丹後の地名プラス

丹波の


志賀郷(しがさと)
京都府綾部市志賀郷町



左のグランド↑は志賀小学校。その右側(南)に続く家並みが志賀郷の中心地。
普通の農家ではなく、マチのように見える。
写真の右手山並に城があり城下町か、街道筋に宿場や市場があったマチか。


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京都府綾部市志賀郷町

京都府何鹿郡志賀郷村志賀郷



志賀郷の概要




《志賀郷の概要》

犀川の最上流の一帯で、今はシガサトと呼んでいる、古くは単にシガ(志賀)であった。その名を残す志賀小学校↓がある。校門が少し開かれているのが綾部市の地域教育の伝統による特徴か。

アホのマチの人なら「閉め忘れてからに」と見るかも知れないが、これはワザと開いていて、地域社会のための教育という基本姿勢に関わる所であろう。口先だけでなく、実際に貫くのはエライと思う。母体の地域社会を意識に置いている教育精神の現れのようである。小学校を見れば、その地のだいたいはわかる、地域の顔であり象徴である、未来もだいたいは予知できる、校門を閉じて立派な教育をしています、などはウワゴトである、誰のための教育をしているつもりか、そんな怪文書はありませんの、イカレ権力のための教育の超イカレぶりを発揮した文部省(今回に限っては少しクソ権力よりはマシだったか)のためのヤシのイカレ教育であって、チョット都合が悪くなれば知らん知らんの連発で逃げるまわるだけ、アンナクソどもが人の教育に口を出しているなどは思い上がりの極地で、決して許されるものではないし、求められる明日の地域を担う次世代のための教育などができるわけもあるまい。


筑前の志賀海神社のシカなら、安曇系海人の地だろうが、それにしては古代吾雀郷、中世吾雀荘とする歴史など当地全体と何か合わない。当地は本来は丹後系とみるが、後にあるいは滋賀県のシガと何か関係ができたのかもなどと考えていたのだが、どうもそうしたことのようである。アササキとかアススキとか呼ばれた地であったが、どうしてそれがシガとなったのかは、『京都府の地名』(平凡社)に、
園部藩記録(「何鹿郡町村誌」所引)は、
近江国志賀郡の人何某なる者来つて吾雀を襲ひ、宅を岡田の中にいとなみ田中石見守といふ。地名も改めて志賀といふ。今此の岳に天王の祠ありて天王山といふ。
と記し、地名変化の来由を伝える。

とある。天王山は諏訪神社のある山(諏訪山・北野山)で志賀小学校より少し北にある山ではなかろうか、その西側麓の地名は「天王」である。(天王山は興隆寺の裏山ともする天王山城」)北野(志賀)城」
どうも関ヶ原前後のことのようで、向田というのも彼らの故郷の村名らしい。
滋賀県大津市に滋賀里という所がある、際川が流れ、唐崎がある。志賀の漢人の拠点地でもある。近江神宮があり、天智の大津京の跡という、志賀氏はこのあたりからやってきたのかも知れない。

現在の志賀郷町は旧志賀郷村の中心地で、志賀小学校・志賀郵便局・農協志賀郷支所(以前の名)などがある。
旧・志賀郷村は、明治9年~22年の村で、志賀町・志賀村・中村・池村が合併して成立した。同22年市町村制により成立した志賀郷村の大字となる。
志賀郷村は、明治22年~昭和30年の自治体で、志賀郷・向田・遅岫(おそのくき)・別所・西方・内久井・金河内の7か村が合併して成立し、旧村名を継承した7大字を編成した。村役場・小学校・郵便局は志賀郷に設置した。昭和30年綾部市の一部となる。村制時の7大字は綾部市の大字に継承された。
志賀郷は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ志賀郷村、昭和30年からは綾部市の大字。同年志賀郷町・仁和町となる。
志賀郷町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。
旧の志賀町は、江戸期~明治9年の町名で、はじめ志賀村のうち、のち分離独立。山家藩領。明治4年山家県を経て京都府に所属。同9年志賀郷村の一部となった。

志賀村は、江戸期~明治9年の村。はじめ山家藩領と柏原藩領の相給、幕末には柏原藩領のみ、「何鹿郡天田郡元禄高付帳」によれば、志賀ノ内として中・遅岫・奥山・別所・長尾・井岡・岡・屋河内・味噌尾・奥宮・奥の計11の枝村が見え、長尾村以下7か村を総称して西方村ともいう。明治4年柏原県を経て京都府に所属。同9年志賀郷村の一部となった。「丹波負笈録」は「志賀村、今は志賀町・中村・志賀村・西方村・別所村・遅岫村・向日村七ケ村元ハ一村の所、志賀村と云の外ハ志賀何村と云」と述べる。

同じ「志賀郷」と言っても、新旧いろいろな範囲で使われていて、ややこしい限りだが、このページは主に現在の志賀郷町の範囲をとり上げる。
村の中心は上の航空写真の志賀町で、上町(かんまち)・下町(しもまち)とよぶ七〇軒の町並があった。また7月8日、極月23日の両度市が立ったという。


