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丹波の

武吉(たけよし)
京都府綾部市武吉町



武吉(坂根正喜氏の航空写真070719)

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京都府綾部市武吉町

京都府何鹿郡口上林村武吉

武吉の概要




《武吉の概要》
上林川下流域の河岸段丘上に位置する。十倉名畑町の対岸側に位置する。
戦国期の文書に武吉番と見える。丹波国何鹿郡上林荘のうち。永禄8年卯月28日の赤井時家折紙安堵状写に「上林下村内末包番・武吉番・上坂田分事」とあり、十倉九郎左衛門入道に安堵されている。
武吉村は、江戸期~明治7年の村。何鹿郡上林郷のうち。旗本城下藤懸氏知行地。村内南方の峠を経て船井郡和知村に通ずる。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。同7年忠・佃・武吉の3ヵ村は合併し建田(たつた)村となる。
武吉町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。もとは綾部市建田の一部。旧武吉村の地域。


《武吉の人口・世帯数》 125・55


《武吉の主な社寺など》

若宮八幡宮

若宮八幡     武吉村 産神
祭ル神      祭礼 六月十五日 八月十五日
舞堂鳥居 古ハ十倉村モ氏子ナリト云
(『丹波志』)

八幡宮
一、所在地 何鹿部口上林村大字建田小字宮の脇(武吉)
一、社 名 村社 八幡宮
一、祭 神 応神天皇
一、事 由 創立の年代其沿革等は詳にする能はずと雖、往昔は隣村十倉と同氏神なりしが、祭典式の儀に付争論を生じ、終に分離し其分霊を以て奉祀し、十倉は一社を建立して若宮八幡宮と號し氏神となせしこと古老の口碑に存す。是に由て之を考ふるに、十倉は文亀二年壹鞍神社を移して氏神となす迄はこの八幡宮を以て氏神となせし由
伝説あれば、本村の当社を創建せしは蓋又文亀二年以前の事なれば夫れ或は文明十八年以前なるやも知るべからす。
其後安永五丙申六月十五日再建工事落成す。又文政九年戌九月神祇管領公文所の書あり。左に
 丹波何鹿郡上林武吉村鎮座
          八幡宮
  右依願神名帳ニ所被記如件
      神祇管領長上家
  文政九年戌九月 公文所(印)
  明治十六年社寺御調査の際村社八幡宮となる。(以上記録元文)
一、建物
 社殿 桁行六尺 梁行六尺 此坪数壹坪 安永五年六月十五日建築
 境内末社
  八阪神社 桁行壹尺 梁行壹尺 此坪数三勺 安永五年六月十五日建築
  稲荷神社 桁行一尺 梁行一尺 此坪数三勺 安永五年六月十五日建築
  休憩所 桁行六間半 梁行二間 此坪数十三坪 寛政十戌牛年建策 (昭和五年取こわし)
  社務所 桁行五間 梁行二間半 此坪数十二坪半 昭和十五年建築
  倉庫 桁行二間 梁行一間半 此坪数参坪 安政五年再建
一、境内地 地積 官有地第三種 坪数参百壹坪 位置平地
一、例祭日  十月十五日
一、氏子戸数 七拾貳戸
(『口上林村誌』)


臨済宗梅林山玉泉寺



大日堂↑
案内板→
玉泉寺の文化財
武吉町西にあり、臨済宗南禅寺派一等地で、本尊に釈迦・文殊・普賢三尊仏をまつる。梅林山と号し慶長六年(一六〇一)能登嶽峰恵林禅師の開創と伝え、はじめ玉詮庵と称した。嘉永七年(一八五四)火災のあい、慶応元年(一八六五)再建、明治十七年玉泉寺と改称。明治三十三年(一九〇〇)寺門・梵鐘堂を建立する。寺宝に大般若経六百巻・涅槃像・十六善神・白衣観音図がある。観音図は室町時代の画家、霊彩の筆になる紙本淡彩墨画で重要美術品であり、昭和五十年(一九七六)綾部市文化財の指定を受けた。現在京都国立博物館に寄託中である。
猶、元、深山(みやま)にあった真言宗の薬師寺にまつられていた大日如来座像が、天正年間の取りこわしや明治六年(一八七三)の廃仏毀釈の難にあいながらも、村人による護持と玉泉寺の理解を得て、昭和六十年(一九八六)境内に建立された大日堂にまつられ、その後傷みの激しかった仏像の修理も完了し、寄木づくり、彫眼で平安末期の様相をもつ鎌倉時代の地方仏師の見事な作として昭和六十三年(一九八九)綾部市文化財の指定を受けた。
平成十一年十二月 玉泉寺


