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丹波の

下原(しもばら)
京都府綾部市下原町


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京都府綾部市下原町

京都府何鹿郡山家村下原

下原の概要




《下原の概要》
由良川南岸の台地上の集落。南は山を隔てて天田郡三和町に接する。JR山陰本線が東西に貫通している、平行して府道広野綾部線(450号)が通じる。
中世は「原村」(「何鹿郡所領注文」安国寺文書)とよばれた地域と推定される。戦国時代は当村に白波瀬備前守が館を構え(堀ノ本)、山家城の和久氏と結び、船井郡八木城城主内藤氏の襲撃を奇策で撃退したと伝える。内藤備前守が討死にした地を備州が尾と称したという。
下原村は、江戸期~明治22年の村。はじめ山家村のうち、のち分村独立した。山家藩領、寛永5年から旗本梅迫谷氏との相給となる。明治4年山家県を経て京都府に所属。同22年山家村の大字となる。
下原は、明治22年~昭和28年の大字。はじめ山家村、昭和25年からは綾部市の大字。昭和28年下原町となる。
下原町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。



《下原の人口・世帯数》 179・71


《下原の主な社寺など》

齋神社


府道450号線と山陰本線とに挟まれた境内。
斎神社      下原村 産神
祭ル神 斎大明神ト云 祭礼 九月九日
篭家アリ森凡三十間四方 上原村明神ト同シ 麻呂子親王此所ニ休玉フヲ祭ルト云
(『丹波志』)

斎神社 四級社 祭神経津主命、武甕雷命 祭日旧九月九日 下原町布毛   境内一、〇〇六㎡
社伝によると、麻呂子親王此所に休み給うを祀ると云う。明和四年(一七六七)十月再建、昭和三十年籠堂改造し瓦葺にする。境内社 天満宮 祭神菅原道真
(『山家史誌』)

丹後の竹野神社の分社とワタシは推定する、丹後勢力が早くから入った土地ではなかろうか。その後裔が中世の和久氏かも…


その他の神社
〇瀧神社 祭神水汲比女命 祭日四月三日  下原町稗田境内二〇二㎡
藩政時代には瀧の宮と云って、不動明王、薬師如来、愛染明王を祀り、境内に晦日堂あり十月八日の宵祭には多数の人の参籠があったと言われている。宝暦九年(一七五九)十一月神子屋建替、安永五年(一七七六)十月石灯篭が寄進された。晦日堂は明治四十五年解体され、下原町公会堂として大川神社灯篭附近に建立された。昭和六十一年瀧の宮不動の行を行った。

○秋葉神社 祭神火彦霊命  祭日三月二十四日  下原町鍛冶尾   境内四〇〇㎡
明治二十六年頃、下原在伊藤亀吉の弟小三郎が亀岡より大工見習を終えて帰り、それを記念して作った杵を祀り、安産のまじない物とし、多くの人がその恵みを受けた。現在その杵は伊藤正信方にある。

○屋すい稲荷神社 祭神倉稲魂神 祭日初午  下原町布毛
元は大丸山頂に祀っていたが現地に遷宮する。
(『山家史誌』)


戦国期の古戦場禅定庵跡
府道450号線沿いに下原町公会堂がある、その向かいに案内板かある。

和藤合戦古戦場旧跡
永禄六(一五六三)年戦国時代、この地、下原で大合戦が行われた。
丹波の国守護代内藤備前守宗勝は、丹後攻略の途上山家領主和久左衛門佐吉政も滅ぼすべく将兵およそ一八〇〇名の大軍で大原神社から大原峠を越えて下原に攻めてきた。
下原ではこれを察知して待ち構えていた下原の地侍白波瀬肥前守忠次と大水の由良川を鷹栖から渡ってきた和久方の武将達、加勢に駆け付けた地元の住民達約二〇〇人が応戦した。
白波瀬館、禅定庵、備州ケ尾の下原山々に繰り広げられた熾烈な戦いは内藤宗勝の首をあげて白波瀬方が大勝した。
備州ケ尾・鑓場成の「内藤宗勝の墓碑」「禅定庵跡」「白波瀬館跡」等が今も下原に存在している。