《志賀郷の人口・世帯数》 367・179


《主な社寺など》

諏訪神社

志賀小学校の先、490号(物部西舞鶴)線が犀川を越す橋のたもとから参道がある。
石柱に囲まれた木がその柿の木のよう。案内板がある。

志賀の七不思議と「御用柿」伝説
その縁起
今からおよそ一四〇〇年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は、国の中心勢力をかためるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐することになりました。
すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親王は、おおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによもものと、丹波の国々に七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。また、志賀の里の〝藤浪〝〝金宮″〝若宮〝〝諏訪″〝白田(後の篠田の五つの社を厚く信仰されたということです。
親王の子孫金里宰相は、この五社の大明神に千日参りをされ、これを記念して、藤波大明神には「藤」、金宮大明神には「茗荷」、若宮大明神には「萩」、諏訪大明神には「柿」、白田大明神には「竹」をお手植えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告されました。この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわれるようになったということです。なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ「志賀の七不思議」として、今に語りつがれています。
その奇瑞 諏訪神社=諏訪大明神の「御用柿」伝説
毎年、旧暦の正月六日午前十時になると、不思議にもお手植えの柿の木に、柿の実が三つなり、日中になると色艶がよくなるというのです。それで御用柿とも、五色の柿、御所柿ともいわれ、毎年、宮廷に献上する習わしになっていました。ところが、鎌倉時代、白藤事件より十三年後の花園天皇の正和元年(一三一二年)に、飛脚がこの柿を持って京都ヘ上る途中、喉が渇いたので、和知の民家に入りお茶を飲んだところにわかに腹痛がおこり、それと一緒柿の箱は北の空へ飛び立ってしまいました。それ以来、この奇瑞は絶えてしまったということです。これまで、精進潔斎して身と心を清めてきたのに、火を通したお茶を飲み「火のくい合わせ」の掟をやぶったのがいけなかったのです。
現在、境内に柿の木が残っていて、秋になると、たまに渋柿がなります。また、毎年、七月二十三日の『諏訪祭』には、こども相撲が奉納されます。        志賀郷公民館

諏訪大明神       志賀町 惣杜
祭ル神      祭礼 正月二日
白萩ノ古跡今白萩モ有 七不思議ノ内名所ノ部ニ委出ス 此所ノ神ノ名有テ神社無之所ハ都合七ヶ所 其不思議今有無トモ名所ノ部ニ出 右志賀六ケ惣社 鳥居有 境内凡三町四方 氏子六ケ村 宮村町中村ハ七月廿三日角カアリ 古ハ六ケ立合御輿祭ル 境内休所塚五ツ有リ 堂山ヲ惣山ト云 惣座ノ角力ト云ナラハスト云
(『丹波志』)

諏訪神社
志賀町の西北に位し古来武の神と言い伝えられ柿の不思議で名高かったが今では絶えている。祭神は「建御名方刀美神」が祀られ明治六年に村社となる。毎年七月廿三日例祭が行われ古来より奉納相撲(天正年間志賀の畸人夜嵐の始める所と言伝う)が催され近郷の若者が集って賑やかであったが、時代の推移上近年は唯祭礼としての小供相撲が行われる位である。境地七百参拾五坪。
早春における椎樫の若芽の萌え出るさまは此宮ならでは見ることのできぬ壮快さであるが、近年椎樫が次第に老衰するので惜しいことである。  (『志賀郷村誌』)

諏訪神社の由緒来歴が不明。当地の志賀氏は諏訪の出身で故郷の諏訪大社を勧請したともいう、しかし志賀氏は近江志賀郡の人ともいうし、金丸親王が植えたという伝説には言うまでもなく合わない。
また南の物部にある諏訪神社は上原氏の勧請という。別に志賀氏や上原氏と何の関係のない所、丹後の三重神社や成願寺にもある、星野周防という人がいたという、そのほか舞鶴市などでも祀られていて、まずどの社も由緒不明である。鉱山冶金鍜冶の地と思われる所に見られ志賀氏上原氏勧請説はアヤシイ。(この近くにあった諏訪神社を彼らの居城近くに勧請したとの意味なら納得)
諏訪大社ならフツーには建御名方命と八坂刀売命だが、当社も金丸親王が篤く信仰されたというだけあって、本当の祭神は鍜冶神(金山彦+金山媛。≒天目一箇神)とも見られている。建御名方命というのは、威力ある南方の神ということのようで、諏訪大社は南宮社とも呼ばれる北向きの神であり、出雲の神でもあり権力側からは抵抗神叛逆神であり、そうしたことでなかなか正体は明確にならないことになっているのかも。。。
柿というのも何か金属と関係があるかも。柿本人麻呂を思い起こすが、この人が祀られている所は金属のカホリすることがある。
柿本人麻呂


