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丹波の

新庄(しんじょう)
京都府綾部市新庄町


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京都府綾部市新庄町

京都府何鹿郡物部村新庄

新庄の概要




《新庄の概要》
シンジョウ、シンショと呼ばれる。犀川中流域に位置し、北は物部町、南は館町に隣接。東部の山沿いに太が鼻・石隈、西北部の山すそに新庄、その西北谷あいに奥新庄の集落がある。主要地方道綾部大江宮津線(9号)が東部を南北に貫通し、沿道は町並みになっている。犀川の西岸側が中心地で小幡新荘の遺名かという。
古代の小幡郷の地に比定され、その新荘として設けられたものであるという。「玉葉」承安5年(1175)5月12日条に、
 自女院被付申宣旨之詩文(割注・丹波国小幡田新荘也、国司新立荘之改立他所間、本御願領位田、依籠彼四至内、所進也)当院御領、惣可停院事勅事諸侯等乱入之由、宣下先了、彼位田即其内也、而今依国司申、相転他所、雖不可有凝殆、当時已新立之所也、不帯宣旨者、向後如何、仍所被申請也、件請文院司上藹(割注・邦綱卿)加署、 と記されるという。
また寛正2年(1461)9月10日の何鹿郡所領注文に「新庄」とある(安国寺文書)。
新庄村は、江戸期~明治22年の村。枝村に石熊(隈)、奥新庄、小田がある。綾部藩領。越石として10石余の柏原藩領がある。明治4年綾部県、柏原県を経て、いずれも京都府に所属。同22年物部村の大字となる。
新庄は、明治22年~昭和30年の大字。はじめ物部村、昭和30年からは綾部市の大字。同年新庄町となる。
新庄町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。もとは綾部市新庄、物部のうち石隈・太が鼻の各一部。


《新庄の人口・世帯数》 325・116


《主な社寺など》
古墳
石の隈の石室古墳。
石隈の石室
石の隈は古くは一村であったであらうが現在は口石の隈は字新庄に属し奥石の隈は字物部に属してゐる。石室は奥石の隈の地に在って地元の者は之を石棚とよんでゐる。其の教は七、八箇ある。室の入口は南方に面し、其の中の大なるものは十七八名も入ることが出来る。現時ほ大部分破損せられて原形と存するものは殆んどない。其の中には荒神の境内となって居る所もあり。又池となって居る所もある。  (『物部村誌』 )


遺跡
長遺跡 庄村遺跡


山王(山尾)神社

文献には、
大北(タイホク)牛頭天王   新庄村 西側ニ 同村奥 新庄ノ産神
祭ル神        祭礼 九月午日
小社南向也 中興古木折レテ其株ニ牛頭天王ノ謂レ有 播州廣峯ニ願ヒ大北ト申神也 篭家二間ニ三間半 鳥居 境内凡三十間四方  午ノ日三ツ有レハ中 二ツナレハ後ヲ用  (『丹波志』)

山尾神社  垣山此売神  不詳 享保六年再建  大字新庄小字赤尾  (『物部村誌』)

