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丹波の

本庄(ほんじょ)
京都府船井郡京丹波町本庄


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京都府船井郡京丹波町本庄

京都府船井郡和知町本庄

京都府船井郡下和知村本庄




本庄の概要




《本庄の概要》
西流する由良川が南に湾曲する地域の右岸段丘上に位置する。南部を国鉄山陰本線が東西に走り、和知駅がある。旧国道27号(府道59)が川沿いに走り、駅前および国道沿いに商店街がある。比較的住宅が集中し、町役場もここにある。
由良川がこの地域で南に湾曲していて、右岸の段丘が輪のように突出している。輪地かも知れない。
参河国渥美郡和太郷は、今の愛知県渥美郡渥美町和地で、あるいはワチはワタの転訛かもしれない、安曇系海人の地だったのかも知れない。
中世には和智荘の荘域で、天正年間には九条家領「和智村」のうちとして「本庄村」と見え、九条家に年貢を進納している。

本庄村は、江戸期~明治22年の村。元和5年から園部藩領。明治4年園部県を経て京都府に所属。同22年下和知村の大字となる。
本庄は、明治22年~現在の大字名。はじめ下和知村、昭和30年からは和知町の大字、平成17年からは京丹波町の大字。
明治43年8月京鶴線(現JR山陰本線)園部~綾部間が開通し、地内に和知駅を設置。以後駅前に商店街が形成された。昭和30年町役場が設置され、同43年府立林業試験場が開設した。



《本庄の人口・世帯数》 242・612


《本庄の主な社寺など》

江戸時代当地域の主要道は小畑村を通っていたが、当地は由良川舟運の主要港であったという。由良川が大きく湾曲して流れるために河岸が長くなり、また河原が拡大する。この広い河原が荷物置場に不可欠で、舟運の利点を備えていた結果、由良川中流の最大の港として利用されていた。河岸平坦部には今も小字浜が残るという。主には木材だろうか、今も林業関係が多いように見られる。
小字浜一帯は本庄遺跡と称され、石器未製品・土師器片・須恵器片などが散布しているという。


阿上三所神社

阿上三所神社(あじょうさんしょじんじゃ)は、和知第一小学校の南側、ちょっと高い所に鎮座する。祭神は、豊受比売命・三穂津比売命・誉田別命。旧郷社。
天明4年(1784)火災に遭い旧記を焼失したので沿革など詳細にはわからない。本庄という地名や社伝から考えて、中世、和智庄の総社であったと考えられている。伝えによると、当社は貞観(859-877)以前は当社背後の天王山(遺跡がある)に鎮座していたといい、農蚕業に関係が深かったという。草創については豊受比売命が摂津国から丹波比奴の里に帰る時、この地に立ち寄ったことを起源とすると伝える。また「明治神社誌料」によれば、古書に「貞観三年左近衛将監物部□□従六位下志麻副茂等闢社地建祠云々」とあるといい、一説には天喜3年(1055)悲上(氷上か)の人の創立ともいう。徳治3年(1308)阿闍梨禅信が今の地に遷祀し、延文3年(1358)祐信が再興、明徳2年(1391)民部房がまた興したともいう。現社殿は天明焼失後享和2年(1802)に再建されたもの。
古く阿上神社と称していたが、元禄14年(1701)、卜部兼敬・神部伊岐宿禰が奉幣使として遣わされ、以後正一位一宮阿上三所大明神と尊称することになったと伝えるが、園部藩奉行所が整理した元文5年(1740)5月日付の「寺社類集」には「本庄村 正一位阿上大明神」と記す。
本庄・大倉・中山・小畑を氏子とし、厄除の神として崇敬されており、毎年2月19日夜には厄除の祈祷があり参拝者が多いという。


『船井郡誌』
社格  名称   祭神   創建年月  社格公認年月 所在地
郷社 阿上三所神社 豊受比売命 三穂津姫命 誉田別命 徳治三年(再建) 明治六年六月 大字本庄

『和知町誌』
阿上三所神社(本庄)
由緒と治革
和知には阿上三所神社と称する同名の神社が四社あるが、そのうち惣社と目されているのが当社である(前出)。古くは、正一位阿上大明神と称した。当社の資料としては、『本庄阿上三所神社略記』(以下『略記』という「明治四十一年(一九〇八)九月刊『郷社阿上三所神社沿革略』(以下「沿革略』という)および『史料集』(三)所収の「木下仁郎家文書」などがある。
祭神は、応神天皇・三穂津比売命・武甕槌命(『神社明細帳』)とも、豊受比売命・三穂津比売命・誉田別命(京都神社庁船井郡支部編『明治神社志』上)ともいう。
『略記』によると、「創立の年月日は不詳で、口碑の伝えるところでは、貞観(八五九~八七七)以前は、天王山の鎮座で、毎年正月十九日と九月八日に、農蚕に由ある祭礼を行い、徳治元年(一三〇六)、現在の地(本庄宮ノ下)に遷座し奉り、正月十九日の御田植祭と御蚕飼式は今に絶えず行われた」。
ただし、この御田植祭と御蚕飼式は現在は行われていない。その執行の模様は後述の下粟野の阿上三所神社のそれにより類推できる。
農耕と養蚕が民衆の生業として最も主要なものであったことから、産土神に豊作と無事を祈ることは、けだし当然のことであろう。こうしたことから、祭神の三神中、一神は豊受比売命と言える。かつ、古老一般の口碑に、豊受比売命がかつて摂津より丹波に遷りたもう途次、五穀の種子と蚕を授けられたという。『略記』はさらに「延文三年(一三五八)、明徳二年(一三九一)、元禄三年(一六九〇)等に社殿を改築し、天明四年(一七八四)七月回禄(火の神)の災あり、享和二年(一八〇二) 三月再建す。今の社殿はこの時の再建である」と述べている。
なお『略記』には、阿上(あじょう)という社号の起源については、「今は得て知る能はずと雖ども往古より称へ来れるは明なり」とある。一説に「河上」の誤りではないかという説があるが、これは享和二年三月二十一日、神祇管領卜部朝臣良運が当社に秦上した祝詞の中に河上三所神社とあることから生じたものである。ところが、同月同日、良運卿より奉納した御幣帛ならびに同人御親筆の額面および神祇管領よりの数通の許状などは皆阿上三所神社となっている。その他の古書旧記などを全部探したが、ほかに一つとして証拠を兄いだせなかったとして、「彼の祝詞の河上はたまたま筆者の誤りしもの」と述べて河上説を否定している。
当社は、和智庄の惣社としてこの地方の重要な地位を占める神社であった。『寺社類集』にある通り、村の産土神に違いない。古代より農耕や養蚕の神である豊受姫を主神とするものである。しかし、この社を分霊したという坂原村と下粟野村の阿上社が、ともにその祭神を異にして、伊諾那岐尊、国常立尊、伊諾那冊尊としているのは理解に苦しむものである(後述)。

