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丹波の

梅迫(うめざこ)
京都府綾部市梅迫町


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京都府綾部市梅迫町

京都府何鹿郡東八田村梅迫

梅迫の概要




《梅迫の概要》
JR舞鶴線の梅迫駅のある一帯である。

線路の東側に国道27号、西側に八田川、その西に府道舞鶴綾部福知山線(74号線)が走り、その沿道(昔の田辺からの京街道)に集落が立地している。旗本梅迫谷氏の陣屋下町として発展したところで、上町・中町・新町に分かれる。今の梅迫公民館のある辺りにその陣屋はあった。梅迫は元々は内谷(うつだに)と呼ばれる一帯にあった村であった。
梅迫村は、江戸期~明治22年の村。はじめ山家藩領、寛永5年からは旗本谷氏知行地。江戸時代は安国寺村の技村、村高も安国寺村に含まれる。幕末に分村独立したという。「丹波負笈録」は「上町・新町と云、京往来町並也、家数百四十弐軒、東に内谷村十八軒梅迫の内、町は内谷より大坂陣の時より追々出町の所と云」と述べる。梅迫が内谷からの出町として急速に発展したのは、ここが京街道筋にあたることに加え、寛永4年に山家藩主谷氏が一族の谷衛忠に1500石を分知して梅迫の竪道(たてみち)に陣屋を構えさせたことによる。梅迫伝聞記によれば新町が建てられたのは慶安5年(1652)のことという。陣屋に隣接して新町・上町・中町・鐘鋳場などの町家が形成された。村内を丹後田辺から京都への街道が通じ、この街道は当村から横峠を経て塩谷、山家へ通じる。(このルートはだいたいは今の京都縦貫道のルート)
梅迫谷氏領では文久2年(1862)、知行所改革に反対する農民が領内の石田神社に結集して気勢をあげるという事件(梅迫騒動)があった。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て京都府に所属。明治22年東部の内谷を合わせて東八田村の大字となる。
梅迫は、明治22年~昭和28年の大字。はじめ東八田村、昭和25年からは綾部市の大字。明治37年、阪鶴鉄道が開通し、梅迫駅が設置されて交通の要地となる。昭和28年、東部の台地大野に八田中学校が建設された。同年梅迫町となる。
梅迫町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。


《梅迫の人口・世帯数》 219・531


《主な社寺など》

十二社神社

内谷の奥に鎮座する。境内に梅迫内谷公民館がある。
十二社神社
一 神社名 十二社神社     所在地 綾部市梅迫町内谷小字池ノ谷二〇番地
一 祭神 櫛御気野命
一 沿革 創立年代末詳
     改修     大正四年 社殿改修
一 祭日 十月六日
一 社司 四方重衛
一 氏子地域戸数    内谷地域内 十四戸
(一)発祥の由来
本社を祀る内谷は梅迫村発祥の地で土地柄は古い地区で、神社創設の記録が無いのは残念である。内谷地区には、地名が示す通り上の宮と下の宮があった。上の宮を奥の宮ともいっていた。現在は下の宮のみが残り、上の宮は地名のみ残っている。
十二社神社の祭神は櫛御気野命をお祀りしてある。詳かなことは記録が残っていないが、十二社とあるから十二の神社を合祀したか、十二神を祀っているとも考えられる。
毎年奉納している熊野大権現の幟の現存する処から、十二の神の一つに相当する。
一説には江州之国から大権現を移したともいわれている。幟の製作年月が文政三年(一八二〇)堂純邸張重陽日若中とあり、百六十年前のものである。正面の石段の昇り口には、文化十三年とあるから一八一六年に建造されたもので、今から百七十五年前に相当する。
祭日は十月十日で、社格は村社である。面積は東西三十間半、南北二十一間半、面積五百九十四坪である。広場の石の燈籠は他に見受けられない立派なもので、傘と火袋は製造年月が異なり別のものを合わせたもののようで、大正七年に献納になっている。
本殿前の駒は大正六年に谷村正夫、北村勇三、田中孫三郎の三人の奉納である。
正面入口の石の鳥居は大正五年十月門脇嘉蔵の献納である。
(『郷土誌 東八田』)

