京都府綾部市里町
京都府何鹿郡吉見村里
|
里町の概要
《里の概要》
市内からなら白瀬橋を渡ったところ。東の久田山台地上には、中丹文化会館、中央公民館、資料館、天文館などがある。
地名は古代の吉美郷の本村吉美里によるという。
里村は、江戸期~明治22年の村。はじめ幾見村の一部で、同村の枝村が分村独立したのち幾見村は里村と改称した。山家藩領・旗本十倉谷氏知行地。当村は由良川の氾濫による水害をたびたび受け、河跡湖が残されている。
旗本領は明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、山家藩領は同4年山家県を経て、いずれも京都府に所属。何鹿郡役所のもとに、同14年吉美6か村の連合戸長役場を設置。翌15年分離し、一村戸長役場を置く。同22年吉美村の大字となる。
里は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ吉美村、昭和25年からは綾部市の大字。同28年里町となる。
里町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。
《里町の人口・世帯数》 386・172
《主な社寺など》
久田山古墳群
久田山(きゅうたやま)は、今は中丹文化会館や綾部市資料館、天文館パオ↑などがある山というか岡である、急な坂道を登ると上はかなり広く平坦。何か遺跡があるに決まっている、といった見晴らしのよさそうな場所だが、樹木でよくは見えない。ここには弥生末期~古墳初期の土壙墓や方形周溝墓、6世紀頃の住居跡が発見され、円墳・前方後円墳・方墳が100基ほどある。
上の写真の右手奥に
久田山H1号墳
この古墳は、直径約十八米の円形の古墳で、南側に幅約十米、長さ約七米の小さな『造り出し』が附属することから、帆立貝式古墳とも呼ばれるものです。
由良川流域の平野部を見おろす丘陵上に築造されていることから、青野遺跡などに住居を構えていた豪族のお墓と考えられます。この古墳の築造された年代は古墳時代中期、西暦五世紀ごろ(今から一五〇〇年ほどむかし)とされています。久田山にはこのほか六〇基ほどの古墳があり、円墳のほかに方墳、前方後円墳なども見られます。久田山古墳群は綾部市内でい以久田野古墳群に次いで大規模な古墳群で、また最も保存状態の良い古墳群です。
古墳=埋蔵文化財は私たちの祖先の歴史を知る上で失うことのできない貴重なものです。これらの文化財を大切にし、私たちの子孫に伝えていくようにしましょう。綾部市教育委員会
確かに可愛らしい造り出し部も残っている。この古墳は残っているが、これに続くほかのいくつかの物は天文館や施設の建設で消えたようである。
第116回埋蔵文化財セミナー資料『京都の後期古墳「未盗堀の石室の調査-久田山古墳群B支群の調査から」三吉博喜』より↑↓
久田山古墳群は綾部市里町を中心に下八田町から味方町にかけてひろがる古墳群である。群は100基程度の弥生墳墓と古墳とで構成されており、綾部市を代表する古墳群のひとつとして挙げられる。
久田山古墳群の立地する丘陵は「久田山(きゅうたやま)丘陵」と呼ばれる。この丘陵は、由良川と支流の八田川とに挟まれた形で西側に向けて張り出し、丘陵からは由良川筋を極めて良好に見渡すことができる。標高90m程度のなだらかなこの丘陵には小さな谷筋が入り込んでおり、古墳群はそれぞれ尾根筋に制約されながら、小さな支群を形成している。現在ではA支群からK支群までに分けられ、それぞれ築造時期や立地に若干の違いがある。