享和の造営記録
次に、享和二年(一八〇二)の当社造営の記録が、木下仁郎家に保存されているので(『史料集』(三))、これによ。述べる。前述のように、当社は、天明四年(一七八四)七月二十四日炎焼したが、寛政十年(一七九八)より再建工事に着手し、五年の歳月を費やして、享和二年に完成し遷宮した。
当時、地方神職に絶大な勢力を有していた前出の京都吉田家に対して提出した再建願には、
                   右間 八幡
一、正一位阿上大明神本殿 中間 伊予津留比女
                   左間 春日
一、御位  元禄十四年辛巳八月廿八日
一、御除地 境内 竪横 五拾間 六拾間
一、御本殿 一宇  三間二間
          板葺
          鞘 表萱葺
     小社 一宇  但シ旧キ遷座有之
     鳥井 一台
     拝殿 一宇  二間二間半
     清殿 一宇  三間二間半
   其外建物一ヶ所  五間三間(覆屋?)
                    (以下略)
と再建の規模を記している。
また、文化二年(一八〇五)九月には工事費の決算を表94の通り示している。それによると、工事費総額は銀一一貫七〇〇匁(当時、米一石銀七五匁に換算して米一五六石)を要したことになる。
(注)表94について若干の補説を加えると、収入の部に当たる金集方のうち、氏子中かいこ百一歩札というのは、養蚕農家が養蚕収入の一〇〇分の一を出金して、酒肴を調えて本尊を祭り一日宴を催して歓を尽くした行事に由来して、氏子が収入のl00分の一を拠出したものである。阿上社の普請に当たり、氏子の八力村は寛政九・十の二年分の百一歩の銀を約八四〇匁出金した。各村の出金は表95の通りである。当時の各村の養蚕収入の実態を知ることができるので掲げる。
園郡三十人講札は、後述の藩営頼母子講よりの収入を充てたものであろう。次の氏神五百人講札というのは、寺社などに興行が許されていた富籤である (古典落語の題材で今日でも演ぜられる)。この富籤は、記録によると、寛政十二年から三年間に一七回興行して、七買八〇〇匁弱を集めて、最高の収入額を占めている(『史料集』(三)三一五~三一七ページ)。
次に、支出の中で毅も多い費用は、木挽・大工・左官・石屋へ支払った手間賃九貫二四六匁で、支出総額一一貫六八〇匁の約七九%を占めている。用材はすべて欅(槻)が使われ、大部分は氏域の各村から拠出しているが、一部買木もある。木挽は小畑村の重右衛門が当たり、大工は桑田郡穴太村(現亀岡市曽我部町)の兵右衛門ほか二名が請け負っている。
なお、設計書に当たるところの「御宮注文仕様帳」と「追加仕様書」が残されている(『史料集』(三)三一二・三一五ページ)。当然のことながら現在の社殿の構造と合致する(建築については、(財)京都府文化財保護基金編『京都の社寺建築』乙訓北桑南丹篇に詳しい)。また本殿脇障子には「彫物師栢原住中井丈五郎正忠」と銘記され、彫物は近世の但馬・丹波・丹後各地方の寺社建築に活躍した中井氏の手になることを伝えている。
(注)中井氏は、但馬柏原にあって代々彫物大工を家業としてきた。家祖から三代までは大工であり、四代高次のとき彫物大工に転じ、以後昭和の戦前までの家業となった。近世の建築は、建築の随所を飾る彫物の出来栄えが評価されるようになったが、こうした動向を反映して、彫物大工としての中井氏が頭角を現し、優れた作品を残している。丈五郎(?~一八二一)は中井氏五代目に当たり、和知のほかに三和町大原神社などの彫物をも手がけている(日本建築学会近畿支部『研究報告書』)。
ちなみに現在の主要建物を挙げると次の通りである (『沿革略』)。
本殿
  梁行拾壱尺七寸二分(三・五五㍍)桁行拾六尺一寸(四・八八㍍)
  棟高二拾壱尺六寸五分(六・五六㍍) 軒高拾五尺一寸四分(四・五九㍍)
  向拝出六尺九寸(二・〇九㍍) 流造唐破風附 屋根柿茸
  寛政十年八月普請に着手し五ヶ年の日子と拾参貫有余の資金を投じて享和二年三月竣功
本殿上屋
  梁行三十二尺四寸(九・八二㍍) 桁行二十八尺八寸五分(八・七二㍍)
  棟高三十尺八寸(九・三三㍍) 軒高十七尺六寸(五・三三㍍) 流造 屋根柿葺
  建設年月不詳 明治四十一年大改修
拝殿
  梁行十二尺(三・六㍍) 桁行十八尺八寸(五・七㍍) 棟高十六尺四寸三分(四・九八㍍)
  軒高十一尺三寸三分(三・四三㍍) 入母屋造 屋根瓦葛
  建設年月不詳 明治四十一年尾根改修
宝蔵
  梁行十尺三寸(三・一二㍍) 桁行十三尺(三・九四㍍)
   棟高十四尺一寸(四・二七㍍) 軒高十一尺玉寸(三・四八㍍)
  土蔵造 屋根瓦茸
  文化十年九月建設
絵馬舎
  梁行十六尺一寸(四・八八㍍) 桁行二十三尺二寸(七・〇三㍍)
  棟高二十二尺三寸(六・七六㍍) 棟高十二尺一寸(三・六七㍍)
  平屋建 屋根草葺
  文政元年一月建設 明治廿五年修営
升谷白山杜の項で、唯一神道の京都吉田家と両部神道の立場を取る白川家との教線の拡大をめぐる争いの一端に触れたが、本庄阿上社は吉田家の支配下に入っており、前述のように再建願は同家に提出した。普請が完成し遷宮に際しても、同社は表96で見るように二貫七〇匁余の銀(この額は神社工事費の一八%に当たる)を支出している。すなわち、表96の①は吉田家への直接の納入であり、②は挙状請その他の際の入用金である。いずれにしてもこの支出金の大部分は吉田家への納入となるもので、吉田家のねらいがそこにあることは言うまでもない。