福知山市の上川口のあたりに十二という地名があるが、十二社とか十二所といった神社が結構あちこちに見られる。舞鶴神崎にも湊十二社がある。柳田国男は、「史料としての伝説」で、越後や曾津で十二所又は十二神と言ふのは山の神のことで、或は二月十月等の十二日を以て之を祭る村もあれば、又十二本の神木の話など伝はって居るやうである。としている。「山の神様」ということである。
神崎のような湊に山の神はおかしいが、本来は隣の由良と同じ熊野神社であったらしい。志賀郷の別所の熊野神社は熊野十二所権現を祀る。そうすると十二神社というのは熊野修験系の神社かも知れない。
調べてみると十二神社と言っても、この二つがあるよう。
ウィキペティア「十二神社」参照
当社は熊野神社系の社ということのようである。


臨済宗東福寺派安養山医王寺
内谷には古いお寺があった、国重文の仏像が残されている。
医王寺 所在地 梅迫町内谷
(一)山号寺号 安養山 医王寺
一 臨済宗 東福寺派
一 本尊  阿弥陀如来
一 開山  安国寺第三世東英日+斤大和尚
一 開創年号 明徳四年(一三九三)再建天明十一年(一七九一)
(二)由緒沿革
医王寺は梅迫駅東南七八町宇内谷にあり、現在安国寺住職兼務の寺で、堂宇も往時のものは尽く頽破して超道建立の小堂が一宇存するのみである檀家すくなく維持困難であった。中興朗室禅師が修理され、昭和初年頃まで本堂兼庫裡の一宇があったが維持出来ず、阿弥陀如来像は一時作業場兼公会堂に安置していた。昭和十四年文化財調査員赤松俊彦等の調査の結果文化的価値を認められ昭和十六年十一月重要文化財に指定、元の位置に建立、金庫に納め自治会管理となった。…
(『郷土誌 東八田』)


重要文化財
阿弥陀如来坐像一躯 安養山医王寺(梅迫町内谷)
鎌倉時代 木造粉溜および彩色 寄木造 像高七〇・九センチメートル
医王寺はもと一寺であったが、現在は無住の一小宇だけとなっており、安国寺の境外仏堂として、内谷の人たちによって管理されている。
この像は肉身部を粉溜、衣の部分を彩色で仕上げている。如来像はふつう衲衣だけをつけるが、これはその上に袈裟をまとう姿になっており、鎌倉後期彫刻の特色といわれる盛上彩色で華麗な文様をあらわしている。胎内背面に、
 「元享三年(一三二三)三日 日法印堯円」とあって、この像の製作年代がはっきりしているのは貴重である。堯円は京都の三条仏所の大仏師としてこのころ活躍した人である。藤原時代の優美な阿弥陀像とちがって、宋風の力強い作である。(口絵参照)
この像は寄木造で、頭部は前後にわかれこれに両肩と膝をつけるが、頭と胴はもと一材であったものを完成後に割ってついだもので、これを割り矧ぎという。頭と胴を一材で通しておくと像に狂いができるので、古い仏像ではこうした割り矧ぎをしている場合が多い。
(『綾部市史』)

