丹後の地名プラス

丹波の

高津(たかつ)
京都府綾部市高津町



JR山陰本線「高津駅」。駅舎なし、無人。急行はす通りする。

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京都府綾部市高津町

京都府何鹿郡中筋村高津



2

高津の概要




《高津の概要》
JR「高津駅」や「協立病院」がある一帯で、市の一番西部で、福知山市と接している。

古代の高津郷の地で、丹波国何鹿郡16郷の1つ。平城宮跡出土木簡に「丹波国何鹿郡高津郷交易小麦五斗」とあるのが初見(平城宮跡出土木簡2)。郷域は現在の綾部市高津町、福知山市観音寺・興の地域に比定されている。


平城宮、長屋王邸出土木簡から
何鹿部という名の最も古い記録は、平城宮跡出土の木簡である。木簡は木片に墨で字をかいたもので、品物を輸送するときの荷札として使われ、また往復文書の代わりにも用いられたもので、平城宮跡からは、昭和47年までに約2万点の木簡が出土している。そのうちに丹波国に関するものが数点あって、何鹿郡から出土したものが1点ある。これらによって、当時の郡・郷・里や頁納物のようすの一端を知ることができる。
(A)丹波国何鹿郡高津郷交易小麦五斗
この木簡は、昭和39年12月19日に平城宮東大溝から、和銅開珎ほか銅鏡・土器・木器などとともに出土したものである。寸法は長さ241、幅28、厚さ5(単位ミリメートル)の板で、材質はわからない。
「交易」というのは正税の稲(米)をもって購入して貢納するもので、5斗は1俵である。この木簡は伴出したものからみて、天平末年から天平宝字へかけてのころ、すなわち750~760年ころのものと考えられている。この木簡から考えて8世紀の中ごろには何鹿郡があり、また高津郷の名ができていたことがわかる。
(B)丹波国何鹿高津里□□交易?(月+昔キタイ・ホジシ)贄一斗五升         持丁高津□石村〔公力〕
また、1988年、奈良平城京の発掘現場において画期的な出来事があった。長屋王邸木簡の発見である。その数何万点にもなるという膨大な木簡、当時の社会状況を示す貴重な資料である。その中の1つに、Bがあった。
「□□交易?(月+昔)きたい(ほし肉)贄」が税の品目と種類を示している。「一斗五升」とはその量だが米で代用して納めていたのだろう。この荷物の運搬人は高津公石村という名の人だという意味。おそらく都まで運ぶことも税のうちだったのだろう。
(『ふるさと中筋』(図も))

現在も市ノ坪・西ノ坪・丁ノ坪の小字が残り、付近に条里の存在がうかがえる。
より古いハナシをすればタカはar系の地名で、丹後の竹野(たかの)などとは同じで、渡来系の人々の地かと思われる。郷内の式内社・阿比地神社もおそらく奄智(あむち)のことで、おそらく天日槍系の首長が祀られたものと思われる。津は湊で川湊があった。
中世の文献に「高津村」と見える。建仁2年(1202)3月日の観音寺別当職補任状に「下 六人部新御庄政所 補任高津村観音寺別当職事」とあり(観音寺文書)、平高盛が観音寺の別当職に補任されているという。永仁6年(1298)2月日の平盛氏寄進状に「六人部新庄下高津観音寺」とあり、高津村は上・下に分かれ観音寺は下高津にあったことがわかる。なお上高津には石清水八幡宮末社如意別宮があり石清水八幡宮領、下高津が六人部新荘内となっており「高津」は下高津を指すことが多かったようだとされる。上高津は現在の綾部市高津町を、下高津は元禄13年の国絵図改の際に天田郡に編入され現在は福知山市興・観音寺の地域に比定されている。
文明12年(1480)12月21日に大槻盛雅が「丹州何鹿郡高津観音寺」霊供田1反を寄進(観音寺文書)。この大槻氏は何鹿郡内の国人の1人で、天正2年12月晦日の大槻吉高寄進状もあり、居城八幡山城を中心に勢力をもっていた。高津から観音寺にかけての山々諸所に城砦が築かれ、鴻ケ嶽(こうがだけ)城・高ケ嶽城がつながっていた。「丹波志」は、
一、大槻安芸守旧栖       高津村
  鴻ケ嶽ノ城跡、西ハ高津北ハ大嶋丑寅延村辰巳ニ安場四ケノ間ニアリ、表ハ高津未申ヨリ丑寅凡五十間横十間斗ノ内ニ郭多水ノ手無シ尾続五丁斗屋敷跡アリ、本城尾続高津八幡山ノ上ニ少ノ屋敷跡二段アリ、字ニ城山ト云、尾続未申ニ当リ鷹ケ嶽ニ少ノ屋敷跡有、天田境ノ山ナリ、遠見ノ古跡ト見ユルハ見渡二十五町斗有之右同屋敷跡ナリ、高津ヨリ本丸へ上リ十町斗城主大槻安芸守辰高天文年中死、二代大槻左京亮倫高天正乱ニ落城、