当地本庄に阿上大明神が鎮座し、下粟野・坂原・細谷にも同名の神社が存在する。そのうち、当地の阿上三所神社が最も古く、貞観年間以前には天王山の鎮座であったと称し、観応元年(1350)坂原へ、永徳2年(1382)下粟野へ分霊を遷座したといい、文和元年(1352)、細谷にも分祀したと伝えられる。阿上社は和知のというか、和智庄の総鎮守であり、本庄というのは和智庄の本庄の意味かと思われる。
豊受大神を祀るというから、丹後系の地だったものか、それとも摂津系の地だったものか。三穂津姫は出雲三保神社の祭神。
坂原阿上三所社は、中世以降近世において坂原村をはじめ10ヵ村の氏神であった、この10ヵ村の区域は鎌倉時代、仁和寺と地頭片山氏の間で行われた下地中分後の下庄の区域で、こちらは片山氏の氏神的な意味あいが強いように思われる。
ところが坂原・中・角・安栖里以外の6ヵ村は、自村の産土神をそれぞれ祀って、坂原阿上社との二重氏子の観を呈している。
中世には、上乙見に、熊野十二社権現社が紀州熊野の分霊社として、さらに升谷村には白山妙理大権現社が、加賀白山の分霊社として、塩谷村には山神神社が塩谷村・長瀬村の氏神としてそれぞれ祀られていた。
戦後になって、本庄の阿上三所神社の氏域のうち、市場・大迫・篠原は、本庄の阿上社を離脱して、それぞれの区の氏神社を祀っている。同様にして、坂原阿上三所神社についても、現在の氏子は坂原・中・安栖里の3区のみで、広瀬(成瀬神社)・角(八幡宮)・才原(富士位大竜社)・広野(藤森神社)・出野(稲荷神社・八幡神社)・稲次(藤森神社)・大簾(熊野皇神社)は地域の神社を氏神としている。

『和知町石の声風の声』
本庄の阿上三所神社の御蚕飼式
本庄小字宮下に鎮座される。祭神は豊受比売命、誉田別命、三穂津比売命の三神である。豊受比売命は摂津の国から丹波国に遷り給う途次、五穀の種子と蚕の種を土民に授け給いしと伝える。三穂比売命は大国主命の妻姫であるから、国譲り前に此の地方は出雲民族の勢力範囲であったのかも知れない。此の神社の創建の年代は明らかでない。往古は天皇山に鎮座していたが、徳治三年(一三〇八)現在の所へ遷座したとか。阿闍梨禅信が延文三年(一三五八)に再建したとも伝えている。其の後明徳二年(一三九三)元禄三年にも改築されたらしい。又天明四年(一七八四)七月火災にかかりすべて烏有に帰して享和二年(一八〇二)に改築再建されたのが現在の社殿である。当社は始め阿上大明神と呼んでいたが、元禄十四年(一七〇一)八月廿八日に神祇管領侍従卜部朝臣兼敬宗宣旨を以って正一位一宮阿上三所大明神と尊称されることになったと伝える。明治六年六月郷社となり明治四十年三月府から神饌幣帛料供進の神社で町では最も由緒ある神社である。比の祭りに豊受比売命の五穀及蚕種の古事に依り、明治五六年頃までは、毎年一月十九日御田植式と御蚕飼式が行われた。十九日の月の登ると共に太鼓を合図に前以って祭式を練習していた者十名、そのうち三名は裃を着し、他七名は羽織袴に威儀を正して社頭に参向する。始め御田植式、次いで御蚕飼式が行われる。そのお蚕飼式の模様を略記すれば、大鼓を台にし白紙を敷き、その上に樒の葉を置き、その樒の葉を種紙や桑の葉に見立てて、先づ掃き立てより始めて、給桑などの手振りをし、四眠まで同じような事を繰り返して四眠よりは式場の周囲に掛け吊した樒の板の葉をもいで、桑摘みの手振りをしやがて上簇の手振りをして餅花のついた柳の枝を束ねた簇の中へ繭形に作った餅をはさみ、後で参者にその餅と柳の枝とを頒つのであった。参詣者はその枝を自家の蚕棚に祭り養蚕豊作を祈ったと云う。昔の人はこれ等の行事を行って豊作の予祝をしたのであった。今では只技術技術の一点張りで祈の如き行事は何事によらず忘れられて行く。その結果技術の一歩をあやまり取返しのつかぬこともままあるようだ。心の奥には少し位祈念する貢面白さもあってよいと思うのは古い考えなのだろうか。

『和知町石の声風の声』
身体の神
身体の神と土地の人は言う。型代の神なのである。昭和四一年の元旦の午後、初詣にと本庄の河上三所神社へと出かけた。比の年の正月の暖かさは格別、それに晴天ですがすがすかしい気特で先本殿にぬかづいて、新しい年を迎え得たことを感激し、今年も亦無事で過し得るようにと祈願した。その後境内の末社にも参詣しようとふと目に入ったのは、本殿に向って右方高台の社前で、男の子の四、五才なるを連れた四十前後と見られる男の人が、その社前の狛犬をさすってはその手で子供の身体を撫で廻している姿であった、不思議に思ってぶしつけにもその理由を聞いて見た、その人の言うには、このように、自分の身体を撫でた手で狛犬をさすれば、その撫でた身体の部分が病気であれば、狛犬がそこの患を引き受けて呉れて病気が治るし、健康であれば、その健康を守ってくれるとのことであった。我々の遠い祖先から持っている型代の信仰であった。今や月世界旅行まで計画されるまで科学は進んだ世なのに、吾等の遠い祖先の持った信仰はなお心の支えとなっておると云う事実を見て心を打たれたのであった。科学か如何に進歩しようと明日知れぬ命を持つ人間の弱さには変りがないようである。むしろ此の頃のように交通事故で日々人命か失われるのを聞くとこの狛犬にその災を引き受けて貰ってその日その日の生活に安んじなければならなくなったのではあるまいかと思った。狛犬の様子を見ると相当永い年月を経ている。遠い吾等の祖先の人々の手も、ぢかに触れたことであろう。なお新しき前垂れもかけられている、そして無言で座っている。此の物言わぬ言外の言葉こそ時の流れ即ち歴史を語っていると感じたのである。


かなり急な参道石段途中に祀られている。
『和知町石の声風の声』
和知郷の要石
疫水に参詣してから阿上神社に参ろうと引きかえして石の鳥居をくぐり高い磴をのぼる。その石段の中途の右手に径二尺もあろうかと思われる樫がありその枚方に方二尺程の小さい祠が目についた、礼拝してから中をうかがえば美しい御簾が垂れている。恐れながら、御神体を拝すれば、その形は男の一番大切なものに驚いた。故に和知郷の要石と自らロに出た。それと云うのはかつて読んだ日下部四郎太博士の「信仰物軽二人行脚」で紹介された常陸の国の鹿島神社の要石を思い出したからである。
此の小文和知郷の要石をして天下に知られれば幸甚である。生殖器を祭ると云うことは、一寸考えると蛮風のようであるが、冷静に思うと、宇宙広しと雖もこれ以上霊妙な物はないだろう。少くも造物の神がすべてのものを作り給う場合、外界に現われて、われわれが等しく認めらる働きをするものはこれである。天に口なし人を言わしむ、人を言わしむと云うことが正しいならば、造物の神は、自ら作ることをなさずしてこれを作らしむと云うことが出来る。従って造物の神として祭るに最もふさわしいものはこれである。造物の神の代表者として祭らるる資格は充分である。従って吾等の祖先が、稲その他五穀の収穫の多からんことをこの神に祈ったと云うこともうなづける。そんな理屈は兎に角、比の土地の人に、ここに祭られている神の御利益を問うたら、若い娘が、此の神にお参りするとお裁縫がうまくなるとの話であった。お針の穴に糸を通すことか上手になると云うのである。針のめどを播つ若い娘が御神体を通すことがうまくなると昔の人の隠し言葉のうまさに頭が下がる。実に面白い話である。その後、西河内の薬師堂の隣りの淡島神社の末社にもこれがあることを知ったが、ここに祭られてあるのは人工のもので、その頭部だけである。併し淡島様と云えば女の多く参るところと聞いたが、その宮の境内にわざわざこれを祭ると云うのも意義が含まれておるのではあるまいか、これは知る人ぞ知るであろう。


