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丹波の

小呂(おろ)
京都府綾部市小呂町


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京都府綾部市小呂町

京都府何鹿郡吉見村小呂

小呂の概要




《小呂の概要》

関西電力新綾部変電所があるが、その東側に三叉路があり、そこから南ヘ峠を越えたところあたりの集落。

小呂村は、江戸期~明治22年の村。はじめ幾見村枝郷。のちに分村独立した。山家藩領。寛永5年から一部が旗本十倉谷氏知行地となる。旗本知行地は明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、山家藩領は同4年山家県を経て、いずれも京都府に所属。同22年吉見村の大字となる。
小呂は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ吉見村、昭和25年からは綾部市の大字。同28年小呂町となる。
小呂町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。

小呂・大呂は鉱山と関係する地名と思われる、大炉・小炉とするハナシもあるが、それはともかくも、たとえば福知山市立原には大呂鉱床がある。ずいぶんと古いことであり、小規模なものであり、すぐに資源枯渇してしまい、もうすっかり忘れられてしまった鉱山跡が地内のどこかに眠っているかも知れない。


《小呂の人口・世帯数》 133・64


《主な社寺など》

田坂野古墳群など
田坂、田坂野は今の綾部工業団地などがあるちょっとした高台で、後期の古墳群がある。
田坂野群集墳は小呂町にあって、昭和四十年に調査されたが出土品も貧弱で、七世紀はじめごろのものと推定される。

田坂野古墳群
小呂町田坂にあり、丘陵の斜面に一三基分布していた。昭和四十年、府教委文化財保護課によって五基が発掘調査された。 いずれも直径一〇~一五メートル、高さ一・五~二・○メートルの円墳であった。内部構造は木棺を使用した土壙墓と推定される。出土遺物は須恵器のハソウ・壺・杯・台付壺・坩・碧玉製管玉一個・鉄鏃・刀子・鉄斧などである。
副葬品の内容は極めて貧弱であるのが特色で、この古墳群はいづれも六世紀後半から七世紀にかけて築造されたものと推定される。  (『綾部市史』)

栗ケ丘古墳群の発掘調査は、綾部工業団地達成工事に伴って実施しているもので、2年めの調査になる。古墳群は12基の円墳で構成されており、このうち昭和60年度に3基、昭和61年度に6基、合計9基を調査した。いずれも木棺直葬の円墳で、6世紀中葉から後葉にかけて継続的に築造されたことがわかっている。墳丘は盛土を主体とし、群中に横穴式石室を含まないなど後期古墳群としては異色である。同市田坂野古墳群にも同様の傾向がみられる。横穴式石室導入が遅れる中丹地域の地域的な特色であろう。
(『京都の後期群集墳』)


奥宮神社

府道から少し西側の山手の高いところに鎮座。

奥宮神社  字小呂小字天野二十三番地
祭神 大山祇の命
由緒 此の地大古より開け里人武を尊び往時勒請して祭ると
境内社 日吉神社 大山咋ノ神
     武太神社 須佐之男命
     氏子数 九十一戸   (『吉見村誌』)