梅林山至詮庵 禅臨済宗京南禅寺末
                武吉村
本尊 釈伽如来
(『丹波志』)

玉泉寺
一、何鹿部口上村大字建田小字西(武吉)
一、禅臨済宗南禅寺派一等地 現住職 三木明応
一、本 尊 釈迦文殊普賢の三尊仏
事 由 梅林山と號し正保元年能登の高僧獄峯禅師遊錫開創せられたるものといふ。安政元年火災に遭ひ伽藍什
宝を失ふ爾後仮寺を設けて居たが、慶応元年之を再建し今日に至る。
一、建物
  本堂庫裡 此坪数 七三坪八合四勺
  鐘楼    〃   二坪二合五勺
  山門    〃     八合一勺
  土藏    〃   五坪四合一勺
  納屋    〃   八坪○合五勺
一、境内地   参百九拾五坪六合五勺
一、宝物 大般若六百巻、涅槃像、十六善神、観音図等
寺宝観音図は尺五紙本の小品であるが、霊彩の筆であること確実で、その伝来の経路が詳かでないが、中興臨川和尚の頃将来されたもでないかといわれてゐる。霊彩といふ人は明兆の流れを掬むものと言われてゐる、室町時代の優れた画家の一人で、この図は淡彩岩上の観音図で鋭い筆力の冴え方は比類のない逸品で、左下の岩中に細字で霊彩の欸と、脚踏実地の印があり.重宝美術参考品として、京都博物館に保管されてゐるが、近く国宝に指定されるであろう。
因に霊彩の作品で世に知られてゐるものは現存わずかに二品で、三教図(守屋家藏)、寒山図(原家藏)で何れも国宝に指定されてゐる。この観音図が寺中に埋れてゐたものを現住職によって世に出されたもので、発表と同時に研究家の参集、文部省事務官の視察等あって、関西に於ける唯一の霊彩作品として尊重されてゐる。
(『口上林村誌』)

市指定文化財
白衣観音図 一幅 室町時代 梅林山玉泉寺(武吉町)
         紙本淡彩墨画
         縦九二・六センチメートル
         横三七・八センチメートル
玉泉寺は臨済宗南禅寺派に属する寺で、この観音図は霊彩筆と伝えられている。霊彩は室町時代中期の東福寺の画僧で、明兆の弟子である。この図はねばりのある線で描かれ、人物が画面に比して小さく、周辺に景物が配されて山水画に近づく趣きをもっている。現在京都国立博物館に寄託中である。
(『綾部市史』)

*まちの文化財〈33〉*災難をくぐり安住の地に*大日如来坐像*綾部市武吉町・玉泉寺*
 上林川の清流と山の緑に囲まれた静かな禅寺。境内にひっそりと立つ御堂の中に安置されている。大波多哲丹住職(三三)の手で扉が開かれると、日輪を表す後光を背に、手印(しゅいん)を組み鎮座する姿があった。
 臨済宗の禅寺と、真言宗の宗派で本尊とする大日如来坐像。一見、不思議な組み合わせは、この仏像の数奇な運命を物語る。戦国時代、一五八〇年ごろ、武吉町の山中にあった真言宗薬師寺の本尊として安置されていたが、明智光秀(生年不詳-一五八二)が福知山城を築く際、建築材料を得るために同寺を取り壊した。住む所を失っ仏像は、以後、村の民家や庵(いおり)を転々とした。
 明治初期、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の難をのがれた後も、村人の有志が「大日如来講」をつくり、村内に辻(つじ)堂を建てて守った。一九六〇(沼和三十五)年、辻堂の傷みが激しくなり、当時の玉泉寺の住職が村人の頼みを引き受けて、宗派にこだわらず仏像を引き受け安置。寺の本尊とは別の客仏として、現在に至る。「かわいそうな仏像ですが、いまでは地域の人から『大日さん』と呼ばれ親しまれています」と檀家の一人、四方民子さん(七三)=武吉町=。安住の地を得た仏像は、やすらかに山村の地を見守っている。
〈メモ〉1988(昭和63)年4月、綾部市文化財に指定。像高90.8㌢。彫眼・寄木造り。膝がへん平で、ひだの彫りの形式化などが見られるこさから、鎌倉後期から南北朝のころの作とされる。
(『京都新聞』(97.11.20))