イボ水宮


旧国道27号から見て、阿上三所神社の石段下の道を、こちら側からなら、右ヘ50メートルばかりの所の道端にある。水は下の竹のスノコをのけると、底が井戸になっている。ヒシャクがたくさん奉納されている。
イボ水宮
このイボ水宮はイボに効くことから「イボ水さん」と呼ばれ、親しまれている。このイボ水さんの根拠は定かでない、ただ昔からここの神水をイボにつけると、そのイボがなくなるといわれ、そのイボがなくなれば、お礼として柄杓を奉納することとなっている。今でも多くのヒシャクが納められており、その効き目は確かなところ、また、この水がラジューム泉を含んでいることがその効き目かも知れない。どんな薬を使っても治らなかったイボがこの神水で治ったという東京の人、地元の人だけでなく、遠くからありがたい神水をいただきに来られる人はあとをたたない。

『和知町石の声風の声』
疣水神社
本庄の阿上三所神社の石の大きな鳥居をくぐらず、右手に折れて行くこと五十メートル位のところに、瓦葺の小星がある。屋内は巾一メートル、長さ二メートル、深さ五十糎位のコソクリートの池があり深さ三十糎位の水をたたえている。此の小屋の棟札は大正四年に建てたことを示している。これが疣水神社である。祭神は水である。この水を頂いて疣につけると疣がとれて失くなると云う御利益があると云う。今参拝して見ると新しい柄杓に銀の水引をかけたのが御礼と書いて供えてある。これから察すると此の神の御利益のあること今尚あらたかであることを証明している。此の水を分析したら何が出るだろうか、果して疣がとれる成分があるだろうか。科学の進歩と思想の進歩と合致して信仰と云うことが、失われる時が来るだろうか、そしてその時人間は真に幸福になれるだろうかとつまらぬことを考えた。「涼しさや神代のままの水の色」と昔の人は言っている。神代と云う夢があってこそ人生も楽しいものになるのではあるまいかとも思った。それにしてもこの御神体の水の色は、余り美しい色をしておらない、池の底には腐
った木の葉も沈んでいる。神として祭るにはやはり人の力も必要なのかも知れない、少くもいつも池を掃除をして置かなければと腐った木の葉を掬い出そうとしたらかえって濁ってしまったには閉口してしまった。


曹洞宗大内山太虚寺

『和知町誌』
大内山太虚寺(曹洞宗) 字本庄小字堂ノ坂一
太虚寺は、往昔寛永年間(一六二四~四三)、愛宕山の山頂に、本庄村樋口株の始祖樋口宗庵によって建立され、氏神の堂もあった (その山頂の寺跡は、太虚寺の境内地として今も残存している)。現本堂の棟札によると、肥後の僧義堂が住僧となり、天明三年(一七八三)、愛宕山上にあった堂宇を麓に下ろして、観音堂の横に、現在の本堂が建立された。次に、天保四年(一八三三)、播磨国(兵庫県)三田の僧勇山によって、入佛供養を行った木札がある。観音堂は、正徳四年(一七一四)に建立されたが、その棟札には「山陰道和知庄本庄村太虚禅寺者開創已久、寺構山上離民家寔昼誦経夜禅定澄心、云々」とある。
『寺社類集』には「開基開山不レ知、寛文三年請二龍穏寺八世鉄船和尚一而為二開山一」と記されて、寛文三年(一六六三)の鉄船和尚による開山となっているのは、現在地移転前のことである。


文七踊り

『和知町誌』

文七踊り
由来と伝承
和知文七踊りの起源については明確な史料を欠き、言い伝えの域を出ない。一説には、比較的民芸の少なかった口丹波地方に江戸中期より浄瑠璃くずしの音頭が愛好され、そのリズムに乗って
踊りが生まれたとも言われる一方で、但馬出石から園部に転封・入部した小出侯が但馬出石地方に流行していたものをこの地に伝えたとの説もある。当時、ほとんど娯楽を持たなかった城下の町民や百姓たちに、盆の供養としてこの夜だけは無礼講で夜を徹して踊るのを許したのがきっかけであるという伝承である。
和知ばかりでなく、口丹波地方一円に「丹波音頭」または「浄瑠璃くずし」とも呼ばれて各地に残っている節調が基本となり、踊りが振り付けられたものである。
「文七音頭」「文七踊り」の呼称に関しても諸説があるが、いずれも正確な資料はない。
文七は創始者の名前と考えられなくもないが、実は文楽人形の代表的なカシラに「文七」というのがあり、音頭の文句もそれぞれの浄瑠璃の物語の主な人物たちが取り上げられている関係で、それらの主人公の代名詞のような形で、いつしか「文七踊り」と言われるようになったのではないかとの説もある。

「和知文七踊り」の特徴
この踊りは、「浄瑠璃くずし」という名の通り。浄瑠璃の“サワリ”(物語の一番盛り上がった中心場面)を中心にまとめてあり、一般の踊りのように太鼓や三味線・鉦・笛といった囃道具は一切使わず、淡々とした音頭の語り手の声と、輪並びの踊り子たちの手拍子と掛け声のやりとりだけで進行するのが特徴である。
「イヤヤットコショ」「アラヨーホイセ、ヤットコショ」「ドツコイ」の三つの掛け声と、音頭との微妙な受け答えの呼吸が踊りの生命と言われる、素朴極まりない踊りの形式である。昔から、音頭取り一人のありようで踊りが大いにはずんだり。盛り上がっていた踊りの輪が急にさびれてしまうとも言われた。
音頭と掛け声とそして踊りそのものの微妙な“間のリズム”が、踊りの成否を左右する。その上、曲目によって少しずつ節調にも特徴があり、かつ語り手の声色や語り口にも個性がにじみ出ることによって深みが出てくる。一見単調と見えながら、実は味わい深い情趣の世界を醸し出すところが文七踊りの最大の特色なのである。
踊りの行われる時期はいわゆる盆の前後に集中するが、特に八月二十五日の夜、和知駅前広場で催される「和知ふるさとまつり」の大踊りがその圧巻である。町内は勿論、近在の市町からも多くの若者や子供たちが集まってくる。数々のアトラクションが組まれ、日暮れとともに大踊りの輪ははずんでゆく。こうして駅前の大踊りが済むと、和知の秋は足早にやってくる。
「文七踊り保存会」の会長は原田嘉夫(初代・元町助役)から現在は片山登(本庄・元小学校長)に引き継がれている。