近世の高津村は、江戸期~明治22年の村。はじめ豊臣秀吉の蔵入地。のち福知山藩領、寛永10年からは綾部藩領。
村高は「旧高旧領」で1、119石余。水田は大島村に井口のある天田井堰の水を用いた。明治4年綾部県を経て京都府に所属。同22年中筋村の大字となる。
高津は、明治22年~昭和28年の大字。はじめ中筋村、昭和25年からは綾部市の大字。昭和28年高津町となる。
高津町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。


《高津の人口・世帯数》 1149・395


《主な社寺など》

藤ノ木古墳(方墳・森さん)など

大きな立派な古墳。高津駅の東方200メートルばかり、鉄道と府道に挟まれたタンボの中にある。府道福知山綾部線(8号)からも見えるが、間に民家があるため近くには見にくい。あぜ道があるのでそこを行けば間近に見える。

そこの案内板に、
藤の木古墳
古墳時代の中期に築造された。一辺23.5m、高さ3.5mの方墳で、通称「杜(もり)さん」と呼ばれ、集落の東北方向にあるため、高津の「鬼門塚」とも伝えられている。平成29年1月


高津の森さん
綾部からやって来て府道から旧道が八幡山の下へ向う分岐点あたりの北方田の中に低い方形に似た塚がある。人呼んで「森さん」といっている。高津の鬼門よけの森で、木を伐るとたたると云い伝えている。
(『中筋村誌』)

高津藤ノ木古墳  「綾部からやって来て府道から旧道が八幡山の下へ向う分岐点あたりの北方、田の中に方形に似た塚がある。人呼んで森さんと言っている。高津の鬼門よけの森で、木を伐るとたたると言い伝えている」と、中筋村誌に記されている。
今は府道沿いに開発が進み、近くまで埋立てられ工場や倉庫や人家が建って見つけにくくなってはいるが、数年前までは、山陰線と府道との間の広い田んぼの中にポッンと小高い森のあるのがよく目についたものである。高津では、これを森さんと呼んで、区有地として大切に保存してきた。「登録名義人 大槻定蔵 塩見太郎 地目 原野、反別 4、06a」
ところが、昭和48年綾部市の都市計画道路の問題にからみ、「森さん」の土地を宅地化する目的で、市から高津自治会に対し買入れの申込みがあったことから、区では賛否両論が湧き、度々協議が行われたがなかなか結論を得るに至らなかった。
昭和47年3月、府教育委員会が発行した「京都府遺跡地図」の中に、「藤ノ木古墳、方墳」としてはっきり記載されているのを発見した。これは、昭和40年に、小西成山の古墳発掘調査に当たった調査員が「森さん」も調査したもので、所在地が市ノ坪2番地であるのが「藤の木」と誤ってはいるが、この古墳を指すものとして間違いはない。
この遺跡地図に力を得た保存派は、ともかく特別な土地、畏敬すべきものとして今までいわれも明らかでないままから、根拠をつかんで急に主張を伸ばしていった
こうした中で、自治会長より再調査要請があり、市文化財審議会から更に府教育委員会に依頼され、昭和48年12月17日、府教育委員会堤圭三郎先生が来られ、地元立会いのもと外形調査が行われた。その結果が12月28日、綾部市教育委員会から高津自治会長に伝えられた。
その内容は、以下の五項目である。
 1.「森さん」は古墳である。
 2.地元民が鬼門として信仰した過程は不祥であるが、この古墳は1500年前のものと推定される。
 3.須恵器片、土師器片が表面採取されている。
 4.吉美の多田町に完存する聖塚・あやめ塚と年代を同じくする方墳で数少なく貴重なものである。
 5.完全古墳である。
これによって「森さん」は貴重な古墳であることが明確になり、埋蔵文化財保護の立場から宅地化目的の市への売却は中止となり問題は決着した。
地域住民の冷静な文化財保護の意識と行動か、こうして貴重な古墳の現状保存の形で決着を見たことは、誠に喜ばしいことである。(内藤惣太郎)
(『ふるさと中筋』(図も))

よかった。これがもしやどこかのマチにあったならば、「開発のジャマになる」とか言って、ロクに調査もせずにもうとっくの昔に姿を消していたかも…。大量人殺しの武器庫は大事だそうで、何の歴史哲学も将来戦略も持ったこともない、確固たる信念もなく、コロコロとその場その場で言うことが変わる、エエカッコだけはしたがる。祖先の残したどんな文化財も強欲人や野蛮人や権力にすぐフラフラ妥協してしまう御都合主義にはまったく無力なもの。そうして消えていったもの、消えようとするものは全国数知れない。世界平和を市民あげて大事に地道に考え努力するように、こうした愚か市民への対抗としてどこぞの国が水爆武装せぬよう、そのたバチが当たらぬよう祈るしかないものか…。

荒谷古墳群
高嶽の北麓、隠竜寺よりまだだいぶ奥にあるよう。谷の反対側に高津遠所遺跡がある。遠所の小字は神内電機や老人ホームがある、小高い台地がそうである。
荒谷古墳群
深谷林道の支谷である荒谷ロへ入った一帯に、9基の古墳群が確認されている。いずれも山林の丘陵に築造され、それぞれ1基の規模は直径6.8~13.8m、高さ0.3~2.0mの円墳で、大半が横穴式石室の構造である。林道から少し入った所に、円状盛り上がり、石材露出など容易に古墳を確認できる。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)


