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安場(やすば)
京都府綾部市安場町


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京都府綾部市安場町

京都府何鹿郡中筋村安場

安場の概要




《安場の概要》
府道福知山綾部線の鳥ヶ坪交差点から南へ府道三俣綾部線ゑ入り、その一番奥の小さな盆地のようなところにある集落。

近世の安場村。綾部藩領。中筋村5村の1つ。はじめ大島村の枝村、のち分村独立。明治4年綾部県を経て京都府に所属。同22年中筋村の大字となる。
安場は、明治22年~昭和28年の大字名。はじめ中筋村、昭和25年からは綾部市の大字。同28年安場町となる。
安場町は、昭和28年~現在の綾部市の町名。

ヤスバは「休み場」のことか、峠を往来する人々、交易の人々の休み場が発展したものかも。

《安場の人口・世帯数》 199・64


《主な社寺など》

一宮神社


一宮神社
祭神 国常立尊
由緒沿革
加藤明氏蔵正徳元年の古文書に、
 び志門様月ノベ口にあり
 それをあだな東ノ段より
 たつみノ方くわん上仕候
 ゆえコノ地わ篠原庄右衛門山森
 でありそれをもらひそこに
 一宮大明神といわいこめ
      それ二月(附)
        世話方
         加藤景村
         篠原庄右衛門
  正徳元年酉ノ六月三日
とあるが、これ以外の記録がないので、元月延口に毘沙門天として祀ってあったのを現在の地に移し、一宮大明神として氏神にしたものと伝えている。尚毘沙門天は明治十九年観音堂の境内に移され、現存の建物は明治二十三年の建築である。
註、右の古文書の加藤景村は加藤氏系図によれば俗名小ヒゲと称し、天正頃の人であるから、正徳頃とすれば年代が合はない。
藩記には社七尺、拝殿壱間半に三間半、境内廿五間に廿八間、祭礼九月廿六日とある。
社殿は慶応元年炎上、明治八年改築起工、同十三年落成した。尚鳥居は文政七年の建築である。祭礼は古来旧六月三日に夏祭を、秋祭を旧九月二十六日に行ったが現在は十月九日となっている。
境内社斎神社は元鳴竹一番地に才ノ神として祀られていたが、明治六年ここに移された。
神社関係の古文書に次のものがある。
  寄附一札之書
一、有所字宮ノ腰
    田地一ヶ所也
  右之田地壱ヶ所是則俗父三郎兵衛従私共へ譲り受候田
  地ニ御座候処此度一宮大明神為御供田之奉寄附候所実
  正明白ニ御座候然ル上ハ此後永世一宮社御宝田ニ受附
  可被下候者外ヨり違乱可申出者無御座候依而為後日之
  寄附証文如件
  正徳二年三月 日
                藩州
                奥山寺 地蔵院
   丹州安場村
   一宮社内
右之通り書状一宮社内へ納置候間永世御申伝へ可被下
候様願置侯              以上
              地蔵院住職孝教法印
  加藤三郎兵衛殿
                 (加藤佐市氏蔵)
註、孝教は寺院過古帳に弘敬とあり。
(『中筋村誌』)

一宮神社
鳴竹から左に入り、安場川右岸の台地へ上がると東ノ段の集落である。集落の南端に鳥居が見える。安場の鎮守神・一宮神社である。
入口の鳥居は文政7年(1824)の建立で、両部鳥居と呼ばれる形をしている。さらに奥へ進むと手水舎があり、享保12年(1727)銘の手水鉢がある。この奥正面に本殿が南面して建っている。
覆い屋で保護された本殿は、一間社流造りで屋根は柿葺きである。祭神の国常立尊は『古事記』等によれば大地の神である。私たちが住む豊かな大地を産み、永遠に守讃してくださる神である。
創建について『中筋村誌』は、安場に残る正徳元年(1711)の古文書に、「元は月延口に祀っていた毘沙門天様を東ノ段に移し、一宮大明神として祀った」とあるという。江戸時代中期にこの地に鎮座したと思われる。その後の沿革は不明であるが、慶応元年(1865)に炎上し、明治13年(1880)に再建された。なお、上記の古文書にある昆沙門天像は明治19年(1886)観音堂境内に遷された。本殿へ向かって右に境内社である斎(さい)神社がある。鳴竹にあった才の神を明治6年(1873)移したものである。他に境内南隅に稲荷神社が祀られている。
なお、当社の入り口に建つ両部鳥居について四方晴向は次のように説明している。鳥居の特徴は両社の下部に、前後に貫を通した控柱を設けていて、鳥居の基部を支えるような支柱を持った独特の鳥居である。中筋では当社と高津八幡宮の本参道入り口に建つものと2つのみ見られるものである。また、両部とは密教における金剛界と胎蔵界を示し、一般には神仏混淆の神社に多く見られる。当社の場合は、上記古文書にあるように、仏法を守護する毘沙門天を神社に祀ったこと、即ち、天の部に属する仏像が神として祀られたという神仏混淆を両部鳥居が示していると考えられるとしている。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)