若宮神社


志賀の七不思議と「白萩」の縁起
その縁起
今からおよそ一四〇〇年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は、国の中心勢力をかためるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐することになりました。
すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親王は、おおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによもものと、丹波の国々に七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。また、志賀の里の〝藤浪〝〝金宮″〝若宮〝〝諏訪″〝白田(後の篠田の五つの社を厚く信仰されたということです。
親王の子孫金里宰相は、この五社の大明神に千日参りをされ、これを記念して、藤波大明神には「藤」、金宮大明神には「茗荷」、若宮大明神には「萩」、諏訪大明神には「柿」、白田大明神には「竹」をお手植えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告されました。この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわれるようになったということです。なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ「志賀の七不思議」として、今に語りつがれています。
 その奇瑞 若宮神社=若宮大明神の「白萩」
毎年、旧暦の正月五日になると、日中、お手植えの白萩が咲き競います。おびただしく咲いた年は吉、少ない年は凶というようにして、その年の作物の吉凶を占い、この花を内神にお供えします。この神事は、いつしか廃れてなくなりましたが、今は替わりの萩の花が植えられています。       志賀郷公民館




若宮神社白萩の由来
崇峻天皇のおん時に用明天皇の皇子麻呂子親王が、勍によってまつろわぬ者共をお討ちになられ、この志貿の里をお拓きになった。親王は第一に五社を興し崇敬遊ばされた。
その後親王のご子孫にあたる金里宰相が志賀の里の領主となられ、祖先の遺風をふまれて五社に千日祈願をなされ、その祈願のお印に、それぞれお手植えされたと伝えられている。
若宮神社には一株の白萩が植えられていて毎年正月二日にしろい花が咲き不思議がられていたが、藤波神社の藤の花が絶えて間もなく萩の花。も咲かなくなった。


若宮権現     中村
祭ル神       祭礼 八月廿四日
鳥居有 境内凡二町四方 中村町ニケノ産神御輿祭 棟札ニシブマスケシケ源氏武運長久ノ為百姓竹中氏トアリ 竹中ノ臣ヲ祭ル神ト云 往古ハ志賀七不思議ノ萩アリト云
(『丹波志』)

若宮神社
志賀町(戦国末に一の城下町として発達)の東方に鎮座され、祭神は「伊邪那伎神」がまつられている。明治六年村社に列し毎年十月十七日の祭礼には志賀町の公会堂に供揃いをなし笛や太鼓の音に送られて御輿のお旅が行われる。古は萩の花の不思議が顕われたが中古その跡を絶ち今は社前に古い荻の株が残るばかりで、境内は四百五拾坪の面積あり老杉古松が生い茂っている。
(『志賀郷村誌』)

この社もわからない。阿須須伎神社の若宮なのだろうか、月遅れであろう、天目一箇神の祭日のようである、竹中ノ臣の竹、「竹の子さん」の竹はササで、阿須須伎のススで鍜冶関係の暗示かも知れない。
萩は「吐き」で溶鉱炉かも知れない。コジツケみたいなハナシばかりだが、そんなことしかわからない。付け加えれば、松というのも、マツはタイマツのマツで本来は火のことで、製鉄鍜冶と関係ないわけではない。あとはミョウガ、わからない。


高野山真言宗尾田山興隆寺

尾田山延寿院興隆寺
薬師堂四間ニ五間 本尊座仏五尺斗 恵心ノ作 鎮守 午頭天王 鳥居 舞堂 庚申堂 二王門 鐘釣并同村祭礼旅所堂アリ 当寺古エハフカウ寺谷ニ有リ  (『丹波志』)

興隆寺 志賀郷村字志賀郷にあり、尾日山円寿院と号す。真言宗にして薬師如来を本尊とす。徳川時代三十四間に十六間の敷地を除地として免租したり。此の付近に長さ三十六間、幅二間の馬場及び、参間に三間の地蔵屋敷、四間に参間半の阿弥陀堂敷あり。共に除地たり。  (『何鹿郡誌』)

興隆寺
本尊薬師如来、天徳年間僧光勝普光寺谷に開創、慶長元和の頃豪族田中岩見守が僧秀快を助けて普光寺より現地に移転再興、その後一起一伏、若宮、諏訪、金宮の別当勤仕、天明の飢饉に薬師堂を再建し毎年七月十二日の薬師祭は近在賽客で賑ったが、明治以後次第に衰微の一途を辿っておることは時運止むを得ぬことである。  (『志賀郷村誌』)

志賀郷町興隆寺の大般若経は大部分が紙本墨書の写経で、平安末期のものが多く、鎌倉・室町時代の写経も混入しており、永徳年間(一三八一ごろ)の木版経も入っている。江戸時代の享保十九年に、種々の経巻を購入して六〇〇巻にそろえたものと思われる。  (『綾部市史』)


曹洞宗霊徳山龍昌寺


霊徳山竜昌寺 禅宗福知山久昌寺末 志賀町
本尊 観音 往古ハ北ニ当テ良源寺ト云所ニ在
(『丹波志』)

龍昌寺
本尊観世音菩薩、元和六年一六二〇年宗休和尚開創するも貞享三年に焼失し元禄二年一六八九年瑞玄和尚再建して現代になっている。その鐘楼に釣られた大鐘は大東亜戦に応召し久しく鐘声を絶っていたが、最近新装再製されて再び和やかな鐘の声が響き渡っておる。  (『志賀郷村誌』)


浄土真宗本願寺派超倫山称讃寺


称讃寺
本尊阿弥陀如来、真宗本願寺派本照寺末、元禄元年一六八八年僧道意によりて開創し現代に及ぶ。
(『志賀郷村誌』)