奥宮神社
吉美郷六ケ村の総社は高倉神社であり、二宮(有岡)三宮(多田)天神(多田)星宮(星原)は古来より総社と関係深い神社であった。この様相をしめすのが宝暦十三年(1763)の「高倉天一大明神出輿之式」である。高倉神社の祭礼は陰暦の九月九日重陽の節句であり、本社より里村の馬場の御旅所まで、神輿の渡御をみるのが特色である。多くの崇敬者が後続し「行列二十丁」に及ぶという近隣に聞えた祭礼である。この行列の様式についてのべた先の文書にこのような記録がある。
  神輿馬場与還輿之節式
 御先 天神 多田付 但高台於宮制作法御規式依有之也 在村役人席
       上下着用御供之事
 二番 星宮 但古格田坂与御帰也 在村役人麻上下着用御供之事
 天一大明神 高倉村
 二宮 有岡村
 三宮 多田村 但し有岡村多田村両宮ハ高倉へ直ニ御供ノ事
宝暦十三年に攻めたというこの記録は、高倉神社の祭礼の古式を伝える最古のものである。(更に古式はいまのところ不明である)明らかに先にあげた各村々の神々が、高倉天一大明神の先後に供奉する型式である。
しかして現在の祭礼は十月十日(体育の日)で、行列も小呂=星原・有岡・里=御旅所・多田を巡行するようになっているが、その様式は近世の型式を継続している。しかし最も大きな違いは、星宮(星原)二宮(有岡)天満宮(多田)奥宮(小呂)と、各村の氏神が供奉する型式とている。このことは明治の神仏分離、来社、辻堂の整理と、一村氏神一社という神道の国教化の反映であろうか。
高倉神社の祭礼は、古式を継続しつつ、時代の変動に対応しているのである。
さて一村一氏神社の傾向は、すでに宝暦十三年の有岡二宮神社の神格の上昇化などにみられるのであるが、その背景には村落共同体としての郷村制の変化があることを見逃してはならない。
さて小呂村の信仰のようすをしめすものとして、山家藩「御領分神社之覚」がある。
小呂村
 せう(庄)
1 荒神社壱尺六寸 上屋壱間半ニ壱間 旧記同断
   中戸
1 三王社壱尺五寸 上屋八尺四面   旧記同断
   同所
1 長床 弐間ニ壱間半 旧記壱間ニ壱間半
   同所
1 天王社壱尺五寸 上屋六尺ニ七尺  旧記同断
   同所
1 長床 弐間ニ弐間半        旧記同断
1 奥宮大明神 社弐尺玉寸 上屋壱間半四面 旧記同断
   同所
1 若宮社壱尺弐寸 上屋壱間四面旧記社壱尺四面 上屋七尺ニ壱間半
   同所
1 長床 壱間半ニ七尺  旧記無之
   吸谷(水谷)
1 稲荷社壱尺弐寸  上屋壱間四面
   大さこ(大迫)
1 才ノ神 社なし  旧記同断
   う里う(有立)
1 薬師堂 壱間半四面
   小谷
1 地蔵堂 壱間半四面 旧記同断

江戸時代の小呂村の神々の中心は、大明神の称号をもつ奥宮であるが、他に多くの神々が鎮座されているのである。古老の覚えなどにより、その存在、位置を図示したのが、次の神社配置図である。

小呂の神々のうち農耕神の稲荷や才ノ神(道祖神)を除けば、それぞれの神々は、各支谷集落の要地に奉祀されている。
さて奥宮・三王・若宮・荒神は、いずれも地神の系譜につながるものである。奥宮の祭神は山神である大山祇命である。若宮は奥宮の支神であるか、地鎮の神か、不明であるが、鎮護の神であり岡の段集落の中心であったのであろう。山王は山王神であって祭神は大山咋で、やはり地神であるが、近江の日吉神社につながり、産の神として崇拝されていたのである。天王は牛頭天王=武大神で須佐之男命が祭神であり、疫病防止の神である。庄の荒神は神号が不明であるが地神である。これらの神々はそれぞれに集落に近い主要地にあり、当初は、おそらく開発神の性格を有していたのであろう。これらは室町時代の創祀と考えられる。
 小呂村が近世村落=共同体としての体制と機能が整っていくと共に、農耕神の稲荷神・道祖神の才ノ神、薬師堂、地蔵堂などと併せて、住居の他種々の願望達成を図る神々の信仰機能を整えていったのであろう。
江戸中期に村中央部の真東に秋葉神社が祀られ、村の中心部に遥拝所が設けられている。そこには、「嘉永三戌年 世話方若連中」という自然石の石燈籠がある。秋葉山は火除、雷除などの難除の神として遠州秋葉神を勧請したもので、やはり村落共同体機能の強化の一端を果したのである。
近世における小呂村の祭礼は俗に夏祭りといわれる八朔祭が痕跡を残しているが、その史料は不明である。しかし現在の奥宮神社に
 ○手水鉢 嘉永五壬丑年 願主氏子中
      八月吉日奉納 世話方若連中
 ○石燈籠 奉燈天保十三年丑九月吉日 当村氏子中
      石工 田辺高江助吉
以上の金石文がある。このことは近世における小呂村の信仰が、氏子中と記しているように、地神である奥宮大明神の氏子として、共同体内信仰集団が近世後期になる程強化されていくようすを明らかにするものである。
このことは他村も同様である。
さてそこで冒頭にのべた高倉神社と小呂村の関係であるが、小呂村の住民は高倉神社の氏子であり、村落内に氏神をもつという二重の祭祀と大いに関係しており、流鏑馬、田楽などの祭務を負荷し、永享三年(1746)の神社再建完成には、施主棟梁として小呂村の村上三郎兵衛があたったことが記録化されているなど、その因縁はきわめて深い。
明治維新によって神道の国教化がすすめられていくなかで、明治政府は神仏分離令を出すと共に、明治六年に辻堂、末社の廃止を強行するのである。そうしてそれぞれの神社の由緒により社格を支え、国教としての系列化がすすめられる。何鹿部では郷社七、指定村社六十六、無格社百二十八、計二百七社に整理したのである。吉美郷でも整理が進められ、村社高倉神社(大正十一年指定)の各村の氏神五社が無格社として確定されるのである。小呂村では天王の地(現在地)に村内の神社を集合し、
奥宮神社を主軸とし、三王社を同じ上屋に奉祀し、日吉神社、武太神社とする。かくて村内各地にあった神社は姿を消し、只稲荷神社のみ残るのである。かかる統合年月は、いずれ明らかにすることができるであろう。
かくて天野の地は小呂の神域として、急坂な石段を明治廿年四月につくり、明治卅一年狛犬が村中及び個人寄進(白波瀬為吉)によって奉祀され、さらに大正七年梅原株中による石鳥居が建造され、加えて昭和三年の御大典記念として壮大な宮前燈籠が村中及び個人寄進(小村乙吉)でつくられ、いよいよ神社としての体裁が整えられるのである。なお神域に広場及び籠堂が設けられ、青年活動の拠点(宮籠、剣道練習、大鼓打など)となり、小学生の運動場としての役割を果したのである。
現在の高倉神社の祭礼様式の成立の詳細は末追及の分野であり、後続の筆者にその功をゆするものである。奥宮神社の祭日は9月10日である。  (『吉見村誌その2』)