荊城山薬師寺古跡
「丹波志」
荊城山薬師寺古跡、深山ニ古跡、字ニ大御堂小御堂ト云所ニ七堂伽藍五丈斗滝アリ、天正年中明智光秀福知山城エ引諸仏残リ村エ引取三間四方薬師堂建立安置ス


金刀比羅講

武吉・佃・忠の3ヶ村で行われる金刀比羅講(宝永講)は、宝永6年(1709)に始まると伝える。時の代官の暴政を江戸へ直訴しようとした農民が金刀比羅大権現の加護によって大願成就したところから3ヵ村で毎年輪番に講元をつとめることになったという。特定の社殿をもたず講元の民家の表座敷に神璽を祀り、1年間自宅の表座敷を社殿とする。11月10日の大祭には大いににぎわうという。

金刀比羅講(宝永講) 建田
口上林の建田(武吉・佃・忠)に、金刀比羅講(宝永講ともいう)が三町区全員の講として行われている。この講は宝永六年(一七〇九)にはじまるといわれ、それより二六〇余年にわたりつづけられている。
この講の由緒は次のように伝えられている。江戸時代にこの地は旗本藤懸領であった。宝永のころたび重なる水害にあい、農民は苦しみあえいでいたが、代官は年貢の減免を行わずきびしくとりたてた。この暴政を幕府に直接訴えようと、三人が死を覚悟して江戸に向かうことになった。その旅費を於与枝村の吉崎五左衛門に出してもらい、和知大簾の民家で旅仕度をととのえて出発した。これを聞いた代官はすぐに追手をさしむけたが、大井川が洪水で川止めになり、先に渡っていた三人は無事江戸につき、幕府に訴え出ることができた。この願いはかなえられ、代官は罰せられて領民は救われた。農民たちはこの越訴が成功したのは、日ごろ金刀比羅宮を信仰し、願がかなったときは千年講を行ってお祭りすることを誓ったその霊験によるものとし、それより金刀比羅講をつくって毎年盛大なおまつりをするようになったというのである。
こうした由緒によるものか、この講にはいろいろ特色のあるしきたりがある。その一つは、金刀比羅大権現を奉斎する特定の神社をもたず、講元(本陣ともいう)とよばれる家の一室を社殿にしつらえ、床の間に神をまつるのである。毎月十日の例祭、十一月十日の大祭はこの講元の家で行われる。この講元は一年ごとに交代し、武吉・佃・忠の順に、その町区内の一軒の家がうけもつ。講元が交代するときの儀式を「戸渡し式」という。式は当年の講元の家で行い、神主の祝詞奏上と玉串奉奠のあと、当年の講元へ 「戸渡し」といって、昔から引きついできた御正体の納められた木箱を引きわたす。これが式中心である。この式には当年・次年の講元・自治会長・世話係が列席し、各人に膳が用意され、献立は図のように定められている。
 平わんのふたは盃の代わりで、大根・ゆず・とうがらしは肴である。三義人が江戸から無事に帰村したとき、村人たちがありあわせの肴で酒迎えをした名残りであるといわれている。
大祭は十一月十日に行われる。当番町区の講員は前日から準備し、当日は全員が出てそれぞれの役割を分担する。多数の講員と千人をこす参拝者の案内や世話は大仕事である。この大祭には於与岐の吉崎家と大簾の自治会長が招かれ、両者とも毎年参拝するという。講の由緒がいまに生きているのである。
この講は宝永講とよばれてはじめられたが、明治二十年には、讃岐の金刀比羅宮の崇敬講の社中に入った。毎年本宮へ代参を送って賽銭を供えており、また、いつの式にも本宮の遥拝を行っている。
江戸時代の一揆に発したこの講が、その伝承を講の形に生かしながら、いまもなお盛大に行われていることは注目すべきことである。
(『綾部市史』)