法鏡山清音寺(観音堂)

案内板がある。
安場観音堂の由来
本尊 十一面観世音菩薩
東光院の古文書による『安場村小字鳴竹(此の附近)に大日堂あり、但し、丈四間の巨堂なるを以て安場大堂と言う。支堂十一面観音一宇、又大師一宇寺一宇、即ち法鏡山清音寺と称す。明治維新の際、寺名を除き只庵とす、将又、堂二宇に右三尊を安置し改め観音堂と称す。東光院附属所也』とある。
右の記録はあるように、観音堂には中央に観音像(平安末期から鎌倉初期にかけての作)の外、右側に大日堂の本尊と思はれる大日如来像、左側に弘法大師像が安置されている。
尚郡西国拾壱番の札所にもなっている(法鏡山清音寺)
現在の観音堂は安政五年の建築であるが明治三十六年に藁ぶきから瓦ぶきに改められ安場町公会堂が併設されている。
綾部市観光教会


法鏡山清音寺(観音堂)
所在 安場町鳴竹
本尊 十一面観世音菩薩
由緒沿革
東光院の古文書に清音寺について次の様な記録がある。
安場村小名鳴竹に大日堂あり、但し丈四間の巨堂なるを以て安場大堂と云い伝う。支堂十一面観音一宇、又大師一宇、寺一宇即ち法鏡山清音寺と弥す。明治維新の際寺名を除き只庵とす。将又堂二宇に右三尊を安置し改め観音堂と称す。東光院附属所也。
右の記録にあるように観音堂に観音像(明治十七年塗替) の外大日堂の本尊と思はれる大日如来像(藤原時代かと云はれている)及び弘法大師像(明治十七年塗替)がある。郡西国拾壱番の札所となっている。現在観音堂に公会堂を附設している。公会堂は昭和八年の新築である。
観音堂は安政五年の建築である。初め藁ぶきであったのを明治三十六年十二月瓦ぶきに改めた。
(『中筋村誌』)

観音堂と清音寺
府道を東ノ段への分岐三叉路から右へ少し進み、鳴竹の集落の南端に、昭和8年に建った安場町公会堂がある。その右手に並んで観音堂が建っている。
この観音堂は安政5年(1858)の改築で、かつては茅葺であったが明治36年(1903)に瓦茸となった。堂内には3体の仏像が安置されている。中央の十一面観音菩薩像は、金泥で塗られ全身が輝いている。昭和56年の府文化財保護課の予備調査によれば、総高104cmで、平安末期から鎌倉初期の作と推定されるが、明治17年(1884)の塗り替えが悪質な彩色で像の価値が失われていると評価している。なお、この像はかやの木峠から切り出された榧木で作られたと伝わる。
向かって左の弘法大師像は像高28cm。右の大日如来像は像高42cmの坐像で、宝冠をかむり両手は智拳印を結んで大日如来の特色をよく示している。両仏像は上記の調査によれば、ともに地方作で制作時代は判定困難とされている。
「中筋村誌」に、東光院の古文書に次のような記録があるという。
「安場村鳴竹に大日堂がある。高さ4間もある巨堂なので安場大堂と言い伝えられる。他にも観音堂、大師堂と寺があり、法鏡山清音寺と言った。明治維新で寺名を廃し庵とした。3尊を安置して観音堂と呼んだ。東光院の付属所である」
この法鏡山清音寺は明治初年の廃仏毀釈で廃寺となり、観音堂のみ残され、現在堂に安置されている上記の3体の像は、大日如来は大日堂の、十一面観音は観音堂の、弘法大師は大師堂のそれぞれ本尊であったと思われる。
この観音堂は、上延町の東光院の管轄で、当堂の本尊・十一両観世音菩薩は綾部西国観音霊場の第9番札所である。ご詠歌は次のように詠まれている。
「それぞれに 身の善悪の 影写す 法の鏡の 山ぞはづかし」
なお、観音堂の北隣に建つのは毘沙門堂で、明治23年(1890)に建立され、一宮神社から移された毘沙門天像を祀っている。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)


諏訪城

諏訪城趾
打越峠の西側にある小高い山が城山で、俗に諏訪域と云はれている。今山頂に愛宕神社が祀ってある。昔物部の城主上原氏の一族がここに城を構えていた跡であり、その末流が菅に土暮したのが菅の上原氏であると伝えている。
(『中筋村誌』)