真言宗御室派乾昌山久香寺


久香寺   所在地 梅迫町上町正月谷十二番地
(一)山号寺号 乾昌山 久香寺 (院号威徳院)
一 宗派 真言宗 御室派仁和寺
一 本尊 不動明王
一 開基 栄霑法印  中興 谷帯刀衛周公
一 開創年号 寛永十三年(一六三六)
(二)由緒沿革
寛永十三年願主谷宇右衛門衛信は家臣松田六左衛門、野顔平八に命じ、当寺を創立し領主谷衛信公の祈願所とした。本寺院建立と同時に山上に愛宕堂を建立し、領内安全諸願成就を祈願せしめた。往時より社廟はあったがまだ久香寺では無かった。
真言宗で舞鶴知恩院末派の北村にある僧栄霑法印が寛永十三丙子年に久香寺の開基となり創建した。境内は東西に二十二間半南北九間面積二百四十九坪である。威徳院栄俊法院が初代の住持となり、その後住は若州の人で、尊知院で長伝坊と号し久香寺の第二世となった。この人は山伏で清僧であった。即ち無妻の僧であった。
この時山家の広漸丹覚院より触れ下り三宝院御門跡へ冥加銀が上った、この人退院後普賢院第三世とった。
(三)講堂建設
1、庚申堂
元禄四年(一六九一)高雄藤兵衛忠吉が青面金剛の庚申像と庚申堂を寄進し建立した。庚申堂は二間半四面の御堂で、庚申像は御丈一尺玉寸の尊像である。
「青面金剛」の御顔は青色で悪獣病魔風雪雨の難を除く大きな威力を持っておられる、帝釈天の従者である夜叉神とされている。庚申の日は私たち眠っている間に天に上り、罪過を天に訴え寿命を縮めるので夜は眠らず三尺の虫が外に出ないよう三猿を祭り終夜歌を歌い話をして遊ぶのが例である。この庚申像堂は往古より庚申の中の年即ち六十一年毎に御開扉供養することになっている、昭和五十五年はその年であった。
尊像堂の両脇には大日如来と不動明王が安置されている。元禄九重(一六九六)子の刻に久香寺は出火し焼失したが翌十年再建された。
2、観音堂
境内の最上段に文政五年(一八二二)に建造され天保三年(一八三三)西国三十三所の観音像を各地の信者から寄進を受け、安置された。方三間の木造単層宝形造りでトタソ葺七坪三三の建物である。昭和五十九年の綾部西国三十三所には番外六番に選ばれ准堤観音菩薩を本尊として祀ることになった。
久香寺御詠歌  綾部西国番外 第六番
    准提観世音菩薩
 目の光 かがやく山の み法には
      梅もひらきて とはにかぐはし
3、地蔵堂 本尊 延命地蔵 大正元年再建された。
      木造切妻造桟瓦葺
4、秋葉堂 本尊 秋葉権現 慶応年間(一八六五)に建立された。
      木造切妻造桟瓦葺 一坪八八 愛宕道に祀る
5、稲荷堂 祭神 稲荷 吉尼天
      木造切妻造杉皮葺 〇、坪二三 愛宕堂の東側に祀る
6、愛宕堂 本尊 馬乗勝軍地蔵菩薩で愛宕権現である。
      木造単層御拝付入母屋桟瓦葺一八坪四二
7、鐘楼堂 元禄年間建立
7、愛宕権現の由来
梅迫は往時火難頗る多く、民の困窮甚だしくこの為時の領主谷宇右衛門衛信公は譜代の家臣松田六エ門、沢瀬平八に命じ寛永十三年(一六三六)京都愛宕山より勧請した。愛宕権現の御神体は馬乗勝軍地蔵菩薩であって白い馬に乗っておられる。領主衛信公より愛宕社領として中田一反寄付せられ現在も大迫の田が残っている。この建設がなってから毎年百味料として銀十二文宛を毎春奉納するのが例となって、京都よりはこの代りに百味料として木箱に納めた品物を毎年送ってきた。元禄五年(一六九二)二月二十九日領主谷帯刀衛常公の代、普賢院の代に政所磯部団右エ門周徳が発起となって鐘を鋳て、そのときの余銅で正面にある手水鉢を寄進した。鐘の銘は安国寺中興二十四世大雲和尚周全のものである。鐘楼は高雄平兵衛忠淳が寄贈した最初の鐘は破れた為享保三年(一七一八)再鋳した。威徳院弘照改印代で、鐘の銘は円隆寺上人良泰のものである。領主は谷衛直公である。鋳物師は三条釜の座近藤三之介、市兵衛、源兵衛の三人であった。
(四)久香寺の寺暦と沿革
往時より社廟はあったが、未だ久香寺とは言わなかった。生国丹後宮津の山伏で正宝院と号する人が新に住いして社僧を勤めていた。この人が天和二年始めて久香寺を建立して、これに移ったのが、久香寺の始めであり又住持の始めであると伝えている。又一説には真言宗丹後国加佐郡舞鶴智恩院末流村の北にあり寛永十三丙子年に僧栄霑が開基創建すとある。
久香寺第六世実乗の代に舞鶴円隆寺末寺となったが、国法印は福田村の能勢甚右エ門二男で、天保十二年(一八二四)六才の時当寺にて得度し、万延元年(一八六〇)住職となった。
第七世乗運和尚は温厚なる知徳兼備された僧であった。内にありては八千余円の巨財を集めて、愛宕堂の大改築を完了し、愛宕参遺の大改造を成し参拝者の便宜をはかるなど目を見張るべきものがある。戦時中には愛宕堂の梵鐘を一早く供出し、戦い終れば直に梵鐘の復活を計り成功させた。表門石階段の改造石塀、高塀の築造等をした。養蚕業にありては、組合長となり、稚育事業には先頭に立って日輪舎を造り村民の便を計るなど昼夜勤労勤勉久香寺の中興を計りつつ、区民の精神指導にあたった人であった。
(五)久香寺の年表と歴代和尚

(『郷土誌 東八田』)