《交通》


《産業》


《姓氏》
志賀氏
志賀氏 志賀氏は清和源氏頼政の流れと、武内宿弥の流れの二つの系図を伝えており、ともにこの地に来て志賀城主となり、志賀姓を称えたとしている。この系図は江戸時代中ごろに作ったものらしく、作為したところがあると思われるが、戦国末期のころ、四流に分かれて活動している資料が残されているから、おそらく室町初期に吾雀庄に入ってきた一族であろう。吾雀庄に入ってから、北野城(志賀城)あるいは天王山城の城主となったもの、丹後国田辺郷の代官職になったもの、また吾雀庄山尾の名主になったものなどあり、戦国の地方豪族としてこの地方に威を張ったのである。
「北野城主家」は応永年間(1349-1427)頼宗がはじめて何鹿郡志賀主となり、鎮守として諏訪神社を勧請するとともに、城山の台地に菩提寺の北野山養源寺を創建したという。頼家より志賀家は土地に定着して土豪的な領主になり、民政にも力を注いだ。城の北東の谷に築造した大規模な北野池は、貴重な水源としていまも利用されている。頼宗九代の孫政綱のとき、明智光秀の丹波攻略の際降伏してその配下となったものとみえ、天正十年、山崎の合戦に光秀に従って出陣し、敗戦により討ち死している。政綱の子頼久は三歳の幼児であったが、乳母の里加佐郡桑飼村にのがれ、ここにかくれ住んだ。
「山尾領主家」は永正九年(一五一二)から志賀八良右衛門尉が山尾村を一円支配し、小領主となったものと思われ、「志賀家文書」に、永正九年に近江守行秀より志賀八良右衛門尉に吾雀庄之内山尾村「田畠山林并下人等事一円」を永代譲り渡した書状が残っている。近江守行秀はどのような人物かわからない。また左の書状も残されている。
  就料所丹後国田辺御代官職之働 志賀次良右衛門尉申付 子細在之上者 任彼申旨致其働者可為神妙候也 謹言
    九月二日    高田(花押)
       志賀一族中
右の次良右衛門尉は、「志賀家系図」によると大永二年(一五二二)丹波国守護細川高国に仕え、享禄二年(一五二九)九月二日、丹後国田辺郷の代官職に任じられ、一族郎党を引きつれて田辺へ赴いたようである。享禄四年、高国は尼ヶ崎の戦いに敗れ自殺したが、この戦いにも次良右衛門尉の長子四郎兵衛尉が高国に従って戦い、討ち死している。次良右衛門尉は次子五良左衛門尉とともに田辺を守っていたようであるが、高国滅亡の後、細川晴元が管領となったのでその配下となり、各地に転戦したとみえて、
  去十六日高野孫三郎 要害責落時粉骨由 芦田越前守
  注進到来 尤以神妙候也 謹言
    七月廿一日  晴元(花押)
   志賀五良左衛門尉殿
という感状が残されている。天文年間のことと思われる。志賀家系図によると、次良右衛門尉は天文二十二年、何の戦いかわからないが田辺で討ち死したとあり、子の五良左衛門尉は同年家来六人をつれて山尾へ帰り、農業を営んだとしている。
室町初期に吾雀庄へ入ってきた志賀氏は、戦国時代に地方豪族としてたびたびの戦に参加していたがのちに帰農し、近世に入ってからは庄屋として農村の中で重きをなしたものである。
(『綾部市史』)


志賀郷の主な歴史記録


◇北野城
諏訪山の(実は北野山という)頂にある城址で古文書には「志賀北野山の本城」とある。此に本城という以上支城がある筈で地形上から志賀町の上に存在した天王山城であると想定する。園部川勝記に「何鹿十二城」のうちに「志賀郷天王山頂上方十間許りの吾雀入道居り近方三千五百石を領有」とあるのは昔興隆寺の上に城があつたと言伝うるものゝ記録であって、一説に「戦国時代迄吾雀荘という吾雀明神あり何時頃志賀となりしか……天王山城は志賀町にあり……中略…近江国志賀郡の人来て吾雀を襲奪し尾田のうちに居を構え田中岩見守という地名も志賀と改め今この丘に天王祠あり」と記すものと一つであるが、大永年間一五二一年、一五二七年に何鹿の陣営を探った川勝氏の間者も本村の城砦を支城を見て本城たる北野城の記をのこしていないのは、その築城防衛の幽邃であったことが考えられるのである。
昔丸山の山上に台あり伝説によると敵襲に狼烟をあげた所である。思うに北野城、天王山城、丸山台の三点を結ぶと一の三角帯を形成し何れも潜水艦の潜望鏡の役をしていることが分る。之は本村の地理的環境が齎す築城形式で近代戦法の本隊前衛小哨の関係に擬して考えるととが出来るから、北野城が本城であり天王山域は支域であり本村一帯の攻守防衛に最格好の築城というべきである。
北野城等の城砦が滅亡したのは伝説によると安土桃山時代と想う。今城趾を探査するに石塊が存衣する計りで、特に巨石は捲り取ってあり建築物のあった地趾をのこす計りであるが、小規模ながら要害の備えをもった城であったと察せられる。
丹後加佐郡岡田上村字原の旧家志賀利兵衛(現在舞鶴市に在住生花及茶道の宗匠)氏所蔵の古文書によると、
  「清和源氏の裔信洲諏訪城主諏訪因幡守源政額の次男左衛門尉光政その子頼宗の父子は応永廿五年(一四一八)丹波何鹿郡に入て志賀城主となるや紋を梶葉に改め志賀を称す。それより政勝、直政、頼平等を経て九代志賀因幡守政綱(願成寺文書は志賀因幡守政綱入道山城守安盛の子としるす)に至り天正十年一五八二年明智光秀に従って山崎合戦に一族滅亡九代百六十五年也 其間城の東南に養源寺(寺趾は梅垣孝太郎氏の所有原野)を建立し又北野池(養源寺池と云)を掘り水利を計る云云」
 とある。之によると北野城は諏訪源氏が住んでいたことが分る。彼の川勝記に吾雀入道というのは志賀因幡守の父の入道即ち願成寺文書の山城守安盛であろう。