丹波音頭
丹波音頭の曲目は数多いが、和知では「傾城阿波ノ鳴門」「絵本太功記」「鎌倉三代記」「蝶花形八段目」「玉藻ノ前三段目」「御所桜堀川夜討」などがよく語られる。これらは本来、口伝で学ぶものであったが、現在は学習用テープや手引書も利用される。
和知音頭の一例として、保存会作成(昭和二十二年八月)の手引から「阿波ノ鳴門」を次に掲げる。

傾城阿波ノ鳴門
 ※文中の記号の意味は次の通りである。
  △(イヤヤットコショ)、◎(アラヨーホイセーノヤットコショ)。○(ドツコイ)
  表記は旧仮名遣いによる。
 あと打眺め女房が△ 心掛りと封押切り◎ 読む度毎に吃驚々々 ヤアこりゃ これ夫銀十郎殿の◎ 仲間の衆に吟味がかかり○ 詮議きびしくなったるは○ 天の御罰が恐しや◎ 我とても女房の身で殊に騙りの同類なれば○ 罪科のがれぬ御成敗◎ 今更驚く気はなけれど一合取っても士の家に生まれた十郎兵衛殿◎ 盗賊騙りと成り果てしも○ 国次の刀詮議の為 重い忠義に軽い命◎ 捨つるは覚悟と言ひながら○ 肝心の其の刀◎ 有彼(在所)も知れぬ其の内に○ もしや此の事顕われては○ 此迄尽くせし夫の忠義◎ 皆無駄事となるのみか△ 死んだ後まで盗賊の名を汚すのが口惜しや◎ 盗み騙りはか身欲にゃせぬ○ 夫婦が誠を天道も憐れみあって国次の 刀詮議のすむまでは◎ 夫の命助けて給べと 心の中は神仏◎ 誓は重き観世音△ ふだらくや きしうつなみは みくまのの◎ 年は漸々十々の△ 道をかけたる負づるに◎ 同行二人と記せしは一人は大悲のかげ頼む◎ ふるさとをはるばるここに きみいでら◎ 順礼に御報謝と○ 言ふもやさしき国訛り△ どれどれ報謝進ぜうと○ 盆に白紙の志◎ アイ有難う御ざります云ふ物腰から褄はずれ△ ても可愛らしい順礼衆○ さだめし連衆は親御たち◎ 国は何處でどこの生まれと尋ねられ△ アイ国は阿波の徳島でござります。オオなつかしやわしが生まれも阿波の徳島○ シテ父さんや母さんと一緒に順礼しやさんすのか◎ 問われておつるは イエイエ其の父さんや母さんに逢いたさ故 それで私一人西国するのでござります◎ 聞いてどうやら気に掛り△ お弓は尚も傍により◎ シテ父さんや母さんの名は何と言ふぞいノウ○ アイ父さんの名は阿波の十郎兵衛母さんの名はお弓と申します◎ 聞いて吃驚お弓は取り付き○ コレコレあの○ 父さんは十郎兵衛◎ 母さんはお弓とは○ 疑もなき我が娘△ さては我子かなつかしやと○ 言はんとせしが待て暫し◎ 年端も行かぬに遙々の処 やうやう尋ねて来んしたノウ○ 其の親達が聞いてなら◎ 嘸うれしゅてしれしゅて飛び立つ様にあらう程に ままならぬが世の憂き臥し 身にも命にも換へて可愛い子を捨てて○ 国を立退く親御の心 まあよくくの事であろう程に◎ むごい親じゃと怨めぬがよいぞや○ イエイエ勿躰ない何の怨みませう◎ 怨むる事はなけれども○ 他所の子供衆が○ 母さんに髪結うて貰うたり◎ 夜は抱かれて寝やしゃんすを見ると○ 私も母さんがあったなら◎ あのように髪結うて貰うたり○ 夜はだかれて寝ようものにと○ 思えば涙がこぼれます◎ オオ道理ぢや可愛いやいじらしやと 我を忘れて抱き付き○ 暫し言葉もなかりけり◎
 (以下略)