八幡宮

高津駅前の八幡山の上にある。車道があるので府道から上まで登れる。案内板↓

高津八幡宮
当八幡宮は石清水八幡宮の別宮で如意別宮といい、高津荘の総社である。当社の縁起によれば、もとは法道仙人の開いた密教練行の道場であったが、元慶五年(八八一)山城の国男山から金鳩が飛来したのを瑞祥として八幡宮が勧請されたと伝える。明応九年(一五〇〇)災禍に遇い社殿を焼失したが、翌文亀元年に再建された。
別当寺に御所坊、極楽寺などと称え、後に究竟院と改め醍醐三宝院に属した。近世初頭福知山藩主有馬豊氏、綾部藩主九鬼隆李など歴代領主の尊崇を得て社領の寄進を受けている。
現在の社殿は九鬼隆都の企てにより、天保十年(一八三九)起工、嘉永元年(一八五〇)に完成した。宮大工は地元延村の桑原兵右衛門で向背の竜彫物は大阪の彫物師の手になる。府下でも有数の代表的社寺建築である。尚、参道の長い石段は天明四年(一七八四)から文化十三年まで三十余年にわたり村民の寄進により築造されたものである。高津八幡宮


八幡宮     高津村 産神
祭ル神      祭礼 九月十五日
社二間ニ五間五社作也南向 二間七間拝殿 二間ニ五間 供所 本社後ニ二間ニ三間ノ堂八若宮八幡也 并ニ天神社本社ノ右ニ二間四面薬師堂 左ニ釣鐘堂 麓ニ三間四面ノ本地堂 本尊弥陀如来并ニ高良明神并ニ稲荷荒神ノ社 本社ノ西ニ当リ山入口ニ鳥居并ニ下馬札
四ケ寺古跡 御所ノ妨今現在セリ 鳥居内ニ清水有此所ハ往古山城国八幡宮飛玉フ不思議アリ 則当山八幡宮ト号シ奉ル社ナリ
(『丹波志』)

八幡宮 中筋村字高津小字宮ノ段に鎮座、府社にして応神天皇を御主神とし、他に仲哀天皇、仁徳天皇、神功皇后、玉依比売命を祭る。現在氏子高津全区にわたり一八四戸あり。寛文十年三月二十三日、九鬼隆季公田畑五石を社領として奉納し、爾後歴代の領主またこれに見ならひたり。明治六年村社、大正五年八月郷社、大正十二年十一月三日府社と遂次昇格したるなり。現今例祭は十月十五日。
(『何鹿郡誌』)

八幡宮
祭神
 仁徳天皇(向て右端)
 仲哀天皇(向て 右)
 応神天皇(中  央)
 神功皇后(向て 左)
 玉依比売命(向て左端)
由緒沿革
当山は法道仙人(奈良時代)の開いた密教練行の道場であったが、陽成天皇元慶五年(八八一)山城国男山八幡宮より金色の鳩が飛んで来てこの地に止り、種々奇瑞を示したので、時の人これを朝廷に奏上し丹波国司橘良基勅を奉じて来り、ここに石清水八幡宮の別宮として社殿を創建したと伝えている。
八幡宮の別当寺は究竟院で真言宗に属し、本坊、玄長ノ坊、中ノ坊、谷ノ坊、前ノ坊等があり、隆盛時には千余石の社領を有していたと云う。本坊は即ち卸所坊とも云い、極楽寺次に福蔵院と称へ、後に究竟院と攻め、醍醐三宝院派に属していた。
後土御門天皇明応九年十二月社殿炎上、宝蔵古記録等を焼いたが翌文亀元年再建した。後慶長四年二月郡代野々口五兵衛田地五反及び山村薮等を寄進、慶長十一年八月福知山城主有馬玄蕃頭より造営料として年米五石の寄進をしている。(鵜飼尽右エ門寄附状)
降って綾部藩主九鬼隆幸は寛文十年八幡宮を祈願所とし、代々高五石を寄附することにした。
一高五石
 高津村
   八幡領
  内別当
   屋敷共
 右者為社領
永代之寄附之証為時之別当者社務執行不可令怠慢縦自今
己後雖競望之輩不可有別条者也依如件
九鬼式部少輔
 寛文拾庚戌年三月二十三日    降季 印
  高津村         華 押 
    福蔵院別当
又同時に隆季は自然石で造った手水鉢を寄進し、現在社前に保存されている。
九代藩主九鬼隆都は社殿の改築を企て、天保十二年工を起し、十二年を経た嘉永五年、延村の名宮大工桑原兵右衛門の手になる荘厳な現社殿を完成した。神仏混淆の八播宮社殿として異色の建築物であり、兵右衛門の代表的建築として将来文化財として保存そけるべきものである。
尚長い参道石段は天明四年より文化十三年に至る三十余年を費し、飢饉、洪水等の災厄の中で村民氏子が築きあげたものである。
明治三年両部禁止により寺号を廃し社僧は神職と変り大正十二年府社に昇格した。
宝物として明応九年炎上以前の木製こま犬があり、古文書など有力な史料がある。又この地に残っている。
 高津お山の一ノ木見やれ
 枝は観音寺 葉は長田野
 影は福知の城にさす
などの俚謡や
 綾部紫水丘にある
 うつくしき綾部の空を見つゝ思ふ
  今も飛べるや金色の鳩
の吉井勇の歌碑の出自等が、この高津八幡宮にあることも忘れてはならない一つである。
高津八幡宮には昔から神楽があって、氏子が約十人楽人として伝統を伝えている。以前は吉備楽であったのが、昭和の中頃から雅楽となっている。毎年の大中祭に奏上する。尚綾部福知山地方唯一の雅楽であるので、他神社の特別祭典にはしばしば招聘されている。
(『中筋村誌』)