◇山形工場の疎開
昭和十九年秋の末一台のバスが角屋の前に停車した。下車する人々は手に手に鍬・スコ・ハンマー・世帯道具を持つた男女の一隊、中年の婦人が指揮していた。後日この婦人は山形氏の主婦と知れた-之が役場裏の旧小組に昭和廿九年の春迄十ヶ年の歳月に亘り、旋盤の響を止めなかった山形工場の疎開であった。仝年八月古巣の大阪に引揚げた。

◇学童の集団疎開
蘇峰翁は「天王山はレイテだ沖縄だ」と叫ぶ。どことなく日本危うしと喚めく頃、空は宛ら群雀の飛ぶがように数千の敵機が分散して北に南に東に西と駈けまわり、B29が轟々と青空を走って白い煙幕を流してゆく。遙に下の方を日本機が鵲に追はるる島のように飛びまわる。地上には掃除箒やバケツをもって防空帽の女子や老人がわめき回っていた。
其中に春は三月彼岸の頃学童疎開が始まつた。
本村えの割当は京都市朱雀第七校で生徒二六三人が森田主席外十九人の先生と共に疎開し、向田真福寺、別所公会堂、志賀郷龍昌寺と輿降寺、西方公会堂と宝満寺の都合六ケ所に分宿、本部を真福寺に置いて四月の新学期から本村小学校において授業を開始した。そして秋祭りを最後に一同無事に帰洛した。疎開児童の中には親兄弟と水盃を交して有事の覚悟を固めて来ていた健気な者も多数いた。当時の状況をおもい起すと全く涙の種。それにしても元気で帰洛した時の欣びはとても文筆では現はせなかっただろう。旅をして同じ舟に見ず知らずのものが乗り合すさえ袖振り合すも他生の縁、疎開の二百日を仝じ机に学びの業を共にした子供たちはつきせぬ一生の物語りであろう。
(『志賀郷村誌』)


伝説



志賀の七不思議


吾雀郷  七不思議          志賀村
 正月元日西方村藤波大明神ニ白藤 今ハ古跡ニテ藤花有トモ古ノツリハ絶タリ 水戸ノ峠東麓木崎村谷田ノ中ニ鷺ノ森ト云名所是ナリ
志賀郷ノ惣社諏訪大明神ニ正月二日白萩ノ古跡 今替リノ花有
金河内村金宮大明神ニ正月三日茗荷 朝ノ六ツヨリ五ツ時迄ニ生エ上リ神前ニ上ル 今ニ伝フ 参詣多シ 此井垣ノ中ニ田ノ町数早稲中稲晩稲分ケ 砂ノ川原ニ水流込所ニミヤウガ出 此田ノ町三ツニ分テ水ノカヽリ高下其年ノ早中晩稲吉凶ヲ知ト云
遅岫村篠田大明神今ニ正月四日朝六ツヨリ五ツ時迄ニ竹ノ子生ス 社ノ裏井垣ノ中篠薮 竹ノ子ハ真竹也 則取テ神前ニ上ル 当日ノ祭ナリ御シノベト云
別所村口ニ禁裏エ上ル柿古跡 今字ニ御用柿ト云 御用有ハ生ルト云 旅人ノ喰ヨリ不生ト云
向田村今字ニ松ケ下ト云所 古ユルキ松 上ニ禍アレバ上枝 下ニ禍アレハ下枝ユルキ 名木ト云
同シツクノ松有リ 旱魃ニテモ松葉シツク多シ 其下田地用水ニ成ト云 天正ノ頃福智山城普請明智日向守伐取用ト云 都合七ツノ不思議志賀ノ名所ナリト云 金丸親王ノ御子金里親王植賜フト云伝フ
(『丹波志』)

