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丹波の

篠田町(しのだちょう)
京都府綾部市篠田町


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京都府綾部市篠田町

京都府何鹿郡志賀郷村遅岫

篠田町の概要




《篠田町の概要》

七百石からだと府道篠田七百石線(486号線)で志賀郷へ入った最初の集落。犀川の支流向田川の上流谷あいの農業地域。もとは遅岫(おそのくき)と言った、町名の由来は篠田神社にちなむもの。篠田町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。

遅岫村は、江戸期~明治22年の村名。山家藩領。村西部にある篠田神社では旧暦正月4日筍の神事を行った。神社の堂に籠り禊をした禰宜4人が玉垣内へ入り、筍を見つけ出して3本掘り、この筍で稲作の豊凶を占うもので、丹波・丹後から参詣者も多く篠田講のつくられている村もあった。明治4年山家県を経て京都府に所属。同22年志賀郷村の大字となる。
遅岫は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ志賀郷村、昭和30年からは綾部市の大字。同年難読地名であるとして篠田町と改称した。

《篠田町の人口・世帯数》 132・59


《主な社寺など》
篠田神社

篠田神社は集落の西端の少し高い所にある。府道沿いで、北の別所や西の向田からもアクセスがよい位置。節分に行われる筍の神事は、瑞垣の中の筍を掘り出し、稲作の豊凶を占うもので、志賀郷七不思議の1つ。
案内板がある。
志賀の七不思議と「竹の子さん」の縁起
その縁起
 今からおよそ一四〇〇年前の崇峻天皇の頃、大和朝廷は、国の中心勢力をかためるため、金丸親王を遣わし、丹波の国々の地方豪族を征伐することになりました。
すさまじい戦いに悪戦苦闘の末、ようやく丹波の国々を平定した金丸親王は、おおいに喜び、これ一重に神仏のおかげによもものと、丹波の国々に七仏薬師如来を納め、国家の安泰を祈りました。また、志賀の里の〝藤浪〝〝金宮″〝若宮〝〝諏訪″〝白田(後の篠田の五つの社を厚く信仰されたということです。
親王の子孫金里宰相は、この五社の大明神に千日参りをされ、これを記念して、藤波大明神には「藤」、金宮大明神には「茗荷」、若宮大明神には「萩」、諏訪大明神には「柿」、白田大明神には「竹」をお手植えされ、国家の安泰と子孫の繁栄を祈願され、このことを大和朝廷に報告されました。この時以来、この志賀の里にいろいろ不思議な奇瑞があらわれるようになったということです。なお、この五社のほかに、向田の「しずく松」「ゆるぎ松」にも同時に不思議な霊験があらわれ、これらをあわせ「志賀の七不思議」として、今に語りつがれています。
その奇瑞 篠田神社=白田大明神の「竹の子さん」
 毎年、旧暦の正月四日になるとや日の出より八時までの間に、神殿裏の「御ミノシベ」と呼ばれる竹林から、竹の子が三本出るのです。これを神前に供え、その竹の子の出る場所、その育ち具合いから、その年の稲作の早稲(ワセ)中稲(ナカテ)晩稲(オクテ)の吉・凶を占うのです。
この神事は、今も、新暦の二月四日に「筍祭 祈願祭」として行われ、地元の人からは、〝タケノコさん〟として親しまれています。
 つい最近まで、氏子の人 数人が、三日間籠堂に泊まり、日に三度づつ、氷のように冷たい篠田川の水を浴び、行をとってきましたが今は取り止めになっています。
是非、一度、節分の日にお詣りください。    志賀郷公民館

篠田大明神 延喜式ニ出篠田明神是也      遅岫村
祭ル神 ウガノミタマ 祭礼正月四日 六月四日 九月四日
横八尺堅四間五社作南向 舞堂鳥居有 森一町余 正月四日六時ヨリ五時迄御シノべトテ竹ノ子出ル社裏ニ凡五間四方井垣ノ内也 是ニ御シノベトテ篠竹ニテ竹ノ子ハ真竹出 志賀七不思議ノ内今ニ伝フト云名所ノ部ニ出ス 社家有 遅岫村 別所村 向田村三ヶ氏神立合祭 諸国稲荷ノ本ト云 伏見ノ稲荷ト違唯一神ト吉田ニテ云ト云白藤ノ古跡 七不思議ノ内名所ノ部ニ出ス
(『丹波志』)

篠田神社 志賀郷村字遅岫小字北野にあり。明治六年村社と公定、大国主命を祭る。現在氏子一九五戸、遅岫、向田、別所の三区之に属す。山家領時代は篠田大明神と奉称して、本地弥陀なりき。例祭十月十七日。
(『何鹿郡誌』)