《交通》
JR山陰本線和知駅


『和知町誌』
京都鉄道は、明治三十二年八月京都・園部間開通のあと、四十三年八月園部・綾部間が開通、和知駅が開設された。つぎに鉄道敷設工事と和知駅開設の影響を略述する。
京鶴線敷設工事
山陰鉄道敷設のため、二十六年七月に設立された京都鉄道会社には、二十八年十一月京都・舞鶴間および舞鶴・余部間ならびに綾部・和田山間免許状が下付された。
京都鉄道は二十九年四月京都から起工し、三十年十一月に京都・嵯峨間、三十二年八月には嵯峨・園部間が開通したが、莫大な建設費を要するため、園部以西の工事を完成し得ない状態となった。そこで、三十三年十一月未完成部分の免許取り消しを出願するとともに、既成線路の買収を政府に具申した。これ以後、京鶴線敷設工事は官営に引き継がれ、四十年八月、鉄道国有法により京都鉄道は阪鶴鉄道とともに国有化され、四十三年八月になって園部・綾部間がようやく開通した。
一方大阪側では、二十九年四月阪鶴鉄道会社が神崎(現・尼崎)・福知山間免許状が下付され、三十年四月起工、三十二年七月福知山まで開通した。続いて日露関係が急迫を告げる中で、舞鶴港への鉄道(舞鶴線)開設が急がれ、三十七年十一月福知山・新舞鶴間が開通、新舞鶴・大阪間直通列車が運転された。もっとも、最初の鉄道線路は園部-須知-本庄ルートとなっていた。すなわち「京都舞鶴間鉄道線路実測国并取調書」(『中外電報』明治二二・一・三)には、「ある信ずべき筋にて京都より丹後舞鶴に至る鉄道を布設せんとの目論見を起し技師に命じて調整せしめたるものなり」との断り書きが付いているが、約五七〇〇字にわたる長文の線路取調書である。これによると、線路は京都七条停車場-亀岡-園部-須知-本庄-山家-味方-舞鶴となっている。須知より本庄に至る一一マイルの間については、つぎのように地形的な理由による工事の因難さを縷々述べている。
   長久橋以北に於ては図に顕す如く桝谷川を二度横断するは能く甚しからざる曲線にて黒瀬村(現・丹波町黒瀬)に至るを得べし。此黒瀬村は若し線を胡麻谷に取る場合に於ては、此所より東方下胡麻に達するを得べき点なり。黒瀬村に於ても可成線路を桝谷川水面以上十呎(フイート)に置き、夫より西方へは殆んど水平に線路を作らば下山村の内白土村の近傍に於て桝谷川水面以上六十呎位の所に出づべし。
桝谷川の右岸即東岸に線路を置き、水面以上六十呎位に置くときは桝谷川の屈曲するに関はらず、少しく高地は平坦なるが故に、曲線を用ゆるに困難を見ざるのみならず、桝谷川由良川落合の近所に於ては、是非共線路を高く付けざれば曲線を撰定するに当て大に困難を見るべし。白土より桝谷川を沿ひ下って現今道路の(新道は川を渡らず右岸に沿ふなり)川を横断する近所に於て、水面上六十呎計の高き所に長さ凡六十呎の架橋を為して、其西岸に沿ひ直に深き切取を作さず、又桝谷川と由良川との落合の近所に一の随道(長さ凡十鎖百聞余)を要することなるべし……。   (『中外電報』明治二二・一・三)
こうした中で、綾部・園部間は舞鶴支線として三十九年七月線路の実測を終わって十月起工した。最初の予定では、園部-須知-高原-桧山のコースを鉄道が通るはずであったが、須知地区など沿道諸相が反対したこともあり、木戸豊吉(府会議員)・井尻貞造(郡会議員)らが地元を説得、路線変更に成功、殿田・胡麻・和知を通ることに変更された(『福知山鉄道管理局史』)。和知川沿いは峻険な山岳相互の間を縫って敷設するため、特に難工事で、その上四十年八月の大洪水に見舞われるなど支障も多かった。中でも大成谷暗渠上随堤は高さ六七フィートに達する難工事であったが、ともかくも、四十三年六月には工事費四二〇万円でほぼ工事も終わった。
  (注)工事概況には、「京鶴線工事概況」(『日出』明治四三・八・二六)のほか『福知山鉄道管理局史』に工費明細、綾部・園部間用地買収明細などを載せている。

和知駅
祝賀行事
京鶴線は、四十三年八月二十五日園部・綾部間が開通し、各地で京鶴線全通の祝賀会が行われた。
京鶴線については新聞紙上でも連日盛りだくさんの記事であふれたが、京鶴線の利用について大森知事の談話の一部を載せる。
  京鶴線の利用(大森知事談)
丹後のブリはそれまで阪鶴線によって舞鶴から七時間半もかかって大阪に輸送され、ついで名古屋や京都へ分送されていたが、京鶴線完成によって三時間で京都に輸送され、大阪名古屋方面にも送られる。丹後ちりめんも毎日七トン積貨車五-七両を使用する位の生産があるが、これまでは大阪をまわって京都に輸送されていた。(中略)木材は丹波の和知川上流から伐り出さるるものが一番多く、大部分は筏に組んで福知山迄下り、此処から貨車で大阪地方へ搬出された(南桑田のものは大堰川を筏流しの方法で嵯峨に下った)がこれ等も本庄駅まで持ち出せば何の造作もなく京鶴線に依って京都なり大阪なりへ搬出せられ得るのである。
(中略)京都からの輸送も、阪鶴線全通以来丹波以北に対する商権は全く大阪に独占せられ、京都は僅かに或特殊の呉服物類を取引して居るのに過ぎぬ極めて果敢ない有様だったのである。今度の京鶴線の全通は、此の三丹地方に対する商権を恢復する好箇の機会である。 (『日出』明治四三・八・二五)
これによっても京鶴線の開通が府下の政治・経済・文化などに及ぼした影響がきわめて大であったことがうかがわれる。なお、綾部・園部間開通時の停車場は山家・和知・胡麻・殿田の四駅であった。
京鶴線開通祝賀会は八月二十五日福知山で行われたのをはじめ、沿線各駅でも行われ、二十七日には京都市円山で一大祝賀会が挙げられた。当時の新開記事には、その盛況をつぎのように報じている。


《産業》


《姓氏・人物》


本庄の主な歴史記録


『由良川子ども風土記』
河岸段丘とわたしたちのくらし
  和知町・和知中 片山文博 藤井卓雄
          片山博之 田井 清
          藤本正幸 松下 誠
          山口いずみ 奥戸義隆
わたしたちの住む和知町は、由良川によってできた河岸段丘からできています。河岸段丘というのは、河床に侵食作用がおこり、川が新しい谷を刻み、深くえぐられた川に、運ばれてきた砂れきがたまり、両岸に段丘をつくったものです。
ここに住む人々は、昔からこの河岸段丘をうまく利用して生産にはげみ、くらしを営んできました。わたしたちは、それぞれ分担して、和知町のくらしと産業を調べました。

いかだ流し
河岸段丘の最も低い所は、上流から流れてくるいかだを陸上げするのに適していました。和知駅付近の低地の河原には「浜方さん」といって、いかだをばらばらにして一つの場所に積み上げ、材木を整理する人がいました。
大正の初めごろから始まったいかだ流しは、由良川上流の知井や平屋で切り出された杉や桧を、長さ二〇メートルぐらいにそろえ、「ふじかづら」というものでしっかりとくくりつけて一組のいかだにし、それをいくつか並べて川を下るのです。上手に流すために、「いかだ師」という専門の人が三人一組でいかだを操作します。いかだ師にはそれぞれ名前がついていて、一番前に乗る人が「先頭さん」、ほぼ中間に乗る人が「中乗りさん」、そして最後が「後乗りさん」というそうです。その中でも中乗りさんが一番大変で、大切だといいます。この三人の息が合ってこそうまく流れるのです。
〝木曽のナー 中乗りさん″で始まる有名な「木曽節」もいかだ流しの船頭さんのことだということがわかりました。
浜方さんによって整理された材木は、河原から牛や馬によって荷車で和知駅まで運ばれ、ここから貸物列車で京都の市場に集められるのです。
交通のめざましい発展と、大野ダム建設、それに由良川も変わり、いかだは流せなくなりました。今ではトラック輸送が主になっています。こうしていかだ流しは姿を消していったのです。

