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丹波の

向田(むこうだ)
京都府綾部市向田町


坂根正喜氏の航空写真2007(西側上空より)

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京都府綾部市向田町

京都府何鹿郡志賀郷村向田

向田の概要




《向田の概要》
篠田神社の西側の集落。中央を府道志賀郷綾部本町線(494号線)が東西に走り、北側に集落、南側に耕地がある。

向田村は、室町期に見える村名で、丹波国何鹿郡吾雀荘のうち。康永3年(1344)7月日の亮性法親王庁解文に、吾雀荘は中村・西方村・向田村の3か村に分かれ、「於西方・向田両村者、門跡一円之進止也」と見え、当村は領家妙法院門跡領となっている。
近世の向田村は、江戸期~明治22年の村。何鹿郡のうち。山家藩領。明治4年山家県を経て京都府に所属。同22年志賀郷村の大字となる。
向田は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ志賀郷村、昭和30年からは綾部市の大字。昭和30年向田町となる。
向田町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。

《向田の人口・世帯数》 169・79


《主な社寺など》
稲荷山古墳(34メートルの前方後円墳。完存)
旧志賀郷村には大きい群集墳はなく、別所・篠田・向田・坊口に二~六基が分布している。向田の稲荷山古墳は全長三四メートルの前方後円墳である。  (『綾部市史』)


曹洞宗宗本山真福寺

当寺も元々は別所町にあり、真言宗であったという。

宗本山真福寺 禅宗福知山久昌寺末
別ニ釈迦堂アリ 脇立 文殊普賢アナンカシヤウ 鐘楼堂アリ 当寺往古ハ別所村神宮山真言一山ノ内ナリ
観音堂
丹波巡礼三十二番札所 三間四方 御拝八ツ棟唐破風
(『丹波志』)

真福寺 本尊釈迦牟尼仏、寛永三年一六二六年文佐和尚開創(原は臨済宗)元禄三年一六九〇年祝融の災にふれて同九年良宗和尚再興、さらに昭和十四年玄峰和尚再建、その鐘は延宝二年一六七五年の鋳造であったが大東亜戦に応召のところ昭和廿五年に新造元の響を伝えておる。之より先昭和廿一年マ司令部の「小学校内忠魂碑除滅令」により、本村小学校庭に祭られた忠魂碑を仝寺境地に移祭し一層寺門の風致を向上し郡内稀に見る立派な伽藍である。  (『志賀郷村誌』)


向田の観音堂(滝本山長福寺の聖観音)

案内板がある。
向田(むこだ)観音堂
この御堂は瀧本山長福寺の観音堂で、本尊は聖観音菩薩である。昔から向田の観音さんと呼ばれ、向田をどりで有名である。
天正の頃、明智光秀が別所の願成寺の僧徒(山伏)の反乱を討伐した時、光秀の武将岡部山城守が功によって別所の瀧谷にあった観音像を与えられたので自領に持ち帰ろうとして向田まで来たところ観音像は大地に根が生えたように動かなくなり山城守も又金しばりになったように動かなくなったので、遂にこの地に土着して祀るようになったと伝えている。向田の観音は昔から眼病に霊験があるとして親しまれてきた有名な仏様である。


滝本山長福寺の聖観音は眼病に効験ある「向田の観音さん」として信仰を集めた。陰暦7月17日には丹波・丹後から何千人という人が参詣し、夜は盆踊りが行われ、子の刻には向田観音音頭が一種の勤行のように納められた、という。
別所と眼病と聖は相互に深い関係があることがわかる。
長福寺 志賀郷村字向田にあり、瀧本山と号す。世に向田の観音様と称し、高屋寺と並び称せられて、賽客多し。本尊は聖観世音。現今は同区曹洞宗真福寺の管守に係る。
(『何鹿郡誌』)