臨済宗東福寺派梅雲山雲源寺
梅迫の町中のお寺で、立派なシダレ桜が有名。



安国寺のしだれ桜を移したという周囲2.2メートルのみごとな一本桜と、「ガラシャ夫人の手洗鉢」がある。
キョロキョロしてみたが、どうやら裏庭に置いてあるのが、それらしいが、勝手に入るのもどうかと、カメラに納めることできず。

高さ1メートルあるかなぁの石造物。
観光案内パンフにその写真や文がある。
しだれ桜で名高い雲源寺には「龍の顎」がある 民話「権兵衛さんの龍退治」の弥仙山に住んでいた龍を退治した時の龍の顎である 雲源寺の寺宝として大切に保管されている 昔、長い間雨の障らない時期に愛宕山で雨乞いの護摩を焚きその時に奉納した(運がよければ拝観できるがも)また雲源寺の軒下にはキリストの像を彫った手洗鉢がある 江戸時代梅迫の谷領主と細川忠興氏とは歌の道で師弟の間柄であり親しくしていたという なぜ雲源寺にあるのが経過を知る者はいない ガラシャ夫人は細川忠興氏の妻にあたる


雲源寺  所在地 梅迫町中町四十九番地
(一)山号寺号 梅霊山 雲原寺
一 宗派 臨済宗 東福寺派
一 本尊 釈迦牟尼仏
一 開山 安国寺第四世 勅言+益仏慈禅師 無極志玄(範)大和尚
一 開山年号 文明元年(一四六九)
一 法類 安国寺 極楽寺 如是寺 随岸寺
(二)由緒
現在雲源寺のある付近は五百年も前の頃は民家もなく、寺内には旧書も何も残っていない。唯梅迫伝聞記があるだけである。文明元年(一四六九)以前に既に一小寺堂があり、安国寺の古道場と言われている。開山の仏慈禅師は天龍寺第二世で開山の夢窓国師の弟子であった。
慶安二年(一六四九)十月常が岡大野の荒原において始めて大鐘を鋳る、とあり時の住持明堂周碩禅師であった。
延宝七年(一六七九)再建されたが安国寺から二十三代の方外周説和尚が宝永三年(一七〇五)に再改築をしている。その頃、元禄十年(一六九七)五月高雄善兵衛忠昌が梅迫薬師平に慈正俺を造り、本尊として、京都三条寺町大仏的近藤左近の作である釈迦牟尼仏を祀った。此の人は後に隠遁の身となって法衣を着て常に精進をし、慈正庵空山常性と号して比の庵に住んでいた。
その後享保十二年(一七二七)に高雄太郎左エ門の寄進によって、始めて観音堂を建立し本尊観世音菩薩を白淋梵圭禅師の時代に祀った。
住持の圭首座の希望によって毎年六月十七日を観世音大会の祭日とした。時の領主は谷宇右衛門雲源寺は東福寺派となった。
慈正庵の空山常性がなくなって後雲源寺の乞いに従い享保三年(一七一八)釈迦牟尼仏を雲源寺の本尊として須弥台と共に御入仏奉安した。
(三)沿革
1、元禄八年(一六九五)方外和尚の代に政所磯部団右エ門周徳の許しをえて境内を切り開き前広庭をもうけ、表本道より石段を作り表参道が出来た。
2、延享の頃(一七四五)地蔵堂を再由したが、現在の石の地蔵尊は大石と鐘鋳場の境の道端にあったが、道路変更の際移動したもので、湛堂崇深禅師の代で約二百年前のことである。
3、大鐘は一尺八寸であった。松田六兵衛の寄贈であったが音響悪き為安永五年(一七七六)十月五日鋳直し二尺二寸となった。
4、本尊の脇仏阿弥陀如来は、同じ年泰含周椿和尚の代に塩尻重兵衛が寄進した。半鐘は政所譜代の臣、松田六左エ門が寄進したが、同じ年に安永五年に再鋳したものである。
5、各代和尚
 元治元年(一八六四)五月十七日真応周寛禅師がなくなってから一時無住となったが、謙痩周文禅師が氷上の国から転住してこられ寂後は長男謙州和尚が後任となったが安国寺に栄転三十五世となった、現在の鐘楼の改築、向真軒を新築し明治二十八年東福寺三等地を受けて四十九才でなくなった。謙州周常禅師は禅僧の修行を積み子弟の養成多く、名僧謙道和尚を育てた。謙州和尚の長男謙譲和尚は謙道和尚の養嗣子となり本堂の改築事業を行ない大正十四年四月落成した。謙譲和尚は村の幼児教育に熱心で、東福寺派の布教師として晩年活躍した。世界大戦起こるや大鐘洞は金属回収の為梅迫駅まで運んだが願いにより解除となった。
(四)諸碑
1、三千仏碑
 寺の広場にあるこの碑は、高雄家が奉納したもので、自然石に三千仏と刻まれている。建立の頃は不明であるが、梅迫、上杉境の地裁尊と共に移したといわれる。
2、英霊塔
 雲源寺檀下の日露戦争以来の戦死者の雲を祀って、供養の為謙譲和尚が発起しこれを建立した。
3、ガラシャ夫人の手洗鉢
 ガラシャ夫人がキリストを忍んでその像を刻んである手洗鉢で、梅迫谷領主がキリシタソ燈籠とともに保存していたものである。
(五)梵鐘
安永五年(一七七六)施主五名がそれぞれ亡き人の供養の為梵鐘を鋳造(総高一一五セソチ口径六四五センチ)して奉納したものである。…
(『郷土誌 東八田』)