A支群は、丘陵の北端に位置する。円墳5基から成る支群である。墳丘は一様に高く、横穴式石室墳である可能性が高い。B支群は丘陵の北東部に位置し、30基から成る支群である。今回全域を発掘調査したことにより、木棺直葬墳3基と横穴式石室墳27基、土坑墓1基を確認した。墳丘を残すものの大半が円墳であり、1基だけが造出しをもつ。6世紀に築造され、7世紀半ばころまで利用されていた。C支群は、丘陵の西北端に位置する。11基が登録されているが、明確な墳丘を有する4基はいずれも方墳で、埋葬主体部は直葬系と思われる。D支群は丘陵の南側に位置し、眼下に由良川を望む。円墳・方墳など8基から成り、短い造出しをもつ円墳を含む。E支群は丘陵の南東側に位置し、直葬系の円墳13基から成る。F支群は、丘陵の中央部に位置する。2基の前方後円墳と2基の円墳とからなる。久田山古墳群のなかでも卓越した存在である。G支群は丘陵の東側に位置し、9基の円墳が散在する。H支群は、丘陵の西南側に位置する。10基のうちの8基を昭和53(1978)年と平成4(1992)年とに綾部市教育委員会が発掘調査し、弥生時代後期の墳墓群であることを確認した。I支群は、H支群から北にのびる尾根の先端部に位置し、3基の円墳から成る。J支群はH支群とC支群との間に位置し、2基の円墳から成る。昭和53(1978)年に発掘調査が行われたが、主体部は確認されていない。K支群は丘陵の南西端に位置する。丘陵腹部に円墳1基、頂部に方形墳4基がある。平成14(2002)年に発掘調査を行い、円墳は古墳時代中期末、方形墳は弥生時代末期から古墳時代前期にかけてのものであることが判明した。
概観したとおり、久田山古墳群は弥生時代末期から古墳時代終末期に至る大規模な墓域である。こうした墓域を形成した集落は、由良川の対岸にあたる青野・綾中地域にあったものと考えている。
高倉神社御旅所
桜並木の参道を今は府道が横切って走るが、その少し西側に鎮座。案内板がある。
里宮高倉神社由緒略記
この社は、人皇七十七代後白河天皇の第二皇子高倉の宮以仁王がお祀りしてあります。
治承四年源三位頼政は驕暴を極める平氏追討のため以仁王を奉じて挙兵し治承の乱となりました。宇治の激戦において官軍に利あらす敗戦となり、頼政は平等院において戦死しました。宮は焦眉の危難を避け十二名の武将とともに頼政の所領であった丹波の国吉見郷へ落ち延びて来られました。
時恰も、田植の最中の六月九日、由良川の白瀬を渡り里へ辿り着かれた宮を迎え、里人たちは清水を汲んで来て宮の矢疵を洗い汗をぬぐい介護し奉るとともに、笛、太鼓を打ち鳴らして田楽踊りを踊りおもてなしをしました。宮も大へんおようこびにこなり『イヤソー、イヤソー』と踊りははやし立てられたといいます。
然し、十二士や里人たちの心からなる介護もむなしく矢疵は痛みセ増し、御年三十歳であえなく他界されることになりました。
「あま雲のかかる位山晴れもせず 高嶺あらしに散るぞいなしき」の辞世があります。御遺体は里の宮地lこ懇に葬り、この地に霊廟を建てて祭祀されました。その後、養和元年(一一八一年)九月九日奥ノ谷ノ森、高峯(現在の高倉町)に社を建立してお遷し、高倉天一大明神として奉斎されました。この里宮は宮の御最期の地であり、元宮でもあります。
江戸時代には、山家藩より奉行が立ち祭礼を出仕執行することを慣例として来ました。当日、御神輿は高倉よりこの里宮へ吉美地内の各社がお供して渡御になり、祭礼が行われ、宮前の桜並木の馬場で武者行事“流鏑馬”の神事もあり、また若者が腰太鼓、横笛、編竹の三種を用い『ひやそ』と称する田楽踊りを奉納して来ました。この『ひやそ』は宮の囃言葉『イヤソー』から来ていると言われています。矢疵を洗い、お疲れを癒やしたと伝えられる清水は、社の東北約百五十米の所に今も絶えることなく涌き出しております。
宮が矢疵の腹痛でお悩みのとき「私が天界へ行ったなら、、このような腹痛の苦しみを後世の万民が味わうことのないよう救い守護しょう」と仰せられました。以来御神徳は四方に輝きわたり、はらいたの神様として、また世直しの神、五穀豊饒、安産、万病平癒の神として霊験あらたかなるを伝え、崇敬を集めで来られました。
