丹後の地名プラス

丹波の

館(たち)
京都府綾部市館町


赤国神社(鉛筆の示す森)の周辺。弥生以来の集落か。水田面より2、3メートルは高く残丘といった所。西側上空より2007
以久田野丘陵の西の端にある。楞厳寺はこの丘陵の南の端にある。古い遺跡だらけの地。

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京都府綾部市館町

京都府何鹿郡豊里村館



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館の概要




《館の概要》

犀川の下流東岸に位置する。府道綾部大江宮津線(9号)が南北に貫通、若狭舞鶴道が交差するあたりの北側。
館村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。栗村組9村の1村。
明治4年綾部県を経て京都府に所属。同22年以久田村の大字となる。
館は、明治22年~昭和30年の大字名。はじめ以久田村、昭和24年豊里村、同30年からは綾部市の大字。同年館町となる。
館町は、昭和30年~現在の綾部市の町名。


《館の人口・世帯数》 230・87


《主な社寺など》


赤国神社境内周辺遺跡・館遺跡など

弥生から古墳時代の遺跡だらけの地(京都府の遺跡地図より)
Aは館遺跡(弥生~中世)
Bは館城跡
Cは館古墳群
Dは畑山古墳群
Eは以久田野古墳群(栗町になる)

石器時代の遺蹟
石器時代の遺蹟が発見せられるのは極めで少ないが、その中でも木村赤国神社の境内附近はその稀少なものの一つあり、己に石斧砥石、弥生式土器、鉄滓等が発見されている。この地域は丹後函石附近に住んでいた古代人が、由良川を遡って犀川との合流点に到達し、この地域で文化を哺み育てたものと思われる。この文化を研究することは、石器時代より金石併用時代までの生活を明らかにする有力な手がかりとなることであろう。
ここに住した古代人が、やがて豊里西地区の文化を広め、以久田野周辺の文化を播めつつ、綾部の平野を開拓し、後述する古墳群に永眠する主となったものであろう。
これと略々同時代の遺蹟として近辺にあるものには、観音寺の丸山、阿此地神社附近、白波瀬橋附近等がある。
(『豊里村誌』)

綾部で弥生時代の遺跡が最初に発見されたのは、大正七年のことである。館町赤国神社境内の土木工事の際、弥生式土器が発見され、その土器は、いままでに発見されている土器の中では最も完形に近いもので、鉢・高杯・壷などがあり、製作技法や形から、弥生式後期の特徴を備えている。また同じころ、赤国神社拝殿付近やその周辺で、石斧二個と鉄滓が発見された。鉄滓は、鉄器の使用をしめす重要な資料である。
最近になってからも、石斧・石鏃・石錐・砥石などが合わせて十数点発見され、その中には、瀬戸内か出雲地方の産出と思われる黒曜石製の石鏃などもあって、文化交流の一面をしめしている。
これらの石器や土器の出土から考えると、弥生時代の中期ないしそれ以前から、ここに人びとが生活していた可能性が大きい。このことは遺跡の立地を見てもいえそうである。
館遺跡は犀川左岸の台地上に立地する。この台地は以久田野から連なる低い丘陵の端部で、東西・南北ともに三〇〇メートルほどの広さの平坦面をもっている。また、この台地の西部には、犀川の沖積平野が広がり、台地と現在の水田面との差は数メートルである。赤国神社付近の台地上に住居を構え、犀川の氾濫原を水田として、農耕を営んでいた人びとの生活が想像できるのである。時代がさがり古墳時代になっても、この地が背後の山地に点在する以久田野古墳群や、高谷古墳群のような古墳群を生みだす力を養ったことも考えられる。
(『綾部市史』)

由良川流域で古くから知られている遺跡に赤国神社境内周辺の弥生式土器出土地がある。赤国神社は由良川の支流犀川の左岸台地上にある式内社で、現在は綾部市館町に属しているので館遺跡と呼ばれている。大正時代に赤国神社境内地の工事により、弥生式土器片、磨製石斧が発見されたことが報告されているが、その後の本格的な発掘調査は行われていない。したがって、住居跡などの遺構の詳細は明らかでないが、土器片の散布状況から推定して遺跡は東西、南北とも三○○メートル以上の広範囲を占めるものと考えられる。館遣跡出土の弥生式土器は第四様式に属するものが多い。
(『大江町誌』)


赤国神社(式内社)