山王神社 (新庄町赤尾一一番地の一に鎮座)
 創祀の年月日、鎮座の次第などは不詳であるが、社殿は、内陣の棟札によれば「干時、享保六年(一七一六)卅歳
 奉造立山王大権現 大工綾部住 大槻吉左ヱ門高常 九鬼大隅守 隆都領 小畑新庄村 庄屋 永井甚右衛門 上羽三郎兵衛 年寄 西田喜左衛門 永井吉助」とあり、これは多分に再建であると考えられる。これよりさらに古い棟札があるが文字が判読できない。このように見ると当社は、相当に早くから祀られ崇敬を集めた神社と考えられる。鳥居をくぐつて間もなくそびえるかしの木の巨木、その傍に杉の巨木の株等が神社の歴史を物語っている。
祭神は、埴山比売神であり、氏神として、氏子の「いのち」「よろこびし」「かなしみ」を常に見守り、諸願を成就されてきているが、土の神、即ち田畑の土壌を司る神、粘土其の他土全般を司る神でもある。
社名(社号)について、法人設立の手続きの際「山尾神社」となっていたものを「山王神社」と改められた。その理由として、往古より「山王神社」が用いられていたからである。丹波志(綾部史談会)によれば「山王権現 新庄村庄村東側、小社末申向也一間半ニ、三間ノ舞堂、鳥居アリ境内凡三十間四方」とあり、是が現山王神社にあたると考えられる。また「綾部藩社寺要記」に、「新庄村“山王権現”小社 境内五十間に三十間 祭礼六月一五日」とある。また地名から推しても、山王神社の所在地付近は山野(王)の小字名である、更に最近(平成三年)になって本殿内陣に保管されていた棟札が見つかり「山王神社」であるとする根拠が明らかになった。
境内社 物部村 神社寺院調によると境内末社として次の八社があげられているがいづれも由緒不詳である。
 ○廣嶺神社 ○城岡神社 ○荒神杜 ○稲荷神社 ○秋葉神社 〇八坂神社 ○水神社 ○山神社
山王神社の境内には現在三つの脇宮が祀られている。一社は廣嶺神社、一社は城岡神社、一社は荒神杜で残りの五社については、祠がなく、合祀されていたものか、それとも境外に遷し祀られたものか明らかでない。
なお神社の神輿については、昭和五二年、西坂の高蔵神社から神輿の分与を受け、山王神社のご神宝として受納し神前に奉納式を斉行したものである。高蔵神社から受納した神輿は文化年間の製作で立派なものであるが、第二次大戦中金具類一切を取り除き、軍需に供出しており本体だけのものに、諸金具並に装飾具等の献納を氏子より受けるなどして装いを準えて一新、秋集には五社をはじめ、新庄町内を巡行することになった。
(『物部史誌』)


城岡(きおか)神社

府道大江宮津線(9号)の「石の隈」バス停から北向き。待合室の裏にある山に城岡神社。先に見える突き出し峰が「太が鼻」。
「石の隈」の地名だから、横穴式石室古墳がありそうな所。実際に36基の古墳群があるという、調査は行われていない。鉱山の親分の古墳か。

ここが参道口、少し石段を登った所にありそう、外気温33℃なので、登るのはやめた。
城岡大明神 新庄村 同村字庄村ノ産神
祭ル神   祭礼 九月八日
辰己川向ノ山 石熊ト云処ニ二間三間舞堂 鳥居アリ 境内凡四十間四方 当村天王山王城岡三社明神ト云フ  (『丹波志』)

城岡神社 (新庄町下山に鎮座)
 府道、石隈バス停から大畠道を東へ入ると、約一〇〇メートルの北側に鎮守の森があり、犀川の流れを見下ろしている。
この宮が城岡神社で祭神久々能智神とされ、丹波志には「城岡大明神・祭礼九月八日 辰己川向ノ山 石熊ト云処ニ二間三間舞堂 鳥居アリ 境内凡四十間四方 当村天王山王城岡三社明神ト云フ」と記されている。約一町歩程の社有林の頂上には広場もあり、年中水の断えない小さな池もある。そこに古くからの社があった。また東南の麓の堂に薬師も祭られている。古老の伝えるところでは、源頼光が鬼退治の帰途、(麻呂子親王説とも重なっている)この地に足を止めて休養したとも伝えられており、長楽寺の伝説と併せてうなづくことが出来る。
城岡神社の西の麓に寺屋敷があり、尼寺であったともいわれ、それを今の長楽寺に移したと伝えられている。またこの氏神の下北谷に泉による古池があって、その池底から千年以上前のものと思われる、食器(土器)や多くの破片が出た事があり、また石ノ隈から犬潟へ通じる坂道を、昔から宮の坂と呼び、そのところが須波岐部神社、赤国神社、城岡神社三社の馬場で祭礼が行われたと口伝されている。その祭礼のことや、頼光の伝説、神仏混合の宮であったことなど、何れを考えても平安時代(千年以上前)からの宮であったと考えられる。
それが明治六年の宮改めのとき、時の役所の命で庄村の山王神社に集社して、山王神社の境内に祭ったのである。その後、明治の中頃、再び当局の指示で元の森に遷し祭った。しかし、その時山頂へは遠く坂が急であり、社殿が重いので、森の中腹である今の地に祭祀して現在に至っている。「腰痛治し」にご利益があるというので、方々から参詣者も多い。  (『物部史誌』)