滝本山長福寺
通称向田の観音さんの寺の名である。伝説によると原は山伏寺であるが天正の頃明智日向守の志賀攻略の事あり。(向田の名木滴松揺松伐取の話は之を立証)
家来の岡部山城守に別所願成寺の六坊山伏討滅させて其戦賞に仝地滝谷の霊仏観音像を与えたので、山城守は之を自領に輸送せんとして向田に来り長福寺庭に休息した処が不思議にも霊仏は、恰ら地に根が生いついたように動かなくなり軈て山城守自身も不動の金縛りにあったように身動きならぬので、遂に兜を脱いで此地に霊仏を奉安し自らその給侍をしたと言伝え、此山城守の裔が向田村の旧家岡井氏であるとの説もある。
この観音は丹波西国第廿九番及び何鹿郡西国第廿六番札折となっておる。比の札所の起源について「何鹿郡誌」は永正大永の頃即ち戦国時代に郡西国巡礼が行われたと記してあるから更にその起源は古い筈である。或古文書に丹波西国及郡西国の起りは安徳天皇の養和元年一一八一年である。従て当霊場は七百数十年前に始まっているから是と前記の伝説の矛盾を如何に解決するか。
凡そ寺院は南面に建築するのが古法であるから、建築面から考えると現在向田観音は東向であり其堂字の様式は安土桃山式の型であるので、恐らく此の堂の本尊は前記の伝説による霊仏でなかろうか。次に又今一つ南向の参拾参体観音を奉安した南面の堂がある。この堂は寺院本来の建込であるから安土桃山式の東向本堂よりは古い形式である。従って丹波西国並に何鹿郡西国の霊場としての本尊は南面堂の観音さまであろう。又参道も現在とは正反対の方向にあつたのであろう。世上に廂を貸して母屋を失うということがあるが此霊場は古仏は隠れ新仏が東向に端坐される。世人が東向観音として信仰する次第も自ら首肯されるであろう。
(『志賀村誌』)



南向きの建物、一番右側の建物は「西国三十三観音堂」とある。その下にも何か書かれていたが、しっかり読まなかった。


《交通》


《産業》


《姓氏》
志賀氏
志賀氏子孫  向田村
志賀庄謂 古近江国志賀殿浪人古郷ノ向田村ヲ引テ向田ト名付 又天正ノ乱ニ丹後田辺桑飼へ落テ住居ス 子孫アリ 家来ハ 丹後南山ニ百姓ト成于今有之 旧ノ子孫分レ山家志賀氏是也ト云
(『丹波志』)


向田の主な歴史記録



伝説


雫松(しずくまつ)と揺松(ゆるぎまつ)

真福寺や観音堂の南向かいの山にある。一番高い所の10メートルばかりの円墳みたいな、何か人工物でなかろうかと思えるような土壇地形の上に「志津久松」と書かれた石碑がある。ゆるぎ松もこのあたりにあったのであろうか。

この石碑の隣に「ゆるぎ松」と書かれた木柱があったようだが、今は見当たらない。

案内板に、

志賀の七不思議と「しずく松」の縁起
その縁起
今からおよそ一四〇〇年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は、国の中心勢力をかためるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐することになりました。
すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親王は、おおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによもものと、丹波の国々に七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。また、志賀の里の〝藤浪〝〝金宮″〝若宮〝〝諏訪″〝白田(後の篠田の五つの社を厚く信仰されたということです。
親王の子孫金里宰相は、この五社の大明神に千日参りをされ、これを記念して、藤波大明神には「藤」、金宮大明神には「茗荷」、若宮大明神には「萩」、諏訪大明神には「柿」、白田大明神には「竹」をお手植えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告されました。この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわれるようになったということです。なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ「志賀の七不思議」として、今に語りつがれています。
その奇瑞 向田の「しずく松」
向田・鎌倉には、それはそれは、年古りた松の名木があり、五社の霊験があらわれるようになってから、毎年正月六日の午前十時になると、松のしずくが雨のように落ちたというのです。そして、このしずくの多少によって、その年の旱魃や水害を占い、耕作の指導までしたというのです。ところが、天正の昔(一五七五年)明智光秀が福知山城を築く時、占ってもらったら「川上に名木がある。これを棟木にしたら成就する」と出たので「しずく松」と「ゆるぎ松」を探しあて、これを切ろうとしました。ところが、木こりがこの「しずく松」をいくら切り倒しても、その切り材が夜中に集まって元の木になっているので、木こりは驚き恐れ、切ることができなくなったということです。光秀は怒って、松の木を切っては燃やし、大幹だけを残して全部焼き捨ててしまいました、【別所町、願成寺記録より】
現在、公民館には、大木の松の皮が保存してありますが、これは「しずく松」の皮と言い伝えられています。    志賀郷公民館


