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丹波の

大島(おおしま)
京都府綾部市大島町


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京都府綾部市大島町

京都府何鹿郡中筋村大島

大島の概要




《大島の概要》
鳥ヶ坪の交差点があるあたり。甲ケ岳(291m)北麓に位置する。
古代の志麻郷の地。「和名抄」丹波国何鹿郡16郷の1つ。高山寺本・刊本とも訓を欠く。シマと読むのであろう。
シマという所は久美浜や網野、小浜市にもあるが、全周を水面で囲まれた所という意味ではなく、暴力団などかいうシマ、縄張りのことで、村の意味である。一般的にはそうなのだが、村といわずにシマと呼ばれる所は何か鉄のにおい強いとワタシは勝手に感じているのだが、当地もまたその感じがする。農民の村ではなく、鍜冶屋の村がシマだ、と勝手に思っているようなことである。

中世の大島郷は、戦国期に見え、丹波国何鹿郡志万荘のうち。永正6年(1509)頃と推定される8月28日の梅宮権預経友陳状案に「丹州の神領大嶋郷」とあるのが所見という。当郷は梅宮社領で、権預経友が下司役に補任されていたが、不知行となっていたことが知られる。下って天文19年(1550)9月10日の大志万一族知行目録に「一、大志万むら」とあるという。、
近世の大島村は、江戸期~明治22年の村。枝村に安場・平野・談寺・岡・延・新庄がある。はじめ福知山藩領、寛永10年から綾部藩領。当村には天田井堰とその取入口が設けられたが、当村内の水田には綾部井堰の水が用いられた。天田井堰は下流高津村・観音寺村・興村などの田を養い、余水はさらに下流の石原・土・戸田の3か村に用いられた。当村では、洪水のたびに井口付近が欠け込み難儀をしたことから、たびたび藩に訴え出ている。天田井堰は慶応2年8月の大洪水で大破したため、同3年、綾部藩の代官近藤勝由によって延裏に新溝が掘られ、綾部井堰の用水路と天田用水路が結ばれた。これによって天田井堰は廃され、当村の欠け込みもなくなったという。江戸初期から当村は藩港の役割も担い、由良川の舟が天田井堰の下手まで達し、領内の米をはじめ産物をのせて川を下り、福知山で50石船に積みかえ、さらに河口に下り由良湊で北国廻船に積み替え、大坂などに運ばれた。また若狭小浜から琵琶湖に出て、舟運によって長浜・大津・京都へも運ばれた。舟着場は庄屋が管理にあたり、穀類は1駄につき2分の口銭、ほかは相談により口銭を徴集した。綾部藩領内では当村以外の舟着きが禁止されていたという。由良川の舟運は明治37年の阪鶴鉄道開通まで続けられた。明治4年綾部県を経て京都府に所属。同22年中筋村の大字となる。
大島は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ中筋村、昭和25年からは綾部市の大字。同28年大島町となる。


《大島の人口・世帯数》 1931・747


《主な社寺など》

大島古墳群
大島古墳群
岡の段の住宅街の東寄りを上がって行くと大島町の墓地に着く。この墓地を中心とする山地斜面の上下一帯が古墳群である。『市遺跡地図』によると、古墳は20基の円墳が確認されており、その保存状態は、完存3基、半壊10基、全壊7基である。多くは盗掘や植林などで荒らされて、林の中に埋もれた古墳の判別はかなり難しい。完存古墳のうち規模の大きいものは直径1.3m、高さ1、5mである。これらは主に古墳時代後期(約6、7世紀)に築造されたものであり、当地の有力者の墓と思われる。市内では、高津の荒谷古墳群とともに由良川左岸では数少ない古墳群である。町内ではほかに甲ケ岳山麓の道屋に2基、岩鼻に2基の円墳がある。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)


福田神社

案内板


甲ヶ岳の北麓。大島中公民館の南に鎮座。少し西側に梶長(かじおさ)=鍜冶屋の親分のことか、もう少し西には遠所(高津町に入ったところだが)、そうした小地名がある。何鹿の遠所遺跡が眠っているかも…。背後の甲ヶ岳はカブトがたけでなく鴻ヶ嶽(こうがたけ)でコウノトリ山の意味、確か赤鬼嶽とか呼んだとも(あいまいな記憶による)とか、白鳥山のことで、鉄霊の鎮まる山の意味、南ヘ越えた所には天田郡式内社の生野神社があり、この山の一帯は銅山か銀山でなかろうか、福田は銅を吹く所の意味か。
福田大明神   大嶋村 南ノ山根ニ産神
 祭ル神      祭礼 九月廿六日
 辰ノ方向 二間五間舞堂有 境内凡一町四方
(『丹波志』)

福田神社
祭神 火産霊神 埴山比売神
由緒沿革
延喜式に何鹿郡十二座の中に福太神社(福田神社とあるものもある)があるので、明治初年式内社指定の際一応問題になったが、上八田の福太神社が指定されたのであった。
昔から木曾殿神社の祭神を木曾義仲とするのに対し、この神社をその妾巴御前を祀ると云う俗信がある。社殿は寛永十四年三月、大志万勝兵衛景次によって造営されたもので、その時の棟札が残っている。
社倉蔵
福田神社の境内に入った右側に神庫に並んで手前に小さい庫がある。これが即ち社倉の籾蔵で、前掲佐藤信渕が農村振興法の一つとして指導した泉源法の社倉蔵で、飢饉に備へての籾種の保存と、貸籾による利殖に利用する籾蔵である。この蔵は村々にあったが、現在残っている唯一のものである。
(『中筋村誌』)

福田神社
大島町中公会堂から南へ参道が延び、山麓に福田神社が鎮座している。
【由緒】創建は不明であるが、かっての志麻郷の氏神であったかと伝えられる古社で、大島町の産土神として崇敬されてきた。
【祭神】次の二柱を祀る。火産霊神は火の神、防火の神であり男神である。埴山比売神は土の神、田畑の神で女神である。
【伝承】当社は昔から「母乳の神様」とされ、戦前までは出産後母乳に悩む人が、地元は勿論遠方からも参拝していた。参拝者は本殿南側の格子の女性の彫り物を削って持ち帰り、煎じて飲めばお蔭があるとされていて、そのため彫り物は削り取られて殆ど元の形がなくなっていた。
本殿の改修の際、南格子には女性の彫り物が復元されている。
【社殿】本殿は三間社流れ造りで、屋根は桧皮葺きであったが、現在は銅版葺きである。棟札によれば寛永14年(1637)大志万嘉兵衛京正、勝兵衛景次父子が曝主となり造営された。中筋地区の各神社社殿の内では最も古い建物である。なお、平成5年に屋根など社殿の傷みが大きかったので、同6年9月改修した。
【境内社】次の神社がある。稲荷神社は、森下12番地に鎮座していたが由良川堤防と広域農道の用地となったため、平成4年10月福田神社の境内に移転遷座した。祭神は宇迦能御魂神であり、天保15年(1844)伏見稲荷大社より勧請された。社殿は享保16年(1731)の建築である。梅の森神社は、能楽の名家梅若氏ゆかりの神社で、梅津氏が崇敬した京都梅津村の梅宮大社から勧請し氏神として祀ったと伝えている。元は岩鼻1番地に鎮座していたが、明治初年福田神社境内に移された。祭神は猿田彦命である。岡の森神社は、岡の段に祀られていたが、明治初年福田神社境内に移されて境内社となった。祭神は若産霊神である。大川神社は、かって山麓に沿って流れていた川のほとりの穴見に鎮座していたが、明治初年福田神社境内に移された。祭神は大山祇神である。和田森神社は、由良川近くの和田に祀られ松の大木があったといわれているが、明治初年福田神社境内に移された。祭神は綿津見神である。大将軍神社は、桶井の大嶋湊の近くに祀られていたと伝えられるが、度重なる由良川の洪水により社殿が流失したと考えられる。そのため平成13年9月、京都・西賀茂の大将軍神社より勧請して境内社として鎮座した。祭神は磐長姫命である。疫神社は、疫病除けの神で須佐之男命を祀っている。
【石造物】当社みこし倉の前に立つ大石灯篭は、高さ2、6m、幅1.1mの規模の大きなもので江戸時代の建立とされている。本殿への石段左にある手水鉢は、文化4年(1807)奉納の銘がある。
【主な神事】1月元旦祭、2月祈念祭、4月秋葉神社祭、7月夏祭、10月秋祭、11月山の神祭、12月稲荷神社祭、神渡式などの神事を大島町の氏子会で護持している。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)