山王権現
今もあるのか不明。
山王権現          新庄村 庄村東側
祭ル神        祭礼 六月十五日
小社未申向也 一間半ニ三間舞堂 鳥居アリ 境内凡三十間四方  (『丹波志』)

笹波荒神
次の伝説がある。

曹洞宗久櫨山長楽寺

案内板がある。

久櫨(くうろ)山長楽寺 曹洞宗
本尊 薬師如来 本山 永平寺 総持寺
長楽寺は高屋寺(物部)や万福寺(西坂)と同じ九五〇年頃の開創で室町時代のの長楽寺(聖観音)は何鹿郡三十三ケ所の霊場、西国二十二番の札所として賑わい隆昌したが、その後寺運の消長と盛衰を重ね、永沢(ようたく)寺を祖とする常光寺の末寺とし賢山大長和によって中興(明治廿年落雷で全焼仝二十二年再建し今日に至っている。

鬼退治と源頼光の伝説
今から一〇〇〇年前第66代一条天皇の正暦元年九九〇源頼光が大江山の鬼退治の帰途、この寺に参拝休息した。この時頼光が杖にしていた櫨(はぜ)の木を庭に挿した処、やがて芽を出し大木に成長したことから櫨の名をとって久櫨山長楽寺と名付けたと伝えられている(丹波志)
その時頼光は大江山鬼退治の大願成就のお礼に自分の守り本尊“薬師如来“を奉納、その仏像は今も当寺の秘伝として本尊仏胎内に安置してある(物部村誌)
大江山の鬼退治物語は麻呂子親王説と同様の伝説であるが、こゝに登場する源頼光は実在の人物で、歴史年表によると、この時頼光は37才であっーた。その後、各地の国司を歴任し治安元年摂津守として68才で死去している。
平成二年(一九九〇)八月八日
源頼光参拝一〇〇〇年を記念して
綾部市観光協会
長楽寺護持会

久櫨山長楽寺 禅宗    新庄村
丹後加佐郡天田内村常光寺末 往古小庵ナリ 本尊古キ金仏定朝ノ作薬師如来立像五寸二分ナリ 往古麻呂子親王丹後悪鬼退治時此地ニテ馬ヲヤスメ賜ヒ庭中ニ指置賜 其後久敷櫨(ウツギ)木花咲ク 五十ケ年以前ニ枯ス故ニ久櫨(ロ)山ト号スルナリ …
ノ札所 鎮守白山権現二丁斗西側ニアリ 八月祭
但シ歯ノ痛ヲ止タマフ神迚近辺ヨリ参詣多シ  (『丹波志』)