苦しむ農民を救った金毘羅さま  ●建田の金毘羅講と農民騒動
上林川下流域の河岸段丘に忠町・佃町・武吉町の家々が点在する。この三か村は明治七年(一八七四)に合併し、それぞれの頭音をとって建田村と呼ぶ行政村を構成し、同二二年まで存続した。そこでいまもこの地域を建田と呼ぶ。この三か村は、江戸時代初期には旗本藤懸氏の所領であったが、元禄二年(一六八九)三代永俊は本家領(城下藤懸・四、五〇〇石余)から四男永久へ五〇〇石を分知し、代官所を小山に置いて小山藤懸領とした。このとき佃村から五五石余が分知されている。残る佃村分と忠村・武吉村(合わせて四〇〇石余)は本家領として存続したが、治政にはほとんどかわるところがなかった。
この三か村に次のような越訴(おっそ)事件と、それに因み始められたという金毘羅講が伝承されている。「江戸中期、藤懸領代官の圧政に苦しんだ三か村の農民が越訴をくわだて、三人の青年を代表として江戸へ送った。三人は決死の覚悟で江戸へ下り、村の窮状を訴えた。その途中の追っ手の追及も奇跡的に逃れ、無事に大願を果たしえたことを金毘羅大権現の加護の賜ものとして、その後三か村が輪番で金毘羅講を受け継いできた。」
この講は宝永六年(一七〇九)に始まったと伝え宝永講社と称し、明治二〇年には本宮の崇敬講社に加入を認められた。今も毎年本宮への代参を欠かさない。講元は一年間自宅の表座敷を社殿に見立てて御神体を祀り、毎月一〇日の例祭や不時の参拝に備える。三か村のみならず近郷からも大病平癒祈願などの参拝者が絶えない。一一月一〇日は村あげての大祭で、丹後や若狭からの参拝もあり、沿道の露店は上林谷随一の賑わいとなる。
ところで先述の越訴が起こったと思われる宝永頃、この地方では農民騒動が頻発していた。史料が残るものだけあげても上表の通りである。このなかには庄屋が先頭に立って減免を訴えたものもあるが、大半は小百姓が代官や庄屋の恣意的な支配を弾劾したものである。
なかでも稀にみる大弾圧事件であったのが、貞享元年(一六八四)隣接の十倉谷氏領で起こった騒動であった。この年、年貢未進(滞納)のため江戸奉公を命ぜられていた農民一四四人が、連判して江戸役人に窮状を訴えたが容れられず、ついに幕府評定所へ直訴に及んだ。結果は「無法の類」として獄門三人・死罪一人・牢死三人・両国追放七人・所払一三〇人、それに妻子合わせ三二四人が追放され、四一年後の享保一〇年(一七二五)に子孫二〇四人のみが帰村を認められた。
先に述べた建田三か村の越訴の年は具体的に分からず、また肝心の訴えの内容も不明であるが、その以前、当の三か村が延宝・貞享期に訴えた訴状の断片には、代官の苛政や庄屋のわがままな言動が列挙されていて、越訴の内容がある程度推測がつく。それにしても、十倉領の大弾圧を目のあたりにしながらなおかつ三人の青年たちを奮い立たせたものはどのような思いであったのだろうか。         (川端二三三郎)
(『図説・福知山・綾部の歴史』(図も↓))