境内社
梅の森神社

本社に向き合うように鎮座。案内板は↓

福田神社境内には当地一帯にあったいろいろな神社が集められている。
梅の森神社は元はここより200メートルばかり東方の山裾にあったという。その跡地は今もあるそう。
梅若流は今は観世流のなかにあるよう。


梅ノ宮 岡ノ森 稲荷 同村 三ノ方ニ
(『丹波志』)

梅ノ森明神
由緒沿革
茶薄山の麓に御旅所となっている所を梅の森明神と呼んでいる。昔志万庄を領していた梅若太夫の能面を埋めて祀った所とも伝えている。梅ノ森は御面の森の転じにものかともいう。然し梅の森は梅宮大明神から来た名で元来梅津景久が氏神として祀ったものであったが、子孫が大志麻庄に移ると共にここに遷座したが今は福田神社の境内社となっている。祭神は猿田彦命である。享保頃の綾部藩の記録にも
 「梅宮大明神、山田の上に立つ。社四尺五寸に三尺、境内十五間に十八間」とある。
(『中筋村誌』)

梅の森神社跡
『中筋村誌』によれば、大島に居住した梅津氏が、故郷の山城国の梅宮大社から勧請して大島村岩鼻1番地に梅の森神社を祀り、氏神として崇敬していたと伝えられる。その鎮座場所は、お旅所の上方で当時の境内の石垣の跡がみられる。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)

神の下に集う人びと
中世の宮座と芸能
…「丹波猿楽」もまた、落とすことのできない丹波の中世芸能である。世阿弥『風姿花伝』にも丹波猿楽の存在が明記してあり、その座は亀岡市矢田の鋤山神社に籍を置く職業的芸能人「矢田座」を指している。室町幕府の楽頭式の地位を占め、かなりの勢力があったが、丹波猿楽は矢田座のみではない。丹波特有の信仰・文化の中から生まれた丹波猿楽は、丹波一円に広く存在している。例えば綾部市の福田神社(大島町)のお旅所付近には梅若の屋敷跡が残されており、今日能楽界で活躍する「観世流梅若派」も、本来丹波猿楽に由来するものと考えられる。
天下泰平・豊年万作・子孫繁盛を祈念する翁舞が能楽の原点とされているが、この舞は元は「呪師走り」と呼ばれ、修正会(毎年正月に天下泰平など祈る法会)で活躍した呪師たちの舞(呪法の内容を解説する)を継承したものである。京都で名高い法成寺の修正会で呪師の特権を持っていたのが丹波猿楽であったという事実から、丹波の芸能史の奥深さが察知されよう。山深い丹波は都の文化をも支えていたのである。(桜井雅子)
(『図説・福知山綾部の歴史』)

梅若家の歴史

甲ヶ岳城
      安場川↓    茶薄山↓      甲ヶ岳↓

甲ケ嶽
大島の南をふさいでいる高い山が甲ケ嶽である。一名ケシボン山ともいう。頂上には秋葉神社が祀ってある。この神社の森を中心にケシボンのように樹木が生え繁っているのは昔佐藤信渕が九鬼藩に招かれて領内の農村を指導した時、甲ケ嶽の頂上に森をつくくておくと夕立を呼ぶから、降雨があって水田耕作に最もよいことを教へたので、それ以来頂上の森を保存しているという。又山上には山塞らしい跡があるので城跡と伝えている。
(『中筋村誌』)

甲ヶ岳城跡と秋葉神社
『日本城郭体系』によれば、甲ケ岳城は甲ケ岳(標高291m)の頂上にあり、丹波の守護代内藤宗勝が永禄7年(1564)城を築き福知山盆地進出の拠点とした。天正7年(1579)、明智光秀の丹波攻略の中で内藤氏は敗北し、落城したと伝えられる。城は土塁、堀切、竪堀等建物以外は良く残っている。高橋正計の実地調査による作図から見ると、城跡は山頂の秋葉神社付近から南へ3段、東北へ2段の計5段の曲輪見られ、一部は土塁で囲まれている。中央部に大きな堀切がある。城跡の東端と南端の南斜面に畝状竪堀と思われるものが2箇所あり、戦国時代の山城の特徴を示している。他にも竪堀が見られる。
何鹿郡の3大山城の一つと言われている。城の機能は15年間と短かかった。この頂上には文化3年(1806)創建の秋葉神社が祀られている。祭神は火産霊神で防火の神である。毎年4月に祭礼が行われ福田神社氏子が護持している。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)

甲ケ岳と城跡
甲ケ岳
福田神社が背にする海抜291米の山が甲ケ岳(かぶとがだけ)である。甲ケ岳は、古くは鴻ヶ嶽と呼ばれていたとも言われている。また、北東方からの姿が兜甲(かぶと)に似ていることからその名がついたとも伝えられる。甲ケ岳は、別名「ケシボン山」とも呼ばれていたが、これはその山頂に、天保年間、来綾した農学者佐藤信渕の農林振興の一つとして植林した老松が森をなして茂り、遠方から見るとあたかもケシボンのように見えるところから名がつけられていたが、現在は伐採、虫害、風害のため、その姿は変っている。甲ケ岳頂上には、火鎮守護のための、秋葉神社が鎮座されている。甲ヶ岳は俗に、ゴンゲンサンと呼ばれ親しまれているが、これは秋葉権現神社から来ていると考えられる。