篠田神社
遅岫の西方に鎮まり昔日白田大明神と称されたが何時の頃にか篠田の社号に変ったが、恐らくを宮の筍の不思議によるのであろう。
祭神は「大国主神」を斎かせ明治六年村社となる。例祭は正月と十月に行われ正月四日の筍の神事は有名である。
当社はもと出雲造の社構であった筈だが故実を失して其の形式が崩されているので惜しいことだが、幸に群叢する桧の巨樹が鬱蒼として鎮守の森の荘厳さを保存している。 (『志賀郷村誌』)

 篠田神社の筍神事


延喜式には篠田明神の名はない。延喜式には阿須々伎明神があり、金河内村の金宮大明神と遅岫村篠田大明神とで、かつて論争となり、結論出ずに今もってどちらとも指定はなしという。
室町時代の建物という本殿の背後に瑞垣があり、内には篠竹が生い茂っている。節分の日には、ここの筍で占う。
篠田神社だから篠竹と考えたものだろうか、しかし篠竹はスズダケとも読むように、シノも阿須須伎神社のススも同じで、式内社指定論争が発生するのもうなずけることだが、錫(すず)という金属があるように、犀川のサヒも同じで、本来は鉄というよりは金属一般、ここでは銅や銀かも知れない、そうした金属を意味しているものと思われる。
誰も信じないかも知れないが、当社は当地一帯に産出した金属そのものを、当地の鍜冶豪族であった「金丸親王」、「金里宰相」あるいは「麻呂子親王」とされる者たちが祀った社であったものだろう。


《交通》


《産業》


《姓氏》


篠田町の主な歴史記録




伝説




筍と茗荷の神事
七不思議

 志賀郷に七不思議の伝承があり、民俗学的に興味のある多くの資料を提供している。一八世紀中ごろに記された『神社仏閣七不思議縁起』によると、「崇峻天皇の時に麻呂子親王が大江山の凶賊を退治するため本郡に来り、志賀郷に篠田神社や願成寺などを勧請開山し、また七仏薬師を安置した。そして千日祈願をしたところ、それに応じて神仏は次のように奇瑞を見せられた。
 正月朔日 藤波神社に藤の花が咲く。
   二日 別所の御用柳坪に七色柳の花が咲く。
   三日 金宮大明神に茗荷を生じ、その年の作物、早・中・晩稲の豊凶・風雨・日柄・水難をしめした      まう。
   四日 篠田大明神に筍を生じ、その年の作方、早・中・晩稲の豊凶・風雨・日和・水難をしめしたまう。
   五日 若宮大権現の社前に萩の花が咲き、一切耕作の豊凶をしめしたまう。
   六日 向田・鍋倉にある滴松より滴が雨の如くに落ち、日柄・水難をしめしたまう。
   七日 向田・松の下にある動(ゆるぎ)松が、都の吉事のある年は末の葉が動き、凶事がある年は下の葉が動い      て都の吉凶を知らせたまう。
 このうち別所町の七色柳のかわりに、志賀郷諏訪神社の御用柿が正月六日に実のり、日中に七色を呈するのを不思議とする伝えもある。藤波神社の藤の花は、正安元年都へ運ぶ使いの者が水戸峠(観音峠)で筺を開いて見たため、白鷺となって飛び去り、それより奇瑞はなくなった。七色柳は正和元年、使の者が須知でお茶を飲んだところ、にわかに腹痛がおこり、柳の筺は北へ飛び去って、それより奇瑞はおこらなくなった。火の喰い合わせによるものである。若宮神社の萩もいまは奇瑞がない。滴松・動松は、明智光秀が福知山城を築いたときに棟木にしようと伐らせた。ところが木こりが終日切っても、散らかしておいたコケラが夜中に集まって元の木となって、切り倒すことができなかった。それで一片切れば一片火中に投込み、焚きつくしてやっと切り倒し、城の棟木にした。
 このように記して、五つの奇瑞はいまはあらわれないとしている。ここに記されている七不思議の多くは農作物の豊凶を占うもので、日本各地で行われている年占いとよばれるものである、そのうち筍と茗荷の年占いは神事として現在まで伝えられてきている。
 文化十二年(一八一五)正月の神事を見た野田泉光院は『九峯修行日記』に次のように記している。
  「三日 志賀ノ里 金口ノ宮茗荷ノ生ズルヲ一見ニ詣ヅ日出ニ着キ拝ス 去暮一見シ置キタル水ノ流レ玉垣ノ内去暮トチガヒ 掃除等綺麗ニシテ 三筋ノ水流レノ内ニ茗荷五本生ジタリ 一筋ニ三本 外二筋ニ一本宛 此茗荷ノ生ジ様ニヨリ其年ノ豊凶ヲ試ス事也 今朝未明ニ生ジカカリ 昼時ニハ四寸計リニ成ル此畔三筋ハ早稲中稲晩稲ト分ル 又風ノ吹クコトアレバ此茗荷タワメリ 丹波七不思議ノ一ヶ所也右ニ付参詣ノ者 夜中ヨリ群集スルコト数ヲ知ラズ
 四日 篠田明神へ詣ヅ 笥生ズル地境ハ社内ニ四間四方計リニ玉垣アリ 其内シノメ竹薮三ヶ所ニアリ雪深キコト弐尺余 其竹株ノ根ヲ雪ヲ除ケ 辰ノ刻時分ニ見レバ雪中ニ弐寸計リニ生ジタリ 夫ニレ幣ヲ立テ印トシ置キ 昼時分ニ掘出シ見レバ 長キハ六寸 短キハ三寸計リ 是レヲ神前ニ供ス 参詣ノ諸人ニ拝シサスル也 此所モ一、二、三卜分ケテ年分ノ作方善悪ヲ試ス也」
 若荷と筍の神事は、日が正月から節分の日と変わってはいるが、いまも昔ながらの形をとって厳粛に行われている。この神事は、稲作が生活の中心であった時代の習俗を伝えるものであり、民俗学的に考察すべき多くのものを残している。次にいま行われているようすを記そう。