高津八幡宮
高津八幡宮は中心集落東側の宮の段の台地に鎮座している。
【由緒伝承】この地には古く法道仙人が開いた密教の道場があったと伝わる。元慶5年(881)、山城国男山八幡宮(現京都府八幡市・石清水八幡宮)より金色の鳩が飛来し、種々の奇端(吉兆)を現したので、この事を朝廷に奏上し男山八幡宮の如意別言として、同宮を模して社殿を造営したのが始まりであると伝わる。以前、社殿正面前方両側に1対の台座付鋼製金鳩像があったが、盗難により紛失した。この伝承を詠んだ歌碑「美しき 綾部の空を見つつ思う 今も飛べるや 金色の鳩 吉井勇」が同宮社殿前と綾部紫水ケ丘の2カ所に、また、本坂中途の石清水祠脇には「金色の 鳩の姿をしのびつつ 永久に守らむ 美しき里(詠人不記)」の歌碑が建っている。
【沿革】当宮の別当寺である極楽寺は後に福蔵院から究竟院に改められた。真言宗醍醐寺派に属し、本坊(御所の坊)、玄長ノ坊、中ノ坊、谷ノ坊、前ノ坊の5坊があって、隆盛時には千余石の社領を有していたという。明応9年(1500)社殿が全焼し、翌文亀元年再建された。江戸時代後期の嘉永5年(1852)第9代綾部藩主・九鬼隆都の援助を得て、延村の宮大工・桑原兵右衛門により改築され現在に至る。明治元年(1868)の神仏分離令により別当寺究竟院は廃寺とされ、社僧は神職へ移行した。明治6年村社に公定、大正5年郷社に、同12年には府社に昇格した。八幡宮別当寺(御坊ノ坊)建物は昭和33年に取り壊され、跡地に社務所が建った。
【祭神】中座の応神天皇を主神とし、向かって右に父仲哀天皇、右端に皇子の仁徳天皇、左に母の神功皇后、左端に玉依比売命の5柱を祭神とする。
【社殿】広い境内の北詰めにある社殿は南向きの権現造様式で、本殿(切妻造10坪)、幣殿(切妻造12坪)拝殿(入母屋造12坪5合)が工の字型に配列されている。特に本殿妻飾りの三重虹梁の壮大さや大阪・相野徳兵衛による拝殿向拝の唐破風部分の彫刻群(鳳凰、滝、親子獅子、龍、千鳥、猿、双龍)の壮麗さは見応えがある。なお、府下の神社建築では大原神社(福知山市三和町)と並ぶ荘厳な大型社殿である。
【境内社】社殿右前方に高良神社(祭神は竹内宿称で厄神さん)と天満宮(同菅原道真)の小祠が覆い屋に並置されている。同左後方には稲荷神社(同宇迦御魂神・入母屋造)が祀られている。本坂中途右脇には石清水小祠がある。
【石造物】境内及び集落内には八幡宮に関係する多くの石造物がある中で、特に寛文10年(1670)綾部初代藩主・九鬼隆季奉納による神輿蔵前の自然石手水鉢と文化13年(1816)に完成した410余段を数える本坂石段は注目される。他に府道の三反田から旧馬場に至る表参道各所では道分け石、石灯篭(お化け灯籠)、道標が人目を引く。
【所蔵文化財】八幡古本殿ほか、彫刻木造獅子・狛犬一対も紙本墨書…・淡彩墨画大槻辰高像一幅、絵画紙本署色八幡縁起絵一巻などを蔵する。市の古木名木100選には、境内の欅、桧、円ら椎、犬槙、翌槍の5樹が選ばれている。
【神事】『平成26年高津八幡宮年中行事』表では、1月歳旦祭・家祈祷、2月天神祭・祈念祭・稲荷祭・厄神祭、4月春季大祭、6月水無月大祓、9月放生会、10月秋季大祭、11月新穀感謝祭及び12月年越大祓・古神札焼納祭とされている。
 なお、春・秋季大祭などの大きな神事には、大正年間に始まったとされ当地方では数少ない氏子の楽人10余人による雅楽(越天楽、五常楽)が奏上される。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)

