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丹波の

仏主(ほどす)
京都府船井郡京丹波町仏主


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京都府船井郡京丹波町仏主

京都府船井郡和知町仏主

京都府船井郡上和知村仏主



仏主の概要




《仏主の概要》
仏住とも書く。上和知の一番奥、周囲を長老ヶ岳はじめ700~800mの山岳に囲まれ、その麓のわずかな平坦地に位置する。東は仏主峠、東北は洞峠で北桑田郡に接し、西は大岩峠を経て何鹿郡に通じている。由良川の支流上和知川が源を発して西流する。川沿いに府道51号(舞鶴和知線)が走る。
仏主村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。延宝年間園部藩の小物成が30種余に達したのに対して、百姓一揆が起きそうになった時、藤田猪兵衛妻おこんは自ら直訴を行い事なきを得た。おこんは直訴の罪により投獄されたが、4年後将軍徳川家綱の室顕子の死により特赦をうけ、元禄11年天寿を全うして世を去ったという(丹波誌)。明治4年園部県を経て京都府に所属。同22年上和知村の大字となる。
仏主は、明治22年~現在の大字名。はじめ上和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。


《仏主の人口・世帯数》 12・20


《仏主の主な社寺など》

長老ヶ岳。標高916.9m

長老ヶ岳は、ホンシャクナゲの自生地、ヒメユリ・イワカガミの群落、また陸産貝類が多く生息し、動植物の宝庫といわれる。
京都府は全般に山は低く、1000メートルを越す山はない。めずらしく当山は900メートル超えの「高山」の一つで、府下では12位の高さがある。しかし下からはその姿が見えない。ワタシは登ったことも見たこともないが、ここにあるという幻の山である。
登山路は、仏主から大松谷を通って仏主峠に登り、郡境沿いに尾根筋を通じる道、上乙見から乙見谷を通じる道、美山町三埜から川谷を通じて仏主峠に達する道がある。山頂は草原状で眺望がよく、丹波山地の重畳たる山並みを一望できる。下から見えないということは上からも見えないので、下界の眺望はないようである。
昭和44年に美山町芦生に府立芦生青少年山の家、同53年には和知町上粟野に府立和知青少年山の家が建設され登山者も増加し登山路の整備もなされているという。
当山には鹿倉山(福知山市三和町菟原)・弥仙山(綾部市於与岐町)と同様に、かつて長老ヶ岳には100ヶ寺に近い寺院があったと伝える。現在も山頂近くの各所に平坦部分や石垣跡があり、密教の盛んであった往古の模様が想像できるという。焼打ちにあったと伝えられるが確証はない。仏像は運び降ろされ、一部は桑田郡の寺院へ、ほかは当村に移された。したがって当村を仏住といい、のち仏主となったといわれる。当村の山中には地獄穴と称される鍾乳洞がある。竜門ノ洞ともよばれ、桑田郡弓削庄(北桑田郡京北町)の奥山にある洞穴に直結するという。さらに山を下った所に径数センチの小穴が二〇ヵ所ほどあり、冷風が吹き出ているので風穴ともよばれているそうである。