甲ケ岳城跡(鴻ケ嶽城址)
甲ヶ岳頂上には、中世の山城として綾部三大山城の一つと数えられている 「甲ヶ岳城」の城址がほぼそのままの形で残されている。
室町時代末期の永録年間(1558~1570年)丹波国では氷上郡八上城主、波多野氏が丹波統一に乗り出していた。これに対し、丹波の守護細川氏の被官で、守護代の八木城主、内藤氏が、綾部・福知山地方への進出を企て、これに丹波各地の土豪が勢力を争う複雑な乱戦期に入っていた。
その時期、丹波守護代内藤備前守宗勝は、福知山盆地進出の拠点として、永録7年(1564)同族の内藤日向守正綱に命じて、甲ヶ岳頂上に城を築き、小畑城と共に北丹波の支城とした。
天正4年(1576)内藤宗勝は、天田、何鹿地方を撃ち従えようと高津城、栗城の大槻氏を攻めたと伝えられているが、この時、甲ヶ岳城は大きな役割を果したことと思われる。
その後、織田信長の丹波攻略が始まり、明智光秀に命じ、天正7年6月、口丹波北丹波に勢力を保っていた内藤氏をその本拠八木城に攻めた。
内藤氏は死力をつくして戦ったが、内通者によって城に火をかけられ炎上、落城し城主以下討死した。その時一門の内藤土佐守正勝は、甲ヶ岳城によって再起を期して落ちのびたが、一行は別れ別れとなって苦戦、正勝は辛じて甲ケ岳城にたどりついたが、遂に討死、内藤氏は滅びたと伝えている。この城は、連廊式で各丸に土塁と堀切がつくられ、更に南方の谷に備えて、「竪堀り」もみられる。
(『ふるさと中筋』)

甲ヶ岳城

「ケシボン」とは何か。ケシの花はワタシらが子供のころにはあちこちで見たが、いつからかまったく見なくなった。もしやアヘンになったらとでも自重しているものか、ケシボンと言われてもどんなものか説明できない。トカゲさんなどに聞けば意外と詳しいのかも知れないが、たぶんケシの実のことで、ケシボウズというものと同じものか。。
ケシを大量に満州奥地で栽培し軍資金にしていたとも言われる。もはや軍隊というものではなく、超ダークな山賊盗賊の、本物の匪賊の類いであった。そうでないという当時まれな正気の陸軍大佐がこの山の麓にいたという。


茶薄山城

茶薄山とその山麓
甲ケ嶽の東に連なる通称〈石山〉と呼ばれている小高い山が茶薄山である。この山は城跡であるといわれているが、詳しいことは明らかでない。江戸時代には、山家藩主谷氏が何鹿部の山年貢を知行していたが、その山手奉行として、伊藤伊織という武士が屋敷を構えていたといわれている。その場所も明らかでなく、城跡と共に今後の調査研究が望まれる。
北麓に、岩鼻と呼ばれ岩石の露出していた所は、昔安場川が新庄下から稲荷神社の下手に流れていた当時の名残りの一つといわれている。
福田神社の境内社 梅ノ森神社は、現在のお旅所(通称馬場)の附近に祀られていたものを明治初期に現在地に移された。祭神は猿田彦神であり、梅宮大明神とも言い、橘氏が山城の国葛野郎梅津村(現在の京都市右京区梅津前田町)に氏神として祀っていたものを、承平年間、橘氏を梅津と改めた梅津景久の子孫が、志麻ノ庄を領有し、この地に屋敷を構えてから遷座したものと伝えられ、享保の頃の綾部藩記に、梅宮大明神、山田の上に立つ、社、4尺5寸に3尺、境内15間に18間と記されているとのことである。
また、この附近には、山の神、本泉庵、薬師堂、古墳らしいものなど、大島町としては大切な旧跡が存在している。(綾部市史、中筋村誌、日本城郭大系より引用)(まとめ 大島昭二郎)
(『大島町誌』)

茶簿山城跡
『沼田文書』によれば、山家藩主・谷衛友が豊臣秀吉より何鹿郡の山年貢の徴収を許され、岩鼻の山頂上に茶薄山城を築き山奉行所をおいた。家臣・伊藤伊織を派遣し、郡内の山年貢の徴収に当たらせたとする。別名伊織屋敷ともいう。山家藩の山年貢は247石2斗3升、大島村は3石4斗6升2合であった。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)

野山城跡・茶薄山城跡

斎神社
イツキ神社と読むのでなく、サイ神社。塞の神のサイのよう、こんな字を用いるとまどろこしい。神社とあるが、この石燈籠だけである。左手の道は福田神社の参道の続きで、この背の方向に福田神社。後の建物は中筋中公民館。


斎大明神
大島町中公会堂の西南に祀られている石灯篭が斎(さい)大明神で、祭神は道祖神である。江戸時代以来の主要道であった中道(現市道中道線)と福田神社参道の三叉点にあり、古くは道の中央に立って悪魔の侵入を防いでいた。建立は文久2年(1862)と銘にある。その横には火の見櫓(警鐘台)が建っていた。なお石灯篭は昭和51年6月公会堂改築に関係して現在地に移された。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)


大島湊

以久田橋の下手、このあたりに天田井堰ややその下に大島湊があったという。現在は何もない。アユ釣り人の姿が見えるくらい。
大嶋港
綾部藩記によれば、享保のころには川舟による輸送が相当盛んであって、藩がこれについて規制をしている。
享保九年(一七二四)
  若州廻米十月四日より粟村舟場下芝間ニ小屋を懸 廿五日より米納所栗村小畑より納 尤蔵目付蔵方両人並
  に米斗俵見遣ス 夜ハ大嶋村へ引 あき家有之是ニ止宿 川原小屋ニハ足軽壱人為番人指置
栗村組・小畑組よりの納米を若狭へ回送するため、栗村の舟つき場近くの川原に小屋をかけて納入させたのである。
 享保十二年(一七二七)
  下川筋船着之義 米穀に不限 惣而商売船猥ニ着岸 前々より御停止ニテ 大嶋村ニ波止場相定リ 大
  嶋村庄屋講込ニテ穀類ハ 一駄分ニ付弐分 穀類之外ハ 相対次第庄屋方へ口銭ヲ取 波止場ニ船逼
  留致候へハ 庄屋より番人ヲ出し 石数等改め預り罷在事二候 前々より右之通ニテ大嶋村庄屋替之節ハ
  右支配之義も度々改候て其時之庄屋へ申付候
  然ル処近年船着猥ニ成候テ川筋所々へ致着船 吟味難仕候間猥無之様ヒ仰付ヒ下候様ニ 庄屋十左衛
  門在役衆へ申達候由 右之段郡奉行中ヒ申出候
  依之何も遂相談前々より法式ニ有之処 猥ニ有之義不屈ニ候 川向中筋之大庄屋へ急度ヒ申付 支配之
  村方之者得と承知仕 商売物之船猥ニ着岸不仕候様ニ相守 云々
下川筋に舟を着けるのは大嶋の波止場だけに定められており、大嶋村の庄屋がその管理をし、穀類は一駄分に付二分の口銭、他の品は相談次第で口銭をとり、舟荷の管理もする。しかるに近年舟の着岸が気ままになって大嶋以外に着岸するのは不屈である。川向栗村組・中筋組の大庄屋へきっと申し付け村方の者に得と承知させよというのである。この記事により、多くの商売物の舟がさかんに由良川を運行していたことが想像される。
 享保十九年(一七三四)
   福知山御蔵米此方へ御調ニ付 当時にて買主京屋源兵衛 同三郎右衛門申付 福知山にて取次嘉葉屋
   庄兵衛 相頼候て調申候…右之米大嶋村迄船ニテ上ケ 夫より御蔵人に相成候而御家中渡米ニ相成申候
嘉葉屋は福知山の舟問屋である。それを通じて福知山藩の蔵米を買い入れ、嘉薬屋の舟で大嶋まで運んだものと思われる。