久櫨山 長楽寺(字新庄)
 所属宗派 曹洞宗永平寺  本尊 薬師如来
当寺は二回(一回は年代不明、二回は明治二十年)回禄の災厄に遭ひ古記録や古文書等一切烏有に帰したから凡て分明しない。現在の堂宇は明治二十二年に建立せられたものである。本堂の上梁記の一部に「吾山の創業は賢山天長禅師である。之を継ぐこと殆んど二百年に及ぶ、中二回の火難に遇ふ」と書いである。(意訳)
伝説によると瀬頼光が大江山鬼退治の帰途当寺に立寄り休憩した際杖づいていた櫨の木を境内に挿した所やがて芽を出して遂に見上ぐる巨木となった。之に依って当寺の山号を久櫨山と名づけたのだといはれて居る。其の時頼光は鬼賊退治の大願が成就した報謝の為め自分の守り本尊の薬師如来を奉納したのだと伝へられてゐる金銅仏(約三寸)は二回の災厄にもかゝはらず異状なく現に当寺の秘仏として本尊仏の胎内に安置しである。
室町時代の中頃から民間に札所巡りの風が盛んとなり西国三十三ヶ所に傲ひ国毎に三十三ヶ所、郡毎に三十三ヶ所の霊所を定めて巡礼するやうになったが永享の頃から特に盛んになったといはれてゐる。当寺は何鹿部西国の二十二番の札所となって居り、現在本堂の裏山に観音堂屋敷跡が残って居る。更に庭園は名勝天の橋立の一部を模して築造したとの伝説など彼此考察すると開基も古く昔時は隆昌であったと推察せられる。
尚当寺と関係深い檀家である永井家初代の位牌(寺の仏殿にある)の裏面に「本人は元館(以久田)の城主石川備後守の部属の永井但馬守である。永禄十一年九月願により長暇を賜はり今田(以久田)に退き浪宅に居ること四ヶ年、天正元年三月福知山城主小野木侯当新庄へ巡視の際同所の高八十六石四斗を所領として同侯から与へられ、次で悴甚之助は家来一同を引連れて当地に来往した云々 意訳」と書かれてゐる。尚永井家の子孫は十三代目の永井淳が現に加佐郡大江町南有路に居住してゐる。参考の為め書き加へる。(寺伝による)現住職は黒沢玉宗
(『物部村誌』)

久櫨山 長楽寺(新庄町)
 所属宗派 曹洞宗永平寺
 本 尊  薬師如来
 開 基  賢山天長禅師
 開 山 文徳天皇 仁寿年間(八五一~三)
 現 住 (代務)藤原一春
長楽寺は、今日までに不幸にして二回、大きな火災に遭い寺院の凡てを全焼し、古い記録や古文書、過去帳、什物等の一切を焼失したのである。(一回目は年代不詳、二回目は明治二〇年落雷によるといわれる)古老の話によると、各檀家の位牌や墓石を調べて過去帳を再製したと伝えられている。現在の本堂や庫裏などは、柱も細い焼け普請であるが、焼失二年後の明治二二年に檀家の浄財によって再建されたものである。
 長楽寺と聖観音
長楽寺は「仁寿年間(八五一~三)智証大師円珍により新庄村長楽寺を創建」(何鹿郡案内)と伝え、物部地区では最も古い寺院とされている。丹波志何鹿郡之部に
「長楽寺本堂ノ別ニ、二間四方観音、当郡廿二番ノ札所」とあり、室町時代の何鹿郡三三ヶ所の札所の中に、旧物部村で二二番長楽寺(聖観音)と二三番高屋寺(千手観音)のニケ寺が選ばれていた。
  二二番 長楽等  巡礼歌として
 人の世をすへ葉ながらひ この寺のみのりの花と長き楽しみ
足利尊氏が幕府を開いた一三三六年頃から南北朝時代となり、明徳三年(一三九二)に南北朝が合体した。その頃から民間の札所巡りが盛んになり、西国三三ヶ所にならい国ごとに三三ヶ所、郡ごとに三三ヶ所の霊所を定めて巡礼するようになり、後花園天皇永享(一四二九~一四四〇)の頃は特に盛んであったといわれている。
長楽寺(聖観音)は何鹿郡二二番の札所となって、当時は参拝者で大いに賑わったと記録されている。然し時代の流れと共に、寺運の消長と盛衰を重ねて小庵となり、室町時代の末期を迎えたのである。現在の本堂の裏山に、往時の観音堂の屋敷跡が残っていたが、圃場整備(昭和六〇年)で裏山を削ったので今はその跡を見ることが出来ない。
久櫨山長楽寺に関する文書
 丹波志何鹿郡之部によると、「久櫨山長楽等 禅宗(新庄村)「丹後加佐郡天田内村常光寺末、往古小庵ナリ、本尊古キ金仏定朝ノ作、薬師如来立像五寸二分ナリ」云々略。「大江町誌」では、常光寺(天田内村)の寺伝として、「明徳元庚午年(一三九〇)春丹波国永沢寺開山通幻和尚常光寺ヲ開基ス」とあり、通幻和尚一五代の法孫、橘州宗曇和尚の二代目賢山天長和尚、新庄村に寛文一〇年(一六七〇)長楽寺を開山したとある。
最近確認した長楽寺の本堂上梁記の一部に「吾山の創業は賢山天長禅師である。これを継ぐこと二〇〇年余に及ぶ、中二回の火難に遭ふ」(意訳)とあり、(明治二二年四月九日上梁)これらの記録や文書などを総合すると、長楽寺は開基も古く、かつては相当栄えた年代もあったと思われるが、その後幾多の起伏を経て寛文一〇年常光寺の末寺として開山中興したことが確認出来る。その後住職も一一世となり、現在は代務住職藤原一春和尚が就任している。
長楽寺は薬師如来を本尊として、道元禅師(高祖承陽大師)、宝山禅師(太祖常済大師)を両祖と仰ぎ檀家九二戸、曹洞宗の教義を守って護寺する由緒ある寺院である。   山門と鍾桜
 昭和三九年一二月一六日松岩寺「伊根町泊」(三ケ寺合併したため)から梵鐘を譲受し、翌四〇年には相寿寺「福知山市上荒河」(長安寺に合併)の山門と鐘楼の譲渡を受け、檀家や篤志家の寄進によって建立された。最近は檀信徒によって、大晦日の夜、除夜の鐘がつかれ、百八の煩悩を払い去っている。
また、昭和五二年から毎年八月一四日には境内で、地区民による盆踊りやカラオケ大会が催され、青年部の出店も開かれて大いに賑わっていたが、最近は場所を新庄町公会堂に移した。
 白山権現
丹波志何鹿郡之部に「鎮守白山権現ハ本堂ノ二丁斗リ西側ニアリ、八月祭、但し歯ノ痛ヲ止メタマウ神ニシテ近辺ヨリ参詣多シ」とある。また、権現本殿の祭壇には次の板札がある。