手前の道路は府道、右の建物は公会堂。南向きに写す。
左手の高台あたりに内藤宗勝墓や禅定庵址のよう。背後の山の向こうは三和町である。高い山は三郡(みこおり)ケ嶽(498m)。

北向きに写す。電車の先あたりに白波瀬館跡のよう。

禅定庵址 山家村字下原小字寺の成にあり。創建年代不明なれど、内藤備前守を誘ひて合戦ありしを以て知らる。今は畑地となりて、桑樹の栽培を見る。石地蔵、五輪塔の残れるあり。堂が迫、堂田、大堂、堂の下、柱堂等の地名存す。備前守の墓は鎗場山にありて無銘の石碑一基あり。現今此の所を備州ケ尾と呼ぶ。また白波瀬の館址付近には木戸場、道場、的場等の地名存す。
(『何鹿郡誌』)

禅定庵 下原町寺ケ成  石地蔵、五輪塔を二・三を残すのみの栗林となっている。和藤合戦の古戦場で、内藤備前軍と白波瀬肥前軍の夜戦の行われた所で、内藤方の敗北で大将内藤備前守は備州尾に葬る。谷藩時代に入りこの建物は、和木に移して随岸寺にしたという言伝えもある。今に堂ケ迫・堂田・大童・堂の下・柱堂の地名を残す。
(『山家史誌』)


《交通》


《産業》
簗漁。山家駅前にこんな案内がある。観光簗漁が行われている


由良川の上流である和知州は戸奈瀬、下替地あたりから広瀬まで、流路は不規則な曲りをみせ、上林川が山家あたりで谷の狭い峡谷となって、北より合流して由良川となって蛇行しながら西に流れる。
由良川、上林川とも流れが急で、こい・はえ・うなぎなど生息するもののその水揚げは少ない。ただ、あゆは以前から相当漁獲があった。清らかな急流に育ったあゆは古くから「山家鮨」として賞味されてきた。
アユは淡白で、姿は優美〝川魚の王〟とも呼ばれている。俗に水あかと呼ばれる底の石に附著しているけい藻やらん藻をたべるため、香気があって中国では〝香魚〟と呼ばれ、珍重されている。
古い漁法に「簗漁(やなりょう)」といわれる方法がある。この地方もこの漁法が古く寛政のころから明治、大正、昭和とながいあいだおこなわれてきた。簗は河川に敷設して魚をとる定着漁具の一種で、河川の一部を残して流れをせきとめ、開いた部分に簀棚を斜に張って、流れを上下するあゆ・こいなどの魚を強制的にスダナにうけとる仕掛けをいう。京都府結合資料館の資料〝旧慣沿革書〟によると「今般出願致シ候簗架議ハ寛政年間四方彦衛ナル者発起シ………時の藩主ノ許可架設の処家政元年ノ大洪水ノ為メ一旦中止……文久元年ニ至り再工シ………明治二十九年八月ノ大洪水ニテ該架設簗悉皆流失……明治三十三年再工……」とあり、府の免許をうけた鷹栖のほか一〇か所あまりの簗の架設がみられ、あゆ・こい・さけ・うなぎなどの捕獲をしてきたが、洪水のたびに流没してその修復に大きな犠牲をはらいつつ継続されていたようである。


鮎狩り 山家の鮎はかつては名物の一つに数えられ、昭和二年には献上品に選ばれた。六月一日の解禁日には京都方面からの釣客で賑いを見せた。山家大橋近くの昭和楼には釣客が残した「山家鮎の礼讃」に曰く、
「由良川は本来川成鮎の棲息に適し、殊に山家は水成岩より成る清瀬深渕変りなく、のぼり魚、足をとどめ、珪薬ゆたかに水質水温魚の発育を助け、姿は流線型、肉厚く骨軟く香味優秀、近畿の河川中、正に第一位を占む。高貴の御料に召され、都紳のこれを賞味措かざるは故なきに非ず。「うるか」の香味とその薬効また超絶す。誠に一竿を投ずれば、山には杜鵑(ほととぎか)、谷には河鹿ともに渓声に和して俗耳を洗ふべし」と。
(『山家史誌』)