元慶(877~85)という時代は、上延の東光院縁起や夜久野額田の東光寺縁起にも出てくる、関東では平将門の乱、東北では「蝦夷俘囚の反乱」があった時代である。瀬戸内海では藤原純友の乱もあり、世の中乱れてさらに天地異変も重なり、当時の支配者は肝を冷やし神に祈った時代であった。東北蝦夷で大和に投降帰順した者や拉致した者を「俘囚」と呼んで、その彼らを全国各地に移配した、それは主に鉄生産の場であったようである。丹波にもあっただろう。なにしろ中央政権に都合良くしか書かれていないし、何もかも書き残されているものでもなく、詳細は不明だが、こうした縁起などあると、あるいは当地一帯にもあったものかと思わせられる。遠所という所もあるし、荒倉や荒谷の地名も鉄という感じがしてくる。

拝殿正面唐破風の彫刻群。ハンパでない、格の違う造り。
真ん中にいるのが金鳩か。


荒倉神社


荒倉神社
 祭神
  素戔嗚命
 由緒沿革
 荒倉神社は荒倉川が山峡を流れて、やっとやや平坦地に出て屈曲する辺りにある。神社明細帳には八幡宮以前の氏神なりと出ているから、恐らく土地の人々が古代からの神社と信じているのも無理はない。
尚観音寺の記録に、慶長元和の頃の人物で高津の荒倉氏が寄附をしていることや、高津の朝倉系図に景詮(寛永十九年四十四才亡)の二女荒倉家に嫁すとあることから、戦国時代の末期に、高津に荒倉を名乗る家があっにことが判るが、この神社と関係があったかどうかは詳かでない。
(『中筋村誌』)

荒倉神社と道標石
荒倉川が山峡から出て集落を貫流する高津のほぼ中心部、川の屈曲する辺りの小さな台地に荒倉神社が鎮座する。社殿の規模は正面巾5m、奥行6.35mの切妻造りである。素戔嗚命を祭神とし、『丹波国何鹿郡神社明細帳』(明治16年)に八幡宮以前の氏神とあり、古くからの神社と考えられる。
社殿前には荒神の祠、金毘羅神社祠、牛頭天王祠、文化4年(1807)地元若者寄進の手水鉢があり、『綾部の古木名木100選』に載るケヤキの古大樹(樹高30m、幹周3.9m)が神社前の高津公会堂と同広場を覆っている。なお、同広場西片隅には明治27年(1894)造立の郡境標「従是東丹波国何鹿郡」が、天田郡(現福知山市観音寺)境の一ツ橋から移設されている。12月1日が荒倉神社祭である。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)

古くからの社であろう、素戔嗚だから鉄でなかろうか。道標石を探したが見当たらなかった。市境は当社より500mばかり西になる。

曹洞宗瑞亀山隠竜寺


隠龍寺
中筋村字高津に在り、瑞亀山と号す。曹洞宗にして高津全区(数戸を除く)之が檀徒たり。戦国時代、此の地城山の城主大槻氏の菩提所たり。
(『何鹿郡誌』)

隠竜寺
本尊 釈迦如来
由緒沿革
曹洞宗に属し、瑞亀山と号す。関山は福知山の久昌寺二世南渓越大和尚で、慶長年間の造立である。
然し本堂改築の棟札を見ると、「創建不詳なれど嘗て勅願の勝地、中頃堂宇廃頽」とあるから、もっと以前から寺があったのかも知れない。本堂は天明七年の改築であり、庫裡は宝永八年の改築である。今本堂の向って左の方に残っている禅堂は、十世の活宗洞貌和尚が禅風を慕って集った雲水の為に建てたもので和尚の凡人でなかったことを示している。
尚堂前の鐘は延宝六年、八幡山極楽寺の鐘として鋳られたもので、元八幡宮の石段左下辺にあったものを、明治二十年三月ここに移したものである。
境内の観音堂は郡西国十二番の札所である。
 法の為み山は亀と顕れて
   竜の隠るゝ寺居とぞ知る
(『中筋村誌』)

隠龍寺
集落の南方、通称段山の東端高台に位置する曹洞宗寺院、山号は瑞亀山、本尊は釈迦如来である。
【由緒沿革】『丹波志』は「是より谷奥に、法道仙人が開いた(当寺の前身)があった」と伝え、当寺が奈良時代の頃の草創という伝承がある。中世の16世紀初めの頃には隠龍寺の名が古文書にみられ、この時期以前に中興開山されていたと考えられるが詳細は不明である。
一般には、弘治元年(1550)高津城主・大槻安芸守辰高が死を前にして僧・徳養蔵主を開山に中興開基し、死去21年後の元亀2年(1571)に寺が完成したとされている。その後、慶長年間(1596~1615)に福知山市の久昌寺の2世・南渓存越和尚により曹洞宗寺院として新たに中興された。江戸時代には、本堂が延宝8年(1680)、さらに天明7年(1787)に改築され、また、庫裏は宝永8年(1711)に改築された。
本堂前の鐘楼と延宝6年(1678)に鋳造された梵鐘は、旧八幡山極楽寺で使用していたもので、廃寺後の明治20年(1887)に当寺へ移築された。
幕末から明治期の住職は名僧・活宗和尚で、その徳を慕って修行僧が集まったため、禅堂として観音堂を建立した。同堂の本尊・如意輪観音は綾部西国観音霊場11番札所で、ご詠歌は次のように詠まれている。「法の雨 み山は亀とあらわれて 龍の隠るる てらいとぞ知る」
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)