七不思議は志賀の里に古来より伝はれる有名なる伝説なり。其説区々にして何れが重きか知り難けれど、比較的古き記録と思わるる寛保元年(従五位下九鬼大隅守隆寛の仕官学医)の記録によりて、其の大要を述べん。
金丸親王の末孫金里宰相の志賀の里を領治せし時五社を祈りて、御神前に千日参詣あり、然る後、左の植物の御手植えあり。
藤波大明神に藤  金宮大明神に茗荷  若宮大明神に萩
白田大明神に竹  諏訪大明神に柿
之れより五社の神、異験を現ししかば、向田の里の「ゆるき松」及「しづく松」と合せて世人七不思議といふに至れり。
藤は毎年陰暦正月朔日五ツ半時頃までに花咲き乱れしを、帝王に奉る風習なりしが、九十二代後伏見院の正安元年正月朔日、この藤の花を奉る時、船井郡水戸峠にて飛脚自在に蓋を開きしに、忽ち一羽の白鷺飛去りたり。これよりこの奇跡なきに至れり。峠の麓の田の中に鷺の宮と崇め奉る宮あり。
茗荷は毎年陰暦正月三日御神前の手洗川に生じ、日の出より五つ時迄に出づ。之によりて其の年の早稲、中稲、晩稲及田畑一切の状況並びに風雨、旱損、水難を卜す。現に存して此の日参拝する者多し。
竹は毎年陰暦正月四日境内の瑞垣の中に筍を生じ、旭より五つ時迄に出づ。卜定の状茗荷に同じ、この神事今に存す。
萩は陰暦正月二日の午の刻に花咲くこと夥しかりしかど、今此の神事なし。
柿は旧暦正月六日三個づつ朝五時に生じ、日中に色よく熟したるを、帝王に奉りしといふ。世人之を御用柿と呼ぶ。
人皇九十四代正和元年花園院にこの柿を奉る時、飛脚船井郡須知の里にて、渇のため民家に立寄り、茶を乞ふ。俄に腹痛起り、柿の入りたる箱は北の方へ飛帰りしと、之より異験なくなれりといふ。
雫松は向田の南方にありて、四つ時に雫の落つること雨の如し。これによりて旱損水害を卜定せりといへる。今其の跡に一基の碑を存す。
ゆるぎ松は雫松に近く、向田の南方にあり。都に凶事あらばその葉深く、其の他の状況は雫松に似たり。今其の跡に碑を存す。
(『何鹿郡誌』)

◇志賀の里七不思議のあらまし
古し崇峻天皇の御時に、用明天皇の御子麿子親王が勅によってまつろわぬ者共をお討ちになられ、此の志賀の里をお
拓きになった。親王は第一に五社を興して崇敬あそばされ、又丹波の国に七仏薬師如来を祭られたが金河内相の薬師如来は其の一つだと言いつたえている。その後久しうして親王の御子孫にあたる金里宰相が志賀の里の領主となられて、
祖先の遺蹤をふまれて五杜に千日祈願をなされ其の満願のお印しにお手植のことがあつたと伝えられている。すなはち
  藤波大明神に藤  金宮大明神に茗荷   篠田大明神に竹
  若宮大明神に萩  諏訪大明神に柿
を植えられたが、後になり不思議が顕われ其上向田の里に滴松と揺ぎ松の二霊木があって霊相が顕われ之を七不思議と言い伝えておる。
西方の里、藤波大明神、毎年正月一日に藤の花が満開するので朝廷に献上するの例であったが、後伏見院の正安元年のこと急使のものが、船井郡水戸の峠(桐ノ庄観音峠)で筺を開いたので藤の花は忽ちに一羽の白鷺と化って飛んでしまった。それから此の藤の花は咲かなくなったと言い伝えている。
金河内の里、金ノ宮大明神、毎年正月三日の朝八時頃に茗荷が三本生えるので、それたよって年の豊凶を卜つているが之は今に農作主の神示と、霊相が顕われるのである。
遅岫の里、篠田大明神、毎年の正月四日朝八時頃までに筍が生える。其数は年の豊凶によって多少があり茗荷の霊相と同じく今におき絶えることなく顕われている。
志賀の里、若宮大明神、社頭に一株の萩が植えられていて、毎年正月二日に萩の花が咲き出るのであったが、藤の花が絶えて間もなく此の不思議も亡くなってしまった。
仝里、諏訪大明神、毎年正月五日の朝柿の花が咲き果実を生じ日中に熟するので朝廷に献上するの例であったが、花園院の正和元年に捧持の使が船井那須知の里で咽渇きをおぼえて人家に入って茶を飲んだところ、俄に腹痛が起り大騒ぎを初めた。此の騒ぎの間に献上の柿の納められた筥が北の方にと飛去ってしまつたと言う事である。それから此の柿の不思議も絶えて亡くなり今は其代用木が繁っておる計りである。
向田の里に滴松と言うがあって毎年正月六日に雨が降るように雫がポトポト落ちたと言う。
また同じ里の揺松というのがあり風無きに枝を揺る。その揺り方に上枝と下校の区別があって滴松と共に、日損、水損、風雨その他都の吉凶までをも知ることが出来たのである。処が天正の初めに明智光秀が福知山に築城の際棟用材として暴力を以て伐採したので遂に消滅てしまたつた。(この松の表皮と言い伝えるものが西方村の大槻禎治氏にある。
以上が本村七不思議の大要であるが此の伝説は農業経営を暗示する尊い物語りであり、又本村開発の歴史をも暗示するものである。  (『志賀郷村誌』)

