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丹波の

七百石(しちひゃっこく)
京都府綾部市七百石町


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京都府綾部市七百石町

京都府何鹿郡西八田村七百石



七百石の概要




《七百石の概要》

萩の寺として名高い岩王寺の麓の集落。高城山・岩王寺山など標高300mの山に囲まれた小盆地。岩王寺山の中腹から白条銀紋で著名な岩王寺硯石を産出し、近世には硯に加工して販出していたという。地名の由来は、岩王寺領が700石あったことによるという。南の高城山(299m)は何鹿の国人大槻氏の居城であった山城がある。
中世の八田郷上村に属したことは建武元年(1334)4月13日付の寄進田数目録(岩王寺文書)にみえる「兼里名」が後世の村内小字の金里であることから明らかとされる。近世は西股村に含まれた。
七百石村は、明治9~22年の村。大日・平山・大町・岩王寺の4か村が合併して成立した。同22年西八田村の大字となる。
七百石は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ西八田村、昭和25年からは綾部市の大字。昭和28年七百石町となる。
七百石町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。


《七百石の人口・世帯数》 307・120


《主な社寺など》

八幡神社


大町八幡宮
所在地 七百石八幡団地
祭 神 誉田別命
由緒沿革
 慶長十七年の創立、天和三年、社殿再建、寛政四年社殿の位置を現位置に移し車斉す。嘉永四年籠堂新築。明治三十四年社殿改築。昭和三年、玉垣石段奉納建設。
 昭和十四年、紀元二千六百年記念事業として、手洗所、狛犬を奉納建設す。
 氏子
 祭日
 末社 稲荷神社 祭神 保食神
    荒神社  祭神 八代荒神
    山の神  祭神 大山祇神
    厄神社  祭神 武内宿弥
    天満宮  祭神 菅原道真
 附記 境内社殿北方上部に古墳三ヶ所に、現存し、時代 及埋没者不詳なり。  (『西八田村誌』)


岩王神社

小字湯ノ戸に岩王(いわおう)神社(八大荒神)が鎮座する。参道石段を登った小高いところ。どうも当地は山城か、その砦か何かあったのではなかろうかと思われる。
岩王神社
所在地 七百石岩王寺
祭  神 菅原道真 八代荒神
由緒治革
創立年月日は不詳であるが、始め菅原道真を祀る「天神さん」として聞こえ、後八代荒神を合祀して「久原の荒神さん」として、近在近郷に響き祭日などには、無慮数千人の崇敬者の参拝あり、もと無格社であったが、最近岩王神社と改称して整備され、今日に至っている。
氏子 三十八戸   祭日 九月一日  (『西八田村誌』)


高野山真言宗神宮山岩王寺(しゃくおうじ・しゃこうじ)

車で入れるが誰もいない山の中である。茅葺の山門で仁王さんが迎えてくれる。というか、コラーッ、このバチアタリのアホが!とか怒鳴られているのかも知れないが、当時の仁王さんは何とも怒られているとは思えない顔立ちである。麓の村の村名の由来にもなっている寺院。

萩ばかりでなく、春先のこの黄色い花がいいんだ、と坂根氏はいう。サンシュユ(山茱萸)という木だが、その古木がある。

桜が咲く少し前くらいが見頃。

岩王寺縁起
岩王寺は、村上天皇の天暦三年(九四九)空也上人(醍醐天皇の第二皇子)により開創された。当時は山中に堂塔伽藍林立し、参拝する者、絶えることなく岩王寺山は香煙立ちこめて、山陰随一の聖地として栄えた。
この寺を岩王寺と書いて『シャクオウジ』と発音するゆえんは、空也上人の開創より約百年前、この地で取れた石で硯石を作り、嵯峨天皇に献上したことに始まる。日本三筆の一人である天皇が、非常にそれを好まれご愛用され『石の王子であるべし』と絶賛され、天皇は石王子(いしおうじ)と書いて『シャクオウジ』と発音されました。後に空也上人がこの地に来られ、堂字を建立しこの聖地にふさわしいと思われる石よりもどっしりした感じの岩という字を使い「岩王寺と寺名をつけられ、発音は嵯峨天皇の言葉をそのままに『シャクオウジ』と発音し現在に至るまで約一千五十年法灯を譲り続けている丹波の古刹です。
広辞苑より
石王寺(シャクオウシ)丹波国石王寺山から産する石。黒色て白糸紋がある。古来、硯石とする。山主