日蓮宗常了山本福寺


本福寺
本尊 塔中、釈迦如来、多宝
由緒沿革
常了山本福寺は日蓮宗に属し、文明十八年日親の法弟といわれる中道院日増によって開創されたが、附近一帯は古屋敷等もあって、もっと古くから寺院があったのではないかとも思はれる。今の本堂は文政年間の再建である。
この寺の梵鐘は元文四年鋳造されているが、この鐘の銘に元文元年強訴の主謀者として処刑された栗村の庄屋吉次郎の名をのせ、その冥福を祈ったので、時の住職日庠は追放された模様である。尚吉次郎の墓は寺の墓地にある。
(『中筋村誌』)

本福寺
高津の南西端、福知山市観音寺に接する松ヶ崎の山裾高台に建つ日蓮宗寺院、山号は常了山、本尊は釈迦牟尼仏である。
【沿革】室町時代の未頃「鍋被り日親」(法難により灼熱の鍋を被せられたという伝説がある)といわれる日親上人が足利義教に京洛を追放された際、当寺に立ち寄り法華宗に改宗したと伝えられる。
文明18年(1486)の開基は久遠成院日親大上人、開山は中道院日増上人による。高津の表鬼門と称される「杜さん」に対し裏鬼門に当たるとされる同所に、古くから真言宗または天台宗寺院が建立され、この本福寺谷一帯に諸堂が点存していたようである。檀徒は古くは高津、観音寺の山添に多く広がっていたと伝えられる。
元文年間(1736~1741)の頃、百姓一揆で強訴の犠牲となった栗付の庄屋・吉次郎の冥福を祈る梵鐘の伝えや吉次郎の墓が同寺に残る。檀家は特に福知山市戸田に多いが、他に栗、大島、高津などに広がる。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)


高津八幡山城(高津城)

高津八幡宮の正面の道をそのまま行けば城跡があるという。写真はまだ八幡宮の参道で赤い燈籠の途切れた右手に参道の立派な石段がある。


八幡山城址 (高津城)
八幡山城は、八幡宮南東の標高150mの山頂に位置し戦国時代、丹波何鹿郡の在地領主、大槻氏の居城と伝えられている。城は南ヘ連なる支峰と、西の緩斜面への二方向へ広がり、東西三〇〇mの大規模な城郭である。中間の自然地形を挟んで、東西の二区画に分かれ、それぞれ曲輪土塁・竪堀などの城の構造を今もよく残している。
東区画は、主郭から西ヘ階段状に各曲輪を配し、その先端を大きな堀切で遮断している。西区域は、各曲輪の段差が東区画に比して緩く、堀切も浅いが、先端部では堀の屈曲に合わせ曲輪に土塁を設け、敵を側面から攻撃できる『横矢がかり』の構造がみられる。
これらは同時期に造られたものではなく、主郭のある東区画から順次拡張していったものと考へられ、戦国末期には西区画も造られていたであろう。 平成五年四月


八幡山城(高津城)
八幡宮からつづく南の峯が城趾である。山城としての構築の跡が歴然と残っている。
八幡山城は大槻氏の本城で、伝承では正平四年八田城(高城)主大槻清宗が養子左京之進を高津城に置いたのがその始りとなっている。その後文明年間に大槻豊前守盛雅(観音寺文書)があり、弘治年間に大槻辰高、永禄年間大槻為高(田野文書)など実在の城主が史料に出て来る。要するにこの城は南北朝時代から明智光秀が丹波国を支配するまで、大槻氏の居城として地方勢力の一拠点であった。

将監堂
八幡山城背面、即ち天田都六人部方面より侵入する敵に対する山城と思はれる山城趾である。恐らく将監城と呼んだものが後に何かの御堂が建っていたのでこの名の出た所以かも知れない。ここは大槻将監の立てこもった城と伝えている。現に築城の跡が残り、東面麓は屋敷地として山下(城下)の形態を示している。城山項上に近く南側に大きな水だまりがある。これが当時の水源であっと伝えている。
(『中筋村誌』)