白山権現は現在本堂の東側に隣接して建てられ、長楽寺及檀家の守護神として祀られている。
本堂と白山権現の間に古い庭園がある。この庭は名勝「天の橋立」の一部を模して築造した(物部村誌)との伝承がある。
 鬼退治と源顔光の伝説
今から約一〇〇〇年前、一条天皇の正暦元年(九九〇)源頼光が大江山の鬼退治を無事に終っての帰り道、この長楽寺に参拝していた櫨の木を境内に挿しておいた処、その櫨の木がやがて芽を出して、遂に見上げるような大木に成長したといわれ、このことによってこの寺の山号を、櫨の名をとって久櫨山長楽寺と名づけたと伝えている。
昭和五四年、福知山市史編さん室が資料収集する中で発見された「丹波志何鹿部之部」寛政六年著(今から約二〇〇年前)に、「その櫨の大木は年ごと香りある花を咲かせていたが、五〇年余り前に枯れた。」とある。即ち、今から二五〇年程前に枯死したことになる。平成元年の秋、頼光鬼退治一〇〇〇年を記念して寺の裏山に、総代や役員によって「櫨の木第二世」の植樹を行った。
物部村誌によると「その時源頼光は大江山の鬼退治の大願を成就したお礼に、頼光の守り本尊であった〝薬師如来″を奉納したと伝えられ、その仏像の大きさは約一〇センチ程のもので金と銅で作られており、この薬師如来は二回に及ぶ大火にもかかわらず、幸い焼失をまぬがれて、長楽寺の本尊仏の胎内に今も尚安置され秘仏とされている」。大江山の鬼退治物語りは、麻呂子親王説と同様の伝説であるが、この伝説に登場する源頼光は確実に実在する人物である。
丹波史年表には「第六六代一条天皇の正暦元年三月廿六日源頼光等は、千丈ケ嶽の岩窟に於て酒呑童子を討ち大江山の山賊を滅す」と書かれてあり、頼光四三才の時であった。源頼光が長楽寺に参詣したのが九九〇年であるから、長楽寺が開創されてから一四〇年程後のこととなる。その後頼光は武略にたけた人物として、時の関白藤原氏の信任も厚く、多くの国々の国司を歴任し、治安元年七月二四日摂津守として七四才で死去した。大江山の鬼退治をしてから三一年目に当る。  (『物部史誌』)