《姓氏・人物》


下原の主な歴史記録


和藤合戦 光秀の黒井城・亀山城攻略の失敗は丹波土豪達の士気を高からしめ、領地を広める活動をはじめさせた。八木城主内藤備前守宗勝は天正四年、天田・何鹿に進出した。宗勝はまず福知山・綾部方面を討ち従えようと高津に入ったようである。天正四年二月、下高津の観音寺が兵火にかかり伽藍・古文書を焼失した(福知山名所)とあるから、おそらく高津の城主大槻氏を攻めたのであろう。つづいて栗城を押えて軍勢をととのえた内藤氏は、同年四月大原に本陣をうつして山家をうかがった。山家の和久氏は山家・和知・口上林を押えていた豪族であり、多くの土豪が内藤氏に人質を送って服しているのに反し、あくまで降伏せず備えを固めていた。
この内藤氏と和久氏の戦いが「和藤合戦」とか「禅定庵の戦」とかよばれるもので、「陰徳太平記」「白波瀬記」「和藤戦記」などに記されている。これら戦記物により、戦いの年が永禄六年とも天正四年とも記されて年代の差があり、またいずれも誇張された記述があるが、当時の状況の一半を伝えていると思われる。それらによれば、内藤備前守は大原を発し三千余騎の大軍を率いて下原へ進攻してきた。和久氏の宿将白波瀬肥前守忠次(忠義と記したものもある)は家来十六人と郷民数百人をもってこれに対したが、数において抗戦不可能なことを知り、下原の禅定庵に誘って和談すると見せかけ、はげしい風雨を利用し闇にまぎれて急襲した。雨にぬれ道に疲れ、地理不案内の内藤勢はさんざんに攻めたてられてなすすべもなく、宗勝は八木城をさして落ちていく途中、下原の山中で白波瀬側に討たれてしまった。いまそこを備州が尾と呼んでいる。時に天正四年八月四日であったという。(内藤丹波年代記)このとき十倉城主渡辺内膳友綱が由良川の急流に独り馬を乗り入れ、難なく渡り切って白波瀬を助け、水馬の名をあげたことが伝えられている。
(『綾部市史』)