高津城跡
高津には、山城跡が6カ所確認されており、八幡山城を主城とした一体的機能を有する関連性を持つと推定される。
A高津城(八幡山城) 高津八幡宮から南東方向へ続く尾根筋の頂部一帯、通称「城の壇」に城跡があり、大槻氏の本城である。正平4年(1349)に左京ノ進を高津城に置いたのがその始まりとされている。福島克彦の調査(1995)によれば、城郭は標高151mの山頂部と西の尾根に続く部分の2ブロックに広がり、南北約160m、東西約225m、全長300mの大規模な山城である。 山頂部の主郭(本丸)部分は西方に向かって3段に削平され、その西端は堀切で仕切られている。 山頂から南方にかけての尾根にも曲輪が設けられ、山頂部と一体となっている。下方斜面には竪堀、畝状竪堀が幾つかある。また、堀切り西の尾根にも曲輪のブロックがあって、その緩斜面に7段の曲輪、横矢ががりの工夫等が認められる。平成5年4月に城跡開きが催され、一帯の整備が完了した。
B将監城 古来より地元では「将監堂」と呼ばれ大槻将監の居城とされている。八幡山城から荒倉川谷を挟んで南西方の不動谷入り口菅谷に在って、八幡山城の背面に当たるので同城の支城とも考えられる。山裾の林道付近(標高60m)の谷の両側斜面尾根筋高100mに至る地点に、南北約210m、東西約250mに城跡が認められる。7カ所の曲輪群と多くの竪堀、畝状竪堀、土塁、堀切り等が認められ、谷の南斜面には大きな古井戸が現存している。
C積場城 八幡山城の南方にあり、将監城跡と荒倉川谷を挟んで対面していて、一帯は「つんば」と呼んでいる。近年の調査で南北約80m、東西約225mの範囲が城跡とされ、堀切、小さな平坦面、竪堀土塁等が認められている。
D段山城 集落の真南の方で菅谷のやや人家に近い丘陵斜面にある。3つの遺構群に分かれて曲輪、堀切、竪堀、横掘、土塁等が確認されている。
E高岳城 高岳の頂上にあり、高津の遠所と福知山市長田を城域とする。南北約40m、東西約90mの範囲に曲輪、堀切、土塁等が認められている。
F本福寺谷城 近年に確認されたもので、本福寺南方の本福寺谷、菅谷、不動谷の奥尾根に位置し、曲輪や堀切が認められている。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)

高津八幡山城跡


高津海軍飛行場

戦争ももう負けるという直前の事であるが、JR山陰線↗と府道福知山綾部線(8号)↑の間の水田に滑走路が作られた。海軍高津飛行場と呼ばれている。今は何もその遺構はない。少し西に石原飛行場、長田野にも今も残っていて、この一帯は航空基地が群がっていた。高津飛行場は今の協立病院(真ん中の大きな建物)あたりを真ん中にして実際には600メートルほどしかない短いものであったという。今の府道はその遺構に沿っているのかも知れない、この部分は直線で1.8キロほどあり、将来的にはその位に拡張する計画であったかも知れない。飛行機も艦船もすでになかったが、飛行場は作られた。だってアホだもん、人殺しのノーしかないだもん、世の中の役に立つことなど何一つできないんだもんの見本。こんな連中を誇りとか、どっかのマチなんぞはン十億円もかけてその倉庫を整備して大宣伝している、決して見習うことなきようおすすめする。こんなものを賛美したり、まして復活させたりしてはならない。おしまいだ。

海軍高津飛行場跡
太平洋戦争末期の昭和20年6月、高土井、三反田、長瀬、字州と連なる地に海軍の飛行場滑走路が突貫工事で建設されていた。府道福知山綾部線とJ R山陰線の間の府道側寄りで、京都協立病院辺りを中心とした東西に細長く広がる範囲である。
『ふるさと石原風土誌』には、当時石原付近には日本海軍福知山航空基地の飛行場として、石原と長田野、高津の3カ所に建設中であった。そのうち高津飛行場は長さ600m、巾30mの中訓練用の滑走路が予定されていたと記している。
元々同所は人家等のない水田地帯であったため、終戦後には土地所有者に返還され、各所有者が昭和27年末頃までに元の農地に復帰した。同所に水田を持つ筆者も、子供ながらに農地復帰の作業を手伝った記憶があり、現在でも「滑走路」「飛行場」という言葉や家に持ち帰えられた埋立石などにその片鱗がうかがわれる。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)




高津滑走路
昭和20(1945)年3月から石原の滑走路の南東に「高津滑走路」が建設されていました。それは、綾部市の現京都協立病院付近に現府道に沿って造られた長さ600メートル程、幅30メートルの小規模な滑走路でした。水田にくり石を敷き、その上にバラスを置きローラーで固めていく工法で進められました。くり石は福知山市下天津付近の由良川や兵庫県八鹿付近の円山川の河原から運んできたと言われています。この工事は毎軍の予科練習生達が中筋国民学校(現中筋小学校)の校庭で寝泊まりして進めました。中筋国民学校、以久田国民学校(旧豊里東小学校)の6年生もローラー引きに動員されていました。ここは補助滑走路といわれていますが、この程度のもので本当に滑走路としての役割を果たせたのか、おぼつかない程度のもののように思われます。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)