里宮高倉神社 |
御旅所は元の鎮座地の説にあるように、高倉町の高倉神社の元の鎮座地であろうか、いつごろの遷座なのかは不明。高倉高倉神社から里町高倉神社に神様をお迎えに行き、高倉高倉神社で祭礼を執り行い、それが済めば、また高倉高倉神社から里町高倉神社へお送りする、というのが本当だろう、だから都合二度渡御が行われる、ハズであるが、そのあたりが忘れられたか、一度にしてしまおうと簡略化が進んだためか、神様は社殿の中に常時おられるものと想定するのが普通になったのか、記録に残っているのは一度だけである。どこの神社でもたいていはそうなっていて、オカゲでイミわからん、何のためにわざわざ渡御などするのだろう、という行事になっている。
祭礼はたいへんに賑わうという。
高倉大明神 里村 在中
祭ル神 祭礼
高倉村高倉大明神旅所 堂祭礼馬并ニ平地ニ高倉院御廟ヲ高倉天一大明神ト奉号 小社南向 敷地二間四方 裏ニ敷外今ハ畑ニテ二町半斗 往昔ヨリ除地ノ所 古ヨリ人家一軒 此所ニ女ハ伝エ薙シ 外ヨリ男入替リ 人替リ相続ス 段々貧家又帰ル約束ニテ今少ノ内山家ニ引次助ト云 家筋ハ名高シ 同村ハ右ノ謂ニ御里ト名付玉ヒシ故 後村名ヲ里村ト云
(『丹波志』) |
高倉神社御旅所
祭神 以仁王
由緒 治承四年子五月九日以仁親王同地で薨去し給ふ、依って此の地に葬り去る。里人氏神として崇敬して居る。
是則御霊廟である。
境内 日吉神社
氏子 八十九名 (『吉見村誌』) |
久田山妙見宮
中丹文化会館などの駐車場の奥の方に鎮座。
案内板がある。
身がわり(受・授) 妙見さん
この妙見さんは北向きにて、あらゆる苦しみや悩みごとをや引き受け下さり、そして私達に幸福と健康をお授け頂く守護の神様です。特にがん病に霊験あらたかといわれて居ます。 妙見さん保存会 |
臨済宗妙心寺派阿日山仏南寺
高倉神社御旅所のすぐ北側、高倉神社の神宮寺(宮寺)か、地理的位置はそうした感じである。何か密接な関係にあるのではなかろうか。虚空蔵が祀られているとか阿日山といった山号などについて何も過去の記録はない。
案内板がある。
仏南寺
臨済宗妙心寺派で阿日山仏南寺という。寺伝によれば往時真言宗に属し七堂伽藍の浄刹であったが、室町末期に荒廃し、万治年間に再興され、後に火災に遭い、元禄年間に再築されたという。
六国史の『三代実録』の貞観五年(八六三年)六月三日の条に『以丹波国何鹿郡仏南寺為真言院即付国司検校』と国によって真言院とされ、国司の監督をうけた官寺と記されていて、丹波丹後では特色ある古寺である。
市指定文化財 虚空蔵菩薩像は貞観の様式を示す一〇世紀ごろの作、大日如来坐像は金剛界大日の智挙印を結び平安末期の作、ともに草創の由緒を推察されるすぐれた仏像である。… |
仏南寺
吉見村字里にあり、阿日山と号す。臨済宗にして、有名なる古刹なり。古く三代実録貞観五年之の条に見ゆ。徳川時代谷氏は二十三間に八間半を以て屋敷地と定めたり。本寺所蔵大日如来及虚空菩薩二体の仏像は国宝に指定されんとし、大正十四年中に再度新聞紙に掲載されたり。 (『何鹿郡誌』) |
阿日山 仏南寺
臨済宗妙心寺派に属し、大字里小字向屋敷に在って古は真言宗にて七堂伽藍の勝地であったが一時頽廃し、その後万治元年宗讃禅師が臨済宗として堂宇を建立した。後又火災に罹り元禄八年再建されたものである。現在当寺に安置されている大日如来及び虚室蔵菩薩の仏像二體は作者年代共に不詳ではあるが精緻巧妙の逸品で、当寺全盛時代の遺物として国宝に指定されんとして居り地方唯一の巨刹であったことを証明するに足るものである。
阿日山 仏南寺