  
筍と茗荷の神事
七不思議 志賀郷に七不思議の伝承があり、民俗学的に興味のある多くの資料を提供している。一八世紀中ごろに記された『神社仏閣七不思議縁起』によると、「崇峻天皇の時に麻呂子親王が大江山の凶賊を退治するため本郡に来り、志賀郷に篠田神社や願成寺などを勧請開山し、また七仏薬師を安置した。そして千日祈願をしたところ、それに応じて神仏は次のように奇瑞を見せられた。
 正月朔日 藤波神社に藤の花が咲く。
   二日 別所の御用柳坪に七色柳の花が咲く。
   三日 金宮大明神に茗荷を生じ、その年の作物、早・中・晩稲の豊凶・風雨・日柄・水難をしめしたまう。
   四日 篠田大明神に筍を生じ、その年の作方、早・中・晩稲の豊凶・風雨・日和・水難をしめしたまう。
   五日 若宮大権現の社前に萩の花が咲き、一切耕作の豊凶をしめしたまう。
   六日 向田・鍋倉にある滴松より滴が雨の如くに落ち、日柄・水難をしめしたまう。
   七日 向田・松の下にある動(ゆるぎ)松が、都の吉事のある年は末の葉が動き、凶事がある年は下の葉が動いて都の吉凶を知らせたまう。
 このうち別所町の七色柳のかわりに、志賀郷諏訪神社の御用柿が正月六日に実のり、日中に七色を呈するのを不思議とする伝えもある。藤波神社の藤の花は、正安元年都へ運ぶ使いの者が水戸峠(観音峠)で筺を開いて見たため、白鷺となって飛び去り、それより奇瑞はなくなった。七色柳は正和元年、使の者が須知でお茶を飲んだところ、にわかに腹痛がおこり、柳の筺は北へ飛び去って、それより奇瑞はおこらなくなった。火の喰い合わせによるものである。若宮神社の萩もいまは奇瑞がない。滴松・動松は、明智光秀が福知山城を築いたときに棟木にしようと伐らせた。ところが木こりが終日切っても、散らかしておいたコケラが夜中に集まって元の木となって、切り倒すことができなかった。それで一片切れば一片火中に投込み、焚きつくしてやっと切り倒し、城の棟木にした。
 このように記して、五つの奇瑞はいまはあらわれないとしている。ここに記されている七不思議の多くは農作物の豊凶を占うもので、日本各地で行われている年占いとよばれるものである、そのうち筍と茗荷の年占いは神事として現在まで伝えられてきている。
 文化十一一年(一八一五)正月の神事を見た野田泉光院は『九峯修行日記』に次のように記している。
 「三日 志賀ノ里 金ロノ宮茗荷ノ生ズルヲ一見ニ詣ヅ日出ニ着キ拝ス 去暮一見シ置キタル水ノ流レ 玉垣ノ内去暮トチガヒ 掃除等椅麗ニシテ 三筋ノ水流レノ内ニ茗荷五本生ジタリ 一筋ニ三本 外二筋 ニ一本宛 此茗荷ノ生ジ様ニヨリ其年ノ豊凶ヲ試ス事也 今朝未明ニ生ジカカリ 昼時ニハ四寸計リニ成 ル 此畔三筋ハ早稲中稲晩稲ト分ル 又風ノ吹クコトアレバ此茗荷タワメリ 丹波七不思議ノーヶ所也 右ニ付参詣ノ者 夜中ヨリ群集スルコト数ヲ知ラズ 四日 篠田明神へ詣ヅ 筍生ズル地境ハ社内ニ四間四方計りニ玉垣アリ 其内ニシノメ竹薮三ヶ所ニアリ 雪深キコト弐尺余 其竹株ノ根ヲ雪ヲ除ケ 辰ノ刻時分二見レバ雪中ニ弐寸計リニ生ジタリ 夫ニレ幣ヲ 立テ印トシ置キ 昼時分ニ掘出シ見レバ 長キハ六寸 短キハ三寸計り 是レヲ神前ニ供ス 参詣ノ諸人 ニ拝シサスル也 此所モー、二、三卜分ケテ年分ノ作方善悪ヲ試ス也」
  茗荷と筍の神事は、日が正月から節分の日と変わってはいるが、いまも昔ながらの形をとって厳粛に行われている。この神事は、稲作が生活の中心であった時代の習俗を伝えるものであり、民俗学的に考察すべき多くのものを残している。次にいま行われているようすを記そう。