『和知町誌』
長老山の伝承
三嶋喜久次家は、長老山の北西山麓一帯を区域とする字仏主にある。この三嶋家には二〇〇点近い近世文書が所蔵されており、うち二七点を『史料集』(三)に収録している。その中に、長老山にまつわる伝承を記した「子孫重宝記」と「丹波国桑田郡棚野諏訪大森社来由」がある。この二つの記録については、『和知町の文化財』の昭和六十二年 (一九八七)三月号と平成元年(一九八九)三月号に高柳弘雲が、昭和六十三年三月号に出野和市が、それぞれ詳しく論証している。
「子孫重宝記」は、昭和十四年十月二十日、三嶋源之助が上久保六兵衛家に伝来していた古書を書き写したもので、末尾に「右ノ古書ハ上久保六兵衛ニアリ、不出来ナモノ」と記しているが、その概要を適宜意訳しながらまとめると、次のようなものである。
大和国橘寺に円能という通力自在の名僧がいた。あるとき丹波道主命の霊夢のお告げを受け、都の北西にそびえる高山の中央にあるという仏像を訪ねることになった。野山を越え、山里を過ぎて、姿のいい山のふもとにたどり着くと、そこには猿に似た異形の人物がいて、この谷の奥に大きな洞窟があり、夜ごとに鳴響しているということであった。翌日、三人の案内人を立て、深山に入り、話に聞いた洞窟を探し当てて中に入ると、目を爛々と光らせた竜姫がいて円能につかみかかろうとした。そこで円能が呪文を唱えると、竜姫は鴟(ふくろう)に変身してしまった。
円能法師がさらに谷川を登り詰めていくと、山頂には蛙仙人が住んでおり、円能と話を交わすうち、仙人は円能に尊敬の念を持つようになった。そして仙人は、この名山を貴僧にお譲りすると言い残し、白雲に乗って立ち去った。それにより円能はこの山に住まいすることになり、寺を建立し、弥勒菩薩を本尊として、寺名を保登山明光寺と号した。そのころ円能は里人の出入りを禁じ、一七日間の祈祷と修行を行った。終わった日の夜、薬師如来が現れて「この谷を聖力谷と号し、麓の在所を仏ノ住と名付けおく」と申された。
その後円能は里人を誘い、聖力谷に七堂を建立し、薬師如来を本尊に、日光・月光菩薩を脇侍として祀り、発心山日円寺と号した。舒明天皇の十年(六三八)、円能はいったん大和の橘寺に戻った後、欽明天皇の曾孫幸太郎を弟子として帰山した。幸太郎は落飾して円勝坊と名乗り、後に師の譲りによって長老となり円勝大伝法師となった。以後、この山を長老峯と呼ぶようになった。建久七年(一一九六)三月、開山円能から十八世の道元が越前の国へ行ったため、ついに明光寺は廃寺となった。
 「重宝記」には、誤字・脱字や意味の理解できない字句などがあり、年代の矛盾するところもある。三嶋源之助が「不出来ナモノ」と記したとおり、史料としての価値は乏しいが、長老山と仏教信仰との間に何らかの関係があったのかもしれない。長老山の西側山麓に、寺屋敷跡と考えられる古い石垣の残っていることを知る人も少なくない。

霊峰と修験者
長老山は和知谷を囲繞する山々の中でも、ひときわ抜きん出た九一六㍍の高峰である。古代の人々も四季折々、いろいろな感懐を持って仰ぎ見たと思われる。そして、稲作が伝播し、定住農耕が始まるようになると、農耕に欠くことのできない水の源として、また、山菜や榑・薪などの採集地として、より生活に密着したものになったのであろう。古来わが国には、水分神や精霊の宿る場所として山岳を崇める信仰が生み出されている。ときには山崩れや出水などの災害をもたらすことはあっても、それは山に宿る精霊、神のなせる業として畏怖と崇敬の念を抱かせたのである。長老山がこうした信仰の対象となったことは、容易に察せられるのである。
「重宝記」の中の主要人物である円能が生きたとされる時代は、仏教伝来後まだ日が浅く、修験道の開祖と仰がれる役小角が活躍するのは数十年後のことで、後に修験道と深いかかわりを持つ密教が空海によってもたらされたのは、さらに数十年後のことである。
しかし、古くから民俗的な山への信仰はあり、野や山に伏し、高山や秀峰で呪験力を高めるための修行をする山伏と呼ばれる修験者も存在していたと考えられている。山腹に石灰岩の洞穴があり、山頂に岩石の散在する長老山は、彼らにとって格好の修行の場となったに違いない。このように見てみると、円能が美山町側の山麓で出会った、猿に似た異形の人物や、洞窟で出会った鴟の化身竜姫、山頂に住んでいた蛙仙人などは、こうした修験者であったとしてもおかしくない。
羽黒山の開山能除太子は、鼻の高さが九㌢余り、眼は大きくつり上がり、口は耳まで裂け、何とも異様な人物であったと伝えられている。また九州の彦山は、白虎を追って山中に入った猟師が法師に諭され、出家して開山したといわれる。
このように、有名な山岳寺院の開基伝説には、異形の人物・動物や土地の猟師などが登場する。長老山の伝承にもこうした道具立てがそろっており、それが後世に付け加えられたものだとしても、古代に、神仏を祀る寺院が開かれたことまでも否定することはできないように思われる。一見稚拙と思われる伝承にも、ときに、見逃せぬ史実が秘められているものである。