文化年間に記された「田畑反別石高調 中筋組」には
   川筋 和知川と云 天田井堰
   右川下福知山 河守 有路辺が由良之湊迄通船有之 堰下迄有之 米其外買物積下す 当村庄屋役へ
   舟問屋被仰付置候 米は勿論之義其外遂吟味 庄屋聞届之上運送す
とあり、大嶋村庄屋が舟問屋の役をしていたことがわかる。
(『綾部市史』)


大島井堰
天田井堰
天田井堰はもと大嶋村に築かれていて、高津・観音寺・興・石原・戸田・土の六か村の田地を養っていた。ところが水下の興以下四か村は水の不足することが多く、そのため紛争がたびたび起こった。その紛争の記録が残っていて井堰の歴史的な経過を知ることができる。
天田井堰はもと高津村字天田井にあったが、寛永十七年に、そこより五百間(約九〇〇メートル)川上の大嶋村月が瀬に移され、新堰から旧堰の水路まで幅八間、長さ五百間の新溝を掘って水を通した。いまでもこの溝を五百間堀とよんでいる。この改築によって堰の水上りがよくなったため、それまで井組を離れていた水下の興・石原・戸田・土の四か村が井組に加わりたいと願い出た。それには福知山藩との関係がいろいろあったが、翌寛永十八年になって井組に加入ることとなった。その経過について「沼田文書」には次のように記されている。
 「右之井堰四拾壱ケ年前辰年(寛永十七年)稲葉淡路守
 様福知山ニ被成御座候節 御家来役人衆より向後下郷
 へ水取り申間敷候間 井根組ニ罷成まじくとヒ申越
 候ニ付 綾部領より仕立申候所 翌年興村 戸田村
 伊佐村 土村四ケ村 福知山へ訴訟申 福知山より綾
 部へいろいろ断申来 大嶋新溝代之内 上田六反拾
 五歩 分米九石七升五合之年貢下郷四ケ村より差越
 水取被申候筈淡州様御代ニ相極 其後松平主殿頭様御
 代 唯今御料と相成候ても 右之通御座候」
この水を利用しない大嶋村の土地をつぶして掘った天田井新溝代の、高一八石一斗五升の半分九石七升五合は下郷四か村から大嶋村へ出し、残り半分の代わり地六反一五歩を高津村・観音寺村から大嶋村へ渡している。
その後天田井堰はたびたびの洪水で堰が切れたり、井口付近の田畑を荒したので大嶋村は困りはて、また井組の村々も水上りが少なくなり、堰の修理にも難渋をきわめ、ために訴訟もしばしば起こっている。「正徳四年(一七一四)の洪水で大嶋村の田畑が欠け込み 享保二十年(一七三五)には土手井口ともに崩れ田畑がおびただしく欠け込んで 百姓は途方にくれおり申侯」と記している。そこで井口を二百間川下の稲荷社の下手へ下げて二百八十間の登り堰を築いた。ところが宝暦十三年(一七六三)十一月の大洪水で、またまた田地が欠け込んだのである。「大嶋村の氏神大上軍(大将軍)は今では三十間も川中になったし、稲荷社の境内も欠け込んで追付川原になりそうである。昔からの墓所も欠け込んで歎かわしい次第である。」と窮状を述べている。当時の堰は杭木洗堰とよぶもので、川を横切って二列に杭を打ち、その中に石をつめた構造で、漏水が多く、用水路へ多くの水を導くことができなかった。だから堰を登り堰にしないと水上りが少なく、下郷の四か村は水不足で困るし、登り堰は洪水のときに大嶋村の河岸を欠け込むから大嶋村が迷惑するというわけで、この利害の対立がいつも紛争の焦点になっている。宝暦の紛争は明和三年(一七六六)に和談が成立したが、その内容は、横堰の上手に五間の登り堰をつぎ足して流速を強めるものであった。この当時の井堰の形について次の通り記されている。
  「竪堰井口より百十八間登り 横堰三十七間登り五十四間半」
当時の堰の構造や技術では水上りが不足がちであって、百二十町歩の田を潅漑することは困難で、下三か村は水不足に悩んだ。明和の和談から四〇年後の文化二年(一八〇五)に、石原・戸田・土の三か村は、上四か村を相手どって京都代官所へ訴訟を起こした。「水上がりが少ないから登り堰にしてもらいたい。従来通りなら井組から脱退する。」というものである。この結果は「下三か村は井組から離れ、今後井堰については何の申し立てもしない。」ということになった。この取替証文には、井組各村と大嶋村の庄屋・年寄が署名し、さらに取曖人として、船井郡野条村文右衛門・氷上郡大岡村瀬治郎・何鹿郡東栗村長兵衛・物部村庄蔵の四名が連署していることは、井組の慣行を考える上で重要なところである。
これから天田井堰は、高津・観音寺・興の三か村で経営することになるが、各村は井堰修理に出す人夫の増加に苦しみ、そのため綾部藩では領内他村よりの人足加勢を申し付けている。
井組から離れた下三か村は谷水を用水とし、溜池も築いたが水不足は免れず、文化十年には訴訟を起こし井組から余水をもらうことになった。余水代として毎年銀三七五匁(文化十年の蔵米値段が六四匁であるから、米五石八斗六升代となる)を井組に出し、旱ばつなどで余水が乏しくても苦情はいわないなどの約束をしている。
慶応二年(一八六六)八月の洪水で天田井堰は大破し、復旧には多大の経費と労力を要することとなった。それ以前においても堰の決壊がたび重なり、復旧のため井組各村は非常に苦しんでいた。綾部藩の代官近藤勝由は、天田井堰を綾部井堰の溝につなぐことを藩主に献策し、大庄屋羽室嘉右衛門の協力を得て延裏に新港を掘ることとした。延町の大将軍より天田井堰の井口のある大嶋町稲荷社裏まで、長さ八町余(約九〇〇メートル)幅四間の水路である。慶応三年二月二十八日着工し、三月八日に完成したから一〇日間の工事であった。これによって両堰水路は一本となり、由良川左岸地域三五〇余町歩の田地を潤すこととなった。
(『綾部市史』(図も))





《交通》
本郷街道
中筋小学校正門前を通る綾部用水↓と本郷街道↓

綺麗な水が勢いよく流れている、綾部用水の農業用水利施設、ずっと流れて、天田用水と繋がる。その脇を通るのが本郷街道で、本郷とは若狭本郷のことである。直線はいいのだが、これは一方通行かいなと思ったがそうではない、学校のあたりはまだ少しは広いが、狭く車二台がすれ違うのはたいへんに困難である。すぐ北側に府道福知山綾部線(8号)が出来るまでの幹線道路であった。