金比羅祭由来記  口上林の三義人  (浪曲作詞 松尾三郎作)
上林の城主藤懸三河守永勝は、織田右馬亮永継の長男で剛勇無双の譽れ高く、幾度か大功を樹て、信長、秀吉等に優遇せられたが、関ヶ原合戦に豊富方に属した爲、徳川に睨まれて六千石に減封せられ、上林城主となつた。永勝の一子三歳永重は、慶長十六年三月十七才で二代城主となったが、家老筒井玄蕃は旧主家の復興を計ろうとする豊臣の残党とひそかに気脈を通じ一味から陰某達成の爲に軍資金調達の密令を受けたのであった。そこで玄蕃は城主永重の弱冠にして政給に疎いのをよい事にし、腹心の者達と共謀して苛斂誅求の暴挙に出たのである。飽くなき重税と、容赦なき厳罰に、農民の生活は根本的にかき乱され、いくら働いても働いても増徴又増徴で、毎日の衣食さえも覚束なく、農民たちは餓死の一歩手前迄追いつめられて、生きた心地もなく領内は全く戦慄すべき地獄の様相を呈したのである。家老玄蕃の誅求旺益々はげしく、言語に絶した重税や徴発に堪えかねて、先組代々住みなれた故郷を捨てゝ涙ながらに流浪の旅に出る家族もあれば、完納の出来ない爲家財を没収せられた上に、牢獄につながれて明け暮れの攻め苦にあわされ、弊死するものもあり。領民悲歎の声は憎悪の声となり、呪詛の声となり、全領内は全く廃滅の悲運に陥ったのである。
此の時期せずして起ち立った決死の三義人がある。佃の義平、忠の伊左衛門、武吉の善助何れも血気の青壮年、死を以て領民の苦しみを救はんとつね三人は密かに協議をこらしたのである。たまたま三義人善助の婚約者である御殿女中の小百合から、玄蕃陰謀の眞相を聞かされた三義人は、血涙の嘆願書を認めて玄蕃に哀願した。二度三度回を重ねたが聞き入れるどころか、小百合の内報によれば三義人の身辺には生命の危険さえも迫って居ると云う有様であった。
小百合の内報した様に事実、家老玄蕃は邪魔になる三義人を亡きものにせんと、既に手配して居たのである。而し ??当時にあつて農民が幕府の閣僚に直訴するなど、全く死以上の冒険であることを三義人は充分承知しながら、敢てこの冒険を敢行せんとする所、最早生死など問題にはして居なかったのだ。然しながら唯気にかゝるのは必ずや一味からそれぞれ家族に加えられようとする後難である。これきはさすがの三義人も頭を悩ました。かくて、佃の義平は何も知らぬ妻子を離別した。泣いて詫びる最愛の妻子を邪慳に突き飛ばして追ひ出して了つたのだ。忠の伊左衛門は庄屋の次男坊としてまだ独身であったが、わざと遊興放蕩に身を持ちくづして遂に勘当の身となった。武吉の善助には「およし」と云う一人の老母があり而も善助は人一倍の孝行者で、母一人子一人の淋しい生活にも、温い家族愛が漲って居て村中の賞讃の的であった。
善助の母およしは熱心な金刀比羅信者であった、かつて四国の金刀比羅さんへお詣りした帰り道、浪速の船中で激しい中毒にかゝり、既に一命も危く見えたが、頂いて来た金刀比羅権現の御神符の霊験で奇しくも助かったのであった。およしは息子善助の大望をそれとなく察して居た、身を殺して仁をなさんとする神の様な大愛の義心を「我が子ながらもでかしたもの」と、心に探く賞讃して居たのであった。それにしても孝心深い善助がこの母故に心をにぶらせて大事を仕損じてはならぬと、千々に心を砕いた末遂に悲壮な決心をしたのである。或る日およしは例の霊験あらたかな御神符を善助に授け、「心をこめたる此の御神符におすがりすれば必ず御護り下さる」と言ひ聞かせた。そしてその夜善助の大望成就を激励する愛情の遺書を認めて雄々しく自刃した。翌朝、善助は尊い母の死骸を伏し拝みつゝ、悲痛限りないものがあったが、それと共に鉄石の決意は更に加り、「今は思ひ残すことも更になし」と、勇気百倍して大事の決行に拍車をかけたのである。
収穫の秋を終えて連日降り続いた大雨は上林川の水嵩を増し、五津合の合流点附近一面の廣い田地は重く垂れた折角の稲穂も濁流に呑まれて、村人は気が気でなく天を仰ぎ地に伏しつゝ愁歎の声を放つのであった。苛斂又誅求にしいたげられた上に、此の大洪水最早や此の上は一日も猶予ならじと、三義人は愈々決意を固め、其の夜旅ごしらへも厳重に、将軍橋の快に落合ひあやめも分らぬ夜陰に乗じて、篠つく豪雨の中を出立し、鉢伏山の周辺を辿って京街道へと姿を消したのであった。当時村内に「ならず者の熊」と呼ばれて居る無頼漢が居た、村人いぢめを毎日仕事として暴れ廻り、毛虫の様にきらわれで居た。比の「熊」はかねてから.善助の婚約者である小百合に横恋慕して居たが、全然見向もされぬので恋の届かぬ意趣ばらしと、褒美の金を目あてに三義人の行動を家老筒井玄蕃に密告したのである。玄蕃は驚き怒って早速腹心の部下に意を含め三義人顔見知りの「熊」をも加えて追手に向はしめた。かくて三人の追手は見付次第三義人を切り斃さんと勢ひこんで追跡の歩を早めたのである。
「身を殺して仁をなす」人類最高の大愛、重税に苦しみ抜村人達を救はんの一念に、決死江戸行の途についた三義人は、誰もが生きて再び村に還ろうなどはつゆ考へても居ない。すべてを運命の手に委ねつゝ張りきった心で急ぎに急いだのである。所が濱大津から瀬田の途にかゝつた時一行の一人善助が突然腹痛を訴え出した。必ずや追ってがつけて来るであろうと予期して居たわで心も心ならず、いかがはせんと悩んだ。しかし病気には勝てず、まだ昼も過ぎたばかりだつたが止むなくとある宿屋へ泊りこんだ。三義人が宿屋へ辿りついて、間もなく三挺の早籠がその門前を飛ぶ様に急いで行ったが、それはまぎれもなく三人の追手であった。善助が腹痛を起した計りに全く危い所で三義人は追手の目を免れたのであった。その翌日善助の腹痛はけろりと忘れた様に全快した、三義人は宿を出て彦根行の水路を走り、関ヶ原を杉い尾張に向い、熱田の宮に詣でて大願成就の歎願をこめた、それから旅又旅の道を急いで名にし負ふ大井川にさし掛った。たまたま大井川は近来稀な大雨の爲に、数日前から川止めとなり、渡し場には大きな木札が張り出されて居た。泊り合せた同じ宿屋の廊下でふと熊の姿を認めた三義人は身の危険を感じて急遽其の夜の内に宿を出て、渡し場へ向つた。所が風呂場に置き忘れた姓名入の手拭から、三義人の逃れた事を知つてたた三人の追手は、直ちにその跡を追った。十四の頃から五十年のこの方、大井川の船頭として「大井川の主」と呼ばれる源藏は深い金刀比羅信者で「金刀比羅わ源」とも呼ばれて居り、侠気満々たる老骨であった。渡し場に着いた三義人は源蔵に凡ての事情を打ち明けて一瞬も早く船を出して頂きたいと歎願した。事情を聞いた源藏は濁流逆巻く暗い水面わしばし見つめて居たが、「承卸した」とカ強く言い放った。そして素早く船を用意して三義人を乗せたと思ふと、一楫強く船はまさに岸を離れようとした此の時、早くも三人の追手は渡し場に追って来た。先頭に立った熊は「その船待った」と大声に叫びながら飛乗ろうとして仕損じ、あっと言ふ間に濁流に呑まれて了つた。源蔵は力強い声で金刀此羅大権現を唱えながら、名にし負う大井川のたゞ中へ濁流を物ともせず突き進んだ。矢を射る様な暗夜の急流に船は容赦なく押し流されたが、老練な源歳は巧みに船を操って遂に無事に彼岸に達した。三義人は三拝九拝して源藏に深謝しつゝ、闇の東海道筋を急ぎに急いだ。漸く江戸に着いた三義人は種々苦心の末時の老中に直訴、即ち嘆願書を提出した。それには家老筒井玄蕃の苛斂誅求の事実と共に、豊富残党の陰謀の一端もほのめかしてあったので、老中は事を重大視して閣議を開いた。次いで三人は柳営へ呼び出されて種々下問の上、その功を賞され、労をねぎらわれたのであった。上訴の成否を案じつゝ時には無礼打の刑に處せられるやも測り知れないと、予て覚悟を定めて居た三義人に取って、比の上なき上首尾は全く夢の様な喜びでもあり、之れと云うのも金刀比羅大権現の御加護によるものと、三義人は例の「御神符」を伏し拝み拝み互に手を取り合って泣きに泣いたのである。
三義人の上訴によって幕議一決直ちに、京都所司代への急使となり、筒井玄蕃一味は根こそぎ極刑に處せられたのであつた。年若な城主藤懸永重は眼が覚めた様に我が身の不明を恥じて、領民の前に不徳を詫びると共に、三義人決死の美挙を心から賞揚して、多分の褒賞を与へた。かくて台風一過、上林の領民はひとしく安堵の胸を撫で下ろし、三義人への心からなる感謝と尊敬の念をこめて、領内こぞって大祝賀会を開き今更の様に「金刀此羅大権現の御神符」の霊験あらたかなのに感歎した。そして之れを永久に称えん爲、毎年十一月十日を期して武吉、佃、忠の三部落が交代に盛大な「金刀比羅講詩」をするのであるが、三百年来此わお祭は益々賑やかになり今日でも遠くは福井縣兵庫縣あたりからの参拝者が多い。
(『口上林村誌』)