何鹿の二名木
何鹿が、かつてもっていた、二つの大樹、二名木のお話をいたしませう。それは、高津町の八幡さんの「銀杏の木」と、志賀の七不思議の一つ「しづく松」の話です。

   高津お山の銀杏木みやれ、枝は観音寺
   葉は長田、影は福知の城にさす。

 こんな話をしようとすると、ある人は、それはちっこい、もつと大きな話がある。それは「江州(滋賀縣)栗田郡の栗の木は、その大きかったこと、朝日は伊勢でさえぎられ、夕日は丹波でさえぎられた。つまり、この巨木の枝は、伊勢や丹波まで、ひろがっていた」というのです。
 咄も、ここまでくれば、超々的なものとなります。わたくしは、島国日本にも、また、世間せまといわれる、丹波国にも、かつて、こんな雄大な話をもっていたのかと、心ひろびろ、うれしく思うものです。
 大むかしでなくとも、人間は、大樹のウッソウたるたたずまい、それは、幾度かの嵐を耐えてきた大樹-を、みるとき、下世話にいう「立寄れば大樹のもと」というものでなく、太古えの郷愁といいますか、大樹えの思慕は、いまなお、われわれの血に、脈うっています。
 さて、高津お山の銀杏木のことですが(八幡さんのことを、土地の人はお山という)もう、この銀杏木はありません。残念なことには、銀杏木があったという傳承さえ、ぜんぜん、消滅していますが、不思議にも、この歌だけは、実在をぬいて、いまなお、人々の口にときどき口ずさまれてます。火のないところに煙はたたぬ、と、いいますが、かつての実在は、煙の如く消えても歌だけはのこる。こんなことは、世間にはいくらもあることですから、べつに強て不思議と、しなくてもよいと思ます。それでわれわれは、かつて、高津八幡さんの大銀杏木は、この歌どほり近隣を圧して、そびえたっていたであろうと、確信していいでしょう。
 八幡さんの清水芳之宮司に、このことの考証をお願したら「真亭年間 (一六八四)の書類に「市之木」という、地名らしきものがある。また、いまはなくなられたが、塩見皓紀老の話に、いちの木と称した木が、八幡さんの西方傾斜地、小字「上地」にあったと、いうほかに何もない」との御返事でした。銀杏の本を、いちよの木といい、いちよの木を、いちの木となることも、また、ありうることでしょう。したがって、この市之木なる地名、古老のいう、いちの木は、かつてのこの歌の出所と、関係があるのでないか。とも考えられます。
 つぎに、「影は福知の城にさす」この景観は、豪快な朝日の景色になるわけですが、福知の城というからには、この城は、光秀築城(再修)いごのものと、いちおう、しなければならぬと思ます。とすれば、高津お山の銀杏の木は、つぎにのべる「しづく松」とは反対に、光秀のバツサイをまぬかれた、名木ということになり、したがって、その消滅は、ごく近世のものとなり、所在もはっきり、しなければならぬことになるが、それが判らないとすれば、いちおう、この城は、光秀以前のものと考えねばなりません。きめ手は、歌にいう「福知の城」なるものが、光秀以前のものの、横山城、掻上城(かきあげ城)あるいは、それ以前の城を、指しているのでないか。
 わたくしの考では、この福知の城は、光秀以前のものであり、したがって、名木お山の銀杏木は、光秀のときバッサイされてなくなった。したがって、この歌も徳川三百年の間、歌に主なき思出となって、だんだん消えつつあるのでないか。と思うのが本当のようです。
 もつと考証を精密にたぐりよせ、今後の綜合研究を、めんみつに組立れぱ、このなつかしい大樹の実体は、ほぼ、わかると思いますが、げんざいでは、残念ながらこの程度でございます。