本郷街道
現在の用水路(現1号用水路)沿いに古くよりあった道路が拡幅され、明治24年(1891)新しい幹線道路として開通し本郷街道と呼ばれた。
この道路は何鹿郡において、中筋村を東へ進み、綾部町を経て山家村から上林3村を通過して、さらに福井県に入り若狭本郷に至る街道であった。当時としては本格的な街道で明治時代には乗合馬車が通り、大正時代から昭和初期には乗合自動車が走っていた。現在町内では市道鳥居大島線となっている。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)

綾部用水
由良川の綾部井堰から取水し、青野・井倉を経て、岡・大島から高津へ、さらに福知山市に入り輿・石原・戸田・土まで続く幹線用水路をいい、流域田畑の潅漑を目的とする農業用水路である。
この幹線のほか支線や排水路などが各所に設けられ、用水路10.8km、排水路7.5kmの合計18.3㎞である。昭和28年の水害で破壊され、その後昭和29年、41年に復旧、拡幅整備され今の姿になった。
用水路の起源は不明であるが、九鬼氏が綾部に入った江戸時代前期には一部が築造されていて、中筋まで通水していたかは不明である。江戸時代後期にはほぼ完成したと思われる。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)


産業道路

府道福知山綾部線(府道8号線)のことで、本郷街道のバイパス。
鳥ヶ坪の交差点付近↑

産業道路
本郷街道は屈曲が多く幅員も狭い中、昭和に入って産業、経済活動が活発になるに伴い車両の大型化、交通量の増大によって不便を来すようになった。そこで本郷街道とは別に新しい道路が建設されることとなり、中筋村を東西に直線状に貫通する道路が昭和8年(1933)6月開通した。これを「産業道路」と呼び、現在の府道福知山綾部線で、幅員7・5m当時としては大型道路であった。沿線各地で田畑が南北に二分されたり、住宅の移転も発生した。
その後、更に交通量の増加により土砂利道の傷みが激しくなったので、昭和32年頃より現道舗装が進められた。また歩道が狭く歩行者、自転車通行等にも支障が生じてきたので、沿線の自治会等からの要望もあり、昭和50年代後半より拡幅改良工事が進められた。
その幅員は7・5mから16m(歩道片側3.5m+路肩1.5m+車道3mx2)となり、平成26年には中筋地区内は殆んど完成している。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)


中丹広域農道
以前は府道福知山綾部線はよく混んで走れたものでなかったが、拡幅されてずいぶんと快適になってきている、そしてさらにそのバイパス的に鉄道と由良川の間に農道が新設整備されている。ただ府道との連絡が悪い、洪水時にはアウトか。


《産業》


《姓氏・人物》
梅若氏
梅津 六郎(梅若氏)
梅若家は能楽の名家で代々六郎と称した。先祖は橘諸兄から出ている。諸兄十世の孫友時の時山城国葛野都梅津村に住し梅津氏と改称した。後従五位下、仁和四年卒した。その子孫が承平年中丹波国に移住し、何鹿郡志方庄を領したと伝えている。
友時二十七世の孫安久の妻が猿楽の面の夢を見て生んだのが景久で、景久は幼時より猿楽の天才として知られ、長じて文明十三年正月紫宸殿の御能に召され、蘆刈を演じて天皇の御感を得、若の一字を賜って梅若と改姓したという。時に十六才であった。これより梅若流の猿楽の祖となった。
景久の子孫家久は織田信長時代一時上林荘に移ったと云はれ、その孫氏盛が徳川家康に仕へて旗本となり、船井郡世木百十七石余を与へられて明治に及んだ。現在梅若氏の一族に有名な能楽家を出している。
(『中筋村誌』)