キリシタン燈籠


雲源寺の少しシモに、京街道がカギ型に曲がる場所がある、ここは城下町なんだと思わさせられるが、この辺りに陣屋があったと思われる、その山裾に近くに「梅迫公民館」、その向かいの山腹にある。


ガラシャ夫人の手洗鉢
ガラシャ夫人といっても異人ではない。当時キリストを信仰していたので洗礼をうけ。本名をガラシャと変えた。
キリスト教が日本に来て豊臣秀吉がそれを禁止した頃の話である、明智光秀が織田信長を本能寺で討ったが細川忠興の妻がラシャ夫人は信長のとりもちで十六才で結婚している。忠興はガラシャ夫人をかばう生活をしていた。
谷領主は細川氏とは歌の道で師弟の間柄で、二人は親しくしていたのでガラシャ夫人とも交際があり毎日使う手洗鉢にキリストの像を掘り信仰していたと言われる。
この手洗鉢が雲源寺にある経過を知るものはいない。次のキリシタン燈籠と関係があるとも言われている。
一名「磯部燈籠」とも言われ桃山時代の大名磯部が、観賞用にマリヤ像を浮彫りにして信仰の対象としたといわれているが、近在では数は少ない、谷藩主のいた陣屋の裏庭の山際にある一時山崩れのため土にいかったが、高さ八十七センチ、横幅二十二センチ、厚さ十八センチの石燈籠である。さほの上部側面側が円状になっており凸起し、下部は角柱となっており、下部正面のくぼみの部分にマリヤの像の浮彫りがしてある。ガラシャ夫人との関係は記録がないが、この二つは同じところにあったともいわれている。
(『郷土誌 東八田』)


梅迫谷氏の陣屋
本拠を山家に置く旗本谷氏は寛永5年(1628)に、山家藩から分知され、梅迫陣屋に代官をおいて、梅迫・安国寺・於与岐・黒谷等の7か村1500石を支配していたという。その陣屋だが、何も資料がない。
梅迫の京街道(府道74)が不自然にカギ型に曲がるあたり、と思われ、その山手に梅迫公民館があり、そのあたりに「陣屋奥」の小字がある。
梅迫谷氏領では文久2年(1862)、知行所改革に反対する農民が領内の石田神社に結集して気勢をあげるという事件があった。これを梅迫騒動とよんでいる。
黒谷の紙漉業は安政年間(1854~60)頃から本格的になり、技術指導をして、京出しの紙漉を行うようになった。紙の商品価値が高まるとともに、代官の十倉氏は紙の一手専売を強化しようとした。安政6年(1859)の梅迫騒動は、これに農民が反発したために起こったものという。