府道綾部大江宮津線(9号)からこの鎮守の森が見える。西側から楞厳寺へ入る道ブチにある。そこにこんな案内板がある。

赤国神社
祭神 瓊々杵尊、猿田彦命、天宇須女命
何鹿郡式内社十二座の一社。丹国社、後に赤国社と記し、稲葉山の宮の段に奉祀されていたという。慶長五年の兵火により類焼、什器記録を焼失した。
江戸時代の初期まで、旧暦の八月の十日祭に梅若太夫の能楽が奉納されたという。宝物(文の鳥)は神輿に附する銅製の鳳凰で『正和三申刀九八日下司源光高』の銘を有し、当社の由緒を物語る市指定文化財。境内発見の八稜鏡は藤原期の作である。
大正年間、当社近隣での石斧、鉄滓、土器の発見は、当地方考古学研究の先駆となった。
綾部市指定文化財 文の鳥
正和六十年八月  綾部の文化財を守る会

境内にもう一つ案内があるが、省略して文献は、
正一位赤国大明神 式内神名 西栗村 内館ニ
 祭ル神    祭礼八月十日能祭礼御輿九月九日流鏑馬
本社三社作 一間ニ二間 舞殿 鳥居 社家京エ引 後入一軒三代目青木浅右衛門分レ 在中ニ神女福林氏栗村巫女ト云 凡社地百間四方 館 長砂ノ間 旅所 五ケ立合 祭礼西栗村東栗村惣同日祭 往古三座伝曰昔時大嶋明神ハ此所ノ君ナリ 此君ノ妻ハ大川明神ナリ 大嶋ノ神故有テ赤国ト云所ノ君ノ姫ヲコヒ玉ヒシ故 此所ニ迎玉ヘリ 大河ノ神是ヲネタミ玉ヒ 或時赤国ノ姫ト大河ノ神 樹木カ岡ニアソヒ玉ヒ 大河ノ神桑木ノ枝ニテ赤国ノ姫ノ眼ヲ突玉フ 此ノ間ニ桑木不生ハ此故ナリ 此時赤国ノ姫塩岳山ノ方向 是ヲ祈リ玉へハ 塩岳山ヨリ流レ出ル川水 潮ノ如ク塩水流レテ 今此川ヲ北川ト云 此所ニテ浄メスルヲ塩ゴリカクト云 此川水ニテ目ヲ洗玉へハ本ノ如タニ成玉フ 此姫寄特トモ多ケレハ 大河ノ神御心ヲヒルガへシテ親シミ玉フナリ 此謂ニ氏子昔ヨリゴゼ座頭多シ
往古近衛公丹後文殊ニ参行ノ下向ニ此所ニ宿シ玉フ則御領ニ付 正一拉ノ額ヲ玉フ故ニ禁官也 其後石河備後守殿領地住居 福智山城主小野木縫殿之助卜組テ丹後田辺細川幽斎公ヲ責 石田治郎少輔没落故 領地放ナリ帰陣無ト云 此時当社大破ス宝物文ノ鳥 銘ニ正和甲寅九月八日源ノ光尊ト有り
鰐口銘応安四年七月十日ト有 是ヨリ二町斗東ニ薬王寺社アリ 延書式神名帳ニ赤国ノ神社是也
(『丹波志』)

赤国神社 館村赤国大明神を指定せられたり。現今、以久田村字館に鎮座。

以久田村字館小字宮の前にあり。明治六年郷社と公定。瓊瓊杵尊、猿田彦命、天宇須女命を祭る。現今氏子二四〇戸、館、今田、石原、小貝、三宅、長砂、福垣、大畠これに属す。徳川時代には田地八畝二十四歩の社領あり、八月十日、九月九日の両度祭礼ありしが、現在は十月九日に定まれり。左の一文は元禄三月九月の記録にかかる。祭は八月十日、其の昔は能く興行仕り候由、中古より八田郷高槻村梅若大夫と申す楽人、例年面を掛け来り候由、四十年ばかり以来、失例を候。祭九月九日神輿奉出、競馬有り御旅所は長砂町の上。
(『何鹿郡誌』)

赤国神社
所在=綾部市館町宮ノ前
祭神=瓊瓊杵尊・猿田彦命・天宇須女命 「渡会氏神名帳考証」によると下照姫
由緒=社伝によると、もと丹国社と書いたが、のちに赤国社と書きかえたといい、はじめは稲葉山の尾根続きにある宮の段にまつられていたと伝えている。慶長5年兵火に類焼し、什宝記録を焼失した。江戸時代のはじめのころまで旧暦八月に行う十日祭りには、五穀豊穣・悪疫退散を祈って高槻の梅若太夫が能楽を奉納したという。
(『綾部市史』)