神宮山 岩王寺
平安時代の初期、この山より産出する硯石を、嵯峨天皇は『石の王子』とたたえられ、その百年後の天暦三年(九四九)空也上人この山に一寺を建てて岩王寺と名づけられた。
元弘三年(一三三三)足利尊氏篠村に兵を挙げるや、岩王寺一山の僧徒は足利氏のために戦勝祈願をし、その功によの田地二町歩の寄進を受けた。
そのころ寺領七百石を有し、寺僧百人を数え、この山一帯には堂塔、伽藍林立して隆盛をきわめた。
その後秀吉天下を平定するや寺領落失して、今日に至っている。
岩王寺石の名声は今に伝えられているが、明治維新ごろの山崩れによって今は産出しなく、『幻の名硯』と言われている。
指定文化財
重要文化財 ?漆卓
綾部市指定文化財 足利尊氏寄進状
(足利尊氏寄進田数目録)
昭和五十七年一月  綾部の文化財を守る会


神宮山岩王寺   上八田 岩王寺村
村上天皇御宇空也上人開基 往古十九坊アリ 本尊大日如来并観音 何鹿郡二十八札所 薬師堂 鎮守社 鐘ノ銘尊氏公寄願トアリ 空也高野山エ引移リ今ニ有 惣坊明智乱ニ焼失 麓ニ大門跡大門ト云 字多シ 寺石揚石ハ当所岩王寺ト云銘石ナリ
(『丹波志』)


岩王寺 西八田村字七百石小字岩王寺にあり、神宮山と号す。真言宗にして、往古盛なりしは其の跡を見てもしらる。元弘三年より建武元年にかけたる足利尊氏に関する古文書を藏せり。今、仁王門、本堂、権現堂、方丈あり。大正十四年八月所蔵の経机国宝に指定せらる。  (『何鹿郡誌』)


岩王寺
所在地 七百石岩王寺
山 号 神宮山
宗 派 高野山真言宗
本 尊 薬師如来
 由緒沿革
 人皇六十二代村上天皇の天暦三年京、六波羅密寺空也上人によって開創さる建武中興の頃寺領七百石、寺僧百人堂塔伽藍神宮山に林立し、山陰随一の隆盛をきわめ、参詣の人々が絶えなかった。降って豊臣秀吉天下を統一するに及んで、寺領落失し、今日に至る。今は千坪余の境内に、仁王門、本堂、鎮守堂、庫裏を残すのみであるが、建立年代不詳なるも、約三百年余か。
現住職
 大大正十二年十一才にして、阿部円明師の門に入り、昭和九年一月十日住職となる。
 氏名 阿部亮純。
檀家 六五戸
什宝 本尊 薬師如来、日光月光両菩薩 十二神将、持念仏大日如来重要文化材
?漆卓(裏面の銘によれば)永享四年の作製にして、岩王寺本尊前に奉納されたことが、明らかである。 (『八田村誌』)