《交通》

《産業》
梅迫代官十倉氏と硝石製煉
綾部史談会 梅原 三郎
 旗本谷氏は寛永五年、山家藩から分知以後、梅迫陣屋に代官をおいて、梅迫・安国寺・於与岐・黒谷等の七か村一五○○石を支配していた。十倉氏は幕末頃の代官であり、治右衛門は天保頃から代官として執政し、潅慨用水池を築き、殖産興業をはかり、黒谷の抄紙業を盛んにするなどの業績をあげ、名代官と称えられた。安政五年の死後はその子半助が後をついで明治に至った。
 この十倉治右衛門父子は又硝石製煉のすぐれた技術者であった。幕末黒船が来航して風雲急を告げる時、火器と火薬の充実は緊急の課題となった。当時の火薬は黒色火薬とよばれるもので、硝石七○・いおう一五・木炭末一五ぐらいの割合で混ぜ合せて造った。いおうと木炭は得やすいが硝石(硝酸カリウム)は日本では天然には産しない。土中に、また土中の硝石を吸い上げた草木に微量に含まれているので、これをうまく製錬して取り出すのである。
 十倉治右衛門父子はこの硝石製煉の熟練者であって、その製法の聞き書が「硝石製煉秘訣」として残されている。ここに紹介する写しは、西尾市立図書館の岩瀬文庫蔵の書の写しを、研究者の川越重昌氏から借りうけて写したものである。
 福知山市史第三巻二五一~二五四頁に幕末頃に焔硝を製造販売した雲原村の糸井家の状況が述べられており、新しい分野の研究として貴重である。その中に「焔硝の製法については糸井家にも伝承がなく不明である」と記されているが、それはここに紹介する「秘訣」に記す方法と同じであったと思われる。草木灰の大量使用もこの秘訣に記している。
 梅迫谷氏領内に硝石製煉の記録や伝承はほとんどない。十倉代官が家の床下の土を集めたとか、大きい火を焚くので火事になったことがあるとかの伝承があるだけだがこれは硝石製煉の事実を物語っているものであろう。
 十倉半助が安政三年五月 開明的な越前大野藩が開設したばかりの洋学館に、開設三日目に入学していることは特筆される。同館には全国各藩からの遊学者があり、宮津藩士 岡 次郎・安田謙曽・安田比三郎・依田伴蔵・岡島栄之助の名がある。(大野高校・天野俊也氏の御教示による)当時の進取の青年の研さんと交流が推測されるところである。

 硝石製煉秘訣
国家金甌穴欠ルコトナシ金湯ノ固依然タリト雖トモ近年夷
船渡来シテ辺境騒擾二不堪 我カ国中二栖ミ太平ノ
恩化二沐シ候モノ卑賎ノ身ト雖トモ嬢斥ノ術ヲ講セス
ンハアルヘカラス 此此国恩万分ノーヲ報スルノ意
ナランカ明史ニ日本ノコトヲ論シテ倭寇長於陸戦短水
闘以船不敵而火器不備也卜云へリ 左スレハ我力長
スル処ヲ憑マンョリ我カ短キ処ヲ補ニシクハナシ
又彼日長スル処ヲ請シテ彼二優ル様二鍛錬セハ何ソ
夷船ノ襲来ヲ患ンヤ 方今ノ策火器ヲ備フルニアリ
火器備ルト雖トモ火薬ナクンハ用ニハ立申間敷候 第
一火薬ノ不足ナキ様ニ製錬シテ仕立ツルニアリ 硫
黄ニ諸州共ニ火山ニハ吹出シ候物ナレハ如何程ニテ
モ取得へシ 焔硝ハ硫黄ノ如ク極リテ産出スルモノ
ニアラス硫黄ニ比スレハ稀少ナルモノ也 然トモ随
地共厚薄ハアレトモ硝気ナキ土地ハナキモノ也 畢竟
地中ノ湯気ノ発出シテ成トコロニシテ雨ニ逢ヘハ
消スル故ニ床下ナトノ水ノカゝラヌ処ニハ必ス吹出
ルモノ也 心ヲ用フレハ何国ニモ取へキモノ也 然
トモ多年心カヶテ貯蓄セサレハ譬ハ七年ノ病ニ三年
ノ艾ヲ求ルカ如ク間ニハ合不申候 丹波梅迫ニ十倉
半介ト云人アリ多年製錬ニ心ヲ用ヒ近年ハ大分取得
候 此秘訣ハ右半介親治右衛門上京ノ節承合筆記仕
候処也 乍併酒醸ヲ試ニ手醸仕ニモロ訣斗ニテハ程
能ハ不参モノナリ 自然製煉ニ心アラン人アラハ梅
迫へ行テ製煉ノ次第ヲ実見シテ口授ヲ受候カ又ハ多
年取覚候人ヲ請待シテ其地ニ於テ取試ニアラサレハ
程能製煉ハ出来申マシク侯 随地消石ハ取得ルコト出
来可申存侯故狂?ヲ不顧申述侯 多罪御海涵可被下
候 已上
(以下略)
(『両丹地方史』(1984.11.10号))