赤国神社
所在 豊里村字館小字宮の前
祭神 瓊々杵尊、猿田彦命、天鈿女命
由緒 旧記遺文等証馮すべき類は無い。古伝によれば、上古は丹波国一社なる故丹国の社と云いしが、瓊々杵杵尊は別に丹仁尊と称すると以て、恐懼して赤国と改めしものなりと云う。
境内に廻廊の跡あるは往古の規模を証するものか。中古、京都より神官差遺され社務を執りしも、僻里の故に帰京せりと。又元亀天正の頃か、兵乱あって、社殿その他一切灰燼に帰すと。天正年中、近衛殿竜山公丹後国天之橋立遊覧の途次、当社の旧記・故実等を尋ね、帰京後奏聞あって正一位を贈られ、正一位赤国大明神の額の寄贈あり。
慶長五年、福知山城主小野本縫殿介、丹後国田辺城に細川幽斎を攻めるの際、舘村城主石川備後守を攻撃し、当社及び村落全焼すという。
又、天保七年四月、京都之人弘川大隅守営嗣という人、吉田殿の命にて来り社殿改被申傷。(中略)弘川氏の曰く、「当社は神代より鎮座の地なり。故に上古ヤカタの号あり。後に字訓により館村と云成か。」と。
 その節一首を詠し被置候。
  神代より幾萬世か神の在(ます)
    館を館の久敷もかな。
明治六年三月郷社となる(明治八乙亥年八月、赤国神社御政調に付差上書より)
 尚、当社附近は京都府内に於ける唯一の弥生式遺蹟として著名である。
・資料元禄十三年文書
    覚
赤国大明神
館村、今田村、大畠村、福垣村、三宅村、長砂村、石原村、小貝村、湯殿村。
右九箇村之氏神也。(後略)
・元禄六癸酉三月、隠岐仙右衛門源時尚の祭礼場に関する証言あり。
・楠氏系図及高村弥右ヱ門由緒書、明治八年教部省へ進達の控、明治十五、十六、十九、二十二、三十九年や社寺迷彩帳
伝説 旧暦八月十日、五穀豊饒、悪疫防除を祈願の十日祭に際し、元禄頃まで能を奉納、東八田高槻在梅若太夫と称する楽人例年御面掛に来りし由。(後三番叟(操座)を奉納、昭和十年頃より浪曲、万才等に変る。)
境内末社
・金刀此羅神社、祭神 大物主命、由緒不詳。
・於保加牟豆美神社、祭紳 同名神、由緒不詳。
・稲荷神社、祭神、稲倉魂命、近年合祀、
場外末社
・因幡神社、祭神、由緒不詳。牛馬の守護神として崇敬。
宝物
(1)文の鳥、銅製、銘に正和三甲寅九月八日下司源光高作とあり。神輿の頂の飾。
(2)燕の鳥、無銘、文の鳥に添う。
(3)神境、寛政四子五月丹後国田辺金物屋長左ヱ門寄附。
(4)鎗の穂先、出羽大丞藤原国定の作、文化八未九月、当村横田清兵衛秀長寄附。
(5)額、旧鳥居に掲げしもの、佐文山之筆、享保八癸卯年八月寄附。大庄屋長砂村与左ヱ門、舘村藤兵衛、小貝村
久左ヱ門、大畠村五兵衛、今田村九兵衛。)

神明神社
所在 豊里村字大畠、赤国神社摂社
祭神 天照大神
由緒 不詳
境内末社
・稲荷神社、祭神 倉稲魂命。由緒不詳
 資料 天保十三年の社堂改帳に拠る。)

天満宮社
所在 豊里村字三宅 赤国神社境外摂社
祭神 菅原道真
由緒 本社は正暦年中字三宅の内馬場へ遷座、寛永年間焼失により往時の由緒その他一切不明となる。元禄
二年、今の社地に仮社殿再建遷座。明治十一年七月.西京北野より分霊を奉迎し当今の社殿に合祀。
資料 明治十六年二月、昇格願書あり。
境内社
・八阪神社 祭神 須佐男命
(『豊里村誌』)

創立時の事情は言うまでもなく、古い史料がなく、想像説くらいしか立てようもないが、弥生・古墳時代の遺跡の上にある社で、赤く明るく光輝く国の意味ではなかろうか、ar(光明)の国のイメージではなかろうか。日本という国名もそうしたイメージであろうか。
鉄滓が出土し、目を突いたという伝説もあるので、鍜冶関係で赤く溶けたアカガネや鉄を産む国のイメージもあるのかも。。