久櫨(くろ)は黒で、鉄(くろがね)のことか。
白山は通説では雪で白い故にとか言われるが、火山で銅鉱床もたくさんあるそうで、白道路のハクと同じ、ハクは璞久(はく)で銅鉱石の山という意味かも知れない。
白山神社や十一面観音も鉱山によく見られる。


《交通》


《産業》


《姓氏》


新庄の主な歴史記録




伝説


笹波荒神(新庄町太ケ鼻)
笹波荒神は、新庄町バス停の東を約三〇メートル程登ると左側に小さな祠がある。これが笹波荒神で次のような伝説が古老達によって語り継がれている。
 その昔、新庄太ケ鼻には高波山系の西麓に数戸の民家が農業を営み、つつましやかに仲良く暮らしていた。その頃に、犀川の向う側(右岸)は、今では昔の面影を全く偲ぶことの出来ない水田となっているが、その中央を伊路屋川(新庄川)が流れ犀川との合流点も近い低地だったので、当時は一面笹や茅などの生い繁った原野であった。大雨になると堤防がないので、その辺は何時も大きな遊水池となっていた。
 或る日の真夜中に、急ぎの旅をする人ででもあっただろうか、夜の「しじま」を破って女人の声で「助けてくれ!助けてくれ!」と必死で叫ぶ声が聞こえていたという。山の麓の民家のほの暗い灯の明りが見えたからであろうか、必死で救けを求める声が、灯心の火が細るように次第に小さくなっていった。これを聞いた麓の人達は、得もいわれぬ恐怖に襲われて、どの家も灯を消し「ヒッソリ」と息をころしていたという。こうして誰一人、恐しさが先に立って救いに行く者はなかった…。恐しい一夜が明けると、一人の女の尊い生命が失われていたという。飢えた野獣に襲われたのだろうか、急病であったのだろうか、悪者に襲われでもしたのだろうか定かではない。この不幸な人の怨霊の祟りでもあったかのように、その後数軒あった民家は一軒絶え二軒絶え、ついには一軒もなくなってしまったという。
 いつか歳月は流れて、文明開化の明治の時代となり世の中は近代化していった。この頃より、道路に沿って一軒建ち、二軒建ちして民家の数も増えていった。中には商をする人達もあった。この人遠が昔の話を聞いたり、また伝えるうちに、ああ可哀そうなことであった、気の毒なことだったと話しあって、太ケ鼻の裏山の見晴しのよい高台に祠をたてて、笹波荒神と名付け亡くなった女人の霊を慰め供養した。
 それ以来、毎年一〇月二六日と正月には太ケ鼻の人達によって、祠や参道附近の清掃を行い慰霊の祭事を続けている。特に元旦には、太ケ鼻の人達が笹波荒神前に集って新年の挨拶をすると共に、山海のお供物をして組一同の無病息災を祈願し、お酒をくみ交してお互いの友好を深めている。  (『物部史誌』)




新庄の小字一覧


新庄町
東石隈 八田古 北石隈 池ノ谷 風呂谷 太ケ鼻 南太ケ鼻 芦谷 鉄岡 仲竹 鍬初 野口 西谷 山王 大迫 宿 水上 荒山 柿東 西長 山野 五反 開田 下開 深広 北 南石隈 下山 石之隈 赤尾 野口 ゴマケ嶽

『物部村誌』
字新庄
「耕地」 芦谷、鉄、岡、仲、竹、鍬 初、西谷、大迫、宿、野口、開田、下開、深、広、北、八田古、大ケ鼻  計十八
「林野」 護摩嶽、赤尾、下山、  計三

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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