仏主から棚野へ
「棚野諏訪大森社来由」は、長老山の東側、美山町棚野にある諏訪大森神社の由来を中心に、近在の伝承を記したものである。長老山に関する部分は「重宝記」とほぼ同様であるが、山頂の保登山明光寺には触れておらず、円能が和知側山腹に建立したという発心山日円寺を保登山弥勒寺としており、「後代ニ至リ七堂ヲ柵野ニ移シテ保登呂弥勒寺成願院ト号ス」と記している。現在、中風寺として広く信仰を集めている美山町松尾の成願寺は、真言宗御室仁和寺派で、薬師堂に安置されている薬師三尊は、鎌倉期以前の作といわれている。ところで三嶋源之助は、昭和十四年(一九三九)に仏主の薬師堂の書器を調査したとき、貞享二年(一六八五)二月の年号の入った鰐口に「丹州船井郡和知庄仏主村発心山」の銘のあることを付記し、古く七堂を有して栄えたという日円寺と薬師堂との法脈を裏付けている。
以上から推測すると、日円寺と弥勒寺は一つのもので、堂宇のほとんどを棚野村(大字豊郷)に移し、一部を仏主に残したものを考えられる。棚野に移された時期は明らかでないが、「成願寺文書」によれば、大治三年(一一二八)、この他に平等寺という大寺院が建立され、元久三年(一二〇六)に再建、応長二年(一三一二)に再再建されている。日円寺(弥勒寺)の移転はおそらくこの平等寺の再建もしくは再再建のときでなかったかと思われる。そして、再建(再再建)を機に寺名を改めたのであろう。
ちなみに「重宝記」は、開山円能の入寂を孝徳二年(六四六)九月、没年九三歳と伝えている。逆算すれば円能の生誕は五五三年で、仏教伝来の起源とされる、百済の聖明王から釈迦仏像・経論が献上された翌年のことである。また円能が僧籍を置いた橘寺の創建は推古天皇二年(五九四)とされている。いずれにしても円能が長老山を訪れたとされるころはまだわが国の仏教の揺藍期で、そのころ、長老山に霊場は開かれたとしても、仏主の深山に七堂が栄えるのは、和智庄が仁和寺の荘園となって以降のことではなかったかと考えられる。