《姓氏》
梅迫谷氏
十倉治右衛門
名代官十倉治右衛門
父子二代此の地の代官たりしが頗る意を地方民力の休養に用ゐ、身を持する事倹素にしてよく衆人に其の範を示すと共に、専ら心を殖産興業に潜め常に田畝を廻りて民の稼耕を督し、毎朝早天所領を巡りて部民の早起せるものには自ら挨拶して其の勤勞に對する敬意を表し之を奨励するを常とせり。又屡農民の掌裏を検して其の勤怠を察し、家政の不如意を訴ふるものあれば又其掌を見て汝が家政不振の原因茲に存すと訓戒激励するを例とせり、故に部民勤儉の風頓に盛なるに至れり。
梅迫地内に貯水池を穿ちて旱害に備へ、荒蕪地の開墾を奨励し、山地に楮の栽培を勧むる等、餘徳の存するもの頗る多し。殊に黒谷區民に勘めし抄紙業の如きは其の功績の顕著なるものにして百戸の民の生業之に依て豊なるを得たり。村民今日に至るも猶治右衛門様と稱して其餘徳を欽するものあるも又宜なり。
其の歿するに臨み遺言して墓を所領展望に便なる地に相せしむ。法名を正修院眞叟鴻亭居士といふ。
(『何鹿郡誌』)

梅迫の主な歴史記録


梅迫村
八田郷と呼ばれる時代の確かな書物は少ない。昔は内谷が集落の中心で、天徳元年(九五七)の銘のある稲荷社がある。戦国時代になって永禄八年(一五六五)松永久秀が乱のとき、残る一族が当時八才の忠定を連れて高野の谷に移り住んで、高雄の姓を名乗ってから次第に民家が増えてきた。
内谷村は一八軒とあるが、天正九年(一五八一)細川幽斉が田辺に封ぜられた当時、上杉久保村から峠を越え内谷に入る京街道に石風呂があり、医王寺や上の宮下の宮など村落の条件が完備していたようである。又内谷村は大坂の陣の頃より繁盛し、京の「二条の廻文」には、内谷村はあるけれども梅迫村の名はない。「医王寺の増家は七七戸あり」という。医王寺の創立年号は不明である。
寛永四年(一六二七)幕府が谷衛忠を旗本として梅迫に封じてから、政治経済の中心となった。当時新町はなく田であった。慶安五年(一六五二)に初めて新町をおこした。
又寛政四年(一七九二)の御条目には「むめの坂」と書いてある、高雄善兵衝の書いた「梅迫伝聞記」によると、肥前(九州)島原城主佐田治郎兵衛の子孫が貞享元年(一六八四)に梅迫に移り住んだとあるがどの辺かわからない。
(『郷土誌 東八田』)