養蚕の歴史
山の傾斜地では、昔はほとんどが桑畑で、どの農家でも養蚕を行なっていたそうです。
上乙見のあるおばあさん(七〇才)の話では、「かいこ」というのは、一番はじめ、馬が卵を産んだのがはじまりだと言われています。ですから、今でも馬の絵がまつられています。
このおばあさんが生まれた頃には、もう和知町全体が、かいこをかっていました。山がちで土地の利に貧しく、かいこ以外の産業はほとんどおこなわれておらず、農産物も自分達が食べるだけのものを小さい田畑につくり、他はすべて桑畑でした。山の傾斜をつかって桑をつくっている所もあり、特にこの上乙見あたりは多かったそうです。山の傾斜につくると、山の上から肥料となる土が雨などで流れてきて、桑が良く育ちました。
かいこをかっていた人々の生活は、朝三時におき、夜おそくまで家族総出で働いていました。また、特に忙しい時には「かいこやといさん」と呼ばれる人夫の手助けを受けました町内で百人(二戸当り二~三人)もやとうほど盛んでした。
こういった盛んな養蚕を背景にして、「グンゼ和知工場」というのが建ちました。この工場は、現在の和知第二小学校(篠原)周辺に広がる大工場でした。だいたい十二才頃から働いていたようです。
工場の仕事は、まゆから糸を引く仕事で、工場へ働きに行くために綾部まで糸引きの講習に行っていたそうです。工場は、第一工場・第二工場にわかれており、第一工場には糸引きのじょうずな人が働いており、第二工場には工場へ入って来たばかりの人などが働いていました。また、第一工場から第二工場へ「教婦さん」と呼ばれる糸引きを教える人が行きました。糸を引くのは大変むずかしく、糸引きができるまで最低六ケ月はかかるということです。糸の太さは一定でなくてはいけないしむらがあったりすると「不合格」とされ、賃金が引かれるという罰がありました。そういったこともあって、お互いに競争心があり、「早く第一工場へ行きたい」と誰もが思っていたそうです。
こうして、つくられた生糸は、アメリカへ輸出されていました。一日中休む暇もなく働いていた人々に、一つのほこりができたのでしょうか。次のような、糸引きの歌があります。
      糸引き歌
   「工女、工女」とあなどるな
  仕上げた糸はアメリカの、はた屋に
  ゆきて日の本の
  日本は、われらの腕でもつ

戦前の日本の経済を支えたのは、年の若い工女さん達の重労働と、零細な農家の総出の人手による熱意によるものが大きいと言えます。
けれども、このように日本中で盛えた養蚕も、需要に追いつかず、粗悪品を輸出したりした事、外国の立ち直り、また、化学繊維が生まれたことなどにより、しだいに衰えはじめました。グンゼ和知工場も間もなく閉鎖され、このあたりでは綾部工場で、くつ下の生産がされるだけとなり、今では工場跡も田畑や別な建物が建って、当時の面影は全くみられなくなってしまいました。
和知第三小学校(下粟野)近くに、「観音堂」があり、その観音堂には、かいこの「供養塔」があります。ここは、六十年に一度祭をおこなっています。その観音堂には、周囲がまゆで飾られた大きな額があり、人々は決してかいことは言わず、「おかいこさん」と呼んでいます。
こういうことをみていくと人々がいかにかいこを大切にしていたかということがよくわかりました。人々の苦労もよくわかりました。和知の産業を支えてきた養蚕は、今でも人々の心の奥にのこっていると思いました。そして、この養蚕の歴史はいつまでも続き、和知の産業・日本の産業をものがたっていくでしょう。

和知の林業
ぼくたちは、和知の林業について調べるため、和知町森林組合をたずねました。和知町は、周囲を山でかこまれ平地が少ないため林業がさかんで、森林面積は町の総面積の九二%で、その広さは、一〇、八一五ヘクタールです。林業の内容を見て見ると、昭和三十年ごろまでは、町全体的に炭やきが盛んでした。木は、その炭やきに使われていましたが、石油やガスなどが、普及しはじめて、炭やきなどから、植林に変わりました。それが、発展して和知の林業が盛んになりました。
木は、高い所から、松、桧などが植えられ、低い所には、杉などが主に植えられるそうです。
木は、種をまいてから三年目で山に植えます。そして、七年目に下がり作業をし、十年たった時、えだうちをし、それから二年して下のそうじをします。
木は、四十年から五十年たったものを切り出します。切り出した木は、きんまで出していましたが、現在はきんまはほとんど使わなくなり、集ざいか線で出します。
それから、トラックで福知山、亀岡、京都、それに三重県の上野や鈴鹿の木材市場へ出荷します。
そこから、製材所などに売られます。町民にとっては、これだけ棒森林面積が多いと、当然山の手入れの仕事が多くあります。山行きなどと呼ばれる町や区の仕事があり、一年間に町有林は、一日、出夫の場合六百円が弁当代として出ます。愛林会は、二日です。それに部落によって多少の差がありますが、区有林は、平均して七~十日はどありますが、この場合、費用はほとんどでません。下刈り、枝打ちなどの時期には、日曜日が、ほとんどつぶれることもざらにある様子です。
和知町の中で、林業だけで生活できる家は、十戸ぐらいあるようですが、現在こうした家も林業だけで生活していません。どこの家でも勤めを持ちながら、山の手入れをする現状です。
こうして見ると、林業自体も、大きくその中味を変えてきており、外から見ると、植林したら自然にまかせているようでも、大変な重労働であること、また山を守っていく事の重要さもわかりました。そして、現在、町内では、林業の後継者が少なく、林業をしている人の平均年令が、年々高くなっているという問題があるということです。この問題も過疎化が進んでいる和知町では、問題が多く、若い男の人たちに援助をしたりしているようですが、この問題は、将来もずっと考えなければならないことだと思いました。


本庄の伝説など


『和知町誌』
将軍稲荷大明神
その昔、福知山あたりに大そうカの強い相撲取りがおったそうじゃが、その力を自慢するあまり、横暴勝手な振舞をしてはあたりの人々を苦しめておった。
ところがその辺りにもう一人、柔和だが力はその相撲取りに劣らない強力の若者がおった。
かねてからの横暴に困りはてた村の人達は、この若者にどうかあの相撲取りを負かしてほしいと熱心に顧みこんだ。そこで二人は福知山の御霊さんの土俵の上で対戦することになった。評判通り、その若者は悪い相撲取りを投げ殺すまでに負かしてしもうた。
その後、若者は相手方の弟子達の仕返しをさけて此の和知の土地に住むようになった。心ばえのやさしい若者だったから、この土地へ来てからも多くの人々の為に力を尽した。実はこの若者こそお稲荷さんの化身であったと言う。だから比の地に祀られたのだそうな。その故に、このお稲荷さんは賽銭より社の前で相撲を取ってお供えするのを何よりも喜ばれるという。これは今から四百年あまりも昔の事じゃそうな。
ひところ、この社を北の方の愛宕山に移し奉った所、毎夜々々、山の木々がザワザワ騒いで人々を驚かすのでまた元の所へ祀ったという。今も祭礼の日には、社前に仮土俵を築いて子供相撲を奉納するのが慣しじゃという。(本庄)