能楽の名家梅若氏について
四方源太郎
梅若景久は梅若家の元祖である。梅若家は近世に於ける能楽の名家であって代々六郎と呼び、遠祖を尋ねると井手左大臣橘諸兄から出てゐる。諸兄十世の孫兵庫頭友時、山城国葛野郡梅津村に住して、梅津氏と改称した。従五位下に叙せられ、仁和四年戊申に卒した。後世になって追諡して真光寺殿梅津浮雲徳行大居士といった。其の後裔承平年中に丹波国に移住して、何鹿郡大志麻の荘を領すること、なった。この大志麻の荘といふのは現今の安場、延、岡、大島の四区をいつたのであるが、梅津氏の領地は全部であったか一部であったかは判明しない。友時二十七世の孫に若狭守安久といふのがあって、その妻或る夜猿楽の面を得た夢を見て孕んだのが、兵庫頭景久である。景久幼より乱舞を好み、能楽の天才であつた。平常観世音阿彌と猿楽を研究し、仙洞御所の寵を受け、或は御香宮を始め、各所の大社の神事に雇はれたものである。文明十三年正月二十八日、紫宸殿の御能に召されて蘆刈を演じた。時に年十六といふことである。後土御門天皇其の技をいたく賛せられて、菊の御紋のついた下白の幕と、若の一宇を賜ったから、梅若と改姓し、これから梅若大夫といひ出した。これが即ち梅若流能楽の元祖である。享禄元戊子年七月十三日に歿したもので、今船井郡世木村字殿田の関殿山宗源寺(曹源寺ともかく)にある位牌の中に「徳称院梅永若賜景久大居士」とあるのは其の法号である。老来益々技秀で実に老巧の士であったらしい。七十三歳か七十四歳で歿してゐるが、多分大志萬に定住したものであらふ。死んだのは大志萬の宅か、京都の宅か判然しない。しかしこの景久が氏神として祀つてゐた、梅若大明神は今も尚其の名残を留めてゐる。現今は福田神社の境内に移されて、籠堂の南隣りに存してゐる。しかし以前は大島の中の梅の森と呼ぶ所にあつたもので、祭神は猿田彦命である。享保頃の綾部藩の記録にも「梅宮大明神、山田の上に立つ。社四尺五寸に三尺。一境内十五間に十八間」とある。
次の家久は曹源寺にある位牌によると「春応院梅真静雲浄源居士、天文十三甲辰正月十三日歿」とある人で、更に「猿楽伝記下」には「梅若太夫は其の家一流にて、その先祖は信玄の大夫なり」とある。信玄の甲斐に自立した時は天正十年六月で、家久の歿年は同十三年であるから、「猿楽伝記」に誤がないならば、家久は始め信玄に仕へ、後には信秀に仕へたものと思はれる。
家久の子広長(初め家久と称す)は頗る美聲で妙音大夫の称があった。さうであるから位牌に(宝岸院梅応治慶妙音大居士天正十一年癸未六月二日歿)とあるものであらふ。五月織田信長に召されて、江州安土の総見寺で幸若大夫と能をしてゐる。文学博士田中義成先生のかゝれた織田時代史の中に「信長幼より歌舞を好む。天正十年五月安土の総見寺に於て、幸若太夫を召して舞を演ぜしむ。当時四座の衆を召すを常とせしが、此の時は餘り珍しからずとて、新に丹波の猿楽梅若大夫を召しぬ。然るにこの時、梅若太夫の楽不出来なりしかば、見苦しとて折鑑すること大方ならず。而して幸若太夫にはよく舞へりとて黄金十枚を与ふ。さりながら、梅若にも能の不出来なるにも拘らず、猶金子十枚を与へたり。これ金を吝むに似たりとの嫌あるを慮りてのことなりき。この幸若、梅若の二家は所謂四座の外なり。幸若はもと桃井直常の子孫なり。桃井系図によるに、当時本名を八郎九郎義重といひ、名人の聞えありて信長の寵を受く。今家に伝ふる所の宝物は多く信長よりの拝領物なりといふ」と出てゐる。また「信長公記」の天正十年五月十九日の篠にも、「安土御山の惣見寺に於て、幸若八郎大夫に舞を舞はせ、次の日は、四座の内は不珍、丹後猿楽梅若大夫に能をさせ、家康公召し列ならせられ候衆、今度道中辛労を忘れ申す様に見物させ申さるべき旨上意云々」とある。歿年月日が六月二日とあるが、広長の戦死の理由がわからぬ。或は天正十年の誤で、光秀に党して山崎合戦に落命したのかも知れぬ。広長の妻は夫の戦死にあひ、幼子を抱いて流浪せしが、長じて三十壹世九郎右ヱ門氏盛といった。氏盛また猿楽を好くして家康に見出されて、大阪茶臼山にて初めて楽を演じ、慶長七年家康に仕官し、同十四年九月永代禄として、丹波国船井郡上稗生村全部石高百十七石六斗八升六合の領土を頂いた。上稗生村といふのは現今、世木村字生畑の一部で、明治五年には戸口二十二あった所である。宗源寺過去帳の中にも、「上稗生村地方百石御黒印、於二蔵前一、配当米御扶持方拝領す。廟所、舟井郡殿田村曹源寺に葬る」と明記されてゐる。
これから子孫は代々観世派のつれ師となって、専ら観世派を演じた。四十代氏好は徳川家治に仕へ頗る技名があった。歴世中最も有名な人であったが、文政元年七十五歳で歿した。今曹源寺の位牌によって、歿年月の順に記すと次の通りである。計十九名分があった。
                                    春香院梅園宗友居士 享保癸卯七月廿五日(氏教)
真光寺殿浮雲徳行大居士 仁和四乙巳五月 三日(友時) 洞雲院梅岳玄有居士 延享四丁卯九月二日(氏喜)
徳称院梅永若賜景久大居士 享禄元戊子七月十三日(景久) 智芳院梅顔元端居士 賓暦十二壬午正月十三日
春応院梅真静雲浄源居士 天文十三甲辰正月十三日(家久) 涼雲院梅岸白亀居士 文政元戊寅六月十一日
宝岸院梅応治慶音大居士 天正十一癸未六月二日(広長)30 智徳院梅津宗寿居士 文政元戊寅十二月十二日
馨春院梅瑞玄祥居士 寛文三癸卯七月十三日(氏盛)31 遥香院梅岑貞薰禅定尼 宝永元癸亥正月 七日
嶺仙院梅岩玄智居士 延宝八庚申八月廿二日(氏久) 椿光院受法貞寿大姉 元禄十三庚辰十二月十九日
南窓院梅覚利圓居 士 元緑二己巳九月廿六日(氏重) 光源院照譽宗讃大姉 寛保辛酉十月十五日
鳳仙院梅翁禅蕊居士 宝永元甲申九月廿二日(氏興)寿光院讃譽貞心大姉 宝暦十三癸未正月十九日
霊運院梅心良香居士 宝永庚寅二月廿四日(氏知) 見光院軟譽妙休大姉 明和八辛卯二月十七日
 この位牌と、寺に存する過去帳と、附近の墓碑銘と二三の文字に異同があったが、何れが真か判明しない。
 尚ほ附記すると、この上稗生村の領主も幕末には梅若家ではなくなって、天領となって、久美渓代官所が支配してゐる。
 景久-家久-広長-(初家久)氏盛-氏久-氏重-氏友-氏興-氏知-氏教-氏喜-氏頼-氏好-氏軽-氏腸(六郎)-実(初め氏実 六郎ともいふ)
(『郷土と美術24』)


豊竹豊島太夫
豊竹豊島太夫
本名を大島歌蔵と云い、弘化二年十一月二十三日井倉の安村嘉助の次男として生れ、後大鳥家の人となった。明治元年大阪文楽に入門し、浄瑠璃を修業すること十ヶ年、遂に文楽の番附に載せられるまでに上達した。これより一流の浄瑠璃語りとして東京に進出し活躍すること三年、即ち明治十三年故郷に帰り、地方の希望者にこ浄瑠璃を指導するようになった。其の間丹波丹後但馬と各地に巡回して指導に当ったので、ほとんど在宅することなく、年中旅から旅を重ねたと云う。
豊島太夫は一代に養成した門弟一千余人と云はれているが、明治四十一年一世一代の浄瑠璃会を大島で催したところ、各地より多くの門弟が参集して三日間の会期も足らなかったと云はれている。この盛大な大会を最後として、明治四十三年八月十四日病没した。
(『中筋村誌』)


大島の主な歴史記録


沿革
大島は和名抄に出ている志麻郷の故地で、古代より早く開けに土地である。
戸数は天保十一年には八十九軒、明冶八年には八十軒、昭和二十五年には九十八戸となっている。小字名には岡ノ下、岡ノ谷、岡ノ追、北天田井、南天田井、荒堀、坂尾、畠田、湯谷、二反目、梶長、森下、市場、大江、穴見、中地、桶井、竹ノ下、前田、魚梁上、北和田、南和田、二反田、外山田、内山田、大薮、沓田、松戸、船田、柳などがある。
大島は古代集落から発達した所であろうことは、高津境の岡ノ段にある古墳や、その附近の地名に銅鐸とあること、或は高津、岡と同様稲荷神杜附近から須恵器や土師器の破片がおびただしく出土することなどから推定出来る。尚府道の南側の田の下や福田神社の前面の田の中から古い木柵らしいものや、土錘などが発見されたこともあるから、附近に古代の住居趾があるのではないかと思はれる。
中世になると志方庄として有力な荘園となり、一時能楽の梅津六郎が領有していたと伝えられ、今も梅若太夫の屋敷跡と伝えられている土地がある。
大島の地名は昔安場川が新庄の下から大島の山麓に沿うて稲荷神社の下手へ流れていたこともあるらしく、又由良川の一部が明地平の下から岡、大島の南側を流れていて、島のようになっていたから生れたのではないかと云はれている。…
(『中筋村誌』)