鎮守は細谷の阿上三所神社。
山の神。公民館の脇に鎮座



檀那寺は細谷の曹洞宗昌福寺


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


仏主の主な歴史記録


義民藤田猪兵衛と妻女おこん
『和知町誌』
義民藤田猪兵衛の越訴
越訴事件
慶安元年(一六四八)のいわゆる慶安内検を基礎として税制を確立し、封建時代を強化した園部藩政にとって、寛文六年(一六六六)一つの事件が勃発した。それは、和知仏主村の藤田猪兵衛(伊兵衛ともいう)・おこん(をこんともいう)夫妻による京都所司代への越訴事件である。
 《注》越訴とは、支配の順序を越えて訴えること。
一般に江戸時代の百姓一揆は、初期の段階では、村役人が村民に代わって越訴することが多かったが、次第に一般農民を主力とする大規模な強訴に発展し、後にはさらに地主・富農・高利貸に対する貧農・小作人を中心とする村方騒動や打ち壊しが数多く起こるようになる。
江戸幕府が、こうした徒党・強訴などの百姓一揆を特に禁じ、褒賞銀を与えるとしてその企ての密告を奨励したことは周知のことで、藩も既述の触や達により機会あるごとに領民に徹底させている。当然、首謀者に対しては懲らしめのため厳罰で臨んだ。この時代の法度では、一揆の頭取(首謀者)は死罪、名主(庄屋)は重追放、組頭は田畑を取り上げのうえ所払、惣百姓は村高に応じて過料というものであった(「御定書百箇」)。
近世日本史上有名な下総国(千葉県)佐倉藩領で起こった佐倉宗吾の越訴事件は、正保二年(一六四五)とされ、初期の百姓一揆の代表と言われている。猪兵衛の義挙はその二一年後で、軌を一にする性格の百姓一揆であった。
この事件は、園部藩の支配体制、特に厳しい年貢増徴に抵抗して起こった百姓一揆と言える。猪兵衛が仏主村の庄屋であったという確証はないが、村役人の一人であったことには間違いない(藤田家は慶安内検では高五石以上を保有していた。この地方では上農層に属する)。猪兵衛は、この一揆の頭取(先頭に立つ者)格ではあるが、決して彼一人の計画ではなかったことが、訴状の中からうかがわれる。また、訴状の内容からみて、関係する村々が、和知はもとより、船井郡内の藩領全域、現北桑田郡美山町および何鹿郡一〇ヵ村に及んでおり、これら各地の詳細な情報が収集されているところからも、猪兵衛の一人の力では到底なし得ることではない。領内各村の代表者が、仏主村に集合して情報を収集し、計画を練ったと思われる。そのためには、仏主村は、上林方面や野々村(現美山町)方面へは峠を通じて交通に便であり、何よりも山間の村里として隠密行動には地の利を得ている。こうした中で、猪兵衛が推されて頭取になったのではなかろうか。また、彼にはそれに値する器量があったのであろう。
なお。一揆発生の引き金となることの一つに飢饉や凶作などが深くかかわっていることが通例である。寛文六年は全国的な凶作の年であり、七月諸国洪水、伊予(愛媛県)・土佐(高知県)・伊勢(三重県)大被害。美濃(岐阜県)・尾張(愛知県)七月から八月にかけて豪雨。十一月幕府は全国的凶荒により、江戸・京・大坂・堺そのほかの村々の酒造量を半減させるという措置を取っている(『近世生活史年表』)。また、丹波では、「二月綾部藩が麦を買入れ窮民に貸付け、八月から九月にかけて七回の大洪水があり、不作」と『丹波史年表』(松井拳堂著)に記録されている。こうした災害による凶作は、大きく農民たちを一揆へと駆り立てたのである。そこで、猪兵衛が
取った方法は、領内農民に代わって、年貢減免を京都所司代へ越訴という手段で要求した。
さて、藤田猪兵衛の起訴事件については、現在二つの資料が残されている。その一つは、『園部町史』所載の「略史前録草案」、もう一つは『丹波誌』(大正十四年〈一九二五〉、北村竜象編)である。前者は支配者側の資料であり、後者の『丹波誌』は、地元和知の資料「藤田をこんニ関スル記録」に拠ったと思われる節がある(後述)。事件の時期については、前者が寛文六年であるのに対し、後者では延宝年間(一六七五~八一)としている。また越訴の首謀者も、前者が猪兵衛で、後者はその妻をこんとなっている。ちなみに前出の『丹波史年表』では。
  延宝三年十月 仏主村藤田おこん農民の重税を救わんとし巡察使に直訴して入獄す。
  延宝四年十一月 将軍の室顕子薨去により義婦藤田おこん特赦さる。
と、後者の立場を取っている。
以上のように、この越訴事件の史実については、資料によって時期や首謀者、事件の経緯などについて異なっている。一般に、百姓一揆の事績を後世の人々が語り伝えていく場合、一揆そのものを伝承するのでなく、頭取として活躍した人々の事績として伝承される場合が多い。このような伝承を義民伝承と呼んでいるが、猪兵衛・おこんの事件も、この義民伝承としての性格の強い面もあるように思われる。

事件の概要
まず「略史前録草案」によって事件の概要を見よう(読み下し文)。
寛文六丙午年十一月十六日、仏住(主)村の猪兵衛、京都所司(代欠)板倉内膳正殿へ出所致し候。右意趣は公儀より御定めの水帳(検地帳)の外に大分の高免并に課役数ヶ条を掛けられ候につき、惣百姓甚だ困窮に及び候。止むを得ざる事言上に及び候条、御吟味下され候様にとの義なり。
尤も度々に及び目安(訴状)差上げ候につき、内膳正殿に於いて、御穿議これあり候。これにより翌年二月朔日、宇野儀兵衛御走りなし候て、対決これある所、儀兵衛申し候所の趣御聞届け、御尤もの筋相立ち、猪兵衛重々不届者に相極り、此方様へ御渡しなさるべく候間、いか様にも仰せつけられるべき旨仰せ渡され候。右につき同年三月廿二日、吉田勘八・本郷与右衛門に仰せつけられ、猪兵衛これを請取り、牢舎仰せつけられ、妻子は在所へお預けなり。右の趣に候え共、思召し御座候由にて、死罪は仰せつけられず、そのまま獄舎に差し置かれ。畢竟牢下しになり候なり。