八月朔日(八朔)は、大江町の元伊勢さんでも祭がある、農業祭で豊作予祝祭と見られているが、当地や元伊勢さんのような社では、ある事情が隠れているかも知れない。
『日本書紀』によればこの日は大和・宇陀の豪族・兄猾が、神武の軍勢に誅殺された日とある。ウカシは穿つだろうから、鉱山豪族と思われ、侵略天皇軍に残酷に殺された日として、後の鉱山鍜冶関係者の間では決して忘れないでおこう、明日は我身かも、という警戒を緩めるなの、また虐殺された多くの仲間たちの鎮魂・慰霊の日にされているようである。


曹洞宗珠岳山龍宝寺

府道に面して門柱が立てられている。
珠岳山 龍宝寺
曹洞宗永平寺派に属し、大字小呂小字中戸に在って本尊如意輪観世音を安置す。開基栄公座元が寛文二年に建立し廷宝七年天田郡福知山久昌寺祖真和尚を請して開山とした。明治末期大災に罹り一時頽廃したが、徳宝和尚現寺境内…?
(『吉見村誌』)

龍宝寺
吉美村誌の記述以外に今日補完するものがない。古書に依っても現在より480年程度を遡るに過ぎない。宝暦、安永の頃小呂町は約120戸を数えたという記録があるが、竜宝寺はもと真言宗古跡(綾部史談)という説があり、栄宝寺の由緒にも記されているというが、荒廃していたのを寛文2年栄光座元によって再興され延宝7年(1679)実巌祖真を請じて開山したものという。明治未明焼失した。
現建物は白道路の酒造家を買取って解体し区民がこれを肩や背にして菜ケ戸峠(現変電所)を越えて運んだことが古老の口から聞かれ、大正5年この再興法要には区民が随喜の涙を流した由である。(曹洞宗)
尚小呂町奥地の数ヶ所からは古墳時代の土器が発見されて、所名(地名でない)に大神宮、仏堂などがある。
(『吉見村誌その2』)


《交通》


《産業》
関西電力新綾部変電所

上八田側より、写真では左手の奥側が小呂になる。上八田と小呂にまたがるドエライデカイものである。
高浜原発の電力(右側)を猪名川変電所へ送り(50万ボルト)、そこで電圧を下げて阪神方面へと送る変電所。
通常は高浜原発の電力が地元に使われるわけではない。よほどに工夫すれば送れないということはなかろうが、そうしたことはまずはなかろう。原発などいう時代遅れで超危険なぶっそうで何万年にもわたるやっかいもので、ローテク以下のものは、ぜひとも消費地につくるのがよい。アホ丸出しで原発などと関わっていればどうなるかは東電や東芝が立証している。モウケは関電へ安全は自治体に丸投げするというヤシ手法、しかしドアホで無能なヤシ自治体くらいでは何の効果的な手も打てず、テメエが使うわけでもない電力の発電のためにビクビク暮らすなどは人権問題である。


《姓氏》


小呂の主な歴史記録




伝説





小呂の小字一覧


小呂町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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