…このころ山家には在地地頭として勢力を持っていたのが、和久氏である。和知・口上林まで勢力をのばし、それを支えるものとしでは各地の神社や荒神を護る地主豪族があって、館と呼ぶ大きな屋敷を構え郎党の結合支配をしていたもののようである。
和久氏は北面の武士として禁裏に仕えていたと云う伝えもあるが、四方家文書では「当山家城主和久左衛門佐を申するは、元祖近江国佐々木殿二男にて心有って此山家に住居す。」とあり、在地豪族より信頼され教慕されていたようすである。和久氏の山城はいまも「左衛門屋敷」といって甲ケ峯にあり、菩擢寺としてその峯横の平ら地に照福寺のあった跡があり「照福寺が成」と呼ばれている。ちなみに照福寺住職は代々和久氏を名乗る。この頃の正伝として極めて興味ぶかいのは、和久・伊藤氏の姓変えである。佐衛門佐と苗字を同じくするのは不敬とし、かつ伊藤は「ワクにイトは細し」として、和木の「新左衛門」株は「白波瀬」に姓を変えたという。
子孫徳之丞先祖の鎗あり、付根元三株也と丹波志はしるす。
永禄三年(一五六〇)三月若狭高浜の城主逸見駿河守宗近が軍勢五千余騎をもって、十倉渡辺氏・山家和久氏を降伏させ、三月二十日一尾(栗町)城主大槻佐渡守と戦ったが、村上峰之助の援兵によって敗走した。
永禄六年四月和藤合戦と云って、八木城主内藤備前守と山家城主和久左衛門佐との合戦あり、白波瀨肥前守が主体となって戦い「白渡瀬運記」とて下原町白波瀬茂家文書、鷹栖町白波瀨勝己家に、「下原合戦記」とて菅沼家文書もある。「下原合戦記」は全五巻になっていて惜しむらく第四巻のみ手元に残り、内藤備前守の旗揃記と落城、天正七年(一五七八)六月の記事の巻物が下原町八木家文書としてある。
要は古文書総合によれば、内藤備前守が意にしたがわぬ赤井氏和久氏を討ち破り丹後国へ攻め入らんとして、折からの大雨をつき大原から和木峠を越え下原へ侵入したのに始まる。白波瀬肥前守、謀って禅定庵に招じ入れ夜討せんと計をめぐらす。和久左衛門佐の軍勢、白波瀬一党援助しようとして鷹栖村野上に着いたが、洪水滔滔として渡る所がない。上林十倉の城主渡辺内藤友綱先陣つかまつらんと濁流に乗り入れ押し渡る。(菅沼文書には一番乗りを鷹栖の住人四方新介高貞としている)続けとばかり皆乗り切り白波瀬軍に合流し、内藤軍を山中に破り、備前守の首級を得る。(のちここを備州が尾という)。時に永禄六年四月廿七日の夜中であった。(内藤丹波年代記では天正四年八月四日とあり、菅沼文書も年は不明だが八月とある)残る一子内藤小五郎に小姓中桐丹下と残兵を付添わせ八木の本陣へ送り返す。この時参戦した面々に、白波瀬・伊藤・岩見・小林・林・岩本・山口・三ケ槻・樋口・廣瀬・渡辺・荻野・西村・佐竹・柳原・菅沼・佐藤等があり、在地の小豪族、地侍たちであった。
丹波平定を命じられた明智光秀は苦戦を重ねた末やっと福知山を平定し、何鹿郡に残っていた山家城和久氏を攻め降伏させる。このとき城の破却を条件としたが、城域に寺があるとして応じなかったので、追討され成敗をうけた。天正八年六月二一日付の光秀書状(御霊神社文書)に要約次のとおり書かれている。
「和久左衛門大夫城破却の儀去年申付の処寺家と号して残し置かれ雅意に任せていたが昨日成敗を加え候…
尚以て和久左息並に上介肥前入道取逃候……随分念を入尋ね出し急度搦め捕り出す可く候…」
これが和知の豪放、出野左衛門助と片山兵内に宛た光秀の下知状である。その光秀も丹波平定後、信長に叛き京都本能寺に自害させたが、すぐ秀吉軍によって敗死した。戦乱の世もようやく統一されようとする天正十年、秀吉の旗下にあった谷大勝亮衛好の中国攻め武功により(系譜に詳記)、その子、衛友が山家の地を与えられ入部する。以降山家藩の成立することは史実に展開されるとおりである。やがて徳川幕府制度確立と、田辺藩細川家との親睦によって谷藩政も関ケ原(天下分けめの戦い)以後安定期に入る。上杉・梅迫・十倉へ分知後はしばしば封建社会の動向にしたがって揺れ動きつつ、三百年の治世がつづくこととなる。
(『山家史誌』)


下原の伝説






下原の小字一覧


下原町
宮ノ上 五反田 布毛 谷田 上ノ替地 野毛 カジヤ 稗田 小屋ケ谷 堂田 大平 後谷 滝ノ宮 東谷 仲替地 野々成 念五郎谷 角畑 上ノ山 寺ノ成 仲瀬 風呂ノ谷 フルイ谷 成田 狼岩 ホウソ谷 滝谷 仲瀬 ソエ谷 アセブ谷 井根口 川端 稗田 小屋ケ谷 滝ノ宮谷 寺ノ成 後口谷 滝ノ宮 フルイ谷 大丸山 野々成 念五郎谷


『山家史誌』に、
白波瀬尾 (下原町)
下原生産森林組合所有山地の一部の地名である。下原には古来下原、上原、鷹栖の三相入合の野山があった。元禄四年(一六九一)争論があって遂に公事となり、白波瀨四代安兵衛忠長、弟善左衛門が共に一命を堵して争い遂に勝訴となり、時人之を徳として入会山に遺骸を葬り松樹を植えて記念としその地を白波瀬尾と名づけたもので石碑二基は現存している。
鎗場山 (下原町)
白波瀨、内藤の古戦場で内藤備前守重則討死の場所で、備前守の墓一基がある。
寺ノ成 (下原町)
内藤、白波瀨の古戦場であった、禅定庵の在ったところからつけられたもので石地蔵五輪等が残っている。禅定庵の建立年代は不明であるが、堂が迫、堂田、堂の下、柱堂の地名もあり禅定庵の規模も大きかったと想像出来る。
堀の本  (下原町)
白波瀬館跡であって、今は畑地となり堀跡もあるところからつけられたものである。




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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