臨済宗妙心寺派に属し里向屋敷に在る。古は真言宗派に属し七堂伽藍の勝地であったが一時頽廃に帰し、その後萬治元年宗讃禅師臨済宗となし堂字を建立した。後又火災に罹り元禄八年再建した。現今堂宇に安置してある大日如来(三尺七寸余)の木彫及び虚空蔵菩薩(五尺五寸五分)の仏像二體は胡粉剥落し地肌荒れ作者も亦不明ではあるが精緻巧妙を極め、蓮弁相客衣紋等から平安朝少くとも藤原時代を下らないもので、何れも真言宗派全盛時代の遺物たるを偲ぶに足るべく、三代実録にもある如く清和天皇の御宇貞観五年六月三日の條に「以丹波国何鹿の郡仏南寺為眞言院印付国司検校」とある處から見るも、当寺は地方随一の巨刹であったことが窺はれる。 (『吉見村誌』) |
仏南寺
三代実録(858~887)貞観五年(863)6月3日の条に
以二丹波国何鹿部仏南寺一 為二真言院一 即付二国司検校一
里町仏南寺は国によって、真言院とされ、国司の監督をうけるようになった。宮寺として、財政的援助を受けるかわりに、護国法会等を行う義病があった。
虚空蔵菩薩像一等身大、貞観時代の様式を持ち、10世紀ごろの作。
大日如来坐像一等身大、平安後明の作、
昔日、七堂伽藍、地方屈指の巨刹なりしも、足利末期頽廃し、万治元年間、(1658~1660)宗讃禅師が臨済宗として堂宇を建設した。当時谷氏が23間に8間を以て屋敷地とした。降って元禄の初め火災にて焼失。1695年再建さる。
(『吉見村誌その二』) |
仏南寺
『三代実録』貞観五年(八六三)六月三日の条に、
以二丹波国何鹿郡仏南寺一 為二真言院一 即付二国司検校一
とあり、里町の仏南寺は国によって真言院とされ、国司の監督をうけるようになった。こうした宮寺は財政的な援助を受けるかわりに、護国法会などを行うことが義務づけられたものである。このように地方寺院が宮寺とされるのはまれなことである。
いま仏南寺には、貞観時代の様式をもち、一○世紀ごろの作といわれる木造の虚空蔵菩薩立像と、平安後期の作といわれる木造の大日如来坐像が安置されている。この仏南寺と綾中廃寺とはどういう関係にあったのか、いまのところ何ら証すべき資料はないが、いずれも何鹿郡に唯一の大寺として同じ系譜にあったものではなかろうか。
七~九世紀に寺院が造立されるためには、かならず大檀那がなければならない。綾中廃寺の造立者については、郡司クラスの豪族が考えられるが、人名については全く手がかりはない。平安時代の初期に豪族らしい人名が出てくるのは、後に記す刑部首夏継と弟宮子、および秦貞雄である。刑部首夏継は従七位下の官位をもらっており、天田郡大領の丹波直広麻呂の官位が従六位下であるから、それと比して夏継は何鹿郡大領もしくは少領の郡司であったのではなかろうか。また秦貞雄は山城に本拠をもつ秦氏の一族と思われ、そうなれば大きな経済力をもち仏教信仰もあつかったはずだから、造寺の檀那であったかもしれない。この刑部氏か秦氏が仏南寺の大檀那であったことが考えられる。
日本の古代文化のほとんどが仏教にかかわる文化であるように、古い郷土の文化も仏教文化が中心である。そうして造寺造仏など文化的な営みのにない手は、在地で経済力のある豪族であり、郡司や荘官などの人たちであった。農民たちは、そうした文化的な営みを支える基盤にはなったけれども、その信仰や文化の恵みにあずかることなく、原始時代から育ててきた民間習俗や信仰をもちつづけて、貧しい生活をしていたものと思われる。
何鹿郡における仏教文化の源流は、綾中廃寺(別項参照)にみられるように、白鳳奈良時代、すなわち西歴七○○年ころにさかのぼることができる。また君尾山光明寺の開創が七世紀とする寺伝も、これを傍証するものといえよう。
古代の寺院とそこにまつられる仏像について、文化財の立場から述べてみよう。
仏南寺 里町
平安時代のはじめ、貞観五年(八三六)に仏南寺が真言院となったことは前に述べた。官撰の史書に地方寺院の名が出てくることは珍しく、それだけに仏南寺の重要性がしめされている。仏南寺には次の仏像がまつられている。
市指定文化財
平安時代