これが「略史前録草案」に書かれている事件の概要である。平易に述べれば次の通りである。
寛文六年(一六六六)十一月十六日、仏主村の猪兵衛が、京都所司代板倉内膳正重矩に訴状を提出した。その意図は、幕府の定めた検地帳以外に高率の税や課役を百姓に負担させているので、百姓一同は困窮している。やむを得ず訴状を提出するので、十分吟味・検討してほしいと申し出た。
内膳正殿はたびたびの訴状について検討され、翌年二月一日、園部藩士宇野儀兵衛(二〇〇石取り)が猪兵衛と対決したところ、儀兵衛の言い分が正当で、猪兵衛は重々不届き者ということに決まり、どのように処置してもよい、と身柄は園部藩に引き渡されることになった。藩では、三月二十二日、吉田勘八・本郷与右衛門の両人に命じて、猪兵衛を牢舎に入れ、妻子は在所仏主村へ預けた。思し召しによって死罪は仰せ付けず、そのまま獄舎につながれた。
 《注》板倉内膳正重矩(一六一七~七三)は、園部藩主小出吉親の女婿重昌(一五八八~一六三八)の長男であることは既述の通りである。重矩にとって小出吉親は外祖父に当たる。『国史大辞典』によると、重矩の京都所司代就任は寛文八年六月十一日であるから、「略史前録草案」の「寛文六年、板倉重矩に訴状を提出した」という記述には疑義がある。

さらに、同書には、
(A)仏住猪兵衛京都奉行所へ差上候訴状写
(B)仏住村猪兵衛目安右の趣ニ付雨宮権左衛門様へ御役人より差出候書付の写
(C)今年九月 寛文八年 在中課役御免の分
と、三項目についてこの事件の関係史料が記録されている。すなわち、(A)は猪兵衛が京都奉行所へ差し出した訴状、(B)は(A)の訴状を受けて、園部藩士宇野儀兵衛が、京都町奉行雨宮権左衛門(正種)へ提出した返答書。(C)はこの事件の後、寛文八年になって、園部藩が実施した減税の内容である。これらはかなり長文で読みずらいが、以下全体を述べてみたい。

猪兵術の訴状
まず、(A)の「仏住村猪兵衛京都御奉行所へ差上候訴状写」の前文では、園部藩では、幕府公認の検地帳以外に高率の税や年貢その他の諸役が課せられているので、百姓は困窮しているから訴訟に及んだと述べて、次の諸点を訴えている(訴状の各項目について、藩側が猪兵衛から聴取した内容が追加されているので、その分を[ ]内に含めて述べる)。
 一、小出伊勢守(吉親)様が知行所になされてから四八年間(元和五年〈一六一九〉~寛文六年〈一六六六〉)間違いなく御年貢を納め、役儀も動めてきましたが、一五年ほど前から諸役儀を多く課せられ、一○年ほど前からは百姓は足腰も立たなくなるほどの難儀をしております。そのため言上致します。知行所内の百姓どもはもはや藩内には住めない状況ゆえ、御慈悲を蒙って、百姓の困窮を救っていただければありがたく存じます。
 一、まず御公儀の御水帳では、和知は一六〇〇石のうち、川成四石八斗となっているが、現在では四〇〇〇石に増やされました。〈これは、田畑へ竿を入れられた結果(慶安内検によって)、このようになりました。殊に銀成の村々がほとんどであります。〉