能楽の梅若と大島
『何鹿郡誌』のなかに「梅若氏の佳所」と題して「中筋村なれど今知れず。梅若氏は能樂の名家なり。其祖は井手左大臣橘諸兄より出づ。諸兄十世の孫友時、山城葛野郡梅津村に住し、梅津氏と改称す。後承平中(九三一~九三七)丹波國に移住し、何鹿郡大志麻の庄を領す。友時二十八世の孫を景久という。景久幼にして乱舞を好み、其の技天稟に出づ。文明十三年正月二十日(一四八一)紫宸殿の御能に召されて、芦刈を演ず。時に年十六。後土御門天皇、その技を賞し、菊の御紋附下白の幕及若の一字を賜り、梅若大夫という。これより姓を改めて梅若と称す。其の子直久(その孫の間違か)天正十年(一五八二)の初め、織田信長に召されて、江州安土城にて幸若大夫と能を演ず。信長、直久の技拙きをせめて折かんす。直久、上林に住せしが、孫の氏盛にいたり、慶長七年(一六〇二)はじめて家康につかえ、同十四年九月(一六〇九)丹波国船井郡にて永代緑百石を賜う。子孫代々観世流のつれ師たり」
また、『丹波史年表』にも
「承平四年四月(九三四)梅津六郎、何鹿郡大志麻を領す」と、あり、いつれも出典はかいてないが、たしかな資料によつたものであることは、いうまでもないでしよう。
わたくしは、がんらい謡曲とか、能樂とかいうものには、縁うすいものでありますが、ただ、書籍を通じて、そのいくぶんかは関心をもつているものです。生れは古く「申樂」から「猿樂」とかかれるようになり、さらに、室町時代から能樂として大成し、あたらしく興つた武士階級によつて、保護育成され、ついに江戸時代になつてからは、武家の式樂として発展してきたこと。一方それにたいして、いつぱん民衆を相手に発展をとげた「狂言」(のちのカプキ)などについても、ふかい興味をもつているものであります。
ことに、能や狂言のもとをきづきあげた、有名な能役者世阿彌(一三六七~一四四三)のあらわした『花傳書』七篇、『風姿花傳』三篇や、七十一才のときの『却來花』(一四三七)などをよむと、かれが能樂を、いかに国民大衆の劇として、発展させようと努力したか。さらに、七十二才の老人になりながら、將軍足利義教のカコクな弾圧をうけ、ついに佐渡に流されたという悲劇、また、その逆境にありながら『夢跡一紙』をあらわした。という不屈な斗志、たくましい良心保持者として、つよくうたれるものであります。しかし、これはここで、問題とすぺきものでありますまい。問題は当時の区カクでいえぱ、丹波国何鹿郡志麻郷に、奈良朝いらいの貴族の一門が、あたらしい領主として、赴任している事實であります。志麻郷は、その後熊野荘園となり、志萬荘ともかかれていますが、江戸初期ごろまで「島四ヶ」といわれていたように、大島、延、岡、安場の四つをさしていたとも考えられるが「大志麻の庄」とあるように、当時はもつと、ひろい土地でなかつたか、とも考えられます。
梅津氏が、いかなる動機で、つまり、いかなる政治的な動きによつて、ここを領有したかという、具体的な資料は、いまのところ、なにも、のこつていません。(しかし、これは筆者の勉強不足かも知れません)したがつて、当時この地方の、われわれの組先(一般農民)らの社会的條件や、生活のありさまをさぐる資料などは、なおさらのこつていません。これはのこつていないというより、はじめからなかつたものでしよう。遠山茂樹氏は「史料残存の法則」といつていられるが当時(もちろんそれ以前も)の庶民は、のこす手段は、階級的にありえなかつたのです。
このような事情から、いまのわれわれは、きわめて不完全な、しかも、おおまかなとことになるおもいますが、日本歴史の本流から、地方史の残片をくわえ、推測の目標のふかめのるべく、こ問題についてしらべてみたいと思います。
よく、しられているように、当時は承平天慶の乱と、いわれた、平將門と、藤原純友の乱(九三九)の、すこしまえであり、大化改新(六四六)大宝律令(七〇一)によつて、えいえいときづきあげた、律令体制が(古代天皇制國家)ようやく、ゆるみかけた平安末期にあたつており、貴族の私有地(荘園)が、ますます増加しつつあつた時代でありました。有名な九〇二年(延喜二)勅旨田と荘園の禁止令がでましたが、丹波地方でも、一一一一年(天永二)ごろになると、「藤原忠隆、丹波守となる。嘆じて曰く、当國は新立荘園遍満して、國役に随うの地なきが如し」(丹波史年表)
と、いったように、荘園がおおくなり、国家の支配地(國造(直)から国司の支配)は、だんだんすくなくなつてまいります。
がんらい丹波地方は、全国的からみても、はやくひらけた國であることは、四道將軍のバケンが物語るように、(前八八)また「志賀の七不思議」の崇峻天皇(五八八~五九二)のとき、丹波の悪魔退治の傅承にもわかるように、また「物部」(物部村)「三宅」(屯倉)(豊里村)「漢部」(綾部市)「位田」(豊里村)などの地名が、のこつているように、皇室や豪族の所有地がおおくありました。(みやけのことは『書紀』六〇八年、國ごとに屯倉をおく。とあり。位田は大宝、養老の田令にでており、位田は五位以上、又は四品以上の位階のものに与へた田であつた。)いまも、ほそぼそつづく「献穀」の行事も、この時代のなごりです。しかし、これらがやが完成されていつた荘園制度も、平安朝中期をすぎますと、荘園の経営の形がかわつてきます。荘園はがんらい、朝庭が恩賞的に、貴族功臣にあたえたものですが、いわゆる「不輪不入」と、いわれたように、朝庭に税はおさめる必要なく、また、國家の役人が、出入りもできない特権地でありましたから、年代をふるにしたがい、貴族自身は、私有地としての特権を、ますます強めていくようになりました。また、いつぽう貴族に屈しない地方豪族らや、豪族とまでゆかないまでも、勢力を貯めつつあつたものは、この制度を利用して、自分の土地を、藤原や皇族のような、中央大貴族や、社寺の名義にして、(これを「寄進」という)直接國家の徴収から、のがれるようになりました。このように、さく花の匂ふがごとくと、わが世をうたつた、宮庭や官僚貴族は、実質的に地方に根をはつていつた。荘園支配者に、政治的実灌はにぎられるようになつてゆきました。
「志賀の七不思議」の物語は、不可思議の消滅する過程-中世武門政治になつて「律令制國家」の行事が消滅していつたさまを、美しい傳承にたくして、つたえています。
荘園領主が、さらに実権をしつかりとにぎつてゆきますと、さらに分化して、後世「名主」(みようしゆ)「名田」(みようでん)と、いわれるようになり、つぎのあたらしい時代の荷手、武士階級の体制に変革されてゆく。と、いうのが、歴史の本流であります。
梅津民が大志麻の庄の領主として、赴任した当時の時代背景は、また、そのこの背景は、かかるふくざつな変革的な激動時代でありました。それで結論をはやくだすようですが、梅津氏の領主的権力は、そうながく続かなかつたことは、はつきり、いうことができるとおもいます。なぜなら、梅津六郎友時より、二十八世の孫、景久の時代は、もう、領主とは似もつかぬ、能役者として、とつぜん、姿をあらわしているからです。この友時が大島を領有してから、直久まで-平安朝末期から信長時代まで-約六百五十年のあいだ、そのあいだは、もちろん、梅若が領主的権力うしなつてからですが、この長いあいだ、大島と梅若との関係は、たんに大島だけでなく何鹿金体にふかい関係をつくつていることは、想像にがたくありません。
『豊里村社寺資料集』によると元禄十三年(一七〇〇)館の式内社赤國大明紳の古文書として
(上畧)「祭八月十日其昔者能を興行仕り候由、中古より於八田郷高槻村梅若大夫と申樂人、例年御面を掛來候由、四十年斗リ以來失例を候」(下畧)(同書二四頁)
とあり、中古より近世の初期までの赤國神社と梅若能樂との関係が、わかることです。ここで問題となるのは、船井郡世木村に梅若遺跡があるから、八田郷にいたのは、梅若一族のものか、ということにもなります。後者の方を重くみますと、梅若一族の構成からおしても、たんに高槻ばかりでなく、上八田の式内社福太神社にも、能面を介して、梅若との関係があるとのことであり、中筋の式内社島萬神杜との関係も、大島の福田神社にたいして、福太騨杜、大島にたいして島萬神社などは、たんに語呂合せでなく、なにか、八田郷(旧東、西八田村)と志麻郷との、ながい領主的な関係があるようですが、この究明は、いまのところできていません。
ともあれ、大島町と、梅若との関係を、不動とするものに「能面」と、能樂に使つた「下駄」(歯の高い)が、大正のはじめまで、同町の福田神杜の境内に、のこつていたことです。いま、これらは二つとも散佚してのこつていません。なくなつてしまつた、いきさつは、村の人々にきくと、とうじ子供が勝手に、もちあそんでいて、いつともしれず姿をけしてしまつた。と、いうのです。とうじの人々は、かかる文化財に、きをくばる余裕はぜんぜん、もちあわせていなかつた。と、ある初老の人はなげいていられたが、そのとうじを追憶して、能面はたしか、五、六枚もはあつた。能面のことは、よくしらないが「非常に立派なものであつた」と、いわれています。わたくしは、この能面が、近代の名人観世巖(一八八六~一九五一)が、大事にしていた「孫三郎」のような、美しい女の面も、ひよつとすると、あつたのでないか。などと、つまらんぐちをだしているものであります。余言でありますが、この散佚のいきさつがしめす、苛酷な文化日本の現実-文化財が保護できなかつた現実のすがたは、ふかい問題を、ふくんでいるとおもいます。
年うつり、星かわり、梅若、大島をさつて三百四十年、大島と梅若との傳承は、さすが風前の燈火、いまにもきえなんとしていますが、さすがに口碑傳承は、おそろしいものです。わたくしは、昨秋、なにげなく、大島の人々から「あすこが梅若の遺跡だ」と、いわれて、中筋小学校の反対がわ、アスフアルト道の畑地(大島房次氏宅の東側)を、教えられました。また、福田神社境内の左がわに「梅若神社」という、末社があります。同社は、もと「梅の森」にあつたが、ずつと後世になつて、他の社とともに、ここにうつした。「梅の森」と、いうのは、梅若が大島をさるとき、たくさんの能面を埋めて、そこを「御面の森」(おんめんの森)と、称していたが、いつしか梅の森といわれるようになつた。げんにその跡が、梅の森(げんざい福田神社のお旅所)のダイラ(平地のこと)であると、古老の人はいつていられる。また、いつの時代か、わからないが「梅の森にあつた「梅若神社」には、とうじ、社宝としてつたわつていた能面があつたがそれが紛失した際、神主は、その責任をとわれて、能面探索に諸國を流浪、ついに行衛不明になつた」と、いう傳承もあります。
さいごに、つけくわえておきたいことは、梅若が能樂家として出発したのは、景久の天才からでなく、じつは、能樂は梅若、観世、金丸、とともに、上古、申樂といわれた時代からの、御家藝であつたということであります。くわしくは『花傳書』や『日本とイスラエル』また、次章の「秦氏と養蚕」のなかで、若干のべてありますから、御参照下さればとおもいます。
冒頭の丈献に梅若が、橘一門とあるように、橘諸兄は、秦の荘園(大化改新以前から)葛城王といわれ、京都にちかい、葛城郡に君りんした、帰化人の大豪族の出身者であり、丹波地方とは関係のふかいものがあります。つぎの章には、梅若を直接対象としては、のべておりませんが、このかんのことを、主としてのべてあります。
さいごに、もうひとつ。それは、わたくしが、これらの傳承を、本年の節分の日、宮籠りされている大島の人々に、囲炉裏をかこんで承り、メモして帰る途中、こころを占めたことは、なぜ梅若の能面や、下駄が、散佚したか。と、いうことでした。心なき子供らによつて、持ちさられたと、いいますが、これには深い問題があるとおもいます。それは、文化は民衆とともにある。民衆とともにない文化は、いつしか亡びるいうことと。もうひとつは、こころなき子供、それはとうぜん、大人までもふくまねばならないが、傳統文化の保護といい、たかい文化の育成ということは、利じゆん追求を、これこととする現在の資本主義社会では、とうていのぞめないと、いうことでありました。能樂が民衆とともにあつたか。さらに、いまはどうか。これは、いま、実践しつつある現代史の問題であります。
参考文献