稲葉神社
『丹波志』赤国神社の項に、是ヨリ二町斗東ニ薬王寺社アリ とある。
館の東方丘陵端にある稲葉神社(通称・薬王子)は牛の守護神として信仰を集め、牛をひいて参詣することが多かったという。


高野山真言宗塩岳山楞厳寺(りょうごんじ)

花のお寺としてよく報道などされる有名な寺院。蓮と躑躅が特に知られている。以久田野丘陵の真ん中あたりで、どこから行けばいいのかわかりにくい。今は蓮の花盛りでカメラマンが何人か写していた。蓮の花が開いているのは午前中だけ、その頃に行って下さい。


溜池(楞厳寺前の長池)の真ん中でカモの子が一羽遊んでいた、水でも浴びねば暑くてたまらんとバタバタしている、ヤバイヤツだな、天敵に狙われるぞ。対岸はミツバツツジが美しい所、今はその時期でない。

塩岳山 楞厳寺
 本尊 薬師如来
本寺は真言宗高野山派に属し、聖武天皇天平年中(七二九~四八)林聖上人の開創といわれる。
建武四年(延元二年、一三三七)兵火に見舞われ、広大な寺領を奪われたことが貞和五年(一三四九)の敷地紛失状で知られる。
寺宝の重要文化財不動明王像一幅は明治四十四~五年(一九一一~一二)頃盗難にあっているが、平安時代の大般若経や身の底に応永三十二年(一四二五)の修理銘のある唐櫃、室町時代の作品と思われる釈迦十六善神画像、一禾の烏の襖絵など多くの文化財がある。綾部市観光協会 綾部の文化財を守る会


塩岳山楞厳寺 吉祥院   栗村
天平元己巳年二月五日林聖上人開基也 但シ此上人ト云 行基ノ事也 安永七年迄凡千五十年ニ成 真言宗高野末 本尊千手観音安阿弥ノ作 本堂五間四方辰巳向也 本尊行基ノ作丈六ノ薬師并ニ日光月光十二神将鎮守金銅蔵王権現惣シテ十所ノ権現ナリ 弁才天庚申ノ社アリ 延徳元年己酉歳十一月六日 荻野大槻為諸牢人当国守護代上原豊前守同紀伊守父子エ 号ソシヤウト企謀叛構城郭朝敵ス 同十二月十三日ニ群勢守護ノ手当寺エ討入悉盗財ヲ奪取引退 翌庚戌六月廿八日位田城エ篭リ 諸侍ハ兵革ヲ調思々ニ出立 同攻具ヲ調驚ス耳目者也 豊前守父子為合力但馬摂州備州之軍宅エ立痛リヌ
当寺鐘撞堂 門 但シ宝物弘法大師自筆ノ不動尊 往古ハ境内八町四方御朱印 寺数五ケ寺 西禅坊吉蔵坊松泉妨奥ノ坊東林坊ト云有之 右ノ軍ニ大破シテ後一ケ寺建立也 古ノ境内ハ今字ニ楞厳寺野ト云八丁四面ノ野ナリ 四方境南ハ神森 西ハ四ノ辻 北ハ小池 東ハ三ツ塚位田限リ八町四方 今ハ立合ノ野ナリ 西ノ方陣取ノ跡ノ大塚多シ 当寺ヲ東西楞厳寺トハ惣名栗村ノ内東西アリ 往古ヨリ惣持ノ所故也 境内四神相応ノ地ニ当レリ 北ニ高山東ニ流水 南ニ沢 西ニ大道有所也 但四方トモ民家へ八丁宛隔リ霊地ナリ 門前ニ民家七軒アリ
(『丹波志』)

楞厳寺 以久田村字館にあり、塩岳山吉祥院と号す。真言宗にして林聖上人の開基といふ。薬師如来の木像を本尊とす。戦国時代衰へたりしを、文亀三年住職西禅坊明盛力を注ぎて、造営し、見るべき建築となしたり。二百五年の後、領主九鬼氏力をつくして寛永五年改築せり。今の本堂之なり。弘法大師筆不動尊書像一幅、明治三十七年国宝に指定せられたり。
(『何鹿郡誌』)