 篠田神社 筍神事
 氏子は篠田・別所・向田の三町区であるが、神事は篠田町の氏子だけが祢宜となって行なう。篠田町では上・下・深山の三組にわかれていて、順番に各組から祢宜を出す。祢宜は四人で、当番の組のうち女ばかりの家や不幸のあった家を除いて、氏子の中から選ぶ。その方法は十二月四日のお講の日に、一人一人の氏子の名を記した小さい紙を一センチ角ぐらいに折りたたみ、三宝にのせて神前に供え般若心経をあげる。そして前年の祢宜一人が、一心に祈りながら扇子で三宝の上一センチメートルほどのところをなでると、名前をかいた紙が扇子に吸いついてくる。それを神前の段下に待つ氏子のところまで、そのまま静かに運ぶ。そこで氏子の手に落とし、開いて氏子の名をよみ、一人の祢宜がきまる。これを四回くりかえして四人の祢宜を選びだすのである。この選び方は神聖であって、選ばれた人は祢宜を必ずひきうけるという。
 祢宜の交代は選ばれたその日、すなわち十二月四日である。祢宜はそれより一年間、篠田神社とその他の村中の神社の守りをするのである。
 一月三十一日から筍神事にかかる。祢宜は餅をつき、神前に御灯明をあげ、籠り堂に七五三繩を張り夕方から籠る。籠り堂に入ったら他の者は一切入れず自炊である。一日三回、別所から流れる小川に素裸で入り心経一巻をあげる行をとる。氷の流れる川水に腰まで浸ると、声も出ないぐらいになるという。水の中で心経一巻をあげ、終わるとそのまま裸で神前へまいり、また心経一巻をあげる。寒いけれどもかぜをひいたものはないという。この行を一日三回つとめていたが、近年は水に入ることはやめ、心経だけをあげることにしている。
 こうして宮に籠り精進潔斎をして、二月四日午前零時になると、四人の祢宜はワラの深グツはき、提
灯をもち、玉垣の中に入り木のスキで筍をさがす。雪があれば素手で雪をかきながら探す。ローソク一本がなくなるまでぐらいはよいが、そのあとになると指先が凍えて感じなくなるという。そうして探しあてるのに朝の五時までかかることもある。三本見つかる(頂くという)と太鼓をたたいて村中に知らせる。
 一番に発見された筍が早稲、次が中稲、三番目が晩稲をあらわす筍である。発見するとそこに札を立てて見やすくしておく。
 参詣人は朝からおまいりし、玉垣の中の筍のようすを見て、豊凶の判断は各人がするという。高いところにあれば水が少ない、低いところにあれば水は多い。筍が寝ていれば風が吹く、東の方にあれば作柄がよく、乾の方面にあればよくないという。午前十一時半ごろにお刈り上げをして、神前に供え参詣者に拝させるが、このときは筍が前より大きくなっているように見えるという。
 この神事には例年参拝者が多く、近村はもちろんのこと舞鶴・豊岡・若狭からの参拝者があり、与謝郡には篠田講があって、毎年代参があるということである。

 阿須須伎神社 茗荷神事
 この神事ももとは氏子のお籠りがあったが、近年は行われなくなっている。節分の朝、神主が瑞垣の覆をとりはずし、氏子の見守る中に垣の内へ入り、小さい流れの中に生えた茗荷を三本刈り、三宝にのせて神前に供えるものである。街神事と同じように近村から、大川筋の村々、丹後若狭から多数の参詣者があり、明治のころまでは前夜から農家に泊りこんでこの神事を拝んだという。
 柳田国男氏によれば、日本の祭の本質はお籠りにあるという。おこもりをして年占いをする神事が伝えられていることは珍重すべきことである。  (『綾部市史』)

七不思議
綾部市・志賀小六年四方祐子
私達の住んでいる志賀郷には、七不思議と呼ばれる、七つの古い不思議があります。
それは、諏訪神社の御用柿、藤波神社の藤、若宮神社の萩、阿須須伎神社の茗荷(みょうが)、篠田神社の竹の子さん、向田のしずく松、ゆるぎ松です。
御用柿  年正月(旧歴)五日の朝、柿の花が咲いて実がなり、その日のうちにじゅくしたといいます。そこでその柿を京都の朝延に献上しようとしましたが、途中で風にとばされてしまったそうです。それ以来、柿はならなくなったそうです。また「御用」というと、柿がなったり、落ちてきたりしたこともあったそうです。
藤波神社の藤 毎年正月一日に藤の花が咲いて満開になるので、朝延に献上しようと運んでいる途中、使いの者が船井郡三戸の峠(桐ノ庄観音峠)で筐を開いてしまいました。すると藤の花はたちまち白うさぎになってとんでいってしまいました。それから花はさかなくなったそうです。
阿須須伎神社の茗荷 毎年正月四日の朝八時頃に茗荷が三本はえるそうです。そのはえ具合によって、その年の農作物のでき具合がわかるそうです。
篠田神社の竹の子さん 毎年正月四日の朝、八時頃までに竹の子がはえるそうです。そしてその数によって、その年の農作物のでき方がわかるそうです。
若宮神社の萩 社頭に植えられていた一株の萩が、毎年正月二日になると、たくさんの花をつけるというものです。
向田のしずく松 毎年正月六日になると、雨が降るように、しずくがポトポト落ちたというものです。
ゆるぎ松 風がないのに枝がゆれるというものです。そのゆれ方には、上枝と下枝の区別があって、水害や風雨、都の吉凶まで知ることができたといわれています。けれど明智光秀が福知山に築城して暴力をふるい、ゆるぎ松を切ってしまったので、もう不思議もなくなってしまいました。  (『由良川子ども風土記』 )




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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