(『何鹿の伝承』)


伝説

梅若屋敷

大きな建物は綾部ルネス病院。その西側から写す。道は府道8号、左手の赤いゲートはパチンコ店。このあたりに梅若屋敷があったという。
梅若屋敷
梅津景久の子孫が承平年中大志麻庄を領するようになってからここに居を移し、代々の居住地を梅若屋敷と呼んでいた。今の中筋小学校運動場の西北隅に当りで、府道で二分されていると伝えている。梅若屋敷を一名捨松屋敷と呼んでいるのは何の意味か不明である。
(『中筋村誌』)

梅若屋敷跡
『中筋村記』によれば、能楽の名家梅若氏の祖は山城国葛野郡梅津村(現京都市右京区梅津)に住んで、姓を梅津としていたが、承平年閤(931~938)に海津六郎が志麻荘(大島、延、岡、安場)に移り豪族となったと伝わる。28世の景久は能楽の天才で、16歳の文明13年(1481)紫宸殿に招かれ「蘆刈」を演じて、後土御門天皇より大変ほめられ菊の御紋の付いた下白の幕と「若」の一字を賜って「梅若」と改姓した。景久の代まで大島を一つの本拠としたと伝えられるが、その子直久は大島を離れたようで、船井郡世木荘殿田に移り江戸時代を送った。
梅若屋敷跡は、大正15年(1926)発行の『何鹿郡誌』は「中筋村なれど今知れず」であったが昭和29年発行の『何鹿の伝承』で加藤宗一が「昨年秋屋敷跡を住民から教えられた」土地を、その後の『中筋村誌』は、「(旧)中筋小学校運動場の西北隅から府道を挟んで2分された地と伝えている」とする。現綾部ルネス病院西寄りの府道を挟んだ一帯がその伝承地と推定された。
この説を疑問視する四方晴向は、大島にはもう一つ大きな屋敷があった。『丹波志』は「先祖は伊豆大島の武士・大島伊織が天正年間(1573~92)に来住し、伊織屋敷を構えた。周りを壕で囲み由良川から水を引いて舟も入った」という。また、江戸時代中期に伊織屋敷とか殿の西という字名があるともいう。住民が加藤宗一に教えた屋敷跡は、この伊織屋敷ではないか。なぜなら、室町期かそれ以前の梅若屋敷より江戸中期の伊織屋敷の方が口碑伝承の確実性がはるかに高いからであるとする。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)





大島の小字一覧


大島町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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