 篠田神社 筍神事
 氏子は篠田・別所・向田の三町区であるが、神事は篠田町の氏子だけが祢宜となって行なう。篠田町では上・下・深山の三組にわかれていて、順番に各組から祢宜を出す。祢宜は四人で、当番の組のうち女ばかりの家や不幸のあった家を除いて、氏子の中から選ぶ。その方法は十二月四日のお講の日に、一人一人の氏子の名を記した小さい紙を一センチ角ぐらいに折りたたみ、三宝にのせて神前に供え般若心経をあげる。そして前年の祢宜一人が、一心に祈りながら扇子で三宝の上一センチメートルほどのところをなでると、名前をかいた紙が扇子に吸いついてくる。それを神前の段下に待つ氏子のところまで、そのまま静かに運ぶ。そこで氏子の手に落とし、開いて氏子の名をよみ、一人の祢宜がきまる。これを四回くりかえして四人の祢宜を選びだすのである。この選び方は神聖であって、選ばれた人は祢宜を必ずひきうけるという。
 祢宜の交代は選ばれたその日、すなわち十二月四日である。祢宜はそれより一年間、篠田神社とその他の村中の神社の守りをするのである。
 一月三十一日から筍神事にかかる。祢宜は餅をつき、神前に御灯明をあげ、籠も堂に七五三繩を張り夕方から籠る。籠り堂に入ったら他の者は一切入れず自炊である。一日三回、別所から流れる小川に素裸で入り心経一巻をあげる行をとる。氷の流れる川水に腰まで浸ると、声も出ないぐらいになるという。水の中で心経一巻をあげ、終わるとそのまま裸で神前へまいり、また心経一巻をあげる。寒いけれどもかぜをひいたものはないという。この行を一日三回つとめていたが、近年は水に入ることはやめ、心経だけをあげることにしている。
 こうして宮に籠り精進潔斎をして、二月四日午前零時になると、四人の祢宜はワラの深グッをはき、提灯をもち、玉垣の中に入り木のスキで筍をさがす。雪があれば素手で雪をかきながら探す。ローソク一本がなくなるまでぐらいはよいが、そのあとになると指先が凍えて感じなくなるという。そうして探しあてるのに朝の五時までかかることもある。三本見つかる(頂くという)と太鼓をたたいて村中に知らせる。
 一番に発見された筍が早稲(わせ)、次が中稲(なかて)、三番目が晩稲(おくて)をあらわす筍である。発見するとそこに札を立てて見やすくしておく。
 参詣人は朝からおまいりし、玉垣の中の笥のようすを見て、豊凶の判断は各人がするという。高いところにあれば水が少ない、低いところにあれば水は多い。筍が寝ていれば風が吹く、東の方にあれば作柄がよ
く、乾の方面にあればよくないという。午前十一時半ごろにお刈り上げをして、神前に供え参詣者に拝させるが、このときは筍が前より大きくなっているように見えるという。
 この神事には例年参拝者が多く、近村はもちろんのこと舞鶴・豊岡・若狭からの参拝者があり、与謝郡には篠田講があって、毎年代参があるということである。  (『綾部市史』)

竹の子さん
綾部市・志賀小六年白波瀬恵
篠田神社では、毎年二月四日に竹の子さんという行事があります。それによって米の豊作をうらなうのです。私は、行事の時は、行ったことはありません。朝は、四時ごろから行って、別所から流れてくる水をはだかになってあびるそうです。それから、竹の子を六時半ごろからほり出しますが、その時は、雪がつもっています。一番早く見つかったのが、わせ、二番目が中て、三番目に見つかったのがおくてというようにふだをつけて、神だなにまつっておがみます。そして、お昼ごろになると、さいでんの下にしまうそうです。三本の竹の子がまっすでに育っていたら豊作、まがっていたら風がある、まがったり、細かったり、高いところにあがっていると不作だそうです。こういう行事があります。  (『由良川子ども風土記』)





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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