楞厳寺(塩岳山吉祥院楞厳寺)
所在 豊里村字舘
本山 高野山宝城院
宗派 真言宗、本尊 薬師如来十二神将
縁起並伝記
寺伝によれば、聖武天皇天平四年林聖上人の開創となっている。楞厳寺附近から南方以久田野へかけて郡内随一の古墳地帯となっており(伝来の項参照)往古境を接していた式内赤国神社一帯が弥生式時代の聚落地であったこと等から、当寺の創建の古さと推察することが出来る。
再三の兵火により、古来書は焼失し、たゞ縁起書を蔵している。これによると、建武四年、兵火の為寺坊悉く焼失。後土御門天皇延徳元年、荻野・大槻なる豪族が当国守護代上原豊前守に抗し、位田城(?)に拠ったがため、上原勢は背後の拠点たる楞厳寺に乱入し、資財悉くと奪取した。文亀三年本堂を再建したが、城山攻めで焼失(伝承城山軍記参照)
元禄十六年起工宝永五年竣工し現在に至る。盛長法印の中興にかかり、当時(寛文年間)の領主九鬼隆李の尊崇により完成すという。
什奉宝物
(1)本尊薬師如来の仏像外十三体の仏像
(2)国宝弘法大師筆の不動像画像一幅、明治四十五年盗難現存せず。
(3)十六善神画像 足利時代の作、准国宝級(明二四、七、三 美術監査状)
(4)愛染明王画像 真如親王筆と伝えるが、鎌倉時代末期の作か。
(5)大般若経 二百巻 平安時代の書写
・西国八十八ヶ所の札所
昭和八年当寺の前山裏山、長池・弁財天池を繞るって八十八ヶ所の札所が祭られ、毎月二十一日には善男善女の参詣も少くない。殊に陽春桜の候よりつゝじの頃は、一名所として近隣よりの訪客が多い。
・日限地蔵尊 本堂に至る坂の中途にあり、日を限って霊験あらたからりと尊崇す。
・宝篋印塔 永正八年先ノ因州の大守の銘あるも由緒不詳
・加藤長鈍の碑 何鹿郡長宮崎清風の賛辞を刻む碑 地方文化に貢献された医師
・菩提樹 約三百年を経た古木、府下で屈指
〇英霊供養塔 昭和二十三年秋建立 大部分は檀家中の英霊を祭り、他に関係深き英霊も合祀、約八十柱。
場外堂宇
 地蔵堂…小貝小字ユリ、字福垣小字馬場、字舘小字石根山
 薬師堂…字今田小字立石
 弁天堂…字館小字畑山、阿弥陀堂…字栗小字野佃、大日堂…字栗上
(本稿は豊里村青年団文化部編 郷土資料第二集による。)
(『豊里村誌』)


ミツバツツジの頃








館城
館という地名の元というか、山城の館があったという地名。中世の山城は山の上にあり、飲み水にも事欠くような不便な所で、日常生活は麓で暮らしていた。そこを館(やかた・たち)とか根小屋とか呼んでいた。
館ノ跡 凡一町ニ一町半、カラ堀裏ハ薮ナリ、此内西ノ方ニ天守ノ跡ト云東西二十間南北八間斗段有、此外トハ三重堀ナリ館ノ内ニ民家多シ、石河氏子孫無シ、備後守ハ福知山小野木氏ニ組シテ後帰住無シト云
(『丹波志』)

舘塞址
永禄以後石川備後守一族がこの他に居を構え附近に覇を唱えていたが、慶長五年福知山城主小野木氏により滅される所となった。近年まで当時の外濠が竹林中に存したが、今は僅かに形を残すのみ。中央に一小祠あり、攻戦殺伐の世の哀をとどめる。近傍に井戸あり、当時のものと伝う。附近に、城の段、大門、町屋敷等の地名が残っている。
(『豊里村誌』)

館城跡



綾部市梅林公園(館町畑山)



館町でもここは以久田野台地。どこからでも行けるが、おすすめは府道9号(物部街道)の豊里交差点から東へ入る、新しい道で、あとは道なりで到着する、大きなグランドのある奥。楞厳寺と農業大学のあいだあたりになる。1.5ヘクタールの土地に9種650本(463、476本とも)の梅が咲く。見頃は3月の中~下旬頃。日曜日には「梅まつり」、夜間ライトアップもある。収穫は7月早々くらい。







《交通》


《産業》


《姓氏》
石川備前守


館の主な歴史記録




伝説





館の小字一覧


舘町
楞厳寺 森下 岸ノ下 上久行 下久行 下館 モトレ シボラ 大谷 宮ノ東 宮ノ前 宮ノ後 唐部山 木綿田 稗田 晩留 三十代 岩口 絵熊 五反田 横落 古川 高谷 菩薩谷 石根山 畑山 段堂山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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