《交通》


《産業》


《姓氏》


高津の主な歴史記録




伝説


伝承
高津八幡宮の金鳩
社伝によると、奈良時代に法道仙人がこの地に密教練行の道場を開いたといわれる。平安時代に入り元慶五年(八八一)に山城国石清水八幡宮より金鳩が飛んできてこの山に止まり、奇瑞を現したので、時の人はこれを朝廷に奏上した。国司橘良基は勅命をうけてこの地に来て調べたところ、事実であったのでその旨報告した。それで勅命によってこの地に石清水八幡宮の別官として八幡宮が創建されたという。
高津八幡宮には別当寺として極楽寺を設け、盛んなときは五坊の塔頭と千余石の寺領をもっていたと伝えている。明応九年(一五〇〇)に炎上し、社殿・宝物等はすべて焼けてしまったが、このとき焼け残ったといわれ、焦げあとを残す木造の狛犬二体が保存されている。この狛犬は鎌倉時代の作といわれている。
なお現社殿は、嘉永五年に綾部藩主九鬼隆都の援助を得て、宮大工桑原兵右衛門が建てたものである。
第二次大戦後、綾部に遊んだ歌人の吉井勇が次のように歌っている。
  美しき綾部の空を見つつ思う
       今もとべるや金色の鳩
(『綾部市史』)


何鹿の二名木
 何鹿が、かつてもっていた、二つの大樹、二名木のお話をいたしませう。それは、高津町の八幡さんの「銀杏の木」と、志賀の七不思議の一つ「しづく松」の話です。

   高津お山の銀杏木みやれ、枝は観音寺
   葉は長田、影は幅知の城にさす。

 こんな話をしようとすると、ある人は、それはちっこい、もつと大きな話がある。それは「江州(滋賀縣)栗田郡の栗の木は、その大きかったこと、朝日は伊勢でさえぎられ、夕日は丹波でさえぎられた。つまり、この巨木の枝は、伊勢や丹波まで、ひろがっていた」というのです。
 咄も、ここまでくれば、超々的なものとなります。わたくしは、島国日本にも、また、世間せまといわれる、丹波国にも、かつて、こんな雄大な話をもっていたのかと、心ひろびろ、うれしく思うものです。
 大むかしでなくとも、人間は、大樹のウッソウたるたたずまい、それは、幾度かの嵐を耐えてきた大樹-を、みるとき、下世話にいう「立寄れば大樹のもと」というものでなく、太古えの郷愁といいますか、大樹えの思慕は、いまなお、われわれの血に、脈うっています。
 さて、高津お山の銀杏木のことですが(八幡さんのことを、土地の人はお山という)もう、この銀杏木はありません。残念なことには、銀杏木があったという傳承さえ、ぜんぜん、消滅していますが、不思議にも、この歌だけは、実在をぬいて、いまなお、人々の口にときどき口ずさまれてます。火のないところに煙はたたぬ、と、いいますが、かつての実在は、煙の如く消えても歌だけはのこる。こんなことは、世間にはいくらもあることですから、べつに強て不思議と、しなくてもよいと思ます。それでわれわれは、かつて、高津八幡さんの大銀杏木は、この歌どほり近隣を圧して、そびえたっていたであろうと、確信していいでしょう。
 八幡さんの清水芳之宮司に、このことの考証をお願したら「真亭年間 (一六八四)の書類に「市之木」という、地名らしきものがある。また、いまはなくなられたが、塩見皓紀老の話に、いちの木と称した木が、八幡さんの西方傾斜地、小字「上地」にあったと、いうほかに何もない」との御返事でした。銀杏の本を、いちよの木といい、いちよの木を、いちの木となることも、また、ありうることでしょう。したがって、この市之木なる地名、古老のいう、いちの木は、かつてのこの歌の出所と、関係があるのでないか。とも考えられます。
 つぎに、「影は幅知の城にさす」この景観は、豪快な朝日の景色になるわけですが、幅知の城というからには、この城は、光秀築城(再修)いごのものと、いちおう、しなければならぬと思ます。とすれば、高津お山の銀杏の木は、つぎにのべる「しづく松」とは反対に、光秀のバツサイをまぬかれた、名木ということになり、したがって、その消滅は、ごく近世のものとなり、所在もはっきり、しなければならぬことになるが、それが判らないとすれば、いちおう、この城は、光秀以前のものと考えねばなりません。きめ手は、歌にいう「福知の城」なるものが、光秀以前のものの、横山城、掻上城(かきあげ城)あるいは、それ以前の城を、指しているのでないか。
 わたくしの考では、この福知の城は、光秀以前のものであり、したがって、名木お山の銀杏木は、光秀のときバッサイされてなくなった。したがって、この歌も徳川三百年の間、歌に主なき思出となって、だんだん消えつつあるのでないか。と思うのが本当のようです。
 もつと考証を精密にたぐりよせ、今後の綜合研究を、めんみつに組立れぱ、このなつかしい大樹の実体は、ほぼ、わかると思いますが、げんざいでは、残念ながらこの程度でございます。
(『何鹿の伝承』)


高津の大蛇
昔高津に大蛇がいて人々にわざわいして困っていたが、私市に弓の名人がいて東私市の的場から弓を射て大蛇を殺したので、高津の人々は大いに喜び、その御礼として毎年米一升を東私市の安楽寺へ納めるようになったというう。然しこの慣例は四五十年前に消えている。(安楽寺伝説)
(『中筋村誌』)





高津の小字一覧


高津町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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