梅迫騒動の由来
梅迫領は十倉氏を代官とし、豪商高雄一族が大庄屋として領政を行なっていた。文久二年(一八六二)に知行所改革を契機として、領民が石田神社に参集するという騒動であった。その動機は三代目代官十倉治左衛門の追放に関するものと、知行所改革に伴う農民騒動の二つにわけることが出来る。
十倉治左衛門については、天保以来二代にわたって、約二〇年間代官として領政にたずさわっていたが、先代治左衛門は勤倹力行をすすめ殖産のことを行って来た名代官であったが、それに対する批判もあったようである。また二代目治左衛門はとかく下の者から不服があり代官として不適格であり領民の不満は大きく領政に混乱をみたので、本家山家藩主が領政に介入することになった。
文久二年の正月に領主谷帯刀は、目代として松田六右エ門、山田源七郎を派遣して知行所改革を行わせた。その内容は代官十倉氏の追放と、大庄屋高雄太郎左エ門の隠居謹慎、同善兵衛の退役隠居と役務取り調べ、跡を高雄敬助とすることであった。この三役追放は文久元年十一月に地頭職を差置いて直訴したこと。また梅迫領三ケ村村役人には、三ケ村百姓共が江戸へ出て書を差し出したことは不届きであると、政務の責任を追及したものであった。
このことは越訴のあったことを暗示するものであるが、前後の関係は不明である。
さて知行改革にともなう騒動の経過のなかで、その争点が明らかになる点は、松田・山田の二名は領主の意向として、各村に五ヶ年免状・村絵図・名寄帳の三品を代官追放によって不明になったからその品の提供を命じた。これに対して農民は前例のないことであると断ってしまった。
それがもとで石田神社へ四百人から五百人が集まり山家藩へ直訴することをきめた。
これに対して領主側は、「山家表へ願出するとも見会わすとも勝手にせよ、その段早速幕府へ申し立て地頭が無理か百姓が無理か白黒を天下の奉行所で指示を受ける」と強い姿勢をしめした。
この争論はつぎの三項目が焦点となった。
一、村方三帳簿の把握と再検討 二、御用金納付に関すること 三、黒谷和紙統制に関すること
村方三帳簿の提出について領主側は書写のみであくまで他意がないといって、百姓共の減収の申し立ては聞き入れられなかった。十倉氏については貢納取り立ての不適当さと、あるいは重税であって代官仕法に対する不満が直接原因である。黒谷和紙については、京都向け和紙製造のための技術改良について、紙の産物入用手当として銀札二十貫相下げたのに対し、村人は前の通りにしたいといって産物統制に反対している。つぎに御用金納入について領主借財のため、江戸屋敷二ヶ所が売却され借家住まいで困却しているのに対し、この出金を悪政の理由として、三品提出をあくまで拒んでいる。
梅迫騒動は極端に悪化した旗本財政を領民の負担に転嫁した為で、それに対する不満が爆発したものである。安国寺村の大庄屋たちは退き、隠居も願い下げとなり、十倉氏の取り扱い借用について村方連印以外を無効とし高雄氏扱いの勘定帳の提出を命じている。そうして高雄太郎左エ門は陣屋へ呼ばれ取り調べの結果切腹となったのである。以上代官と豪商による旗本財政の運用についてあらためて改革の必要にせまられたことをしめすとはいへ世直し的な幕末の一揆の性格であり、弱者の犠牲に終わった悲劇として終わらしたくない。
於与岐村の松田騒動
前記梅迫騒動と同じ年に同様の事件が起きた。当時梅迫領代官松田六右エ門・山田源七郎は領主帯刀よりの命令だといって、御用金と出役を申付けて来た。時の庄屋組頭に水帳・名寄帳・村図を提出するよう下命したが応じなかったため、それぞれ青竹・閉門・手錠という処分を行ったので百姓どもは大いに憤激して領内の者総出となり、石田の宮に集合し今にも竹槍駈ぎとなろうとした。
そのために本家山家藩に訴訟して聞済(耳に入れておいて何とかしよう)となって事は落ち着いたのであった。その時の山家へ届け書が於与岐に伝わっている。
文久二年二月二十四日、梅迫領分総庄屋中より山家御所様への台状である。二月十九日於与岐八幡宮に村総代三人寄り集まり夕方引き取り、日延べ願を出し御聞済となった。
谷領政の困窮
梅迫旗本谷藩主は江戸勤務が多く、経済は苦しく資産の売却もしなければならなかった。天明八年(一七八八)領内七ケ村の庄屋が一律に責任を分担して証人となり、作徳米(税外米)四百石を担保として三井家から金を借りるという証文が残っている。
梅迫村・安国寺村・中村・佐里村・於与岐村・黒谷村・和木村の庄屋・年寄・百姓三十二名が借主となり、大庄屋善兵衛・藤兵衛・庄屋太郎左衛門を通じて代官荒井藤右衛門に御用立てしたものである。  (『郷土誌 東八田』)



伝説


雲源寺に残る伝説
竜の頭骨と馬の角といって珍しい物が保管してある。竜は大蛇の「コオセタ」もので地上に下るときは、かならず大雨が降るといわれ、頭や尾が多いといわれている。年代は不明であるが、於与岐村の、住民で吉崎権兵衛という農民が大の力持ちの剛男で常に猟銃をもって狩を得意にしていた。
或年弥仙山の山中で豪雨がきて木の下に入ろうとした時、眼光鋭く飛びかかろうとしたので権兵衛は大蛇の頭目がけて猟銃をぶっ放した。すると大樹が倒れるようにすごい音をたててたおれた。よく見ると角は二ほんで足は四つ、白剣のような四つの尾があり、うろこの間から十五糎ほどの針のようなするどい毛が生えていた、権兵衛は跡をおそれて寺で供養した。歯は鋭く三角で内面に向ってはえていた。上あごは栖竜寺に預けたが消失し現在下あごだけが残っている。
馬に角があると聞かされて不思議に思われるであろう、これは筑後の国久留米領主より山家領主に下されたものを家老谷主計が拝領していたが、宝永二年(一七〇五)と年号が入っているが、何処の馬か実物は一〇セソチ位で角のように見えるが分からない。
(『郷土誌 東八田』)





梅迫の小字一覧


梅迫町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん


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