯を煮えたぎらせて、湯花を神々に献じ、見物にあびせて祓とする。
昭和六十二年四月十九日、釜輪町聖権現(日前神社)の一〇〇〇年祭に九十年ぶりに復活された。自然石を積んだ窯の上に大綱を据え、湯をたぎらせて林田活神官が「塩」」「酒」「洗米」を入れ、その場を笹の葉にかける昔ながらの神事を行い、それが巫子役の中学生によって、多くの参拝者に頒ち与えられた。本来は笹の葉で湯立の湯を浴び祓として神楽を舞ったものであろう。
(『山家史誌』)


その他の神社
○熊野神社(旧一ノ宮熊野権現) 祭神伊奘冉尊 釜輪町努多ケ成
奥山最寄の氏神で安永九年(一七八〇)十一月籠屋建替の記録あり
○秋葉神社 祭神迦具土命 釜輪町努多ケ成
〇稲荷神社 祭神倉稲魂命 釜輪町万灯山
(『山家史誌』)


臨済宗妙心寺派普門山栴林(せんりん)寺

河岸段丘の広い所にある。
普門山栴林寺 禅宗山家覚応寺末   釜ノ輪村
観音堂有 郡順礼二番札所ナリ
(『丹波志』)

普門山梅林寺 臨済宗妙心寺派覚応寺末  釜輪町下尾道ノ上五  此除地一二〇〇㎡
本尊釈迦如来・聖観世音菩薩・地蔵尊 観音堂一間半四面、庫裡六間半四面、壇家五〇と木下文書に書かれている。何鹿郡西国霊場第二番札所、綾部西国霊場第四番札所で御詠歌に「花ならむにをいも深き梅林寺、法のゑたはもさかへさかへて」とあり。天正十三年(一五八五)三月伝髄桂昌座元禅師が開山し、文禄元年(一五九二)七月十四日寂となっている。明治五年十二月から同八年二月まで立行館小学校の分教場として使用され、同二十八年七月から無住のため隔離病舎としても使用された。大正になって十世長尾義照師が入山され、庫裡と観音堂をつないだ一畳の大改修がなされた。昭和十六年四月先住の歿後現住職竹貫英山師入山し、戸奈瀬町の興源寺を合寺し、檀家八十六となった。同四十年本堂屋根をトタン屋根に改修。同五十一年庭園改築。同六十一年十一月三十巨本堂改修し位牌堂・上間の間を造り住職の居間を増築し、開山四百年諱と落慶法要を行った。
(『山家史誌』)

栴檀の「栴」と「梅」の字は似ているが、印刷マチガイなのか、「栴林寺」のようである。


△上寺    釜輸町岡田道ノ上一帯
堂宇五カ所あったと言い伝えられ、今でも寺屋敷といい、上寺(ウエンテラ)と云っている。詳細不明
△下尾地蔵堂 釜輪町下尾継の森の縁に建立という明和三年(一七六六)十月の記録がある
○岩塚薬師堂 釜輸町
厨子三尺五寸、上家弐間四面、明和三年(一七六六)に上家一間半に二間に建替えの記録がある。現在は両彼岸と八月にお講を行っている。
△観音堂  釜輪町
二間四面のお堂がある。
(『丹波志』)


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


釜輪の主な歴史記録


山家おどり
「山家音頭」でもよく知られるところであるが、時代の流れとともに盆踊りには福知山音頭が主流になりつつある。山家芸能保存会が、毎年十四日の夜山家小学校で行う盆踊り大会には白波瀬七五三之助(鷹栖町)の音頭(テープ録音)に合わせて、山家おとりが継承されている。正調山家音頭 高瀬半之丞(釜輪町)野間紋治(下替地町)
 加藤宗一編著の「丹波の民謡」によると、「山家音頭のくどきは、綾部音頭や梅迫音頭・向田観音音頭とちがって、散文にちかい長文句を語るところが特色であり、したがってリズムは荘重であり、はなやかさはないが、古色があり、おのずからの地方色を思わせる」とし、また山家音頭を「どんどろ大師」というのは浄瑠璃「傾城阿波の鳴戸十郎兵衛の段」に「どんどろ大師」という場面があって、それが中心となるからであろう」と説明している。

     山家音頭 (名所くどき)
どなたもやんわりこと頼みます わしの音頭というものは 師匠はとりやせぬ 習わせぬ
 あちらさんや こちらさんの聞き覚え 合うか合わぬか知らねども 合わぬところは御免なれ
 一に音頭で 二にかけ声 三に手拍子 よろしく頼みます
一、肥後橋ほとりの夕涼み 鮎もとぶなり 夏の宵
二、不動公園桜花 水も温むや 日はうらら
三、みどりの渕にたたえる 戸奈瀬弁天 島の影
四、世にも名高き立岩に 和知の早瀨が花とちる
五、今も昔も 信仰の 深さ奥山 大権現
六、昔を偲べばなつかしや 山家一万城下町
七、南泉山の照福寺 鐘も静かに 夕まぐれ
八、八千歳かけて幸を 祈る岩根の行者山