『和知町石の声風の声』
義民藤田伊兵衛と妻おこん
佐倉宗五郎の子別れの芝居を見て泣がぬ人はないであろう。此の地に住むようになって間もない時であった。堀兵三郎さんがら、仏主に昔子供を背にして、殿様に直訴して、子供を余り堅く背に負ったので子供を殺してしまった妻女があったと聞いた。その後多くの人にその史実を聞くことに努めたが、その資料は、京都大学へ出したままになって居るとかで見ることが出来ながったが、大体のことは判った。延宝元年(一六七三)時の庄屋藤田伊兵衛がある日藩から呼び出しがあって出かけた。帰って妻にも何事も言わず物思いにふけっているばかりだった。それもその筈、実はその呼び出しの日は大変の御馳走が出て非常に歓待された後、重い課税を言い渡されたのであった。時の百姓の生活状態ではとてもそんな重税は出せないことを承知している伊兵衛はその事を誰にも言わず、それを断る決心
を既に心にきめていたのである。そして妻女おこんに向って、今度お呼び出しあった時は、二度と家には帰れまい。その時は書き遺した書類があるから、それを殿様に差し出すよう依頼したと云う。其の後果して呼び出しが来て、伊兵衛は其のまま牢に継がれてしまった。そして三年後に遂に牢死してしまった。後に残ったおこんは、二人の子供を抱えていた。夫伊兵衛の遺命は直訴であった。死は元より覚悟しなければならなかった。子供に対する母親の愛情を断ち切ることはどんなにがつらかったであろう。考える丈でも涙を催すことである。幾日かの間、そのなやみに子供を背にしながら、子守り歌を歌いながらさまよったところを歌田と今でも呼んでいると仏主の人から聞いた。又遂に意を決して子と手を振り切ったところ手放しか原と呼んでいるとも聞いた。延宝三年今の美山町の板橋で殿様の駕籠をとらえて直訴に及んだ。一人の子は余りに堅く背に括りつけたまま夢中で走ったので、遂に背中で死んでいたと伝えている。幸い直訴の趣きは取り上げられて免税となった。けれどおこんは、直訴の罪で投獄された。四年後時の将軍徳川家綱の室顕子の死による特赦で出獄元禄十一年天寿を完うして此の世を去ったと云う。今その墓前にぬかずけば、碑は巾尺足らず高さ二尺五寸もあろうかと思われる自然石に、大円休真信士延宝三年四月二十一日、秋光永須信女元禄十一年、と戒名も仲よく表面に並べて刻まれている。何と美しい碑だろう。人の為めに意地を通した夫、その遺志を継いで立派に果した妻女、意志相通じた夫婦の碑、霊界ありとすれば、今はどんなに、美しい夫婦仲だろうと羨みないような夫婦愛をこの碑に想像するのであった。仏主の取りかかりの高台に南向きに立っている。満山紅葉、夫婦の赤心か燃え出したように美しい景色の中にある。


『和知町石の声風の声』
万延一揆
百姓一揆はその発祥地は丹波地方であると言われているが、現在その史実の明らかにされているのは殆んどない。大正四年船井郡教育会発刊の船井都誌によれは、万延元年(一八六〇)十一月十三日上大久保村に一揆が起り同村酒屋辻金右ヱ門方に押し寄せて乱暴し、同家を破壊した。その勢をかって水原村(現瑞穂町水原)に来て、呉服商菊屋に押しかけ同家をつぶし、明くる十四日には檜山に出て、旗本領の掛屋西野又兵衛方に乱入、槌や斧で手当り次第に家具道具をこわし、さらに三の宮粟野妙薬寺などの地方に押しかけ乱暴を行った。この時の暴民は二千人を超える多数で、ミノを着笠をかぶり、手に手に鍬斧升やらなどを持っていた。沿道の商家は災害をまぬがれんため、焚き出しをして酒食を与えみんなペコペコ頭を下げて、暴民の気に入れられようとした。やがて暴民達は二手にわかれ、一手は瑞穂町檜山須知を過ぎ、他の一手は同じく檜山から高原村(現丹波町)を通って須知に出て、ここで合流、さらに勢に乗じて狼藉を働こうと企てたが須知には亀山藩から多数の藩士が出張して防衛に当っていた。血気にはやった暴民は、竹やりを急造して藩士達と一戦を交えたが、結局散々に撃退され主謀者等数人が捕えられたため、さすがの暴徒も四散、四日間にわたった騒動も漸く落ちついたと記している。然しこの騒動による被害地域は十数ケ村に及び、数々の流血を見た惨事であった。この当時としては地方にては珍らしい事件であった。主謀者は網野峠で何れも露とその命は消えたのであった。京都東町奉行所が罪状の高札を掲げたその高札文には、一揆の原因は上大久保村の酒屋金右ヱ門の酒値が高く、酒作りの時節には米の値段も上げたのを憎み、同村の半左ヱ門など三人が強談しようと計画、農民を煽動したのが大事になったと書いてあった。
ところが同じ万廷元年の六月二日、この和知町に於てもあたかもこの一揆の先駆とでもあるかのように起きいるのに驚いた。それは園部藩の物産係の須知の山崎某か、悪徳の暴利を貪っているのを怒って、奥和知の方から暴徒が立ち上がって、仏主に於ては、生糸及茶問屋岡本喜功宅を襲い、塩谷の某家、酋河内某宅に押し入り乱暴を働いた。下之方本庄では酒屋長左右門宅を打ちこわし、与左ヱ門宅へ押しかけたが、役人衆の鎮圧と話合いで漸く退散したか、連絡不充分のため、広野大簾方面の一派は、広野村庄良浅七、年奇嘉左ヱ門宅へ押しかけ乱暴を極め、勢を待て草尾峠を越えようとしたが、園部藩士に鎮圧されたと云う。主謀者は座敷牢に入れられたと云う。何か此の時代に於て藩と農民との間に存在した特種な搾取階級が農民を苦しめたのではなかろうか。酒屋油屋呉服商生糸問屋茶問屋等がその階級と見られもする。