虚空蔵菩薩立像 一躯 木造(一木造)像高一六六センチメートル
この像は貞観彫刻といわれる。平安初期の特徴が、広い顔やいかり肩、下半身の重々しい表現などにあらわれているが、貞観盛期の仏像にくらべると、表現がおだやかになっており、一○世紀の作と考えられている。
市指定文化財
平安時代
大日如来坐像 一躯 木造(寄木造)像高一一七センチメートル
金剛界大日で智挙印を結んでいる。彫法は平安時代の優雅な手法によっているが、やや豊満な感じがとぽしく、平安末期の作と考えられている。
これら文書や仏像からして、九世紀には、壮厳なよそおいをもった大きな伽藍の仏南寺が建っていたことが想像される。
(『綾部市史』) |
日蓮宗清水山妙泉寺
案内板がある。
清水山 妙泉寺
所在地 綾部市里町清水四
山 号 清水山
宗 派 日蓮宗
宗 祖 高祖日蓮大聖人
創建年 一四六四年(寛正五年)三月
開 基 泉住院日雲上人
(日蓮聖人の孫弟子九老僧日範上人の直弟子)
寺 宝 大涅槃像掛軸 一七〇五年(宝永二年)筆
経机 一七〇三年(元禄一六年)彫刻入り造作
沿 革 一四六四年(寛正五年)三月、泉住院日雲上人によって法華経弘通の根本道場として創建されたのが当寺のはじまりてある。
一八二年(文化八年)日感上人の代に火災に遭い、すべてを消失した。河川の氾濫によって水害を被りやすい地域であったので、境内の裏山を造成し、そこを新たな境内地として現在の堂宇を建立した。
当地では、日蓮宗寺院として最古の歴史を持つ由緒ある寺院である・宗祖七〇〇遠忌を記念して、御宝前を荘厳にし、境内地を整備して寺観を一新した。
二〇一〇年(平成二二年)八月永代供養塔建立
(宗旨宗派にとらわれず、当寺が各家施主様に代わって半永久的に故人様の納骨・ご供養と護持管理を執り行う永代供養墓)
年中行事 一月 年頭会
二月 涅槃会
三月 春彼岸会
六月 合同法事
七月 ほうろく祈祷
八月 盂蘭盆施餓鬼会
九月 秋彼岸会・お会式
十一月星祭り
人間本来無一文
ほどほどの欲が落着きどころかな 合掌
… |
清水山 妙泉寺
日蓮宗木圀寺末に属し、大字里小字清水に在って寛永八年僧日雲が創建する。その後堂字は破損し一時頽廃していたが文化七年再建されたもので、釈迦牟尼仏多宝如来を本尊として安置す。
(『吉見村誌』) |
妙泉寺
九老僧大善阿闍梨日範上人の直弟子、泉往院日雲上人が、寛政5年3月(1464年)特に禅宗の盛んな当地何鹿郡に、始めて法華弘道の根本道場として建立した。爾来約520年、その間、文化7年(廿一世泰応院日感上人代)火災により全く灰燼となる。更に、度重なる、八田川等の氾濫により水害を被る地形故、後禍を慮い、文化8年6月、境内の裏山を造成して、現今の当寺を建立した。現綾部市では、法華経弘通の道場として最古の歴史を持つ寺である。
寺宝 大涅槃像の密画 宝永乙酉5月吉祥造之
経机 元禄16の作
(『吉見村誌その2』) |
当寺では星祭というのがあるよう、これは七夕祭とは別のもの。
北斗法、北斗供とも呼ばれるそうだから、それらの星を祀るもののよう。
天文館パオには95センチ反射望遠鏡がある。
昼間でも星は見えますよ、ドームを開いて、昼間でも明るい星なら見えるんです、どの星がよいかな。
と、見せてもらえる。
望遠鏡の下にある筒から覗けば見える。
キミは遠い過去から星の町のようである。
ユメがあっていい。ボロクソに負けた海軍の遺物に税金たれながすアホな町よりは、ずっとまし。
《交通》
《産業》
《姓氏》
里の主な歴史記録
伝説
里の小字一覧
里町
敷田 小南 築宮 久田 北ノ田 野 若宮 石川 原 川原 西ノ糸 東浦 車田 慈水 北ノ畷 鹿ノ子 仲溝 町田 川原田 馬草 山田 向屋敷 清水 大坂 向田 小南 築宮 久田 岼 潜リ
関連情報
|
資料編のトップへ
丹後の地名へ
資料編の索引
|