         ○

  志賀の七不思議のうちに、「しづく松」というのがあります。縁起は『何鹿郡誌』に、「向田の南方にあり、四ツ時(午前十時)に、雫の落つること雨の如し。これによりてり旱損水害を卜知せり。今その跡に、一基の碑をのこす」とあるように、この松はいまありませんが、かつて、 「旱損水害」を卜知していたと、いわれるぐらい 絶間なく、ふっていた、松の雫は、ちょうど雨の如し。と、いわれていたほどですから、いかに大樹であったかが、わかります。この松は、あとでのべるように、天正のむかし(一五八○前後)明智光秀によって、切られていますから、「卜占の行事」が、いつ、いかなる人々によって、なされたか、ここでは不問として滴下する、しづくの多少によって、日照と降雨の多少は、この巨木を中心にして、はっきりしりえた現象であるし、この現象を確立し、抽象化して、年頭、あるいは、ある特定の日時をかくして、一年の旱損水害を卜したことは、自然のキョーイを、そのまま受けいれねばならなかったことの多い、古代の人々にとつて、まことに自然のことであったでしょう。
 さて、人間のかなしい悲願を、卜占の行事と結ばした「しづく松」とは、一体どんな松であったでしょうか。と、いうことは、徳川期を通じて、いな、明治このかた、げんざいに至るまで、一般の人々に、よく知られていなかったと、いうことだけは、はっきり、いうことができます。
 では、「しづく松」とは、どんな松であったであろうか。まづ、志賀の七不思議のうち、五ツは、徳川初期すでになくなっていた。ということは、延宝年間(一六八一)の「志賀甚太郎文書」で、確信されたのは、昨年のことであります。でありますから、世人は「しづく松」の縁起はいまも語りつがれていますが、その「しづく松」の実体は、さて、どんなものであったかは、不問のまま、今日まできていたわけと、思うのであります。
 昨秋、わたくしは、綾部の風流人、四方庄之助老の御宅で、「これが志賀の七不思議のしづく松の松の皮だ」と、いうのをみせてもらって、びっくりしたのでした。その「松の皮」は、長さ四尺あまりもあり、厚さ六尺余もあった大きいものでしたが、所蔵中倒れて、二つに折れていましたが、松の皮というより、「まあ、松の皮の怪物にちかい」と、いうものであります。
 いま、その片方が、綾部中学校に寄附されているから、奇特な人はごらんになれば、百間は一見に如ずと思ます。
 この松の皮から幹の直樫を計算してみると、おおまかであるが、五、四六メートル、まわり十八メートル余と、いうことになりました。この「松の皮」のうらには、朱書で「光秀築城之際棟木に使用すと云ふ」と、記されてあります。
 何鹿志賀郷向田を中心にしてあたりをヘイゲイして聳えたっていた、名木「しづく松」は、戦国争乱の英雄、明智左馬介光秀によって、無残にもバッサイされてしまったのであります。
 ともあれ、いらい志賀の人々は、いな、志賀ばかりでなく近隣の人々も、どんなに悲しんだかわかる気がします。神事行事に藍でして、悲願の対照として、誇りとしていた、このしづく松は光秀らの戦乱に利用されて、あとかたなくなくなってしまいました。
 光秀築城のとき、附近の民家の墓石まで徴発されたことは、いまでも城の石垣に、その名残りをとどめているが、いたいたしい限りです。戦争のもつ暴力と惨禍は、なにも天正のむかしでなくとも、今次大戦のとき、人のいのちも、なんのその 佛像、つり鐘、セントク、花びんに至るまでが、徴発されたことは、生々しい体験であります。
 話をもどして、この「松の皮」が、どうして残されたかを、備忘のために、書いておくのも、むだではないでしょう。
 志賀の向田の旧家、岡田秀松氏が、どうしてもち続けていたものか(これがじつに貴重なこと)持っていられた。それが物部の大槻健太郎氏に伝り、さらに、福知山の茶人松井芋庵が、うけつがれていたが、同氏が、郷里の浜阪に帰るとき、福知山のある古物商に売られた。それを綾部の四方庄之助老が、わが何鹿のものである、というので、買いとられていたのであります。この「松の皮」は、のべた通り、もと一つであったが、二つに折れ、大きい方は、志賀の大槻貞二氏にゆづられ、一つが綾部中学校に納まっています。スワリをよくするため、底を削ったときの余り皮で、「茶托」ができたが、その一つが木枝清閑堂(綾部市広小路)にもあります。
 つぎに清閑堂の話を、つけ加えておきませう。これは、しづく松の原木の話です。「明智の切った、しづく松の棟木は、明治のはじめ、城をつぶしたとき、残っていた。福知の人々は、志賀の名本であるから、志賀郷に返さにやならん。と、いって、交渉したが、当時志賀の人は、だいいち「福知までもらいに行くのがかなわん」し「保存にもメイワクする」と、いうわけで断ったいま思えばおしいことであったが、この話は、それきりになってしまった。「さア、福知の人はその木をどうしたか。判らん」と、いうのである。おそらく、いまの福知山の人々も、「そんなこと判るもんかいな」と、なっていることでしょう。  (『何鹿の伝承』)