重要文化財
 卓(しょく) 室町時代  神宮山岩王寺(七百石町)
       ?(髟の下に休)漆 高さ一〇二・七㌢ 甲板、横一五一×幅四三・九センチメートル

 岩王寺は真言宗高野派に属する古刹である。寺伝によると、村上天皇天暦三年空也上人の開創となっている。その後四〇〇年間の沿革は不明であるが、建武元年には足利尊氏より田地二町を寄進されており、元禄三年ころには寺領七百石を有していた。本寺は式内社島万神社の神宮寺であったといわれ、山号はこれによっている。付近からは硯材として有名な岩王寺石を出す。
 この卓は?漆(きゅうしつ)の卓というむづかしい名称であるが、漆塗の机という意味である。甲板の下に透彫した宝相華文の装飾をつけ、これを湾曲した四本の脚で支えている中国風の机で、全体に朱漆を塗り透彫の部分は胡粉下地のうえに紅と緑で彩色している。簡潔で優美な姿である、甲板の裏は黒漆塗で、そこに朱漆で銘文がかかれている。それによると永享四年(一四三二)に岩王寺の祐喜という僧がこの卓を作らせて岩王寺本堂仏前の卓として施入したことがわかる。
         銘文
     我之名号 奉施入 丹波国何鹿郡八田郷於岩王寺本望仏前之卓
     □経其耳     為師恩七世殊者二親妙宗禅門理妙禅尼現世安穏後生善処并
           右意趣者
        六親眷族証大菩薩堤乃至有縁無縁法界衆生平等利益故為
      衆病悉除
     □□安楽     別者信心施主某祐喜息災延命増長福寿吉祥如意施主意趣如件也
       于時 永享二二天 壬子 卯月吉日大願主当寺下坊祐喜生年四十一歳 敬白
 この卓は現在奈良国立博物館に寄託中である。


市指定文化財
 岩王寺古文書 一巻七通 南北朝時代  岩王寺
      紙本墨書 縦二七・六センチメートル×長票九二センチメートル                        
 七通の古文書を一巻にまとめたもので、これによって岩王寺の歴史をさぐることができる。最初の一通は足利尊氏の田二町の寄進状で、次が田二町の間数目録、第三が院主祐忍の言上状の写本である。これによって足利尊氏が篠村で反北条の兵をあげた当時の動きや、寺の状況がわかり、さらに田数目録は当時の土地制度がわかる貴重な文献である。
 なお本寺には以上のほか、
  大日如来坐像  像高五七センチメートル
がある。光背や台座も当初のものをそろえた鎌倉時代の作で、快慶の作風に似ているすぐれた仏像である。
また本堂の本尊像の前の長押にかけられていた室町時代の作と思われる熊野三所権現の本地仏、千手・阿弥陀・薬師を槌超で浮出した銅製の懸仏があったが、惜しいことに近年盗難にあい、一体もなくなってしまった。   (『綾部市史』)


高城山城
高城山は東八田と西八田をわける山で、どこからでも見えるが、山頂にあった中世の大槻氏の山城・高城へ登るのは北麓の七百石側が正面のようである。国道27号や鉄道から見れば、梅迫駅の裏山である。

高城の跡
 大槻氏の居城なり、其の先は菅原氏に出づ。貞和以降左馬頭清宗此所に城り、応永十三年天下大いに飢え、秋大風水災大地震有りて城廓破す。永正年間屡々上洛して足利将軍に謁せし由旧記に見ゆ。後豊臣氏に仕え大阪夏の陣に没して遂に絶えたり。現に楼閣の跡を存す。(何歴郡役所の蹟後編五〇四百)
高城山
 天神町(元渕垣出身)大槻卯一郎氏特別寄書
 名峰高城山に昔大槻備中守の城があり、明治の始めその何百年祭かが行われたとの事であるが、文献が見つからず、誰が初代であったかは確かではない。
 丹波史年表では、西暦九三九年高城々主大槻修理大輔清次上洛して備後の国司となるとあり、父は備後国八田次村巌之城主で菅丞相の第三子大月帯刀清重である。清次の孫が備中守で妙徳寺に祀られてあるが、備後、安芸、石見三ヶ国の探題職である。
 朱雀天皇賜姓(九三二年)の大槻氏は、中国方面を地盤に、京都を中心として奥州、鎌倉、丹波、但馬とその足跡が広く菩提寺も方々にある。
 清宗は、備中守の弟(鎌倉)の曽孫で、足利尊氏の時、備後、安芸の軍勢半数を要請されて上洛した人である。大槻旧記に尊氏毎州に安国寺を建つるに先達上杉安国寺に真言宗を招き居え御祈祷の護摩之を焼く。大槻右馬頭清宗は日本六十六ケ寺の寺社之役を奉るとあり。丹波国何鹿郡天田郡の地頭となると。
一三四八年四条縄手合戦の深手、木の崎で平愈して丹波の役領高城に居ると。この時からは丹波大槻の本城で二百二十五年後に光秀軍の攻撃で落城して城趾となった。
 高城山の頂上には平地があり天守閣の趾と云われている。山腹には砦の趾もありその石は先年平山公会堂に利用されている。又井戸があったが危険な山中なので埋めたとの事である。
 尚頂上には平山の人々によって愛宕さんが祀られ清掃されている。