仏主の伝説


『和知町石の声風の声』
肱折地蔵
仏主行きのバスが、上粟野を過ぎて仏主に近づく頃、道のかたわらに一つのお堂かある。此の御堂に祭られている地蔵さんを肱折地蔵と地方の人は呼んでいる。腕の痛む時、その一切の肱の病気になった時、其の平癒を祈願すると直ぐ治して下さるとて、今でも参詣者が多いそうだ。此のお地蔵さんには次のような伝説かある。昔浪人か武者修業者かが今此のお堂のある地点を通りかかると山の方から、「出すぞ。」と大声での叫びかあった。くだんの武士か、「出して見よ。」と答えるや否や、ニュッと大腕が山の方から突き出た。ハット一瞬驚いたか、さすがは武士、一刀抜く手も見せず、その腕を切り落としてしまった。けれども切った後の恐ろしさに、その腕を葬りそこにお堂を建て地蔵尊を祭ったのだと云う。このお地蔵さんに願かけして癒るとその御礼に、板で腕の形を作り供えるのだと聞いた。今お堂の中を見るとその板で作られた腕が沢山供えられてあるのが目につく。中には紙に腕を画いて供えたのもある。地の人の話では此の頃は紙に腕を画いたのか多くなったと云う。話して呉れた大は、人情も紙の如く薄くなった為めかも知れないと、しゃれたお話であった。
現在の御堂の建立は文政十二年(一八二九)三月二十二日で寄進者三島源七と書かれた板が教えて呉れた。御堂の建て方は一風変っている。二間四方の茅葺きは珍らしくはないが、其の前半か土間で後半が、一メートル高く床が張られ段々かあり、格子戸がありその奥に祭壇が設けられている。前字の屋根裏はむき出しになっているのである。お堂の側面道路に向って一字一石塔が一基ある。此の一字一石塔に就いてはそのところで書くことにする。


サヘの神
肱折地蔵さんにお参りして仏主の家の密集地域へ行く途中、道路拡張の為め切りとった岩の上に、小さい木作りの祠がある。土地の人に聞いたら、サヘの神と教えられ、旅に出る時足が丈夫であるよう又旅の無事に終るよう祈願すると云う。それから柳田国男先生の民俗辞典でサヘの神を引いたら、昔関所を作った時、国境のしるしとして、ほりや柵などを設ける代りに神を祭った。即ち境の神と云うのがつまってサヘの神となったとあり、関東方面ではこれを道祖神と呼ばれるとも書いてあった。筆者は関東生れ、この地に住んで道祖神がないのか、不思議でならず又淋しくてはならなかった。ここでサヘの神が道祖神の事であることを知って嬉しかった。それと云うのは、子供時代の道祖神の祭りがなつかしく時々思い出したからだ。和知町には関係ないことであるか、道祖神の祭りの様子を紹介する
と、村分辻々に、道祖神又は道髄神と大きな字を刻った自然石が建ててあり大きいのは巾一メートル高さニメートルもある。中に玉垣に囲まれたのもある。祭りは二月の初午で、子供がこれを行なう。当日の二三日前から十五才を頭に小学生一団となって道祖神の在る場所にむしろ藁などを持ち奇って小屋掛けをする。当日は各家では藁で作った馬(高さ三〇糎位)を木製の径十五糎位の四輪車に乗ったのを準備し、それに、その日に搗いた餡餅又は黄粉餅五個宛入れた藁苞、これを一俵と云うのを五俵荷けて、幼児がこれを牽いて道祖神に参る。そして三俵供えると他家で供えた一俵返して貰うのであった。このようにして余分のお供えの餅は、子供団の当番の家で、おしるこにして貰って過すのであった。此の他子供等のために、菓子、あられ、砂糖まぶしの煎り豆など供えられ。子供等は此の日は食べ放題、芝居のまね事、幻燈などをして遊ぶのであった。




仏主の小字一覧


仏主(ほどす)  アゾ 溝ノ脇(みぞのわき) 堂ノ谷(どうのたに) 川原(かわら)  谷口(たにぐち) 岩ケ尾(いわがお) 田尻(たじり)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『和知町誌』各巻
その他たくさん



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