口上林の三義人      綾部市・口上林小 六年 渡辺秀行
十一月十日、ぼくたちが毎年お参りに行く金比羅さんは、今からおよそ二七〇年前から続いています。この祭りは金比羅さんを始めたころの年号をとって、正しくは宝永講というのだそうです。祭りは口上林の忠町、佃町、武吉町の三つの村がいっしょになって行なわれています。
江戸時代に藤懸という殿様が百姓から重い年貢をたくさんとりたてました。五公五民とか、ひどい時は七公三民といわれるひどいものでした。大水が出て田畑は水につかり作物がほとんどとれない年がたびたびあったそうです。農民たちは年貢を負けてもらうよう殿様にたのんだが、いつもと同じようにと言って農民たちを困らせました。直接殿様のところにたのみに行った農民は、ひどいことに首を切られ、田や畑はとり上げられ家族は村を追放された。殿様は「この村には、こんな悪いことをした者がいる」と立札に書いて村人に知らせ二度とこんなことをおこさせないようにもしました。
農民たちはそんなひどい殿様はかなんから、十倉町の谷倉人という殿様にかえてほしいと願い出たそうだが、聞き入れられず、反対に百三十人もの人が追い出されました。ぼくはなぜそんなひどいことをするのかわかりません。
武士たちがいい暮らしをするために百姓を犠牲にしています。武士たちは農民のように田畑でえらい仕事をしないで楽な暮らしをしているのだから少しぐらい百姓の言い分を聞いてくれたらいいのにと思います。
農民たちはがまんしきれずに、幕府へ直訴することを考え、口上林の武吉、佃、忠町から三人の代表が選ばれました。代表を決めるまでには何回も集まりを開いては相談し殿様に知れないように、いろいろと方法を考えたことだろう。
江戸までの旅はずい分たくさんのお金がかかったそうです。そこで山一つこえた東八田の吉崎五左衛門という人にたのみ、こころよく引き受けてもらったものの三人は死を覚悟して江戸へ向いました。直訴が成功するようにと神さまの力も借りて金比羅さんにお祈りし、願いがかなったら千年の間、お祭りを続けることを村人たちは誓いました。
三人の代表はみんな若くて元気で、りっぱな人ばかりだったと思います。三人は江戸へ急ぎました。川止めに会ったり追っ手がかかったにもかかわらず無事江戸に着き、さっそく幕府に訴え出ました。神様も三人に味方をしたのだと思います。「農民の願いは無理はない」といってかなえてくれました。今までの殿様は他の土地に代わらされました。村人はみんなの力で願いがかなった事を喜び、金比羅さんのおかげと信じました。三人の代表は武吉の善助、佃の儀平、忠の伊左衛門といいます。本当に立派で勇気のある人たちです。
このことが始まりで口上林の金比羅さんは今も続いています。ぼくは今度のお祭にはその事を思い出してお参りします。
(『由良川子ども風土記』)