  高城山城主年表
一三三九 大槻清宗何鹿郡天田郡の地頭となる。
一三四八 四条縄手合戦
     深手を木の崎に湯治して役領高城に居る。
一三四九 養子清三を高津の城におく
一三五三 天田何鹿の諸士山名を但馬高柳に追う
     清春高城に移る清宗入道す
     高槻の申山に立城清友之に移る
     入道清政掃部清門同遺 上洛す
一三五五 東寺合戦 清政討死す
     清門軍兵引供し高城に皈る
一三五七 備後の長兄大槻安芸守上洛三大槻を呼寄せ
     清春清友清門に対面す
一三八二 大槻安芸守山名氏と合戦
一三八八 義満将軍に供奉して紀州に遊び、富士山に赴く
一三九一 内野にて山名時氏と合戦
一三九四 北野にて諸軍戦死者の追善供養をなす
一四〇六 洪水台風大地震相続き民疫る
     普代重役梅原、四方、山口、渡部に加え、木下、
     伊藤の一族永陣に疲れ病みつき在所に引退し、
     外様の与力勢斗りとなる。
一四一六 上杉金吾謀反安芸守四ヶ国の軍勢率い駿河に発
     向阿部川に討死す清門富士権現小塚原に討死す
     京都二大槻に又悲報あり、備後の城に四ヶ国の
     勢押寄せ落威すと
     二大槻京都に在合する軍兵引連れ丹波に退く
一四一七 清春卒し右京清図城に移る
一五〇五 大槻筑後守高城山に住む
一五〇八 清国八十九才にて卒す男子二人有高城清秀高津
     清季高槻清虎義植将軍に召されて上洛す
一五一一 船岡山合戦(清季負傷)
一五一三 義植将軍江東に出奔す(三月)
     三大槻上洛供奉(五月)す
     御暇給り丹波に皈城す(七月)
一五五八 大旱(汚水も乾く)
一五七三 光秀に加勢の聯合軍高城山に押寄攻撃城主左門
     清秀自刃す
一六〇三 清秀の子四十才の時、内大臣秀頼に召出され、
     知行千七百石を賜い大槻伴大夫尉源清勝と号す


 戦国時代の八田郷戦記
天正二年二月、光秀亀岡に入城するや、鷹狩以来不仲の高槻城主秘かに光秀に加勢を送り、何鹿天田を我が手にと、光秀軍義の結果、福知山城主小野木縫殿、甲山城主赤井五郎を加勢せしむ。即ち、西は高木助左ヱ門を先手として、小野木が岩王寺の野に、東は高槻の弟を先手に上杉の平山に陣し、北は田中野に高槻城主出張して、大手搦手の勢を合せ攻めげれば、高城山の城主大槻左門清秀は防戦無力放火敗軍、大石東山林高処に走せ登り自刃す。時に天正二年三月二十八日の事なり。
千今山王に祀りあるなりと。
   清次参内してから六百四十年後の事である。
尚、戦いは続けられ、死傷者吟味中光秀軍側に於ては軍議が催され、高津城攻撃は四月三日と定められた。
高城の落武者渡部、山内、十倉、四方、木下、上原等は、五騎十騎高津に入城、井倉、大塚に出でて陣し、青野桑の原伊田河原岡の堺小峠に敵の三将を討取った。
赤井五郎は、味方に退き、小野木と大槻とは共に仲良く福知に退き、大槻は明智に降参しけるが城を破られ、知行を小野木が地頭すと。  (資料大槻文書による)  (『西八田村誌』)