諏訪城跡
拡幅改良された府道三俣綾部線を上延町で突き当たった正面に小高い山がある。安場町の北端に当たるこの山は、城山とも呼ばれ諏訪城があったと伝えられている。
戦国時代に物部城を本拠とした守護代・上原氏が支城として諏訪城を築いたと伝わる。城跡から由良川一帯への眺望もよく、かつて位田の乱では反乱軍の籠る位田城を攻める一拠点ではなかったかと考えられる。城の名は、上原氏の故郷である信州の名社・諏訪大明神(現諏訪大社、祭神は建御名方神)から命名されたものと推定され、物部にも諏訪神社が祀られている。山頂には明治中期に延村の大火災の後、愛宕神社が祀られ愛宕山と呼ばれていたが、現在は他所へ遷座している。
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)

中央のまるい山が城山。右手(西側)に入れば東光院(法隆寺)がある。安場は左手に入る。このあたりは菅というところ。川は安場川(富緒川)。
問題はなぜ物部の上原氏がここに居たのか、物部の飛地か故地か。何か物部と関係がある地だろうかと思われるが不明である。



《交通》
集落の中央を通る、府道三俣綾部線(522号)を南ヘ「かやの木峠」を越すと、上六人部の三俣の生野神社に出る。(道はあるようだが、ヤバそうなので越したことはない)。このあたりの山は鉄があるのでなかろうか。


《産業》


《姓氏》


安場の主な歴史記録


安場
沿革
安場は中世志万圧の一部で、江戸時代大島村の枝郷であった。今東ノ段、西ノ段、鳴竹、平尾の四部落から成っている。
元禄六年の古地図によると、東ノ段十三軒一社、西ノ段十七軒三宇、平尾十五軒一宇となっていて、東西段を安場村、平尾を平尾村と記入してある。猪野の鳴竹には一軒の民家もなく、唯一宇のみ記入してある。これを以て見ると鳴竹は元禄以後出来たものと思はれる。
天保十一年には六十七軒、明治八年には七十軒、紹和二十五年には、六十五戸となっている。小字名には、ハヂ谷、西ノ段、東ノ段、長宮、西ノ前、七斗代、姥ケ前、ヤナ谷、室ノ木、月延、堂ノ下、宮越、鳴竹、下向、稲田、前地、平尾、口吉見、家下、後ケ市、打越などがある。
安場に部落が出来たのは恐らく平安時代以後ではあるまいか。観音堂東側に隣接する竹やぶの中に、昭和二十六年頃平安時代と思はれも陶窯趾を発見したが、これは菅の奥に散在する陶窯趾と一連のもので、これが安場の歴史的年代の上限と思はれる。これと軌を一にして考えられることは東光院古記録にある安場大堂の記事である。今の観音堂の辺りに大日堂、観音堂等があって寺院の規模を備えた法鏡山清音寺が存在していたことである。この寺は少くとも室町以前に建てられている。
思ふに現在の安場区の成立は西ノ段より東ノ段、平尾、鳴竹と発展して行った形跡があるが、西ノ段は山に囲れた小さい台地で、他所から人家があるとは見えない土地であるところから考えると、落武者伝説地にふさわしい所である。相ノ少将の伝説や、加藤氏の家歴等がこの間の消息を物語っている。
(『中筋村誌』)


伝説

青葉の笛
鳴竹集会所。府道三俣綾部線(522号)沿いにある。この奥の観音堂があるあたりも鳴竹である。

このあたりの竹は、笛になる前、山に生えている時にすでにいい音を奏でているという。昼も夜も鳴り続けているという。
それはそうだろう、世に名が知られる前に、すでにその実力は世に知れず現れているのがフツーだ。世に知られるようになってから「才能」が出てくるようなのはヤシであろう。タケノコの頃にすでに美しい音を奏でているのではなかろうか。
しかしスゴスギル竹でないか、ホンマかいなと訪れてみたが、だいたい竹が生えていない。道路からは竹が見えない、何もない。
「竹」は鉄を意味していることもあるから、以外と鉄が採れる地なのかも。。

青葉の笛  安場町鳴竹
青葉の笛って言うのがあるってこと言うとったがな。それの笛のあったとこはここなんじゃ。須磨寺では知っとる人がないかもしれんがなあ。けどここは、「鳴竹」ちゅうてな、ほいでほこでな、言い伝えで聞いとるんにな、むかしから聞いとるんやが、夜さりも昼も鳴り続けとった竹があったんやそな。それは珍しい竹なりするんで、それを敦盛に献上したんやってな。その笛が今いう須磨寺にある何や、たくわえてあるそうやな、それがここの竹なりやったそうな。
(『綾部市史』)

青葉の笛と鳴竹
播州須磨寺に平敦盛が所持していたと云はれる有名な青葉の笛が保存されているが、その説明に「丹後国安場村の産なり」とある由、今安場の加藤孫太夫の所有にかかる古い薮があると何鹿部誌に記載されているが史実不明である。
(『中筋村誌』)