夜嵐
夜嵐
今の志賀郷公会堂屋敷は元夜嵐の邸趾と隻えられ、昔より民屋を避け此所には昔若宮神社の御輿堂並びに舞堂及び会所等があって前の広場は盆踊、鎮守祭礼の供揃え、村民集合、其他の公共用に供したものであ。夜嵐は清和源氏の末裔で其祖諏訪相模守九郎兵衛忠正は信州より来て此地を領した。其子忠信に至って姓を梅垣と名乗ったが早世して次男仁右衛門の尉忠之が其後を継ぎそれより野人となった。
「躯幹傀偉にして膂力絶倫竹林草莱を拓くに常に鋤犂を用いず、手を以てするに猶寸草稚苗を抜くが如し、夜陰好んで家僕を従え自ら鋤を牽くに其耕程能く牛に数倍した故に里人呼んで夜嵐と言うに至った。又頗る相撲を好み近郷に角力して其匹儔するものなかりしと伝う」(以上は梅垣家の系図並に何鹿部史蹟概要に記載せるものに依る)現時猶存統している諸税の遣物に緻しても共巨大なる事は到底尋常一様の人でなかった事を想像するに足る。今志賀郷小字今井に其墓地建碑が現存しておる。夜嵐は本村の畸人として態々な伝説物語りの主人公であるが諸種の伝説を通じて其人物を考えるのに信仰深い。同情深い、親孝行で、精農家で、且つ健脚、膂力、射弓、相撲等に於ては地方稀に見る偉人であった様である。斯かる大人物のあった事は本村の大いに誇りとする所である。言い伝えの一節に或る時遠弓の事について論争起り結果夜嵐は興隆寺より白道路吹が多和の小山に立てる相手を射る事となった。万一を慮ばかつて代用物を建てた。果してこれ貫ぬいたとの事。其矢が平田家(利左街門氏)に伝わっていたが先年物部小学校に寄附せられ今猶扁額として保存されておる。二女があって一人は丹後高野村の某氏に嫁し一人は藩主谷出羽守に召されたと伝う。当時の里人左の俚謡を口ずさんだ。
 「志賀の夜嵐よい聟とった 恐れながらも出羽さんを」
(『志賀郷村誌』)

夜嵐
綾部市向田町
その昔、綾部市志賀郷地区に「夜嵐」と呼ばれためっぽう力の強いお百姓さんがいた。京に上って相撲大会で優勝したり、その怪力を伝えるいくつかの話が残されている。
この夜嵐さんに仲のよい一人の友達がいた。白道路のお百姓さんで、ある日二人は向田へ遊びに行った。いまの若宮神社の裏山へ登ると、あたりのようすが手に取るように見えた。なにげなく白道路の方を見ると、頂上が平らになった小山が目に入った。夜嵐さんニコッと笑うと、友達の肩をたたき
「おい、あそこに、てっぺんの平らな小さな山があるじゃろう。おれがここから弓を射たら、あそこまでなら矢が届くぞ」
と、こともなげにいった。これを聞いたその友達、びっくりして
「なにッ。ここから射た矢があそこまで届くって?」
と思わず聞きかえした。
「そうだ。あそこならきっと届かせてみせる」
「なんぼ、おまえでも、それはムリだ。あそこまでは十二、三町(千三、四百メートル)はあるぞ」
「そんなら、こうしよう。あすの朝、おれはここからあの山のてっぺんをねらって矢を射る。おまえはあの山へ登って見ていろ」
「おう、それは面白い。それじゃ、あしたおれは必ずあの山のてっぺんに登って、しりをまくって待っててやるから、おまえはそれをめがけて射てこい」
 -こんな問答の末、二人は別れた。
くだんの友達。こうは約束したものの
「まてよ、やつは恐ろしい力持ちだ。本当に矢をてっぺんまで飛ばして、それがおれのしりに当たれば、おれはそのままオタブツ。ここはひとつよく考えないと……」
とだんだん心配になってきた。
翌朝、一計を案じたこの友達、山カゴと黒羽織を持って約束の山へ。頂上に着くとカゴを横に倒し、その上に羽織をかぶせると、まるで人がしゃがんでしりをまくって突き出しているようになった。こうして、自分は少し離れた木陰にかくれていると、約束の時刻とおぼしきころ、ビューンと鋭くあたりの大気を引き裂いて一本の矢が目にも止まらぬ速さで飛んできた。ズバーン。カゴは見事に射抜かれていた-。
同じような話で、向田の奥の金河内から、ひとかかえもある石を白道路まで投げたという話も伝わっている。志賀郷の子供たちはこの夜嵐の話が大好きだ。