『和知町石の声風の声』
大将軍稲荷大神宮
本庄の里路の田圃の中に鳥居も数基あり石の狛犬も神前に控え、社殿は二間四方瓦茸の立沢なお稲荷さんのお社がある。之が大将軍稲荷大神宮である。世にめずらしい威かめしいお稲荷さんである。元は篠竹に囲まれた小さな祠であったが大正九年(一九二〇)に氏子の寄進によって現在の立派なお社になったと云う。共の由来について古老から祭神は相撲であったと聞かされ先ず驚いた。其昔福知山方面に非常に強い相撲取りがあって、その力量に頼り横暴な振舞いをして地方の人々を苦しめた。一方柔和で強力な若者があった。土地の人々が、この若者に悪い相撲とりを負かしてほしいと依頼した。そこで若者は福知山の御霊さんの土俵上で投げ殺すまで打ち負かしてしまった。若者はその後相手方の弟子達の圧迫を避けて比の地に来て住むことになった。此の地に来ても多くの人の為め尽した。実はこの若者こそお稲荷さんの化身であったと云う。そこで比の地に祭られたと云う。それ故に比のお稲荷さんはお賽銭より比のところで相撲を取ってお見せするのを喜ばれると云う。近頃まではその祭日には社前に臨時に土俵を造り相撲を奉納したと云う。又子供の頃比の境内の篠竹を貰う時は社前で相撲をとってから貰うことにして、それで篠竹鉄砲を作ったと年とった人は述懐する。尚こんな伝説もお宿荷さんが持っている。今から四百年も前のことだそうだ。一変此のお社を和知駅の北方の愛岩山に移し奉ったことがある。ところが夜毎山の木々がザワザワ騒いで人々を驚かすので又今のところに移したと云う。又昔は稲荷社の境内にはもっと篠があったのだが、その篠は周囲の田畑に侵入することは無かったそうだ。併し大将軍のいわれに就いては遂に聞くことが出来なかった。


旧国道27号線添いの旧和知町役場の隣にある稲荷社だという。


『和知町石の声風の声』
山の神への供物
山の神の祭りの供物の中の白粉餅は、和知町とこでも供えるらしい。白粉餅は遠い遠い昔の人の食べ物であった。シトギの名残りであると聞く。その中で本庄では一月この白粉餅を藁苞にして持って行き、境内で大焚火で焼いて食べた後、その殻である苞を側の木に向って投げ上げて、それが高い所に止ればそれだけその年は幸福であるとの占いとすると聞き坂原の粟の谷の山の神では同様の藁苞を供えるのだが、ここでその家の男子の数だけ持って行くのだそうで、女子は参詣することが出来ないと聞いた。併し今では持って行ったそのまま木に結びつけるようになったそうだ。粟野谷の古老の話ではこの風習も段々行なう家か減って行くと云う。そう云えば本庄あたりでも今年参拝した時は去年の数の半分もなかった。近い将来にはこんな風習も忘れ去られてしまうであろう。なお升谷ではオコゼと云う魚又は紙でその形を切り抜いて供えると聞いたが、かつて本で全国的にその風習があり、和歌山の山間、宮城県の山間の猟師は、このオコゼを猟の獲物が多いようにするまじないに使うと云う。山の神は顔が非常に、見にくく、自分より見にくいものが見度いと云うので、猟師はこの見にくいオコゼを干物として懐中にして猟が少い時はこれを出して山の神に見せると獲物が多くなると云うのだ。或いは升谷のオコゼを供えることは、山の獲物が多いことを祈願してのものなのか開くことを忘れたが、多分それに違いない。この他、升谷の山の神へ参った時、社前に多くの股木が供えてあるのでその理由を用いたら山仕事に行く時に股木を供えて行くと万一谷へ落ちそうになっても、山の神が此の股木に引きかけて助けて下さると云うのだと聞いた。下乙見では同じく股木を供えるが、これは失せ物のあった時供える。神様かその股木で物を引かけて出して下さるからとの話であって面白く聞いた。此の他を調べたら、又違った供物かあり、又違った願事を聞いて下さる為めの供物があるかも知れない。

番人の墓
本庄河上三所神社より北方、現在の第一小学校の少し上った山手、栗林の下の草むらの中に単に番人の墓と呼ばれる石の碑がある。その側に柿の木があり、それを切ろうとしたが鋸が曲ったかどうか聞き漏らしたが、どうしても切れなかったとか、又此の柿の実はこれを食べると直ぐ腹痛を起すとの伝説を持っていると聞いた。秋晴れの日に思い立つつまま尋ねて見た。今年は一つの実も持たない木か多いと云うのに、不思議にここの木には、数十個の柿が、秋の陽をはしいて赤い色に輝いて居た。柿の木の根元の草紅葉をかき別けて見れば一基の墓石かあった。碑面の字は、西方自行信士と読めた。西方へ自ら行く、何と悟り済ました戒名だろう。例によっての想像、昔相当の坊さんで墓守りでもして居った、奇行の人が自ら戒名を整えてここで亡くなったのではないかと考え乍ら、ふと直ぐ近くに一尺足らずのほとんど円い形の石に地蔵尊を浮き彫りしたのが、祭ってあった。実に可愛らしいお地蔵さんでまだ新しい。暫く合掌して心はればれとして西方自行明日あることを信じ墓前を辞した。折柄の西日に四山の紅葉は燃えるように輝いていた。




本庄の小字一覧


本庄(ほんじょ)  木上(きのえ) ヒラキ 東畑(ひがしはた) エンド 山口(やまぐち) 石坂(いしざか) 若宮ノオテ(わかみやのおて) ハツタ 立円(りつえん) 小田中ノマ(おだなかのま) キシ本(きしもと) イマブク 川原(かわら) 木下(きのした) ノガセ 土屋(つちや) 馬場(ばば) 馬森(うまもり) 堂ノ坂(どうのさか) 石原(いしはら) ノハタ 花ノ木(はなのき) ウエ 福安(ふくやす) 西畑(にしはた) 小寺(こでら) 赤迫(あかさこ) 庄垣(しょうがき) 石倉(いしくら) 福井(ふくい) シマ崎(しまざき) 森(もり) 堀本(ほりもと) 九瀬(くぜ) 高瀬(たかせ) コヤ畑(こやはた) 山ワチ(やまわち) 一谷(いちたに) 石谷(いしだに) ヨコ畑(よこはた) 北畑(きたはた) 堂ノ谷(どうのたに) 車谷(くるまたせに) 天王山(てんのうざん) 岼ノ上(ゆりのうえ) 小丸山(こまるやま)

関連情報





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資料編の索引

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京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市









【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『船井郡誌』
『和知町誌』各巻
その他たくさん



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