浄瑠璃
浄瑠璃は幕末から明治にかけて盛んであったようである。旭町では不動尊の祭礼に、明治時代から昭和十四年ごろまで、青年会が主催し、浄瑠璃が行われた。奥野治人宅が宿となり、義太夫・三味線ひきは、綾部、山家、西八田より多数が参加し、夜を撤して盛大に行われたという。当時使用された襖、見台等は町区に保存されている。和木町も、和木浄瑠璃として知られ、正月や祭りなどには随岸寺で浄瑠璃大会が催され、荻野定家に荻野一声の追膳碑が建っているほどである。西原町でも同好の志が多かったようであり、残されている浄瑠璃本から次のようなことが知られる。
 一、年代 寛政十二年庚申(一八〇〇年)享和二年壬戌(一八〇二年)万延元年庚申(一八六〇年)
 二、版元 大阪船町 加嶋屋清助版 仝 天満屋玉水源次郎新版 仝 納屋右ヱ門版 大阪四ツ橋南西詰 佐々井治郎右ヱ門
 三、外題○熊谷陣屋段 嫩軍記三段目切 ○鍛名手本忠臣蔵 後日噺 第十三段目 ○源平布引滝 義賢館の段 〇碁太平記白石噺 〇佐大村の段 菅原三段目 ○再板 妹背山掛合 婦女庭訓三段目 〇安達原三段目 傾城阿波鳴門
 四、以上の他にそれぞれを書き写したものを同好の志に回覧したようであり、表紙裏に〝此本はいづ方へまいり候共 早々御もどし被下此段御依頼申し上げ候以上”
      各々様
と記されている。
また、裏表紙に、本ぬしとして、「花露 直造」「花霧鈍二太夫」「花澤建幸」など記されているところから、道楽も病膏肓に入る感じである。
昭和二十一年八月二十六日 町区公会堂において四方河丈主催の大阪文楽太夫の浄瑠璃大会が、「軍人軍属遥家族の夕」として催された。
(『山家史誌』)



釜輪の伝説


権現さんの霊験
釜輪町奥山の日前神社は聖権現とか高山権現とか称せられたが、一般には奥山の権現さんで親しまれ、石凝姥命を祀る霊験あらたかな権現さんとして信仰を集めている。その昔、天正十年(一五八二)谷出羽守が山家に封ぜられたときその行列が京街道を下っていよいよ任地に差しかかったとき、釜輪の山より後光がさし、まばゆくて、先へ進めず、何事ならんと使者を出して奈留(鷹栖町)の祈祷師(おがみ屋)に尋ねさせたところ、曰く、「誠意をもって山家を冶むるにあらずんば入れず」とのこと、谷氏その意を体し漸く通過して山家の封地につき、以来谷氏の信仰厚かりしと、今も語り継がれている。毎年四月十六日の例祭には近郷の信仰を葉め、とりわけ養蚕家にとって蚕の敵である鼠を退治するために「お猫さん」として小石を持ち帰ったという。また、モミの本の穴に溜った水を頂くと火傷や目薬に効多しと。
(『山家史誌』)





釜輪の小字一覧


釜輪町
溝黒 溝黒道ノ下 溝黒才ケ鼻 天神井根ノ上 天神井根ノ下 高尾 中高尾 細尾 後山 橋戸 唐次道ノ下 唐次道ノ上 上ケ山 柳田 柳田道ノ上 河原田 栃谷口 栃谷 皆坪 シデケ谷 奥山口 日後口 下尾道ノ上 薬師前 或田 宮ノ谷 山田 岡田道ノ上 蘭東 乙味井根ノ上 薮ノ元 岡田道ノ下 林ノ下 北畑 柴尾 長谷 梨ノ木迫 寺尾 宮尾 小谷 日出尾 大畑尾 仲林 波場 蘭東 乙味井根ノ上 下尾 下尾道ノ上 努多ケ成 ニッ石 上遊里 天神出合後山尾 古峠 大丸尾 榎谷 小屋ケ谷 仲尾日後 山田尾 万燈山



釜輪町
木下家系図によれば「木下孫右ヱ門 法隆院義山智勇居士 天正二年七月十八日死(一五七四)享年五十九才、太田氏七世之孫也玄孫出於源氏和知下関者後字名別而此処釜塚名故者範長攻和知城時北堀上林川為関南和知川為開故此和知関於此守一方此陣処築釜三百故後名釜塚」とある。後世に至って「釜塚」が「釜輪」に変ったと推測される。なお地名古義によれば、山丘を指すものに「鎌」「釜輪」がある。
(『山家史誌』)


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福井県敦賀市







【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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