【しるべ】向田はいまの向日町。市街地より北約十二キロ。矢が届いたといわれる白道路の山は現在「フキガト山」と呼ばれており、市街地より北約十キロ。また、志賀郷町の町はずれの小高いところに夜嵐の墓と伝えられる古い墓がある。
(『京都丹波・丹後の伝説』)



金河内の阿須須伎神社の参道脇に置かれた「夜嵐伝説大石」↑
場所が違うがついでだからここに引かせてもらうと
*岩石と語らう〈18〉*夜嵐伝説の大石(綾部市金河内町)*大男が持ち上げた?*
 山を挟んで舞鶴市と境を接する綾部市北部の山間地区。民家が並ぶ道沿いに、幅約二㍍、高さ約一㍍、奥行き約〇・七㍍の大きな石がある。ありふれた形だが、なぜか立ち止まって、じっくりと見ていたいような不思議な存在感がある。
 この石には伝説がある。それによると、江戸中期、この村に夜嵐という背丈七尺(約二・一㍍)、体重三十五貫(約百三十一㌔)の力自慢の大男がいた。夜嵐はある日、隣村からの帰りに山の頂上付近で気に入った形の岩を見つけた。家に持って帰るため、縄をかけて背負い、山を下り出した。村の近くまで来ると、自宅の周りが火事に見舞われている。夜嵐は、背負っていた岩を降ろし、消火に携わった。
 火が消えて夜嵐は岩の場所に戻り、かつぎ上げようとした。しかし、それまで軽々と持ち上げることができた岩は、地面に根を下ろしたようにくっついて離れない。夜嵐は、とうとう岩を家に持って帰ることをあきらめた。
 石は、中央の上部が少しへこんでいる。「夜嵐さんがここに縄をかけて、岩を背中にしょいこんだ」と伝えられている部分だ。石は昔から、地区の子どもたちが馬乗りになって遊ぶなど親しんできたが、大人からは「小便をかけると、夜嵐さんのバチが当たるぞ」などといわれ、神聖視されているという。
 地元の人の話によると、約四十年前、道路の拡幅工事で、この石を動かすことになった。「夜嵐さんでも持ち上げられなかった石を動かせるはずがない」という古老の言葉をよそに、業者が重機を使い、元の場所から約二㍍北の現在の場所に簡単に移動させた。夜嵐の面目がつぶれた格好だが、それでも伝説は健在で、今でも語り継がれている。
 郷土史を研究している地元の農業梅垣隆雄さん(七四)は「むかし、内陸部の綾部地方と日本海側の地方とは、山を越えて交流が盛んだった。岩をかついで山を下りた夜嵐の伝説は、その当時の人たちの生活の様子を伝えているのではないか」と話す。
 道沿いにどっしりと構える大きな石。かつて山越えに綾部と舞鶴を行き来した先人たちの生活の証(あかし)が感じられる。
(『京都新聞』(98.10.3))

夜嵐は片目という 内久井に伝わる始祖神伝説が最も古いものではなかろうか。





向田の小字一覧


向田町
久保田 涌 観音前 上ノ段 迫田 中水 堂ノ前 中溝 和田 祓イ森 畑ケハタ 貝谷 上大門 下大門 中嶋 水上 五反田 上町田 九反ケ坪 角田 棚才 オミ田 摺ケ谷 家ケ谷 岩田寺 五代田 薬師前 川屋田 城木田 深田ケ奥 井尻 深谷 小代呂 上ケ畑 松原 向町田 松ノ下 大迫田 八反田 大芝原 小代呂口 八重坂 滝 深田ケ奥 大芝原 摺ケ谷 小代呂 岩田寺 松原 五反田 小狭 上ケ畑 貝谷 深谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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