《交通》


《産業》
まぼろしの岩王寺石・岩王寺硯
明治維新のころに山崩れがあり、それ以来、産出はないという。その直前、文化11年(1814)11月当地を訪れた野田泉光院は「日本九峰修業日記」に、
十七日曇天 久原村立辰ノ刻 石王寺ト云硯石ノ出ル山一見ニ行  此処ノ石ハ江州高嶋ニ似テ上品也 石中ニ白キ筋アリ 麓ヨリ石工ノ場所へ山中五丁登ル 細工小屋多クアリ 予モ硯一面文沈水瓶等調へル 夫ヨリ高ツキト云村ヘ峠ヲ越へ下ル 日モ西山ニ落ル故ニ一宿求ノタメ一家ニ立寄ル 主シ云様今夕宿取リタルヤ否ヤ 未タシトイへバ 今晩ハ一宿セヨト申ニ付 難有ト一礼ニテ宿ス 藤兵衛ト云宅豪家ノ質家也

岩王寺硯
『大言海』に「石王寺(じゃくおうじ) 石ノ名 丹波ノ石王寺山ニ産ス 白条銀紋アリ 硯トス」 七十一番職人尽歌合 三十九番 硯士詞 「じゃくわう寺ハ シロミ墜クテ石+斤(き)リニクキ」 好古小録 坤「石石+斤 石王寺 丹波 銀紋ウルミ易キハ新坑ニシテ佳ナラズ」
と記されており、室町時代より硯石として名声のあったものである。この硯石は七百石町岩王寺の奥山から掘り出されたものである。
文化十一年(一八一四)にこの地を訪れた修験者野田泉光院は、『日本九峯修行日記』に次のように記している。
「沙光寺ト云フ硯石ノ出ル山へ登ル 此所ノ石ハ江州高嶋ニ似テ上品也 石中ニ白キ筋アリ 丹波国山家領内沙光寺硯石トハ此所也 麓ヨリ石穴へ五丁 細工小屋段々アリ 予モ硯一面 文鎮 水瓶等調ヘル」
文化のころにも有名であり、細工小屋もいくつかあったようすがうかがえる。この石による硯は明治のころまでは造られていたもので、精巧な細工のものが今に伝えられている。
(『綾部市史』)

西八田村岩王寺には良質の粘板岩を産出し、石盤、硯石、文鎮等に製せらる、本岩は尚屋根板、砥石にも使用して可なるべく、岩王寺石と称せらもゝが岩王寺石の面白き所は、本岩の亀裂に石灰岩の沈澱ありて白色の筋を出し硯石、文鎮等に使用し一種の雅趣ありて愛好さるゝにあり。
本岩の黒色は時代の古きを示すものにして学者の説によれば欧米の石炭紀の影響によると云へり。  (『何鹿郡誌』)


《姓氏》


七百石の主な歴史記録




伝説






七百石の小字一覧


七百石町
池天 天提 白田 大原田 二本木 金里 鳥ケ坪 湯ケ戸 棒山 山達 由里 寺ノ段 谷上 七回 秋岡 岩王寺谷 出ノ谷 茗荷谷 塚廻 小銚子 石橋 久保 カイ中 下和田 上和田 迫畑 笹ケ鼻 中山 小路采 西仲野 東仲野 中溝 ユリ山 カジヤ谷 今安 釘貫 平山谷 奥ノ谷 高城 池ノ谷 芋迫 東岡 西岡 大蔵 竹良 大造岡 足縄手 大釜田 政次 奥政次 西久原 北久原 久原谷 竹安 八幡 大町谷 大町前 川通 東日岡 西日岡 立田 岩ケ鼻 堂田 ユリノ下 大界 井関 姥田 苗取 広畑 桂 大蔵畑 稲場 大谷 堂ノ下 堂ノ奥 峠 船ケ迫 カヤノ 天句松 仲ノ坪 山ノ神 ユリノ上 高畑 椛ケ鼻 井根口 土林 梨木 清水迫 橋谷 椛屋谷 若宮谷 朴谷 笹ケ谷 甚五郎山 船奥 椿谷 狭間 二俣迫 井関谷 木坂 山達 中山 中銚子 白田 池ノ谷 広畑 ユリ山 カヤノ


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京都府綾部市
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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