鳴竹の「青葉の笛」伝説地
平尾から府道をゆるくカーブして鳴竹の台地へ上がると、右手の台地の上に竹薮がある。この辺り一帯が名竹伝説が伝えられる所であるが、すでに江戸時代に名竹は絶えていたという。
「ここは鳴竹と呼ばれて、昼も夜も鳴り続ける不思議な竹がありました。平敦盛様へこの珍しい竹を差し上げたところ、この竹で作った笛を愛用され、青葉の笛と呼ばれて有名になりました。今も須磨寺に保存されているそうですが、この竹が安場の産であることを知る人はいないことでしょう」
この伝説について四方暗向は、地名伝説、樹木伝説、奇瑞伝説、平家伝説などに当たると分析し、次のように解説している。『丹波志』は「ナリ竹ト云 安場村在中 字ナリ 往古ハ笛ニキリテ腰ニ指ハ 不笛シテ鳴ル名竹ナリ 今ハ竹ナシ」と記し、江戸時代に、この竹で作った笛は口で吹かないでも腰に指すだけで鳴る名竹と紹介している。時代とともにこの話が誇張されて来て、平家の若武者・平敦盛と結びつき「青葉の笛」となった。当時京の都で笛の名手といわれ、平氏全盛期の平清盛の甥・敦盛は、寿永3年(1184)福原(現神戸市)の都で、源義経が率いる源氏の奇襲攻撃(一の谷の戦い)を受け海へ逃げたが、源氏の武将・熊谷直美と一騎打ちとなり、敗れて26歳の若い命を終える。その敦盛のはかない人生は源平合戦の哀話として『平家物語』に描かれたほか、歌舞伎や浄瑠璃、謡曲、歌、映画などで「青葉の笛」は全国で有名となった。とくに、明治時代に学校唱歌に取り上げられたのが、安場の竹伝説が「青葉の笛」として平敦盛と結合したのではないかと推察している。なお、この青葉の笛は現在も神戸市須磨区の須磨寺の宝物館で陳列されている。
学校唱歌『青葉の笛』の1番の歌詞は、敦盛を追悼して次のように歌われている。
「一の谷の軍敗れ 討たれし平家の公達哀れ 暁寒し須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛」
(『丹波綾部の中筋歴史散歩』)


平徳兵衛
平(だいら)徳兵衛の話(塩買い) 安場町鳴竹
ここから一キロ程奥じゃけどなあ、平(だいら)いうとこがあるんやなあ山に。そこになあ、平徳兵衛という人があったんじゃそうな。
まあそのころはな、そりゃ田舎のことや、米の飯とはそりゃあんまり珍しい位でな、皆いろいろ粗食をやっとったんでのお。そやかて、米のしたぐが珍しかったんやころやったんじゃろと思うんじゃな。
そのじき向いに半兵衛ちゅう人があったんじゃなあ。そのころに平徳兵衛と同じぐらいの年の人が、そこと寄り合いしてな。で、ここら辺は皆、昔は塩いうたら塩買いに行くいうてタナベに塩買いに行きよったんやけど、タナベいうたら今の舞鶴やで。んで、塩いうたら五升、一斗位入った、この藁であんだ俵みたいなもんでな。そういう塩を一袋買って来たり二袋買うて釆たりしおった。でその半兵衛はんちゅう人にさそってなあ、平徳兵衛が、
 「おい半兵衛どん、あした、タナベ塩買いに行こかいや。」
って、よばいなはってな、
 「おーあした行こう。そうかほな行こか、いっしょにおまえ。」
ってまあ言うてな、ほして打ち合わせてな、まあ半兵衛はん返事してのうても自分で言うては自分で返事しておったらしいんやの。それからあくる日、
 「おーい半兵衛はん、こしゃえ、でけた行こう。」
って、
 「今日はさしつかえて行けんのや、明日行こかいや。」
って言うて、
 「ほう明日にするんか。」
 「おーい、かか、今日は半兵衛どんタナベに塩買いに行かんというがや、明日行くっていや。」
って。ほうして弁当こしゃえさしておいて嫁はんに。ほしてその弁当自分が食べべてな、毎日そなことしてやおりおったっていうてな、米のしたぐがめずらしかったらしいんやな。
(『綾部市史』)





安場の小字一覧


安場町
堂ノ下 宮ノ越 月延 東ノ段 西ノ前 姥ケ前 室ノ木 ヤナ谷 造免 家ケ下 打越 後ケ市 稲田 平尾 口吉見 下向 鳴竹 前地 七斗代 長宮 東谷 ハヂ谷 西ノ段 臼谷 打越 月延 東ノ段 平尾 波路谷 西ノ前 鳴竹 野山 長宮 西ノ段


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『何鹿郡誌』
『綾部市史』各巻
その他たくさん



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