いつだったか、通りかがった時は、府道ぶちの民家がそうだったようで、何なのかえらくドハデに祀られているな、と思った記憶がある。
今も続いていて、テレビなどでもよく取り上げられている。11月の第2日曜日となっているという。しかしである。

*住民持ち回りのご神体、309年歴史に幕 京都・綾部で遷座祭
「建田(たつた)の金刀比羅さん(建田宝永講)」のご神体を、新築した社殿に移す遷座祭が10日、京都府綾部市の口上林地域で営まれた。住民が1年交代で講元となり、自宅を「神社」にして祭る珍しい形態を309年間続けてきたが、高齢化で担い手が減少。社殿で恒久的に祭った。
 講元を1年間務めた浦入富雄さん(50)宅=同市武吉町=から、木箱に収めたご神体などを手にした講員らが出発。1・3キロ先の社殿(同市佃町)に移した。11日午前7時~午後3時は大祭を社殿で営む。
 建田の金刀比羅さんは、幕府に藩の圧政を直訴した3村の若者3人の偉業を伝え、道中を加護した金刀比羅大権現を千年間祭る講。元3村の武吉町、佃町、忠町の講員らによって続けられている。
 浦入さんは「形が変わっても、3人の若者への思いを大切にしてゆきたい」と話した。ほかの講員たちも祭礼を継承する思いを新たにしていた。
(『京都新聞』(2018.11.11))


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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